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地形(主に、滝・巨石・山地地形)の掲示板

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No.83 二本松市木幡山の胎内くぐり岩 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年05月31日 (金) 20時22分 [返信]

<出向記録>、備忘録代わりに簡略まとめ。拙HPに一部アップ。
22.福島県二本松市木幡の胎内くぐり岩 2013年5月
阿武隈花崗岩地域の残丘斜面で、マサになり残った基盤岩体の小岸壁地形。秩父系の山地などではありふれた地形だけど、阿武隈のような小起伏山地+花崗岩地域では意外と見かけないような気がする。

No.82 竪破山の太刀割石と同じ破断形の巨石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年05月25日 (土) 23時26分 [返信]

この4日ほど、福島県本宮市の岩角山や隣の二本松市の巨石を、成因判定しながら廻っています。
今日、二本松市太田の白鬚宿の八景石を見に行ったら、表記のような巨石がありました。
画像を参照。
八景石の一つ「二十三夜塔」で、大きな楕円球形のコアストーンが2つに割れて、片方が倒れている形。大きさもほぼ同じです。
太刀割石の形は、拙HPの竪破山の項の1-13
太刀割石に画像と概略図があります。

No.81 2013年度分の出歩き記録一部アップ 4月25日分 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年05月20日 (月) 01時34分 [返信]

<出向記録>、備忘録代わりに簡略まとめ。拙HPに一部アップ。
14.山梨県甲州市勝沼町大石神社の神体石と万福寺の馬蹄石 2013年4月
巨石廻りをしている際の立ち寄り記録。どちらも、当方には有益なデータにならなかった。こうゆう事もありますよね。

No.80 2013年度分の出歩き記録一部アップ 5月12日分 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年05月17日 (金) 19時19分 [返信]

<出向記録>という形で、備忘録代わりに簡略まとめ。拙HPに一部アップ。
20.東京都北区岸町 名主の滝公園の滝 2013年5月
 5月10日地質の日の事業、日本地質学会 日本応用地質学会主催、深田地質研究所共催、東京都地質調査業協会後援の、「2013街中ジオ散歩 in Tokyo 石神井川が作る地形の移り変わりと地質」に参加しました。以下、最後に廻った滝について。

No.78 2013年度分の出歩き記録一部アップi 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年05月10日 (金) 14時24分 [返信]

<出向記録>という形で、備忘録代わりに簡略まとめ。拙HPに一部アップ。
19.山梨県甲州市勝沼町中原 鎧石 2013年4月
16.山梨県甲州市塩山上萩原 踊石 2013年4月
15.山梨県甲州市塩山上小田原 裂石 2013年4月
12.山梨県甲州市深沢 大石神社の巨石 2013年4月
10.叶後の牢口 2013年4月
04.睦沢町女ヶ堰の滝 2013年3月 など

No.64 竪破山の特定 投稿者:川又まこと     投稿日:2013年02月13日 (水) 06時07分 [返信]

高鈴山の西、竪破山の南西あたりに住んでいます(常陸太田市)川又と言います。こちらの竪破山研究調査サイトは1年くらい前から時々、拝見させていただいてました。ご挨拶が遅れすみません。
常陸太田の高台一部から見える富士山様の山が果たして、竪破山と断定していいのか、謎を解くために今年は動きたく思っています。
研究サイトを紹介させていただきながら、雑記を書きアップしたので、ご報告させて頂きます。
書き方など問題ありましたらご指摘下さい、修正します。

No.65 大室山? 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年02月15日 (金) 22時37分

川又まこと様 滝おやじ

HP見て頂いてありがとうございます。
竪破山や高鈴山などの多賀山地の地形は、平凡そうに見えて意外と面白いので、時々廻っております。
 お示しの写真は、常陸太田市の西山公園(光圀公ゆかりの地ですね、香取神社の要石の件で関係あり)付近からでしょうか。
ご参考までに、管見を述べると図のようになります。
 図は、カシミール3Dで作った、公園地表+40mぐらいの高さから見た展望図です。
 段彩で、標高200、400、600mを境にして分けて、黄色、黄緑、青灰、赤の4色にしています。
 写真の富士山型の山は、大室山と思います。花崗岩の山と思いますが、よくこうゆう形になります。
 竪破山は西山公園付近の地表からは、途中の山に隠されて見えないようですね。竪破山が見えるには、地表より視点を高くして図のようにやっと見えるようになりました。

No.66 大室山でしたかあ・・・ 投稿者:かわまたまこと    投稿日:2013年02月21日 (木) 23時01分

滝おやじさま、ご回答を戴きながら気づのが遅くすみません。
そうですか、全く勘違いなのでしたね。きららの里(御岩神社の北側)から綺麗に見える大室山でしたか。もっと手前だと思っていましたが。

No.67  投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年02月22日 (金) 13時17分

お役に立てれば何よりです

No.68 再びの質問です! 投稿者:かわまたまこと     投稿日:2013年02月22日 (金) 23時30分

大室山と判明してスッキリしました。
近く山頂を目指します。
さて、やはり常陸太田市街、349国道から最北に見える一番高い山、なんなのでしょうか?高谷地山なのかなあ、と思っていたのですが、もしかして、これが竪破山なのでしょうか?

No.69  投稿者:滝おやじ    投稿日:2013年02月23日 (土) 06時50分

川又まこと様
現地近くの高所広域に見て比定する、地図作業で求める、写真で角度を求める、などいろいろ方法はあると思いますが、カシミール3Dの様な地図展望ソフトを使うのが一番楽かも。
 http://www.kashmir3d.com/   

No.70 ありがとうございます 投稿者:川又まこと    投稿日:2013年02月24日 (日) 01時18分

ご回答感謝します。
一応、カシミール3Dはあるんですが使用法がイマイチわからないんで(笑)。
アドバイスにもとずき各種やってみます。

No.63 香取市長岡滝不動尊の滝 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年02月07日 (木) 21時25分 [返信]

2011年に行った滝の情報を久しぶりにアップ。
 下総台地の宙水の泉を水行場にした滝で、その点に滝の希少性がある。あと、良く管理されているのも珍しいかな。
まだ前半のみで、後半の地質地形関係は来週になりそう。拙HP「滝を観る」参照。



No.55 香取神宮の要石・・・文書でたどる「伝説」・・・ 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年01月20日 (日) 21時45分 [返信]

1.はじめに・・・要石・現在の伝説
<香取神宮にも要石がある。見に行きました>
 2013年の年神様を香取市の香取神宮に買いに行きました。神宮の参道で売っている土鈴で、毎年購入して、車に飾っています。
 そこで、気づいたのだが、香取神宮にも要石があるのですね。要石と言えば、鯰絵で有名な鹿島神宮だとばかり思っていました。勧請したのでしょうか。
 本殿や参道から少し離れた、境内末社の押手神社脇にありますので、見に行きました。
 要石は、香取神宮の本殿等の建物からやや離れた、境内社の押手社の脇にあり、すぐ近くに護国神社もあります。
 立地場所の面から言いますと、要石・本殿・押手社・護国神社はいずれも標高35mほどの平坦面(下総上位面とよばれている海成段丘面)の上にあります。
 この平坦面に連なる平坦面上には、又見古墳などの古墳が築かれています。押手社や護国神社の背後に平坦面上に明らかに人工盛土した丘があります。・・・一見古墳墳丘みたいだが埋蔵文化財所在地図に記載がないのでより新しい築造かも。
 平坦面上にあることから、この地表は厚さ5mぐらいの風成火山灰層(関東ローム層)に覆われていると考えられ、実際地表は赤褐色のローム層が露出していました。

No.56 要石の立地 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年01月20日 (日) 23時16分

