【広告】Amazon.co.jp 7月は半期に1度のAmazonプライムデー!

COMBAT MEAL BBS

レーションに限らず、面白い情報は大歓迎です!

ホームページへ戻る

アイコンのサンプル(提供ぐもぐも具っず)

こちらの関連記事へ返信する場合は上のフォームに書いてください。

[4136]はじめまして 投稿者:Plastic Heart (2007年07月06日 (金) 10時58分)
はじめまして。
かなり前からサイトを読ませて頂いていた者です(@'ω'@)

質問、というか軍用糧食に詳しい皆様にご意見を伺いたいんです。
かなり昔の布張りハードカバーの漫画本、「のらくろ」シリーズのことです。

大規模な作戦で勝利したときなどに「牛の缶詰」で一人飯盒ひとつのゴハンを食べる描写があるんです。
のらくろシリーズは祖父の部屋にあったわけですが、読んでいると子供心にもおなかがすくなぁ、と思っていました。

この「牛の缶詰」ですが、私は子供心に一缶でメシを飯盒ひとつ食えるということは塩辛い牛しぐれなのではないかと推察してました。しかし当時の日本軍の糧食の牛の缶詰といえば牛大和煮です。
その他にコンビーフや塩味の肉の缶詰なども外国の軍隊では使われていたようなので、もしかしたらそれかもしれない、などとも思っているわけです。

一体、のらくろの食べていた牛の缶詰とやらは一体何なのでしょうか?
[4138]こんにちは。 投稿者:M@The戦闘糧食マニア (2007年07月07日 (土) 14時55分)
のらくろシリーズは当時の軍隊での生活を垣間見る事が出来て、色々参考になるので僕も読んでいます。

さて、質問の牛缶についてですが、コレを説明するのにはまずは時代を文明開化、明治時代まで話をさかのぼる必要があります。
それ以前まで日本人は仏教の影響で牛肉を食べる習慣が無かった事はご存知の通り。 しかし明治以降西洋文化を積極的に取り入れ、牛肉を食べる習慣が広まり、近代的な軍隊が創設されると、体格で劣る東洋人を西洋人並みにしようと軍隊での食事にも積極的に肉料理が取り入れられるようになりました。しかしながら肉は直ぐに傷むし、味も日本人に馴染みの無い味付けでは、兵の食欲が沸かない。
日本の基本的主食は米であり、当時のおかずは大量の米を食べる為のアクセントのような物で、味が濃く、量も少ないのが一般的でした。
さて、明治はじめの近代戦争である西南戦争が勃発すると、食糧補給の問題が浮上し、コレを解決する為に民間より保存の利く食料品の買い付けが行われました。
この時に仙台在住の中沢彦吉と言う人物が補給の便を考え副食の缶詰製造を思い立ち、缶詰製造の経験を持つ対馬桃太郎に製造を依頼して、軍用缶詰を製造し、見事採用、納入されました。
この時に製造されたのが牛缶の元となった牛肉の野菜煮であり、これは牛肉にゴボウやニンジン、ジャガイモを醤油と砂糖で甘辛く煮つけた物、イワユル大和煮で、明治以前の日本で古くから鶏や兎などを食べる時に食品が傷みにくい調理法として普及していた調理法であったのです。
この味なら兵隊も馴染みがあり食べやすく、ご飯のおかずに持って来い。
さて、これはあくまで牛缶の先祖の話。その後軍隊で正式に軍用食として使われた牛缶については明治18年、廣島の缶詰製造会社脇隆景と言う人物が廣島鎮台に納入したのが最初で、その後同じ廣島の浅枝富三郎と彦兵衛が廣島歩兵第十一連隊、二十一連隊、十二連隊二十二連隊に納入している記録が残っています。
牛缶はそれまで米国より「ボイルドビーフ」や「コーンドビーフ」を輸入していたが、大味で日本人の舌に合わないので、日本からわざわざ醤油を送り、担当者を現地に派遣し、日本で食べられているのと同じ煮しめ風に味付けして送っていました。
その後、国内で缶詰をまかなおうとしたが、国内の缶詰製造設備が不十分で、規格もまちまちだった為に陸軍が廣島宇品の糧秣支廠に明治40年、缶詰工場を置き、軍正式採用の牛缶が製造されはじめました。
この時に規格を決める際参考とされたのが、当時すでに海軍で採用されていた牛缶がモデルとなっていて、この辺りが廣島という海軍にゆかりのある街であるとの繋がりを伺わせます。

ちなみに軍用規格の牛缶には二種類あり、尋常缶詰は450g(ただし昭和2年まで900g)携帯缶詰150g入り

多分のらくろが食べていたのも、自衛隊で今も食べられている「牛味付」と同等品ではないかと推測します。
手元にある資料では、しぐれ煮だったと言う記録はありませんし、しぐれ煮にするには結構な燃料を使って製造する必要があります。もともとしぐれ煮は其のままで日持ちするように作られた食品ですが、缶詰にするならそこまで手をかける必要も無く、製造コストを考えれば、大和煮だった可能性が大きいでしょう。
[4142]こんにちは 投稿者:千鳥企画 (2007年07月11日 (水) 02時02分)
ご無沙汰しております。千鳥企画でございます。

最近読んだ「津山三十人殺し」に当時の農家の食事の記述がありました。
それによると、通常の副食は漬物か野菜の煮物で、
農繁期には1日の食事が5〜6回で、
一度にかなりの飯(と言っても半分以上は麦)を食べていたそうです。
また、
牛肉なんて、軍隊にいなければ食べられない様なご馳走だったわけで、さぞ飯も進んだことと思います。
しかも戦勝祝いと言うことで麦飯でなく白米だったら、
飯盒一杯なんて軽く平らげたでしょう。

あれ、もしかしたら大食いは日本のお家芸なのか?



タイトル
名前
Eメール

本文

URL クッキーの保存
アイコンURL 削除キー


Number
Pass