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地形(主に、滝・巨石・山地地形)の掲示板

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No.370 お久しぶりです 投稿者:sun    投稿日:2023年06月20日 (火) 23時18分 [返信]

竪破山の件ですが、色々あってあれ以降調査出来ず、漸く先日高萩側の登山ルート入り口を確認してきただけです。
入り口は手前と少し離れてもう一か所の2か所あり、奥の方のカードレールに山頂までの距離の書かれた小さな案内看板が付いていました。
国土地理院のネット地図上の座標は、
36度42分33.90秒 140度34分33.53秒(奥側)

なお5分ほど入ってみましたが、沢音はしっかりするものの笹と雑木で視界が悪く、やはり晩秋〜早春時に行くべきかな、と。
(突発的に行くかもしれませんが)

No.371 剣ヶ滝、見つけたかも。 投稿者:sun    投稿日:2024年01月01日 (月) 22時42分

お久しぶりです。
年末に2回探索に入りました。

36度42分36.51秒 140度34分20.35秒 にある岩塊の南側直下に3〜4mの段瀑があったので、2回目の探索でその上を調査した所、

36度42分35.94秒 140度34分18.55秒 付近に斜瀑がありました。
露出部は高低差約4mあるのですが、実はその下部は伐採時に出た枝葉で覆われ、更にその上に苔と草が生えているような状態で、撮影の為に足を乗せたら踏み抜いて、水の流れる岩盤に接地しました。
もしかすると高低差6〜8mくらいあったのかもしれません。
ストレートの斜瀑なので細身の滑り台のような滝でした。
なお水量は小。

暇が出来たら2回分の調査顛末を写真リンク等と共にメールでご報告致します。

No.372 困った 投稿者:sun    投稿日:2024年01月26日 (金) 19時03分

龍ヶ滝(と思われる滝)を再訪したのですが…

以前報告した通り、東に分岐する隣の沢にも2つ滝がありましたが、その上を見に行ったら3つ目がありました。
高さ4mくらいのほぼ直瀑です。

一体どれが本物の龍ヶ滝なのか…?

No.373 メールしました。 投稿者:sun    投稿日:2024年02月17日 (土) 23時36分

本日、年末年始の竪破三滝調査の詳細をメールしました。
写真はメールに資料庫のリンクを入れてます。

No.365 しつれいします。 投稿者:sun    投稿日:2023年01月21日 (土) 16時57分 [返信]

1/19にEメールをお出ししましたが、届きましたでしょうか?

内容については置いておいて、届いているかどうかの確認です。
(スパムメールのブロック等で届いていなかったり、返信をブロックしてしまう事があるので。)

No.366 返事 投稿者:滝おやじ    投稿日:2023年03月08日 (水) 23時57分

メールの件。1〜2月住居地を離れていたので、申し訳ありませんがメールを頂いても、一括削除した可能性が高いです。メール頂ければ幸いです。

No.367  投稿者:sun    投稿日:2023年03月09日 (木) 18時10分

お久しぶりです。
1〜2月に4回竪破山の方で滝探ししておりました。(西南〜南斜面)
で、その報告をメールで出しておりました。(オトマッキーさんにも同じのを出してます)

情報が色々積み上がったので整理してから改めてメール致します。(ちょっとバタついてますので遅れそう)

恐らく龍ヶ滝は見つけた気がしますが整合しない別情報があって確定ではありません。
また、剣ヶ滝は今回の探索対象の外の可能性が高いです。(東斜面っぽい)

No.368  投稿者:sun    投稿日:2023年03月10日 (金) 23時03分

昨日に概要メール、そして本日詳細メールをそれぞれ送信しました。

No.369 ありがとうございます 投稿者:滝おやじ    投稿日:2023年03月12日 (日) 21時35分

詳細メール拝見しました。えらい苦労ですね。
三瀑の奈々久良滝には一応水があるのに、「水なし」にはうーんと言ってしましました。
 途中結果であっても紹介したいなあと思っています。
 取り急ぎご返事まで。
 

No.364 2023年謹賀新年 投稿者:滝おやじ    投稿日:2023年01月02日 (月) 22時46分 [返信]

2023年1月2日
 2023年おめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。
 去年末から、また屏風ヶ浦の地形に取り組んでいるので、年頭の画像は屏風ヶ浦最大の崖錐。
 屏風ヶ浦は、ほぞ全域で消波堤が作られた結果、海に削られて、下から崩れて後退する海食崖でなくなり、削られるのが止まって、上から崩れて下が崖錐により埋まっていく海食崖に変化しています。
 画像は、その海食崖を埋めていく崖錐の最大のもの。ドローン画像です。海食崖の比高50m。

No.363 年賀状の滝2018年を掲載 投稿者:吉村光敏    投稿日:2022年04月26日 (火) 10時43分 [返信]

2018年分の年賀状の滝:上総丘陵小櫃川水系 君津市折木沢所在 黒滝 を「HP滝を観る」にアップしました。
4年もアップしてなかったんですね。(-_-;)
2022年に追いつくまで、アップしていく予定です。

http://chibataki.poo.gs/nennga/nenga01.html#2018

No.362 年賀状の滝2017年 (-_-;) を掲載  投稿者:吉村光敏    投稿日:2022年04月08日 (金) 16時41分 [返信]

2017年分の年賀状の滝:阿武隈山地里川水系 茨城県常陸太田市 奈良久良の滝 を「HP滝を観る」にアップしました。
5年もアップしてなかったんですね。(-_-;)
2022年に追いつくまで、アップしていく予定です。

http://chibataki.poo.gs/nennga/nenga01.html#2017

No.361 年賀状の滝2016年 (-_-;) を掲載 投稿者:ちば滝おやじ    投稿日:2022年04月02日 (土) 16時48分 [返信]

2016年分の年賀状の滝:房総半島養老川水系、千葉県大多喜町、入知坊の滝 を「HP滝を観る」にアップしました。
6年もアップしてなかったんですね。(-_-;)
もう歳なので、ポツポツアップしていく予定です。

http://chibataki.poo.gs/nennga/nenga01.html#2016

No.359 市原市国本、県乳牛試験場▲225m峰から養老川上流・上総丘陵の峰々を展望 投稿者:ちば滝おやじ     投稿日:2021年05月17日 (月) 15時09分 [返信]

先日市原市国本にある、千葉県市原乳牛試験場内の▲225m峰に行ってきました。
(1)前々から余り熱意を持たずにやっているちば眺望百景めぐりで、No.49にあたる。、
(2)国本の隣の市原市田淵地区にあるチバニアン露頭周辺の地形調査の一環にて。
(3)養老川上流の大福山から万田野山にかけての峰々(上総層群分布域特有の透水性ケスタの列状山地列(C6〜C3にあたる) の眺望
(4)▲225m峰は、列状山列C5に当たるのでその地質と地形を見る。
 ・・・等々のいろいろな目論見で訪れました。
 画像は、225m峰山頂付近から西北方面の眺望です。
近景:225m峰の中腹。山列C5の一部 牧草地で、本来の小起伏を人工改変により斉一化された地形。
中景:養老川本流と支流浦白川との分水界219m峰から、田淵地区の城山(養老川本流左岸)へ連なる峰 山列C4列 国本層からなる
遠景:養老川と小櫃川の分水界・万田野山のケスタ峰 山列C2列 万田野層の厚い砂礫層よりなる透水性ケスタ 中央の切れ込みは採砂で山容が変容している部分。

No.360 ちば眺望100景の展望台 投稿者:ちば滝おやじ     投稿日:2021年05月18日 (火) 23時18分

ちば眺望100景は、千葉県が、平成18年(2006年)9月に選定した、県内の優れた眺望リストである・・・100景というが94景ですが。
 選定理由と内容は、https://w.atwiki.jp/wiki6_piro/pages/8441.html など参照。
まあ、「だれでも利用できる展望台のリスト」です。私も、千葉県の地形景観の良い場所を探して見て回っているので、ありがたく利用させてもらっています。全部見て回るべきものでもないですけどね。
 2007年刊行のガイドブック(ちば眺望100景 ガイドブック 発行:2007年1月 千葉県)の該当項を紹介します
========================
49 千葉県畜産総合研究センター市原乳牛研究所(旧称:乳牛育成牧場)
市原市国本602
 牧場の奥に高台があり、広々とした牧場と周囲の山々を360度近く見渡すことが出来ます。千葉県が海に囲まれていることを忘れてしまうような、広大な山の風景です。冬の快晴時には富士山も見ることができます。運が良ければ、牧草の収穫作業や牛が草を食む牧歌的な風景も楽しめます。
*入場の際は、必ず事務所で受付をしてください。車は事務所前の駐車場に止めてください。頂上付近にはベンチやテーブルがあります。危険ですので牛には絶対に近寄らないでください。
■入場時間、料金など
●入場できるのは、9:00から17:00までで、土日、祝日、年末年始(12月28日〜1月3日)は、入場をご遠慮ください。
●入場の際は、必ず事務所で受付をしてください。
●料金/無料
■交通アクセス
*小湊鉄道上総大久保駅下車徒歩約25分。奥の高台まで更に20分
*駐車場あり(約20台)
■問い合わせ先
千葉県畜産総合研究センター市原乳牛研究所
TEL 0436-96-1231
FAX 0436-96-0956
◆インターネット情報
http://www.pref.chiba.jp/laboratory/livestock/
周辺の観光スポット
・市原ぞうの国・高滝湖・梅ケ瀬渓谷
・養老渓谷・鶴舞公園・市民の森
・長谷川ライティングファーム
==========================
 <展望台としての感想>
・山頂まで車で行けるが、途中で事務所に挨拶して入らせてもらうべきでしょう。
・広々した(緩傾斜の山斜面を斉一に地ならし改変した)牧草地は、房総ばなれした珍しい景観で
ある。
・展望は、そんなに恵まれてないし、有名な山も見えないけど、近景・中景がきれいで気持ちが良い。標高が225mと高くないので、東面、北面は近くの山に遮られて、南西面〜北西面のみ。
養老川と小櫃川との分水界の峰々が対象で、万田野山、大福山、石尊山、御嶽山などが対象。
 登った日(4月22日)は晴れていて、遠景に養老川流域外の鹿野山や元清澄山、清澄山は見えたが、もちろん春霞で、冬には見えるという富士山は見えなかった。

No.358 眼光鋭いキジ 投稿者:ちば滝おやじ    投稿日:2021年05月01日 (土) 22時38分 [返信]

 2021年4月22日に、市原市田淵の地磁気逆転露頭(チバニアンの模式露頭)周辺の地形調査で、南どなりの国本・大久保地区の地形調査に行きました。
 大久保駅西方の養老川曲流跡の耕地に、眼光鋭く、態度が偉そうなキジが居ました。

No.357 小平市昭和病院より 高尾山〜陣馬山 投稿者:滝おやじ     投稿日:2021年03月02日 (火) 22時41分 [返信]

2019年12月23日の夕方。病院の7階面会スペースから。富士山頂付近に太陽が沈んだ後。
遠景前面の稜線が関東山地の笹尾根末端、高尾山から陣馬山まです。
高尾山 599m 城山 670m 景信山 727m 陣馬山 854m
関東山地の末端で低い山々ですが、結構大きく見えます。陣馬山は浅川、多摩川下流から立派で、高尾山は端山ですのでそれなりに目立ちます。
峰の形から言えば、四万十系の砂岩泥岩層(風化破砕が激しい)の形。比高が小さく延長の左右均等な峰です。

No.356 千葉県多古町栗山川低地の化石陸繋島 投稿者:滝おやじ     投稿日:2021年02月26日 (金) 18時32分 [返信]

先夏、千葉県多古町の小井戸滝を来訪したついでに、多古町船越にある化石陸繋地形を訪れました。
この地形は、図1に示す様に、下総台地を刻んだ、幅の広い栗山川の平坦な谷底低地にあります。谷底低地表面 は、縄文海進による入海が隆起して湿地化した、昔の海底と思われます。 図1で一目で分かるように、入り海の島が細長い砂州によりつながって陸繋島・陸繋砂州になった地形が残されています。
 対岸の・35mの丘も化石陸繋島で島の西端に化石砂嘴が見えます。
 低地は一面の水田、陸繋砂州(船越尾小島地区)は集落地と畑、陸繋島(丸山)には頂上に丸山神社があり、古城(大島城)があったと言う説があるとのこと。
 陸繋島の周りは、砂州・麓屑面で集落地と畑地になっていた。
 房総半島には、陸繋島地形は少ないので、この化石陸繋島地形は面白いと思います。

No.352 謹賀新年 投稿者:滝おやじ    投稿日:2020年01月01日 (水) 00時03分 [返信]

2019年はお世話になりました。

本年もよろしく。

画像は、小平市の昭和病院7Fから丹沢山系、蛭ヶ岳〜檜洞丸〜袖平山。 離れて大室山。
富士山に頭を押さえられているけど大室山はいつ見てもかっこいい。

No.351 大雨で落下した巨石 投稿者:滝おやじ    投稿日:2019年12月05日 (木) 22時45分 [返信]

佐賀県で発生した事例。
ht tps://www.saga-s.co.jp/articles/-/459482

谷津田の真ん中に落下して鎮座している巨石の事例は多いのですが、発生した直後を観察できる例はあんまりありません。
 見に行きたい、特に、元合った場所からどうゆう風に転げたのかみたい。こちらは千葉なので、佐賀はちょっと遠いです。

No.348 ハッシャイの滝 投稿者:パパゲーノ     投稿日:2019年10月22日 (火) 12時34分 [返信]

はじめまして。こちら様の情報のおかげでハッシャイの滝を見ることができました。ありがとうございます。
いずれブログとYoutubeに投稿したいと思っていますが、まずはお礼方々ご報告させていただきました。
※滝上部の様子のみYoutubeにアップロードしてあります

No.349  投稿者:滝おやじ    投稿日:2019年10月24日 (木) 20時23分

パパゲーノ様 ハッシャイの滝にはずっと行っていません。行くルートなどは現在は如何でしたでしょうか

No.350  投稿者:パパゲーノ    投稿日:2019年10月28日 (月) 18時01分

滝人間様方が開拓したルートはもう激藪に埋もれているのではないかと思います。自分たちは下流の水路隧道近くから川に降りてそのまま1キロ近く遡上しました。でも、もう少し楽に行けるルートがありそうです

No.347 小豆島の花崗岩丁場、展覧会情報 投稿者:滝おやじ    投稿日:2019年02月13日 (水) 23時36分 [返信]

3月12日まで
h ttps://www.google.com/url?rct=j&sa=t&url=https://www.yomiuri.co.jp/local/kagawa/news/20190210-OYTNT50125/&ct=ga&cd=CAEYACoUMTM3MTgyNDI0NjA0Njg1MjM3NzkyGjQyNDI0NjMzYmQ5NjBhMjc6Y29tOmphOlVT&usg=AFQjCNEC6PHjP_RaGVKJtGpSW-e1hX0O_Q>

