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「硝煙の海」談話室

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[974] 商船戦記の意義
From:菊池金雄 [/]

 自分史のネタ探しのために戦記関係本を買いだめし、もてあまし気味なので一念発起、アマゾンのカスタマーレビユー(書評)に匿名で投稿しているが、目下80件ほどになった。
 これらの大半は職業軍人のもので、商船側のものは僅少であるのは遺憾に堪えない。その理由は、敵軍との華々しい戦闘場面を叙述=読者の興味をかもす筋書きに対し、商船側の戦記は、ただただ敵に襲われる悲劇物語のため読者が敬遠するものと思われる。
 先般、私の戦時体験の一部が光人社NF文庫の{戦時船員達の墓場}に収録されたので仙台の各書店で買い漁り、更に上京の際、東京の本屋で数冊買おうとしたら、在庫が1冊だけだった。と言うことは余り売れないためかと思う。
 あの戦争での日本の継戦力喪失の真因は、石油等の戦力資源の枯渇=商船隊の潰滅であることをご理解いただきたいと、生き残り船員は願っている。

2017年11月08日 (水) 18時56分


[1218] 萩川丸
From:永井謙次 [/]

昭和20年4月末上海を出港5月始めに大阪港に上陸萩川丸のスケジュールや船長の事を知りたいです。

2020年02月28日 (金) 18時57分


[1215] イギリスのレーダーと八木アンテナ
From:菊池金雄 [/]

フィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。
イギリスのレーダーと八木アンテナ
42年1月にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。
イギリスのレーダーと八木アンテナ
42年1月にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電
イギリスのレーダーと八木アンテナ


42年1月
イギリスのレーダーと八木アンテナ
42年1月にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。
にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。八木アンテナ

イギリスのレーダーと八木アンテナ
42年1月にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。
イギリスのレーダーと八木アンテナ
42年1月にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。
イギリスのレーダーと八木アンテナ
42年1月にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電
イギリスのレーダーと八木アンテナ


42年1月
イギリスのレーダーと八木アンテナ
42年1月にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。
にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。

2019年12月27日 (金) 16時51分


[1216] イギリスのレーダーと八木アンテナ
From:河野和彦 [/]

ご無沙汰しています。DIG「戦争体験を掘り起こす会」の河野です。
私も無線工学を学んだものです。感銘深く読ませていただきました。

2019年12月30日 (月) 12時35分

[1217] 私の父かも?
From:筒井孝子 [/]

菊池金雄様       筒井孝子
失礼な事をお尋ねします。今年のお正月に私の子供たちが集まり私の父の話になりました。子供たちにとっては祖父です。
昭和の戦争がある時代に父が外国航路(惠昭丸)に電機関係で乗っていたという話を聞いていました。
昭和14年頃から16年頃まで乗船していたみたいです。
スマホで子供が調べてくれたら菊池様のブログに写真が18枚載っていました。写真02惠昭丸乗組員
昭和16年元旦をボルネオ北部で迎えた惠昭丸乗組員、その1 
30名位の人が写っています。菊池様の隣の眼鏡を掛けた人が父では
と思います。藤田電機士と説明があります。父にそっくりです。
父の名前は藤田一男です。下の名前がわかりますでしょうか?
父は昭和53年に亡くなっています。
貴重な写真ですので父であって欲しいと思います。
ぶしつけな質問で失礼致します。  
私は兵庫県伊丹市に住んでいる筒井孝子と申します。令和元年1月

 

2020年01月06日 (月) 21時29分


[1214] 能における「発声」の効用とは
From:菊池金雄 [/]

能や狂言の演者や謡、鼓の掛け声などは、非常に大きな声が特徴です。大きな声を出すには「腹から声をだせ」とよく言われます。この「腹」とは、気功や東洋医学などで臍下三寸にあるとされる「丹田」を指します(この場合の1寸は身長や指の大きさから割り出す相対的なサイズです)。
では、なぜ丹田から声を出すと、大きな声になるのでしょうか。
丹田からの発声では、筋肉が瞬時に非常に大きな力を発揮することが分かっています。これは、肋骨の内側の「横隔膜」とともに、骨盤底にある「骨盤隔膜」もが振動し、さらにこのふたつをつなぐ大腰筋をはじめとする深層筋が活性化される、いうメカニズムが働くからです。これが健康によい効果をもたらします。
また医療・治療の分野では、謡の発声の仕方が、リハビリテーションにも有用ではないかと着目する研究者もいます。
一方、大きな声は、私たちが無意識に「心」に掛けているブレーキをはずす、ともいわれます。運動選手がプレー中に大きな掛け声を出すのは、普段以上の力を出せると無意識に感じているのでしょうか。丹田からの発声は、自己を解放してストレスを発散し、心の健康を保つのにも効果がありそうです。
参考文献:
『能に学ぶ「和」の呼吸法』 安田 登 著 祥伝社刊

