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父の恩 (2607)
日時:2011年06月09日 (木) 06時01分
名前:伝統

今年(平成23年)6月19日(日)は、「父の日」
父の日に因んで、「父の恩」に関する情報を紹介して参ります。



”お父さん”は「尊い人」という意味

(1)「尊(とうと)」い

  @それでは、なぜ「おとうさん」と呼ぶのでしょう。

   女性たちは、結婚してから思ったのです。
   夫は、自分や子どものために一所懸命外へ出て働いて、
   毎日毎日の糧、生活の糧を運んでくれる。

   女性たちに危害を与える賊が来ると追い払ってくれる。
   「まあ、なんて尊いお方だ。やっぱり、夫も太陽さんのように尊い人だ」と
   言ったのです。

  Aこの「尊(とうと)」いという言葉から、
   お父さんのことを「とうと」と言うようになる。

   いまでも、石川県の能登半島の真ん中に行くと、
   父親のことを「とうと」とはっきり言っているのです。

   歌舞伎のセリフの中でも「カカさま」に対して「トトさま」と言いますね。

   この「尊い」も「ト」が残って「お父さん」と言うのです。

(2)太陽を愛するこころの心棒

   わたくしたち日本人は家庭で母を太陽と呼び、父を太陽のように尊い人と呼んで、
   そうして日本人の太陽を愛するこころの心棒をつくったのです。



<参考>

”お母さんを「太陽」と呼んだ日本人”
   〜なぜ「おかあさん」と呼ぶのか。

(1)お母さんは温かい

  @ところで、僕が小学校の1年のときのある日、「ただいま」って家に帰ると、
   お母さんがいないときがありました。

   お父さんに、「お母さんとうしたの?」と聞くと
   「稲刈りで実家へ手伝いに行ったよ」という。

   そして「きょうはお母さんがいないから、おれが温かいうどんをつくってやる」
   と言って、父親がうどんをつくってくれました。

   ところが温かいうどんのはずなのに
   お父さんのつくったうどんはなぜか冷やっこいんです。

  A一方「ただいま」と家に帰ってお母さんがいるときは僕はいつでも
   「お母さん、何かないの?」と聞きました。

   すると、母は「おまえは人の顔さえ見れば食い物のことばっかり言って、
   食いしん坊だね。そこに、ほら、芋があるよ」って言う。

   芋はひやーっとしてても、だけれども、
   お母さんのそばで食う芋は不思議と温かいんです。

  Bこれは、もしかすると女性には理解できないかもしれないけれども、
   男性にはわかってもらえると思います。
   お母さんが家にいると黙っていても明るいのです。

(2)おかみさん

  @それでわたくしたち男は自分の妻に対して、
   「日身(カミ)」に「さん」をつけて「日身(カミ)さん」と言ったのです。

   丁寧なところでは、これに「お」をつけて「お日身さん」といったんですよ。

  Aなんでしょうか。この「日身(カミ)」という意味は?

   「カ」は古い言葉では「カカ」といいました。
   もっと古い言葉では「カアカア」といった。
   さらに古い言葉では「カッカッ」といったんです。

   「カカ」「カアカア」「カッカッ」。
   これが「カ」となるんですね。

  B「ミ」というのは、わたくしたちの身体という意味です。

   ですから、「日身(カミ)」とは、
   わたくしたちの身体は「カカ」の身体である。
   「カアカア」の身体である。
   「カッカッ」の身体である、という意味なんです。

  Cでは、「カカ」「カアカア」「カッカッ」という音は、
   古代では一体何を意味していたのでしょうか。

   「カッカッ」というのは、太陽が燃えている様子を表す擬態語でした。
   「カッカッ」とは、実は太陽のことを指したのですね。
   「カアカア」「カカ」という音も同様です。

  Dつまり、わたくしたちの体、わたくしたちの命は太陽の命の身体であるという
   ことを、「日身(カミ)」(太陽の身体)と言ったんです。

   「カミ」の「カ」に「日」という漢字が当てられているのを見れば、
   「カ」が太陽のことを意味しているということがわかるでしょう。

   「日身(カミ)」とは、太陽の体、太陽の身体という意味だったのです。

(3)お母さんは「太陽さん」

  @お母さんはいつも明るく、あたたかくて、しかも朝、昼、晩と食事をつくって
   くださって、わたくしたちの生命を育ててくださいます。
   わたくしたちの身体を産んでくださいます。