<要石の位置図>
 国土地理院発行数値地図より作成。等高線間隔10m。
 赤点が要石の位置。
 彩色、薄緑:30m以上:台地の平坦面を示す。
 黄色:10m以下:沖積低地を示す。

 要石の所在地は、標高35mの台地表面の平坦面にあたります。
 地質は上から関東ローム層、段丘面構成層(砂層の木下層、一部は常総粘土層)、その下位の海成砂層(木下層より下位の下総層群の地層、おそらく藪層など)になると思われ、要石のような大きな礫を含む地層はありません。

No.58 要石の産状 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年01月20日 (日) 23時26分

画像は、関東ローム層の赤土の中から頭を出している要石。
 玉垣に囲まれた中央にある円頭の石。周りの円磨された小礫は勿論後で撒いた砂利。
一見して、人工的に円磨されたものでなく自然の河床礫に見えます。河床礫といっても、礫径が大きく、この辺にはなくて上流の扇状地の河原にあるような礫です。この付近の台地地層中にもないでしょう。
 そして、この異地性の礫が、礫の長軸を鉛直にして、関東ローム層の赤土に埋まっているわけですから、当然、自然の状態ではあり得ない産状です。
 自然の産状ではないから、天為である、大神の所為であると解釈しているのでしょう。
以下に、神の所業であるという事をどのように文章化しているのか、神宮の境内看板と香取神宮HPの説明を書き出してみます。

No.59 香取神宮要石の説明文章 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年01月21日 (月) 20時01分

<要石玉垣前の木札>
要石
香取、鹿島の大神、往古この地方尚ただよえる国であり、地震が多く地中に住みつく大鯰魚(おおなまず)を抑える為地中深く石棒をさし込みその頭尾をさし通した。香取は凸形、鹿島は凹形である
 伊能穎則
「あづま路は香取鹿島の二柱うごきなき世をなほまもるらし」

<境内の案内板>
要石(かなめいし)
古伝によればその昔、香取・鹿島の二柱の大神は天照大神の大命を受け、芦原の中つ国を平定し、香取ヶ浦付近に至った。しかし、この地方はなおただよえる国であり、地震が頻発し、人々はいたく恐れていた。
 これは地中に大きな鯰魚(なまず)が住みつき、荒れさわいでいると言われていた。大神たちは地中に深く石棒をさし込み、鯰魚の頭尾を押さえ地震を鎮めたと伝わっている。
 当宮は凸形、鹿島神宮は凹形で地上に一部だけをあらわし、深さ幾十尺とされている。貞享元年(1664)三月、徳川光圀公が当宮に参拝の折、これを掘らせたが根元を見ることが出来なかったと伝わる。

<香取神宮のHP 要石の項>
  http://www.katori-jingu.or.jp/index.htm 2013年1月18日現在
 要 石(かなめいし)
古くより、この地方は大変地震が多く、人々はとても恐がっていました─これは、地中に大きなナマズが住み着いて荒れ騒いでいるのだと。香取・鹿島両神宮の大神様等は、地中に深く石棒を差し込み、大ナマズの頭尾を刺し通されたといいます。当神宮は凸形、鹿島は凹形で、地上に一部を現し、深さ幾十尺と伝えられています。貞享元年(一六八四)水戸光圀公が当神宮参拝の折、これを掘らせましたが根元を見ることが出来なかったといわれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−
 香取神宮の要石は、鹿島神宮の要石とペアになっているというか、鹿島神宮の方が要石のメインだと思うので、ついでに鹿島神宮のHPで要石の項も以下に書き出し。

No.60 鹿島神宮の要石 解説文 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年01月21日 (月) 20時56分

<鹿島神宮のHP  要石の項>
 http://www.kashimajingu.jp/wp/  2013年1月18日現在
●要石が地震を起こす地底の大鯰(おおなまず)の頭を押さえているから、鹿島地方では、大きな地震がないと伝えられています。
●要石は見かけは小さいが、実は地中深くまで続いている巨岩です。地上の部分は氷山の一角です。
●水戸の徳川光圀公(みつくに)が、要石の根本を確かめようと、七日七晩この石の周りを掘りました。でも、掘れども掘れども、掘った穴が翌日の朝には元に戻ってしまい、確かめることできませんでした。さらに、ケガ人が続出したために掘ることをあきらめた、という話が【黄門仁徳録】に伝えられています。
●現在は、要石の下には鯰(ナマズ)がいると言われていますが、始めごろまでは龍(りゅう)がいると言われていました。
●万葉集(まんようしゅう)に、香島の大神おおかみ)がすわられたと言う、石の御座(みまし)とも古代における大神奉祭(おおかみほうさい)の岩座(いわくら)とも伝えられる霊石(れいせき)です。
●地震歌を一首
ゆるぐとも よもや抜けじの 要石 鹿島の神の あらんかぎりは
−−−−−−−−−−−−−−−−−
以上、書き出した要石の説明文から、香取神宮要石について概念化すると、以下のようになると思います。
 1.頭が一部出ている地下の巨岩 形は石棒、深さ幾十尺(?)
 2.鹿島神宮の大~が頭、香取神宮の大~が尾の2本の要石がある。
 3.徳川光圀が貞享元年掘ったが掘れなかった。・・・鹿島の方か香取の方か両方か?
 4.鹿島の要石は、本来別の霊石とも言われる。

このような概念・疑問のルーツを、文書のなかで探ってみることにしました。

No.61 <「黄門仁徳録」を読む> 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年01月28日 (月) 18時14分

 そこで、最初に、鹿島の要石のところで出てきた、「黄門仁徳録」ってなんだろう、水戸藩の記録文書で、権威あるものかしらと思いました。
 インターネットで探すと、『水戸黄門仁徳録』というのがあり、国会図書館の近代図書ライブラリーに明治16年の復刻本があって、要石の部分は77丁の69-71丁にあたります。
 http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/882052 
 この本の原本は、宝暦年間に出版され、作者不詳の小説「義公黄門仁徳録」で、長野電波技術研究所付属図書館のHP
 http://www.i-apple.jp/catseye/2011/07/post_161.html
に実物が見えます。
 というわけで、読んでみたのですが、まことに読んで面白い。是非お暇な方はご覧ください。
上のリンクで閲覧できます。
・・・毎度のことですが、図書館に行かなくても、INetで見れるとは、便利になったものですね。

 以下、要石関係の文章です。江戸時代の文章ですので、現代風文章に書き下しました。
原本は上記リンクからご覧ください。句読点や「」を補っています。( )はふりがな。[ ]は当方の注釈です。