2019年12月23日 (月) 15時28分


[1213] 「謡曲十徳」
From:菊池金雄 [/]

現代病と云われる気を晴らし、ストレスを解消する。
肺機能を高め、咽喉を強める。
食欲を増進し、胃腸の働きを活発にする。
集中力を養い、脳の働きを増進する。(老化防止)
自ら礼節を身につけ良識を得る。
温故知新、文学、歴史を学び知識と新しき発想を得る。
孤独をも慰め、広く知己を得る。
美しき日本語に接すると共に発音は正確、美声となる。
芸術の深さを識り、感性に富んだ美を追求し表現する。
現実の世界を離れ、中世における演歌とも云える謡曲を吟ずる。

2019年11月28日 (木) 10時10分


[1212] 八木アンテナ
From:菊池金雄 [/]

42年1月にフィリピン、2月にシンガポールを占領した日本軍は、英国製地上用対空電波警戒機(レーダー)を捕獲した。それに”YAGI ARRAY”と書かれてあり、これは一体何かとなった。陸軍研究所、日本電気、東芝などの技師の調査により、”YAGI ARRAY”とは押収した文書から八木アンテナであることがようやく判明した。

八木アンテナは26年(大正15年)に東北大学の八木秀次救助が発明した超短波用のアンテナである。現在、屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナだ。
八木アンテナは当時の最先端科学技術の発明であって、欧米の先進諸国で大きな反響を呼んだ。八木アンテナの特許を買った英マルコーニ社は20年代後半には商品化していたが、日本では33年(昭和8年)に山形県酒田市・飛島間、さらに新潟と佐渡間の無線電話に利用されただけであった。

41年(昭和16年)、八木は特許期限延長を商工省(現在の通産省)に申請したが、「重要な発明と認め難い」と却下された。八木アンテナをレーダーとして利用するために、超短波の発振器であるマグネトロンを弟子の岡部金次郎と共同研究し、28年にアメリカで発表して大きな反響を呼んだ。マグネトロンの研究は、戦時中、海軍研究所での殺人光線の研究となる。

35年(昭和10年)頃、海軍研究所の技師がレーダーの研究を進言するが、上層部は「闇夜に提灯をともす」レーダーの開発よりは兵の訓練が大事と却下した。もっとも、海軍がレーダーの開発を進めたとしても、当時の日本電気産業の技術水準では実用化は困難なことだったろうが。

2019年11月27日 (水) 19時49分


[1211] 『特設敷設艦「高栄丸」による戦果』
From:菊池金雄 [/]

撃沈:潜水艦5隻(但し、すべて協同で敷設した機雷によるもので、沈没は戦後の推定による)

米潜水艦「スコーピオン」

米潜水艦「エスコラ−」  

米潜水艦「ソードフィッシュ」 

米潜水艦「キート」

ソ連潜水艦「L19」

 

特設敷設艦「高栄丸」は、潜水艦5隻を仕留めたという、特設艦艇の中では随一のエース艦であると考えられます。

軍艦でもこれだけの対潜水艦撃沈スコアを挙げた艦はありません。華々しい戦闘シーンとは無縁で、自分の挙げた戦果を知ることものなく、機雷敷設という地味な作戦を数々と、そして黙々とこなしていたのです。

そして、太平洋の激戦を生き残り、戦後は日本の高度成長を支え活躍した殊勲船でした。

2019年11月27日 (水) 18時47分


[1210] 能楽 シテの謡い方と地頭の謡い方
From:菊池金雄 [/]