   母親というのはわたくしたちを産み、その上私たちを育ててくれます。

  A母親は太陽さんのような恵みの力によってわたくしたちを世話してくれる。

   母親はまさに太陽さんそのものだということから、
   母親のことをむかしは「お日身(カミ)さん」といったのです。

   江戸時代の職人たちは「日(カ)」の古い言葉の「カアカア」をとって、
   「うちのカカア」といいました。

   子どもたちもこの古い言葉の「カカ」をとって、「うちのカカさま」といった。

   ですから、いまでも歌舞伎では、お母さんのことを「カカさま」というんですね。
   この「カ」が残って、いま「おかあさん」というんですよ。

   「おかあさん」・・・の「か」は、
   なんと太陽さんという意味だったんです。

  Bわたくしたちは、千年以上も以前から、子供たちが自分の母を「太陽さん」と
   呼んでいたということには、わたくし自身もびっくりいたしました。

  C女性徒のみなさんいかがですか。あと数年たって結婚して、子供をお産みになる。
   すると、みなさんは子どもから、おかあさん、つまり太陽さんと呼ばれるんです。

   亭主からもお日身さん、太陽さんと呼ばれます。

   今日みなさんが「おかあさん」といっているこの「か」は太陽の意味ですよ。

(4)わたくしたちも「日身(カミ」なのです

  @西洋では「神」と人間は違います。
   ヨーロッパの神ゴッドは、天にまします創造主の神です。
   そして人間は神のしもべです。

  A日本の「カミ」は、人間一人ひとりなのです。
   「日身(カミ)」は、小さい意味ではお母さんを指しますが、
   広い意味だと、これはお母さんだけではなく、
   わたくしたち一人ひとりが「日身(カミ)」なのです。   

(5)日本人の原点

  @日本の国土のマーク「日の丸」が太陽。
   お母さんを呼ぶにも「太陽さん」と呼んだ。
   人間一人ひとりのことも「日身(カミ)」(太陽さん)と呼んだ。

  Aわたくしたち日本人は「日の本の人」、
   つまり太陽を基本として生きる人として教育されてきたのです。

  B社会で、家庭で、いつも太陽との親和力をなくさないように、
   太陽に感謝して、太陽のように丸く、明るく、みんなと仲よくやろう。

   それが日本人の原点であったということなのです。
  
      *出典は「日本のこころの教育」境野勝悟(致知出版社)

        <平成23年6月9日 記>

勝海舟の父 (2635)
日時:2011年06月10日 (金) 05時55分
名前:伝統

「息子よ、父がついているぞ。がんばれ」〜 七十日間の必死の看病


 勝海舟は、九歳の時に死にかけた。
 麟太郎と名乗っていたころである。

 漢文を習いに、町の先生の所へ向かう途中、大きな野良犬に襲われ、
 睾丸(こうがん)をかまれたのである。
 通りかかった人が、自分の家で介抱し、すぐに父親に連絡した。

 父は足がしびれたりむくんだりする病気(脚気・かっけ)で寝ていたのだが、
 知らせを聞いて飛んできた。

 麟太郎は、真っ青な顔をして息も絶え絶えである。
 ちょうど医者が来ていたので、「命は助かるか」と尋ねると、 「どうも難しい」という返事。


 そこで、父は、
 「おまえは武士の子じゃ。犬などに負けてはならぬ!」
 と励まし、駕籠(かご)に乗せて、家へ連れて帰った。

 すぐに別の外科医が呼ばれた。
 傷口を縫い始めたのはいいが、麻酔薬のない手術である。
 麟太郎は激痛をこらえ、震えている。

 父は何を思ったか、刀を抜いて枕元の畳に突き立てて、
 「これしきのことで泣いてはならぬ。泣いたら、斬るぞ!」
 と叱りつけた。

 麟太郎は必死に耐え、最後まで泣かなかった。

 医者に容態を聞くと、
 「命は、今晩もつかどうか、保証できない」と言う。
 この言葉を聞いて、家中の者が泣きだした。

 父親は、
 「バカやろう。こんなことぐらいで麟太郎が死ぬもんか!」
 と叫んで、外へ飛び出した。

 裸になって、井戸水をくんでは頭からかぶり、
 息子が助かるように、必死に願った。

 家に入ると、麟太郎は苦しそうにうなっている。

 父は裸で側に寝て、震えている息子を抱きかかえるようにして温め、
 「麟太郎、死ぬなよ。父がついているぞ。がんばれ」と耳元でささやくのであった。

 父は、来る日も来る日も、井戸水をかぶり息子の側に寝て、励ました。
 しかも、それは七十日間も続いたのである。

 
 父親の必死の思いが通じたのか、麟太郎はようやく傷が癒えて、床から離れることができた。
 こんな壮絶な看病があるだろうか。

 「自分を、これほど大事に思ってくれる父がいる」という安心感は、
 とても大きな生きる力を、麟太郎に与えたことは間違いない。


 後の江戸城無血開城を考えると、ここにも父・小吉を通した”護国の英霊”の導きが
 あったのかも知れません。

  <参考Web:http://konn3563.seesaa.net/article/111288877.html >

           <平成23年6月10日 記>

西田幾多郎、娘への手紙  (2783)
日時:2011年06月15日 (水) 06時07分
名前:伝統

    〜 遠くに離れていても、父の心は、いつもお前の側にある 〜

 京都には「哲学の道」がある。
 北は銀閣から南は若王子に至る約1.5キロの小径(こみち)である。

 もともと「思索の小径」と呼ばれていたが、近代を代表する哲学者・西田幾太郎が
 好んで散策し、思索にふけったことから「哲学の道」と呼ばれるようになった。


 哲学者というと、何か気難しい感じがする。
 西田幾多郎には二男六女があったが、どういう父親であったのか。

 三女の静子(しずこ)は、こう記している。

 「父は世間話や冗談はあまり口にしないひとでした。
 この口数の少ない、日によっては一日中家族の者とも口を利くことのない、
 世の普通の父親とはどこかが変わっているらしい、

