田中静壱大将と甘露の法雨② (4664) |
- 日時:2011年09月25日 (日) 22時10分
名前:山ちゃん1952
このフィリピンにおいての腎臓の不治の病が治癒したことを中嶋與一先生のお話から抜粋させていただきます。 無血終戦の偉勲者田中静壱大将のこと 中嶋與一(元生長の家本部總持) 昭和十八年十月二十九日、陸軍大将田中静壱氏夫人の操さんが生長の家本部へ訪ねて来られました。その日、谷口雅春先生は九州御巡錫中にて、私が本部道場の指導を受持っておりました。操夫人が訪れた時には私はすでに道場へ出ていたので、受付氏が「道場へいらしゃい」と言ったのですが、「待たせていただきます」と言われ、四畳半ほどの薄暗い部屋で約三時間待ったようであります。 私が道場から下がって会ってみますと、その用件は「夫が病気で重態です。すでに諦めてはおりますけれども、何か心の中に苦しみがあるように思えるのです。可哀そうで見ていられないので、その心の苦しみを取去って安心させてあの世へ送りたい」ということでありました。 「病院はどちらですか」 「陸軍第一病院でございます」 「軍人さんですか」 と尋ねますと、夫人は名刺を出されました。見ると「陸軍大将田中静壱」とあるのです。 「はあー、これは軍人さん、大将閣下ですね。すみませんが、私はお断りします。誰か他の講師を紹介しましょう。」 と、椅子から立って部屋を出ようとしますと、夫人はあわてて、 「なぜでございます。」 と詰寄ってこられました。 「私は近頃の軍人さんは大嫌いです。」 と言いました。というのは、その時分、私は牛込の憲兵隊や名古屋の憲兵隊から呼び出されて、「お前は"海ゆかば"の歌はいけんちゅうて講演しとるそうじゃな」と、さんざん油をしぼられ、その頃は身体に油気が少なくなっていた上に、さらにしぼられたので意識が不明瞭になったほどでありました。そこで、 「私は軍人恐怖症で、ことにあなた様の御主人は大将さんですから恐ろしいです。とてもお会いする勇気がありません。」 と言いますと、夫人は、 「私の夫は大将でございますけれども至極やさしい人でございます。お友達から貴方様を紹介されましたので主人もお待ち致しているのでございますから、是非お願いします。」 と懇願されるのです。 「そのお友達というのは誰のことですか。」 「東條大将の奥さんです。」 ここにいたって私はいささか狐につままれたような気持ちになりました。 「はあー、少し変ですねえ。私は東條夫人は新聞でお顔を知っているだけですが」 「奥さんもそう言っておられました。お会いしたことはないけれども、毎月この雑誌の文章を読んで知っているだけなのですが、きっといい指導をして下さると言って紹介して下さったのです。」 その雑誌は『白鳩』でありました。夫人は「主人は貴方様を神様の次のような御方と思って会いたがっております。」 と言われ、その言葉にそそのかされて私は逢ってみようかという気になったのです。十月三十一日午後五時頃、病院を訪ねたのでありました。病室の入口には「面会禁止」とあり、その下の机には山のように名刺がおいてありました。 病室に入ると、将軍が寝台に長い体を横たえて、目をとじております。その傍らに腰をかけ、ちょっと挨拶の言葉をかけてみたけれども返答がありません。額に掌をあててみると相当熱い。「お熱があるようですね」と言ってみたのですが相変わらず、黙然としているのです。こうなると心持ちがわるくなって「さようなら」をするところでありますが「主人が待っている」という夫人の言葉をまにうけて腰をあげることができない。しばらく考えこんでおりますと、フト何気なくポケットに手が行って『甘露の法雨』をとり出したのであります。 そこで、「これから生長の家の聖経『甘露の法雨』を読みますから、閣下はそのままの姿勢でお聴き下さい。」 と宣言して読みはじめたのであります。二人の位置の関係上、私の右の掌は将軍の額に当たり、聖経をくりひろげる左手は胸部に置いている恰好でありました。最後に「聖経終」と読み了えたとき、田中大将はカッと目をあげて、案外やさしい声で、「ありがたいお経ですね」と言ったのです。それから私は『甘露の法雨』の講義をやったのであります。田中大将はフィリピンへ出征中、その年の三月十二日に発病し、三十九度を越す高熱がつづいているにもかかわらず病因が不明、マラリアに似ているが病因が発見出来ず、ついに八月六日、飛行機にて東京の陸軍病院へ送還されたということでありました。 将軍の語ったところによりますと、アメリカ駐在武官としてワシントンに在ったころ、マッカーサー氏(当時佐官)と親交があり、その友人を今では敵とすることになった、悪因縁でしょうね、と自嘲されるのでした。また田中大将は、こうして病臥していることは天皇陛下に相すまない、同時に多くの兵を戦場の露と消えさせることも、その遺族に対しても申しわけない、といとも悩ましげに話されるのです。