ナップはつい数日前に訪れた断崖を、再び登っていた。 今の同行者はアールだけだ。 身軽なアールはリズミカルに断崖を登っていくが、まだ身長も低く、自慢できるほど力もないナップには一筋縄では行かない道のりである。 だが、彼は黙々と上を目指した。 一足先に頂上へ到達したアールが、ゆっくり進むナップを見下ろしている。 「もうちょっと待ってろ、アール。すぐに行くから……」 足下に注意を払いつつ、ナップは一歩一歩進んでゆく。 そして。 頂上へたどり着いたナップは、目的のものを発見すると、小さく息をついた。 数日前の戦いの現場、その地点に散乱する碧の破片。 ナップは用意した大きな布を広げると、破片――砕けたシャルトスをひとつひとつ、丁寧に拾い集めた。
イスラのキルスレスにシャルトスを砕かれたアティは、悲鳴を上げて泣き叫んだ。 仲間がアティを守り、敵を退ける間、ナップは何も出来なかった。 スカーレルに叱咤されたおかげで、かろうじて取り乱さずにすんだものの、彼女を守る為に何も出来なかったのだ。 アティがイスラを止める手段として殺害を口にした時。 言いしれぬ不安を抱いたあの時、何故止められなかったのか。 あの時のアティの笑顔の意味に、どうして気づけなかったのだろう。
ヤッファやスカーレルは、アティの笑顔の意味を察していたという。 しかし、ナップは素直にアティの笑顔を笑い顔だと信じていたのだ。 そう信じさせていたアティの本当の気持ちには、気づけなかった。
「いてっ」 「ビ!?ビビビ!」 「て……ああ、大丈夫だよ、アール」 集めた破片が指先に小さな傷を作る。少し血が流れたが、大した傷ではない。 最後の破片を拾い上げ、ナップは布に集めたシャルトスの欠片の量を確認する。 そして、崖下を覗き込んだ。 「あれもか……」 シャルトスが砕けた時、散らばった破片は崖下のやや張り出した部分にも落ちていたらしい。 斜面はかなりの勾配を持っている。素手で降りられるかどうか、という所だ。 しかし、躊躇している場合ではなかった。 「アール、ちょっと待っててくれよ」 護衛獣に言い聞かせ、ナップは崖降りに挑んだ。 足場を探しつつ、崖下の張り出した場所に向かって、一歩一歩進んでゆく。 体重を掛ける腕が震え、指先に力が籠もる。 幸い、この辺りは地盤がしっかりしているらしく、こういった経験のないナップにも何とか降りられる事ができそうだった。 ――それが、油断に繋がった。 あと少し、という所で、ナップは足を滑らせたのだ。 「うわ!」 右手の指が岩をつかみ損ね、爪が割れたと直感した。左手一本で体重を支えられる筈もなく、ナップは崖下に滑り落ちる。
船に戻り、錯乱状態のアティを薬で何とか休ませたものの、翌日から、彼女は何の反応も示さなくなった。 ぼんやりと、ベッドに座っている。 子供よりも無邪気に笑い、毎日忙しく駆け回っていた、あの面影はどこにもない。 皆が心配していたが、どうすることもできなかった。 ……シャルトスが砕けたせいだ、と言ったのは誰だったろう。 アティの心を象徴するあの剣が失われ、心が壊れてしまったのではないかと。
――だったら、砕けたシャルトスを元に戻せばいいのだ。
後頭部に小さな石が当たり、ナップは我に返った。 周囲を見回す。大小の碧の欠片を確認し、自分が目的地に到達したことに気が付いた。 安堵の息を漏らしてシャルトスの破片に手を伸ばした時、強烈な痛みが左足を襲った。 ナップは足の痛みを堪えて身を起こす。 左足の状態を確認したが、足首の腫れ以外に外傷は見られなかった。 捻ったにしては痛みが鋭く、収まる気配がない。 「折ったかな……」 幸い、ここはさほど広くない。 破片が一部に集まっていたこともあり、拾い集める事は難しくなかった。 ハンカチにシャルトスの破片を包み、ポケットに収めると、ナップは先程滑り落ちた岩肌を見上げた。 一番高い位置で待機している筈の、アールの姿がない。 崖から滑り落ちたナップを見、誰かを呼びに行ったのだろうか。 確かに、この足では崖を登るのは難しいだろう。となると、救助を待つしかない。 「……情けねぇな」 ナップはポケットに手を入れ、ハンカチ越しで破片に触れた。 シャルトスを手に戦っていたアティの姿を思い起こす。 そして、数日前、ここに来る前に見た、寂しげな笑顔を。 「先生……」 ナップはしっかりと破片を包んだハンカチを握りしめる。その指先に血が滲んでいたが、強い足の痛みでこちらの感覚はほとんどなかった。
――絶対に、シャルトスを元に戻してみせるから。だから……。
ナップの耳に、慌てるアールの声がかすかに聞こえてきた。 誰かを連れてきてくれたのだろうか。 崖の上を見上げたナップは、そこに小さな人影を確認した。
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このイベントは生徒の一途な想いに涙、でした。 無力な自分に何が出来るか、必死で考えたんだと思います。 ナップの話を書いたことが無かったので、彼視点に挑戦してみました。 彼はアティのことが好きだと思うんですが、スカーレルが好きなアティに対して、複雑な感情を抱いているのではないかと。 相手がカイルやヤッファならともかく、スカーレルですからねぇ。 (そのうえ勝てない事がわかってるから、なお悔しい、と…(笑))
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