 子供の私どもにさえ、その心のうちを窺(うかが)えないような父を、
 物足りなく淋しく思ったこともないではありません。

 別に世間のひとの仰言るような偉い父であってくれなくてもいい。
 普通の世間並の父親であって欲しいというようなことを考えてみたことさえもありました」
                     (『わが父西田幾多郎』)

 厳格で、取り付く島もない父親のように見える。
 しかし、実は心の中は、子供のことを一途に案じ続ける普通の父であった。

 男親には、面と向かって気持ちを表せない不器用さがあるのかもしれない。

 西田幾多郎は手紙の中で、まるで別人のように、
 子供たちへの思いやり、愛情をハッキリと表している。

 大正十四年春に、病気療養中の静子(二十一歳の時)へあてた手紙を紹介しよう。


 「七度でも一分でもそうつづいて熱が出る様であったら画をかいたり歩いたりせないで
 病院にいた時の様にして絶対安静にしていなければならぬ。

 食物などもどういうものを食っているのか。
 不消化なものを少しも食べない様にせなければならぬ。

 よく田舎の人は親切にあれを見よとかこれを見よとかいうものだが、
 特に立つ前にここを見てゆけとかあそこを見てゆけとかいうものだが、
 そういう熱が出るのに少しも外に動いてはゆかぬ。

 又さびしいかなどいっていろいろ話しに来る様なこともあるが、
 人と長く話しするのもその為に熱が出るものだから絶対に
 心もつかわず体もつかわぬ様にしていなければならぬ。  

 どうか体の具合をありのままに、よい所もわるい所も知らせて下さい。
 よいかげんなことを云って人を安心させる様なことは甚だよくない」
                (『西田幾多郎全集』18)


 心配で心配でならないという父親の姿が浮かんでくるようだ。
 哲学者だけあって分析が細かい。
 具体的で行き届いた配慮が示されている。

 このころから静子の長い闘病生活が始まり、父の心配は尽きない。
 西田幾多郎は、自分が昭和二十年に亡くなるまで、六十四通の手紙を送り続けた。

 健康への気づかいだけでなく、病気療養で結婚する機会を失った娘への、
 生き方のアドバイスもつづられている。


 昭和十九年には、四十歳になった静子へ、次のような手紙を出している。

 「体はそう悪いくもない様で安心して居ります。
 どうか体と心とを大切に、油断なく気をつける様に。

 遠くにいても私の心はいつもいつもお前の傍(そば)につきそうています。
 昼も夜もお前のことを思わない時はありませぬ。
 私はいつ死んでも思い残すことはないが唯お前のことのみ気にかかります。
 どうか立派に一人でやっていく様に」
                 (『西田幾多郎全集』19)

 どこまでも、どこまでも、自分が死んだあとまでも、娘のことが案じられてならない親心。
 この手紙は、静子に大きな力を与えた。

 彼女は父との思い出をつづったエッセーの最後を、次のように結んでいる。

 「私は今、淋しい時困った時悲しい時この手紙を見る事にしています。

 『遠くに離れていても父の心は何時もお前の側にある』

 この言葉にはげまされて、
 女の独り歩きをあやまたない様にこれからを生きて行きたく思います」 
                      (『わが父西田幾多郎』)


 「遠くに離れていても、父の心は、いつもお前の側にある」
 すべての父親の叫びでもある。

           <平成23年6月15日 記>

キューリー夫人を支えた父親 (2842)
日時:2011年06月18日 (土) 08時28分
名前:伝統

今年、『世界化学年』です。
これは、有名な化学者であるキュリー夫人(マリー・キュリー)がノーベル化学賞を
受賞してから100年目に当たるのが2011年なのです。

  http://clairvoyance.dip.jp/MTOS/science_petit-story/2011/01/post-108.html

        ・・・・・・・

今日の新聞によると、国連が定めた「世界化学年」にちなみ、優れた女性化学者に
国際学術機関が贈る「女性化学賞」に、神戸大特別顧問の相馬芳枝さん(69)
が選ばれたを報じられております。

