Lot.28 2008-02-11 14:33:15
宮崎県断酒友の会日向支部 桜井 哲也
断酒会との邂逅
「もっと強く!」「もっと賢く!」「もっと真剣に!」と言う怒号にも似た歓声を聞いたのは、 平成19年11月25日熊本のアディクションフォーラム会場内であった。 病院で毎日行っていた連鎖握手だ!と咄嗟に気付いた。 それが断酒会のものである事も瞬時に悟った。 断酒会の勉強は入院中、松村先生の伝記を読み、断酒語録も書写していたのである程度理解していた。 勿論、断酒の誓いは毎日唱和していた。 ただ例会に参加していないだけだったのである。 私は5度目の精神病院の入退院を通して、もうアルコールに対して諦めを感じ、降参していた。 それを継続しなければ元も子も無い事は、重々承知していた。 私はAAに4年繋がりがあり、退院後はAAに参加していた。 楽しいミーティングであったが、物足りなさも感じていた。 アディクションフォーラム後のモデルミーティングも、その流れでAAに参加し、 決してAAを批判する訳では無いが、険悪な流れで会が終わった。 その会議室を出た瞬間、上記の歓声を聞いたのである。 私は即座に動いた。 「断酒会とは何ぞや!」その一念のみである。 先ず断酒会員と思しき方に声をかけた。 そうすると名刺を出して姓名を名乗り、自己紹介を始めたのには度肝を抜かれた。 AAではとても考えられない事である。 その方は八代支部長のU氏であった。 直ぐに宮崎で唯一参加されていた、えびの支部長K氏に連絡をされ、地元日向支部長のS氏に連絡が繋がった。 そのスピーディさににも目を疑った。連絡先をも提示している所以で有るのであろう。 私は胸をワクワクさせながら例会場に足を運んだ。 そこでは、喜びと共にAAには無い厳しさを感じた。 家族を連れ立って参加しなければならないと言うことも学んだ。 大成果である。 私は、2回目の例会から両親を無理やり参加させた。 最初はいぶかしながらの参加であったが、数回参加させただけで例会の虜になり、私の強力なサポーターになった。 無論私も頭の先まで嵌り込んで、例会の開催日を待ち侘びている毎日である。 私は、現在断酒会とAAの二束の草鞋を履いているが、これも「毎日自助」計画の為である。 双方の良い所を学んで、一日断酒続けている。 なんと贅沢で充実した毎日である事か。 今後も初心を忘れず、例会、ミーティングに出席し自己研鑽を常に行い。 断酒道を邁進したい所存です。 あれ?我ながらカッコ付け過ぎだな(笑)
Lot.23 2007-02-06 23:39:13
福井市断酒新生会 阿部
昨日のお礼
小太り爺さん 今回の院内ミーティングでは、いろいろ手配をして頂きありがとうございました。 今回のこころ医療センターの内容は、私にとって凄く衝撃的なものでした。と言うのも、そこには初めて福井断酒例会に一人で行く時に思っていた内容そのものでした。 断酒会は言いぱなしの聞きっぱなしである事を今は理解してますが、初日の日は数人の先生と先輩方に、何を聞かれどう責められるのかと?なぜ酒を飲むのかと? そんな思いがあり、恐る恐る例会に参加した記憶を思い出しました。 しかし今回の院内ミーティングでは、先生・看護師の問い掛けには素直に答えられるように思えます。これも例会に参加し「感謝・愛・素直・そして成長」をしていく事を各支部の朋友から学び取れる事、そして自分がアルコール依存症であると認めた事だと思います。しかし、何時何処でこの気持ちが崩れるか分かりません、従いまして例会参加は必須であり、断酒原点を絶えず振り返る事で、一日断酒が出来る状況になりました。 看護師のHさん、断酒会のUさん,Tさん,uさんにもお世話になりました。 また機会を作り参加させていただきますので、よろしくお願いいたします。本当にありがとうございました。 私の好きな歌になった曲「You've Gat a Friend」を落合恵子(東京女子大教授)以前春日井セミナーで日本語に訳し講演されました。一度原曲を聞いて下さい、近いうちにCDと翻訳を郵送いたしますので!
Lot.21 2006-09-12 01:47:21
ドーショウも無いアル中
松村断酒学校に参加して
私の初入校は、平成一四年、断酒会入会一年目でした。
当時私は、湯布院一泊研修会しか経験がなく、断酒も続かずチャランポランの状態でした。
そんな時、ある先輩から誘いがあり軽い気持ちで参加しました。
会場に入り、ニッコリ笑う遺影を見て、私は、「救われたーァ、これで酒が止められる」と思いました。
研修が始まると私は、二時間座っている事ができず何回も中座をして煙草を吸いに行ってました。
研修中に余りにも中座をするので横の方(私と参加した方)から、睨まれる始末でした。
体験談も、何を喋ったか分からず、ただ、全身が震え脂汗が止まらず、酒が切れた様な状態になってました。
私は、場違いな所に来てしまった。と思いました。
ただ、体験談がふだんの夜間例会で聞くのと違って私自身が圧倒され、何であそこまで語れるのかなーァと感心しました。
右も左も分からない三日間の研修を終え、九州に無事帰り着き仲間と別れた途端、ホッとしたのか急に飲酒欲求が湧き、帰りに飲んでしまいました。
家に着く時は、完全に出来上がった状態で帰宅してました。
帰宅後、私は酔っ払って居るにもかかわらず、妻に、「断酒学校に行って感動した」「感動した」と何回も言ってたそうです。
今考えてみても、何に感動したのかさっぱり解りませんし、帰り途中に酒を飲みながら、断酒学校に行って良かった、感動した、来年も行きたい、この思いを酒の摘みにして飲みながら帰った事を思い出します。
このような始末ですから、断酒が続く筈がなく、飲んだり止まったりの繰り返しの中で、二回目の入校を致しましたが、帰りは、初入校と同じく、また出来上がって帰っていました。
三回目の入校は、前々回、前回と違い、酒が長期間止まった状態で参加が出来ました。
さすがに三回目になると、学校の雰囲気、研修の流れ等が解って来て、知り合いも大勢になって、心に余裕が出て来て周りが見える様になっていました。
ふと気が付いたのが、会場前のレストランにビールの旗が立ってました。
私は、ハッと気が付きました。私が初入校の時、研修中に中座をする事を睨みよったのは、私が、イライラして中座をして、万一飲酒して途中退校だけはさせたくない、の親心だったんだな。と・・・。
そして、研修時間中は、心静かに二時間座り続ける事が出来る様になり、体験談を聴かさせて頂いて自然に涙が出る様になっていました。
帰りは、飲酒する事も無く、しかも、妻と待ち合わせをして例会に出席して帰宅していました。
妻は、「断酒学校に行ったら、酒を飲む」と、思っていたらしく、ビックリしていましたが、よほど嬉しかったのでしょう、体験談で言っていましたし、当分の間、新婚時代の笑顔をしていました。
私自身も、今度こそ飲まんで帰ろうと、意識した訳でもなく、気が付いたら、飲まないで帰る事が出来ていました。
この事は、他の方には、当たり前の事でしょうが、後日振り返ってみて、私は大変嬉しくなり、「私にも出来た」との思いで、自分で自分を褒めていました。
よく先輩が、「来よったら、何とか成る」と言ってくれてましたが、私には、理解が出来ませんでした。
断酒会に入会しても、飲んだり止めたりの繰り返し、断酒学校に行っても帰りは飲んで帰る始末で、酒を、人一倍愛していたし、酒に対して未練が、人一倍強いと思います。
当時は、体験談を表面的(状況)にしか、聞くことが出来ませんでした。
その為か、反省も無く、飲まれない自分を、哀れんでいました。