素人はもちろんのこと、能楽師が、シテ方を務めるときの謡い方と、
地頭として地謡を務めるときの謡い方では、謡い方は微妙に違って
いる。
シテは、主役として一人で謡うから、自分の個性ある謡い方をすることが
できるし、どのような謡い方をしても問題はない。
しかし、地謡特に地頭としての地謡を務めるときは、全く状況が違ってくる。
そもそも地謡は、能の場面を作る役割を持っている。同じ能であっても
シテが違えば、能の場面作りは微妙に違ってくる。また、シテのその日の
呼吸が変われば、能の場面作りは微妙に違ってくる。地頭は、こうした
状況の変化を阿吽の呼吸で受け止めて、能の場面を作る。そうして他の
地謡方へそれを伝える。
地謡は一種の合唱で作り上げるものだから、地頭は上手にアンサンブルを
形成できなければならない。「地頭の謡いに従ってこい」という考えで
地頭の個性的な謡を押し通しては、必ずしもアンサンブルが作れない。
7人の地謡方の声がアンサンブルできるような声の導き方をしないと
能を引き立てるような場面作りの地謡はできない。
実際、能を観ていて、上手な地謡の能と、下手な地謡の能があることが
分かる。能楽師でもこのようなことがある。
地謡のまずい能は、能が思うように引き立たない。せっかくの能が
台無しになることすらある。
地頭というのは、大変に難しい役割なのである。

http://rakkaha-edanikaerazu.blog.ocn.ne.jp/aiduwalkroad/cat6587124/

2019年11月22日 (金) 16時19分


[1209] 高瑞丸の軌跡
From:菊池金雄 [/]

ジャパンライン緑水会想出集「みおつくし」より転載・
               ・高瑞丸の軌跡・
・ラバウル方面攻略作戦参加の高瑞丸
                          元高瑞丸通信長 林 銀次郎
 高瑞丸の被弾
 昭和17年 1月23日未明、わが陸海軍の部隊は、高瑞丸を含め役30隻の艦艇に分乗。
ラバウル攻略のため敵前上陸を敢行し、無血で占領した。
 高瑞丸は、その後ラバウルを基地として同年 6月頃まで小作戦に協力。その間潜水艦攻
撃やら、豪州空軍の爆撃に遭うなど、恐ろしい事ばかりで全く生きた心地がしない毎日だ
った。
 特に、ニューブリテン島東南のスルミ攻略では、豪州空軍から爆撃を受け、70キロ爆弾
が三番船倉に五個命中。一個不発、他の一個は水線ぎりぎりのため浸水。右舷はみるみる
うちに傾き、もはや沈むかと思った。
 この爆撃機の攻撃戦法は、低空から船腹への水平爆撃だった。幸い、勇敢な村垣範通機
関長の適切な応急措置で、左ウイングタンクに海水を張り、弾穴が水線上になるように船
体を傾けた結果、沈没を免れた。
 その数時間後。工作船「津軽」が穴を塞ぎ、無事ラバウル基地に帰港することができた。
 当時、ラバウルは一日数回の空爆に晒されていたが、高瑞丸は同年 6月舞鶴軍港に無事
帰還した。

「著者付記」
  私は高瑞丸に昭和17年 6月から乗船していたが、林通信長はじめ、誰からもこのよ
 うな生なましい参戦談を耳にしたことはかった。

2019年11月19日 (火) 19時12分


[1205] 特設敷設艦「高栄丸」
From:菊池金雄 [/]

