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「硝煙の海」談話室

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[1228] 高幸丸の関係者と思われる方の手帳
From:2MeterScale [/]

先日、高幸丸の関係者と思われる方の手帳を横浜の骨董品店にて購入いたしました。当初は全く内容を読まずに購入したのですが、中身を読んで、知り合いの助けとともにこのページに辿り着きました。大正四年九月四日生まれの大同海運株式会社社員で、身長が170センチとあります。1953年の手帳ですので、菊池さんは退社されていますが、心当たりがございましたらぜひ持ち主を教えていただきたいです

2022年05月02日 (月) 22時38分


[1229] 残念。
From:「高幸丸」由良の愛知県民より [/]

通りすがりの者です。
私の名前は、祖父が「高幸丸」から漢字を当てたと両親から聞かされていました。
今回の投稿を拝見し、もしやと思い、実家に確認しましたが、全くの別人でした。
お力になれずすみません。
実家に確認中は自分のルーツを探す気分で、本当に不思議な時間をいただきました。ありがとうございます。
早く手帳の持ち主が誰か分かるといいですね。

2022年06月02日 (木) 20時17分


[1227]
From:菊池 金雄(きくち かねお) [/]

https://blog.goo.ne.jp/rt000gal/e/85ee0a07b128092c6b35ad6dabede3b6

2020年07月11日 (土) 19時04分


[1225] 鈴木東民の略歴
From:菊池 金雄(きくち かねお) [/]

東京帝国大学経済学部を卒業後、1923年(大正12年)に大阪朝日新聞に入社するが、日本電報通信社 (電通の前身) の海外留学生募集に応じて1926年(大正15年)に同社のベルリン特派員として渡独[1]。帰国後、1935年(昭和10年)に読売新聞社へ移り、読売新聞の外報部長兼編集委員を務めた。反ナチスの論陣を張り、当時の駐日ドイツ大使オイゲン・オットから危険視されて休職。郷里の岩手県に帰郷した。
第二次世界大戦の終戦と同時に上京して、読売新聞社に復帰。社内改革を目指して正力松太郎社長など幹部の退陣を要求したが、反撃を受け解雇されたため従業員組合を結成。組合長として第1次読売争議を指導。この後、正力がA級戦犯容疑者に指名され、巣鴨拘置所に収監されたゆえ、鈴木の解雇は撤回された。
読売新聞編集局長に就任したが、1946年(昭和21年)6月にGHQの勧告により再び解雇。第2次読売争議を指導したが、敗北した。
その後、自由懇話会理事長や民主主義擁護同盟常任委員を務める。日本共産党に入党し、衆院選や参院選に出馬したが落選、その後離党し、労働者農民党に移籍。1955年(昭和30年)に釜石市長に当選。1967年(昭和42年)の落選まで3期務めた。落選直後に釜石市議選に出馬し、市議を1期務めた。市長在職中の1958年に、市内を流れる甲子川上に日本で唯一無二の橋上市場(→橋#特殊な橋)を建設した。

2020年07月08日 (水) 14時38分


[1219] ご連絡お願いします。
From:山縣記念財団 郷古達也 [/]

菊池金雄様

いつも「硝煙の海」を拝見し、太平洋戦争における徴用船員の記録を後世に残し、風化させたくない、という熱い想いに共感しています。恐れ入りますが、ご連絡を差し上げたく、山縣記念財団https://www.ymf.or.jp/までご連絡をお願いします。

2020年05月29日 (金) 13時22分


[1224] ≪特別賞≫
From:菊池 金雄(きくち かねお) [/]

菊池 金雄(きくち かねお)

受賞者略歴
 1920年生まれ。1939年無線電信講習所(現電気通信大学)修了、1940年大同海運入社、北米・東南アジア航路に乗船。戦時中、陸・海軍徴用船乗組み通信士官として戦火の海を挺身、1951年大同海運退社、海上保安庁入庁、1981年海上保安庁退職、1984年保護司委嘱、2000年退任、2020年6月 満100歳を迎える。