ただ、このままで行くと、病院に帰るか、早死にするやろうと思っていましたが止める事は出来ませんでした。
そんな時に、誘いがあり参加した断酒学校に、参加し続けるとは、夢にも思いませんでした。
最初は、二時間座る事も出来ず、右も左も分からなかった私が参加し続ける事によって、出会い、再会を繰り返す中で、多くの仲間の生きる姿を見せて頂く事が出来ました。
そして気が付いたら、酒が止まっていました。
今年は、大分県の新しい仲間と参加する事が出来ました。
今思う事は、諦めなくて良かった。
仲間と出会えて良かったです。
私みたいな、ドーショウも無いアル中が、回数を重ねて参加すると、酒が止まる所ですから、不思議ですね。
ありがとうございました。
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平成18年5月 高知県断酒新生会 機関紙編集部から原稿依頼があり送付した原稿です。
機関紙には、実名で記載されていますが、今回の投稿にあたりまして、HNにさせて頂きました。 m(_ _)m
Lot.19 2006-09-10 20:43:25
小太り爺さん
家内の変化
家内の変化
H18年 9月 1日 断酒航海中・小太り爺さん
お酒やめて、2年半の頃の懐かしいメモを紹介します。
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篠栗一泊研修会発表準備メモ 『 踏ん張ってきた家内、一歩踏み出し始めた家内 』
昨年から参加しています。昨年、家内は、勤めを終えてから此処へ参りました。今年は、一緒に来ることが出来ました。二日間宜しく御願いします。
今、朝起きて、台所へ行き、家内が弁当を作っている姿を見て一日が始まります。
20年前、私達は、家内の両親家族に反対され、駆け落ち同然で結婚しました。家内は親を捨て、姉妹を捨てて、私の所に嫁いで来ました。10年くらい前、家内の希望も有って、家内は勤めに出始めました。
家内の帰宅が遅くなるように成り、私にとって、酒量に小言を言う家内が居ない事で、自由に多量に飲めるように成って行きました。アルコールがこんなに怖いものだと、知る由もなかった、考えもしなかった私の酒量は、段々多くなり、酒量をコントロール出来なくなり、連続飲酒になり、ついには、動けなくなりました。
当然、多量飲酒により、問題が出始めました。家内が帰ってくる前に、目つきが怪しくなる、家内に暴言を吐く、酔い潰れている、段々、帰ってからの姿が可笑しく成って行ったと思います。又、二日酔いで仕事に行けなくなる、朝から飲み始める、ケガをする。警察から電話が来る。勤務先から電話がある。
その間に段々、家内の小言が暴言に変わってきたように思います。「なんば、考えとっとね」「親としての責任は持っとらんとね」「おじさんも精神病院、お父さんも精神病院てみんなから子供に言われさしたかつね」。実は私の兄は、精神障害で精神科の病院に37年間、入院しています。
家内に顔、頭をど付かれ、足蹴にされ、部屋中を引きずり回され、家内は必死でした。私の飲酒を考えさせようと、やめさせようと。
私自身も身体的にも、精神的にも辛く、何度も、家内に「もう飲まない」と言い、飲まない約束をしました。でも、何遍約束しても守れませんでした。当然家内の前では飲めません。隠して隠れて飲むようになりました。
隠れ飲みが段々とエスカレートして行き、連続飲酒になり、動けなくなり、失禁した状態で「このまま死んでいくのだなあ。」と思いながら居間のフロワーに横たわって居たときに、その頃、話し掛けても来なかった家内の「お父さん、おじちゃんの病院に行こう」の声に私はうなずきました。
「ついに自分の人生は終わりだなあ」との思いが頭を過ぎったのを憶えています。3ヶ月で精神病院を退院し、シアナマイドを飲んでいましたが、2,3ヶ月頃からシアナマイドを飲むふりするようになり、隠れて飲み出しました。
暫くは、酒量をコントロール出来て居ました。30年勤続の旅行先で、家内は旅館の夕食のごちそうを前にして、ビールの注文を許しました。
会社の同僚上司も「以前のように早くみんなと飲めるように成ろう」と、私の飲酒を待ちかねて居るようでした。
退院して1年3ヶ月して近所に住む二人の叔母が相次いで亡くなり、お酒の席が続きました。親類も「飲め飲めと」私の飲酒を、許るすかのように酒を勧めて来ました。お通夜、葬式、法事が連続し、アッという間に、多量に飲むように成ってしまいました。
再度、会社で仕事が出来なくなり、役職を降ろされました。3度目の飲酒により問題を起こした始末書を書きました。
「今度。酒が原因で迷惑を掛けたら次は懲戒免職だ」との内容を書かれた通告書を貰いました。
家内はもう、私の方を向かなくなっていました。私を見るときは横目で、正面から見て貰えませんでした。それでも、酒、やめられませんでした。また連続飲酒になりました。また会社へ行けなくなりました。
会社では、私の懲罰会議が開かれ懲戒免職が決まりました。家内と総務課長のお宅を訪問し許しを請いましたが駄目でした。工場長に呼ばれ「もう一回頑張ってみないか」との工場長の恩情でクビが免れました。もう飲むとイカンと思いました。でも飲みました。どうしてもやめられませんでした。
更に、離れていく家内を引きつけたかったのか、私に女が居るような、怪文書を家内に送りつけました。愛想尽かした家内は記名捺印した離婚届を突き出して来ました。
そうこうしているうちに、家内に病院のYさんからの奨めで断酒会に繋がりました。「断酒会に入っても、お酒は絶対やめらきらっさん」と家内は確信していたそうです。
家内の想像通り、入会してもしばらくは飲んでいました。入って3週間位たった、ある日一日酒を飲まなかったのが物凄く嬉しく、それ以来、現在まで断酒が続いております。断酒会の、また断酒会の皆さんのお陰でやめて居れます。本当に感謝しています。
結婚したときは当然ですが、結婚してからも本当に色〜んな、辛い目、苦しい目、惨めな目に遭わせて来ました。本当に申し訳なく思っています。「親まで捨てて来た家内を俺が絶対幸せにしてやる」と思って結婚したのに、このザマです。
断酒会に入会当初から、体験談で家内は、アル中からの被害話を言い続けてきました。記憶に無いものも有りましたが、全て事実だと思います。聞いていて辛かったところがたくさんありました。去年、酒やめて1年半のころ、新年断酒会で家内が言いました。「主人は、どうなってもいいです。私は、私のために断酒会に通います」と。
それを聞いて、わたくしは随分楽になりました。また、嬉しかったです。
以後、家内の体験談は、被害談から、酒害に巻き込まれた家内が、家内自身が子供達に辛い目、苦しい目を遭わせて来たと云ったような内容に変わりました。
更に今月始め、「私が、主人をアルコール依存症にしました」と皆さんの前で体験談を話しました。家内は変わっています。変人と云う意味ではなく、変わって来ています。
私も変わらなければいけないと思います。これからも各地の一泊研修に出掛け、皆さんのお話を聞き、どう変わればいいか探し求め、家内に「お父さんと(私のことですが)、お父さんと結婚して良かったあ〜」と言われるような私に成りたいと思っています。宜しく御指導、御願いします。
今、仕事を終えて家へ帰ると、家内が風呂の支度をして、待ってくれています。ありがとうございました。
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もちろん、全て研修会で話せた訳では有りません。それから、一年、更に家内は進化しています。 わたくしは、どうなんでしょうか?
