無料で掲示板を作ろう  レノボジャパン-週末限定最大65%OFF!第10世代インテルCPUモデル搭載追加!
好きな時に好きなだけ働ける
レンタカーの回送ドライバーってこんなお仕事です

「硝煙の海」談話室

感想を残していただければ幸いです。匿名でも結構です。

ホームページへ戻る






[1199] 戦下の友情、同窓生那和少尉を偲んで
From:菊池金雄 [/]

 あの60年前の終戦間際、私は大同海運の2A型戦標船向日丸(むかひまる、6800総トン)の首席通信士(通信長)で乗り組んでいた。同船はS20年6月玉野ドックで進水、直ちに瀬戸内海を西航して**航の路についた。海若松―釜山―門司―北鮮の羅津と、瀬戸内海や各港湾周辺は米軍投下機雷に触雷する船が漸増していたが、本船は強運にも薄氷の海を突破していた。ところが同年8月8日の深夜、羅津港は国籍不明機編隊の猛爆撃に見舞われ、着岸中の約20隻の大型輸送船が次々と被弾する惨状となった。
 夜が明けたらソ連機と確認され、ラジオでもソ連の参戦を報じたが、期待した現地部隊からの反撃は散発的で、勇敢に応戦したのは各船警乗の海軍警戒隊と陸軍の船砲隊であった。しかし衆寡敵せず被弾船が増えるばかりで手のほどこしようがなかった。
 陣頭指揮中の本船の西豊船長(60歳)は頸部を負傷。警戒隊員の多数負傷者とともに陸軍病院に搬送した。他方、たまたま肺結核のため船室に病臥中の小川次席通信士を保護するため急遽陸軍病院に入院させた。
 船長不在の9日夜は各科長と警戒隊、保船要員以外の乗組員を一時陸上に避難させ、犠牲者の抑止策を図った。
 当然私は在船組みであったが、当時陸軍派遣の通信連絡将校である後輩の那和正夫(第一部普通科2期)少尉が、自分が全責任を負うから先輩も避難してください、との思いがけない助け舟が現れたので、私はその好意に甘え、小野明三席通信士と防空壕へ避難した。
 一夜本船は被弾を免れ、船長も応急手当後復船して10日朝、羅津港を単独で脱出することになったのであるが、私は次席通信士欠員のため二人だけで24時間当直しなければならない事態に直面、脳裏が真っ白になった。
 ところが那和少尉がその衷情を察して次通士代行の申し出があり、危急場面をサポートしてくれた友情は、正に同窓冥利と感泣するばかりだった。(彼の後日談:このことが若し上官に知れたら懲罰になったと思う。)
 当時の羅津港内は被弾のため着底船が多く離岸に手間取ったが、老練な西船長の見事な操船で、微速で港口に差し掛かった途端、たちまち3機から集中爆撃をうけた。
 この戦闘の那和少尉目撃談「十日午前六時過ぎ、船長以下全員揃ったのを確認して出帆することになったが、周囲は被弾して動けなくなった船が邪魔で離岸に手間取り、午前七時半にやっと港の出口にさしかかった時、三機編隊のソ連機が急降下して爆弾を投下するや、本船の対空砲火を恐れ港外に飛び去った。敵機の爆弾投下地点は本船の四十〜五十メートル前方に集中したため直撃弾を免れた。何故か不思議だが、思うに向日丸(むかひまる)は出港したばかりで速力が三ノット程度のため敵機が船の速力を誤算したものと考えられる。」
 羅津港外には味方艦船は見えず、本船は全速で南鮮方向に避航中の夕刻、幸い第82号海防艦と会合。同艦が本船を元山まで護衛してくれることになった。ところが午後5時頃24機のソ連雷撃機の第一波来襲があり、同海防艦が3機を撃墜。更に第二波の18機が襲いかかり、その一発が同艦に命中し、舞水端南西約7海里の地点で艦は轟沈してしまった。
 敵機退去後本船は沈没現場に戻り、生存海兵の救助作業に当たり93名を救出したが、戦死者は117名で痛恨の極みであった。(この戦闘を冷静に目撃していた那和少尉の手記は拙著「硝煙の海」第二部=URL http://www.geocities.jp/kaneojp/ に収録)
 それから本船は単独で元山まで南下し、ここに集合した残存輸送船で船団を編成。舞鶴入港は終戦2日後の17日だったと思う。
 実は、那和少尉は釜山で乗船し、当然船務には無関係のため対話も無く、彼の漢字フルネーム不詳のまま舞鶴で下船してしまったので、通信当直支援に対しお礼の言葉を述べないまま別れたのであるが、近年自分史を編むにあたり彼を同窓会名簿で追跡し、一昨年58年ぶりで対面、往時のお礼言上が叶ったことは幸いであった。ところが昨年発病の由なのでお見舞いをと思ったら、治療中とて敬遠されたので早期の快癒を念じていたのであるが、去る12月急逝の報に接し、再度の対話の望みが絶たれ痛恨切なるものがあり、只管ご冥福を念ずるとともに、戦下の友情に改めて謝意を捧げる次第である。
 また、羅津の陸軍病院に入院させた「小川肇」(S17年7月選科卒)次席通信士は事後の調査によると、8月10日現地で戦死したことが確認され、戦乱下の安全措置が裏目となった責任を改めて痛感せざるを得ない。当時終戦などの情報を入手できる立場になく、まして自船が無事帰国できる公算など思いもおよばなかった緊迫事情を考察願いたいと思う。
一応彼の留守家族には向日丸交代後のS20年11月、疎開先の埼玉県小山市に立ち寄り、当時の病状では在船させることが至難で、かつ向日丸の安全航海など予測できなかった背景を縷縷ご説明したが、今日にいたり戦死が確認されたことから、再度ご遺族にお詫びの念にかられ、本籍の旧東京市向島区寺島町までは判明するも、以下の地番が不詳のため追跡できないことは非常に遺憾に堪えず、若干の無線講同級生にも当たってみたが、何等の手掛かりも得られなかった。
 若し本稿から、ご遺族の消息等の情報が得られたら幸いに思う

