宿の片隅で楽の音を奏でていた詩人は、最後の調べをつま弾くと、いつしか周囲に集っていた人々に軽く頭を下げた。 さざ波のように広がる拍手に笑顔で応え、彼はその場を後にする。 詩人の後を一つの影が続いた。 「いつもながら、素晴らしい演奏ですね」 「ありがとうございます」 控えめながらも感嘆に満ちた声に、詩人は穏やかな笑みを返す。 「よろしければ、少しお付き合いいただけますか?」 品の良い顔立ちの少年が応じると、二人は宿の外へ出た。 すっかり夜も更けているが、灯りに満ちたクリスタルシティは昼間とは異なる美しさで彩られている。 夜風が頬をなでる感触に目を細める少年へ、詩人はおもむろに問いかけた。 「アルベルトさん、つかぬことをお訊きしますが、貴方はアイシャをどう思いますか?」 「アイシャを……ですか?」 唐突な質問に戸惑った様子のアルベルトが聞き返す。 詩人が視線で応じると、なおも困惑したように少年が言葉を濁した。 「……どう、と言われても」 「思うままで結構ですよ」 返答に窮する少年へ助け船を出すと、彼は一時詩人から視線を外した。 内心で少女の姿を思い描いたのだろう。しばしの沈黙の後、少年は言葉を選びながら内心を伝え始めた。 「素直な良い子だと思います。思いやりがあって、心を和らげてくれる……花のような子ですね。お祖父さんたちと再会できて本当に良かった」 最後は心からの言葉だったろう。優しさに満ちた声に詩人は目を細める。 「では、そんな彼女が家族と別れて危険な旅をすることについて、どう思いますか?」 心持ち目を伏せ、少年は躊躇いがちに口を開く。 「……正直、賛成したくはありませんけれども……アイシャの意志ですから」 「本音を申し上げますと、私は反対なのですよ」 「え?」 アルベルトが詩人を見返した。 地下世界を出る時に同行を希望したアイシャへ彼が反対する様子を微塵も見せなかった分、殊更に意外に感じたのだろう。 詩人は本心の見えない笑みを返す。 「行方知れずとなった一族を捜している時ならばいざ知らず、まだ幼い娘がこのように危険な旅をする事に対して、諸手を挙げて賛同する者はさほど多くはないでしょう」 「……でも、貴方は反対しませんでしたよね?」 「ええ、理由は貴方と同じです。ただ……あの子はね、ミリアムほど強くはありませんよ」 「……?」 アルベルトが微かに眉をひそめた。その表情に浮かんでいたのは、疑問の色。 発言の意味する所を理解できなかったらしい少年へ、詩人は丁寧に説明を加えた。 「ミリアムは好いた相手と共に在る事で強くなれる女性です。共に戦って最後まで生き抜くために。そしてグレイには彼女の強さを受け入れる度量があります。だからこそあの二人は大丈夫なのですよ」 自信に裏打ちされた強さ、生まれつきの性分もあるだろう。だが何よりミリアムには互いに支え合える存在がいる。 少年の瞳に理解の光が宿った事を認めた上で、詩人は言を継いだ。 「けれどもアイシャは違います。彼女は懸命ではありますが、強くはないんですよ」 脳裏に浮かぶのは、ひたむきで皆の役に立ちたいと努力する少女の姿。 これまで助けられてきた皆の力になりたいという気持ちに嘘偽りはないだろう。 しかし、その中にはアルベルトの傍にいたいという彼女の願いもまた、存在しているのだ。 おそらくは、未だこの少年が気づいていない感情。 「……わかる気がします」 アルベルトがぽつりと呟いた。 彼の心にもまたこれまでのアイシャの言動が去来しているのだろう。 詩人は次の言葉を発するまでに、少しばかり時間を置いた。 「仮に絶体絶命の危機に瀕した時、ミリアムならば生き残る手段を必死に探すでしょう。ですがアイシャは……仲間のためであれば、その身を擲つかもしれない」 「馬鹿な!!」 アルベルトが血相を変えた。 しかし、言葉が続かない。心のどこかで詩人の言を否定できないのだろう。 アイシャはいつも前向きだった。明るく元気な姿は仲間を力づけていたし、彼女自身も共に旅をする仲間たちの足手まといにならぬよう、常に努力を怠らなかった。 アイシャが努力家であることはもちろんだが、彼女には消えた一族の皆を捜す事が仲間に迷惑をかけているという負い目もあったのだろう。 