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パンクラチオン
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投稿者:torame
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(2011年10月27日 (木) 20時18分) |
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無限の焦渇。 そうとも言えるような感覚が、何時頃からか、ワープの心奥深くに根付いていた。 何時からだったろう。 それは確か、あのとっちゃんぼうやを、模擬戦で初めて下した時だったように思う。
敵を倒す。
ぶっきらぼうな義兄と、その家族の住む鄙(くに)を守る為に。 都に住まず都に属する者、国の鄙(ひな)に住む者が傲慢な国に取り潰されぬ為には、都を助けるより他無い。 幼い頃、たぶんそう思ったのだろう。 自分が守らなければ。
それも、今では滅多に心の表に浮上しなくなったように思う。 何も感じず、損得のみで事を計る方がより上手く行ったし、それまでの胸を焼くような心持ちで任務を遂行するのと結果は変わらなかった。 変わってはいけなかった。
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地、塀、家屋の壁、あらゆる周囲の命持たぬ物質が壊れていく音が、路地で鈍く響く。 打ち合いは数十と拳足を重ねた後も、まだ続いている。
「『縛』!」
しかし、拳だけではない、男の奇妙な術は鎖や突起を、狭い路地の中で出しては引っ込め、こちらの動きを制限して来る。 地面から飛び出した鎖が、ワープの腕を締め上げる。
「フンッ!!」
これまで、現在を含めてこの土の鎖での拘束は3回ワープに齎された。 一度目はワープの捕縛を狙って、二度目は恐らくユキの奪取、三度目、現在はワープの足を狙って。 しかし、皆一様にヒットはするものの、今回含めワープの膂力で砕かれている。 互いのパワー・スピードは同等、衝突を重ねる毎に更に、この男はテクニックや機知にも長けている、とワープは見ていた。 否、テクニックはその通りだとしても、機知というのは多分、正しい言葉では無い。 恐らく、この男―ディプスと言ったか―は見た目や雰囲気通りに、荒事を数熟してきたのだろう。 その間に磨き抜かれたのは、機知と言うよりは多分、もっと原始的な、勘と呼ばれるようなものだと感じた。
最初の内は、自分が子供一人を抱え戦っている事が、勝負を長引かせている原因だと思っていた。 軽いものは軽いが、予想以上に「戦いの邪魔」となっている。 子供一人を抱えていればそんなもの当たり前だが、最初のうちは、あまり問題にはならないと高を括っていたのだ。 だが、このプレアデスの生き残りである小さな子供が、邪魔になるばかりでなく、あまり無い状況に梃子摺る自分を助けている事も感じていた。 無論、実際に娘がその意思と手足を以てワープを助けているという事ではない。 この娘の存在が、相手方の全力の動きもまた、封じている。
「うっ…らぁっ!」
「!!ちっ!」
この瞬間まで何度か自分の肋を砕こうとした鉄拳が、またもワープの胴を目掛けて飛んでくる。 それが肉薄し、拳風を感じるまでに引き寄せた瞬間に、一歩退き気絶しているユキを目の前に突き出す。
「…お前っ!」
ディプスの目に、怒りだろうものが点る。 当然の如く、拳は痩せこけた少女の小さな頭を砕き潰してしまう前に止まる。 これまでの打ち合いの間に、この目の前の男は、やはりワープを打ち据える事の出来る機会を何度も逃している。 やはりこのディプスという男は見立て通りの平和主義者なのだ。 恐らく、守る為に戦っている。 自分と同じ。 動くというよりは、胸の裡に動かされている。
「おっと、ダメよダメダメ」