        ・・・・・・・


キュリー夫人は、当時の女性蔑視、外国人蔑視の風潮の中で、女性として初めて
ノーベル賞を受賞し、女性の化学者・物理学者の草分けとして数々の功績を残しました。

・・・・・・・・

そのキューリー夫人を支えた父親のお話です。




 「最も有名な20世紀の女性」
 「ノーベル賞を2回も受けた科学者」
 といえば、キュリー夫人(マリー・キュリー)である。

 未知の元素ラジウムを発見し、ガンの放射線治療や原子力の研究に多大な貢献を果たしている。
 彼女が科学の道へ進むのができたのは、父親の大きな愛情があったからであった。


 彼女はポーランドのワルシャワで生まれた。
 不幸にも十歳のときに母が亡くなり、父は経済的な厳しさと戦いながらも、
 男1人で子供たちを育てていた。

 マリーは勉強熱心だった。
 パリの大学へ入りたいと願い、家庭教師などをしながら辛抱強くお金を貯めていた。
 そして、ついに24歳で、フランスへ旅立ったのである。

 「父はたくわえが極度に乏しかったにもかかわらず、わたしの長
 年の希望を少しでもかなえようと骨おってくれました。

 自分でも若いとき学問の道を志していた父は、わかれていても、
 私の学問がすすむことを心からよろこんでくれました。

 父の愛情に満ちた無私な態度を思い出すたびに、
 わたしは感謝の念をおさえることができません」(キュリー自伝)


 貧苦と戦いながら勉強に励んでいる娘を、父は、どれほど心配していたことか。
 その温かい親心が伝わってくる手紙が残っている。

 「アイロンが気に入っているようで大変満足だ。わたしが自分で
 見たてたのだから、もしかしておまえの注文どおりでなかったら
 困ると心配していたのだ。

 こんな買い物(ほかのどの買い物でもそうだが)は、だれに頼ん
 でいいやら私には見当がつかないので、男の領分ではないのだが、
 わたしが自分で世話をやかなければならなかった…」
              (父からマリーへ宛てた手紙より)

 フランスは物価が高くてとてもアイロンが買えなかったのだろう。
 それを知った父親がワルシャワで用意して送ってくれたのだ。
 不器用ながら、母親の代わりまで務めている。


 大学を卒業後、彼女は、ワルシャワへは帰らなかった。
 物理学者の、ピエール・キュリーと結婚し、フランスで研究生活を始めたからである。
 ここで初めて、マリーの名前が、日本でおなじみの「キュリー夫人」となる。

 キュリー夫人は、家庭生活と科学者の仕事の、
 いずれか一つを選択する考えは、全くなかった。

 妻、母、科学者を、同列において、いずれも手を抜くまいとした。
 その努力には並々ならぬものがある。

 忙しい研究生活の中で、キュリー夫人は妊娠する。
 喜びも束の間、めまいや耐え難い疲れに襲われて、苦しむ日々が続いた。
 それでも、彼女は必死に持ちこたえていた。

 遠いワルシャワにいた父親は、彼女の限界を知って、パリへ駆けつけてきた。
 そして彼女をつれてフランス北部のブルターニュ地 方へ向かい、静養させている。

 娘を思う父の愛情はどこまでも深かった。

 やがて、キュリー夫妻は、二人三脚の研究で、偉大な発見を成し遂げる。
 その成果を父に手紙で報告すると、我がことのように喜んでくれた。

 「いよいよおまえが純粋ラジウム塩を手に入れた由、万歳です!!
 それを得るために費やされた仕事の量というものを考えれば、
 たしかに化学上の元素の中で一番高価なものだろうね。(中略)

 当地にはなにも変わったことなし。天気はふつう、まだかなり寒い。
 そろそろ寝床へ帰らなければならない。
 だから、愛情を込めておまえにキスを送りながら、これでやめます…」

 震える手で書いたこの手紙が、娘に宛てた最後のメッセージになってしまった。
 6日後に父はこの世を去っていく。

 キュリー夫妻にノーベル賞が贈られるのはそれから1年後のことであった。


<参考Web:キュリー夫人(1867〜1934)
http://soumai.p-kit.com/page165292.html

           <平成23年6月18日 記>

生まれ変わった道楽息子 (2866)
日時:2011年06月19日 (日) 08時11分
名前:伝統

今日6月19日は、父の日です。

お父さまへ、感謝の思いを贈りましょう!

霊界のご両親そしてご先祖さまへ、感謝の心で真理の言葉(甘露の法雨の読誦等)を
心の念波に乗せて贈りましょう!