◯西山公[徳川光圀]鹿島の要石を掘り給う事 ならびに 霊夢の事
・・・[略 筑波山参詣の文・奇石の紹介はない、]・・・・それより鹿島の郡(こおり)、鹿島ガ崎へお越しあり。鹿嶋明神へ参詣し給う。そもそも此の鹿島明神は神代の初め、此の国に垂迹(すいじゃく)ましますと申せども年暦更に知る者なし。そののち幾多の星霜押し移りて、建久年間[西暦1190〜1198]鎌倉将軍頼朝公、此の宮殿をご造営ありしと、今に言い伝う。すなわちご神体は武甕槌神(たけみかつちのかみ)なる由。
 ・・・・[略 常陸帯(ひたちおび)神事の文]・・・・・。
 昔より神領は二千石にて霊験著しき御神なり。また、社の右の方に高間(たかま)ガ原と唱えるあり、それより浜辺へいづる所に大石土中に埋(うず)みあり。
 是なむ鹿嶋の要石とてその本(もと)は根の国より生じ、世の人もって地震の圧(おさへ)なりと云ふ。
 しかるに西山公は此の所にて是を熟々(つくづく)御覧あそばし、御家臣に向かい仰せらるるは、「たとへ根の国へ続くと言い伝えたりとも、人夫を掛けて掘り返さんに、何程の事かあらん、いでいで此の石を掘り起こしてその根元(こんげん)を見極むべし」と仰せに、ハッと畏まり、それより役人へ仰せ付け、さっそく人夫百余人程呼び集め、早朝より取り掛かり是を掘らせ給いけるに、浜辺のこと故、潮(うしお)満ちて中々はかどりかねければ、それぞれ手段を巡らして〆切りの杭を丈夫に打ち、板をもって土の崩れを留め、櫓(やぐら)を組みてその外へ水車(みずぐるま)を多分に仕掛け、他に人夫数百人にて潮(うしお)を汲み出し精力を尽くしければ、日暮れ迄に深さ凡(おおよ)そ二町余掘り込みたり。
 ・・・・「町」は原文のままです。横穴ならともかく縦穴ですから、2町=約200mも掘れるわけないですので、2間:3.6mの「間」を間違えて印刷かと思ったのですが、以下の文章でもすべて「町」になっています。]。
 されども、此の石の根元少しも見えざれば、また力を尽くして次第次第に下へ掘り行く程に、地中四方に広がり中々一日二日掛かっても容易に掘り得がたき様子に、「まず今日は是にて差し置き、又々明日早朝より掘るべし」との御指図に、人夫のものをはじめとして皆々その夜は旅宿に帰りぬ。
 かくて明けの朝に至り、西山公はいつもより早く御目を覚めされ、御指図遊ばされければ、役人衆も早速に人夫を呼寄せ、かの石のもとへ至りて見分なすに、昨日二町余程も深く掘りたりしに、今朝は少しも掘りたる様もなく、平地と同じ様になり石はこれまでの如くわずかに地上へ出でて、その辺は箒(ははき)にて掃きたる如く奇麗に地面かたまりて、土塊一つなかりければ、諸役人も肝を潰し、「是は大方浜辺ゆえ土の食い込みたるなるべし、さりながら、かくまで奇麗に埋めたるは是只事にあらず」と云て、早速その旨を申し上げれば、西山公にも御出あり御覧あるに、皆々より申し上げたる通りなれば、暫くは近辺を御歩行にて、仰せ出さるるは、「是は予が我慢の心を取り挫(ひし)がんと天狗などがなせし所為(わざ)なるべし。よし今日よりは人夫を増し、昼夜を分かず堀りいださせん」と、すなわち、御領分の百姓町人の別(わか)ちなく十五歳より五十歳迄の者、今般の工事に従事せんと思ふ輩(ともがら)は参るべし、相応の賃金をつかはさんとの御触に、我も我もとはせ集まる人夫三万余人なり。
 さて是を六手に分かち給い、以前の如く掘り掛けさせしに、最初の一手は二の手と代わり、穴を出れば御酒下され、休息致せし、その上にて潮を汲み出す方へ廻し、先繰り先繰りに差し替えて人夫の労(つか)れざす様に御指図あり。
 早朝より昼夜休み無く日数五日の間掘りければ、深さ二十町程も掘り込みたり。されども今に至るまで石の根元顕(あらわ)れず。人夫の者は順番に代わりて掘るとはいいながら、昼夜少しも落ち付きて寝たる者さへなき程なれば、大いに疲労(つかれ)て、一同掘り厭倦(あぐみ)たる様子なれば、西山公には「まずまず今晩は休むべし、かほどに深く掘り込みたれば最早埋(うず)むる事叶ふまじ、皆々休めよ」と宣ひければ、いづれも労(つか)れ果てたる事故、此の御詞を聞くとそのまま鶴の嘴(つるのはし)又は鍬鋤など数百挺、穴の中あるいは浜辺に差し置きて、おのれおのれが宿所へ帰り、又、遠方の者共は旅宿へまいりて休みたり。
 西山公も昼夜をも御詰め切りにてありしかば、その夜は御心よく寝給いしが、夜も明けしかば、御近習の者を召されて、「彼処の模様如何なりしや見届け参れ」と仰せらるるに、いずれも畏まり立ち越し見るに、さしもに深く掘り込みし所は跡無く、又、石は以前の地面より少し頭(かしら)を出(いだ)すのみ、近傍の土は平均(たいら)になり、昨夜穴に捨て置きし鋤鍬などは穴の中へは置かずして一ツ所へ寄せ集め、地形(ちぎょう)の固きは掘ぬ前に少しも変わる事なく、その辺至って奇麗なれば大いに驚き、走(はせ)帰りて早速此の旨を申し上げるに、西山公もしからばとて御出ありて御覧あるに、何様昨日まで多人数掛かりて堀し所は跡なく、以前に変わらぬ有様にて地形は実に数年来踏み固めたる如くなれば、つらつら心に思(おぼ)す様、「誠に此の要石なり、最早掘るに及ばず」とそのまま御旅館へ御帰りありて、御家臣に向かい給い、「さてさて神力と云うものは世に恐ろしきものぞかし、予も十分に心をつくして数万人の人夫を昼夜掛け五日の間掘り込ませしに、ただ一夜のうちにあの如くことごとくよく土をかけ、しかも地形も元の如くあいなりしは、人の及ばぬ事、是は魔物の所業(わざ)ならず。全く鹿島の大御神の神業ならん」と仰せあれば、人々奇異の思いをなしぬ。
 かくて御酒宴に及ばせられ、その夜もここに御逗留あそばされしが・・・・・[後略。以下、西山公の夢に異形の者と鹿島神が現れ、云々と更に荒唐無稽化していくので略す]・・・・

No.62 <黄門仁徳録 読んだ感想> 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年01月28日 (月) 18時20分

 なんとなく、志村の殿様と家来のやりとりみたいな雰囲気ですが、まず突っ込みを入れると
 鹿島神宮のHPには、・・・・『水戸の徳川光圀公が、要石の根本を確かめようと、七日七晩この石の周りを掘りました。でも、掘れども掘れども、掘った穴が翌日の朝には元に戻ってしまい、確かめることできませんでした。さらに、ケガ人が続出したために掘ることをあきらめた、という話が【黄門仁徳録】に伝えられています。』・・・・とありますが、
仁徳録の文章では以下の異同があります。
1.掘ったのは、1日晝と5日晝夜なので、7日7晩ではない。
2.要石の根本を確かめる点については、1日目に2町(200m)ぐらい、更に、5日5晩掘って、20町(約2kmほど)は掘ったのですから、すごい深いことが分かったと言うべきでは。
3.光圀公の賢慮によって、分業して疲れないように掘っていったが、さすがに5日もやるとみんな疲れたとあるだけで、ケガ人続出などの不祥事はない。
4.光圀公は単に掘れなかったから諦めたのではなく、より深い考えに立って、当初は、穴がふさがったのは邪神の仕業と考えたが、5日5晩掘って、鹿島神の神業と分かったので、深慮して掘るのを止めたのであると解釈できます。敬神のこころざしですよね。
 まあ、こんなささいな揚げ足取りはおくとして、仁徳録は面白い読み物ですが、記録としては、荒唐無稽な小説でしょうね。
 これを根拠としてものを言うことはできない、さらに、これしか根拠がないのでは、「鹿島の要石を徳川光圀が掘ったが掘れなかった」ということは、伝承であって歴史的事実ではないと考えた方が良さそうな感じです。
 さらに、「香取の要石を、徳川光圀が貞享元年掘ったが掘れなかったと伝わる」という「伝承」の元にもなっているらしいので、そちらも、そうゆう伝承があったのかなあ?という疑問が湧いてきます。

No.54 2013年年賀状・・・筑波山のガマ石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年01月04日 (金) 22時29分 [返信]

今年の年賀状(巨石編)画像 
2012年中の巨石観察例。
深成岩の巨岩奇岩を観ようと言うことで、生まれて始めて筑波山に行きました。
=============
筑波山のガマ石 重力変形
 稜線の露岩が斜面侵食による稜線の低下により下方に動き、両側に割れてY字型の割れ目が出来て、それが1→2→3の順序で滑ったものらしい。
 筑波山の道沿いにある他の巨石達も何故この形なの? の理由が明快で面白かった。