No.346 2019年新年おめでとうございます 投稿者:滝おやじ     投稿日:2019年01月02日 (水) 11時24分 [返信]

本年もよろしくお願いいたします。 管理人
画像は、君津市清水、小櫃川水系笹川の通称「濃溝の滝」立地鳥瞰図。本来は無名の川廻しトンネルの滝です。
近年、ハート型の光の影の写真で有名になって観光地化しかけています。

No.345 今年最後の滝 投稿者:滝おやじ     投稿日:2018年12月31日 (月) 21時55分 [返信]

千葉県市原市田淵 不動の滝 最近話題で観光地化しようとしている地磁気逆転地層露頭の近くにある滝。落差15mという。水量もイマイチで「滝タラズ」と「滝」の中間ぐらい。人工水路を崖に落として、谷の下流を高地と集落地にした工事による人工滝です。上流の水路変更時期は中世だと思います。滝の下流には小規模だが、形が面白くて、未報告の川廻し地形がある。12月27日探訪。この滝で今年の地形巡りも納めです。今年は入院したり、さすがに年で滝も十分できなかったが、来年はなんとか・・・。


No.341 2018年新年おめでとうございます 投稿者:滝おやじ    投稿日:2018年01月04日 (木) 13時30分 [返信]

本年もよろしくお願い致します。 管理人 滝おやじ

画像は、小櫃川水系の黒滝
<諸元>
千葉県君津市折木沢所在 東大演習林内
 小櫃川水系猪ノ川 硬岩の滝 比高11m 滝面の地層は上総層群黒滝層。岩質は礫岩層 順層。
 滝面の形は面滝 帯瀑 張出型複合副滝 直下型。
 滝壷(全面滝壺のようだが埋没) 黒滝不整合の模式地として、近年は山ヒルの宝庫として有名です。
 なお、画像の水量は、大雨の後の状態。普段はこんなに無い。
<滝の成因と形成> 
 千葉県の滝では珍しい硬岩の滝で、上総層群黒滝礫岩層が、その上位層の黄和田層泥岩層に対して硬岩層として機能して滝が形成されています。
 瀑布帯の形は、概念図に示すような形で、画像に示す現在の滝面は、図の左端の部分にあたり、滝の変遷ステージとしては2⇒4にかけて形成された部分です。滝の形成初期には図の1の所にナメ滝として始まった。
 下図のように、1,別の場所に黒滝層の滝が形成、 ⇒2,黒滝層の上面の黄和田層泥岩を侵食して、滝と河道が水平移動し、現在の滝壺の位置に至る。 ⇒3,ナメ滝を形成したあと、その滝面下部を垂直に掘り込み壁状の滝を形成 ⇒4、さらに2つに分かれて掘り込み、現在に至る。といった滝の地形変化を生じています。

No.339 岩手県遠野市 呼ばれ石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年08月28日 (月) 17時18分 [返信]

 ながらく休んでいましたが、またちょくちょくアップしようかと思います。
 暫くは、北上山地遠野盆地の巨石と山の、記録メモをあげてみます。
 この地方の巨石の事例は、インターネット上のyo-hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」(http:  //hamadas.exblog.jp/ 20130522現在)から所在情報を得ています。この呼ばれ石もその一つでした。
 yo-hamada氏のブログの画像を見ますと、単体の大きなコアストーンが、緩斜面の下部に突出して露出しています。動いてきたようですが、破断してはいないようで、転がってきたのでないようです。このような立地と形態の特異性が何故できたのか、巨石の成り立ちに興味を持って訪れてみました。まあ、遠野の巨石、続石と羽黒石を調査しに行ったついででもあるのですが。
 呼ばれ石とその周辺の地形を観察した結論をいうと、下半埋まっていますが4面露出。直径5〜6m厚さ3mほどの平たい鏡餅型のコアストーンでした。浮き石で異地性です。 巨大コアストーンがマサ砂の中にあって、谷上流の山地地下にあったものが、氷期に凍上作用などにより地表近くになリ、氷期の周氷河作用によりできた角礫混じりのマサ砂とともに、山地斜面から谷底へ、さらに谷口へと匍行(水飴が流れるみたいに粘性流体的にゆっくり動く)してきたものです。動いた年代は、12,000年前ぐらいに当たると思います。
 ついでにいうと、続石や羽黒石は、日本の巨石には珍しく、成因について記載した科学論文があって、呼ばれ石と同時期に、氷期の周氷河環境で形成された露岩地形である「トア地形」であるとされています。 後で紹介する機会があるかもしれませんが、私の調査では、単純なトア地形ではなくて、「特殊なトア地形」であるいう結果が出ました。


No.340 呼ばれ石の位置と宮守村誌の記述 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年09月12日 (火) 22時44分

呼ばれ石の情報は、浜田氏のブログに述べられていた「遠野遺産23号」にありました。
これは、遠野市のHPから見ることができ、所在場所の地図もあります。
 2.5万地形図(添付図)に位置を示します。なお、呼ばれ石の付近で南から合流する道の位置が拡幅に伴って最近改変されていて、交差点の形状が、2.5万地形図の形状と、現状とでは異なります。添付図では2.5万地形図の道路位置を修正しました。
 さて、「遠野遺産」とは、遠野市が独自でやっている文化財施策の「遠野遺産認定制度」のこと。平成19年度から開始。現在も追加認定が行われていて、対象は現在149ヶ所。
施策の内容は、ttp://www.soumu.go.jp/main_content/000152728.pdf (20170804現在参照)。市民参加で文化財保護活用をめざす方策で、なかなかスグレモノと思います。
 巨石関係では、No.23の呼ばれ石、78の羽黒堂と羽黒岩、111の石上不動岩と不動滝、132の舌出し岩があります。続石は市の指定文化財になっているので入っていないようです。
 遠野市のHP:遠野遺産23の呼ばれ石の項参照。現地の説明板も同文です。
ttp://mappage.jp/dtl/infolist.php?KanriNo=03208S370023&mode=md
(20170825現在)
 後日ですが、遠野市図書館で、呼ばれ石の文献記述を調べました。すると、『宮守村誌』 森嘉兵衛著 昭和52(1977)年 岩手県上閉伊郡宮守村教育委員会発行 という本があり、その中に、「よばりの石」の記述があります。遠野遺産の「呼ばれ石」の説明文や現地説明板の文章は、それを一部変えて引き写したと思われます。
 以下、宮守村誌の該当部分
========================
第二章 語り伝えた話
 六 よばりの石        
上宮守から塚沢に行く県道の側に大きな岩があった。
いつの頃のことかはっきりしないけれど、この巨岩の付近で働いた者達が、遠く離れた所にいる仲間に、昼飯だよと叫ぶと、その大石もその声に応じて同じことを言い、その石の上の方に同じょうな大きな石がもう一つあって、同じように応ずる。人々呼んで「よばりの石」といった。
何となくうすきみが悪いので、人々は狐狸のしわざだろうといって、猟師を頼んで一発石に打つと、それからその石は人間が叫んでも呼応しなくなったという。
今でもその石には鉄砲玉の傷が一つ残っているという。(河野三郎)
==============(引用終)=====
 <解題>
・河野三郎さんという方から聞き取りした伝承です。
・その時点では、石の名称が、「よばりの石」となっており、その後の遠野遺産の登録名になっている「呼ばれ石」とは違っています。
・石が音を発するという伝承は、夜泣石を始め多いですし、この伝承でも、呼び交わしているわけですので、岩が声を発する「よばわりの石」の方が、本来の名前だったのではと思われます。
・この石に呼応する、もう一つの大石があったといわれています。そちらの石については未調査ですが、国土地理院の空中写真のお見たところ、1977年の航空写真にはそれらしき立石の影が、写っていました。添付した2.5万地形図に、赤矢印で示した位置付近にあります。当時は、谷底全体が耕作地になっていたようですが、現在は耕作を止めて植林地に変わってしまっていて、最近のグーグルマップの空中写真では、樹林の中になってしまっていて、見えません。

No.338 遠野の続石にまつわる奇談 投稿者:滝おやじ    投稿日:2017年05月09日 (火) 23時21分 [返信]

続石の写真を、津波石として新聞に載せた・・・という奇談。

sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_18/27-Yamashita.pdf

続石にこんなことがあったんだとは、寡聞にして知りませんでした。




No.337 池田 碩(2017)1995.1.17 大地震と六甲山地 - 近畿地方整備局 - 国土交通省 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年03月28日 (火) 00時23分 [返信]

つい最近発表された報告です。
花崗岩巨石の基礎文献として、永久に残る世界的文献と思います。こうゆう情報がインターネットで簡単に見られるというのは本当に現代の幸せです。

池田 碩(2017)1995.1.17 大地震と六甲山地 - 近畿地方整備局 - 国土交通省

www.kkr.mlit.go.jp/rokko/disaster/pdf/20y-from1995.pdf

阪神淡路大震災の地震動による花崗岩巨石の破断移動例です。
巨石については、p21〜28、p170ごろからp273あたり。

No.336 巨石記録 花巻市高松 鞍掛石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年03月07日 (火) 20時03分 [返信]

鞍掛岩  
花巻市高松 鞍掛区入口交差点
 N29°23′36.02″
 E141°11′00.37″
20130924調査
 釜石街道を走っていたら石があるのが見えた。
 集落名は鞍掛。集落名の元になった火砕岩の岩塊。
 民俗的ないわれもあるものと思う。
 しかし、名称看板しかないので、いわれ不明。八幡太郎が関係かも。
東和町史にも記載が無かった。
・周辺の地質は、花崗岩を不整合で覆う稲瀬火山岩類:下部中新統と、それを不整合に覆う金沢層:鮮新統との境界付近。
・火砕岩の岩塊、岩種:火山礫凝灰岩。略直方体。・長辺約2.0m 短辺 0.8m 高さ1.0m 位。岩相から見ると、稲瀬火山岩に当たるのかも。
・盛り土の上にあり、移動されている。
・道路新設の際に動かされたのかも。移動時期は、看板の設置年度平成3年かもしれない。

結論
 自然・歴史両面ともデータ不足。よく分からなかった。

No.335 田代川の「二ツ釜」の紹介 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年02月22日 (水) 11時37分 [返信]

小櫃川源流にかってあった林業軌道を調査している、ヨッキれん氏の踏査結果に、田代川源流の川廻し滝、仮称「二ツ釜」の情報が載りました。
 有名なサイトですのでご存じの方も多いと思いますが、是非ご覧下さい。
http://をつけて、
yamaiga.com/rail/motokiyosumi/main16.html

yamaiga.com/rail/motokiyosumi/main17.html

 その前の記録を見ると、ツボイ沢水系の、本流、ホンツボイ沢、コツボイ沢の様子も知ることが出来ます。そのあたり興味ある方は必見。

No.334 濃溝の滝の紹介文を書いた。 投稿者:滝おやじ    投稿日:2017年02月19日 (日) 15時19分 [返信]

亀岩の洞窟・濃溝の滝

 君津市笹、清水地区所在。小櫃川支流笹川が、素掘りの河道短絡トンネルを滝となって流れている川廻しトンネルである。画像は観光化以前の1995年撮影。
 「川廻し」とは、江戸時代に曲流河川の曲流部をトンネルや堀り割りで人工的に曲流短絡し、曲流跡を埋め立てて水田化した新田開発工事のことで、上総地方の曲流河川で約450カ所も行われた。同様の工事は、新潟県の第三紀丘陵地の河川でも多数見られ、「瀬替え」と呼ばれている。
 この工事の結果、曲流部(フルカワ)の水田、短絡部(シンカワ)の堀切やトンネル、フルカワとシンカワに囲まれた、分離丘(ナカジマ)などの特異な景観が各所に残され、上総地方諸河川の特異な景観となっている。
 川廻し以前の笹川は、画面奥から流れてきて、トンネル向こうで曲がり、画面に見える護岸部分(埋め立てた跡)を画面左方へ流れていた。その先で曲流して向きを変え、トンネル手前にかけて、画面左手より流れてきていた。
この場所で、導水溝として長さ30mの堀り割りを作り、その先に、長さ30m、幅10m、高さ6mのかまぼこ形断面のトンネルを掘り、トンネル出口は落差5mの滝にして落として、笹川を短絡したのである。工事の結果、長さ約900mの細長いフルカワができ、約3町歩弱の水田ができたようである。
 現在の滝は、当初の滝がその後の侵食で変形し、最長で約30m後退した形である。

 川廻しのトンネルや滝には、名前が付けられられることなど無く、この滝も最近まで無名であった。
 片倉ダム・笹川湖の建設(2002年完成)に伴い、国道脇に清水渓流公園が作られ、地元の方々により、観光名として、公園に隣接するトンネルと滝が、「洞窟の滝」と名付けられ、その後、小字名「濃水」から「濃溝の滝」、亀の形が見えるというのでトンネル名が「亀岩の洞窟」となっていった。
 特に最近、トンネルから差し込む光がハート型を作る写真で有名になり、急に著名な観光スポットとなっている。新地名の発生という点でも興味深い。

No.333 落ちてきた巨石のニュース 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年02月15日 (水) 10時35分 [返信]

熊本地震の落下巨石にまつわる面白ニュース
http://mainichi.jp/articles/20170214/ddg/041/040/009000c

どれも興味深い。

No.324 巨石紹介:福島県郡山市西田町 鹿島神宮神体石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年01月27日 (金) 21時49分 [返信]

花崗岩の巨石地形事例を集めるため、福島県の阿武隈花崗岩露出地を廻っています。
 この地方の巨石の事例は、インターネット上のyo-hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」 (http://hamadas.exblog.jp/ 20130522現在)から所在情報を得ています。
 あわせて、HP「巨石巡礼」の「鹿島大神宮のペグマタイト岩脈」
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/020_kashima/kashima.htm 20130805現在 も参考にしました。
 この巨石はペグマタイトからなり、両氏の画像で見ても、普通の花崗岩とは異なった微地形をしていることは明らかですので、他に事例の無いペグマタイト巨石の微地形として、ついでに訪れてみました。
 結果は、花崗岩マサ砂中に、残存していたペグマタイトの露岩が、尾根先端の小峰として残っていました。岩脈としては線で露出してなく、個別の小岩体として点で残存しており、峰の山頂付近にのみ露出していました。
 露出岩体の表面微細地形は、岩体に多数の割れ目が入り、それに沿って割れた、角張った細かい破断形が卓越し、風化には抵抗性があるが、侵蝕には余り強くない岩石と思われます。
ここでは岩脈の厚さが10m以上ありますが、未風化花崗岩体の中に薄層としてある場合は、侵蝕弱線となると思われます。
 また、花崗岩コアストーンのような、特有の風化侵食形を示すこともありません。