アイシャはタラール一族が消えてしまったあの時も決して諦めることなく、一縷の望みを抱きながら、手がかりを求めて旅を続けていた。 しかし、か細い一条の光を信じ続けるということは、裏を返せば諦めるのが怖かった、皆の死を受け入れたくなかったということにも繋がるだろう。 幸いなことに、アイシャは地下世界で一族の仲間たちとの再会を果たすことが出来た。 タラール族はサルーインの復活を避けて地下へと逃げ延びていたのである。 アイシャの祖父を始めタラール族の者は皆、彼女が地下に残るように説得した。 しかし、アイシャは首を縦に振らなかった。 サルーインの復活を知っていながら安全な場所に逃げたくはない、と。今まで共に戦った仲間に恩返しをしたい、という気持ちを告げて、グレイたちと共に旅を続けることを選んだのである。 仲間への恩返しはもちろんだが、もうひとつ、心の奥に隠された気持ち故に。 最後まで、アルベルトと共に在りたいのだと。 おそらくグレイやミリアムはそれに気づいているのだろう。 「……優しさは時として残酷です。貴方はそれを承知しているでしょう」 驚愕する少年の脳裏を過ぎったであろう記憶は、おそらく故郷が落城した運命の日。 唇を噛み、両手に拳を作る少年の姿に痛ましさを覚えながらも、詩人は改めて彼に話しかける。 未だ、自身の感情に気づいていない少年へ。 「ですから、貴方に頼みたいのです。アイシャのことを。私はそろそろここを離れなくてはなりませんので」 さらりと告げられた詩人の言葉に、アルベルトは我に返ったらしい。 「最初から道行きを共にするのは限られた時間と決めておりましたからね。旅の間に魅力的な題材をいくつも見つけられましたし」 共に旅を続けたのはお互いの利害関係が一致したためである。いずれ別れが訪れるのは当然だった。 しかし、詩人がこれほどにタラール族の少女を気にかける事は、意外だったのだろう。 アルベルトは改めて正体不明の人物へ問いかけた。 「何故、貴方は……そこまでアイシャのことを……?」 旅の吟遊詩人と遊牧民族の少女。共通点など思いもつかないのも無理はない。 詩人は典型的なローザリア人、少女は生粋のタラール民族。血縁関係もまず考えられないのだから。 「互いの名誉のために申し上げますが、彼女と私には血縁関係はありませんよ」 思考を見透かされ、途端に赤面する少年へ穏やかな笑顔を返し、詩人は続ける。 「ですが、そうですね……放っておけなかったんです。彼女のことが、実の娘のように感じられたせいかもしれませんね」 「……娘、ですか……?」 「こう見えてもいい歳なんですよ」 くすくす笑う詩人にアルベルトは首を傾げる。 確かに外見は二十代後半といった態だが、見る者に思慮深さを感じさせる瞳やその表情は、むしろ長く年を重ねた者のように感じられるのだ。 「とにかく」 口調を改めた詩人の声に、アルベルトは我に返ったらしい。 静謐な眼差しが澄んだ瞳を見据えた。 「アイシャの事を頼めるのは貴方だけですから。……彼女をお願いします」 「……承知いたしました。私で宜しければ」 強く頷くアルベルトに詩人は安堵の笑みを返す。 「貴方だからお願いするんです。しばらく共に旅をして、ひととなりを見てきましたからね」 詩人に応えたのは、真摯な表情と強い意志を宿した瞳。
──この少年ならば。
アイシャを任せられると、改めて思うのだ。 彼女に暖かい眼差しを向けていた、真っ直ぐな心根の少年。 そんな彼を慕うようになった無垢な少女。 互いの心が通じ合うには、まだ時間が必要であるかもしれない。 それでも、彼は心の裡で願わずにはいられなかった。 アルベルトが、その心の中で育みつつある感情に気づく日が、一日も早く訪れる事を。
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アイシャは二者択一を迫られたら、自分を犠牲にする方を選ぶんじゃないかと思います。 アルベルトは自分の命が多くの犠牲によって助けられたと知っているから、簡単に犠牲を選ぶことは出来ないんじゃないかと。 命の重さを知っているアルベルトだからこそ、詩人は彼にアイシャを守ってほしいと願っていると思います。
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