ディプスがすぐに固く結んだ拳を開き、ユキを奪取しようと手を突き出した瞬間、腕と身を同時に引き、掴ませない。
そろそろこの男とのパンクラチオンもお終いにしなければ。 久しぶりの難敵は己の内に眠っていた闘争・競争心を、心の表層まで引き上げかけたが、何時までも遊んでいる訳には行かない。 最良のタイミングを作ってくれる攻撃を、待つ。
しかし、待ち望んだモノは、待つという程も時間を消費しない内に来た。 というよりは、こちらが引き出したという形になる。
「ッシャッ!」
「っ!!」
こちらの足刀を、身を横に翻して避けたのち、男から反撃の手が伸びる。 足刀は相手が隙を突き易いように、少しばかり大振りにしてある。 男は狙い通りに身を横に翻し、勢いを利用し、今しがた捕縛の把持を緩ませたユキを取り返そうと突っ込んでくる。 やはり勘が良い。 こちらに拳撃を撃ち込む為の今までの行動よりスピードが増している。 離脱に特化した動き―――。 だが、今回の攻撃は、この袋小路の中でいくら退かれようとも問題は無い。 男が肉薄し、すぐにでも娘を把持出来る距離に達した瞬間、左腕の袖口の隠し銃を男の胸元に向ける。 後は銃が手首の動きを感知し弾丸を発射し、男の左胸の奥にある、真っ赤なポンプを破壊するだけだ。
「『刃』ッ!」
「!!!」
ディプスの叫び声。 耳に響いた直後、左上腕に鋭い痛みが走った。 銃弾は既に発射されている。 男が血を流しながら仰け反っているのを確認し、背後をちらりと盗み見るように振り返る。 地面から、鋭い刃物状の物体が生えていた。 刃先には血がべったりと付いていて、これが数瞬前、自分の腕を切り裂いたものだと理解した。 こちらの狙いにさえ、今の一瞬で咄嗟に見抜いたというのか。
弾丸の狙いは痛みのせいでずれたらしく、男は死んではいなかった。 だが男は確かに銃弾に倒れた。 腕に出来てしまった切創の処置はともかく、早々にその場を立ち去ろうと刃から男の方―路地の出口―へ視線を戻す。
「っ…がッ…!!」
驚いた事にディプスは、傷の痛みに耐えながらも、必死の形相で立ち上がった。 咄嗟に幾分か握力の弱まった腕で、拳銃を取り出す。
「ごめんよ」
男の四肢へ、銃撃を見舞い、自由を奪う。 その行動に躊躇いや慈悲など微塵も含まれておらず、正反対に口から紡がれた謝罪は滑稽にさえ思えた。 『この馬鹿馬鹿しく頑丈な体と気概で追ってこられては困る。』 他の感想と言えば、これくらいしか無かった。
「…!!!」
男は叫ばない。 だが、見開かれた目からその激痛が窺い知れる。
「…っ…ま……!!」
「待て」と言おうとしたのだろう。 叫びはひゅうひゅうと掠れた空気の流れとなってワープの耳に届いた。 男は尚も這いずるようにこちらを追おうとしていたが、流石に動けず、結果その場で体を捩るだけとなっている。 恐ろしいまでの気勢。 しかし、この動きでは、いくらもがいてもどうなるものではない。
「・・・ふー」
ユキがまだ気絶しているのを確認してから、足を溜める。 力いっぱいに壁に向かって跳躍し、壁を蹴り、反対方向の壁に跳ぶ。 それを数回繰り返し、建物の屋上に着く。 そこからは、よく知った町並みを眺めながら、城へ戻り、少女を渡すだけ。 幸い、付近の住民は塞がった路地の轟音を聞きつけ集まり、ディプスが作った「不自然な壁」を崩したり等していたようで、自分に気付く者は少なかった。 激しい肉弾戦で壁を打ち崩された家屋の住人も、留守から帰って困るのだろう。
「……なんで?」
何故頭を撃たなかったのか。 眉の片方を微妙に吊り上げながら、一人ごちる。 あの男に止めを刺さなかった理由が、今になって分からなくなっていた。 多分、少しの時間の浪費も厭うたのだ。 もしかすれば、仲間がやって来て、最悪の状況―3対1―となっていたかもしれない。 どちらにしろあの場所に少しでも長居してはならなかったのだ。 筋肉を強引に収縮させる事で一先ず傷口を塞ぎながら、ワープはそう思っていた。
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