 以上、戦時下における生死の狭間での友情にからむ体験を記し、追悼のことばに代える次第である。

2019年08月13日 (火) 16時20分


[1198] 日号作戦と商船隊の悲劇
From:菊池金雄 [/]

 昭和二十年六月には南方ルートによる諸物資輸送が途絶したため国内の糧食不足が懸念され、これを補完するため同月二十八日、急遽日本海ルートで大陸からの物資(主に大豆・豆かす・穀類・岩塩等)を 内地へ緊急輸送するために日号作戦が発令されたので、残存の大型輸送船が北鮮の羅津港、雄基港に動員された。私の乗船、向日丸も急遽、門司から羅津港に派遣された。

日号作戦兵力
海軍
  港湾と船舶護衛
   飛行機 第901航空隊 130機    第903航空隊  66機
   海防艦 62隻  その他20隻
   駆逐艦  4隻
   掃海兵力 26隊

陸軍
  掃海兵力 21隊
   飛行機 52機(夜間 12機)
   高射砲 224門
   照空灯 155基

(出典;公刊戦史叢書 海上護衛戦)

日号作戦の実態
 当時、国内の食糧事情が悪化する中、日本海航路の遮断前に満州及び朝鮮から本土へ食糧などを輸送するために日号作戦がされ、急遽、残存の大型商船隊が北鮮の羅津港に集結して糧食登載中だった。 ところが8月9日未明から、突然羅津在港船舶がソ連機編隊から波状空襲されたが、味方部隊からの反撃は散発的で、在港商船隊が貧弱な火器で応戦するも、次々と被弾〜炎上〜沈没の修羅場となった。しかるに当時軍側から即時、離岸〜港外への脱出の指示も無く、むざむざ敵の餌食となったことは遺憾千万で、上記の陸海軍動員兵力に疑問大であった。
 
下記は羅津港でソ連機に爆沈された商船隊の貴重な見取図である
http://www.geocities.jp/kaneojp/bin/rajin_port.gif

2019年07月30日 (火) 15時49分


[1197] 命の洗濯(H19年)
From:菊池金雄 [/]


                             菊池金雄
 去る5月11日 塩釜のホテル・グランドパレスで東北海保クラブ(OB会)春の懇親会が開催されたので、久しぶりでOB仲間と一同に会した。
 この催しは毎年行われているが、たまたま私は他の行事とかち合うので今回が初参加となったことについて敷衍しておきたい。
 私は海上保安庁に入る前に神戸の大同海運鰍フ貨物船に乗り組み、あの戦争中は陸海軍徴用船の軍属船員として、戦火の海をからくもくぐりぬけ生き残った一人であり、終戦間際には戦時急造の2A型戦時標準船向日丸(むかひまる 6800トン)が北鮮の羅津港でソ連雷爆撃機編隊に急襲され、大型在港商船隊17隻中脱出できたのは3隻だけであった。
 当時O次席通信士が肺結核のため船内で静養中であったが、空爆下の自船が危機に瀕したので、近傍の満鉄病院に緊急入院させたのであるが、駄目かと思った自船が奇跡的に舞鶴に帰還するも、彼の消息が不明のためいろいろ各方面を探索の末、最後に日本殉職船員顕彰会に問い合わせたところ、昭和20年8月10日、現地で戦没していたことが平成11年にやっと確認され、誠に慙愧に堪えないものがあった。
 同顕彰会では毎年5月に、横須賀市の観音崎公園内にある戦没船員の碑で、今次大戦で戦没した商船乗組員6万余名の御霊の慰霊祭を挙行していることも把握し、以後毎年参列して彼のご冥福を祈念していたが、丁度開催日が前記OB会と同日のため今まで不参のやむなき次第であった。
 しかるところ昨年9月仙台市メデァテークで上記顕彰会主催の「戦時徴用船遭難の記録画展」が開催され、有志各位の見学をいただきましたが、たまたま前記の羅津満鉄病院で当時看護師であったKさんが多賀城にお住まいの情報が舞い込み、顕彰会側の協力を得て当会場で対面して、空爆下の満鉄病院内の状況を親しく拝聴することができた。
 私の長年の疑問である病院内での戦死場面の有無については、敵機は主として埠頭の商船隊を襲い、病院では戦死するような事態はなかったこと。当時商船隊の兵士や船員の負傷者が続々と搬入され、地元の入院患者は極力退院させていたこと。推察ではあるがOさんは船内で喀血された由では、あるいは再喀血などで病死なされたのでは、との非常に貴重な証言をいただいた。
 この証言は、私にとっては長年の謎を解く鍵でもあり、例え彼を船に連れ戻しても、船内で容態悪化の際は、船医不在のため何らの処置もできなかったことであろうし、今日までの肩の重荷が多少減った心境でもあったので、今回OB会のほうに交わった次第である。
 さて30年間在職し、海陸の部署で共に勤めた仲間との久しぶりの対面は感動の一語に
に尽きる。お互い年輪を重ね、ただただ懐かしく和気藹々にテーブルを囲み語らいの場に花が咲き、これこそ命の洗濯であろう。