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高栄丸
Kōei Maru bridge.jpg
高栄丸の船橋
基本情報
船種貨物船
クラス広隆丸級貨物船
船籍大日本帝国の旗 大日本帝国
Flag of Japan.svg 日本
所有者高千穂商船
大同海運
福洋汽船
運用者Flag of Japan.svg 高千穂商船
大日本帝国海軍
大同海運
福洋汽船
建造所三菱造船長崎造船所[1]
母港神戸港/兵庫県
姉妹船広隆丸
広盛丸
広徳丸
航行区域遠洋
信号符字JORI
IMO番号38564(※船舶番号)
建造期間334日
就航期間10342日
経歴
起工1933年2月11日
進水1933年9月3日[2]
竣工1934年1月10日[1]
最後1962年5月4日解体[3]
要目
総トン数6,774トン[2]
純トン数4,914トン[2]
載貨重量10,251トン[2]
排水量14,480トン[2]
登録長133.02m[2]
垂線間長132.59m
型幅17.83m[2]
登録深さ10.01m[2]
型深さ9.78m
高さ27.73m(水面から1番・4番マスト最上端まで)
12.80m(水面から2番・3番マスト最上端まで)
7.01m(水面から船橋最上端まで)
機関方式三菱製6MS72/125型ディーゼル機関 1基
推進器1軸
定格出力4,200BHP[2]
最大速力16.28ノット[2]
航海速力13.0ノット[2]
航続距離13ノットで50,000海里
旅客定員一等:10名[2]
乗組員40名[2]
積載能力2,600トン
1941年7月26日徴用。
宇洋丸型貨物船、昭浦丸型貨物船、富士川丸型貨物船は準姉妹船。
高さは米海軍識別表[4]より(フィート表記)。
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高栄丸
Kōei Maru stern.jpg
太平洋戦争後の1946年、復員輸送任務でメルボルンに寄港した高栄丸を船尾側から撮影した写真。船尾両舷に機雷を投下するための孔があるほか、船橋上の機銃座や信号マスト、迷彩塗装など戦時設備の多くが残った状態である。
基本情報
艦種特設敷設艦(日本海軍)
特別輸送船(第二復員省/復員庁)
艦歴
就役1941年8月15日(海軍籍に編入時)
連合艦隊第四艦隊第4根拠地隊/横須賀鎮守府所管
1945年12月1日(第二復員省/復員庁)
横須賀地方復員局所管
除籍1945年11月30日(日本海軍)
1946年8月15日(復員庁)
要目
兵装開戦時[5][6]三年式12cm砲4門
九三式13mm機銃連装2基4門
九二式7.7mm機銃1基1門
機雷約700個
九六式90cm探照灯1基
武式二米半測距儀1基
最終時
三年式12cm砲4門
九六式25mm機銃連装10基20門
同単装8基
九三式機雷750個
装甲なし
搭載機なし
レーダー最終時
13号電探1基
電波探知機1基
徴用に際し変更された要目のみ表記。
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高栄丸(こうえいまる、旧字体:高榮丸)は、1934年に進水した高千穂商船・大同海運所属の貨物船。太平洋戦争中に日本海軍により機雷敷設艦として徴用され、各地の機雷敷設に従事して複数の潜水艦撃沈に貢献した可能性がある。終戦まで残存し、戦後も15年以上商業航路で活躍した。

2019年11月09日 (土) 16時13分


[1204] 大東亜戦争中の各種輸送任務に従事した商船の乗組員の犠牲者数
From:菊池金雄 [/]

犠牲者数 6万2千人
人員損耗率 43%
 この数字は今晩私が見ようと思っているNHKの番組、人間ドキュメント「船の棺」の背景となる値である。この数字の意味するところをできるだけ多くの日本人が知るべきと私は信じる。

 冒頭の数字は、大東亜戦争中の各種輸送任務に従事した商船の乗組員の犠牲者数を示したものである。数の上では陸軍、海軍に及ばないが、人員損耗率は陸海軍を遙かに上回る激務であった(陸軍20%、海軍16%)。輸送任務であるから、単に商船乗組員だけが犠牲になったわけではない。さらに数多くの陸軍将兵が敵と対峙する前の輸送途上で海没し,多数の民間人,避難家族,疎開児童,病院船の医師や看護婦,連合国の捕虜,日本軍の指揮下で戦ったアジア諸国の兵士,商船護衛の海軍艦艇の将兵たちもまた、武器や石油,原料を満載した商船とともに洋上に散る結果となった。
 なぜこれほどまでに商船隊の犠牲が多くなってしまったのだろうか? これは、ひとえに当時の日本海軍にシーレーンの確保という思想がなかったという他無い。明治維新以降、日本海軍が当事者として戦った日清、日露戦争においては、シーレーンが対馬海峡を始めとする日本近海に留まったため、シーレーン保護の重要性が認識されなかった*1。大東亜戦争開戦直前に、井上成美が「新軍備計画」を上奏し、シーレーン保護の重要性を説いたが、上層部に黙殺される結果となった*2。
 ただ、海軍も何も考えないでいたわけではない。開戦の決意をする最終段階で、輸送船の損耗量をどの程度と見積もるのかが大きな問題となった。ここで海軍は10%程度の損耗率を提出した。低い率のために新造船や敵船の拿捕で補充が可能と判断し、開戦を決定する1つの根拠となった。
 しかし、実際はどうであったか? データをつきあわせてみるとやりきれない思いだ。
輸送船の損害について(単位:万トン)
      当初の見込み(実際の被害)
 開戦1年目 80-100(96)
 開戦2年目 60-80(169)
 開戦3年目 70(392)
 なぜこのように現実と乖離した数字が出てきたのだろうか? これは海軍が単に第一次世界大戦におけるイギリス商船の損耗率をそのまま引用したことによる。潜水艦の性能の差異、太平洋と大西洋の差異、アメリカとドイツの潜水艦の数の差異、日本とイギリスの海上護衛の差異*3などについて、正確な資料による検討を行わなかったため、判断に大きな誤りが生じることになった。しかし、的確なシミュレーションも当時の日本には存在していたのだ。それが猪瀬直樹が20年ほど前に記した「昭和16年夏の敗戦」に出てくる総力戦研究所の日米開戦シミュレーションである。そのシミュレーションにおいては、船舶消耗量をイギリスの“ロイズ・レジスター船舶統計”をもとに計算して、国内の造船能力と照らし合わせてみたらしい。すると、新たな船を作るよりも撃沈されるほうが多い。そして石油が足りなくなる、南方資源の獲得は穴のあいたバケツのリレーになる、という予測になり、模擬内閣は「長期戦は耐えられるはずはない」「日本必敗」という結論に至る。
 しかし、これらの重要な結果も政府上層部の一部が知るにとどまり、運命の昭和16年12月8日を迎えることとなってしまった。海軍はアメリカの通商破壊の重大さにようやく気付き、昭和18年11月になって、海上輸送をつかさどる、海上護衛総司令部を設立したが時期を大幅に逸してしまった。
 大東亜戦争では国運を賭して戦っていたはずなのに、帝国海軍は己の作戦にのみ心を砕き、大所高所からの戦略眼というものが全く欠けていた。今後、日本が再び戦争などに巻き込まれないことを祈るが、万が一巻き込まれてしまった場合においても、いわば“丸腰で戦場に投げ出されたような”日本商船隊の悲劇が繰り返されないことを祈るばかりである。