H18年 9月 1日 断酒航海中・小太り爺さん
Lot.18 2006-08-30 06:43:28
小太り爺さん
この夏の思い出・宮崎交流キャンプ
この夏の思い出A宮崎交流キャンプ
H18年 8月 29日 断酒航海中・小太り爺さん
先日、8月26,27日の一泊二日、(社)宮崎県断酒友の会主催の交流断酒キャンプに参加して来ました。八代支部から11名、そして、今年は、大分の断酒会の皆さんの参加も有りました。宮崎県の断酒会の皆さん、お子さん家族含め、総勢約60名、椿山キャンプ場という、清流が流れる森林の中での酒無しのキャンプです。
このキャンプに参加し始めて、足かけ5年、アクセス道路が崖崩れで中止となった一回を除き、連続の参加となっています。わたくしの断酒生活から外すことの出来ない年中行事となっています。
5年前、断酒会の例会に通っていても、お酒をやめることが出来ずにいました。入会して3週間くらい経って、一泊研修会へ、支部長に連れて行って貰いました。宮崎県の一泊研修会です。その一泊研修会から帰って直ぐ、又飲みました。でも、わたくしの頭の中に異変が起きていたようです。
「精神科の病院を退院して、1年9ヶ月、飲んで居ません。」と、支部長に嘘をついて例会に通っていました。実は退院して2,3ヶ月くらい経ってから試し飲みして以来、ずーっと隠れ飲みしていたんです。そして連続飲酒になり、入会する頃は、体がお酒を拒否し、それでも飲んで、酒量は減っていましたが、飲んで例会に通っていました。
宮崎の一泊研修会へ参加して、多くの方の体験発表を一気に聞き「断酒」を洗脳されたからでしょうか、わたくしの頭の中で異変が起きていました。支部長に、飲んでいることを、告白に行こう」と、思い立ち、会話も無く横目で睨む家内に、断酒を宣言するかのように誘って、支部長宅を尋ね、飲酒していたことを告白し、断酒を始めることを宣言しました。
でも、飲みました。
ところが、何故思い立ったのでしょう、支部長宅を訪ねた翌日、飲んで出た家庭例会の帰り道、夜、場所も忘れません、県道に出る三叉路で、明神さんの横で(今、新幹線の架橋工事が施工されていて、明神さんは移設されました。)「今から24時間、丸一日、飲まずに居てみようか。」との思いが頭をよぎりました。
宮崎の一泊研修会の会場で見た「一日断酒」の文字が頭から離れずにいたからでしょうか? その時、お酒の無い、お酒を飲まない世界を思いました。寂しーい気持ちがしました。交友関係の中で、職場で、地域で、果たして生きて行けるのだろうか? 不安感と恐怖感に襲われました。
そして、どうにか飲まずに、翌日の夜を迎え、一日過ぎました。物凄い「喜び」みたいなものを感じました。それまでも、一日飲まずに過ごしたことは幾度か有りはしました。でも、我慢から解き放たれた瞬間、お酒を口にしていました。飲まなかった喜びなんて、どうにかして飲みたい気持ちしか持ち合わせていない頭だったためか、感じたことはありませんでした。
二日目、「もう一日、やめてみよう。」と思い、もう一日飲まずに過ごせました。嬉しかったです。喜びで手が震えました、ではなく、離脱症状で手が震えに震えていました。
3日目は、支部の例会日でした。初めてです、飲まずに例会に出たのは。それまで5回の支部例会と家庭例会、窓際の仕事が夕方4時半に終わり、一目散に会社に最も近い酒屋に駆け込み、ワンカップの焼酎を口にし、7時半からの例会に顔を出していました。
以来、飲まずに過ごすことが出来ています。
そして、(社)宮崎県断酒友の会主催の交流断酒キャンプに始めて参加しました。「一日断酒」を思い立って、1.5ヶ月くらい経った頃でした。まだ、ぼーっと、していたと思います。
このキャンプ、野菜を洗う、食材を切る、米を研ぐ、かまどに火を付ける、全て最初から酒害者の手で始められます。料理する、装う、後かたづけ、食器鍋釜を洗う、全て酒害者が行います。家族は手出し無用です。
参加された家族の皆さんは、何もしなくて良く、ロッジで只喋って、準備された料理を只食べて、排泄して、寝ころんで、一泊、丸一日過ごせます。
始めて参加した年のキャンプ、そうやって過ごされる皆さんに混ざって、右往左往して過ごす時間の中、夜話で、主催される事務局のYさんが、わたくしの相手をして下さいました。
わたくしが自己紹介の時喋った「断酒会に入ってもやめられずにいた話」を聞かれ、「自分も断酒会に入っていて飲んでいた。やめられなかった。でも、やめている。」から始まり、一時間近く、Yさんの体験談、断酒のこと、断酒会のことを、熱っぽく、わたくしに、語って下さいました。
本当に嬉しかったです。見ず知らずの、まだ、ぼーっとしている、わたくしを長い時間相手して頂いて。この喜び、このキャンプが、わたくしの本格的な断酒のスタートと成ったようです。
今年も、辺りが白けてくるまで、多くの会員の皆さんと、色んなこと、語り明かしました。色んな話を聞かせて貰いました。
そして、二日目、参加された御家族、わたくし達酒害者、総勢約60名全員で、最後にキャンプ全敷地のゴミ拾いをして、散会しました。再会を約束して。
交流断酒キャンプ、家族には何もさせないと言っても、わたくし達は、只行って、只料理して、只片付けただけです。
キャンプの、日程、場所、用品、食材等、諸々の準備、そして当日、更に、ゴミ処分、返却準備及び返却、等々、計画及び実施に携わられた宮崎の皆さん、大変だったと思います。大変御世話になりました。心より感謝致します。本当にありがとう御座いました。
交流断酒キャンプ、今回もたくさんの人との出会い、思い考えとの出会い、またたくさんの再会を頂きました。今回もたくさんの断酒の糧と成りました。更なる断酒のパワーがみなぎって参りました。本当にありがとう御座いました、また来年。
H18年 8月 29日 断酒航海中・小太り爺さん
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Lot.17 2006-08-01 19:57:35
小太り爺さん
夫婦石での誓願
夫婦石での誓願
H18年 8月 1日 断酒航海中・小太り爺さん
梅雨が明けたら、勤め先まで自転車で通勤することにしていました。良かったのか悪かったのか、長い梅雨でした。やっと梅雨が明け、区切りが良いところで、月曜日(7月31日)から、片道17,8分の所要時間で自転車通勤を再開しました。
この自転車通勤途中に、「夫婦石」と呼ばれている、サーフボードを厚くしたような石を2枚、地域の人達の手によって、祀られていますところがあります。
この、2枚の石、始め同じ屋敷で使用されていたそうですが、訳あって離別し、そして今、また一緒に同じ場所で祀られています。私達夫婦も同じように、結婚し楽しく暮らしていましたが、私の飲酒がコントロール出来ない状態になり、夫婦の気持ちは離れ離れになってしまいました。