・・・・・・

生まれ変わった道楽息子
   〜「天にも地にも、たった一人の子供を勘当することはできません」


 ある農家に、一人息子に手を焼いている夫婦があった。
 愛情いっぱい育てたはずなのに、大きくなるにつれ、悪さばかりする。

 そのうち、酒、博打、ケンカで、大暴れするようになってしまった。
 両親は寿命が縮む思いで、諌めた。

 「おまえは、なんと不孝者なのか。私らの身にもなっておくれ」

 「なに、親不孝だと! そんな不孝者を、誰が生んだのじゃ。
 俺は生んでもらって迷惑している。それほど嫌いなら、元の所へ収めてくれ!」

 逆に息子は、親にくってかかる有り様。手のつけようがない。

 時は連帯責任が厳しく問われる江戸時代。
 罪を犯せば、親類縁者にまで迷惑がかかる。

 彼らは、後難を恐れ、何度も「勘当すべきだ」と両親へ促した。

 そのたびに
 「あれでも可愛い一人息子なのです。もうちょっとがまんを……」
 と言って、両親は頭を下げてきた。

 しかし、息子の悪事は、ますますエスカレートしていく。

 道楽息子が26歳になった時、ついに親戚の代表が、
 「今すぐ息子を勘当するか、我々との親類関係を切るか、
 どちらか一つにしてもらいたい」と、強硬に迫ってきた。

 両親は、「そこまで言われるならば致し方ありません。今晩、勘当届を作りましょう。
 ご苦労ながら、皆様、印鑑を持ってお集まりください」と返答せざるをえなかった。

 子供を勘当する場合は、親族が連署して奉行所へ届け出ることになっていた。
 勘当された者は「無宿人」となり、通常の社会生活を送ることができなくなる。

 問題の息子は、この日も近くの村で博打をうっていた。
 そこへ、

 「大変だぞ! 今夜、おまえを勘当するために、親類が集まるそうじゃ。
 いくらおまえでも、勘当されたら困るだろう」
 と、友人が告げに来た。

 「なんじゃと。そいつは面白い。寄り合いの場へ乗り込んで、親戚どもをゆすり、
 百両ほどぶんどってやる。その金を持って、京か大坂へとんずらしてやるさ」
 悪友たちと、前祝いの酒盛りを開く始末であった。


 日が暮れてから、息子は我が家へ帰ってきた。

 「いきなり入っては、面白くない。俺のことを、悪し様に言っている最中に、
 障子を蹴破って、なぐり込んでやろう。
 ひとまず、裏から様子をうかがうとするか……」

 そっと座敷の縁側へ回ってみた。
 部屋の中からは、ひそひそと話し声が聞こえてくる。

 雨戸の隙間からのぞくと、親類縁者が車座になり、勘当状を回覧し、
 判を押しているところだった。

 息子は、「よし、親父が判を押すのを合図に、飛び込んでやる!」
 と、息をひそめて見つめていた。

 やがて、両親の前に勘当状が回ってきた。
 母親は大声をあげて泣きだす。
 父親は歯を食いしばって、うつむいている。

 やがて、一言、「おい、印鑑を取ってきてくれ」。
 母親は返事もできず、泣く泣くタンスの引き出しから革財布に入った印鑑を持ってきた。

 父親が、判を押そうとした時である。
 母親がその手にすがって「待ってくだされ!」と泣き崩れた。

 「この期に及んで、何を未練なことを」
 父親が、言っても聞かなかった。


 母は切々と語りだす。
 「あの不幸者に、この家を譲ったら、3年たたぬうちにつぶしてしまうのは
 ハッキリしています。しかし、それが悲しいからといって、天にも地にも、
 たった一人の子供を勘当することはできません。

 私は、息子のために家を失い、住み慣れた村を立ち退くことになっても悔いは
 ありません。子供のために夫婦そろって乞食になっても、恨みには思いません。
 どうか、勘当だけは、許してやってください」

 母親の涙の訴えを聞いて、父親も覚悟が決まったらしい。
 急に印鑑を財布の中にしまって、親戚一同へ向かって言った。


 「今、家内が言ったことは、親として、もっともであります。
 誠に申し訳ありませんが、息子は勘当いたしません。

 その甘さがいけないと、笑われるでしょう。
 笑われてもかまいません。

 我が子のために代々の家をつぶすのは、先祖に申し訳ないと思います。
 また、勘当しなければ親戚付き合いを絶たれるのも分かっております。

 世間の義理も、すべて顧みぬのは、ただ、子が可愛いばかり……。
 決して、あなたたちへ迷惑はかけませぬ。
 我が子のために、大道でのたれ死にしようとも、誰も恨みません。

 我が子のためなら、大道でのたれ死にしようと、誰も恨みません。
 子供のためならば、何と言われてもかまいません」
 
 父親は、男泣きに泣き始めた。


 世間中から見捨てられた極道者であってでも、
 親だけは変わらぬ愛を注いでいてくれる……。

 裏の雨戸の陰で聞いていた道楽息子。
 ただジーンと、熱いものが込み上げてきた。

 鬼のような男の、どこに涙があったのか……、
 声を殺し、体を震わせて、泣かずにはおれなかった。

 息子は、表へ回り、座敷へ入っていった。
 突然の出来事に、一同は、サッと緊張する。

 暴れだすのかと思いきや、手をついて、涙ながらに語りだした。

 「これまで、ご迷惑ばかりおかけし、申し訳ありませんでした。
 今後は、必ず改めますので、今夜の勘当、しばらくご容赦ください。
 永くとは申しません。三十日間待ってください。