受賞理由
 太平洋戦争を徴用船員として生き抜き、2002年5月体験記を著書『硝煙の海』(武蔵野文学舎)として上梓。同名のホームページも起ち上げ、戦時中の徴用船にまつわる秘話の聞き取り調査も、閲覧者と交流を重ねながら行っている。長年にわたる太平洋戦争時の徴用船の記録/取材活動を通じて、海事交通文化の発展に寄与したことを評価する。

                                                        以上
 
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NEWS
2020/06/22
2020年山縣勝見賞受賞者決定
2020/06/03
おかげさまで、山縣記念財団は6月3日設立80周年を迎えました。
2020/03/03
「2020年山縣勝見賞」募集のお知らせ
2019/12/23
『海事交通研究』第69集寄稿論文、 「2020年山縣勝見賞」、 補助金助成申込みの募集のお知らせ
2019/12/23
『海事交通研究』(年報)第68集を発行しました。
2019/12/11
冬季休業のお知らせ
2019/08/27
「第47回我ら海の子展」を後援しました。
2019/08/02
夏季休業のお知らせ
2019/07/19
2019年山縣勝見賞贈呈式開催
2019/06/20
当財団監事に堀江孝氏が就任
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2020年06月30日 (火) 16時22分


[1223] 浜邊の歌
From:菊池金雄 [/]

http://j-lyric.net/artist/a00126c/l013294.html

2020年06月26日 (金) 19時34分


[1220] Re:私の父かも?
From:菊池金雄の息子 [/]

筒井孝子さま

本日サイトのメンテナンス中に筒井様の照会に気づきました。
父、菊池金雄は百歳を超え、少し反応が遅くなってきました。
今度会った際、尋ねてみます。

今頃で大変申し訳ありませんが、いま少しお時間をください。

2020年06月22日 (月) 16時38分


[1222] Re:私の父かも?
From:菊池金雄の息子 [/]

筒井孝子さま

父に確認のところ、一男さんで間違いないそうです。

•自分より5歳ぐらい上。
•発電機の無線関係と機関関係の担当者同士で一緒に仕事をした。
•アメリカで検査する必要があり何時も一緒だった。

とのこと。他に思い出話がないか尋ねてみます。

お返事が遅くなりましたこと、大変申し訳ありません。
ご家族さまがご健在であられることをお祈りいたします。

2020年06月25日 (木) 12時59分


[1221] 高津丸ただ一人の生存者(高津丸司厨員 南谷隆三氏、当時十八才)の手記から
From:高津九戦記 [/]


                編著者 大同海運外B   菊池金雄

 高津九は昭和十九年一月浦賀船梁にて竣工した陸軍の特殊船乙形で五、六五六総トソ・速力十七・五ノット・中甲板に大発十八隻、上甲板上に十二隻の合計三十隻搭載して船尾の扉から発進させることが出きるようになっていた。「
しかし実際には、通常の輸送船として使用されることが多く、その能力を生かす事なく昭和十九年年十一月の多号作戦において米軍機の攻撃を受けて轟沈。多量の犠牲者(104名)を出したが、ただ一人の奇跡的生存者手記を以下に要約してみることとする。