晩酌の量も増えて行き、お酒がらみで家内との仲が不仲になり、段々家内の気持ちが、私から離れて行くのを薄々感じていました。
その頃は、徒歩だったり、自転車だったりして、通勤していたんですが、いつも、夫婦石の辺りまで来る時は、途中の一軒目の酒屋で買ったワンカップの焼酎を、ジュースの自動販売機の前や、物陰に隠れて飲んで、丁度いい気分に、なっていた頃です。
この「夫婦石」の2枚の石の間には、時々、ワンカップが供えてありました。
「夫婦石」を過ぎてから、家に辿り着くまで、7軒、酒屋やコンビニがあり、立ち寄らずに帰って来るのは至難の業でした。家に帰り着くまで、焼酎が1リットルは、お腹に入っていたと思います。皆さんの地域では、どうか知りませんが、私達の地域では、アルコール度数が25パーセントのワンカップが主流です。
そして、家に帰り着いてからの分も、途中で買って来ていました。
そんなして、途中で買い求め、物陰や、トイレの中で飲む自分の飲み方は、普通じゃ無いとは思っていましたが、怖い家内の前では飲めませんので、無理からぬ飲み方でした。
「おかしい飲み方、離れていく家内、数値が上がっていく肝機能値、血圧、尿酸値、この辺りでやめないと大変なことに成る。」とは、重々解っていました。
何が、キッカケだったか憶えていませんが、横目でしか私を見ない家内と言い争いし、「ようし、やめよう」と思い立ち、夫婦仲のことのお願いは、「夫婦石」にお願いすると効き目があると思い、時折供えてあったワンカップを思い出し、焼酎のワンカップを買い求めて、「夫婦石」へ持って行きました。
「お酒やめます。家内の気持ちが戻ってきますように。」と、したためたメモ紙を、丸く握り、願いと誓いの気持ちを現そうと、一気に飲み込みました。ところが、その丸めた紙が喉に引っ掛かり、とっさに出た行動は、供える為に買って来て置いていた焼酎のワンカップを手に取り、蓋を開け一気に飲み込みました。
もう、「お酒やめよう」とか思う気持ちは何処かへ飛んでいってしまっていました。そして、その一杯で、また、いつも通りの普通じゃない飲み方で帰り、その日以後も変わることは、有りませんでした。
自分がお酒やめないのは棚に上げて、"「夫婦石」でも、夫婦仲は良くならないな"と、嘯いては、飲み続けていました。そうして、遂には動けなくなりました。
でも、今、思うんですが、その時、「お酒やめます。家内の気持ちが戻ってきますように。」のメモ紙を飲み込んで、「夫婦石」に誓願したお陰で、飲まない私と、側に居てくれる家内が、今、ここに居るのではないかと、思ったりもしています。
そんな「夫婦石」を横目で見ながら、自転車で通勤し始めました。これからも、例会出席・一日断酒で断酒を続けて行きたいと思います。宜しくお願いします。
H18年 8月 1日 断酒航海中・小太り爺さん
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Lot.16 2006-08-01 19:35:05
小太り爺さん
母のこと
母のこと
H18年 6月 21日 断酒の海航海中・小太り爺さん
私の母が入院先で亡くなったのは、平成15年5月14日午前3時前でした。断酒して10ヶ月、松村断酒学校に一人初めて行った私の帰りを待つかのようにして他界しました。その年5月13日の明け方、まだその頃走っていた「ドリームつばめ」で断酒学校から帰宅し、そのまま勤めに出た帰りに、貰って来たカーネーションを起き上がれない病院のベッドで渡した時、認知症が進んで何も解らなくなっていた母は、私を見て笑みを浮かべてくれました。
その深夜、病院から電話があり、病室へ駆けつけた時は既に、息を引き取っていました。享年85歳でした。
母は、大正7年3月26日に、今の八代市に農家の一男三女の末っ子として生まれました。父親(私の祖父)は昭和10年、母が17歳の時に、母親(私の祖母)は、昭和31年、母が37歳の時、亡くなっています。私は、祖父を全く知りません。祖母が他界した時は、私も4歳前であり、おぼろげながら、記憶に残っています。妹を負ぶって、私の手を引いて田んぼの畦道を病気の祖母の元へ通っていました。
母の実家は、加藤清正の指揮で干拓した堤防の樋門の番屋で、母の話によりますと、帯刀を許されていたみたいで、太平洋戦争時、天井裏から何本もの刀や、槍を、お国に差し出したそうです。今、実家の家屋は母の甥(私の従兄)が、保証人倒れして、有りません。母は裕福に育てられたようでして、幼いころ日本舞踊を習い、JR鹿児島本線に在る千丁駅の完成時に、踊りを披露したことを嬉しそうに話していました。
母は、身長が135cm位の小さな体でしたが、走らせれば速く、地域の代表選手として、いつも走っていたそうです。地域の皆さんにも顔が売れていて、「フクダンマッシャンガコカイ(福田のマスエさんの子供なのかい)」と、母の旧姓で私のことを尋ねられる大人の人たちが物凄く多かったのを記憶しています。あっ、言い遅れましたが、母の嫁ぎ先である父の実家と、母の実家は500m位の距離の同じ地区内にありました。
戦時中に青春時代を過ごし、田んぼ(水稲)の草取りをしている時、長崎の原爆投下時の光、きのこ雲を見たそうです。長崎市内からは直線距離で約80kmです。終戦になり、目が不自由でも赤紙で召集された私の父が戦場より帰って来ました。周囲の薦めで二つ年下の父と結婚しました。式は昭和21年10月13日だったと母から聞いています。不思議なことで私たちが披露宴をしたのも10月13日です(昭和60年)。母が28歳、父が26歳の時です。両親は従姉弟同士でした。
目が不自由な父を助けてやってくれとのことだったそうです。父には既に両親(私の父方の祖父母)は居らず、長兄夫婦が家長夫婦として大きな農家を仕切っていました。四畳半の小さな部屋を宛がわれ、下男下女みたいな扱いを受けながらの生活が始まったそうです。そんな中で長男(私の長兄)を身籠りましたが、産気付いたその日まで働かされ、兄は死産だったそうです。ところが兄は息を吹き返し、高熱が長く続きながらも生き返ったそうです。
でも、その長男が息を吹き返したことが母の苦労の始まりでした。いや、父と結婚したことが、いや、母が母として母の時代に生まれたことが、と、言えば、苦労は、母の運命だったのでしょうか。「自分の一瞬一瞬の判断の結果が今の自分である。」と云う言葉を聞いたことがありますが、それで片付けるにはあまりにも、可哀相な判断を突きつけられた母の人生だったと思います。
いつまでも歩けない長男、元気に生まれた次男は5歳の時、疫痢で死亡、長男は精神的に障害、それによりいじめられる長男、長兄夫婦に虐げられた生活。兄(私の伯父)に対して、社会に対して、ものが言えぬ夫(私の父)。