No.53 [滝を観るための地形技能講座」おしらせ 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年01月02日 (水) 23時09分 [返信]

 新年おめでとうございます。今年も宜しくお願いいたします。
 ところで、私も、そろそろと歳なので、1回ぐらいは、滝の好きな方々のための講座を開いて、滝の好きな方々と話し合ってみたいと思いまして上記の講座を、計画しました。そのおしらせ。
 滝はそろそろ発見の時代から記載の時代に入ろうとしています。その時期に当たって、滝オタクの、滝の地学オタクによる、滝オタクのための講座。
滝の愛好者向けです.滝を見るための地形学と観察技術などを紹介します.2日連続 千葉県立中央博物館の正式講座です、一応。
内容:まだ完全には固めてないけど、
1日目.滝の理論編:滝の定義、用語、分類、河川地形の考え方、理論の紹介。
2日目 実地と調査、記載の技術:滝の測量、瀑布帯縦断計の作図、地学スケッチ、地形図空中写真の読図と滝の成因判読、地質図/地すべり分布図の地形図移写と読図など。
 滝の探索・現地観察・記録にかんする地学の理論と実際ダイジェストですかね。
あるいは、観光滝でも楽しめる、観光滝だからこそ楽しめる、滝の見方として、聞いていただいても良いかも。参加された方々との議論を楽しみにしています。
開催日時 2013/2/9(土)、2/10(日) 10:00〜15:00
シリーズ名 地学講座
受付方法・締切日 1月26日
開催地・会場 千葉県立中央博物館研修室
対象・定員 大人・10名・・・そんなに来る訳ないという予想だが、2〜3名余裕あり。
講師 滝おやじ(吉村)
入場料:不要, 保険料:不要, 実費負担:なし
申込みは、1ヶ月〜2週間前ですが、その前でも後でも私の所にメールくだされば、ご連絡します。
 http://www2.chiba-muse.or.jp/?page_id=477 

No.49 <屏風ヶ浦の地形その2 海食による離れ島・波食棚> 投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年12月25日 (火) 13時38分 [返信]

屏風ヶ浦は犬吠層群の岩質が硬くないので、平面形が平滑な海岸線が発達するということになっています。
そのことの唯一の例外が、磯見川河口の東側、懸谷01と02(書き込み44。45参照)付近の海岸で、岬と入り江があります。地層は小浜層中部に当たりますが、何故、ここで海岸線が平滑でないのかはまだ誰も説明していません。
 どうも、海岸の岬と入り江部分の地質条件はほぼ同じとして、入江の形成に懸谷地形が絡んでいるためと思います。
 図は、銚子市発行2500分の1の地形図で、懸谷01の付近です。
 離岸堤の影響で、砂がたまって海食崖の下が一部砂浜になっていますが、以前は崖の下すぐに波が寄せていたと思われるので、海食崖の根元をつなぐと、岬と入り江のある海岸線だったことが分かります。

No.50 懸谷01河口付近の景観 投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年12月25日 (火) 13時51分

画像は、図の撮影地点から海岸を写したもの。
 離岸堤の影響で、砂がたまって海食崖の下が砂浜になっていますが、以前は崖の下すぐに波が寄せていたと思われます。海岸線が凸凹に見えるので、凹凸のない直線的な海食崖が連続する屏風ヶ浦の景色としては異色ですね。
 その異色な景色の中で、さらに異色な地形が2つ見えます。
 異色の景色1.離れ島
画像中央にある岬は途中で切れていて、離れ島であることが分かります。地図で見ると、屏風ヶ浦沿岸では、島はこれだけ。
 取り付こうと思ったのですが、陸地側からは草ボウボウで道はないようだし、海側からは、この季節、離岸堤に波が寄せてくるので、行けそうもありません。
 異色の景色2.波食棚
画像後ろに有る岬の海岸は、海面よりやや高い平坦な地形になっていて、波食棚という地形に見えます。波食棚なんてよくある地形で珍しいものではないようですが、実は、屏風ヶ浦海岸は海岸地形を断面で分けると、波食棚がないタイプの海岸地形の代表ということになっていて、波食棚がないの野が特徴。ここが波食棚だとすると屏風ヶ浦で唯一の波食棚だと思います。
 海食崖から落ちた崖錐の削られ残りかもしれないので、波食棚かどうかは?。
ここも取り付きたかったのですが、ご覧のように波にさらわれてしまいそうで、この季節は行けそうもありません。

No.51 <1970年代にできた、できたてほやほや離れ島> 投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年12月26日 (水) 23時16分

この離れ島の空中写真を何気なくチェックしたところ、1974年の空中写真ですが、なんか変です。
そう、現状(2012年12月・上の画像)と較べると、1974年では、島と本土の間の海峡(水道?)部分がえらく狭い。地形が大きく変化しているようです。
これはこれはということで、国土地理院の「国土変遷アーカイブ空中写真閲覧システム」で見比べてみました。1964年・1969・1974と並べてみました。
 ・・・余談ですが、こんな良い情報が直ぐ見られるなんて、国土地理院に大感謝。
1964年には、確実に島では無く、岬ですね。現在の海峡に当たるところには 、懸谷01の谷底の続きがあって、畑になっています。
 どうも1964から1969年の間に、岬に切り込みが出来て、1969年には島が分離寸前の形であったらしいです。そして、1974年には、完全に切れて狭い水道(海峡?)になっているようです。その後、現在にかけて、その水道が広がりつつあるようですね。
約40年前に岬が海食により分離して離れ島が出来、その水道が広がりつつあったという地形だったようです。勿論、離岸堤の建設によって現在は砂浜化して変化は止まっています。しかし、分離する前の形がほぼ分かり、また、分離後の変化も調べればより詳しく分かりそうだという点で、地形変化を考える上でなかなかそそる例と思います。

No.52  投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年12月26日 (水) 23時18分

 分離した離れ島は、側面から見ると、島の海峡側が緩く傾斜し、岬の本土側は急になり、平面形は海峡に向かって細くなるという一般形がありますが、この最新離れ島も同様の形をしています。

No.41 屏風ヶ浦の海食崖を正面から見る 投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年11月27日 (火) 21時25分 [返信]

屏風ヶ浦の海岸線沿いに海食崖の輪郭を描いたある程度正確な図が見当たらないので、描いてみました。
2.5万地形図を元に、旭市と銚子市の2500分の1地形図を参照して作成。なので、標高は2m刻みで、海岸線に沿って投影した正面図ということになります。勿論高さが誇張された図になっています
実線で海食崖の輪郭、点線で海食崖背後の下総台地各段丘の平坦面輪郭を描いています。
実線は、海食崖を刻む谷の断面でもあります。
海岸線の消波堤から見上げると、崖の下半部しか見えず、切り立った連続した崖という印象ですが、作成した投影正面図では、崖の上半部は谷がたくさん入っていて、連続した崖にはなっていません。
 No.32に記したように、崖上部の谷は、北部は風隙、南部は懸谷という地域性があります。
この図に地質を入れるといろんな事が分かる面白い図になりそうです。

No.42 <海食崖正面図第2弾> 投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年11月28日 (水) 23時43分