2019年07月28日 (日) 19時13分


[1196] ダンピ−ル海戦秘話
From:菊池金雄 [/]

大同海運OB 川崎 稔

平成一四年二月東部ニューギニア慰霊巡拝団の一員と
してニューギニアに行って来た小生の知人から、その時
の戦没者慰霊と遺骨収集の旅の記行文、写真等とともに
横板氏の「漂流の記ダンピール海峡」なる壮絶、凄惨
極まり無い海戦記を拝見させて頂いた。
横坂氏の記述は、搭乗船(神愛丸)の被爆状況から五
日間の海上漂流まで生死の境にありながら冷静に記憶に
留めておられ、その非凡な精神力に深く敬服しました。
丁度その時、私は必要があって知人から「日本郵船戦
時船史」を借り受けておりました。この船史は上下二巻
二〇〇〇ぺ−ジにわたる貴重な記録で、昭和四〇年末か
ら四六年迄五年の歳月をかけて編纂されたもので、昭和
一六年から二〇年迄の戦時下に遭難した日本郵船二三七
隻、三菱汽船四八隻を確実な資料と生存者の談話とを基
に各船毎に遭難前後の状況を詳細に記述したものです。
「漂流の記」を読んだとき、すぐ「郵船戦時船史」を
開いて調べました処、横坂氏の乗られた神愛丸と同じ船
団にいた太明丸の記録を見つけました。
昭和一八年三月陸軍第五一師団の七〇〇〇名の兵員を
ラバウルから劣勢のラエ,サラモア地区の部隊に投入す
る為の輸送作戦で八隻の船団がダンピール海峡に差しか
かった際,米軍の爆撃機群から連続攻撃を受け八隻の輸
送船、4隻の護衛駆逐艦が撃沈されるという「ダンピー

ル海峡の悲劇」として太平洋海戦史にも特筆されている
悲劇的海戦であったが、船団を組みラエ・サラモア増強
輸送作戦に参加した輸送船は横坂氏搭乗の神愛丸、太明
丸、帝洋丸,愛洋九、大井川丸、旭盛丸、建武丸、特務
艦野島の八隻であつた。護衛には朝潮、荒潮、時津風、
敷波、浦波、白雪、朝雲の八隻の駆逐艦が付いており、
戦闘機も一機か二機上空を警戒しつつ航行していた。
私は撃沈された太明丸の生存者の次席通信士鈴木作次
氏の記述を郵船戦時船史中に発見し、その船団壊滅の状
況と横坂氏の記述はほとんど符合しており、良くぞここ
まで記憶しておられたと驚きました。
両者とも生死の境を潜り抜け奇跡的に生還するという
超人的な精神力の所持者であった。
太明丸鈴木通信士の遭難記を要約して記述する。
三月二日夜明けと共にB17十数機が飛来し船団に襲
いかかった。わが方も対空砲で応戦したが旭盛丸(大同
海運所属船)が敢え無く撃沈された。
翌三日午前八時約二〇〇機の敵機来襲す、急降下爆撃
機が編隊で各船を執拗に攻撃した。太明丸も必死に応戦
したが撃墜した敵機が不運にも船橋に突っ込み大爆発し
、船長始め幹部船員全員が即死した。(49名の乗組員
中、生存者5名)筆者鈴木氏は一時失神していたが意識
を取り戻して甲板上に出て、逃げ遅れている陸軍兵を案
内してかろうじて海中に飛び込んだ。付近の僚船はすべ
て炎上したり沈没している模様だった。
正午頃駆逐艦荒潮に救助されたが、荒潮も敵機から再

び攻撃を受け午後一〇時半、航行不能となった。幸い僚艦雪風に救助されラバウルに帰着することができた。
輸送船に満載された軍需物資、兵器、乗組員の殆とと将兵三六六四名がビスマルク海に消え作戦は失敗した。
尚、横坂氏の所属した第五一師団の残存兵は他の、一個師団と合流し、ラエ、サラモア付近に展開し東部ニューギニアの防備を固めたがマラリア、赤痢、食糧不足で一八年6月には一万名位の兵員を有していたものが二ヶ月後には八千名になっていた。
残存兵は標高四千メートル級のサラワケット山脈を踏破してマダンまで撤退したが山中で多くの兵を失った。重火器などは既に失っていたので米濠連合軍との衝突を避けながら西へ西へと飢餓行軍を続けたという。
第一八軍として東部ニューギニアに上陸した一四万の兵力は終戦後、引揚げ時には一万名足らずになっていたという。安達第一八軍司令官は部下の帰還を見届けた後、収容所において自決されたということである。
前述の旭盛丸は、大正9年バンクーバーにて建造(8656屯)昭和16年大同海運所属となり、御用船として徴用され、18年3月2日早朝グロセスター岬北西海上にて被弾、沈没した。兵員464名、船砲隊員21名船員1名戦死す。と「日本商船・船名号」に記載あり。
日本郵船の戦時船史は自社船の遭難状況を詳細に記述すると共に、太平洋戦争における日本海軍の海上補給作戦に対する認識、施策が全く前近代的で輸送船団護衛用の艦艇、航空機、潜水艦など開戦当時まで全く用意され