*1 日露戦争開戦劈頭において、ロシアウラジオストック(浦塩)艦隊の跋扈による通商破壊を許してしまったが、浦塩艦隊の艦船数の少なさにも助けられ、各個撃破することで被害をある程度に抑えられた。
*2 新軍備計画
「航空機、潜水艦の異常な発達により、これからの戦争では、日本海海戦のような主力艦隊対主力艦隊の決戦は決して生起しない。日米戦争の場合、太平洋上に散在する島々の航空基地争奪が必ず主作戦となる。故に巨額の金を食う戦艦の建造を中止して、従来の大艦巨砲主義を捨て、新形態の軍備に邁進する要がある。」
要旨は下記の三点に集約される。
1.基地航空兵力を中心とする航空の飛躍的充実と、基地の要塞化
2.洋上補給路確保のための海上護衛の重視
3.潜水艦部隊の増強
 2の海上護衛については「吾人の最も注意すべきことは、日露事変といい日中戦争といい、わが海軍は潜水艦を有する敵と本格的に戦ったことがないので、ともすればこの問題を閑却しがちであるが、将来の対米戦争では、米は帝国の弱点であるこの方面の作戦に重点を置く公算が極めて大であるので、この種作戦に対する方策は、今後大いに重視する必要がある。」とあり、海上護衛兵力の増強を主張。
 3の潜水艦増強では「米の補給線破壊の目的をもって、遠く米国本土沿岸まで行動できる潜水艦を多数整備する要がある。」と延べ、通商破壊戦の重要を力説していた。すなわち海軍本来の任務である見方のシーレーンの保護と敵シーレーン破壊を、重要な要素として的確に指摘。
*3 商船護衛で最も効果的だったのは護衛船団方式だった。これは1917年2月、ドイツが無制限潜水艦戦を再開するのに伴い、首相のロイドジョージが主張したものである。これにたいし海軍はジェリコや連合艦隊司令長官ビーティを筆頭に反対、実施は1917年5月まで延期された。
 護送船団方式はナポレオン時代も実施されたこともあり特段目新しいものではない。ビーティの反対理由はスピードの異なる商船をまとめて運用することは効率をそぎまた護衛にあたる軍艦も同様な困難に当たる、というものだった。しかしロイドジョージはおしきり実施すると効果は著しいものがあった。「大洋中では散在する20隻を発見する方が、まとまった20隻を発見するより容易」なのだ。

参考サイト
商船隊への鎮魂歌−レクイエム−
 http://www.aa.cyberhome.ne.jp/~museum/010010requiem.htm
「硝煙の海」〜犠牲を強いられた輸送船〜
 http://www.geocities.jp/kaneojp/02/0265.html
海上防衛学入門
 http://www.hi-ho.ne.jp/takayoshi/kaijo/index.html
イギリスの対潜作戦
 http://ww1.m78.com/topix/anti-submarine%20operations.html
日本国の研究〜不安との訣別/再生のカルテ〜(猪瀬直樹)
 http://www.inose.gr.jp/mg/back/02-7-29.html

2019年11月07日 (木) 16時41分







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