断面図第1弾と実際に海側から撮影した画像(今後掲載)を比べてみると、海食崖の下部にも、海面にまで達する切れ込みがあり、海食崖が不連続になっている所が数カ所あります。
 南部の不連続箇所は、海食崖懸谷の末端から海に落ちる小さな水流の滝が後退して、海食崖を少々削り込んだ奥行きの浅い峡谷になっている地形です。
 北部の不連続箇所は、海食崖の風隙凹所地点から、直下の海岸に降りる道を作るために作られたV字谷型の人工掘り込み地形です。
 以上の切り込みを書き足し、海食崖の凹所となっている地形を、書き上げたのが、今度の図(第2弾)です。各々の懸谷と風隙には識別のために番号を振りました。
 ということで、図を作ったところ、風隙でも懸谷でもない2箇所の凹所に気がつきました。磯見川の谷の断面と、名洗の町のある凹地です。
 この2箇所は、凹地の谷底面ができた当初の地形断面を、図に沖積谷底として示しました。 そのころは、海面との比高が小さいが、磯見川の凹所は懸谷、名洗の凹所は風隙と行っても良い地形だったのですが、その後の河川による地形の変化が絡んで地形が変わり、懸谷や風隙とは言えない地形となってしまった所です・・・これも後述。

No.44 海食崖平面図 第3弾 投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年12月11日 (火) 18時28分

地質を入れた図を作ってみました。
現状では、屏風ヶ浦海食崖を正面から見た図では、最も正確な図・・・と思う。(^_^)v

・段丘面については、杉原重夫(1976)下総台地東部の地形 ポケット版巡検案内第2版 銚子半島と九十九里平野 日本地理学会予稿集10 p281-283、を参照しました。
・犬吠層群については、酒井豊三郎(1990)千葉県銚子地域の上部新生界―岩相・古磁気・放散虫化石層序― 宇都宮大学教育学部紀要 No.23 Sec2 p1-34を参照しました。
・侵食谷の沖積層については、磯見川や名洗の谷の埋没谷の形は?です。
・海食崖上端の台地面上に砂丘が這い上がっていることが多いのですが、鹿島浦海岸沿いの海食崖とは違って、屏風ヶ浦では目立たないようです。三崎町一丁目付近から西小川町の風隙と台地面上に小規模な砂丘が見られる程度のようですね。
・風隙については、人工切り土のため谷形が消滅した風隙の位置を図に追加しました。

No.45 <屏風ヶ浦南部の正面画像> 投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年12月13日 (木) 14時11分

上は、名洗の埋め立て地から撮影した画像。高さを1.5倍に拡大しています。撮影時期は9月。
下は、国土地理院2.5万地形図で、海食崖が切っている段丘面と、段丘面の侵食谷を彩色。
 上の画像(海面近くから見あげた側面画像)では、懸谷や風隙地形の位置すらあんまりよく分かりません。それで、上から見下ろした地形図や空中写真による情報で、懸谷や風隙の判読をして、位置を入れてみました。朱線参照。・・・・今回は、地形判読に、2.5万地形図のほかに、2500地形図や空中写真を使いました。
 ところで、
下の図に示した上から目線の情報を、上の画像に入れて、下から目線で見あげると、また、見えてくるものがありますね。
 ・濃い緑の樹林部分と、白色や薄い緑の露岩や灌木部分とがあるが、樹林部分はすべて侵食谷の斜面で、露岩と灌木部分はすべて海食崖面ですね。・・・崖下に崖錐の部分もある。
 ・海食崖の中途にある不整合面を境にして、上の香取層以上と下の犬吠層群(小浜層と倉橋層)では、岩質・固結度が違うのを反映して海食崖の傾斜が全然違う。
 ・磯見川の谷は、結構大きな谷で、川は谷底を掘り込んで海面に協和的合流をしているのですが、谷底は段丘化していて、その沖積段丘面を切る連続した海食崖が見えます。海食が激しいところでないとなかなか見られない珍しい地形と思います。

No.46 <磯見川谷の河口地形> 投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年12月14日 (金) 10時01分

上の画像 内陸側から見た磯見川河口。幅の広い谷底平野が海食崖で切られていて、海が見える・・・上記書き込み参照。
この景観、良いですね。

 下の画像 河口の海食崖を海側から見る。比高10m弱の低い海食崖が沖積段丘面を切っている。

No.47 ・・・あらあら 投稿者:滝おやじ    投稿日:2012年12月14日 (金) 20時05分

今気がつきました。
12/11の図で、犬吠層群の地層間を上の不整合面と同じ点線で描いてしまいました。凡例を信じると不整合に見えますね。
まあ、こんな歪んだローカル掲示板の図を見てくださる奇特な方々が、間違うとは思えませんが・・・・「犬吠層群の名洗〜倉橋の各層は整合ですので、実線で描くべきでした」。 修正忘れです。スミマセン (-_-;)

No.48 <おまけ 3.11の津波跡> 投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年12月16日 (日) 23時17分

 磯見川河口の右岸側。沖積段丘面の海食崖に残る2011.3.11津波の跡。1年半後でもまだ分かりました。
 画像左下が海面。灰色の地層が小浜層。
 斜めの不整合面があって、その上は河成の沖積層、人物腹より上、腐植質。藪部分の上部1mぐらいは砂丘砂がありそう。

 人物足下に、津波運搬の貝殻が露頭表面に載っている。
 人物の向こうにあるビニールゴミは津波によるもの。
 人物頭上の植生の乱れたところが津波遡上部分。
 遡上高度が海岸線の地形により局地的に高くなっている所で、標高6mぐらいに達している。

No.37 粟又の滝 年賀状 投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年11月15日 (木) 22時46分 [返信]

そろそろ年賀状作成の季節ですね。
ということで、今年の年賀状をまだ掲載していないことに気づきました。
2012年は、再度粟又の滝。1995年以来です。

No.38  投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年11月15日 (木) 22時57分

謹賀新年 2012年元旦 本年もよろしくお願いいたします

 高滝(粟又の滝)
 
 大多喜町粟又の粟又の滝(本来の名前は高滝)は、奥養老渓谷の要として、千葉県の方は一度は行かれたことがあるでしょう。
 高さ30m、黄和田層の泥岩にかかる緩傾斜の滝です。
 この滝の下は広い平らな岩床の広場で、画像注記のように3個の新旧の滝壷があります。
 この地形は、滝が動いて滝壷が3つできていった跡で、粟又の滝の発生と現在までの変化を、跡づけることができます。
滝の発生から現在までの紹介は、拙HPの年賀状の滝、粟又の滝1995参照。

No.36 試験公開・地質図Navi 投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年11月08日 (木) 00時08分 [返信]

一昔前には考えられなかったなあ。日本全国の新旧地質図が居ながらにして見られるんですものね。
地質図Navi 操作ガイド
http://gsj-seamless.jp/geonavi/gm/help/#2

5万地質図で等高線との関係もはっきりと見られるのでいいですね。
 説明書も読めれば言うことないのだが。

No.32 屏風ヶ浦西小川町地先の風隙と名洗層の重力断層 投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年10月25日 (木) 21時33分 [返信]

過日、千葉県屏風ヶ浦の地形を見て回りました。
屏風ヶ浦海食崖の頂部断面は、意外と凹凸しています。下総台地面を下刻していた谷の横断面が海食崖に削り出されて、崖の頂部に残された凹所となっているせいです。
その凹みは成因で分けると、風隙と懸谷の2種に分かれます。
屏風ヶ浦の南部は、磯見川のように、下流側から海食崖に削られた結果できた懸谷凹地が多く、北部は、利根川側に流下する谷の上流部を海食崖が削り取った結果の風隙凹地が数カ所あります。
 画像は、銚子市西小川町地先の小さな風隙。
陸地側(下流側)から見た景色。風隙の向こうが屏風ヶ浦の海食崖。

No.33  投稿者:滝おやじ    投稿日:2012年10月25日 (木) 21時37分

 場所は矢印の所。
国土地理院2.5万地形図「銚子」

海側からも、名洗の埋立地からよく見えるが、図の中央を東西に走る道路の造成で、谷の下流側が盛土されているので、風隙でなく懸谷のように見える。
ところで、海食崖起源の風隙地形といっても、一般には海食崖側の地形や地質に無関係なので、特に興味のある方は少ないと思います。しかし、この風隙は、風隙地形と海食崖側の崩壊とが関係しているかも・・・というのが面白かったので、紹介します。