そこで私は、因縁というものにとらわれているのは"迷い"です。迷いは無い、真理のみが実在である。人間は神の子で無限力、健康であるのが実在であって、われ病めりという心の迷いが映し出されているにすぎないのです。閣下は大忠臣です。けれども陛下にすまない、すまないと言いながら今病気で死んでは田中陸軍大将は病気に負けてしまったことになる。 "肉体は心の影""われに使命あり"と敢然と心中に唱えれば「言葉は神なり」、すべてのものこれによりて成るのです。私の言葉は決して間違っていません。たとえ大いなる槌をもって大地を損することがありましても、私の言葉は壊れることは断じてありません、と言い放ったのであります。すると将軍は一つ一つうなずいて聴いて、そして最後にニッコリして「有難うございました」と一言いわれたのであります。 翌十一月一日、朝七時に田中大将夫人から電話が入りました。その要旨は、主人は昨夜グッスリ眠り、今朝は上機嫌に目を覚まし、これまで出しぶっていた尿が快調に出て大層心持ちがよろしい、また熱も三十七度に下り、私としましては嬉しくて、たとえようもございません。これは奇蹟です、涙がこぼれて仕方がありません、というのです。その日、もう一度病院を訪ねると、将軍はちゃんと寝台に端座して私を待っておられました。そこで再び『甘露の法雨』の講義を致し、以後毎日講義をつづけたのであります。講義中は実に真面目に謹聴せられ、その態度はさすがに立派でありました。 ある日、病院の廊下で一人の看護婦から呼びとめられました。その人は田中大将を看護している三人の看護婦の中の一人でした。「先生、毎日ご苦労様です」と挨拶されてから彼女が私に語ったことによると、長い間閣下は一言もお言葉がなく、何をしてさしあげてもあの大きな目でジロッと御覧になるばかりでした。それが、先生が来られてからというものガラリと態度が変わり、検温が終りますと「有難う。ごくろうだね」と笑顔をむけられるようになったというのです。今まで病室へ行くのを三人で譲り合って、誰も行きたがらなかったのが、この頃では皆で行き、将軍をまじえて大声で笑い合うようになり、こんな嬉しいことはありません、というわけです。 こうして田中大将自身は日増しに恢復し、また操夫人は各方面へ『生命の実相』を配ったのであります。退院した田中大将は、やがて東部軍管区の司令官として軍務にいそしむようになったのです。昭和二十年八月十五日、終戦の御聖断が下ってからもなお戦争続行を主張する青年将校たちの叛乱が起こりました。その叛乱をめぐって重要な役割をし、後に監禁された私の以前からの知人からも、次のような驚くべきことを聞いたのであります。 その日、正午から陛下の御放送が行われるという直前、叛乱軍の幹部将校七名によって、今上の御命を頂戴し幼い皇太子を擁立し戦争を続行する、との密議が行われたといいます。かかる激越な行動に移らんとした青年将校たちを説得し、とり静めたのが田中静壱大将であったことは、総裁先生のお話によって、つとに知られるところであります。かくて陛下の歴史的な放送により、事なく終戦を迎えたのであります。 想うに、今上の御命をお救い申しあげるについて田中静壱大将の偉勲は無上であると申しても過言ではないと思います。その田中大将は、すでに昭和十八年に病にて絶えるはずであったと思われるのが『甘露の法雨』によって救われたのでありますから、田中静壱大将を通じて住吉大神のご使命が具現せられたということであります。 陛下には田中大将の働きに対し、八月十五日午後五時十五分、蓮沼侍従武官長侍立の上拝謁をたまわり、 「今朝ノ軍司令官ノ処置ハ誠ニ適切デ深ク感謝スル。今日ノ時局ハ真ニ重大デ色々ノ事件ノ起ルコトハ固ヨリ覚悟シテイル。非常ノ困難ノアルコトハ知ッテイル。シカシ斯クセネバナラヌノデアル。田中ヨ、コノ上トモシッカリヤッテクレ」 との優渥なるお言葉があったと承わっております。しかして八月二十四日、一切の使命を完うして、田中大将は極楽浄土へ移籍せられたのでありました。 「生長の家四十年史」より 昭和四十四年十一月二十二日発行
更に『ああ!皇軍最後の日』塚本清著 昭和28年12月20日初版(非売品)には 将軍の陣頭指揮は、間断なく続けられていったのであったが、不幸にして、重なる疲労は遂に将軍をして病床に伏するの已む無きに至らしめたのであった。 だが、生来負けず嫌いの将軍は、病を押して討伐を続けられたが、如何にせん、三月以降(昭和18年)は遂に立つこと能わず、マニラの病院に入院されることになった。 病名は、マラリヤといい黄疸といい、或はその併合症だともいわれ区区であった。入院後も将軍の気力は毫も衰えることはなかったが、体躯の衰弱は日増しに加わっていった。 将軍病篤し 前略 八月六日空路マニラを出発、羽田飛行場に無念の帰還をされたのである。高度五千の空気の稀薄は病体には大きく影響し、帰還後は三十九度を越える高熱が続いたのである。 