昭和十九年十月二十四日上海から関東軍と多量の弾薬、糧秣を搭載のうえ二十六日、浅間丸 能登丸 金華丸 高津丸 香 丸の五隻の船団でマニラ向け出港。
この船団では本船の武装が突出(左右両舷に高射砲機関銃十門、船首に高射砲三門、同、船尾に四門、ブリッジ左右舷に高射砲、機関銃二門)更に水中聴音気も備え、敵機や敵の潜水艦の備えは大丈夫と乗組員は絶対に安心していた。
船団は無事に台湾海峡を通過して、かのバシー海峡にさしかかった途端、総員戦闘配置のベルが鳴り、護衛の駆逐艦六隻が次々と爆雷投下による巨大な水柱を目撃・・・私は左舷の士官用バスを掃除中だったので、ポールドから海面を眺め“可愛い魚雷と一緒に積んだ青いバナナも黄色く蒸れた・・・”と軍歌を歌えながら、高速の駆逐艦に乗りたいナーと思った。
十月三十日船団は無事マニラに入港したら、港内には多数の日本船が沈没、着底してマストが林立・・・米空軍の猛攻ぶりを肌で感じざるを得なかった。
 十一月一日午後突然本船に陸軍部隊が乗船、船の内外が鮨詰め状態となり、司厨部は二斗炊きライスボイラーで何回も炊飯するので調理場は炊飯の蒸気が充満。コックさんの汗は滝のよう・・・各パートとも懸命に持ち場に奔走した。
かくして本船は燃料をたっぷり補給して十一月一日行き先不明のままマニラを出港・・・フイリッピンの美しい島々を眺めながら、これでも戦争をしているのかと・・・平穏な海と好天に恵まれ、幸い敵の空襲もなく四隻の船団(内地出港時は五隻だったが、浅間丸はマニラから遭難船員を内地に輸送に転じ、バシー海峡で敵潜に攻撃され沈没したとのこと)十一月三日の深夜、不気味なほど静まり返っている某湾内(編著者注:レイテ島オルモック湾と思う)に投錨したところ、すぐ数隻の味方上陸用舟艇が各船に接舷し、兵隊がわれ先にジャコップをかけおり、なかには慌てて海に転落する兵も目撃されたが四日朝までに全部隊の上陸に成功した。
当然、何時空襲があるかを案じながら、甲板部全員で弾薬、糧秣揚陸に大童だった。
午前九時頃空襲警報のベルが鳴りB29が20機編隊で約一万メートルの高度から来襲したので味方艦船の高射砲、機銃が一斉に火蓋を切り・・・B29からは次々と爆弾投下・・・錨を揚げるいとまもなく一大音響・・・瞬間 大地震様に船体がブルブル震動・・・至近弾の爆風・・・両舷側に巨大な水柱・・・幸い被弾を免れたが、生まれて始めての空襲の怖さを実感させられたのだった。
 この空襲で能登丸のハッチに爆弾が命中。火炎につつまれ沈没したが、高津丸 金華丸 護衛の駆逐艦六隻は六日朝無事マニラに帰港した。 さあこれで内地の懐かしい土を踏めるぞと乗組員一同喜んでいたのに、八日の朝に突然、関東軍部隊が高津丸と金華丸に乗船して船内外は超満員になり、更に燃料、弾薬を搭載してまたまたレイテ島オルモック湾に向かう。九日の夜、投錨早々レーダーで捕捉されたのか、P38 B24の編隊の銃爆撃にさらされ、見方艦船の砲火も一斉に反撃。兵員達は上陸用舟艇もなく、皆先を争って海に飛び込む・・・敵機は超低空で本船を機銃掃射するので、鉄板をぶち抜くカンカン音等で逃げ場探しに右往左往して一時バスルームにやっと飛び込む。それから敵機攻撃の反対側に逃げたりして船尾側のパーサー室に飛び込んだ瞬間一大音響、腹這いに伏せて、やっと気がついた途端、爆弾のガスで気を失った。それからパーサーのサポートでデッキから「飛び込め」と言った。(この言葉は終生忘れられない)
 水面に首を出したら一面重油の海・・・ブリッチが吹っ飛び、船尾が三十度以上高くなってスクリューのスロウ回転を目撃・・・私は全力で泳いで助かり、間もなく船尾がズボット没した。
 その間数分・・・多数の乗組員・兵隊が壮烈な戦死を遂げ船もろとも波に呑まれ、私はオルモック湾で十数時間漂流後、一隻だけ生き残った護衛の駆逐艦に救出され・・・つくじく「戦争はもう御免だ」と、思った。



写真  http://ww6.enjoy.ne.jp/~iwashige/kozumaru.htm

2020年06月23日 (火) 19時27分


[974] 商船戦記の意義
From:菊池金雄 [/]

 自分史のネタ探しのために戦記関係本を買いだめし、もてあまし気味なので一念発起、アマゾンのカスタマーレビユー(書評)に匿名で投稿しているが、目下80件ほどになった。
 これらの大半は職業軍人のもので、商船側のものは僅少であるのは遺憾に堪えない。その理由は、敵軍との華々しい戦闘場面を叙述=読者の興味をかもす筋書きに対し、商船側の戦記は、ただただ敵に襲われる悲劇物語のため読者が敬遠するものと思われる。
 先般、私の戦時体験の一部が光人社NF文庫の{戦時船員達の墓場}に収録されたので仙台の各書店で買い漁り、更に上京の際、東京の本屋で数冊買おうとしたら、在庫が1冊だけだった。と言うことは余り売れないためかと思う。
 あの戦争での日本の継戦力喪失の真因は、石油等の戦力資源の枯渇=商船隊の潰滅であることをご理解いただきたいと、生き残り船員は願っている。