画像1 社殿脇の神体石
画像2 ペグマタイト岩塊
画像3 巨石位置鳥瞰図

<諸元> 
20130809  調査・撮影 単独
名称 郡山市西田町丹伊田 鹿島大神宮 神体石(屏風石) 
   「鹿島神社ペグマタイト岩脈」として国の天然記念物指定されている。
所在 福島県郡山市西田町丹伊田字宮作239  鹿島大神宮境内の本殿裏
   丘陵性山地の尾根先端小峰〜山腹
地形図 2.5万「三春」 郡山市の地図はない。
緯度経度  N37°28′37.39″ E140°27′58.28″
標高350+m  (つづく)

No.325 <位置と周辺の地形> 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年01月27日 (金) 21時54分

 鹿島神宮の場所は、2.5万地形図「三春」で、「鹿島神社のペグマタイト岩脈」の注記がある。
 国の天然記念物で案内看板が各所に立っていて、鹿島大神宮の入口(Pの位置)まで簡単に行ける。
 周辺の山は、阿武隈山地の花崗岩のマサ砂でできたなだらかな砂山です。
 稜線は、標高350m+、東の山は標高380m+。
 岩脈の露出地は、そのなだらかな山並み稜線の枝尾根先端の小峰頂上です。
 図は、鹿島大神宮の山の鳥瞰図です。
 グーグル地図・写真から作ったので、2.5万地形図と標高が少々違いますが、まあ、気にしない。(^_^)
 社殿が山の頂上の直下にあり、ペグマタイトは、南北方向の岩脈の形で山頂に露出しています。あとは、全てマサの山。
 指定物件なので、岩石は割れないですが、境内に境内の造成工事でできた、割れたペグマタイト断片がたくさん落ちているので、岩相の観察には不自由しませんでした。
画像1 地質+位置図
画像2 境内のペグマタイト破片
画像3 境内のペグマタイト破片

No.326 ペグマタイト岩脈の産状 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年01月28日 (土) 17時42分

 ペグマタイト観察場所は、社殿脇の境内地で岩脈の下部を、踏み跡で登れる社殿裏の峰頂上で岩脈上部を見ることが出来ます。
 山頂は、地下の岩脈に沿って4面の露岩塊が散在し、山腹では、幅14mの岩脈断面が3面露出しています。

画像1 社殿脇のペグマタイト
画像2 山頂のペグマタイト
画像3 山頂の峰地形とペグマタイト露岩

No.328 <ペグマタイト岩脈の地質的説明> 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年01月29日 (日) 23時10分

画像1 ペグマタイト案内銅板解説
画像2 郡山市の文化財解説看板
 ペグマタイト岩脈とは、ということで、郡山市の出している文化財解説書と境内の看板の文面を出します。
 岩石・鉱物学的説明が主で、地形学的説明は、ほとんどなく、太字の部分ぐらいです。まあ、地形が指定されているわけではなく、岩石の露出が指定対象なので、無い物ねだりなのですが・・・。
 ペグマタイト岩脈の巨石とは、どうゆうものかについては、この次の書き込みで、私の観察を書きます。

最初は、境内の露出脇の銅板解説。地向斜が出てきたりして、内容は古いですが、一番詳細です。

(1) ペグマタイト案内銅板解説
コンクリートはめ込みの銅板に線刻。全文読めました。
以下、翻字結果。

碑裏の、建立年月日、建立者等を撮影し忘れ。(^_^;)
鹿島神社ペグマタイト岩脈 案内板銘文
ペグマタイト岩脈
 この岩脈は花崗岩の一種で巨晶花崗((ママ))ともゆう、
この種の岩石は、地球上において地向斜といわれる凹地を形成し、そこに厚い堆積岩を堆積したような地殻の比較的不定な地域すなわち造山帯の弱線に沿って迸入した。
 阿武隈山地は日本でも最も有名なペグマタイトの産地であるが、このような弱線は高原西縁部に稍南北に、北は宮城県伊具郡大張村より 福島県伊達郡白根村、霊山町 川俣町 東和村を経て郡山市西田町、高瀬を過ぎ 宇都峯山を通り 須釜村に達し 更に南下して野木沢 石川町を通って山橋 鮫川村を貫き 塙町に至るときはその勢が弱まり、二つに分離 その一つは茨城県多賀郡高岡村に、他は久慈郡賀美村に達する。その全長は一四〇粁に達す。多くのペグマタイトはこの弱線に沿って迸入し、その大さ 形状は種々様々である。構成鉱物は石英 長石 雲母等を主とするがその上部は又は縁辺部は長石 雲母 等 の外に電気石紅柱石ザクロ石キンセイ石モナズ石サマルスキー石 ヘルグリン石等ウラニウム、トリウム、イットリウム等の稀元素を含む鉱物を含有するも((ママ))のが特徴である。
 現在見られるこのペグマタイトは、岩体下部に相当し 主として石英の結晶の集合体であるが、一部に長石も残存する。 この岩石が生まれてから約一億年の時が経過し その間に地殻の変動、風化 侵蝕のために地表に突出したものであるが、その間の歴史は岩肌に強く刻み込まれている。これらの岩石を構成する石英及び長石は、光学レンズ 陶磁器等の重要な原料であるために、殆ど採掘し盡され このような雄大な自然の状態を示すものは稀である。従って このペグマタイトは学術的研究資料として貴重なるものである。
                       福島県文化財専門委員
福島大学教授 理学博士 三本杉己代治〔印〕

(2) 郡山市の文化財解説書
 神社入り口の、ペグマタイト岩脈看板にも同文が載っている。
 郡山市教育委員会編:郡山市の文化財 保存版 p104

94 鹿島神社ペグマタイト岩脈
郡山市西田町丹伊田字宮作239 昭和41年6月11日指定・・・1966年
所有・管理者 鹿島大神宮 tel 971-3276

西田町丹伊田の県道沿いに、杉の古木でおおわれた鹿島大神宮があります。
西田町丹伊田の県道沿いに。スギの古木でおおわれた鹿島大神宮があります。この境内のいたるところに純白の巨岩があります。これが石英や長石を主成分としたペグマタイトの岩脈で、露出している面の延長は約40m幅14mにおよび、地下10mまでこの岩石があるものと推定されています。
 現在見られるこのペグマタイトは、長い年月をかけての地殻の変動・風化・侵食のはたらきで地表に表れたものです。
 阿武隈山地の隆起運動にともなって花崗岩が貫入し、その末期にペグマタイトが貫入し、ゆっくり冷えて、非常に大きな結晶となったもので「巨晶花崗岩」とも呼ばれます。
 かつて、西田町から安達郡白沢村にかけての阿武隈山地は、ペグマタイトの産出地でしたが、その多くは、工業用原料として秤堀|されました。
しかし、ここには約14,000tと推定される量が、現在でも保存されており、大変珍しく貴重なものです

No.329 <ペグマタイト露岩の地形的記載> 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年02月01日 (水) 19時44分

画像1 岩脈の平面図と岩脈方向から見た正面図
画像2 岩脈方向から見た縦断図
画像3 再度掲示:岩脈末端の押し出し破断地形。破断岩塊が木に倒れかかっている。
 前回の岩石鉱物学的説明は、地下で出来ているペグマタイト岩脈の紹介であるわけですが、それが地表に露出して巨石となっている状態、その巨石化の過程については、何も書いてありません。つまり、巨石の材料としてペグマタイト岩脈を考えると、どんな性質であるかということが、地形学的説明ということになります。
 しかし、私の管見によれば、こんな特殊な稀な地形について、調査などした方はいず、まだ誰も述べたことがないのではと思っています。
 勿論、私も知りません。(^_^;)
 実際に露出しているペグマタイトの微地形・微細地形を観察して、一般化していく作業が必要です。
 以下は、この作業の第一歩としての、この露出地の事例観察です。 

 まず、岩脈オーダーの微地形について。
 上述のように、ペグマタイト岩体の露出は地表1カ所で、標高350m+の小峰の山頂部から、神殿境内まで比高13mぐらいの露岩列をなしています。
 露岩と周辺の微地形の関係をスケッチし、まとめてみました。
(1) ペグマタイト岩脈が露出するところは、突出して、山頂では四面露岩、山腹の境内では三面露岩となっています。あとは、ローム混じりのマサ砂です。マサ砂よりも硬いので侵食に抵抗して峰になっているのは明白です・・・正面図参照。
(2) 峰と言っても小さなもので、周辺マサ山の方が高いので、ペグマタイトがそんなに侵蝕に強いわけではありません。岩質は硬くても、割れ目が非常に多く砕けてしまうためでしょう。

岩脈の崩落微地形
 山頂まで登り、岩脈の上に立ってのぞき込んでみると、山頂直下で、岩体が割れて、ブロックが下にすべって、山頂直下に小さな段地形を作っています・・・平面図参照。
 ペグマタイト岩脈が地表より突出しているため、自重により境内地側へすべり出したためで、すべり面はすでに沢山ある岩脈の横断方向の割れ目を境に滑ったものと思われます。
 岩脈の見学者に印象的な、境内の大木の幹に、岩脈の前面の岩塊が分離して、倒れかかっている光景は、この動きの結果と思われます。
 すなわち、この滑り出しによって、山が膨らみ、岩脈が全体的に境内地に向かって押し出し、岩脈前面が割れて、その一部が倒れ、境内の木の幹に倒れかかったものです。
 この倒れかかりは、ごく最近のことと思われ、境内地の整備により岩脈の下方の支えの地山が削られたことによる可能性が高そうです・・・縦断図山椒。
 このへん聞き取り調査をしたら面白そうです。

まとめ・・・ペグマタイト岩体の露岩の地史
(1) 地中のペグマタイト岩脈とその周辺のマサ砂が、侵蝕により地表に露出。
(2) 岩脈は均質・巨晶の風化しにくい石英からなるので、周辺のマサより硬く地表に露出する   と露岩となり、露岩の脈に沿って尾根に細長い小峰が形成される。
(3) ペグマタイトの露岩は、硬いが、そもそも割れ目が無数に入っているのでポロポロ割れて   しまい、峰の高さは低下する。
  露岩の白銀色の輝く地肌は他に無い景観で、信仰を集め、鹿島神社が作られる。
(5) 鹿島神社社殿が整備され、境内地が地山を掘り込んで形成される。
  岩脈下方の地山の除去により、支えを失った岩脈が滑り出し、境内方向にすべり、岩脈前  面の一部が分離して倒れる。(続く)

No.330 4.ペグマタイト岩脈露岩の表面形 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年02月09日 (木) 00時59分

画像1 ペグマタイト破片
画像2 ペグマタイト岩塊表面
画像3 ペグマタイトの破断

岩脈の表面形など微細な形についてみてみます。

(1) ペグマタイト岩脈露岩の外見(岩肌の色)
 岩肌が白い岩石には、チャートの一部あるいは石灰岩などがありますが、巨晶の白色半透明の石英からなるペグマタイトは、それらとはかなり違った肌の色に見えます。
 チャートや石灰岩とは違って、露岩表面の岩肌が、均質で硬そう、磁器のように白く・・・私は牡蠣の殻の内側の色を連想しました・・・かつ、新鮮な割れ口は、白銀色にギラギラと輝いて見えます。こんなギラギラの岩石はありません。すごく、特殊な石の肌色だと思います。⇒画像参照。

(2) ペグマタイト岩脈露岩の外見(割れ方と岩塊の形)
 岩肌の形についていうと、岩質は硬いのですが、無数の割れ目が入っていて、非常に割れやすい岩石だといえます。
 四角い網目状に冷却節理割れ目が発達していて、それを境にポロポロと崩れています。4〜5cm幅の割れ目が一番卓越していますが、その割れ目形の中に、また、より小さな割れ目が縦横に入っていて、より細かく割れており、最終的には一辺5mm位のサイコロ状のかけらになるようです。⇒画像参照。
 岩脈には、より大きな幅で、互いに直交する割れ目群が2〜3mの幅で入っていて、そのぐらい大きさの直方体の岩塊に分離しています。
 それら、大きなサイコロ状岩塊の露岩が、更にその表面が4〜5cmの小さなサイコロ状に割れているといえます。 ⇒画像参照

No.331 ペグマタイト露岩の微地形・・・まとめ 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年02月10日 (金) 13時54分

(1) ペグマタイト岩脈の露出により形成される地形
 地表に露出せず、地中にある状態では、ペグマタイト岩脈は、岩脈周辺の花崗岩体がマサ化していくのに対して、、マサ化せず、岩脈そのままの形を保つと考えられます。その結果、岩脈が地表に露出した段階では、周辺のマサ砂より硬く、地表での突出部分になります。
 地表露出後は、岩脈内部に元々割れ目が大小無数に入っているため、それに沿って破断し、露岩表面サイズとしては、縦割れの割れ目によって分離した小岩峰・岩塊の集合体となります。
 小岩峰は平面は方形で、上面は小サイコロ状の岩片が破断して角錐形、屋根型になっています。
 岩塊・岩峰の表面形は、一面に凸凹で、イコロ状の小破片が抜けた跡の表面形となる。

(2) 巨石地形の中での、ペグマタイト地形の位置づけ
 巨石としてみますと、地中で形成されたコアストーンのような、特有の風化形を作らない。また、地表露出後は、一応特徴的な岩塊微地形を作るが、細かい割れ目が多いせいでどんどん崩れてしまい、大きな巨石にはならない。
 火砕岩のように丈夫な岩体でなく、大きな露岩を作りません。また、花崗岩のような特徴のある形をも作りません。そんなわけで、一言で言えば、巨石調査対象としては取り柄がない岩種だと思います。
画像1:ペグマタイト岩塊(現地性)の表面形
画像2:ペグマタイト岩塊(小移動)の表面形

No.321 巨石の地学講座のお知らせ 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年01月16日 (月) 01時20分 [返信]

私事ですみませんが、上記の趣旨の講座を本年も行いますので、ご興味のある方のご参加をいただければ幸いです。 
 以下の講座です。
=====================
名称;信仰巨石の地学観察技能講座1・2
趣旨:巨石信仰の対象となっている日本各地の花崗岩巨石について、信仰化される以前の巨石の成り立ちと変遷を紹介し、観察のコツと技法を紹介します。連続受講優先。
開催日時:2017/2/11(土) 13:00〜16:00 2016/2/12(日) 10:00〜16:00
行事番号:101・102
シリーズ名:地学講座
受付方法・締切日:2016/1/28(土)
開催地・会場:千葉県立中央博物館 研修室
対象・定員:高校生以上・20名
講師 (所属):吉村光敏(館友)

