スメリアの春を彩る花といえば、桜だろう。 古の昔からこの国に春の訪れを告げた花は、世界を引き裂いたとすら称されるあの大災害の後も、やはり変わらず薄紅色の花を咲かせていた。 宵闇の広がる中、微かな月明かりに照らされた桜花は、それ自体が光を放っているように見える。 仄明かりに浮かぶ桜は幻にも似て、異界へ誘うしるべのようにも思われるのだから不思議なものだ。 力強く根を下ろし、多くの枝を茂らせ、その身を桜花で艶やかに覆った大樹は、見る者に安らぎを与えてくれる。 この桜の大木の下で、恩義ある父と初めて酒を酌み交わしてから、幾年月が過ぎただろうか。 天涯孤独の身であった頃の昔よりも、組の一員となってからの記憶がより鮮明なのは、父と呼び慕った男の存在が大きかった。 一家を喪い、新たな仲間を得てからは、状況が一変した。 ――まさかスメリアの裏世界に生きていた自分が、世界の命運を賭した戦いなどというものに巻き込まれようとは。 予想外の、ある種皮肉と言えなくもない立場に苦笑を禁じ得なかった。 裏世界といえば、仲間にもう一人、似て異なる境遇の青年がいた事を思い出す。 今でこそハンター稼業を生業にしているが、独特の雰囲気を隠しおおせるものではない。 表社会に生きる者には朧気にしかわからないだろうが、同じ世界の一端を知る者には自ずと感じられるものがあった。 幾度か酒を酌み交わした事もある。寡黙だが信に報いる誠実さを備えた男で、心の奥に通じる何かがあった。 「そういやあ、あいつはここへ来た事がねえか」 旅の最中、トウヴィルを訪れる機会はあったものの、桜の時期を外したせいもあり、ここで酒を呑んだことはなかったのだ。 一人手酌で呑みながら、彼は微かな笑みを口の端にのせる。 桜の見頃はほんの一時でしかない。今を逃せば次は翌年になるだろう。 残念ながら、今年の花見には間に合いそうもない。 尤もあの男は今も世界中を飛び回っている筈だ。世界の復興に於いて、ハンターの存在は重要な位置を占めていた。腕が立つならば尚のことである。 桜を愛でながら盃をさすには、いましばらく時間が必要だと思われた。 とはいえ、待つと言っても数年の話だろう。大した時間ではない。 この大樹は、あの災害を生き抜いたのだから。 宵闇に浮かぶ桜花を見やる彼に、背後から声が掛けられたのは、その時だった。 「トッシュ」 柔らかな声に彼の目が細められる。 声の主はいらえを待たずに歩み寄ると、特等席に座を占める彼の隣へ腰を下ろした。 そうして懐に抱えていた一升瓶を間に置いて、にっこりと人好きのする笑みを向けてくる。 「手土産持参だから文句は無し、でいいかな?」 「天下の勇者様が不良になったもんだよな」 くつくつ笑いながら、トッシュは手酌を繰り返していた酒瓶を差し出した。 応じる側も慣れたもので、いつの間にか用意していた猪口で酒を受けている。 「間違いなく仲間の影響だと思うよ」 涼しい顔で酒を飲み干した彼に、トッシュは破顔した。 「違えねえ」 笑みを残したまま猪口に酒を満たす。 一陣の風が枝を揺らし、零れた花びらを攫っていった。 「ここは変わらないな」 桜の大樹を見やり、アークが呟く。 そう頻繁に訪れるわけではないが、アークもこの桜には昔から馴染みがあったらしい。声音が懐古の念を帯びていた。 「確かにな。なかなかどうして、自然も人間もしぶといもんだ」 「ああ、本当だ。……だから安心できるんだな」 トッシュは人の営みを口にしたつもりだったが、アークはそう捉えなかったらしい。 どこか苦笑にも似た笑みを見せ、猪口へと視線を落とす。 そんな彼を横目に、トッシュは盃に残った酒を一息であおった。 酒精が身体に満ちてゆく。 視界に映る桜色に刹那の幻を感じたのは、宵闇の孕む気配のせいだろうか。 空になった盃に酒が注がれる。 心地良い水音を聴きながら、トッシュは口を開いていた。 「ここを出ようかと思ってな」 隣に座した青年――アークは一瞬動きを止めたが、盃が満たされると酒瓶を引いた。 「そうか。寂しくなるな」 いらえは短かった。声音にも驚いた様子がさほど感じられず、彼がトッシュの言葉を予期をしていたらしい事が察せられた。 前々から、区切りがつけば国を出ようと考えていたのだ。 村の復興に共に尽力して、半年が過ぎようとしている。 これは、世界に大きな傷を残した未曾有の災害が引き起こされてからの日数でもあった。 未曾有の災害――ある意味人災と言えなくもない悲劇である。 引き金となったのは心の虚を突かれたロマリア国王だが、この世界に住まう人々一人一人の心の裡に、闇を引き込む要素があった。