 その間に性根が改まらなかったら、勘当されても、一言の不服も申しません。
 どうか、お願いいたします」

 畳に頭をすりつけている我が子の姿が不憫でならない。
 両親は、ただ、息子を抱いて、喜びの涙を流すばかりであった。


 この日から、道楽息子は、全く別人のように生まれ変わった。
 両親に孝行する姿は、国中で評判になり、やがて、農村をまとめる「大庄屋役」
 に抜擢されたほどであった。

 息子の変わりようが、いかに大きかったかが知らされる。

           <平成23年6月19日 記>

「努力の上に辛抱という棒を立てろ」 (4469)
日時:2011年09月16日 (金) 04時34分
名前:伝統


  *「一流たちの金言」(致知出版社)より

・・・

BGMとして、『栄光の架け橋/ゆず』

聴きながらこの話を読むのをオススメ致します。
感動体質がONになっている人は、心が揺さぶられるかも。

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=ntMCQIa8wOs#!

・・・

〜 桂小金治(タレント) 〜

この頃(10歳頃)、 僕にとって忘れられない出来事があります。

ある日、友達の家に行ったらハーモニカがあって、
吹いてみたらすごく上手に演奏できたんです。
無理だと知りつつも、家に帰って ハーモニカを買ってくれと親父にせがんでみた。

すると親父は、「いい音ならこれで出せ」と
神棚の榊(さかき)の葉を1枚取って、それで「ふるさと」を吹いたんです。

あまりの音色のよさに僕は思わず聞き惚れてしまった。
もちろん、親父は吹き方など教えてはくれません。

「俺にできておまえにできないわけがない」。

そう言われて学校の行き帰り、葉っぱをむしっては 一人で草笛を練習しました。
だけど、どんなに頑張ってみても一向に音は出ない。
諦めて数日でやめてしまいました。

これを知った親父がある日、

「おまえ悔しくないのか。
 俺は吹けるがおまえは吹けない。
 おまえは俺に負けたんだぞ」

と僕を一喝しました。続けて

「一念発起は誰でもする。
 実行、努力までならみんなする。
 そこでやめたらドングリの背比べで終わりなんだ。

 一歩抜きん出るには 努力の上に辛抱という棒を立てるんだよ。
 この棒に花が咲くんだ」

と。その言葉に触発されて 僕は来る日も来る日も練習を続けました。
そうやって何とかメロディーが 奏でられるようになったんです。

草笛が吹けるようになった日、さっそく親父の前で披露しました。

得意満面の僕を見て親父は言いました。

「偉そうな顔するなよ。
 何か一つのことができるようになった時、自分一人の手柄と思うな。

 世間の皆様のお力添えと感謝しなさい。
 錐(きり)だってそうじゃないか。
 片手で錐は揉めぬ」


努力することに加えて、
人様への感謝の気持ちが生きていく上で どれだけ大切かということを、
この時、親父に気づかせてもらったんです。

翌朝、目を覚ましたら枕元に新聞紙に包んだ細長いものがある。

開けて見たらハーモニカでした。

喜び勇んで親父のところに駆けつけると、

「努力の上の辛抱を立てたんだろう。花が咲くのは当たりめえだよ」

子ども心にこんなに嬉しい言葉はありません。
あまりに嬉しいものだかち、お袋にも話したんです。

するとお袋は

「ハーモニカは3日も前に買ってあったんだよ。
 お父ちゃんが言っていた。
 あの子はきっと草笛が吹けるようになるからってね」

僕の目から大粒の涙が流れ落ちました。
いまでもこの時の心の震えるような感動は、
色あせることなく心に鮮明に焼きついています。


 <参考Web:努力の上に、辛抱という棒を立てろ >
  http://www.faith-h.net/tabid/84/EntryID/50266/Default.aspx

               <平成23年9月16日 記>

父母への敬意は人間形成の要 (10221)
日時:2012年06月12日 (火) 04時51分
名前:伝統

今年(平成24年)の「父の日」は6月17日(日)ですね。

父母の恩について、神渡良平・著「安岡正篤にみる 指導者の条件」から引用します。

(1)「なるほど孝という文字そのものは子供の親に対するものでありますが、
   それは表面だけの意味で、中へ入ってゆけば父を敬することが一番の本筋です。
   父の中に敬するに足るものを発見できる事である。

   言い換えれば、父が敬せられるに足る人間でなければならぬということです。
   ところが小倅の時にはなかなかこれがわからない。
   また親父もよほどしっかりしないと倅に判らせられない。

   やはり子どもというものは死んだ親父の年くらいにならぬと、よく親父が判らない。

   勿体ないけれども、どうも順送りで仕方がない」

          <『人間学のすすめ』より>

(2)「わが体(からだ)は父母全うしてこれを生む。
   まさに全うしてこれを帰すべし。

   臨没のときは、他念あることなかれ。
   ただ君父の大恩を謝して瞑せんのみ。これを全終という」   (『言志四録』より)