ていなかったという。信じられない様な無能、拙劣極まる戦略について繰り返し批判を加えていた。
軍部は輸送船舶の消耗や輸送能力の限界を無視して戦域を拡大し、無防備の輸送船に十分な護衛艦の配備もせず杜撰な補給作戦を強行した為、ミッドウェイ海戦の敗北によって制海権と制空権を失うや忽ち米海軍潜水艦の好餌となって輸送船団は次々に撃沈され輸送路は分断された結果、ジャングルに送り込まれた兵士たちは武器も食料も補給されず、戦闘を交えることなく餓死したと書われている。かくして多くの兵員を無残にも失い南方作戦は大失敗に終わり、敗戦を決定的にしたのである。
私は昭南島(シンガポール)の海軍基地に大同海運から出向し、子会社大興運輪の社員と共に、終戦迄二千名の現地労務者を使って軍需物資の揚搭作業に従事した。兵員や軍需物資の輸送に身を挺し兵士同様に闘って死んでいった海員や終戦後海外からの六四〇万人の引揚者の輸送に献身した海員の方々は私達と同じ仲間であると思っている。
軍人と同じ戦場で戦死したにもかかわらず海員は靖国神社にも祀られず、三浦岬観音崎灯台の丘陵に隣接した「戦没船員の碑」に六〇五八九名が祀られています。
平成一二年五月の三〇回慰霊祭に初めて天皇皇后両陛下が参列されました。その一年後の一三年五月、機会を得て「戦没船員の碑」に私は御参りすることが出来た。房総半島が遠く霞み、大小の船舶が行き交う浦賀水道を見下ろす丘の樹林の中に「戦没船員の碑」がひっそりと建っていた。

2019年07月26日 (金) 16時22分


[1195] 終戦60年の節目に思う(要約)
From:菊池金雄 [/]

日本船主協会 常任理事 鰹、船三井 代表取締役社長 芦田昭充氏述

戦没船員のこと
日中戦争〜太平洋戦争の商船被害は、約2,400〜2,500隻・800万総トンという。民間の船が強制的に徴用されて国家の各種輸送船となったためだ。
開戦前の保有船舶を超える船舶(戦時中に造られた戦時標準船を含めて)を戦争で失った。
 何より心痛むのは「3万人におよぶ商船員が、魚雷や砲撃/爆撃で亡くなった」という事実(漁船・機帆船を含めると7,000隻/6万人)だ。ほとんどの商船が何の護衛もなく、日本近海や南方の海を航海中に沈められ、兵士の死亡率を超える4割もの船員が命を落とされた。
 戦後の混乱の中、ゼロから再出発された先達の方々の奮闘努力を思うと涙を禁じえない。海運業はその甲斐あって蘇り、幾重の谷をくぐり大波を越えて今、隆盛のときを迎えている。そのようなときにこそ、後に続く私たちは海運にまつわる史実を、「墓標」というべき水底に眠る船たちを、決して忘れてはならない。太平洋戦争終結60年目の年の瀬に、改めて誓おう。

2019年07月23日 (火) 16時44分


[1194] 日号作戦と商船隊の悲劇
From:菊池金雄 [/]


                     元向日丸通信長 菊池金雄
昭和二十年六月には南方ルートによる諸物資輸送が途絶したため国内の糧食不足が懸念され
たので、これを補完するため同月二十八日、急遽日本海ルートで大陸からの物資(主に大豆・豆かす・
穀類・岩塩等)を 内地へ緊急輸送するために日号作戦が発令された。このため残存の大型輸送船
が北朝鮮の羅津港、雄基港に動員された。私の乗船、向日丸(むかひまる)も急遽、門司から羅津港に派遣された。
以下に日号作戦の実態と商船隊の苦闘について記述する。

日号作戦兵力
海軍
  港湾と船舶護衛
   飛行機 第901航空隊 130機    第903航空隊  66機
   海防艦 62隻  その他20隻
   駆逐艦  4隻
   掃海兵力 26隊

陸軍
  掃海兵力 21隊
   飛行機 52機(夜間 12機)
   高射砲 224門
   照空灯 155基

(出典;公刊戦史叢書 海上護衛戦)

日号作戦の実態
 当時、国内の食糧事情が悪化する中、日本海航路の遮断前に満州及び朝鮮から本土へ食糧などを
輸送するために日号作戦が発動され、急遽、残存の大型商船隊が北鮮の羅津港に集結して糧食登載中だった。
 ところが8月9日未明から、突然羅津在港船舶がソ連機編隊から波状空襲されたが、味方部隊からの反撃は散発的で、在港商船隊が貧弱な火器で応戦するも、次々と被弾〜炎上〜沈没の修羅場となった。
しかるに当時軍側から即時、離岸〜港外への脱出の指示も無く、むざむざ敵の餌食となったことは遺憾千万で、上記の陸海軍動員兵力に疑問大であった。
 下記は羅津港でソ連機に爆沈された商船隊の貴重な見取図である
http://www.geocities.jp/kaneojp/bin/rajin_port.gif

2019年07月22日 (月) 19時10分


[1193] 太平洋戦争と民間船・船員の犠牲
From:菊池金雄 [/]