そんな中、生まれた三男(私)、体が小さい故か、みんなから可愛がられて育って行きました。私は、母と居る時間よりも、本家のみんなと過ごす時間が多かったと、母から聞いています。伯父さん夫婦には特に可愛がって貰いました。一番古い記憶も、本家のその伯母さんに連れて行って貰った七五三の三歳のお宮参りです。伯父さんとは、伯父さんは村の指導者的立場にあり、その用で、あちこち連れて行って貰ったのを覚えています。他、伯母さんの実家、姉妹の家へ何度と無く連れて行って貰ったこと等・・・・・、本当に母や、父と過ごした幼い時期の記憶がありません。
その後、母が妹を身籠り臨月に分家してからの、記憶は、両親との記憶が占めております。少しばかりの田んぼを頂いて分家させて貰ったのは、昭和30年12月28日だと云うことです。台所には天井がありませんでした。五右衛門風呂の風呂場にも天井がありません。雨の日雪の日は傘を差して風呂に入りました。食器は小皿数枚だったそうです。母屋の壁は泥荒壁のままでした。今は、全く違う家に住んでいますが、今でも、藁が見え、口を明けたひび割れの気持ち悪い泥荒壁が夢に出てきます。農機具もありませんでした。
そんな貧乏を絵に描いたような分家でした。母は一生懸命働いていました。畳表の原料、イ草を栽培し収穫し、布を織るようにして畳表を織るのが、一家の職業でした。私の記憶の小学低学年までの母の記憶はいつもイ草に関わる農作業をしている姿です。
その時代、もう、同級生たちは、小学校に入学する前幼稚園に通園するようになっていました。私は、通園する同級生たちの姿を見ながら、妹の手を引いて妹の子守をしていました。妹も幼稚園を出ていません。羨ましさ悔しさとか寂しさとかはその時はありませんでした。今、あちこちの一泊研修会に飛び回っている根源がこの辺りに在るのかも知れません。
小学校に入るときは、周りのみんなは、自分の名前も書けるし、もちろん「あいうえお」も言え書けていました。私は、自分の名前さえ書けませんでした。誰も教えてくれなかったんです。両親は、教える時間がなかったんです。兄はいましたが、精神的知的に障害がありましたから。今、無茶苦茶になんにでも取り組もうとする根源もこの辺りにあるのかも知れません。
でも、学校が、楽しかったです。担任の先生は良くして下さるし(今でも、親交があります。)、兄の同級生も、兄はいじめても、私は可愛がるんです。遅れを取り戻そうとしたのか、先生を睨み付けて授業を受けていたそうです。通知表に先生からの欄に書いてありました。今も、ひとつも変わりません。
母のことを、書こうとしていましたが、話が自分の方へ行ってしまっています。涙が止まりません。涙が止まらなくなりました。その当時の、ことを思うと・・・。本当に母は、あんな小さな体で、一生懸命でした。一家を支えようと・・・。泣けて、泣けて、今、この航海記、書けなくなりました。そんな母になんで、痴呆が進んだ母に、あんな罵声を浴びせて来たんでしょう。毎日毎日、怒鳴り叱り罵声を浴びせていました。
家内を紹介した時、あんなに喜んでくれた母に。誰よりも喜んでくれた母に・・・。すまなかったお母さん。許してください。その上、アル中にまで、なってしまって・・・・・。 母の苦労話はこれからもっともっと続きますが、もう、書けません。今は・・・・・。
・・・・・・書き込みしようか、しまいか随分考えました。まだ完成していませんけど、書き込みすることにしました。・・・・・
H18年 6月 21日 断酒の海航海中・小太り爺さん
Lot.15 2006-08-01 19:33:43
小太り爺さん
な〜んも考えずに
な〜んも考えずに
H18年 6月 11日 断酒の海航海中・小太り爺さん
どの辺りでアルコール摂取コントロール機能障害になったのか解りませんが、酒の怖さが解らず、酒を嘗めていたんだと思います。ほどよく酔って何とも言えない良い気分の陶酔感に浸りたく、勤め先から帰宅しては「まず酒」の生活が習慣化して行きました。
帰宅した家は兼業農家でもありましたので、色んなこいとを遣らなければいけなかったんですが「まず酒」でした。遣らなければいけないことを先送りし、遣らなければならないことが段々溜まって行き、煩わしく思うようになりました。溜まったそれらは手足の指の数では足らない数になって行き、あれもせんばアカンこれもせんばイカンと焦燥感に襲われるようになりました。
また、仕事で帰りが遅い家内に毎日イライラしたり、家内が衣類を買ってくれないとか、家内が作業服を洗濯してくれないとか、健康を気遣ってくれないとか、「何もしてくれない」、「全然構ってくれない」と、怒ってばかりいました。そして「それが原因で酒飲むんだ」と、飲んだくれる所為にしていました。
お酒を飲むと、その煩わしさ、イライラから解放され、夕食まで時間さえあれば、お酒を飲んでいました。そうしているうち段々酒に対する耐性が出来て行き、少しずつ酒量が増えて行きました。しかし多量に飲んだ翌日、お酒が切れる時のあの辛さ、きつさ、だるさに襲われ、「酷い二日酔い」に苦しむ日が多く成って行きました。
肝臓のγ-GTPの数値が高く成って行いったのは当然のことです。「程々にうまく飲んで行かなければいけない」と、どんなにコントロールしようと思っても、コントロールすることが出来なくなりました。「これが最後、絶対これが最後、もう飲むとアカン」と自分に言い聞かせながら最後の焼酎のワンカップを飲みましたが、いつまでも、いつまでも、最後のワンカップが続いて行きました。
幾度と無く経験してきたことでしたが、段々小便の色が黄色を通り過ぎて柿色になり、赤くなり始め、そして真っ赤になって行きました。大便はチョコレートが溶けたみたいになり、更に進んで黒褐色のサラサラの液体の液状に変わって行きました。
引っ切り無しに排泄を催し、何度も何度もトイレへ駆け込み、トイレットペーパーで拭き上げる尻はタダれ痛み、体が水を要求し、飲めば吐き上げ、胃袋は唾液でさえも寄せ付けなくなり、今度は吐きあげに何度も何度もトイレへ駆け込み、寝床とトイレを行ったり来たりし続けていました。
寝床で横になると、焦燥感に襲われ、肌着は寝汗でグッショリ濡れ、手は震えそしてつり、足もつり、背中までもつり、どうしようも無く腓返りが続きます。飲めば治まるのを知っている体と頭が「もう飲まんばアカン、もう飲まんばアカン」と、酒を要求します。もうどうにも我慢が出来ず、さっきまで「もう、絶対飲まん」と思っていた気持ちは何処かへ消え去って「エーイ、飲メーェ」となり、飲もうと思うと不思議と腓返りが消え、コンビニへ車を走らせていました。