No.34  投稿者:滝おやじ    投稿日:2012年10月25日 (木) 21時46分

この画像は、海食崖側から見あげた風隙・・・屏風ヶ浦沿岸は海食崖下に消波堤ができ、崖下と消波堤の間が陸地になって、波が静かなら崖をジロジロ見あげるながら歩けるようになっています。崖の崩壊物で一部では崖錐が成長中です。
昔は、荒波打ち寄せる屏風ヶ浦と言われたものだが、変われば変わるものですね。
この画像に見える地層は、名洗層とそれを切った風隙の谷地形斜面を覆う関東ローム層。
ずいぶん高く見える崖だが、侵食谷地形で削られている所なので、名洗層の上位に乗る香取層は存在せず、海食崖の比高もこれで小さい。
さて、風隙の右に、断層線が見えます。この断層は、正断層で、その最上部が侵食谷斜面に堆積した関東ローム層下部を切って変形させているが分かる。
 ということで、この断層、構造性の断層でなく、海食崖に伴う重力断層と考えられます。 とすると、対応する正断層があるのではと見ると、画像の左端に2本の正断層が見られます。
図にしてみると、次図のごとし。

No.35  投稿者:滝おやじ    投稿日:2012年10月25日 (木) 21時48分

左側の正断層は向きが右側の断層と逆で、これで一組。
風隙の下の海食崖崖面が、崖面から円弧状の辷り面で手前側に辷っていると見ることができます。
 さらに、この円弧状の辷り面は、ちょうど風隙の谷に対応した位置にあることになります。
 つまり、降雨による地表表層水の谷底部への集中→谷底の下位の名洗層への滲透→加重が他の部分より大きくなる→岩盤破壊→円弧状辷り面の形成
というプロセスが考えられると思います。

 別件ですが、今回屏風ヶ浦の犬吠層群の崖を廻ってみて、いわゆる名洗層の崖には、重力断層が見られるのに、南部のいわゆる飯岡層の崖では、重力断層は見かけませんでした。 名洗層は岩質が砂質なのに対し、飯岡層は泥質なのが効いているのではと思います。

No.31 花崗岩コアストーンの自壊破断2 投稿者:滝おやじ    投稿日:2012年10月10日 (水) 21時26分 [返信]

山梨市上石森、石森山の第2弾。
 画像は、山梨県山梨市の石森山の例。中型の大きさの単体のコアストーンが破断して、一方向に落下散乱しているのが、一目で分かる例。
 最近岩塊の上にコンクリートの土台(それも自壊しているが)を作って、祠を載せてあります。元々は、祠のあるあたりを中心としたコアストーンがあって、それが、画面で左下がりの破断面で割れ、破断面の上の部分が、部分に割れて転落している。左端の球形岩塊は、回転して転がっていったものと思います。
 破断面の右下には平行した割れ目ができていますので、破断面は元々の節理面と思います。
 この事例は、破断が単純で、凄く分かりやすくて、良いなと思ったのですが、このコアストーンは、立地が山頂平坦面の平坦面上にあって大きく破断している唯一の例で、例外的な事例です。
 石森山や近くの大石山の露出したコアストーンには、節理面がなく、それが破断する・破断しないの条件は、
(1)コアストーンの大きさが大きいと破断しやすく、小さいと破断しにくい。
(2)立地が平坦地であると、破断しにくく、遷急線であれば破断して、近くに散乱、斜面であれば、大部分破断して、斜面下部に移動し形をとどめない、・・・単純に傾斜が効く。と、現地で見とれます。
しかし、元々節理面があれば別ですよという例。 

No.30 花崗岩巨大コアストーンの自壊破断 投稿者:滝おやじ    投稿日:2012年10月06日 (土) 11時35分 [返信]

更新だいぶさぼっていました。

70近くになっての50肩で、手が肩より上にあがらないので、今年の夏は、滝めぐりはやらずに、汗を拭き拭き、関東の巨石怪石と言われる地を巡っていました。
 巨石の有名地に共通していることは、花崗岩の巨大なコアストーンやトアの風化破断地形ですね。
筑波山の斑糲岩の風化地形とは壊れ方が見かけ異なるようですが、破断しようとしている力は同一で、岩石の物性の違いで違ってくると思います。
 花崗岩の破壊については、いろいろの事例が見られて、類型化できるようなのが面白いです。
 画像は、山梨県山梨市の石森山の例。広瀬花崗岩の山が、扇状地で周囲を埋められて、比高20m足らずの丘になっている。丘の山頂や尾根の平坦地にコアストーンがたくさん露出していて、その内で斜面の遷急線に当たる所のコアストーンが見事に破断している。
 長径20mぐらいの平面楕円形の巨大コアストーンが、尾根稜線では傾斜に直交する方向、尾根稜線の両側部分では、稜線に平行する方向でズタズタに破断して開口したり転倒したりしています。割れ方は、花崗岩の節理とは無関係と言って良いと思います。

No.24 2500分の1地形図の等高線の精度 投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年07月10日 (火) 01時15分 [返信]

近年、市町村ごとに2500分の1地形図が整備されてきて、どこの役場に行っても購入でき、とても便利になりました。
 等高線間隔2mで、細かい地形や空中写真判読結果の書き込みが楽で、ありがたいことだと思っています。
 この地図は国土基本情報の位置、標高データをもとに、市町村が委託した業者が空中写真図化で製図していると思いますが、図化機のオペレーターの技術が伴なわないと、かなり雑な地図ができているようです。樹林に覆われた地表の表現がひどい。
 去年、崖が崩れて滝が埋まってしまった千葉県旭市岩井の龍福寺の奥の院滝を見に行った時・・・。
 画像は、旭市岩井の龍福寺

No.25  投稿者:滝おやじ    投稿日:2012年07月10日 (火) 01時18分

旭市発行の2500地形図(部分)。
この図を持って、龍福寺の谷地形を見に行ったのですが。
 地形図だと、本堂の奥の谷は変なV字の断面の谷で斜面も対称の斜面として描かれているが、現地で見ると、全く地形と地形図が違います。

No.26  投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年07月10日 (火) 01時22分

谷底は幅広く平らで、谷の周りは右岸側は垂直の4mぐらいの崖、左岸側は一様な急な斜面になっています。
 画像は、右岸側の斜面。崩壊した状態です。
 谷底と斜面の境に垂直な崖が有り、その崖上に狭い平坦面が有って、急斜面となるのですが、そこが崩れて、滝を埋めています。
 地層は、泥層の飯岡層(不透水層)とそれを平坦な不整合面で覆う、砂層の「いわゆる」香取層。
 不整合面が緩く傾いているせいで、右岸側からのみ湧水があります。
 それで、右岸側斜面に、崖やその上の湧水帯があり、湧水のない左岸側斜面は一様な急斜面となっていると解釈しています。

No.27  投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年07月10日 (火) 01時25分

 画像は、左岸側斜面と谷底。
平坦な谷底と左岸側の一様な急斜面が見える(この部分では人工カットで崖になっている)。
谷奥の奥の院のお堂付近。
 右手の穴は、境内散策用のトンネル。地図では省略。
とまあ、そうゆう解釈になるのですが。