2日に渡る講座で、総時間8時間分。
講座1:花崗岩巨石がどうでき、どう壊れるのかの概説。巨石を地形学の方法に則ってどのように調べるのか、山梨市の大石山巨石群を例に。
講座2:東日本の巨石を例に、主要な巨石の形成史を解説します。
お申し込みの方は、千葉県立中央博物館のHPから、申し込みでも結構ですが、
私の方へ、申し込んで頂いても結構です。その場合は、1/28過ぎでも大丈夫。(^_^)
上にメールアドレスがあります。・・・この掲示板は、アドレスを書くとはねられてしまうので、すみません。
画像は、山梨市大石山の甲石巨石群破断状況。元は1つの巨大岩塊だったのが炸裂破断
==========================
<補足>
・名称は、「信仰巨石」という、未消化な名前ですが、一般の巨石でなくて、信仰対象になっているような巨石の地形学という意味です。
 信仰対象になっている花崗岩巨石というのは、古人が不思議な立地だなあと思うような、マサの山地にポツンとある微地形(巨岩)なので、花崗岩地形としては地形学の対象としてほとんど取り上げられてこなかった場末の地形です。
・私の歩いた東日本の巨石を対象にして、巨石がどうできたのか、それをどのようにして調査するかということ、いったん形成された巨石が、古地震や重力風化などにより破断しつつある現在の姿をどう解釈するかということを、巨石地形学として解説します。
ちなみに、人工の巨石は1つもありませんでした。大石はありましたが。
・2日連続、土日なのは、もしかして遠方からの方がいらした場合、1回ですむようにとの考えです。1日目の夕方、懇談というのもありかも。遠方の方には、宿泊の手配もしたいと思います。
・この講座は、巨石愛好者向けを主に考えています。巨石の愛好者が、人間が発見する以前の巨石について考えるため、知るための基礎となる地形学知識と考え方を紹介するものです。まあ、「磐座前史」の考え方と知識として、皆様の巨石を観る目の足しになればと思います。
・講座としては、2年続きで巨石をやりますので、来年は別の主題になります。また、その次は、私が生きているかどうか心許ないので、今回の講座が最後の話になるかも(^_^;)。
・信仰巨石地形の調査を志す方が出たらいいなあと思ってやっています。

No.332 講座修了しました 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年02月13日 (月) 22時41分

2月11,12日の講座無事終了しました。
御参加頂いた方々ありがとうございました。
2日で延べ27名の参加を頂きました。このぐらいの人数が話しやすくていいです。質疑応答も多くできて良かったです。

No.320 今年の年賀状です 投稿者:滝おやじ    投稿日:2017年01月15日 (日) 16時12分 [返信]

奈々久良(ななくら)の滝
茨城県常陸太田市折橋所在。阿武隈山地南部竪破山の山腹、里川水系天竜川支流大沢の源流にある。阿武隈花崗岩の岸壁に懸かる3連の滝で、全比高約15m。支流の懸谷の滝。本流にはほとんど水がないのに対し、年中水が涸れず、竪破山の奇瀑といわれた。
 滝の上流が河川争奪地形で、他の支流の流域を横取りしているためで、意外にも、阿武隈山地の滝には河川争奪が絡んでいることが多い。

No.315 2017年もよろしくお願いいたします 投稿者:滝おやじ    投稿日:2016年12月30日 (金) 21時18分 [返信]

2016年後半は、いろいろあって、余り書き込めませんでしたが・・・来年は、ぼちぼち頑張りたいと思います。

No.313 「国石」候補のアンケート 投稿者:滝おやじ    投稿日:2016年07月25日 (月) 00時51分 [返信]

最近、日本地質学会が、「県の石」というのを。制定しました。
http://www.geosociety.jp/ 
 ちょっと話題になったと思います。わが千葉県は、千葉石になりましたが・・・。
あんまり面白くなかったなあ。

今度は、日本鉱物科学会が、「国石」というのを選ぼうとしています。
 http://jams.la.coocan.jp/ishi.pdf 
11候補挙げられていますが、いまならいろいろ意見も言えるようです。
日本には、どんな岩石鉱物がふさわしいかなんて、今まで考えたこともないので、ちょっと面白いですね。
 すぐでてくる「さざれ石」は、さすがに科学的にはどうも、ということなのでしょう。
 断層起源のミロナイトは、ちょっと重いし、うれしくないですね。
 付加体で、枕状溶岩というのもあるかも・・・ダサイか・(^_^;)
 歴史的には、銀鉱、金鉱でしょうけど、品位がない感じ。

 候補になっている、桜石か、双胴水晶ですかね。やっぱり、形にデザイン性があって、色もきれいなのがいいですよね。紋章みたいなもんだし。
 ヒスイは、中国が「俺のだ」と言って、怒りそう。

No.311 滝の調査に関する助言を募集しております。 投稿者:kuri    投稿日:2016年07月24日 (日) 00時43分 [返信]

初めまして。
自分は都内の大学に在籍し地理学を学んでいる二年次生です。三年次生からは地形学を専攻したいと考え、勉強しております。二年次の課題研究において滝の形成プロセスを研究したいと考えています。様々なサイトなどを巡っているうちにこちらの掲示板を見つけ、学外の滝に詳しい方の意見をいただきたいと考え、こうして書き込みをさせていただいております。
質問は二つあります。一つが持ち物についてです。現段階では
野帳・筆記用具・雨具・折れ尺・ルーペ・コンパス・地形図(自作品と1/25000)・カメラ・長靴・手袋・
熊鈴
を予定しております。このほかにあったら便利なものなどございましたらアドバイスをいただきたいと思っております。
二つ目は、皆様は滝を観察するときには特にどういったポイントに着目しているのか差支えがなければ教えていただきたいと思います。
よろしくお願いいたします。

No.312  投稿者:滝おやじ    投稿日:2016年07月24日 (日) 23時57分

滝おやじ
目的と、状況によって、いろいろ変化するのは当然として。
1人で、かつ、沢登りはしない範囲の調査ということなら・・・普通は、沢登り滝登りがあるので、基本、最低1人の、登山沢登り、測量用助手役を同行して行います。1人でできる滝は限られる。
 <持ち物>
安全確保のための携帯。GPS等の器具。長靴(鋲付き)か沢靴かは、現地で判断。
直接調査用具:岩石ハンマー、採集袋。
 筆記用具には色鉛筆。補助ロープ・登山用手袋。ヘルメットとランプ。
 5m箱尺を愛用していますが、持っては滝は登れない。樹高測定用の簡易尺でも使えるかも。場合によっては、50m巻尺が便利、
 携帯光波測距器(角度・距離表示)が必携。コンパスはオリエンテーリング用か軍用が良い。
 地形図・・自作品とは?。地形図に、空中写真判読地形分類と地質図・地すべり図情報を移写した作業図という意味でしょうか。
 市町村発行の1/2500も必携。実体空中写真(コピー)も必携。

 <観察のポイント>
概査と精査で違いますが、滝は、既存情報が貧困であったり不正確なことが多いので、、概査段階をきちんとやる必要がある・・・滝のある川を出会いから水源まで一通り歩いて観察。
 さらに、そもそも、瀑布帯や個々の滝について精査する前に、その滝のある一つの支流とその遷急点という、より大きな地形を把握する作業を欠かさないことが必要と思います。

 地質図・地すべり情報移写と空中写真判読を、流域で行い、現地で岩質等観察。
 出会いから水源までの河床縦断面を作図し、そこに、各滝を記入して、河川遷急点としての滝の位置づけを行う。
 河川遷急点(滝群)の位置と高さを現地測定し、地形図を補正する必要がある・・・地形図(特に、最近の空中写真図化による市町村地形図・・は誤りだらけ)。
 また、滝の地形は等高線式地形図では完全には表現されないので、瀑布帯ごとに、観察による平面地形学図と詳細縦断図を簡易測量で作って行く必要がある。

No.314  投稿者:kuri    投稿日:2016年07月25日 (月) 20時48分

滝おやじ様
お返事ありがとうございました。
詳しいご説明で参考になります。
ちなみに自作の地図とは、国土地理院基盤情報を利用した周辺の5mDEMの地図に等高線をつけ、地質図を写したものです。

No.310 参加募集:等々力渓谷の地形観察会を行います。‏ 投稿者:滝おやじ     投稿日:2016年03月16日 (水) 23時28分 [返信]

私事ですが、来る3月26日(土)、東京都世田谷区の等々力渓谷で、地形現地観察講座を行います。
 朝日カルチャーセンター千葉の、歴史・文学・教養・自然科学講座です。(^_^;) 有料4,104円 ('_')。

 等々力渓谷は、都内唯一の自然の渓谷ということで、地学系の学生は、一度はいったか、行かされた所だと思います。 この渓谷は河川争奪でできたという話はあったと思いますが、現地観察対象は、渓谷部分の崖に少し出ている地層のみだったはず。
 今回やる講座は、有料で4000円もする・・・カルチャー講座って高い物らしいです・・・のですが、それだけに、損はさせないよう、地質だけじゃなく、というか、地質の話は必要な部分だけに絞って、等々力渓谷の河川争奪により、どのように地形が変化したのか、峡谷の形成史を紹介します。そのため、時間も延べ4時間、観察範囲は、峡谷部だけでなく、その上流の滝のあった所までの2倍。観察対象は、地下水と河川と地層が作る、峽谷の微地形とそれから地形形成史をどう作るか・・・・など、マニアックに迫って、参加しても、元が取れたと思えるようにしたいと思います。
 ちなみに、この内容は、先日、千葉地理学会で発表したのですが、この3月21・22日の日本地理学会でもポスター発表する予定で、パリパリ新事実です。
 懇切丁寧、質問随時、費用対効果抜群、なるほどの目から鱗、を目指して開催しますので、ご気楽にご参加下さい。先着順15人ぐらいまでかも。
 画像は、等々力渓谷を念頭に作った、台地河川の河川争奪概念図
 
講座の名称や申込先は下記の通り
==========記==============
・講座タイトル
峡谷の形、その見方と目のつけ所(現地)・・・都区内唯一の峡谷・等々力渓谷を例に・・・講師
千葉県立中央博物館館友 吉村光敏
・講座紹介
この講座「地表の形、その味方と目のつけ所」は、山の形、滝の形、巨石の形等・・・地球表面の形を解釈して、できかたを考えます。今回は、川の峡谷地形をどう見るかを紹介。実は、今年、目黒区の等々力渓谷を調査したので、それを例に、地形的な見方を紹介します。河川争奪で峡谷が出来て、更に、その後どう変化してきたかという話です。個別の、それも、小さな峡谷の調査例ですが、河川地形の見方として応用が利き、観光旅行、登山が楽しくなるツールになるはず、気楽にどうぞ。
・時期時間
2016年3月26日(土) 10:30〜15:30 注)カルチャーの伝統で、大地震か台風が来ない限り雨天決行だそうです。
・費用
カルチャー会員3,544円 一般 4,164円
・装備
歩き用の靴、汚れることはない、寒さは自衛、昼食は持参・・・大都会の真ん中なのでコンビニあり。
・ご予約・問い合わせ先
朝日カルチャーセンター千葉 043-227-0131 担当石井 前日まで受け付け。

No.309 講座レジメを掲載しました。 投稿者:滝おやじ     投稿日:2016年03月04日 (金) 22時24分 [返信]

 巨石地学講座開催後、当日の資料を見たいというご要望を頂きました。
 また、当日のレジメは、資料代をケチらされ、カラー画像をモノクロ印刷したので、潰れてしまい、凄く見にくくなっています。 参加者へのお詫びの意味でも、カラーの画像にして、以下に当日のスライドを、順番にして掲載いたします。
 上のHomeから、拙HPへ飛び、巨石の見物記ページへ行って下さい。ご笑覧頂ければ幸いです。
 2日に渡る講座で、総時間8時間分ありますので、枚数103枚です。気長にどうぞ。(^_^;)
 スライド映写の前に、前置きとして、地形の見方、考え方の話を、A4資料4頁分したのですが、前置きですので省略します。
当日資料の乱丁・語句修正+少々補足もしたので、当日のスライドと微妙に違っていますが、内容は変化ありません。,
 巨石の産状用語:地中塔や現地性異地性などは、議論の共通用語として広がっていくと良いのですが・・・。

No.307 巨石の地学講座のお知らせ 投稿者:滝おやじ     投稿日:2016年02月04日 (木) 00時06分 [返信]

私事ですみませんが、上記の趣旨の講座を行いますので、ご興味のある方のご参加をいただければ幸いです。
 以下の講座です。
=====================
名称;信仰巨石の地学観察技能講座1・2
趣旨:巨石信仰の対象となっている日本各地の花崗岩巨石について、信仰化される以前の巨石の成り立ちと変遷を紹介し、観察のコツと技法を紹介します。連続受講優先。
開催日時:2016/2/27(土) 13:00〜16:00 2016/2/28(日) 10:00〜16:00
行事番号:125・126
シリーズ名:地学講座
受付方法・締切日:2016/2/13(土)
開催地・会場:千葉県立中央博物館 研修室
対象・定員:高校生以上・20名
講師 (所属):吉村光敏(館友)

お申し込みの方は、千葉県立中央博物館のHPから、申し込みでも結構ですが、
私の方へ、申し込んで頂いても結構です。上の Home をクリックすると、メールアドレスがあります。・・・この掲示板は、アドレスを書くとはねられてしまうので、すみません。

=======================
<補足>
・名称は、「信仰巨石」という、未消化な名前ですが、一般の巨石でなくて、信仰対象になっているような巨石の地形学という意味です。
 信仰対象になっている花崗岩巨石というのは、古人が不思議な立地だなあと思うような、マサの山地にポツンとある微地形(巨岩)なので、花崗岩地形としては地形学の対象としてほとんど取り上げられてこなかった場末の地形です。
・私の歩いた東日本の巨石を対象にして、巨石がどうできたのか、それをどのようにして調査するかということ、いったん形成された巨石が、古地震や重力風化などにより破断しつつある現在の姿をどう解釈するかということを、巨石地形学として解説します。
・講座1で、一般化した話をし、講座2で、事例を紹介します。東日本の花崗岩巨石については、有名な巨石は大体、その成因と破断について紹介できると思います。
・2日連続、土日なのは、もしかして遠方からの方がいらした場合、1回ですむようにとの考えです。1日目の夕方、懇談というのもありかも。
図は、甲府盆地、山梨市石森山の富窟岩塊群展開スケッチとメモ

No.308  投稿者:滝おやじ     投稿日:2016年02月26日 (金) 13時43分

多数のご参加を頂き、定員数よりオーバーで開催することになりました。ありがとうごじました。また、抽選に漏れた方々には、お詫び申し上げると共に、来年亦開催いたしますのでその節にはよろしくお願いいたします。

No.305 謹賀新年 投稿者:滝おやじ    投稿日:2016年01月01日 (金) 13時54分 [返信]

本年もよろしくお願い致します。
画像は、養老川水系筒森川の入知坊の滝。
去年最後に訪れた滝です。川廻しの人工滝で、川廻し完成当時はトンネル水路だったと思われますが、その後トンネル上の岩盤が尾根まで落盤して大きなV字谷になったと思われます。
今年中には、滝の調査まとめたいと思います。

No.294 福島県二本松市立石地区 立石巨石群 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年10月14日 (水) 01時13分 [返信]