2017年11月08日 (水) 18時56分


[1218] 萩川丸
From:永井謙次 [/]

昭和20年4月末上海を出港5月始めに大阪港に上陸萩川丸のスケジュールや船長の事を知りたいです。

2020年02月28日 (金) 18時57分


[1215] イギリスのレーダーと八木アンテナ
From:菊池金雄 [/]

フィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。
イギリスのレーダーと八木アンテナ
42年1月にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。
イギリスのレーダーと八木アンテナ
42年1月にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電
イギリスのレーダーと八木アンテナ


42年1月
イギリスのレーダーと八木アンテナ
42年1月にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。
にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。八木アンテナ

イギリスのレーダーと八木アンテナ
42年1月にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。
イギリスのレーダーと八木アンテナ
42年1月にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。
イギリスのレーダーと八木アンテナ
42年1月にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電
イギリスのレーダーと八木アンテナ


42年1月
イギリスのレーダーと八木アンテナ
42年1月にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。
にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。

2019年12月27日 (金) 16時51分


[1216] イギリスのレーダーと八木アンテナ
From:河野和彦 [/]

ご無沙汰しています。DIG「戦争体験を掘り起こす会」の河野です。
私も無線工学を学んだものです。感銘深く読ませていただきました。

2019年12月30日 (月) 12時35分

[1217] 私の父かも?
From:筒井孝子 [/]

菊池金雄様       筒井孝子
失礼な事をお尋ねします。今年のお正月に私の子供たちが集まり私の父の話になりました。子供たちにとっては祖父です。
昭和の戦争がある時代に父が外国航路(惠昭丸)に電機関係で乗っていたという話を聞いていました。
昭和14年頃から16年頃まで乗船していたみたいです。
スマホで子供が調べてくれたら菊池様のブログに写真が18枚載っていました。写真02惠昭丸乗組員
昭和16年元旦をボルネオ北部で迎えた惠昭丸乗組員、その1 
30名位の人が写っています。菊池様の隣の眼鏡を掛けた人が父では
と思います。藤田電機士と説明があります。父にそっくりです。
父の名前は藤田一男です。下の名前がわかりますでしょうか?
父は昭和53年に亡くなっています。
貴重な写真ですので父であって欲しいと思います。
ぶしつけな質問で失礼致します。  
私は兵庫県伊丹市に住んでいる筒井孝子と申します。令和元年1月

 

2020年01月06日 (月) 21時29分


[1214] 能における「発声」の効用とは
From:菊池金雄 [/]

能や狂言の演者や謡、鼓の掛け声などは、非常に大きな声が特徴です。大きな声を出すには「腹から声をだせ」とよく言われます。この「腹」とは、気功や東洋医学などで臍下三寸にあるとされる「丹田」を指します(この場合の1寸は身長や指の大きさから割り出す相対的なサイズです)。
では、なぜ丹田から声を出すと、大きな声になるのでしょうか。
丹田からの発声では、筋肉が瞬時に非常に大きな力を発揮することが分かっています。これは、肋骨の内側の「横隔膜」とともに、骨盤底にある「骨盤隔膜」もが振動し、さらにこのふたつをつなぐ大腰筋をはじめとする深層筋が活性化される、いうメカニズムが働くからです。これが健康によい効果をもたらします。
また医療・治療の分野では、謡の発声の仕方が、リハビリテーションにも有用ではないかと着目する研究者もいます。
一方、大きな声は、私たちが無意識に「心」に掛けているブレーキをはずす、ともいわれます。運動選手がプレー中に大きな掛け声を出すのは、普段以上の力を出せると無意識に感じているのでしょうか。丹田からの発声は、自己を解放してストレスを発散し、心の健康を保つのにも効果がありそうです。
参考文献:
『能に学ぶ「和」の呼吸法』 安田 登 著 祥伝社刊

2019年12月23日 (月) 15時28分







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