決まって朝4時がスタートでした。右手には、財布やポケットからお金を出す時間、釣り銭を待つチョッとの時間も惜しく焼酎のワンカップ代202円を握りしめていました。
昼間、近くのコンビニへ行くと、レジに子供が中学生の時、一緒にPTAの役員をしていたTさん、女性の方ですが、不思議と居られました。しかし恥も外聞もプライドもありません。目を合わせないようにしてレジを離れ店の外へ出て、シールも外さずガクガク震える両手でキャップを明けましたが、中身は零れ、口元へもうまく運べません。零れる焼酎で顔を濡らしながら「これが最後、これが最後。」と念じて一秒も掛からない位の早さで、一気に飲み込みます。
飲める日はいい日で、尾行して来ていた怖い顔付きの家内に飲む前、何度か没収された事が有りました。家内は、どん思いで尾行して来ていたんでしょう。どんな思いで取り上げたんでしょう。な〜んも考えずに飲みに走っていました。
飲んだ後は飲酒運転です。今、考えると寒気がします。暫く走ると急に吐き気が襲ってきて、慌てて窓を開けようとしても、窓が開ききるまでに我慢が出来ず、窓ガラスにドバーッと汚物を吹き付けていました。頭は酒を要求しても体が寄せ付けなくなりました。それでも頭は酒を要求し、コンビニへ引き返し、またワンカップを買い求めていました。
ところが、少し吸収されたアルコールの所為か、2本目のワンカップの焼酎は、すんなりと体は受け入れてくれました。家に帰り着く頃にはお酒が回り、今度は、体がだるく動きたくありません。車の中、小屋の土間、玄関、廊下、居間、階段、寝室、何処でも、寝込んでしまっていました。自転車の時は道路に寝込み、通報があってか、家内に迎えに来てもらったのが幾度と無くありました。
尿意で目が覚めて起き上がろうとすると体が思い通り動かず、また、体がだるく動きたくなく、そのままの状態で失禁していました。腰の周りにジワーッと生暖かいものが広がっていく感触を体がまだ覚えています。
濡れて横になったまま「このままではいけない」との思いが巡り始め、そして焦燥感に進んで行き、又どうしようもなくなり頭が酒を要求し始めて来ます。そしてまたコンビニへ急ぐ。そんな繰り返しでした。悪循環になって行きました。
そして、最後はどうにもこうにも動けなくなってしまっていました。こんな立ち振る舞い、ブザマな格好に、どんなに家族は、子供達は、そして家内は惨めだったでしょう。その時は考えもしませんでした。考えることが出来ませんでした。「すまなかった」の「詫び言葉」で片付く訳がありません。全盲に近く、引き籠もり状態の父親の心にどんな不安を与え続けたんでしょう。思春期の子供達にどんな思いをさせたんでしょう。
更に、色んな、どんな仕打ちを受けてもても最後の最後まで、ギリギリまで踏ん張ってくれた家内の苦しみはどんなだったんでしょう・・・・・。
あの頃は、こんなキツイ思いをしてまでも、親父、お袋、そして家内や、人の所為にして飲み続けていました。アルコールを嘗め、アルコールの怖さを、家族への酒害を、「な〜んも考えずに」飲んでいました。
H18年 6月 11日 断酒の海航海中・小太り爺さん
Lot.14 2006-08-01 19:32:20
小太り爺さん
喋るようになった親父
喋るようになった親父
H18年6月1日 断酒の海航海中・小太り爺さん
私の親父は、大正9年2月19日生まれ、85歳です。生まれつきの視野狭窄、夜盲症です。職業はい草・水稲生産者でした。昔は田んぼの仕事を感に頼ってやっていました。今は殆ど見えなく全盲に近い状態です(と思っています)。家から出ません。昔からそうでした。と、言うよりも、都合の悪い所へは、目が見えないのを理由にひきこもっていたと言うのが当たっているかもしれません。
私が生まれた頃は、本家の親父の長兄と一緒に住んでいました。下男扱いの生活を虐げられていました。そんな中私の長兄が生まれました。死産でした。お通夜の準備にかかっている時に息を吹き返したそうです。高熱が続いたそうです。一年経っても一年半経っても歩き出そうとしない兄に異常を感じ始めたと聞いています。2歳くらいでやっと歩き出したと、聞いています。
そして次兄が生まれました。次兄は、元気が良く、知恵も回り、長兄が長兄でしたので、一心に親の期待がかかっていたようです。そして私が生まれました。長男が「美則」次男が「美俊」ふたりの下の字を貰って私は「俊則」と命名されました。ところが、私が2歳の時に、次兄が疫痢で亡くなりました。医者への通報遅れだと聞いています。
長兄は「知恵遅れ」と呼ばれながら小学校に入学し中学へと進みました。皆から毎日毎日いじめられながら。中学へ進んでから、外で受けてきたストレスの為か家で暴れるようになりました。親父は、兄を暴力で抑えようとしました。母は、暴れる兄と暴力で取っ組み合う2人の中に入って兄をかばって目が見えず暴力を振るう親父の暴力を受けていました。顔、腕足、黒アザが耐えませんでした。毎日毎日。障子は破れ、ガラスは割れ、襖は折れ、原型を留める物は何も無いくらい、家の物は壊れていました。
そんな状況を毎日目にして私は育って来ました。暴れる兄は、ある時間(日単位)が過ぎると、暴れていたのがウソのように静かになりました。熊本大学病院へも随分通っていたみたいです。でも、良くはならず、いつ暴れだすか分らない家庭内での暴力は兄が精神科病院に入院するまで続きました。私が高校一年の時でした、兄が入院したのは。今年で38年になります。親父の半ひきこもりが酷くなったのは、その頃からかもしれません。以前も、兄が暴れて静まった後は決まって寝込んで一週間ぐらいはフトンから出て来ていませんでした。
そして、色んな交渉ごとが発生して来ました。全部、母と、私に任せて「オラ目が見えん」とフトンから出てきませんでした。大嫌いでした。そんな親父が。母に家の問題は預けて、都合が悪くなると「自分ドン良かゴツせろ!」とフトンから出てこない親父が大嫌いでした。「絶対、親父みたいに、なるものか。」と思っていました。(でも、結果的には飲酒のコントロールが出来なくなり、家内を同じ目に合わせることになりますが。)
そして、私の飲酒が始まりました。飲む度に問題を起こす、私。泥酔してタクシーに轢かれる。病院を抜け出し行方不明。無断欠勤。祭りで泥酔し警察に保護される。泥酔し屋根に上り転落、頭、上唇、膝を数十針縫って3ヶ月の入院。飲んで帰ってこない。飲酒運転で車庫を破壊し、電柱をなぎ倒し逃走。タクシーに接触し飲酒運転現行犯逮捕。新聞に実名で。そんな私が飲んで帰ると、ぎこちなくドアをあけて帰ってくると、襖をなぎ倒して飛び出してきて動けなくなった私に暴力を振るう親父でした。丁度、長兄に振るっていた頃と同じように、暴力と暴言、罵声で、私の飲酒を止めさせようとしていました。