<位置>
 花崗岩の巨石地形事例を集めるため、阿武隈・北上山地の花崗岩露出地を廻っています。
 備忘録代わりのまとめ。
 東北地方の巨石の事例は、インターネット上のyo-hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」 (http://hamadas.exblog.jp/ 20130522現在) から所在情報をもらいました。 
この立石もその一つです。
  http://hamadas.exblog.jp/13618095/  
 所在地は、位置図を参照。国土地理院2.5万地形図「安達太良山」図幅に注記しました。
 福島県二本松市立石地区にあり、有名な岳温泉の近くです。
 位置図に示したように、岳温泉への道沿いに案内看板があり、そこから、荒れかけた林道を行って、尾根の肩に登り、巨石の前まで車で行けました・・・2015年4月。
 この尾根は、立石から山を越える、旧二本松街道として利用されていました。巨石のある尾根の肩は、立石集落から急坂を登り切った場所に当たり、集落の山の神が祀られています。また、露岩の立石が集落名の元にもなっています。
 なお、立石集落から直接登る旧街道道は、歩道のみ。
<立地>
 阿武隈花崗岩からなる低い山地の稜線肩にあります。標高約485m。
 残念なことに2.5万地形図にしては珍しく地図の等高線表現が不正確で、稜線の形が正確でありません。
 現地でみると、その稜線の肩は、重力すべり起源と思われる二重山稜地形で、その二重山稜の峰部に、花崗岩コアストーンが露出している地形です。
 二重山稜や、稜線立地などから、コアストーン露岩の露出には氷期の周氷河作用と、稜線効果による裸地化が関わっていたのだろうと思います。

 全景画像は、尾根肩の地点から撮影。前面の浅い凹地が二重山稜の底にあたり、凹地底の道路が二本松街道で、道脇に山の神と刻まれたコアストーンの半切岩塊が、文化年間に石塔として立てられています。なお、最近、林道工事に伴って、山の神塔前の道幅が、さらに拡張され、道沿いの岩塊も動かされているようです。
 画像の右手が、二重山稜の峰部分で、そこにある岩塊群が、立石とよばれる石です。この露岩群の信仰の中心となっていると思われる石で、岩の麓に小宮が祀られています。
 
<コアストーンの破断分解>
 実を言うと、そんなに規模の大きな巨石群というわけではありません。私が、興味を引かれて訪れたのは、この露岩コアストーンが見事に破断して壊れているという点です。
 近接画像は、その立石の壊れっぷりを側面から見上げた景観です。変質者人形(身長1.7mぐらい)を、スケールにしました。
 一見して、元はひとかたまりで、もっと高く聳えていたコアストーンが、破断して周りに落下したり、落ちかかっていると見えます。
 落ちている1つ1つの岩塊について、落ちてきた方向を矢印で記入してみます。すると、砕ける前は、画面に記入したコアストーンAとコアストーンBの2つが少し離れて立っていたと考えられます。コアストーンAは、尖った卵形で、背が高く、コアストーンBは、球形で、こぶり立ったようです。 その後、Aの上部や側面が、バラバラに砕けて落下し、Bの上にものしかかり、さらに、周りに散乱堆積していると読み取れます。
 その辺が面白いので、破断する前の各コアストーン単位で、どう破断しているのかを中心に見ていくことにしました。(続く)

No.299  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年10月24日 (土) 23時33分

<巨石群の位置図>
立石巨石群の概略位置図です。
 現地での簡略測量で作ったので厳密な位置図ではありませんが。(^_^;)
 図のように、西北西〜東南東方向の二つの稜線が平行した、二重山稜地形です。
 その稜線部分に、かってコアストーン起源のゆで卵の半分を立てたみたいな形の露岩が点在していて、それが破断して周辺に散乱している地形と解釈されます。
 図では、現地性岩塊と転落岩塊に色分けしてあります。なお、図では、当初の位置に近い場所にあるものを現地性岩塊としていますので、破断せず当初の位置に留まっている・・・全く動いていない・・・岩塊はごく少数です。
 破断・転落する前の、当初の岩塊位置を考え、その元々のコアストーンごとに仕分けて、岩塊群に分けました。
 位置図に示すように、A、B、C、D、,E、F(山上塔台石岩塊群)、G(立石岩塊群)、の7つの各岩塊群を識別しました。・・・C岩塊群は、単独の卵形コアでなく、それが連続した岩列だとおもいますので、1つにまとめました。(つづく)

No.300 <A〜Gの7つの巨石群> 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年10月24日 (土) 23時36分

<A〜Gの7つの巨石群>
・A〜E および F:立石岩塊群 G山の神塔岩塊群に区分。7つの各岩塊群を識別しました。
・A〜E群は、現地性岩塊が少し破断しているのみ。
・現地性コアストーンの内、特に大きくて立っている、G群(立石岩塊群)が、名の元になった「立石」でしょう。
・立石の周辺に、欠け落ちたと思われる破断岩片が多数散在していて、それらを含めてG群とします。
・D、E岩塊は、それら散在するF群岩片範囲中にありますが、円頭半埋もれ石で現地性の球面岩塊と判断して、F群とは分けました。
・F群:山の神塔台石巨石群。 山の神塔石は、加工して立てた石で明らかに人工。その台石も大きいが、全面破断し、球面を下にした浮き石。一見G群の破断片かとも思えるが、それにしては大きく、台石付近にあった独立のコアストーンの破断したものの可能性があり、また、人工移動・加工されているので別群とします。
・山神塔銘文:「山神塔」「文化三寅天十月十七日」・・・施主名なし。

画像:F群:山神塔台石巨石群の人工加工
台座になっている石と、台石の上に立つ山神塔石は、もと一体のコアストーンが真っ二つになった跡のようです。 ただ、人工加工が激しく、文化三の面は人工カットで、直立する姿は人工に据えられたものと見える。そうみると、塔の石の後ろの石も支えに置かれたもののようで、これは、G群の転落岩片を人工移動して乗せたようですし、台石も都合の良い平面になるように回転させてありそうです。位置そのものが車道工事の際に移動されている可能性もありますね。(続く)

No.301  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年10月24日 (土) 23時48分

<A群>
稜線上に露出している、鯨の背びれのような形の、尖り頭のコアストーンです。地表高さ1.3m 長径2mほど。
 図の桃色部は、コアストーンの風化球面で、緑色部分は破断面。桃色の部分をつなげると、破断前の形が一目で復元できます。
 図に示すように、A・B・Cの3つの岩塊からなり、破断前は3つが一体だったことが分かります。
 Aの形や、BCの離れ具合から、このコアストーンは地下に岩体がずっと続いている根石では無く、マサ中にある浮き石と考えられます。
 また、動けば倒れてしまう形ですので、Aは動いていないと思われ、異地性ではなく現地性の岩塊と判断します。
 つまり、花崗岩体が深層風化してマサになっており、未風化部分が、表面球面のコアストーンとなって、マサのなかに埋もれていた状態で、そのコアストーン単体が侵食により地表に半分露出した状態と思われます。
 立石巨石群の各岩塊は、G群(立石岩塊群)のA(宮の祀られた立石) を除いて、みな、このように、現地性の浮き石コアストーンを起源にしていると思われます。
 破断状態については、コアストーン主部Aの両裾が破断して、岩塊B、Cが分離しているのはよく分かりますが、地下の部分で割れ目がどう続いているのか、掘るわけにもいかず不明です。ちょっと残念。(続く)

No.302  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年10月24日 (土) 23時51分

<C群>
C巨石群の景観です。
破断した岩塊の多くは、南側の谷に転落してしまったようで、付近には見当たりません。
稜線部に残っている岩塊の様子から、以前は、マッシュルームのような球形のコアストーンが並んでいたらしく思われます。
 その割れ方ですが、D1,D2、A1,A2のように、単純にパリンと割れて、お互いの破片が近くにあるというのは少なく、大部分は、割れた破片の片割れが近くに見えないような、もっと激しい爆発的な割れをしたように思われます。(続く)

No.303  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年10月27日 (火) 11時42分

<F群・山神塔台石岩塊群>
F群の景観です。
画像の手前が林道で、林道脇の岩塊は一直線に並び、林道工事で動かされているのは明白。
 山神塔本体は、江戸時代文化年間に加工して立てられたもの。
 山神塔の台石も,石の下に平らな岩片を重ねて敷いた上に乗せて台石にした感じで、、前の書き込みで画像を示した側面観からも、山神塔と台石ごと林道工事で、脇に移動されているようです。
 山神塔とその台石の元は、G群の破断岩片かもと思いましたが、後述するG群の破断復元結果から見て、G群とは別の単独のコアストーンであったもののようです。
 B群が残片のみの岩塊群なので、単なる可能性ですが、B群のあたりにあったものを移動したのかもと想像しています。(続く)

No.304  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年11月20日 (金) 13時17分

<G群・立石神体石岩塊群 東面>
G群の東側から見た景観です。画像とスケッチ図で示し、各岩塊に名称をつけました。
 スケッチ凡例
桃色着彩面:地下でのコアストーンの風化球面。
緑色面:露出後の破断面。
橙色面:、桃色面と同じ風化球面か、あるいは、コアストーン球面に平行に殻状に破断した破断面かが未定のもの・・・前者の可能性の方が高そうです。
赤線:元の位置からの転落移動方向です。

・G群岩塊群の概要
 立石神体石(G群)岩塊群は、岩塊A〜Kに分離しています。
 前述したように、これらは元は2つの露出コアストーン(名前をGA、GBとします)があり、それが破断して、A〜Kの乱雑積み重なり・散在した岩塊群になったものです。
 GAは、H以外の岩塊の元で、動いていない岩塊B・Cと、その上に乗っていたAを中心とする位置にあった大きな立石の露出コアストーンです。GBは、その西に近接して立っていた球状の小型の露出コアストーンで、現在はGAから転落してきた岩塊の下敷きになり、岩塊H1〜3に割れています。
 GA、GBとも、勿論現地性で動いていませんが、底に岩が続いている、根石のようには見えません。ただし、そうであっても、岩の規模から見て地下すぐに地中塔の頭がある思われます。
 この向きからの眺めでは、GBは見えず、尾根二重山稜稜線の肩上にある旧GAを、尾根の下から見上げるアングルになります。

・東面で見られる破断の様子
 図に示したように、岩塊B1、B2・・・割れ目が入って2つに分離している岩塊、岩塊C・・・表面に神像が浅い線刻で刻まれている、が、動いていない状態で立石を構成しています。その上に乗っていた岩塊AはBCの後ろに落ちているので見えません。
 手前右の落下岩塊Kは、岩塊Aの上か脇に付いていたものが落下したと思われます。
 手前左の落下岩塊Iの形と、立石Cの断面形が一致する・・・・Cの点P・Qと、岩塊IのP1・Q1とが対応する・・・・ので、岩塊Iは、岩塊GA南東側の三角形の破断凹みからの岩片です。
岩塊Iの近くの、岩塊J、岩塊Gもその凹みからの破片と云うことになります。
 落下岩塊E・Fについては、岩塊Bあるいは岩塊A唐の破断ですが、南面の景観解説の際に述べます。 
 各岩塊の破断状況を見ると、各岩塊の破断面は、節理面の開口による面ではなく、微妙に凹凸のある曲面で、節理と関係なく大きく破断した面です。
 また、岩塊I・J・Gは同時に破断転落したと思われ、移動距離や破断の様子から、単純に剥がれ落ちて落下衝撃で割れたにしては移動量が大きいと思われます。
 さらに、岩塊I・J。Gの抜けた跡である、岩塊B・Cの破断面も、一見垂直の節理面のようですが、垂直の開口破断割れ目と思われます。
 これらのことから、GAからの各岩塊の破断は、地震動による炸裂破壊の可能性が高いと思われます。

No.280 福島県鮫川村 天狗橋の巨石・遷急点 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年09月19日 (土) 14時18分 [返信]

 花崗岩の巨石地形事例を集めるため、阿武隈・北上山地の花崗岩露出地を廻っています。
 備忘録代わりのまとめ。
 東北地方の巨石の事例は、インターネット上のyo-hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」 (http://hamadas.exblog.jp/ 20130522現在) から所在情報をもらいました。 この巨石・天狗橋もその一つです。
 http://hamadas.exblog.jp/13684097/ 

IN上で検索してみますと、福島県の緑地環境保全地域であり、ふくしま緑百景にもなっていて、景勝地として知られ、鮫川村の観光地であるとのこと。
 鮫川村の公式ホームページ www.vill.samegawa.fukushima.jp/page/page000112.html での記述=======
 <観光情報 天狗橋(てんぐばし)>
 その昔、天狗がかけたと言い伝えられる「天狗橋」は、長さ7.9メートル、幅4メートルの自然の石橋です。橋の周辺はイヌブナやアカシデ、コナラなどの 古木がうっそうと生い茂り、涼しい空気が漂います。また、遊歩道沿いには多くの山野草が咲き、訪れる人を楽しませてくれます。
 橋を中心とした0.87ヘクタールの地域は、昭和59年6月に福島県の緑地環境保全地域(第1種地域)※に指定されています。
===========
 画像のように、巨石が破断して川底に横たわっていて、石橋になっている変わった形の巨石とのことです。
 どうしてこうなったのでしょうか・・・人工なのか、自然なのでしょうか・・・面白そうです。
 さらに、所在位置を地形図で調べてみますと、河川の遷急区間の頂部(狭義の遷急点)にあるらしいことがわかりました。
 巨石の立地にかんして、尾根や斜面の遷急点に関連した巨石はいくらでもありますが、河川の遷急点に関連した巨石は珍しいので、興味を引かれました。
 もっとも、これはマニアの私の興味で、いまどき天狗が作ったと言われて驚く人はいるわけもなく、まして、現地にその現象を解説する解説板も何もないので、私が訪れた時も、観光客が数組訪れていましたが、皆、一目見てさっさと行ってしまいました。
(つづく)

No.281  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年09月20日 (日) 23時55分

 天狗橋の所在地を位置図に示します。5万図幅「竹貫」の南西部、2.5万地形図図幅「磐城新宿」にあたります。
 鮫川村赤坂東野 字蕨ノ草で、位置図の、鮫川本流沿いの遊歩道が川を渡る部分に当たります。 標高540m付近。
 周辺の地形は、阿武隈山地の南西部にあたり、阿武隈花崗岩がマサ化した低い山地です。この山地は、阿武隈小起伏面の中位面(620m前後)と下位面(530m前後)の境付近にあたります。
 天狗橋は、その山地を侵食している鮫川の谷底にあります。その谷底の地形は、位置図に示すように、3種に区分されます。
 (1)高位沖積谷底 : 図の緑色。標高540mを下限とする床谷地形の谷。沖積谷で、谷底は水田化されています。
 (2)低位沖積谷底 : 図の黄色。標高500m以下の床谷地形の谷。沖積谷で、谷底は水田化されています。
 (3)遷急区間 : (1)と(2)の谷底面間の欠床谷地形のV字谷峡谷部分。図で赤色で示した。標高540〜510m、比高30mほどの遷急区間。この遷急区間を、「天狗橋遷急区間」とよぶことにします。
 この遷急区間は鮫川の本流にありますが、位置図に示すように、鮫川の支流の谷にも、同時期の遷急区間が各所で認められます。
 あと、遷急区間は、前述した山地小起伏面の境にあたります。その成因的関連については後述します。
 また、このような谷の勾配が大きくなる遷急区間は、阿武隈山地の河川では夏井川などを典型にして、下流から上流にかけて5〜6段見られます。鮫川でもすぐ下流にもう一段あり、「強滝」という景勝地になっているようです。
 河川の遷急区間の数は、その地域の山地の形成しに対応して地域差があり、私の地元の房総丘陵の川では、遷急点1つが普通で、多摩川のような関東山地の川は2つが普通と思います。(つづく)