将軍は直ちに若松町の第一陸軍病院に病因不明のまま収容された。 だが、帰還後も将軍の病勢は一向に捗々しなくなり、秋に入り、衰弱は一層その度を加えていった。 将軍は、再度の予備役願を出されたのである。この願を受けた東條陸相は中将のままで将軍を予備役にすべく、陛下に奏上申上げたのである。 陛下は将軍の病勢をいたく御心痛になり、恩賜のブドウ酒を賜れるとともに、特に大将に進級せしめよ、とお言葉を賜った。 陸軍省人事局は直ちに大将進級の手続きをとった。病床の身にありつつも、多年の功労を嘉し給う特旨に依って、将軍は大将に進級されたのであった。 比島から帰還された将軍の戦況奏上も、杉山元帥が将軍に代わって奏上された程であり、茲に全く、将軍の病勢は死を待つのみと思われたのである。 嗚!忠勇至誠の将軍、遂に病の床に斃れられるのであろうか―。 将軍起死回生す 世に起死回生と云う言葉があるが、これはぴったり田中大将の場合に云うことが出来る。 十月に入って大将の病状の悪化の一途を辿り、遂に主治医の大釣軍医も絶望してしまった。血圧は六十に下り、体温は三十五度四分以上は昇らなくなった。大将の危篤の報は伝えられ、軍医も 『尽くすべきは尽くしましたが―』と最後の言葉を残したのであった。 「ああ、何とかして夫をもう一度丈夫な身体にして、御国のために働かせなければならない」と、枕頭にある操夫人は、常日頃から信仰している『生長の家』に中島講師を訪ねられたのであった。 昭和十八年十月二十九日の夜だった。翌日中島講師は病室を訪れたが、一切面会禁止で、絶対安静の札がかけられてあった。扉外に立った中島講師は『大丈夫です、大将に霊気が溢れていますから』と言明して室内に入り、静かに大将に黙礼した後、「甘露の法雨」を取り出すと、静かに瞑目して中島氏の「甘露の法雨」を聴かれていた。 中島氏が読み了ると、大将は瞳を開かれたが、その瞳の中には、数分前まで、誰しも認めることの出来なかった、希望と歓喜との光があった。そのあとで大将はいくつかの質問をされたのであったが、中島講師は、その一つ一つに対し生命の實相をゆっくりと語られた。 この日大将は、人間は物質にあらず、肉体にあらず「生命(いのち)」である。その生命は神なる大生命と直通のものであるのを単的に「人間神の子」というのであって、肉体はその生命が起す波動、即ち心のかげである、病気になるのも心からであると同時に、癒えるのも心からである。境遇というも、運命というも、同時に心が先であり、凡て心が支配する、ということが真理だと理解されたのであった。 従来から観音の信仰に厚い大将には観音の教理に似た「生長の家」の理念は容易に了解する事が出来たのである。 大将の精神的の悩みは、いま戦争が激しくなりつつあるにもかかわらず自分は軍人として病床に臥していて働けないことは天皇陛下に対して相すまない。また自分は部隊長として軍隊を指揮して闘ったがその度に多くの部下を戦死せしめたのは、その本人に対しては勿論、遺族に対しても誠にお気の毒であり申しわけがない。 今日本では国民生活が段々圧迫してみんなが苦しんでいる際に、自分は病気と言い乍ら、病院にいて安閑として何の不自由なく手当を受けている事は、まことに申しわけない等等の為、心は常に悶々の情で閉じ込められていられたのであるが、聖書にも、「一羽の雀でも神の御心なしには地に墜ちず」とある如く、一切は神の摂理であると判られたのである。人間の一生は使命遂行の為だ、使命が終わるまでは肉体は続くのである。釈迦は八十五歳だが、イエスに至っては三十歳になるやならずで現世における肉体使命が終幕になっているのだ― こうして中島講師の第一日の話は終わったのであったが、突然、翌朝、中島氏の耳を破ったのは、操夫人の報告の電話であった。 昨夜ははじめて将軍はグッスリ寝られ、寝汗が出なくなり寝巻を着更えることもなく、久しく出なかったお小水が朝になり二回も出たと言うのであった。 その日から中島講師は大将の病床を見舞っては「甘露の法雨」の講義をつづけられたのであった。長男の光祐氏も、死ぬる前には人間は一時よくなることがあるから気をつけて下さいよと、操夫人に語られたが、その言葉も取越し苦労となって、急に食欲が増進し、自然排便もあり、ぐんぐん体力は恢復に向っていったのであった。 絶対安静の大将の身体も、五日、十日と日を追うて寝台の上に起き上がれるようになって来た。遂に一ヶ月日には、寝台から降りて立ちあがれるようになられた。 十一月末には更に寝台の周囲が歩行出来るようになり、遂に軍医までも絶望とまで思われた大将の肉体は、不屈の精神力に依って眼に見えて健康をとり戻されたのである。 以前から大将は、両親に似て信仰の厚い人であったが、この時以来「甘露の法雨」を離されたことがなく、自決の机上にも、この「甘露の法雨」は置かれていたのである。
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