二、或る奥様の話 (3966) |
- 日時:2011年08月18日 (木) 15時45分
名前:童子
あの維摩経の講義を読んでおさとりになった奥さんがあります。
この奥さんは或る時自動車に触れて外傷性の肋膜炎になった。それ以来、道を歩くことが恐ろしくて恐怖心で外に出ることが出来ない。半町程距っている市場に行くのも恐ろしいというので、外部に出られなかったのが、生長の家に入信なさってお治りになったのですが、その奥さんは嫂と大変仲が悪くて常に争っていられた。
そして或る日、嫂さんに非常に侮辱されて口惜しくて口惜しくてたまらない気持で茫然と電車を待って停留場の一角に佇んでいると、突然自動車が後方から衝突して怪我をした結果、外傷性肋膜炎になったのであります。 それ以来、自動車に乗れないばかりか、あらゆる乗物が恐ろしくなって、街さえ歩くことが出来なかったのです。
それが『生長の家』をお読みになって、人間は神の子であり、この世界は神の造り給うた完全な世界であって、歩けない人は一人もない。嫂が悪いと見えたのは自分の心の影であると悟って、心の世界で嫂と和解せられた。 すると乗物恐怖症が消え、街も自由に歩くことが出来るようになられた。
それから、大変有難くなって、自分の主人は痔が悪いものですから、此の主人も何とかして病気を治してあげたいと思って、一所懸命に「あなた『生命の實相』を読みなさい、読みなさい」というのでしたけれども、中々お読みにならないのです。 そこで治してあげたいと云う執着の心で『生命の實相』に引っかかったのであります。
『生命の實相』の悟りというものは、心をさらさらとさせるのが『生命の實相』の悟りなのですが、『生命の實相』にでも引っかかってはなりません。 人間の生命の實相が完全だと云うことは、もう既に完全である良人の生命の實相(ほんとのすがた)を観よと云うことであって、「お前の生命は不完全だから、完全になるために此の本を読め」と云うのではありません。
それだのに此の奥さんは『生命の實相』に引っかかったために、『生命の實相』が蝿取黐みたいになって、それが心に粘りついたのであります。どうも二進も三進も行かなくなったのです。 『あなたは是の本を読まないから治らないのですよ』と始終口うるさくいって、頻りに『生命の實相』を読むようにすすめられたのです。
そうすると、何でも、良人と云うものは天邪鬼で奥様から勧められると反抗したくなり勝ちなのであります。 そんなものに引っかかってなるものか。 そんな本に書いてある事位は既に知っている、 というので、夫婦の間に争いが起った。
この争いの心と云うのがまた痔を悪くする。いても立ってもいられない気持が痔を起すのです。 痔だとジッと坐っておられないでしょう。それが、痔を患う人の心のすがたであります。 どうしても痔が治らないばかりか、だんだんその痔核が大きく膨れて来て、一寸歩いても身体全体に響いて飛び上る程痛いというような状態になったのであります。
ところが、此の奥さんが或る日『生命の實相』を読んでいられると気がついたそうです。
『生命の實相』というものはそんなに引っかかるものではないのだ。生命の實相というものは、さらさらと引っかからないものが生命の實相である。青空に浮ぶ白雲がいくら流れても引っかかりもせず、跡をも止めず、そのまま素直である。 あゝ是が生命の實相の本当の姿なんだ。私も此の青空のような心にならなければならない。 現象の姿はただ雲の去来する影に過ぎない。 雲はいかほど去来しても青空は汚れない。現象の姿はどんなにあらわれていても良人の生命の實相はあの青空のように清くけがれない、すべてのものにそのまま感謝するのが是が生命の實相であるのだ。良人の不完全な相を見て治そうとするよりも、良人の実相に感謝しましょう。 そう気がついたのであります。
そうすると、今、私の主人が病気で寝てこんなに苦しんでいるのも、是は自分の心が鳥黐のように引っかかっていることが、これが主人にうつっているのではないか、まことに申訳ないことだ。斯う思って、夜半御主人が寝ていらっしゃる枕頭に起き出て来て、良人の寝顔に対って合掌して拝まれたのですね。 これが維摩経にある、『煩悩は如来の種』と云うことになるのであります。若し、この煩悩に引っかかる心がなければ、良人をこんなにも切実に拝む心にはなれなっかたでありましょう。
「あゝ悪うございました。私の心が『生命の實相』に引っかかって、あなたを悪い悪い悪いと責めておりましたが、本当はあなたは悪くなかったのです。私の心の相が映っていたのでございます。私が悪かったのです。あなたは神の子であり、實相に於いて完全圓萬な佛であり、観世音菩薩のあらわれであり、もう既に救われていらっしゃる。常に健康でどこにも病気のない、自由自在な《いのち》でいらっしゃるのでした。それなのに、私の心が引っかかって、そして貴郎を、そういうような病気の相にあらわしたのです。そしてその自分の引っかかった心があなたの体に現れて、斯ういう風に痔になっていらっしゃるのは洵に申訳がございません」 といって、一心に拝まれたのでありますね。
そうしますと、或る朝、御主人がお便所においでになって、廊下で奥様と出会いがしらに顔を見合わせると、
「今日は不思議だ、不思議なことがあるものだ、すっかりあのひどい痔がよくなって、今便所に行ったけれどもちっとも痛くない」 斯ういって喜ばれたのであります。
奥様が良人の實相を観世音菩薩として拝まれたとき、完全圓萬な良人の實相があらわれて病が消えたのです。 そうすると、良人は「大乗の菩薩」であり、「あなたが『生命の實相』を読まぬから病気が治らぬ。病気がなおらぬのはあなたが悪いのだ」 と考えておったのは間違いであって、実は、奥様の心の状態を身にあらわして病気しておられたのが大乗の菩薩であるところの良人の姿であったと云えるのであります。
奥さんが鳥黐桶に足をつっ込んだような、そういう引っかかった気持をしておられたから、その心を救わんがために、大乗の菩薩たる良人が痔をあらわして苦しんでいたのであります。
生長の家は『生命の實相』でも執着したらいかぬというのであります。 善でも「これが善である」と形をつかんだら悪になるのであります。中々難しいようですね。だけども一番やさしいのが生長の家の生き方なのであります。
何でもくっ着いたら窮屈になります。 動けなくなります。 その窮屈な状態から解放されるように教えるのが生長の家なのですから、最もやさしい楽行道が生長の家なのであります。
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