No.282  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年09月21日 (月) 12時34分

高位沖積谷底の景観
天狗橋遷急区間上流に広がる床谷地形です。遷急区間上流の草木橋上から望む。
位置図の草木集落下の谷底で、水田化されています。
 周りの山地は、花崗岩マサの山。
画面右の緩斜面は、畑や集落に利用されている麓屑面地形です。この地形は氷期に形成されたものかもしれません。
 阿武隈や北上山にはよく発達していますが、私の地元房総半島の侵食谷底には発達が悪く、あっても高さが低い。

No.283  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年09月23日 (水) 00時01分

 最初の画像では、「天狗橋」というのがよく分からないという声があったので、側方からの画像を示します。
 上流側から見た景観。巨石の下が川になり、橋として利用されているのが分かります。
 橋になっている巨石とその左の木の生えている巨石、および人物像の後ろの破断割れ目のある巨石は、いずれも丸みのある表面が見てとれ、大きなコアストーンの破断したものであることが分かります。
 たしかに、珍しい景色です。ただし、花崗岩の渓谷で、河床が土石流で運ばれたり、転落してきた大きな角張った岩塊が積み重なって、谷底を埋めている場所を沢登りで通過する際に、巨岩の下がトンネル風になっているのを見たり、くぐった経験のある方は多いと思います。
 そのような、花崗岩角礫が作るトンネル地形の、丸石版といえそうです。

 後述しますが、現地での観察で、これらのコアストーン破断片は、画像右手枠外の斜面上部から転落し、画像右手の崖錐部分を転がり落ちてきて、鮫川の河床に落ち込んで破断し・止まった岩塊であると結論しました。
 ただし、それだけでは、石橋にはならないですが、転落・堆積後の石橋化についても、後で述べます。(つづく)

No.284  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年09月23日 (水) 19時03分

 天狗橋遷急区間の景観 画像は遷急区間の急勾配河床と、河道両側のV字谷斜面下部。
 比高約25mの遷急区間は、谷幅が河道幅と同じ、欠床谷になっています。河道両側の谷斜面は、森林に覆われたV字谷地形で、下部は崖錐が連続する。
 画像に見えるように、河床にはびっしり丸い巨石が積み重なり、川の水が石をよけつつ小さな段々をなして流れ下っています。これらの丸石は、斜面上部のマサとコアストーンの崖に露出していたコアストーンが、転落してきたものです。大きな岩塊ほど崖錐末端に集まるので、崖錐末端にあたる河床に、コアストーン起源の丸みの面を残す破断礫が河床に集積します。
 画像手前の木や草の生えた巨大岩塊も移動してきたものだと思われます。
 普通、遷急区間地形は硬い岩石が露出することで、滝場となり、岩盤河床であるのが通常で、阿武隈山地でも各所に見られます。
 それに対して、天狗橋遷急区間の河床は岩盤ではなく、花崗岩の風化したマサ砂で、斜面から落ちてきた未風化コアストーンが河床に集積して岩盤の替わりをしているという珍しい地形だと思います。
 岩塊が1個や2個なら、洪水時に押し流されてしまうでしょうが、この区間では河床に多数のコアストーンが供給され、それが互いに組み合って河床を固め、河床の変化を止めているので、遷急区間の地形変化が起こらず、遷急区間が保存されているということができます。(つづく)

No.285  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年09月24日 (木) 20時29分

画像は、天狗橋脇の杉植林碑
 <現地解説板についての感想>
天狗橋とその遷急区間は、上述のように、マニアックな地学的見地で見ると、なかなか珍しい、興味ある景観です。しかし、勿論のことそれに関する解説板などありません。
 では、生物方面で、「天狗橋緑地環境保全地域」になっているので、そちらの紹介があるのかというと、「天狗橋緑地環境保全地域につき、□□すべからず」の看板が1枚あるのみ。
 一般観光客(県民)に、石橋の驚異や、この林の価値と保全の意味を、興味を持って分かってもらうような解説看板の設置を望みます。
 そもそも、緑地環境保全地域には、事業として保護の観点はあっても、紹介する観点は乏しいようですね。INで検索してみましたが、緑地環境保全地域について、福島県のHPには、ほとんど情報がありませんでした。
 県の一覧表に、「S59.6.15指定 第1種 0.87ha 天狗橋と一体になった自然環境」 とあるのみで、それより詳しい解説は見当たりませんでした。
 もう一つ、ここは、「ふくしま緑の百景 天狗橋の緑」というのになっていて、その石碑があります。
銘文:ふくしま緑の百景 天狗橋の緑 昭和60年6月選定 主唱 福島民報社・福島県緑地推進委員会 きれいな郷土 みんなの願い、東北電力
 こちらも、解説はなし。
 というわけで、現地には、地域を知る情報装置がほとんど無いのですが、唯一、いわくありげな仙台石の板碑・・・画像参照・・・があって、「天狗橋植林の記」と刻まれていましたので、紹介します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 〔表面銘文〕
 天狗橋植林の記
鮫川の上流 渓谷林相の美を極めるところ 一大巨石をもって架する橋がある 人よんで天狗橋という この地はもと国有であったが後にこれを村有とした
 ここに本村議会の議に因り 周辺の山に杉を植えて村有林とする
 以って後世村民の福祉に資せんとするものである 天然の美 人心の和を加えて 美わしき村の源泉とならば幸甚である
 昭和三十四年四月 鮫川村長 石田卯子八識
〔裏面銘文〕
 事業概要
施行面積 三町 反 畝
植樹本数 杉 七三◯◯本
施業□□ 昭和三十三年四月
 □樹□□実施者
鮫川村議会議員
 議長 山形 武
 〔以下 役職人名〕
・・
鮫川村青年会長 ・・・・
鮫川村婦人会長 ・・・・
 □:写真画像から判読できず。 ・・・・:翻字省略。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 以上、昭和33年に鮫川村が杉7300本を植樹した記念碑でした。範囲は3町歩ということで、緑地保全地域の0.87haより3倍以上広い範囲に植樹したとのことです。
 しかし、天狗橋の遷急区間には、下流端に一部杉林がありますが、渓流部の両側の斜面にも、遷急点より上流の堰堤にかけても、杉は見当たらず、落葉広葉樹林の林が広がっています。生育しなかったのか?
 植林事業の20年後、昭和59年に緑地環境保全林になって以降、落葉広葉樹林であることが評価され、保全されてきたらしいです。
 想像するに、天狗橋の渓流沿いを杉の美林にしようとした、この昭和34年の杉植林計画は理念的にも、実際上でもうまく行かなかったようです。
 ということで、せっかく紹介した、この石碑もガセネタということになりますが、自然保護行政の時代変化を示している歴史資料と言えるのかもと思います。
 
 というわけで、ここに足を運ぶ人が、石橋や渓谷林を見て感心するための仕掛けが全くないので、これでは一目見てみんな行ってしまうのも無理もないと思われます。
 再度言いますが、一般観光客(県民)に、この石橋の驚異や、林の価値と保全の意味を、興味を持って分かってもらうような解説看板の設置を望みたいと思います。(つづく)

No.286  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年09月27日 (日) 22時37分

<天狗橋遷急区間の地形>
天狗橋遷急点をもう少し詳しく見てみます。
・ちょっと一言:駐車場、道
 今回書き込みの平面図に示すように、駐車場が2カ所あります。
 個人的感想ですが、草木橋から行く上流側の駐車場は、天狗橋へは近いのですが、あまりお勧めできません。
 地図では草木橋から歩道です。この道は、拡幅されて車が通れるのですが、急な谷斜面の未舗装路でガードレールもなく、道幅がやや物足りない感じです。軽ならともかく、車幅が大きい車で入って、操作を誤ると谷底へ転落しそうです。
 その点、下流側の駐車増は、道は狭いですが、ちゃんとした舗装道路で安心。
 なお、下流側からですと、2.5万地図の道通りに行くと道が消えて藪に突入。遊歩道は平面図に示した位置に掛け替えられています。
・河床縦断面図
 平面図に対応する河床縦断面図を下に示します。
 横軸に、鮫川の河道沿いの距離をとり、縦軸に、河床の標高を、読図と現地での簡易測量で計測して作成しました。あんまり正確ではありません。誤差は2m以内だとは思いますが・・・(^_^;)。
 堰堤には、銘板があり、「昭和48年3月竣工 戸草ダム 工事概要 高さ8.5m 長さ52.0m 福島県」となっていました。
 図の遷急点や堰堤の基部に、地中塔状態の未風化基盤が存在しているかもしれません。・・・未調査です。
・縦断から見た遷急区間
 遷急区間は、長さ120m、比高25mですが、天狗橋付近を境にして、緩やかな上半部 (長さ35m、比高3mぐらい)と、急勾配な下半部 (長さ85m、比高22m)に分かれます。
 後述しますが、上半部と下半部の境に、天狗橋があるのは、単なる偶然ではないと思います。
 前の書き込みで、この遷急区間は丸石が河道を保護することによりできていると述べました。
 現実は、丸石の高さ分の小段の連続ですが、図化した縦断形はそれが馴らされて、直線状の縦断形なことです。
 岩石型の遷急区間は、瀑布帯になり、滝の所は急な段になり、滝の間の河床は緩傾斜で平滑な断面形なので、全体は不揃いな階段状の形になります。
 この差異は、岩石露岩型の遷急点は、河床縦断形が変化しつつある地形であるのに対し、丸石型の遷急点は、一種の化石地形で変化していない、あるいは、変化し始めたらすぐ壊れてしまう地形であるからではと思います。
 以上、今までの書き込みをまとめて、この丸石型の遷急区間の地形を考察してみると
岩石露岩型遷急区間の地形景観:河床が岩床で、両岸は岩の廊下地形になり、河床縦縦断は階段状で、瀑布帯か単一瀑布になる。
 これに対し、
丸石型遷急区間の地形:河床はマサと積み重なった丸石で、両岸は崖錐地形とそれが切られたマサと丸石の土崖になり、河床縦断面は直線状で、丸石の重なり合った渓流になる、と考えられます。
 もっとも、大規模な例はこの一例だけなので、推測です。・・・妄想かも。(^_^;)
(続く)

No.287  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年09月28日 (月) 20時23分

<天狗橋より上流の渓流景観>
 天狗橋の石橋の上から上流を望む。
 遷急区間の上半部にあたり、河床勾配が緩い。
 両側左右の斜面は崖錐地形の末端で、手前の巨石3つ(一番大きいのは長径5m位はあったと思う)は、右側の斜面から落ちてきた崖錐礫。
 平凡な緩やかな渓流景観に見えますが、
(1) 川の流れがささやかな割に、礫が大きい。
(2) 礫が、上流から動かされてきた河床礫でなく、側面から転落して溜まった崖錐礫である。
(3) 河床の礫が、すべて、球面をもった未風化コアストーン起源である。
などの点で、ちょっと変わっています。 
(続く)

No.288  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年09月29日 (火) 18時12分

<天狗橋より下流の渓流景観>
 284の画像でも示しましたが、上に出した上流景観と対比の意味で、下流の急勾配遷急区間の画像をもう一枚出します。
 こちらの画像でも、河床に、コアストーン起源の丸みの面を残す破断礫が集積、川の水が石をよけつつ小さな段々をなして流れ下っている様子が分かります。
 「丸石型」遷急区間とよぶにふさわしい景観です。
 なお、画面奥に、天狗橋の石橋下のトンネルが見え、石橋付近ではやや河床勾配が急になっていることが分かります。
 後述するように、石橋の巨石は単独で落ちてきたものではなく、右岸側から多数の岩塊が転落して、河床に溜まり、積み重なってできた、平面半円形の高まりの地形・・・「崩落堆」の頂上の岩塊です。河床が石橋下流で急勾配になるのは、崩落堆の下流側側面に当たるためと思われます。 (つづく)

No.290  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年10月01日 (木) 14時30分

<天狗橋の岩塊群>
 天狗橋周辺の岩巨石群の景観です。
 巨石が落ちてきて止まった側(右岸・東側)の対岸(左岸・西側)から見た様子です。
 下の画像は、この景観の解釈図です。
 この地形のでき方を順に述べると・・・・、
(1) 最初に、斜面上部で崩壊がおこり、主にマサ砂からなる崩落堆が谷底に落ちて溜まり、平面半円形の高まりを作りました。そのため川が堰き止められ、水路が手前側に迂回しました。
(2) 崩壊後、斜面の大きなコアストーンが、転落し、落ちてきて破断し、崩落堆の上に転石群として乗っかって止まりました。
(3) その後、天狗橋石下の崩落堆に、マサ砂が洗いだされて,トンネルができ、直行する水路ができて、石橋化された。その結果、迂回した水路と直行する水路の2つに分流するようになった。この経緯はこちらからは見えないので後述。
 ・・・・・ということになると思います。
(1)と(2)のイベントは、別の現象ではありますが、崩落堆の頂上に、ぴったり転石群の主体が乗っていることなどから、時間をおかず連続して発生した現象で、斜面のマサ砂崩壊の発生が、その直上のコアストーン露岩の転落を誘発したのだろうと思われます。
(つづく)

No.291  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年10月09日 (金) 16時09分

<天狗橋巨石群の平面図>
天狗橋巨石群の平面スケッチです。
 前の書き込みの画像と同じ範囲。概念略図なので細かいところは大雑把です。
 崩落堆の堰き止めにより、谷底に迂回した水路が作られた後、天狗橋他のコアストーン破断岩塊が転落してきて転石群となった後、崩落堆中央を横切る新水路ができています。これは、転石群下の崩落堆がマサ砂と岩塊からなり、スカスカで水が浸透しやすく、浸透水によりマサが流されて上流側からの水あたりの所が掘られて新水路ができたと判読されます。
 
 この地形は、谷斜面から、コアストーンが谷底に、崩壊あるいは転落して堆積し、谷底を埋めているタイプの巨石堆積地形ということができます。
 ありふれたよく起こる地学現象で、この巨石のある遷急区間も、この現象の積み重なりで形成された地形と言えます。珍しいと言えば、落ちてくるのが球形のコアストーン岩塊という所ぐらいでしょう。
 しかし、巨石地形としてはあまり見かけません。谷底に落ちてきても、その後の洪水や土石流で運搬されてしまうため、長期にわたって残存せず、伝説の対象になったり、名前を付けてもらえるのが、意外と少ないのかもしれません。
 私も、そんなに歩いているわけでもなく、2例だけしか例が挙がりません・・・・落下した岩塊がコアストーンでない例なら、御岳昇仙峡を始め至る所にありますが。
 1例は、まだ訪ねておりませんが、浜田氏の東北巨石番付2011年5月28日のページで紹介されていた、福島市飯坂町茂庭、茂庭湖上流の亀石地区にある亀石巨石。コアストーンが転石型の典型例ではないかと思っています。
 もう1例は、有名な栃木県足利市名草の奥ノ院巨石群で、こちらは崩壊型の典型例と思います。(つづく)

