「さんってつけるの、やめて」
クローディアがジャンにこう告げるのは、日常茶飯事だった。 しかし。 「あ、すみません。でも他にクローディアさ……んをお呼びする言い方が」 「どうして!」 予想外のクローディアの大きな声に、テーブルを囲んでいた全員の視線が彼女に集中した。 クローディアは狼狽したジャンの顔を見つめている。 「私だけそんな呼び方なの?」 普段から、あまり表情を変えることのない彼女の感情を読みとるのは難しい。 だが、今のクローディアを見れば、誰もが彼女の激昂を理解できただろう。 「グレイも、ジャミルも、ミリアムのことだって、貴方は呼び捨てにしているじゃない。どうして私だけ違うの?」 帝国軍人であるジャンにしてみれば、皇女たるクローディアを呼び捨てにするなど言語道断だろう。 普段からその名を様付けで呼びかけそうになる度、何とかごまかしている状態なのだ。 だが、それはあくまでジャンの都合である。 「私を見張る必要があるなら、みんなに頼めばいいでしょう。無理についてくる必要はないわ」 「ご、誤解です!クローディア様!」 クローディアがジャンに冷たい視線を向ける。 「私のことを特別扱いにしかできないのなら、もう来ないで。私には帝国なんて関係ないもの」 言い捨て席を立った彼女は、そのままテーブルを離れた。 「クローディア、ちょっと待ちなよ!」 宿の部屋へ向かったクローディアをミリアムが追う。 後には呆然としたままのジャンと、黙って成り行きを見守っていた二人が残された。 「ど、ど、どうしたらいいんだ……グレイ!」 食堂を出て行く二人の姿を見送ったグレイは、おもむろにジャンへと顔を向けた。 「態度を改めろ」 「どうやって!?」 「普通に話せばいい」 単純明快な解答である。 「できるわけないじゃないか!」 「何故だ?」 一瞬、ジャンは怯んだ。 ここで我に返った彼は、大勢の人で賑わう食堂で騒ぎを起こした事に気づき、軽く咳払いをして椅子に座り直した。 その上で、隣のグレイに幾分低い声で話しかける。 「クローディア様がどういう方かはわかっているだろう?本来なら一介の軍人が気安く話せる相手じゃないんだぞ」 クローディアの出自は秘されていたが、共に旅をしていれば察しは付く。ましてやジャンの態度を見れば一目瞭然だ。 しかし、グレイ一行はこれまでの旅の間、その点に触れることはなかった。 だからこそ、ジャンの態度が浮いてしまう原因にもなったのだが。 「そもそもあの方は帝国の未来を左右するお方であって……」 「それが嫌なんじゃねぇの、クローディアはさ」 テーブルに頬杖をついて二人のやりとりを見ていたジャミルが横槍を入れる。 「だ、だが、軍人としてはだな」 「あんたさぁ、それが逆効果になってるって気づいてないの?」 「え……」 明らかに意表を突かれた様子のジャンに、ジャミルは軽く溜息をついた。 「グレイはともかく、オレやミリアムのことも呼び捨てにしてるくせに、クローディアは『様』付けだろ?実際にはそう呼んじゃいねぇけど、バレバレじゃん。一線引いてるって思うよな、普通」 「それは……」 「要はクローディアがどう思うかさ。あんたの遠慮が距離感、引いては冷たい態度に見えるって事だよ」 ジャンは絶句した。 ――まさか、自分の言動がそのような誤解を生んでいようとは。 想像の範疇を越えていた事態に、ジャンは内心混乱していた。 そのまま、しばしの時間が流れる。 「なぁ、グレイ」 ぽつりとジャンが問う。 「今は冒険者だが、お前も軍属だったじゃないか。あの方へ何らかの遠慮というか……そういうものは感じないのか?」 ジャミルが意外そうにグレイを見やる。 が、グレイはその視線を無視して答えた。 「玉座で責務を果たす相手には相応の敬意を払う」 「しかし」 「クローディアは迷いの森で育った娘なのだろう?特別扱いする必要などあるまい」 「そう、か……」 しばし考えた後、ジャンはおもむろに席を立った。
ジャンは宿の一室の前に立ち、扉をノックした。 「クローディアさんにお話があるんですが」 扉を開けたのはミリアムだった。 彼女は小さく笑うと、室内のクローディアを振り向き、ひとつ頷く。 「じゃ、あたいは席を外すよ。……しっかりね、ジャン」 ジャンの脇をすり抜ける際、小声でこれだけを言い残し、ミリアムは部屋を出ていった。 入れ替わるように、ジャンが部屋に入る。 クローディアは、窓際に佇んでいた。 「あの、クローディアさん」 「……何?」 「私はバファル帝国の軍人です。ですからどうしても、貴女を呼び捨てにすることができません」 「…………」 「でも、ですから、クローディアさん、と呼ばせていただくことをお許し願えないでしょうか」 普段から様付けで呼びかけそうになる事が多々あり、そのたびに言い直していたのだが、最初からこう呼ぶことが出来るなら、距離感も縮まるかもしれない。 軍属であるジャンにとって、今現在、これ以上は無理なのだ。 「私は、貴方に許可を与えるような人間ではないわ」 でも、と彼女は続ける。 「いつか……さんってつけるの、やめてもらえる?」 普段その口をついて出る言葉よりも柔らかい口調で、クローディアが問うた。 「……努力します」 「わかったわ。……ありがとう」 クローディアが静かな笑みを浮かべた。 思わず赤面したジャンは慌てて部屋を後にしたのだが、彼女の微笑みはしっかりと脳裏に焼き付いていた。
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お調子者っぽいジャンですが、クローディアと行動を共にするとなれば、こういう状態になるのではないかと思ってしまったんです。 ジャンとしては彼女は本来雲の上の御方なわけで、どうしてもこうなってしまうと。 でも、それを受けるクローディアは段々我慢できなくなって…という感じ。 一定期間ならさほど気にならなくても、四六時中「〜様!」じゃ落ち着かないかなと(苦笑) で、この後はジャンらしさが発揮されて、アルティマニア巻末小説みたいになるといいな、なんて思ってます。
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