No.28  投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年07月10日 (火) 01時27分

左の図が元の図。右の図が修正図で、赤線の部分を、私の現地の見取りと空中写真判読で直しました。
 こんな風に地形図から手直ししているのでは、面倒この上もないのですが、こんなに違っていては、やるしかない。
 実は、右岸側の細かい表現は樹林で覆われている状態を上空からのみで描くのは、現地調査がないと難しいとは思いますが、本堂周りの崖を見分けられないのは、オペレーターの手抜きと思います。
 我々は、国土地理院の2.5万地形図の等高線が非常に正確なものですから、等高線式の地形図は正確と思い込みがちですが、それは、オペレーターの技能と図化機の性能が高い場合だと思います。2.5万は、プロの仕事ですよね。
 「親方の仕事と小僧の仕事」という言葉があるが、2.5万地形図の精度と同じつもりで、2500地形図の等高線を信じてしまうと、大間違いになることがあると思います。
 まあ、レーザー測量すれば良いさという意見もあるかもしれないが・・。

No.17 斑糲岩の重力変形地形 筑波山立身石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年06月14日 (木) 17時48分 [返信]

 立身石は、図のLoc5にある小岩峰です。男体山から南東に伸びる尾根上にあり、下から見ると高さ13mぐらい、尾根方向の長径15m弱×直交方向の短径10m強の塔。
 岩峰下部がオーバーハングしていて、その下に狭い洞窟がある。下部の洞窟前広場から見上げると迫力がある。
 古来から信仰対象になっていたようで、元来「鎮座石」といい、親鸞聖人の餓鬼救済の伝説がある。
 広場の岩陰に、「親鸞上人旧跡」の石塔が建っている。立身石という名称は、間宮林蔵の伝承からという。

No.18  投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年06月14日 (木) 17時51分

 図は、この岩峰の平面・側面・正面図。
 この図は、現場での見取りによる概略スケッチ図で、尾根方向の岩峰下部には取り付けなかったので、岩峰の尾根方向下部の詳細は分からない。
 岩峰の周りは、樹林に覆われた急斜面で、岩峰部分の周りの岩石がすべて転げ落ちて、残った部分が岩峰になっている。
 現在の岩峰の形を見ると、側方図に示すように、岩峰が尾根下方向に傾き、割れて、尾根の方向に直交する開裂割れ目がはいり、正面図に示すように尾根斜面方向には剥離して転落しているようです。
尾根方向の開裂は4本想定され、3つのブロックABCに分離している。
 尾根の横断方向の形は、正面図に示すように、両側の斜面方向に破断しているが、南西向きの節理の影響で非対称になっている。

No.19  投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年06月14日 (木) 17時53分

平面図の南西方向から見た立身岩上部。岩峰下部は見えていない
ブロックA、Bと開裂割れ目1,2が見える。
開裂割れ目1に沿って、尾根の鞍部があり、遊歩道に利用されている。この割れ目が一番大きく、岩峰全体が下方に滑っているかもしれない。
 ブロックA・Bのそれぞれの頂上は、正面図に示す南西落ちの節理面に沿って剥離して転落した形が見える。また、Bの頂上部分は、節理面に沿って滑っている。女体山南面にある大仏岩の頭部の岩塊とよく似ている形。

No.20  投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年06月14日 (木) 17時55分

南西側の岩峰下部。広場から見上げた画像。中央が親鸞上人旧跡碑。
ブロックの頂上、ABCが見える。岩峰の側面方向の破断面を示す。
 画面に平行の破断面が、一部オーバーハングしているのは、前述の節理面で岩峰上部が辷っているためのようである。
 また、画面に直交する向きの、開裂割れ目123の側面が、直線に見える。3の下部が開いて洞窟になっている。

No.21  投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年06月14日 (木) 17時57分

平面図の北東方向からみた岩峰頂部の裏側。
ブロックAがみえている。
人物のいる裂け目が、開裂割れ目1

No.22  投稿者:滝おやじ    投稿日:2012年06月14日 (木) 18時06分

画像忘れました。

No.23  投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年06月14日 (木) 18時08分

岩峰の頂上部分。南西方向からで、ブロックCからブロックBの頂部を見る。
 Bの手前の割れ目が、開裂割れ目2。
 Bの右手の割れ目が、滑った跡。
 斑糲岩の岩峰は、岩石の表面は風化しないので節理に沿った角張った形の造形のようだが、傾斜方向に破断したり、節理に沿って傾斜方向に滑ったりして、意外と傾斜に対応した形の型があるとの印象。ホルンフェルスの作る岩の形に似た感じあるようにも思う。

No.9 斑糲岩の重力変形地形 筑波山見晴し台の露岩 投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年06月05日 (火) 17時22分 [返信]

 斑糲岩でできた岩の微地形を見てきました。場所は、筑波男体山女体山の山頂一帯。
 斑糲岩は、侵食残丘を作っていることが多い岩石で、マサ化せず、大きな角張ったブロック状の岩塊を作るようで、風化しにくい岩ですね。
 阿武隈山地などでは、残丘を取り巻く小起伏面を作っている花崗岩・花崗閃緑岩は、風化しやすく、マサ化して、タマネギ状風化とか木の根開口とかが見られ、違った風化形態をしています。斑糲岩も花崗閃緑岩も、新鮮なら物凄く硬いのは同じですが。
 まず、男体山の山頂付近を一周している観察歩道の、第2見晴らし台の露岩。 図のLoc4にある岩です。
(木の根開口作用は、HPの竪破山の七奇石を参照。)

No.10  投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年06月05日 (火) 17時25分

 Loc4は、筑波山男体山山頂から南東に伸びる尾根のちょっとした平坦部で、その先端に露岩があり、見晴らし台になっています。
 尾根は、地形図で見ると北西側斜面の方がより急傾斜。
 画像の人物がたっている岩。
 岩質は、勿論、斑糲岩、新鮮そう。
 高さが70cmぐらいで、直径4.5mぐらいの平面略円形の岩です。岩の上面は、緩傾斜した節理面だったのでしょう、上部がなくなって、北西(画像で右方向)へ傾いた平面になっている。

No.11  投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年06月05日 (火) 17時27分

 わざわざ見に行ったのではなく、何気なく立ち寄っただけなのですが、画像のように、面白い割れ方をしているのに気づきました。
 岩の表面に、平行した深い割れ目が入っていて分離しかけています。
 赤い足の足下の段は、割れて滑って段差になっているようです。

No.12  投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年06月05日 (火) 17時29分

画像は、上の画像と反対側から撮ったもの。食事している人と、青いザックは動いていません。
 手前の岩の断面は、上の画像の中央の深い割れ目の断面。
 青いザックと向こうには、分離した岩が見え、その先の2人の人物の向こうに見える巨岩は、食事している方が腰掛けている平らな岩から、分離して急斜面に落ちかかっているものらしい。

No.13  投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年06月05日 (火) 17時31分

前の画像の、赤足と黒足の後ろ側、のぞいて見ると、円弧状の破断面で分離したやや小さな岩塊ブロックが急斜面に落ちかけていました。

 以上、各画像に見える岩塊の壊れ方は、いずれも重力による破壊ですが、(1)円弧状に(節理と無関係に斜面に沿って)破断していくのと、(2)直線的に(岩石の節理面を利用して)開裂したり、滑ったりするのと、2種類の動き方があるようです。

No.14  投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年06月05日 (火) 17時33分

目測と写真を利用して、平面略図を作ってみました。
 直線的な開裂割れ目は、3本。
 円弧状の破断は、明瞭なのが2カ所
ありました。
 測定の基準点は石の上の境界標だが、補助点に、食事中の方の尻と、立ち話中の黒足と赤足の方の靴・・・2番目の画像参照

図の左上方向にある、急斜面に落ちている巨岩(3番目の画像参照)は、直線状開裂で分離したのではと思いますが、確実ではないですね。

No.16  投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年06月05日 (火) 17時40分

 周囲の斜面形と露岩の崩壊形の関係を深読みすると、
(1)この露岩は、尾根先端にあるので、周辺の急斜面方向への、平面が円弧状の破断面による小規模な岩塊の分離が起こっている。
(2)尾根全体の横断方向では、北西側斜面の方が急勾配であり、それに対応したと思われる直線状で平行した開裂が発生している。この現象は、基盤の斑糲岩の節理系のうち、北東・南西方向の節理面を利用して開裂が起こっていると想像される。