No.292  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年10月11日 (日) 00時31分

名草奥ノ院巨石群
画像は、栃木県足利市名草弁天 奥ノ院巨石群の景観。下流側から見たもの。
 足利市名草弁天の山は、足利花崗岩体と呼ばれる花崗岩の小規模な貫入岩体からなる山地です。
 奥の院巨石群は、名草弁天上流の谷底平地に、破断した花崗岩コアストーンが多数積み重なり、水は伏流している景観の巨石群です。
 今まで紹介してきた天狗橋の巨石群とは、谷斜面から移動した、コアストーンが谷底に堆積し、谷底を埋めているタイプの巨石堆積地形である点で、似ています。
 ただし、似ているところはそこまで。でき方はかなり違います。
 奥ノ院巨石群の成り立ちは、画像に示す現地景観観察から、以下のように復元できます。
(1)風化マサ化した花崗岩山地の谷斜面から、未風化コアストーンと風化マサ砂が一緒に崩落し、谷底に堆積して崩落堆となり、谷底を埋め、谷水は伏流となった。
(2)その後、洪水時に伏流が地表水流となり、流路に当たる部分のマサ砂を流し出して、涸れ谷を作り、その涸れ谷の空中に積み重なってコアストーン群が露出した。
 天狗橋巨石群の成り立ちとは微妙に違いますね。 
 (蛇足)
 ちなみに、奥の院巨石群の下流にある、名草弁天宮の巨石群は、別タイプの地形で、峡谷の谷頭に地中塔が林立して露出する、侵食地形景観です。
(つづく)

No.293  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年10月11日 (日) 20時59分

<補足>
今までの天狗橋巨石群の紹介で、後回しにして書かなかった観察・読図事項を補足します。
(1)天狗橋遷急区間の位置と、山地の小起伏面境界部とが対応している事について。
 丸石型の遷急区間の成立には、地表近くに未風化コアストーンがたくさん埋まっているのが条件となります。
 未風化コアストーンの頻度は地下深くなるほど多くなるはずです。また、山地小起伏面の境界部分では、高位の小起伏面山地の地下側面が地表近くに露出しています。
 この2つのことから、境界部で、未風化コアストーンの頻度が多くなる・・・おそらく地中塔の形で・・・と考えられ、河川が、低位の小起伏山地を下刻していって、境界部分にさしかかったときに、丸石型遷急区間が作られやすくなると思われます。

(2)遷急区間上半部と下半部の境に、天狗橋がある事について。
 本来独立名現象のはずの、遷急区間の傾斜変換点位置と、天狗橋の崩落堆と転石群の位置が一致しています。
 どちらが先かと考えると、傾斜変換点にぴったり合わせて崩壊し、落ちてくるというのはおかしいので、崩落堆と転石群の位置から、傾斜変換が起こったと思われます。
 つまり、天狗橋の崩落堆と転石群により、河床の堰き止めがおこり、その結果、上流側勾配が緩くなっていると考えた方が良いと思います。
 画像は、天狗橋近くで咲き終わっていた花。この花だけが彩りでした。
 花には興味ないのですが、何草というんでしょうか?
(以上、天狗橋巨石群の紹介終了、次は、銚子屏風ヶ浦の海食崖後退絵図の予定だが、先のことは分かりません。)・・・(^_^;)

No.278 巨石観察ノート 福島県福島市立子山 鯨石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年07月16日 (木) 23時25分 [返信]

花崗岩の巨石地形事例を集めるため、各地の花崗岩露出地を廻っています。
 いままでいろいろ廻りましたので、、備忘録代わりに簡略まとめをします。
 福島県福島市立子山地区の鯨石を見てきました。
 旧飯野町発行の「飯野町巨石探訪」という冊子で訪れたのですが、それによると、近くに、船石、太鼓石、一円寺境内には方位石(未見)があるとのこと。この冊子は、千巻森の中腹にあるUFOふれあい館で売っていました。
 鯨石の位置は図1参照。図は、国土地理院2.5万「月館」図幅に加筆。
 鯨石の緯度経度は、北緯37°41′27.60″ 東経137°31′32.27″。
 阿武隈山地の西部にあり、付近の名山、千貫森と一貫森の円錐形の山体の山麓にあります。
 鯨石は、図2のように、旧国道沿いにあり、阿武隈山地の広い谷底に、花崗岩の大きな岩塊が、ポツンと地表に出ています。 マッコウクジラの背中のようなので、鯨石というとのことです。
 長径7m×短径4.5m×高さ2.5m程の長方形で、角が丸くなっています。
 花崗岩は、地下では、本来は節理の割れ目によって直方体の形の岩塊に分かれています。それが、地下で深層風化により、全体がマサ砂に変わる際に、未風化の岩塊では、直方体の角が丸くなって、球面になったコアストーンと呼ばれる岩塊ができます。鯨石の形は、このコアストーンそのものです。
 ただし、この岩塊は底に根がなく、地表面に乗っている浮き石状態です。さらに、岩塊頂面の平面と、石底の地表面は平行です(図3、下から見上げた景観参照)。また、右手からの扇状地状地形の末端にあり、長径が扇状地の傾斜と直交します。こんな形から、地下にあったコアストーンが、土石流で流されてきて、土石流扇状地の末端で止まったものと思われます。
 古くは、平地にポツンと孤立した、巨大で特異な丸石であることから、不思議なものとして巨石信仰の対象になっていたと思われます。
 さらに、江戸時代天保年間の石碑が石上に建てられています。石碑には、一円寺の開祖、日尊上人がこの石の上で説教をした説法石として信仰された旨が述べられていて、中世・近世、仏教が土着化して、地域に寺院が建てられる際に、地域の聖地であった鯨石の信仰が、寺院宗教に取り入れられたのでしょう。
 なお、寺にも盛衰があり、石碑も、一円寺が荒廃した後、再興された記念に建立されたものとなっています。この寺の荒廃は、年代から見て天保の飢饉によるものではと想像しました。

No.277 山梨県甲州市塩山藤木 八坂神社の巨石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年07月11日 (土) 23時21分 [返信]

を、拙HP ↑にアップしました。
ご笑覧頂ければ幸いです。

No.267 巨石観察ノート2015年版02 石森山巨石群の対比同定(修正) 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年04月03日 (金) 08時36分 [返信]

 前回、267〜269で書き込んだ内容について、先日、石森山に再度行った所、草が刈られて見通しが良くなり、日本武尊腰掛石も分かり、多々修正すべき点もありましたので文章を大幅に差し替えました。汗顔の至りですが、御笑納頂ければ幸いです。
 ・・・
 石森山にかぎらず、巨石群を見に行き、最初にやることは、何処に何があるのか、地図化することです。しかし、石森山はこれが大変でした。
 案内看板の絵図(書き込み264と266の画像参照)が、時期が古く、現在ではかなり景観が変わっているだけでなく、両絵図の間で、微妙に異なっています。
 そのため、看板の巨石と、現地の巨石と対比同定したいのですが、時間がたっていて、看板とは様子が変わっていたり、看板の片方が違っていたりしました。
 絵図の他に、由緒書上の文章(書き込み266参照)を参考にすることと、、現地で巨石に小さな名称板が付いている場合があり、それにも助けられて、巨石の比定をおこないました。
 しかし、名称板も草に覆われて見つからないことが多く、最近になってようやく看板にある巨石の比定が全部できましたので、看板絵図や書上書にある巨石などの比定結果を紹介します。
 画像は、日本武尊腰掛石・富窟付近の絵図拡大と現地平面図スケッチ。絵図01は、書き込み264の画像部分拡大、絵図02は、266の画像部分拡大です。平面図中の岩塊群bヘ、私の付けた整理番号です。
 30は、日本武尊祠の乗る岩塊付近の岩塊群、31は、絵図の番号ロ、巨石名「富窟」付近の岩塊群。個々の巨石は、ABC・・・を付けて示します。
 なお、日本武尊腰掛石(絵図のイ)は、2つの絵図で、富窟(絵図のロ)の西隣にあることになっていますが、現地のスケッチ平面図で示すように、西隣は遊歩道で、その西にも・・・・見当たりません。
 (続く)

No.268 武尊神と大神宮・・・岩塊群30付近 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年03月21日 (土) 13時12分

絵図01には、武尊神と大神宮、絵図02には、武尊社と大神宮の注記と絵があります。
 由緒書上の「摂社二社末社八社」の内と思われるが、この2つについての記述はない。 
 現状は、岩塊群30にあたり、ABCの3つで、最大はB、社祠の載るのはCです。
 絵図01では30の岩塊は1つで、上に日本武尊社祠があるように描かれています。
 絵図02では2つで、現状の岩塊Aと、日本武尊社祠が載る岩塊B+Cとに描かれています。
 岩塊A、B、Cともに、斜面上方から移動してきた石で、広い尾根の段で止まったものです。移動してきたときは、BとCは一体だったと思われますが、現地に停止後、長辺が折れたものと思われます。このイベントがいつか、絵図02の状態後とも考えられますが、絵の表現の問題なので、何とも言えません。
 また、3つの岩塊とも、背後の小崖斜面に押しつけられています。岩塊Aの前の東屋(現状かなり破損)や岩塊BC前の通路を確保するため、少々ですが、人工的に動かされていると思われます。
 大神宮は、絵図では両方とも壁のあるまともな建物として描かれていますが、現状は、壁のない、屋根も薄い簡素な覆い屋。元の建物はなくなっているのでしょう。
 元の建物の場所についてですが、絵図02に大神宮参拝のための階段が、建物正面に描かれています。現状でも、草に覆われていましたが階段は残っていたので、以前の大神宮の場所と、現状の覆い屋の場所は同じと思われます。
 画像:30岩塊群と大神宮跡 岩塊Aの東屋より、手前岩塊B、奥は日本武尊社祠の載る岩塊C、その後ろ、大神宮跡の覆い屋。(続く)

No.269 富窟・・・岩塊群31 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年04月03日 (金) 08時37分

絵図01、02に、岩「ロ」の注記で、ひときわ目立つ巨石で、重なりあった変わった形で、石下に石祠があると描かれている。
書上には、「富窟(とみくつ) 右石(腰掛石)ノ東ニアリ、大一丈二尺、小八九尺石重リタル中二末社祠・神体石アリ」とあります。
 現状は、石の前に、富窟の名称板があり
形も絵図と似ていてすぐ分かりました。
 成因としては、
(1) 山頂緩斜面末端に,3つのコアストーンABCが接して露岩となっていた。
(2) 地震振動により炸裂破壊し、ABは3つに分かれ、最大のコアストーンCは、全体が70cmずり落ちると共に、7つの岩片に破断・分離した・・・ものです。
 C岩塊のコア部分C1・2・3の前面で、ずり落ちた分がオーバーハングの岩庇を作り、富窟と言われ、末社の稲荷社の石祠があります。
 書上の、二末社・神体石については、稲荷社しか現存していないようです。
 (続く、次は日本武尊腰掛石)

No.272 日本武尊腰掛石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年04月03日 (金) 08時34分

絵図01、02に、岩「イ」の注記で、富窟の脇に描かれている岩です。
 由緒書上(書き込み266)には、「神殿ノ東ノ方二日本武尊御腰掛石有、上ノ方二天神社、祭神武尊ヲ祭」 「日本武尊御腰掛石 本社ノ東ニアリ、正面一丈一尺」 「富窟 右石(腰掛石)ノ東ニアリ、・・・」とあります。
 絵図01、絵図02で、富窟の西側に岩続きで、やや低くて大きな平たい石があり、腰掛石とされています。
 というわけで、富窟の西側に続いている巨石があるはずです。
 ところが、書き込み267の平面スケッチに示したように、現状は、富窟の西側は遊歩道があり、その続きも大神宮の間の平地になっていて、腰掛石は影も形もなく、三基の石祠があるだけです。→画像左を参照。
 遊歩道を下がると、画像右に示す平たい大きな岩(岩塊32)が斜面にあります。この石が、腰掛石ではないかと思うのですが、絵図とだいぶ違うので、なんとも言えませんでした。
 先日再度訪れたところ、32の石の裏の草が刈られて、日本武尊腰掛石の名札が現れ、腰掛石が32であることが分かりました。草茫々だったとはいえ,確認不十分で汗顔の至りです。
 結局、絵図01は大間違いでした。それに対し、絵図02は比較的正確でした。すなわち、絵図02をよく見ると、腰掛石の脇に大神宮へ上がる石の階段が描かれています。この階段は、今は使われていなくて廃道ですが、草の中に現存していました。その位置関係から、絵図02に描かれた腰掛石は、岩塊32であることが確かめられます。その点はよいのですが、絵図02でも、富窟と腰掛石の関係は近接して岩続きのように描かれていて、離れて、個別の岩塊である現状とは大きく異なって描かれています。
(続く、次は山頂部の巨石群)

No.263 巨石観察ノート2015年版01 石森山巨石群  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年03月12日 (木) 00時44分 [返信]

山梨県山梨市下石森 石森山
花崗岩の巨石地形事例を集めるため、各地の花崗岩露出地を廻っています。
 いままでいろいろ廻りましたので、、備忘録代わりに簡略まとめします。
 2015年の最初は、山梨県甲府盆地の石森山の巨石群です。
 石森山は、山梨市下石森にあり、甲府盆地の笛吹川扇状地面から、15m位飛び出している小さな丘です。
 盆地北側の基盤岩の山が、盆地を埋めている砂礫層で埋めきれずに突出している地形です。
 丘の地質は、甲府花崗岩体といわれる、中新世に貫入した大きな底盤岩体の一部です。岩種は、花崗閃緑岩と思われます。
 もっとも、丘の岩石は、風化してほとんどマサ砂になっていて、基盤岩の丘といっても、砂のたかまりなのですが、山頂部から南側斜面にかけて、多数の未風化コアストーンが密集して露出し、特異な景観を作っています。
 その景観ゆえ、信仰の対象となり、古代からの創立伝承のある山梨岡神社が建立されており、境内は、巨石の散在する名勝地として知られています。(続く)

No.264 石森山の巨石景観 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年03月12日 (木) 13時03分

