タイトルの言葉は私の脳内だけの言葉なのか、はたまたテレビか何かで使われていた言葉なのか・・・ そういう言葉ってなんだか多々あります。 ダイタヒカルではありませんが、すなわち「私だけでしょうか?」ということ。
世の中の動きにあわせてゴールデンな週をもらいまして、怒涛の10連休!!の後半戦です。
帰ってきて以来ちょくちょく覗いてました。 まめもまめに・・・
相変わらずおもろいなぁとね! まめ 日記ってのの過去が見れる性質は、ご本人様にだけ許された特権だと思っているので、あまり下に下がっていったりはしないことにしているのですが、舞台お疲れ様でした。
んでもって、この掲示板の下のほうにある話。 私も自殺は肯定したくないです。 けど、命の儚さを埋めたい! きっと生まれ変わる!そんなことを意識する悲しい死が情報として飛び込んでくるから。 悲しみの先にせめてもの明るさが欲しい。 意味ある死はないけれど、その先に希望があるなら一時の終わりに置き換えられる。そんな思いに駆られて、自分なりの輪廻を考えるようになったのです。 それを「なぜ感動するか?」の問いを考える際にまとめました。
生きていくうえで必要という唐辛子さんの意見もありかと、構成要素としての多種多様性も賛成。 生ききるうえで必要なのだとこの場合思いたいですが。
私が描く物語において死が共通テーマです。 ただ、この世に数多ある作品の中で、死を伏せた話というほうが少ないとも感じています。
書き上げた作品をいつか批評される立場になれればと思ってます。
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