 とまあ、こんなところですが、ここに記録したような、重力による基盤岩石の破壊変形は、ありふれた現象であり、少なくとも、同じ斑糲岩である、筑波山山頂部では同じような重力変形作用が発生していると思われます。  
 実は、筑波山の怪石といわれる岩を一通り廻ってみましたが、北斗岩を除くと、みなこの2種の重力変形で解釈できそうな形であります。
 次回は、近くの「立身岩」での例を紹介します。

No.6 筑波山の山の形 山が砕ける 投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年05月29日 (火) 15時53分 [返信]

最近、筑波山の登山道沿いにある怪石群を見に何度か行きました。それで、石を見るための前提として、山の地形分類をしてみました。
 すると、筑波山は、いわゆる斑糲岩の残丘地形といわれていますが、それだけでは言い尽くせないものがあると思います。
 残丘地形が形成されたのはかなり古そうですが、むしろ、その後の地形変化が著しいと思います。
 山頂部は、以前の地形が重力崩壊(岩盤クリープ)して3つに分離しています。 また、山頂部斜面が、更新世後期まで、面的に改変され、さらに、完新世になって、山頂部の斜面の化石化と谷の侵食が進んでいるようで、稜線の南北での斜面地形の違いも著しい。
 画像は、常磐道から見た筑波山。左:男体山 中央:女体山 右の手前の塔と重なる部分:つつじヶ丘。

No.7  投稿者:滝おやじ    投稿日:2012年05月29日 (火) 16時04分

 山頂部が3つに砕けていることについては、羽田野先生の指摘があり、男体山の東端と女体山の東端、つつじヶ丘の東端で3つのブロックに分かれると述べておられます。羽田野(1989)。ものすごく納得。
 女体山を頂点とする三角形の山があったことになりますね。
 ただ、先生は言葉で言っただけで、図を示しているわけではないので、私見を図化して示します。この図は、地形図から断層を推定して作成。
 図は、上の画像と大体同方向からの山体ブロック概念図 作 滝おやじ。

No.8  投稿者:滝おやじ    投稿日:2012年05月29日 (火) 16時13分

断層の推定図です。
 男体山と女体山の東端の2カ所は、正断層風の滑落地形で、すごく明瞭。
 つつじヶ丘の東端は西側が押してきて、のし上げた逆断層風の地形と私は解釈しました・・・羽田野先生は明瞭な言及なし。
 地形は明瞭ですが、露頭での断層割れ目の確認はなされていません。露頭がないとのこと。男体山の東端の断層についての露頭は、御幸ヶ原と千手沢に以前あったが現存しないとのことです。
地質図(5万真壁)にも記載されいません。その辺で、あまり指摘する方がいないのでしょう。
 
 ところで、このように、周辺と岩質が異なり、屹立している平面が細長い山が、自重により自壊し、稜線を横断する方向の割れ目によって分離する現象は、報告がされていないだけで、実際はかなり普遍的と思われます。
 たとえば、関東山地北部の叶山、二子山は、海山起源のスライスされた石灰岩体の山ですが、見事に割れています。5万地質図「万場」にも断層として記載されている。その割れ目の「叶後の牢口」は天然記念物だったと思います。
 国土地理院1万国土基本図に加筆。作:滝おやじ

No.4 奥多摩三山の三頭山 投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年03月17日 (土) 18時36分 [返信]

 一昨日、八王子市の北浅川・鶴巻橋上から遠望。戸倉三山の眺めです。左手の市道山と右手の臼杵山の間に、大沢山・三頭山が頭を出している。
 画像では省略しましたが、臼杵山の右手には、御前山と大岳山がそびえている。
 秋川流域の分水界にある三頭山(1531m)、御前山(1405m)、大岳山(1267m)は、奥多摩三山と呼ばれ、下流側から見ますと、1000-1100mぐらいの定高性のある山地から、3つの山が突出している。
 この突出は何故・・・。地質図を見ると大岳山はチャート層、御前山は石灰岩層、三頭山は石英閃緑岩貫入岩体が周囲の岩石を熱変成させたホルンフェルスが山頂を作っています。
 それぞれ周りの地層よりも硬いので、関東山地が侵食により山の高さを減じていった過程で、掘り残された結果として、相対的に突出した山になっていると思われます。

No.5 三頭山は何故高い・・・ 投稿者:滝おやじ     投稿日:2012年03月17日 (土) 18時40分

 大岳山(チャート)と御前山(石灰岩)は、いかにもと思われるのですが、三頭山の山の形と岩石の関係を図にした例はないみたいで、やってみたら面白そう。
 秋川の流域界沿いの地形断面、範囲は、笹尾根の槙寄山付近から北上して大沢山より三頭山中峰に至り、そこから東に、三頭山東峰を経て、鞘口峠から砥山・戸沢峰(浅間尾根合流点)付近までを書き、地質を入れました。
 地質図は、5分地質図の「五日市」のデータ。四万十帯の小仏層群(白亜紀)の小伏層と盆掘川層が、数個の石英閃緑岩体の貫入(中新世)を受けてホルンフェルス化した地質です。
 ホルンフェルス化の範囲は花崗閃緑岩体から500m以内という記載がありましたので、地質図上でのその範囲とし、2つの岩体から500m以内で両方から年を受けたと思われる範囲を「2重焼け」ということにして区別しました。
 図を作ってみてわかったのですが、三頭山の突出している山体は、見事にホルンフェルス化した範囲と一致していますね(特に笹尾根の部分)。
 また、2重焼けした部分が、更に高い所になっていて、大沢山が何故高いのかも、2重焼けの部分になっているからということで説明できそうです。
 より細かく読図しますと、尾根の位置、峰の位置、三頭沢の瀑布帯の位置なども、地質に影響されているようです。

No.71 筑波山と奥多摩の地形 投稿者:奥多摩大好き学生    投稿日:2013年04月06日 (土) 12時18分

ちょっと目に留まったので読ませていただきました。
私も、地形が好きなので共感できる点が多く、コメントさせていただきたいと思います。


 筑波山の地形は、私も羽田野さんの指摘同様に、重力変形地形(岩盤クリープ)であると思います。
なぜ、女体山と男体山の2つのピークが存在するのか。東西で非対称山稜なのか(西が急傾斜で、東が緩傾斜)。山頂付近の御幸ヶ原の存在。などを説明するにも納得がいきますが、私も筑波山に行ったことがありますが、いい露頭はなさそうですね。。証明するにはなかなか難しそうです。
ただ、山麓には土石流扇状地が広がっていたり、赤城鹿沼テフラがみれたりと、地学的にはとても面白いですね。


 奥多摩三山の地形を分かりやすく解説されていてとても楽しく読ませていただきました。それぞれ、まわりの四万十帯堆積岩とは異なった山体であるというのが地形を規定していますね。その他、鳩ノ巣城山や鋸尾根、稲村岩、神戸岩なんかもチャートや石灰岩による組織地形のようなものですよね。
もっと多くの方が、奥多摩に興味を持っていただけたらって思ったりします。


No.3 東京湾内湾、自然海岸の津波跡 投稿者:滝おやじ    投稿日:2012年03月13日 (火) 16時46分 [返信]

先日、木更津市の小櫃川河口三角州に行きました。
3/11の津波跡が今でもはっきり残っていました。
遡上高1.0〜1.5mぐらい。護岸がない自然海岸なので、低い浜堤を乗り越えて、潟湖に流入し、芦原を200mぐらい進んでいた。
三角州の旧流路跡の水路では、漁船を流してもっと上流まで。



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