   (自分の体は父母が心を尽して生んでくれたものである。
    だから人生を全うして、身体を父母に返すべきである。
   
    臨終のときは他のことを考えてはならない。
    ただひたすら君主、父母の大恩に感謝して目を閉じよう。
    これを終わりを全うすという)

(3)一斎の「わが体は父母の遺体」という考え方は、『言志四録』では実に七か条の
   多きに及んでいる。

   父母への敬意は人間形成の要にあるもので、これがあやふやであれば、
   いかに立派なことを目指しても砂上の楼閣に等しい。

        <感謝合掌 平成24年6月12日 頓首再拝>

(親への)孝 (10257)
日時:2012年06月14日 (木) 04時32分
名前:伝統

(1)言志録抄〜 26 吾躯為父母

   吾静夜独り思う。吾が躯の一毛一髪、一喘一息、皆父母なり。

   既に吾が躯の父母為るを知れば、又我が子の吾が躯為るを知る。

   則ち推して之を上ぐれば、祖・曾・高我にあらざる無きなり。
   逓(てい)して之を下せば、孫・曾・玄我にあらざる無きなり。

   聖人九族をを親しむ。其の念頭を起こす処、蓋し此に在り。

 (Web:言志録抄 より)
      → http://takurou.co-site.jp/zakkityou/gensisiroku/gensisiroku1.htm

  <参考Web:佐藤一斎>
      → http://issaijyuku.com/intro01.html


(2)「孝弟は終身の工夫なり」

   〜杉山厳海氏(名古屋大原学園 学園長)「言志四録講義その46」

  @【意味】
   親に孝行を尽くすということ、兄弟(夫婦)が仲良くすることは、
   生涯にわたって工夫すべきものである。

  A【解説】
   「孝」という字は、老いた親を子が面倒を看ることを意味しますが、
   これだけが親孝行ではありません。

   孝経という書物には
   「心身髪膚、これを父母に受く。あえて毀傷せざるは、孝の始めなり」とあります。
   これも孝行の一例です。

   体の髪の毛一本、皮膚の一 片も親からの授かりものですから、
   傷つけないことが親孝行であります。

  B孝経は更に続けて
   「身を立て、道を行い、名を後世に揚げ、以て父母を顕すは、孝の終わりなり」と
   説きます。

   子供が正道を歩み名誉地位を得る(子供が立派に 成長すること)ことは、
   親の教育の良さを世間に証明することになり、
   これにより親は我が子の教育責任を全うし大往生ができるということです。

   これは、狭く読めば世間での出世主義となりますが、広く読めば
   我が子が社会的に一人前になれた証拠(例:親 への手紙)を示し、
   安心させてやることです。

  Cもう1つの親孝行は、子供(兄弟姉妹)の仲の良さです。


(3)「孝は道の美」

   〜井原隆一氏「中国哲学に学ぶ・第二十二話」より
    http://www.jmca.jp/prod/teacher/1357.html

  @中国、後漢の班固という人は、「孝は道の美、百行の基なり」 とのべている。
   即ち孝行は人の踏み行う道のなかで一番美しい行いで言動のすべての中の基本
   であるとしている。