でも、私の飲酒は止まりませんでした。兄と同じように。そして、私も、兄が入院している精神科の病院に入院しました。でも、私の飲酒は止まりませんでした。私と親父は会話が出来なくなりました。親父は必死でした。私の飲酒をやめさせようと。見えない身体で。私に罵声を浴びせ、暴言を吐き怒鳴って。私も、そんな親父と同じような罵声暴言怒鳴りで交戦していました。地獄でした。そんな毎日怒鳴りあう親子の姿を、私の2人の子供達に見せ続けてきました。私が、兄と親父と母の地獄を見てきたように。
断酒会に繋がり、お酒やめても、回数は減っても、親父とのそんな怒鳴り合いの関係は続きました。「俺は、酒やめて、こんなに変わったのに親父はイッチョン変わらん!」と、言い続けてきていました。
平成16年11月27日、沖縄の一泊研修会へ行く為、鹿児島空港へ行く高速で、丁度、遠くの山並みから出る日の出に遭遇しました。五日前に親父といつもの怒鳴りあいのケンカをしていました。まばゆい光を受けた時、「はっ」としました。涙が溢れ出し、止まらなくなりました。「親父はこの光景が見えないんだ」と思った瞬間からでした。
「自分が好きで目が見えなくなったわけではないんだ。」「知識が無く、目が見えない体で兄の暴れも、自分の飲酒も止めようとするにはあんなやりたしか出来なかったんだ。」「親父も被害者なんだ」「目が見えない体で良くやって来た。3人(妹がいます)の子供達を育て、田んぼの面積を増やし、一生懸命働いて来たんだ。」色んな親父を行為を肯定する思いが頭の中を駆け巡りました。
直ぐ、携帯で家に電話し、「スミマセンでした。暴言吐き続けてきて。アル中になってしもうて、スミマセンでした。」と、泣きながら親父に謝りました。「解とったい解っとったい」と、親父は言ってくれました。それ以来、私たちは毎日のように交わしていた怒鳴り合いを1年半やっていません。たった一度も。
でも、会話は有りませんでした。たま〜に、用事を言い合ったりするだけで、話は出来ていませんでした。ところがいつからか良くは覚えていませんが、ここ2ヶ月くらい前からでしょうか、夕食の時、会話が出来るようになりました。私が、ちょっと、話しかけると堰を切ったように親父が話を返してきます。
あんなに、嫌がって口を開かなった赤紙で召集された戦争の話をしてくれます。地域の事、親類の事、昔の話し、色んな話をしてくれます。きのう、「孝行しゃんが来て、自分(私のことです)に、宜しくてゾ」と伝えてくれました。神奈川のいとこが奥さんの親戚の結婚式で帰って来たということでした。嬉しかったです。今までこんな事は、全く、まったく!無かった事です。よその家庭では何でもない会話でしょうが、私と親父の間では考えられなかった事です。ホントお酒、やめて良かったです。お酒やめて「自分を改革する努力」をしてきて良かったです。
「爺ちゃん、ありがとう」
H18年6月1日 断酒の海航海中・小太り爺さん
Lot.13 2006-08-01 19:31:10
小太り爺さん
ゴールデンウィーク
ゴールデンウィーク
H18年5月1日 断酒の海航海中・小太り爺さん
この時期、ゴールデンウィークは、いつも、朝から晩まで酒浸りの日々でした。会社勤めをしながら、兼業で農業をしていましたので、この時期は、色んな農作業がある時期で、作業が片付く時期でもありました。でも、朝から飲んで何もしたくなくなり、寝っ転がってばかりいました。
「あれもしなきゃいけない、これもしなきゃいけない」と思いながらも何も出来ず、作業が滞り溜っていくばかりで、酒が切れると、何も片付けていない自分の腑甲斐無さと、何も片付いていない現実に、重く、焦燥感が覆い被さって来ていました。酷い発汗、肌着は汗でビッショリ、ジッとして居れないくらいに焦燥感が襲ってきて居ました。
その焦燥感、一口酒が入ると消えるのを、私の脳ミソは知っていました。「飲んではいけない、飲んではいけない」と、思ってフトンの中にうずくまっていても、違う方にある小遣いを取り上げられ無一文の脳ミソが、金の在処をどこそこと狙いを付け始めます。「あそこの引き出しには?」と、思うと、体はその引き出しに向かっていました。
そんな、そこいらじゅうの引き出しに、お金を入れている筈がありません。でも、何処かに有るんです。焼酎のワンカップが買える位のお金が。引き出しとは限らず、以前着たズボン、背広などのポケットとか。
探し出した、202円を握りしめて、近くのスーパーに自転車を走らせ、買い求め、スーパーのトイレで飲んでいました。
「飲んではいけない、飲んではいけない」との思いは、その時は全くなく、でも「これが最後、これが最後」と唱えて、飲んでいました。手の震えが止まり、家に帰り、テレビの前に横になり、うとうとしていると、目が覚め、また焦燥感が襲ってきます。
そして、金を探し始め、やっとの思いで見つけ出しては、今度は違う所へ、酒を買い求めに行く。口やかましい家内は、勤めで居ません。私の番をしているつもりの目が不自由な親父の関所をすり抜け、距離が遠ければ車で出掛ける。勿論飲酒運転です。
今思うと、「ぞっ」とします。よく、事故を起こさず、人身事故を起こさず来れたものです。家のスレート農舎には、車をぶっつけて、スレート壁も車も大破していますが。
今、町中を走る車の中に、私みたいなドライバーが居るんではないかと思うと、これ又「ぞっ」とします。
そして、ゴールデンウィーク明けは、勤め先の仕事も出来無くなっていました。そして、平成14年は、ついに勤め先から解雇通告を受けました。
家族は、家内はどんな気持ちだったでしょう。
H18年5月1日 断酒の海航海中・小太り爺さん
Lot.12 2006-08-01 19:30:18
小太り爺さん
忘れまじ
忘れてはならないもの。
H18年1月25日 断酒の海航海中・小太り爺さん
歯を噛みしめ目を強く閉じても、頭の中がガンガンキリキリ痛んだ、あの頭の痛み。 右手も左手も右足も左足も体中、何にも動かしたくなかった、あのからだの怠さ。 怠くても、水が欲しく蛇口に口を持って行き、どうにか喉を通っていった水。 胃袋の中の水の存在を感じ、胸に何か支え、急に襲ってきたあの吐き気。 飲んだ焼酎を、水を、唾液さえも寄せ付けず、苦しみあえぎ吐き上げた、あの嘔吐。 あの頭痛、あの倦怠感、あの吐き気、あの嘔吐。
段々小便が赤くなり始め、溶けたチョコレートのような大便がコーヒーのようなサラサラの液体に変わって行き、引っ切り無しにトイレットペーパーで拭き上げるお尻はタダれ痛み、飲み込んだ唾液でさえも胃袋が寄せ付けなくなり、何度も何度も吐きあげにトイレへ駆け込み、寝床とトイレを行ったり来たりし続けていたあの苦しさ、辛さ。
寝床で横になると襲ってきたあの焦燥感。肌着は寝汗でグッショリ濡れ、手は震えそしてつり、足もつり、背中までもつり、どうしようも無く続くあの腓返り。