 太平洋戦争(注1)勃発の直接の原因としては、わが国の中国侵略(日中戦争:1937年〜1945年)に対し、アメリカ、イギリスが中国からの撤兵を求め日本の経済封鎖をしたことに、日本が反発したことから端を発したと言われています。
 石油・資源確保の道を連合軍の経済封鎖により失ったわが国が開戦にあたってとった基本方針は、
 南方の資源地帯を占領し、そこから戦争遂行と国民生活に必要な石油、鉄鋼、非鉄金属、ゴム、ボーキサイトなどを確保するというものでした。広大な西太平洋全域に及んだ太平洋戦争の勝敗を左右するカギは、何と言っても「海上輸送の確保」でしたが、わが国海軍が、日露戦争以来伝統としてきた大艦巨砲主義の艦隊決戦を作戦の中心にし、資源確保のためにシーレーン(海上輸送路)を通う輸送船の護衛には殆ど注意を払っていなかったということが敗因の原因の一つとして挙げられるようです。
一方、米国は、自国輸送船団護衛のために巡洋艦、駆逐艦、空母などからなる約200隻を超える艦船を準備するとともに、日本の民間商船攻撃のための潜水艦を西太平洋全域に配備し、日本のシーレーンの破壊を目論見ました。
  
日本の陸海軍は、軍事優先の見地から、作戦行動に参加した徴用船こそ海軍の艦船によって護衛しましたが、前線部隊の兵力・物資の補給のため、或いはわが国生活物資の補給のためのロジスティクス(注2)を重視しない結果、資源の輸送に当たった輸送船は当初単独輸送を強いられることもあったり、船団方式を取っていても弱体な護衛で、米軍の格好の餌食になりました。
 こうして戦争が進むにつれて、潜水艦の魚雷攻撃や空爆、触雷、砲撃などにより、民間商船等の多くが失われ、その補充を図るべく「戦時標準船」という資材・工程を簡略化して大量生産した船や、更には機帆船や漁船も駆り出されましたが、そのような船もまた、ほとんどが犠牲になりました。
 南方各地が激戦の中心となっていく中で、満蒙などに温存されていた陸軍の精鋭部隊は、輸送船で占領各地に輸送されていきました。その途中で輸送船が撃沈され、多くの軍人が戦わずして海の藻屑と消えていきました。そして非戦闘員ながら、戦闘地域に赴き、本土と前線部隊との間の海上輸送に命がけで取り組みながら、犠牲になった6万人に上る商船・機帆船や漁船の乗組員のことも忘れてはなりません。船員の損耗率(人口比の死亡率)は43%と、軍人の損耗率(陸軍20%、海軍16%)を上回り、又、15〜16歳といった年少船員の犠牲が多かったことも特筆すべきでしょう。
 以下にその喪失した民間船と乗組員(船員)の数を掲げ、謹んで哀悼の意を表したいと思います。
     太平洋戦争で失われた船(除・軍用船): 7,240隻
内  官・民一般汽船 :  3,575隻
機帆船 (機械と帆で走る船) : 2,070隻  
漁 船 : 1,595隻
死亡した 「乗組員」(船員) :  60,608名

(「戦没した船と海員の資料館」 http://www.jsu.or.jp/siryo/index.html 及び「日本殉職船員顕彰会」 http://www.kenshoukai.jp/より引用)

〔注〕
 1. 太平洋戦争:第二次世界大戦の一環として、日本が米・英・中国などの連合国と戦った戦争。
  アジア地域を舞台にした戦争も含めたということを明確化するため、「アジア・太平洋戦争」或いは「大東亜戦争」という呼称もあります。
 2. ロジスティクス:元々「兵站」(へいたん)と訳される戦争用語で、軍隊の後方にあって、武器・食糧・燃料・生活物資・医療などの後方支援・後方補給などの労務全般をさす言葉ですが、今日ではビジネス用語として転用され、モノの流れを、調達・生産・輸送・保管・流通・販売までの全体的な流れとして統合し、効率化するための戦略として捉える場合の概念になっています。

2019年07月06日 (土) 18時53分


[1191] 羅津港脱出記
From:菊池金雄 [/]

           平成15年5月
            元陸軍少尉 那和正夫

○向日丸乗船ー羅津港空襲ー脱出
  彼は1945年8月(?)向日丸に釜山港で乗船。向日丸は一度関門地区空襲時、門司港に帰港後羅津に向い、同年8月6日同港に入港。ソ連機来襲第一波は9日午前6時頃と思う。当時の在港輸送船は20隻ぐらい、帝北丸以外の船名は不詳。該船には同期の若松少尉が乗っていたので7日訪船して会った。この船は元フランス国籍で時速22〜23ノットと聞く。同船は9日夜羅津から舞鶴直行中、日本海の中部で敵潜水艦に撃沈され、若松少尉は幸い通りかかった漁船に救助されている。
  9日夜彼は警戒隊長○○海軍少尉と向日丸の甲板で会話中ソ連爆撃機来襲を目撃。サーチライトの中の豆粒のような爆弾がパラパラと落下。進行方向と仰角から向日丸に命中すると感じ、覚悟を決めて甲板に伏せた途端、ドカンという大音とともに火の粉がバラバラと落ち、船から約30メートルの岸壁倉庫に命中。倉庫内に積んである大豆が火の粉になって降りそいで来たが、すぐ消火して大事にならなかった。
  10日午前6時過ぎ、船長以下全員揃ったのを確認して出帆することになったが、周囲は被弾して動けなくなった船が邪魔で離岸に手間取り、午前7時半にやっと港の出口にさしかかった時、3機編隊のソ連機が急降下して爆弾を投下するや、本船の対空砲火を恐れ港外に飛び去った。敵機の爆弾投下地点は本船の40〜50メートル前方に集中したため直撃を免れた。何故か不思議だが、思うに向日丸は出港したばかりで速力が3ノット程度のため敵機が船の速力を誤算したものと考えられる。