  Aまた“小学”という書物には
   「孝子の親愛ある者は必ず和気あり、和気ある者は必ず愉色あり」
   愉色ある者は、必ず腕容ありとある。

   つまり、孝行者には必ず暖かく、なごらかな気持ちがある。
   和気があれば、必ずやわらかい顔色となって現れてくる。

   さらに、こういう人間であれば、どのような職場、人との交際についても親しみ、
   尊敬の気持ちを抱かせる。

  Bとかく親孝行といえば、養うことで足りると考えがちだか、
   慕い、敬う心を欠いて眞の孝とは言えなかろう。

        <感謝合掌 平成24年6月14日 頓首再拝>

小さなかわいい娘よ (10310)
日時:2012年06月16日 (土) 04時54分
名前:伝統

【 小さなかわいい娘よ 】
  <こころのチキンスープ(ダイヤモンド社)からの抜粋紹介>


昔、あるところにとても素晴らしい男がいました。
そして、夢に描いていた女性と出会い結婚しました。
やがて、愛の結晶として、二人にかわいい女の子が授けられました。

この子は明るくて利発な女の子になりました。
父親はこの娘をどんなに深く愛していたことでしょう。

娘がまだ小さい頃、父親はよくこの子を抱き上げ、
歌を口ずさみながら部屋中をくるくる踊ったものでした。
そして、その小さな耳に何度も繰り返しささやくのでした。

「小さなかわいい娘よ、愛しているよ」と。

やがて、この小さな娘は時とともに成長していきました。
しかし父親は昔と変わらず、娘を強く抱きしめてはこう言ったものでした。

「小さなかわいい娘よ、愛しているよ」と。
すると娘はいつも父親に答えて言いました。
「私はもう小さな女の子ではないのよ」と。

それを聞いた父親は、嬉しそうに大声で笑いながら言うのでした。
「わかっているよ。でもね、お前はいつまでも私の小さなかわいい娘なんだよ」


また月日がたって、もうそれほど小さくない娘は住みなれた家を離れ、
外の世界に飛び出していきました。

社会でいろいろなことを経験するうちに、自分のことがもっとよくわかるようになり、
父親のことも人間としてより深く理解できるようになりました。

すると、父親の自分たちへの愛の表現こそが、本物の強さなのだと気づいたのです。

彼は地球上のどこにいても必ず電話をかけてきて、
「小さなかわいい娘よ、愛しているよ」と言ったものでした。


ある日のこと、もうそれほど小さくない娘に病院から電話がかかってきました。
あの素晴らしい父親が、脳卒中で倒れたというのです。

医師の説明によると、父はもう自分の力で話すこともできないし、
話しかけられても理解できないだろうというのです。

微笑むことも、声を立てて笑うことも、歩くことも、抱きしめることも、
踊ることも、そして「愛しているよ」と言うことも、できなくなってしまったのです。


娘は父親のもとに駆けつけました。
病室のベッドに弱々しく横たわった父親は、
まるで体が縮んでしまったかのように小さく見えました。

娘の姿に気づくと、その不自由な口で何かを懸命に話そうとしましたが、
言葉にはなりませんでした。

父親を助けようにも、娘には何もできませんでした。
ただ、静かに父親のベッドの脇に腰を下ろすと、両の目から涙があふれてきました。

もはや動かなくなってしまった腕の下に両手を差し入れ、胸の上にそっと頭をのせました。

父親と過ごした楽しかった日々がよみがえってきました。
ああ、今までどんなに父親から守られ、愛が注がれてきたことでしょう。

でも、もう二度と、父親の口から、あの愛にあふれる安らぎの言葉は聞かれません。
これからずっと、胸に大きく広がる空しさに耐えていかねばならないのです。


やがて、父親の胸に置かれた娘の耳に、何かの声が聞こえてきました。
耳をじっと済ませると、それは心臓の音でした。
そこには愛の音楽が宿り、優しい言葉が息づいていました。

脳で起きた一大事などまるでおかまいなしに、しっかり鼓動を打ち続けています。
その音を聞きながら、疲れきった彼女はうとうとしかけました。

そのときです。信じられないことが起きたのは!
何よりも望んでいた言葉が聞こえてきたのです!
ドン、ドン、ドン・・・・規則正しく鳴り続ける心臓の鼓動は、
やがて愛の言葉をささやき出しました。

「愛しているよ」
「愛しているよ」
「愛しているよ」
「小さなかわいい娘よ」
「小さなかわいい娘よ」

小さな娘の心には深い安らぎが戻ってきました。

   <パティー・ハンセン>

        <感謝合掌 平成24年6月16日 頓首再拝>

父の日に想う (10342)
日時:2012年06月17日 (日) 04時28分
名前:伝統

今日、6月17日は「父の日」。

「地震・雷・火事・親父」の親父は、
もともとは「大山風(オオヤマジ)=台風」だったそうです。

時代を経るにつれ「オオヤマジ」が「オヤジ」に変化していったとのことですが、
昔はこれが違和感がないほど「親父=怖い存在」という雰囲気がありました。


父の日のシンボルカラーは黄色で、欧米では大切な人の無事を願う色であり、
アジアでは幸福の色あるいは大切なものを象徴する色でもありますので、
気持ちを込めて何か黄色のものを添えてみるのも良いかもしれません。

ところで、父と母が対になった言葉は多く、例えば
「自然は文明の母、労働は文明の父」
「経験は知恵の父、記憶はその母」
「必要は発明の母、ひらめきは発明の父」  などがあります。

また、「母なる大地」には「父なる太陽」あるいは「父なる空」という言葉が対になっています。

手を伸ばせばいつも変わらず其処に在り、命を育む温かい大地のような母に対し、
父は必要な時に必要な光を授ける存在であり、容易には手が届かない、時には雷も落とす
厳しい存在でもありました。

そして「海より深い母の徳、山より高い父の恩」という言葉もあります。

「父」という字は手に斧を持った男性を表し、家族を守り、家族を養い、
家族を率いるという役割を象徴しています。

「父の日」は、夫々の親父への尊敬と感謝の言葉や念を贈る日でもあり、
自分の内なる「父なる理念」を問い直す機会でもあるように感じております。

      ○         ○         ○

今日6月17日は、「父の日」であるとともに、
「生長の家」にとっては、教え親である谷口雅春先生の27年祭という
大切な日でもあります。

教え親である谷口雅春先生への尊敬と感謝の念を、心を込めて贈る日でもあり、
宇宙の大神様が、谷口雅春先生を通してもたらしてくれた「教えの根幹」を
再確認し、それぞれの心に刻み込む大事な日でもありたいと感じております。

        <感謝合掌 平成24年6月17日 頓首再拝>



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