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[1167]忘恩国の天唾族

よく朝鮮人を分析するに日本人は、過去を水に流すが朝鮮人は恨みつらみで過去に執着するというけれども実際は日本人に対してだけである。歴史修正主義と日本の保守勢力を批難するのも歴史を教条化する儒教思想的な「こうでなければならない」「こうあるべきだ」という決めつけを前提にする歴史観。従って主観的に決めつけられた思い込みで自らの好むところによる歴史整形主義で史実を捻じ曲げても事実に反しようとも嘘を百回言えば真実になると思い込む。

近年の自国民虐殺で言えばソ連のスターリン、中国の毛沢東、カンボジアのポルポトに次ぐのが朝鮮戦争当時の北朝鮮、韓国である。歴史上、日本が朝鮮に恨まれる筋合いは全くない寧ろ感謝されるべきである。これまで受難にあった朝鮮民族の悲劇を忘れて日本の恩を恨みにすり替えているのが韓国の現状。なぜそうなったかと言えば韓国の反日史観の開祖が韓国初代大統領であり、今の反日教育は李承晩史観が元凶でこれに後から日本の自虐史観が加わり増長されたもの。

日本は朝鮮半島を併合したのであって朝鮮人は日本人同様に帝国臣民であった。終戦直後、理屈から言えば同じ敗戦国民である。朝鮮人も戦争加害者になってはたまらぬと李承晩は併合統治を植民地支配だと捻じ曲げて自分たちは被害者と喚き続けた!そりゃぁ当時の日本人からすれば恩を仇で返す所業とは、わかっていたもの日本人の人の良いところで朝鮮人まで敗戦に巻き込ませて気の毒と思い黙っていたところ、世界は日本は黙認したと解釈したわけである。

つまるところ、
恩義を受けると通常は、感謝するというのが日本人の概念である。然しながら恩義を施す相手を賢く利用してやったと思うのが朝鮮人の本質であり、要するに今日日の韓国の反日問題は、日本から見ればまるで整合性のない非論理的所業に思えるが、韓国人からすれば恩を与えた相手だらこそ徹底的に利用するのが賢いということになる。客観的には言動として「天に向かって唾を吐き」己の唾が面にかかっているのもわからない恥知らず。

「泣く子は多く餅をもらえる」「女は三日殴らなければ狐になる」という朝鮮の諺があるそうであるがなるほど朝鮮人そのものである。

名前:観念行者 / 自宅にて / 私信 / HP
2019年01月20日 (日) 19時16分


[1168]サルフ山の決戦

朝鮮人で想い出したが17世紀の満州で大酋長ヌルハチが女真族を統一して明帝国に反乱する。明軍は反ヌルハチのイエへ族と秀吉の朝鮮征伐で明軍に助けられた李氏朝鮮に応援を要請、10万の大軍を動員した上に圧倒的な大砲、鉄砲の火砲を持つ。対するヌルハチの女真族2万の軽騎兵集団。結果と大軍の明軍は鶴翼の陣で迎え撃ち女真騎兵の凄まじい突撃に各部隊は何とか耐えていたが最右翼に陣する朝鮮軍1万に突撃を加えたところ、朝鮮軍は全軍が茫然自失状態になり「哀号ー」と泣き叫びながら明軍、本陣に向かってなだれ込み明軍は総崩れになったという。

もっとも、朝鮮戦争でも韓国軍の傲慢にして臆病という性質には随分と足をひっぱれて国連軍、米軍は憤慨、迷惑したそうじゃ。

名前:時の番人 / 自宅にて / 私信 / HP
2019年02月02日 (土) 18時56分


[1169]白村江の戦い

朝鮮人で想い出したが7世紀の朝鮮三国史記時代。唐(中国)と新羅(慶尚道)が連合して百済(全羅道)に次いで高句麗(北部朝鮮)を亡ぼす。滅亡した百済に復興運動が起こり大和朝廷は、救援要請に応じて4万の大軍を動員して半島へ派兵することになる。16世紀の戦国時代、今川義元が駿河、遠江、三河の三国で輜重隊も含めて4万の大軍を動員したことも凄いが大和朝廷の頃では、西日本の成年男子が皆、徴兵されてしまったと記録されたほどである。

結果として百済復興の残党軍は内紛して逃散してしまいハシゴをはずされて派遣された大和軍は唐新羅連合軍に包囲殲滅される。水軍でも唐軍の巨艦に対して小舟ではあったが数は増さっていたものの対馬に到着した順に一艘ずつでも白村江に突撃して来るため唐軍に「倭軍は勇猛なれど戦術なし」と言われて各個撃破されてしまい、大敗を期す。有史上、初めて対外戦争に敗れたことになる。もっとも5世紀の高句麗の好太王の碑文によれば広開土王が百済、新羅軍を率いた神功皇后の倭軍を破り駆逐した記録も含めれば史上、二度目の敗戦とも言える。

つまるところ、朝鮮半島には関わるべからずというのが歴史の教訓である。

余談として、
当時「剣・戈(鳶口のような矛)交える」と言って主な近接兵器であったが、白村江では兵士の大量動員で「剣」の生産が間に合わず本来、諸刃の直剣を片刃の直刀にして手抜き生産してしまっため、実戦ではポキポキと折れてしまった。そのときの反省から唐軍の使用していた青龍刀など刀に反りが入ってるのを学び、片刃の直刀に反りを入れたのが日本刀の始まり。「戈」については、小舟に引っ掛けて引き寄せるために使った武器であったので水軍戦から陸戦の方に移行して廃れた。盾は、日本刀や槍を両手で使うことから鎧兜の方に比重が移る。

名前:時の番人 / 自宅にて / 私信 / HP
2019年02月03日 (日) 20時42分




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