つり銭を待つチョッとの時間も惜しくワンカップ代の202円を握りしめて突き出すコンビニのレジ。そんなときに限って子供が中学校の時一緒にPTAの役員をしていた高岡さんがいて恥も外聞もプライドも無く目を合わせないようにしてレジを離れ店の外へ出、シールも外さずガクガク震える両手でキャップを明け、「これが最後、絶対これが最後。」と念じて一秒も掛からない早さで、震える手で零れる焼酎を顔に掛けながら、一気に飲み込む時の、あの惨めさ。
精神病院のプログラム、主治医の先生、スタッフの皆さんの知識でも言葉でも指導でも私を変えることが出来なかった事実。
役職を降ろされ、窓際に座らされ、取引先、業者、同僚、上司、元部下、書記の女性が見るあの軽蔑の目。挨拶の返事さえも返えして来なかった、あのみんなの態度、振る舞い。
どんなにやめようとしても、どんなにやめることが出来ると思っても、やめることが出来なかった事実。
緑のインクで印刷された、届け出用紙を差し出され、名前を記入した時の、あの寂しい思い。 妻や子供達の、横目で睨み付けるあの目、近くに寄ってこず他人と接するようなあの態度。
でも、どうしても忘れてはならないものは親や子供達、そして妻の気持ち。 妻は、どんな思いだったんだろう。子供達は、どんな思いをしていたんだろう。両親はどんな思いで見ていたんだろう。妻や子供達が受けさせられた、辛さ、苦しさ、惨めさ、悔しさ、悲しさ、寂しさ、嫌さ、恥ずかしさ。
これらを忘れることは、絶対許されない。
H18年1月25日 断酒の海航海中・小太り爺さん
Lot.11 2006-08-01 19:28:47
小太り爺さん
家内の計らいに感謝
家内が仕事を終え帰宅して毎日毎日、目にする光景は、酔い潰れた私がダイニングのフロワーに這っている姿でした。食事の準備が出来て、私はテーブルに着けたとしても、食事を取ることが出来ません。
白眼は黄色く濁り、顔はムクみ、呂律が回らない口調でクドクドと誰彼選ばず暴言を吐く私を、中学、高校の二人の息子は、正面から見ようとしません。横目で睨み付けています。怒鳴り合いはあっても、会話など全くありません。暴力を振るったり、物を投げたり、壊したりしては、していませんでしたが、これが異常飲酒していた頃の我が家の光景でした。子供達はどんな目でPTAの本部役員の父親を見ていたんでしょう。二人とも中学校の生徒会会長を経験し、その立場で息子達はどんな思いをして学校へ通っていたんでしょう。
結婚当初は、晩酌はしていませんでした。休日の前夜に、ビールを一瓶あけるくらいでした。家内は子供に手が掛からなくなったことも有り、外へ仕事に出ました。仕事先で社員に採用され、所長職を任され帰宅時間も遅くなって行きました。それにより私には、酒を自由に飲める時間が出来、酒量が段々増えて行きました。
家内は、目が不自由な父や痴呆が進んで行く母、精神科の病院に入院している兄の面倒をみながら家事をし、会社勤めを続けて行きました。親戚、近所付き合いから行政福祉の諸手続全てに於いて、私は何にもせず、家内に任せっきりでした。
酒は結婚当初から私が買って来ていましたが、酒を飲んでケガをしたり、会社を休んだり、警察の世話になったりして、家内の前で飲めなくなり、そして買って来られなくなって、家から酒がなくなりました。 酒屋や、自販機や、コンビニでワンカップの焼酎を買い求め、納屋に隠し、家内に隠れて飲んでいました。
酒を飲んで問題を起こしては、何度も「もう絶対飲まない」と家内に約束しました。でも、直ぐ飲み出しては、酔い潰れていました。朝は、4時か5時には目がさめて酒が欲しくて車で出掛けるようになり、ある日、コンビニでワンカップの焼酎を買って表へ出たら、後を付けて来た家内が睨み付けていました。そんなことが何回かありました。また、近くのスーパーでふらつきながらワンカップの焼酎を何本も持ってレジに並ぶ私から家内がワンカップを取り上げたこともあったそうです。覚えていません。
いつもアルコールが体に残っている私は、そのうち仕事が出来なくなり、役職を降ろされました。「今度こそ絶対やめる」と強く決意しても、帰宅すると酔い潰れていました。そして連続飲酒に成り懲戒免職の通告が出ましたが、工場長の恩情でどうにかクビが繋がりました。「今度こそ絶対、酒をやめる。」と決意しました。それでも、どうしてもやめられませんでした。
家内は「次男が地元の中学を卒業するまで我慢しよう」と堪えていたようですが、あと一年残すところで離婚届に捺印して私に差し出して来ました。そのころ家内は暗い顔をしていたんでしょう。そんな家内を見兼ねてか、私の兄が長期入院している精神科の病院で、知り合いの方が家内に「断酒会」を紹介して下さいました。そして私達夫婦は家内の計らいで、断酒会の例会へ出掛けてみることにしました。実は、離婚届は、勤め先で捺印しての会社帰り泥酔し、バックごと紛失してしまいました。
断酒会は夫婦出席が鉄則だと云うことで家内も毎回付いて来てくれました。断酒会に入っても暫く、酒はやられませんでしたが、3週間ぐらい経って参加した宮崎の一泊研修会で目に入った「一日断酒」の垂れ幕を思い出し「一日、飲まないで居てみよう」との思いが起き、飲まないで一日が過ぎました。嬉しかったです。本当に嬉しかったんです。その喜びの延長で今日までどうにか飲まないで来れています。
色んな辛い目に会いながらも家内が踏ん張ってくれたお陰でどうにか、家族、そして仕事も私に残りました。飲酒をやめたからと言って、すぐ平穏な日々が訪れた訳ではありませんでしたが、家族に笑顔が戻って来ました。
ずーっと支部の例会に家内と通い続けています。県内外の大会や研修会にも家内と参加しています。そこには安らげる場があり、やめ続けておられる先輩達と知り合いになれ、会話が苦手な私は再会し手を握りあって握手するだけなんですが、なんか嬉しい一時を過ごさせて貰うことが出来ています。今では、家内は、自分のために断酒会に通っていると言ってくれます。
今は酒を飲まずにいますが、いつ、何処に飲酒地獄への落とし穴があるか解りません。誰に突き落とされるか、何に突き落とされるか解りません。これからも断酒会に足を運び断酒会に感謝しながら断酒を継続して行きたいと思っています。
今、一日の断酒が出来て迎えることが出来る朝に、喜びを感じています。最後まで踏ん張ってくれた家内、断酒会に繋がるキッカケを作ってくれた家内、断酒会に足を運んでくれている家内、そんな家内の計らいに、心から感謝しています。
H18年1月11日 断酒の海航海中・小太り爺さん
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