それが世界を満たしていたはずの精霊の力を弱らせ、闇の力の復活へと荷担する結果となったのだ。 精霊の祝福を受け、その力を授かった勇者と聖母の存在は、闇を祓う大きな力足り得たが、それだけでは全ての終わりに訪れたのは世界の破滅だったろう。 過ちを正す勇気と信頼の心、そして託された希望が、奇跡を生んだ。 桜を見上げ、一献傾ける青年の姿を横目で見つつ、トッシュはそう思う。 実年齢を考えればまだ少年と言えなくもない彼は、十六の歳で既に成人と変わらぬ風格を身につけていた。背負った宿命が、そうさせたと言うべきだろうか。 旅の目的を果たし、今も故郷の復興に尽力するアークは、最早誰もが認める一人前の男だった。 村の誰からも頼りにされる、頼もしい存在だ。 「ここにはお前がいるからな。まず間違いはねえだろう」 日頃の村における彼の姿を思い描きつつトッシュがそう口にした途端、アークは少しばかり棘を含んだ視線を向けてきた。 そうして些か険のある声音を返してくる。 「……前々から気になってたんだが、父さんの事を言いふらしたのはトッシュだろう?」 思わずトッシュの口から笑いが零れた。 その様子に、アークは深い息をつく。 大災害を経て生き残った人々は、変わり果てた大地の惨状に嘆く力すら失っていた。 結局、残された土地に集う人間がそれぞれに肩を寄せ合い、少しずつ復興へと歩んでいく事になるのだが、この村が早くからその一歩を踏み出せたのは、アークの存在に拠るところが大きかった。 世界の崩壊を食い止めた少年は、亡くなったとばかり思われていたスメリア前王嫡男の息子であり、正統な王族の血を受け継いでいたのである。 希望は心の支えになる。 寄る辺をなくして生きていけるほど、人は強くはないのだ。 「住む場所も国そのものも無くしちまって、途方に暮れてた村のやつらをまとめたのはお前だぜ、アーク。そんなお前に村の面々が長になって欲しいと望むのは、当然っちゃあ当然の話だと思うがな」 「先に広められた父さんの出自が、嵩上げに一役買っているだろう」 皮肉の込められた言葉は、しかしながらトッシュに反省を促す程ではなかった。どこか楽しげに細められた瞳と唇の端に浮かぶ笑みがそれを物語っている。 元は異なる村と町であったトウヴィルとパレンシアだが、災害によって引き起こされた大地震は大きな地殻変動を伴い、小さな島国に多大な変化をもたらしたのである。 直後に人の居住できた土地は限られた範囲しかなく、生き残った人々はそこに集って暮らし始める事となった。 アークは村の復興の段取りをつけ、率先して力を尽くしていたが、それはあくまで村の一員として、手段を実現する力を持っていたが故の話である。 本人は村の重鎮に納まる事など毛頭考えていなかったが、この状況下に於いて、人々が放っておく筈がない。 人の上に立つことなど露ほども考えていなかったアークだが、自身の存在が復興の支えとなるならばと、周囲に押し切られる形で村の取り纏め役を引き受けることとなったのである。 仮に他の人間が村長として立った所で、村の中心人物たるアークの存在を気に掛けぬわけにはいかなかったろう。 頂点に複数の頭を戴く組織は、脆くなるものだ。 下町に居を構えていた者の中には、モンジ一家の若頭を張っていたトッシュを頼りにしている者もあったのだが、元来彼は裏の社会に生きる人間である。 一家でただ一人生き残ったトッシュはモンジの名に恥じぬよう、またアークを支える形で村の再建に尽力したが、表に立つ気はなかった。 今は村全体が一枚岩となって困難に立ち向かうべき時なのである。 だからこそ、アークが立つべきだと思ったのだ。 それだけの偉業を成し遂げ、リーダーシップを兼ね備えた人間が、この非常事態に隠居を決め込むなど罪悪にも等しいものであったろう。 ――何よりアークの今の立場は、彼個人が積み重ねた実績に対する正当な評価だと、トッシュは確信していたのだから。 盃を空けたトッシュは、横目で軽く笑う。 「まあ、静かな生活を望むお前にとっちゃあ、新たな責任を背負い込むのは重荷かもしれねえが、そこんところはリーダーの星の下に生まれついた不運とでも思っておくんだな」 「……随分勝手な話だな」 溜息混じりのアークが、内心では自身よりもトッシュに村のまとめ役を任せたいと願っていた事は、早い時期から察していた。 だからこそ先手を打ったのである。 一家を喪ったトッシュは、アークやポコと国へ戻ったその時、いずれ故郷を離れる事を心に決めていたが故に。 空いた猪口に酒を注ぐトッシュへ、アークは肩を竦めて苦笑を返す。 噂の出所を察したその時に、アークも理解したのだろう。 