 ○向日丸座礁ー海防艦救援
  10日12時半頃には敵機の追撃がなくなったので昼食をとり、午後1時頃になって船底がザザザザと砂地に乗り上げたような音がして座礁してしまった。その頃南下してきた海防艦1隻がが甲板に家財道具らしき物を積んで、こちらの救援信号を無視するように南の方に姿を消した。
  次に来た第82号海防艦が近寄り、ロープで向日丸を引っ張ったが動かず、満潮を待ち午後3時頃やっと離礁して航行可能となり、同海防艦の護衛で沿岸航行を再開した。

 ○ソ連雷撃機と交戦ー護衛海防艦轟沈
  同4時頃ソ連機9機の空襲があり、彼はこの生々しい戦闘を甲板で終始観察していたので今でもはっきり脳裏に焼きついていると言う。
  敵の指揮官機が海上に煙幕を張って、横一列並びの雷撃機群が一瞬見えなくなったと思うと、その煙幕の中から現れた雷撃機群は既に魚雷を発射した後で、向日丸のマストをかすめるように陸地の方向へ飛び去った。・・・・・間もなくドカンという大爆発音がして目の前の海防艦が轟沈した。その様は、70〜80メートルもあるかと思われる水柱が上がって、一瞬艦が見えなくなり、水柱が滝のように落下した後には艦首を上にして垂直に立った艦の姿が現れ、がくんがくんと海に没し・・・・艦影が見えなくなると同時に脳裏に「間もなく向日丸も同じ運命を辿る・・・・」との思いがはしった。
  ところが海岸の方で魚雷の爆発するのが3ケ所位見え、向日丸の船底をくぐり抜けたり、当たり外れた魚雷ではないかと思った。
  何故だらうと考えたとき、向日丸は8月6日羅津に入港、揚げ荷が終わった所でソ連の参戦に会い、積み荷を中断して脱出したため喫水部位が浅かったのが幸いしたのではないかと思う。普通ならあれだけ多くの魚雷を全部かわせるわけがない筈だ。
 「轟沈」という言葉は知っていたが、現実に目のあたり見た強烈な痛恨情景は永遠に忘れることは出来ない。

 ○舞鶴で下船
  向日丸下船時、なぜ(菊池)局長と連絡できるようにしておかなかったかと後日悔やんだことでした。半世紀過ぎた今、よく連絡して下さったと感激し、熱い思いで本を読ませていただきました。
  同級生の中には未だに連絡がとれず、消息不明の者が沢山居ります。それに比べて今まで生きてこられた幸運を感謝し、元気で長生きできればと考えて居ります。

2019年07月05日 (金) 19時28分


[1190] 在留民苦難の逃避行
From:菊池金雄 [/]

  雄基市民の記録から
 八月八日の夜、家々の灯が消え寝静まった深夜、突如大砲の轟音でまどろみが破られた。
起きあがって耳をすますと、張鼓峰のあたりのようで、国境で戦がはじまったような感じ
である。早速関係方面に連絡しても、誰もソ連参戦の情報を得ていない。にもかかわらず
刻々と砲撃が激しくなるばかりだ。二十数キロ遠くと思えないほど砲撃音が強まってきた。
 B29の空爆か、または米空母艦載機の空爆と思ったりしていた市民も、張鼓峰方面の
砲撃戦と気づいては、まさに腹背の敵から攻められる重大な事態に、背筋が寒くなった。
 夜が明けると、待ちかまえたようにソ連機が超低空で、編隊を交替しながら、終日執拗
に在泊船や市街の銃爆撃を繰り返し、火炎のなかを逃げまどう市民をば、無差別に機銃掃
射を行った。
 一転して戦禍に巻き込まれた市民は、先を争って裏の「かささぎ山」へ逃げた。また、
港内にいた船舶も、港の外に避難したが、撃沈される船も少なくない。
 むろん味方高射砲も盛んに応戦したが、ソ連機を撃退できなかった。夜間は羅津要塞か
ら幾条もの探照灯が照射され、一斉に砲門を開いたので、それっとばかり、かささぎ山の
市民はかたずをのんで敵機の撃退を念じた・・・・しかし、夜の十二時過ぎには火の消え
たようにピタリと味方の攻撃が途絶えたてしまった・・・・・・日本軍はすでに退却しは
じめていたのだと後で分かった。

 羅津要塞司令部の特使は、全市民に「緊急避難をせよ」と言ってきた。警防団長、憲兵
隊長、軍留守隊長、郡守、巴長、警察署長などが協議を重ねた結果、全市民を鉄柱洞から
鹿野へ避難させることに決定した。
 十日未明急遽、黙々と市民は大移動をはじめた。携行品は一〜二日分の食料と二〜三の
食器。着衣はふだん着のままが大半だった。
 やがて市内の各所に火災が発生。またたくまに全市が火の海と化してしまった。それで
も市民たちは、やがて日本軍が救援にくると固く信じていたのだった。
 消防司令(吉田伊蔵)は強い責任感から二〜三の市民と市内の巡回や警察との連絡に当
たっていたが、十一日夕方、二隻の小型軍艦の入港を遠望「日本の軍艦がきた」と、こお
どりして海岸へ走った。ところがぞろぞろ岸壁に上がってくるのはソ連軍で、出迎えた朝
鮮人たちと、にこやかに握手して勝利を喜び合っている様子だった。
 翌十二日になると、張鼓峰方面を突破したソ連軍戦車が次から次へと市中に侵入。死の
街となった雄基全市は、完全にソ連軍の掌中に陥った。

