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終戦直後舞鶴湾佐波賀に隠れていた軍艦を目撃 |
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From:菊池金雄 [/]
私の船(2A型向日丸=むかひまる)がソ連参戦時、北鮮の羅津港でソ連機の猛爆撃にさらされ危機一髪で脱出。元山向け退避中、ソ連雷撃機に追撃され、同航の第82号海防艦が不運にも轟沈したが、本船は荷役半ばで喫水が浅いため敵の魚雷が船底を素通りしたため難を逃れ、元山から残存船団でS20年8月17日無事舞鶴湾に辿り着いた。 その際、佐波賀の岸に船形の枯れ木の小山を目撃し、双眼鏡で確認したら軍艦のようであった。われわれは命からがら帰還したのに、敵と対戦せず隠れていることに不信を抱かざる得なかった。 数日後、該軍艦が舞鶴に入港してきたので「酒匂」と確認。たまたま親友に同艦乗り組みの方が居るので取材した概要を以下に記す。
軽巡洋艦「酒匂」の就役 戦局の変化により、「阿賀野」級4番艦「酒匂」は建造中に防空軽巡へと転用された。これにより、「酒匂」の水偵設備、雷装は全廃され、代わりに長8cm連装高角砲が各舷5基、両舷計10基まで増設された。 「酒匂」は昭和19年11月30日佐世保海軍工廠で竣工したが、すでに連合艦隊は戦力としてのまとまりを失っており、また訓練航海を行なう余裕など残ってはいなかった。結局「酒匂」は燃料不足で実戦に参加すること無く舞鶴へと回航され、終戦を迎えた。 当時日本海側の各港湾も米軍投下機雷で薄氷の海だったが、幸い若狭湾の小浜港に着いたものの隠れる場所もなく、舞鶴向け機雷の海を17ノットで突破し、隠れ場所を佐波賀に設定した。 カムファージには艦全体に網を張り、乗組員がその上に山の成木を伐採して覆った。当時、日本海側にも米艦載機の跳梁があったが、発見されずに生き残り唯一の軍艦となった。
戦後の顛末 戦後、「酒匂」は武装を撤去して復員船として使用されたが、この際に「水偵デッキが残っていれば、多少 は風雨を防ぐ足しになっただろうに」と復員関係者が嘆くという、皮肉な結末を迎えている。 その後「酒匂」はビキニ環礁での原爆実験の供試艦として米海軍に引き渡され1946年7月1日同実験が行われ、翌二日後沈没した。
軽巡洋艦「酒匂」 防空巡型諸元
基準排水量 : 6,500t 公試排水量 : 7,500t 全長 : 174.5m 最大幅 : 15.2m 吃水 : 5.6m 機関出力 : 100,000馬力 速力 : 35kt 航続力 : 6,000浬/18kt 兵装 : 15.2cm50口径連装砲×3 (前部2、後部1) 8cm60口径連装高角砲×10 (舷側各5)
2006年11月04日 (土) 19時36分
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