だからこそ、村長という大役を一度は辞退したものの、結局は引き受けることとなった。 そして今も尚、村の復興に全力を注いでいるのだ。 「ここにはお前がいるからな、安泰ってもんだ」 そう。この村には、この国にはアークがいる。 これまでアークを支える形で村の再建に力を貸していたのだが、それが目に見える形を結ぶようになった今、改めて、自分の足で今の世界を見ておきたいと、そう思ったのだ。 「まあ、そんなわけだ。ぶらりと行ってくるさ。お前の話は何処にいたって聞こえてくるだろうしな」 自分の腕が役立つ場所が残っているかも知れないと思ったのも、理由の一つ足り得るだろうか。 剣客一人の腕など、たかが知れている。自惚れが過ぎるかもしれない。 だが。 「落ち着いたら、知らせてくれよ」 応じるアークの声音には、強い信頼が込められていた。 トッシュ自身、村の外に求める場所があるという確証をつかんでいるわけではない。 しかし旅を決意した当人よりも、むしろアークの方がそれを確信している節があった。 何者にも揺らぐ事のない、真っ直ぐな眼差しが、トッシュを見つめている。 「いつになるかはわからねえけどな」 その視線をどこか面映ゆく感じながらも、見返すトッシュの表情はこれまでになく穏やかであり……。 アークは安心した様子で微笑んだ。 再び桜を見上げて猪口を傾けるアークを見やり、トッシュがふと意味深な笑みを浮かべる。 そして。 「お前はこうして落ち着いたんだ、さっさとガキこさえろよ」 「っ!?」 アークがむせた。 完全に不意打ちだったらしく、幾度も咳き込む羽目になる。なまじ酒を呑んでいたものだから、刺激は水や茶の比ではない。 くつくつと笑いながら、トッシュは手酌で盃を満たし、一気にあおった。 「やんちゃ坊主かお転婆娘か、何せ母親があのククルだからな、容易に想像がついちまう所だよなあ」 「トッシュ!」 苦しい息の下から、それでも抗議の声を上げるアークを楽しそうに見つめるトッシュの口元には人の悪い笑みが刻まれている。 アークは何とか息を落ち着かせたものの、咄嗟には効果的な反撃を思いつかなかったらしい。 ここは実年齢一回り以上の差を見せつけたといえるだろうか。 「その報せも楽しみにしてるぜ」 軽く盃を掲げてみせるトッシュへ、アークは言葉少なに応じた。 「……まあ、いずれは、かな」 これ以上は無粋というものである。 その後は深まる宵闇に浮かぶ桜を肴に、静かな酒宴が続いた。 盃を重ねていたトッシュが再び口を開いたのは、月が中空から桜花を照らし始めた後である。 「なあ、アーク」 その名を呼びつつ傍らの相手を見やる。 「何だ?」 応じる声に変化はない。 既にトッシュ愛用の酒瓶は空になり、アークが持参した一升瓶の中身も半分程減っていたが、酒にのまれている様子はなかった。 将来が楽しみだと思いつつ、振り向く彼を眩しそうに見ながら、トッシュは柔和な笑みを浮かべた。 「良かったぜ、本当によ」 こうして村にいることが。 ――あの戦いから、生還できたことが。 言葉にせずとも伝わったのだろう、アークもまた笑顔を返す。 「ああ。ありがとう、トッシュ」 満ち足りたその笑顔が全てを物語っていた。 一陣の風が吹き、桜の花が舞う。 桜花に誘われるようにトッシュは大樹を見上げた。 「何年か……そうだな、五年後、この桜を肴に皆で花見と洒落込むか」 言いつつ投げかけられた視線を受け、アークは嬉しそうに頷いた。 「ああ、それはいいな。楽しくなりそうだ」 そうして桜を見やり、一献傾ける。 隣で静かに呑むアークの姿に目を細め、トッシュは五年後の賑やかな宴を頭の中に思い描く。 世界の傷を癒しながら、共に歳を重ねられる喜びを噛みしめ、トッシュは盃を空けた。
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「if」話です。書き手の願望が込められております。 ひょっとしたらこういう未来もあったのかもしれないと。そんな願望の入ったif話。
2のED後、桜を愛でるトッシュを書いてみたいと思ったのですが、アークと盃を交わす姿が見たくなりました。…多分未成年ですがそこはそれ(笑)。 おそらくこの世界では、アークは故郷の復興に尽力して、皆に望まれて長となるのではないかと。責任ある立場からは逃れられないにしても、平穏無事に生涯を閉じるのではないかと思います。 子どもは一男一女、ククルに似たやんちゃ坊主と少し大人しい女の子の二人に恵まれ、賑やかな家庭を育んでいく…。そんな未来図を思い描いています。
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