 雄基、羅津、清津は、北鮮の代表的な良港で、相互の距離も近く、それぞれが同じよう
な運命をたどりつつ、いずれ日本軍の反撃で各自、わが家へふたたび戻れるものと思い込
んでいたのであった。
 しかし、避難先の町々は皆ソ連機の空爆で火の海と化し、残っているのは茂山だけで、
ここには咸鏡北道庁の幹部が疎開し、道の防衛本部があった。
 雄基、羅津、清津、阿吾地、会寧、冨寧など北鮮最北の町々から、茂山をめざす避難民
の群れが、野に山に延々とつづくのであった。
 十二日未明に雄基を出たわれわれが、会寧を経て茂山に着くまでに九日間を費やしたの
である。このため老人、女、子供たちは息もたえだえに重い足をひ引きずって歩るかなく
てはならなかった。

 やっと、ソ連機の襲撃を逃れてホッと息つく間もなく、携行した食糧はとっくに食べつ
くしたので、はげしい飢えと、のどの渇きにあえぎだした。水で、のどをうるおしても、
胃の腑を充たす食べ物がないので、枝豆、トウキビをみつけると、もぎとって皆で分け合
い、いわば一粒の豆に命をつないだのである。
 しかし、はるばるたどりついた茂山も、身をかくす場所ではなかった。ここに、各地か
ら集まった避難民数は、約三万人だったが、次第にソ連軍が茂山に迫ってくるので、また
どこかへ移動しなければならなかった。
 そこで、次は延社がえらばれた。しかし、この避難民が移動を終えない先に、ソ連軍の
先遣隊がトラックで避難民を追い抜いて延社にはいってしまったのである。

  命がけの善後策
 延社のソ連軍は、ただちに道知事や道庁の最高幹部を拉致し、すべての警官を武装解除
した。幸い赴任後、日の浅い木野鉱工部長が残ったので、同部長を中心に各地区から代表
者を出し、今後の前後策を協議した。
 一番は食糧の問題で「一万人以上の日本人が延社に居ては、ここの朝鮮人が食糧に困る
ことになる」ということで、そこの治安維持会は「すみやかに立ち退いてもらいたい」と
要求するので、ここで今後の食糧補給は望めなくなった。
 長時間、命がけの協議がなされ、死中に活をいかに求めるか、誰も断定できる確証を持
たなかった。
 日本の敗戦を信じ切れない人も多く、もう今頃は元の住家に帰れるのではと主張するグ
ループと。その望みを捨てたグループは、懸命に南下することを主張。人数的に大半を占
めた。
 この、はっきり二分した意見では、もはや同一行動はできなく、それぞれ信ずる道を選
択するほかはなかった。かくしてお互い再会を祈り、延社を後にしたが、誰も行く先を確
定することはできなかった。
 日本の敗戦を知った朝鮮人たちは、もはや宿を貸す好意をもたなかった。それは共産党
員からにらまれるのが恐ろしいからであった。一夜の宿はおろか、一升の米を売ることも
ためらった。
  いばらのみち・雄基ユーターン
 雄基帰還組の一部は、山林鉄道で茂山で下車すると、ソ連人と朝鮮人から、時計・指輪
はもちろん、身につけためぼしいものを略奪されてしまった。
 八月三十日、茂山から清津に着くと、ソ連軍から「十八〜四十五歳の男を出せ」と意外
な要求があり、後に残った老人と女子供たちだけに通行証明書を発行「雄基へ行って生業
につけ」と指示。肉親を拉致された切々たる悲しみも、雄基で待てば、また会う日もある
と、互いに励まし合いながら、六百三十人ほどの群れが、北へ北へと歩きだした。
 「また、歩くのか」と、泣きじゃくる子供をなだめ、一ヵ月近い逃避行の疲労と、ろく
に食事もとらないための栄養失調から、途中でむなしく異境に屍をさらすものが次第に増
えた。人々は素手で土まんじゅうを作り、名もない草花を供え、追われるように北へと歩
いた。途中でソ連軍に連行される日本軍将兵の一行ともすれ違って、目と目で別離を交わ
した。「この捕虜たちはどうなるのだろうか」と、後ろ姿を見送ったのであった。

 さて、この老幼避難民に対し、雄基で待っていたものは、一わんのカユでも、一杯のお
茶でもなかった。九月九日午後、やっと戻った雄基の街は、一面の焼け野原で、焼け残っ
た物は、すべて略奪され無惨な有り様だった。
 一行は一夜、旧都旅館に仮寝して、翌日から白鶴洞の砲厰に押し込まれ「生業につく」
どころか、百メートル以上の移動を禁じられ、何一つ食物を与えず。皆、地べたの草でも
見つければ口へ入れた。世界のどこの国の監獄でも、食事なしの監禁は聞かない。という
ことは「われわれを殺す考えに違えない」と、不安感がつのった。
 やがて六名の委員が選ばれ、ロシア語のうまいT氏の通訳でソ連軍と交渉しても、いつ
も煮え切らぬ返答ばかりだった。
 病人の衰弱。一滴の乳もでない母親の乳房にすがり、かぼそい泣き声が止んだら亡くな
る・・・・・・人びとは、この生き地獄・・・・・絶望の断崖にたたされたままの二十日
後、さすがソ連軍も見かねたのか、一同を満鉄の社宅へ移した。六畳に十人くらいの割当
で、何とか足腰をのばすことができた。
 ところが、飢えよりも悲しい、卑劣なソ連兵の魔の手が、夜毎婦人たちを襲い、一同は
全身の血を逆流させて怒りに燃えても、年寄りと子供では腕をふるうすべもなく、弱みに
つけいるソ連兵の残忍さに、わが力のおよばぬくやしさを皆いくたびか相擁して悲憤の涙
にくれるばかりだった。