 画像は、石森山を南面から描いた案内鳥瞰図で、石森山の巨石景観がよく表現されています。山梨岡神社の境内広場、舞殿前にある看板案内図で、下に、山中の巨石ほかの名所一覧があります。
 ただ、この絵図は、時期は分かりませんが、現在の状態ではなく、一時代前の姿を描いたものです。
 絵図に描かれた祠の建屋や、社務所も形が変わっていますし、名所として描かれている松も枯れています。また、山の西側の道路も現状とは全然違いますし、周辺は耕地として描かれていますが、現在は市街化が進んでいます。
 しかし、この絵図に描かれているような、全山巨石の点在する特異な景観は、今でも変わっていません。巨石も人工改変されていそうなのは、図の左端の獅子岩付近が駐車場化された程度のようで、基本的に絵図の時代と変わらず、そのまま保存されているようです。
 現在は、公園としても整備されていて、遊歩道が新設され、ツツジの名所として植栽も行われているようです。

 <石森山各所の案内看板文面>
● 「山梨市八景・石森山のつつじと果実郷」看板
 石森山は記紀(古事記、日本書紀)の頃、日本式尊がご東征の折お立ち寄りになったと伝えられ、また古書は、この山に岩石(怪石奇岩群)と森林があったことから、石森山の地名が出たと誌(しる)す。伊邪(ママ)那美神ほか五神を祀る山梨岡神社があることから、山梨岡とも呼ばれ人々に親しまれている。
 松の緑や遊歩道の間に、赤、橙、白、紫など色とりどりのつつじの群落が見られ、花の盛りには遠近から花見客が訪れ、峡東のつつじの名所にふさわしい。神社の祭典には浦安の舞も奉納され、山は学童の自然観察地になっている。つつじは「市の花」でもある。
 山上から桃や葡萄の果実郷を展望することも楽しい。桃や葡萄、梨などは昔から甲斐の八珍栗として賞味され、ことさら桃の花盛リには重川一帯、万力山地などがピンクの絨毯を敷きつめたような感じで、おのずから幻想の世界に誘(いざな)われる。

● 「山梨岡神社」看板 
 山梨市下石森1
 創建年代は不詳ですが、社殿建築が発生する以前から「磐座」(下記参照)とよばれる古い石信仰の場として崇拝され、石森岡神社とも呼ばれました。
本殿には熊野大権規と国建大明神が2座相殿としてまつられています。
 江戸時代初期には徳川家によって杜領が安堵され、幕臣で当地付近を領した石谷氏と蒔田氏によって社殿が造営されています。
 「甲斐国志」「甲斐叢記」など多くの書物によって紹介され、主だった大石・巨岩には名が付けられているところからも、石の山が平地に突出した景観が存在感をもって人々に崇拝されていたことがわかります。
 磐座(いわくら)
 神霊が石に宿るという信仰に基づいて、石を御神体として祀ったことに由来する。祀られる石は、巨石や陰陽石など石の大きさや他とは違った特徴がみられるものがその対象となった。神社の社殿建築発生の前段階には、この石に神が降り下るとされて祭りが行われた。
 やがて神が鎮座するところという観念が固定し、石は神聖視され「磐座」と呼ばれるようになったのである。『古事記』『日本書紀』また『風土記』にその名称が散見され、古代の信仰形態のひとつとなっている。

県指定有形文化財 山梨岡神社本殿
 昭和35年11月7日指定
 社記によると、社殿の造営は神護景雲2年(768)、文治3年(1187)、文明6年(1474)、永禄6年(1563)、天和2年(1682)としていますが、造営を担った領主と地域との関係が確認できるのは、天和2年の石谷長門守・蒔田八郎左衛門のみです。
 本殿は、その時代の建築的特徴をもちますが、昭和36年の解体修理の際に大斗裏に元禄16年(1703)の墨書が発見され、それが建立年代を示すものと考えられています。2座相殿の二間社流造で、蟇股や水引虹梁に優れた彫刻が施されており、元禄期の建築意匠を知る上で貴重な遺構です。

市指定天然記念物 石森山のハリモミ
 平成14年5月1日指定
 ハリモミは、日本固有の常緑針葉高木であり、大きなものは樹高30m、直径1mにもなります。
北は福島県から南は九州の一部にまでみられ、マツ科トウヒ属中最も暖かい所まで分布しています。
 石森山のハリモミは自生種と考えられ、今日では主に山地に分布しているものが、平地に隔離されて残っており、この付近の植生を考える上で貴重です。目通り1.70m、樹高約23m。
==========
・・・・・今気づいたのですが、このハリモミはどこにあったのでしょうか。(^_^;)
 石を見ていたので、全く眼に入らなかった。2日ぐらいはいたのですが・・・。
(続く)

No.266 石森山の巨石景観2 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年03月16日 (月) 02時17分

画像は、社殿前にある、前掲書き込み265の「山梨岡神社」看板の付図です。
 同じ265の画像、境内広場にある案内図の元図のようですが、細部に異同があります。

 石森山の巨石や石祠の解説としては、この看板絵図の他に、明治14年に書かれた神社由緒書上の記述があり、石森山の各巨石同定のために利用しました。 これは、山梨市史(平成17年発行)、山梨岡神社の章に、史料として採録されています。
 山梨市史の文章は、今まで見たHPや巨石の紹介本には紹介されていないので、興味のある方がおられると思います。それで、山梨市史の山梨岡神社の項を抜粋して、以下に紹介いたします。
==引用元 山梨市役所編集・発行 山梨市史 文化財・社寺編 平成17年日発行=
 山梨岡神社
所在地  山梨市下石森一番地
祭 神  伊弉諾尊 事解男命 速玉男命 国常立尊 大国主命 少彦名命
由 緒  熊野大権現(事解男命・伊弉冊尊・速玉男命)と国建大明神(他三神)を相殿に祀り、石森岡神社とも呼ばれる(社記)。
 延喜式所載の「山梨郡 山梨岡神社」と伝えるが、笛吹市春日居町鎮目の山梨岡神社も式内社との所伝を持つ。
 社記は日本武尊勧請以来の伝承を伝えるが、史料に見えるのは「永禄番帳」に「石森之祢宜」とあるのが古い。 慶長八年(1603)徳川家四奉行社領証文を所持し(社記)、「古高帳」「慶長番帳」にも載る。
 「国志」を始め、「甲州噺」「甲陽随筆」「甲斐名勝志」「甲斐叢記」などの諸書に紹介され、平地上に忽然と聳える孤丘と巨岩が江戸時代を通じて人々の目を引いたことがわかる。
 社殿については、神護景雲二年(768)、文治三年(1187)、文明六年(1471)、永禄六年(1563)の造営を伝えるが、造宮を担った領主と地域との関係は明らかではない。
 特に文明六年二月二十六日の地頭小松修理亮有久・同孫六有清、永禄六年八月三日の飯富源四郎昌景(後の山県三郎兵衛尉)は(社記)、ともに甲府市小松町の諏訪神社造営を手掛けており、同社には文明十八年二月二十六日(六は十八の読み誤りカ)、永禄六年八月三日の棟札が残されていたから(「県史」資7・在銘一五七〜八号)、或いはこれを参考にして伝承ができた可能性もあるが、天和二年(1682)三月十二日の造営を担当した石谷長門守・蒔田八郎左衛門については(社記)、当地との関係が確認できる。
 ・・・・中略・・・・
 現本殿(昭和三十五年十一月七日県指定)はこの時代の建築的特徴を持つが、昭和三十六年の解体修理の際発見された元禄十六年正月の墨書が建立年代を示すものと考えられる(「県史」文化財編一五五頁)。
 明治初年郷社となる(郷村社)。同十三年六月の明治天皇巡幸の際には、写真・水晶・青礞石等が供覧され、翌年二月の第二回内国博覧会にも出品されている(史料1)。

 <史 料>・・・・・史料1と2の順序を入れ替えて掲載する・・・・
 2 「若尾明細」 山梨岡神社の項(抄)
由緒 景行天皇四十一年日本武尊東夷征伐ノ時二当り、軍ヲ此二処二駐メ諸神ヲ祀ル、此レ当社ノ初メナリ、
貞観元年甲斐守紀貞守幣帛ヲ奉ル、又神護景雲二年坂上苅田丸、文治三年加々見遠光、文明六年地頭小松有久、永禄六年飯富昌景、天和二年地頭石谷長門守等ノ神殿造営ノ挙アリ、
明治六年之ヲ郷社二列ス、
甲斐風土記二山無岡或ハ離岡ト載ス、此丘祇巍然平地ヲ抽キ万頃ノ田圃之ヲ囲行繞ス、高サ十丈、周囲三百間余、奇岩怪石磊々トシテ重畳シ万松基間々森立ス、恰モ深山幽谷二入ルガ如シ、延喜式二甲斐国山梨岡神社アリ、甲斐国志ニハ同郡鎮目村(今ハ岡部村)ノ山梨岡神社ヲ以テ其式内ノ社トナセ共、同社ハ山ノ裾二在テ岡ノ形ヲ為サズ、蓋シ延喜式二謄スルモノハ此石森丘ノ社ニハアラザルカ、姑ク記シテ後者ノ採択ヲ待ツ

 1 山梨岡神社由緒書上(「地誌稿」)
 山梨県甲斐国東山梨郡加納岩村ノ内石森村鎮座
郷社 山梨岡神社
祭神  事解男命 大国主命 伊弉冊尊 国常立尊 相殿 速玉男命 少彦名命
景行天皇四十一年日本武尊東夷征伐ノ時勧請シ給フ云々、風土記二載ル 山無岡又山梨岡、六帖二載ル巌ノ社、又離岡又石森岡ト云、則延喜式二載ル所也、古歌ニ
 かた山の稲野の原の離岡夏草しけし鹿や鳴らん  一条摂政
 甲斐ケ根に咲にけらしな足引の山梨岡の山梨の花  能因法師
 吹く風に靡はせらん思ふこと家にも石の森の下草
 足引の山梨岡に行水の絶すぞ君を恋渡るつき    読人不知
此岡ハ四方ノ山ヲ離去事教里ニシテ広野ノ中二塊然タリ、奇巌怪石ヲ 畳テ恰モ深山幽谷ノ如シ、岡高十丈余、是岡元名タリ、東南二重川有、西北二笛吹川流有り、要害ノ地ナルカ故ニ、日本武尊数日此岡二坐給フ時岡ノ西ノ方二覓狩シ給フ、其所ヲ狩野ト云フ、獣追所ヲ追野ト云フ、今大野ト云フ、岡ノ東二地名梨木田ト云、又東ノ方二休足ト云諸軍元休息ノ地也、百姓綿ヲ献スル所ヲ今綿塚ト云、諸軍弓ヲ射給フ所ヲ今的場トテ弓祭ヲ執行ス、神殿ノ東ノ方二日本武尊御腰掛石有、上ノ方二天神社、祭神武尊ヲ祭
 摂社 二社 末社 八社
祭日正月十七日 三月十二日 九月九日 大祭礼
文武天皇九年初入祈年祭幣帛例
  貞観元年甲斐守紀貞守象
  勅奉幣帛、其後度々奉幣有之侯
一 造営
   神護景雲二年坂上苅田丸神殿造営
   文治三年加賀見遠光造営
   文明六年地頭小松有久造営
   永禄六年飯冨昌景造営
   天和二年地頭石谷長門守造営
  旧社地七反五畝十一歩
   現今弐千弐百六拾五坪、外大門六拾九坪
   岡周経(径)弐百三拾二間

日本武尊御腰掛石 本社ノ東ニアリ、正面一丈一尺
富 窟 右石ノ東ニアリ、大一丈二尺、小八九尺石重リタル中二末社祠・神体石アリ
石上松 本社ノ西ニアリ、高一丈二尺 此外石上松生タル多シ
烏帽子石 同高一丈二尺 横二丈四尺
駆上石 社前ノ西ニアリ、高一丈二尺 参詣ノモノ上ラントスルナリ
桃 石 中壇ノ西ニアリ
母 石 桃石ノ東ニアリ、二丈四尺、一丈二尺
屏風石 凡テ六枚、竪一丈四尺、巾七尺、厚八九寸 諸石ノ中二立リ、正面西二向フ
太鼓石 右石ノ下ニアリ、一丈六尺
鼓 石 太鼓石ノ上ニアリ、右ニッノ石 小石ヲ以テ打ツトキハ、各其闇ヲ生ス
船 石 其数六ツ、大一丈五尺、小五六尺
馬蹄石 石上馬蹄ノ跡数多アリ上面三丈
不老石 右石ノ傍ニアリ高二丈五尺
富士見石 一丈五尺、石ノ根不知
子持石 高一丈六尺、横同
枕 石 長一尺
要 石 池ノ西ニアリ、高二尺、径二尺五寸 石ノ根地中二人テハカリガタシ 此所鹿島祠有
兜 石 同所ニアリ、高一丈三尺、一丈八尺
獅子石 山ノ西ノ側ニアリ、一丈一尺、獅子頭口形其状ヲナセリ
朝日崔 富窟ノ北ニアリ
夕日滝 北ョリ西へ山ノ腰ヲ廻り、池ノ西南二落ルナリ
夕日松 滝ノ傍ニアリ、常葉、色黄ナリ
見上松 桃石ノ傍ニアリ
蓬莱石 本社ノ西ニアリ
水晶渓 本社ノ西ニアリ、小石ノ英ヲ産ス  本草綱目云、白石英、六稜、白色ニシテ如水精トイフ是ナリ
青礞石 同所二産出スル薬石ナリ
此外 松下躑躅 樹陰納涼 田間明月 夕日紅葉 惣テ四季共見所多シ、一丈二尺ノ石(ママ、意味不明)不可数挙

亦明治十三年六月 御巡幸ノ節ニハ、山梨県庁ノ命令ヲ蒙り此岡ノ内景ト外景ト二ツナカラ写真二取、水晶・青礞石及社丘ノ由来書相添天覧二供シ奉り、依テ甲州街道栗原駅へ是ヲ距ル石森丘へ八丁ト建札アリ、尚本年二月第二内国博覧会へ右山景ノ内外写真及水晶・青礞石相添出品ナシタリ
右者今般史誌編輯取調二付、格前旧神官ヨリ奉書上置侯由緒写及現今之景況上申仕候間、何卒御採用相成度、此段上申仕侯、以上
  明治十四年第七月四日
           東山梨郡加納岩村戸長 清水市右衛門印
 山梨県史誌編輯掛御中
========引用終わり====
引用文中の、「青礞石」とは、HP 薬膳情報-net の中薬―礞石(もうせき)の項
http://www.yakuzenjoho.net/chuyaku/mouseki.html によると、
漢方の清化熱痰薬になるもので、青礞石と金礞石の2種類を礞石というとのことです。
 「青礞石と称されるものは、緑泥石に曹長石を混ぜた緑泥片岩、金礞石と称されるものは雲母と石英に深黄色泥を挟雑した雲母片岩である。」・・・とのことです。
 石森山から出たものは、水晶と一緒ということから、花崗岩の晶洞が風化したものだと思うので、この記述の通りの緑泥片岩がでたとするのは、地質の上からあり得ないと思います。それで、青礞石(緑泥片岩)ではない、別のものでは、と思うのですが、鉱物には暗いのでここまで。
(続く)

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