 二月になって、はじめて外出労働が許され、皆、きそって雑役で低賃金を手にした。さ
らに三月から、ソ連軍から白米が配給された。
 四月には一同で仮墓地をつくり、死者の火葬をソ連軍に具申したが聞き入れられず、や
むなく、遺髪をこの墓地に葬った。
 七月にはいってソ連軍から「外で自由に働いてよい」との許可がでた。ふりかえると、
一年間、惨憺たる生き地獄に身をおき、祖国からはいまだ何らの救援もなく、再度酷列な
北鮮の冬を迎えることは到底耐えられないことであった。
 しかも一行は、昨年夏の空襲下の脱出で、身につけているものは薄い夏衣だけだった。

  ひそかに脱出を画策
 母国から救援の手がのびないのであれば、自分たちから脱出する手段を模索しょうと、
有志で内密に協議することになった。
 それには、各地残留の日本人グループとも接触して、脱出策を研究して、その準備をす
すめる必要があった。
 そこで、ソ連軍から代表二人の咸鏡北道内の旅行許可うけ、まず清津に行ったところ日
本人は既に引き揚げていたので、次に城津に廻った。幸い此処には高周波工業の人びとが
居残っていて、私たちを心からねぎらってくれた。
 そこへ首尾よく咸興からM氏も来あわせ、いろいろ周辺の様子を尋ねてみたところ、羅
津、阿吾地にも、まだ若干の日本人が残留しているが、どこの日本人も惨憺たる境遇下に
あることが分かった。
 それでこの人達とも共に脱出する決心をして、帆船五隻を雄基に、二隻を羅津に配船す
る手配をすることになった。
 船賃三十五万円余りの調達は容易でなかったが、帰国のためにはと、元気百倍して皆、
夢中で働きだした。
 雄基の日本人は百余人の死者を出し、その後、西水羅と古乾原などから身を寄せた組も
あり、合計五百六十五名に達し、その全員が脱出しようというのである。

  雄基脱出
 十月まもなく、M氏らの一行が雄基を訪問、ソ連軍に「江原道の襄陽へ移住方要請」し
てくれて、十五日夜半から十八日にかけて、逐次船に乗って脱出したのであった。
 暁闇の海上から、雄基のあたりを遠望。皆、万感胸に迫るものがあった。しかし、平穏
な船旅ではなかった。
 二日後に、船員たちの居住地、泗浦に寄港すると「船頭が抑留」され、一同、肝を冷や
した。理由は「選挙前にヤミ船かせぎ」は、けしからんと、船頭が追求され、「選挙前に
必ず戻る」と約束。保証金五十円で出帆が許可され、胸を撫でおろしたのであった。
 ところが翌日は大暴風になり、船は木の葉のように波にほんろうされ、帆が裂けて、前
進ができなくなったので、新浦の島陰で帆の修理をしょうとしたら、ここの海上保安隊に
船頭と日本人代表者が留置され、いろいろ追求されたので、「南下の特別許可をうけた」
と答えたら、「その許可証を出せ」と迫り、許可証が無いとみると「全員下船して、元の
居住地に陸路歩いて帰れ」と厳命。「全員が病人でね動けない」と二日間拒みつづけたら
「そのまま雄基へ帰れ」と三千円渡して、何とか許された。
 しかし、やっとのことで此処まで来て再度雄基に戻るなら、もはや「生きて祖国の土を
踏む日はない」であろうと、一同は心のうちを船頭に訴え、へさきを南に向けてもらった。
 用意した一週間の水と食糧は三日前になくなり、空腹の苦しさも、船の針路をみて霧散
し、一刻も早く北緯三十八度線越えを「まだかまだか」と、地形確認のため岸に寄ったら
保安隊員に怪しまれ、船員二人が重軽傷を負った。
 波浪で船が、陸岸三十メートルに圧流されたため、保安隊の疑念がたかまり、射撃が一
層はげしくなり、全員が船底にへばりつき、責任者三人がしゃにむに帆をゆさぶり、舵を
動かしたら、船は次第に沖合に走りだし、まさに天佑で、保安隊の射撃もついに止んだ。
「助かった、助かった」と相抱いて喜びをわかち合った。
 おりから、中天の月が、みがきすましたように輝きわたり、一人が天を仰ぎ、謡曲「船
弁慶」を朗々とうたいだしたのであった。
 かくして、十一月二日、三十八度線を突破して注文津に入港し、半月間の苦闘の幕を閉
じた。
 ただちに、当地の米軍から温かいスープが全員に配られ。病人はすぐ病院に収容された
のであった。
 それから一週間後、はるか海上から日本の引揚船が、船尾に「日の丸の国旗」をはためはためはため
かして入港してきた。・・・みな、我を忘れ・・・涙にむせぶばかりだった。

2019年07月04日 (木) 15時58分


[1189] 浜邊の歌
From:菊池金雄 [/]

http://j-lyric.net/artist/a00126c/l013294.html

2019年07月02日 (火) 16時57分







名前
題名
Color
項目の保存 削除キー
Number
Pass


この掲示板をサポートする このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板