盤珪法話@ (5450) |
- 日時:2011年11月24日 (木) 06時53分
名前:伝統
(2)しっかりと話を聞けば法成就できる
盤珪さんは、在家の人に向かって坐禅せよとは言わなかった。 もちろん坐禅するなと言った訳ではないが、死ぬほど苦しい修行をしなくても 自分の話を聞いて納得すれば、それでこと足りると太鼓判を押している。
そのため若い時に自分が行った修行のことを話す時にも、次のような前置きをしている。
「ただ今、みなの衆は、いかい仕合わせでござる。 身どもなどが若き時分は、名知識がござらなんだか、又ござっても、 不縁でお目にかからなんだか、
殊に身ども、若い時分から鈍にござって、人の知らぬ苦労をしまして、 いかいむだ骨を折りましてござる故に、懲り果て、
みなの衆には、むだ骨を折らしませずに、畳の上にて、楽々と法成就させましたさに、 精を出して、このように毎日々々出まして、催促することでござるわいの。
皆の衆は仕合わせなことでござるわ。このような法を説く人が、どこにござろうかいの。
身どもが若き時分は、鈍にござって、むだ骨を折りました事を、 みなの衆に話して聞かせましとうござれども、自然若き衆のうちに、 身どもがように骨を折らねば、法成就する事はならぬように思わしゃって、
骨を折りますれば、身どもがとがでござるによって、話して聞かせとうはござらねども、 さりながら若き衆、よく聞かしゃれい。
身どもがようにむだ骨を折らいでも、法成就しまする程に、必ず盤珪がようにせいでも、 法成就すると、先ずそう思って聞かしゃれい」
・・・
「刻苦(こっく)、光明かならず盛大なり」と叱咤激励するのが禅宗の常であるのに、 むだ骨を折って修行をするなと言っているのだから、かなり珍しい和尚といえる。
またこんなことも言っている。
「身どもがここに住してより、四十年来、よりより(たびたび)人に示しを致す故、 この辺りには、善知識に勝(まさ)った者が多くできました程に、みなの衆もこの度、 遠方より大儀してござった甲斐には、念にしかえぬように、不生の道理をとくと決定し、 法成就して帰らしゃれい」
自分が説く不生の道理をとくと決定すれば、へたに修行した善知識よりも悟った人に なると言うのであるから、たいへんな自信である。
とはいえ盤珪さんは坐禅を軽視していた訳ではない。
龍門寺には立派な禅堂があるから、修行者たちが坐禅に励んでいたのは間違いのない ことであるし、なによりも盤珪さん自身、坐禅によって悟りを開いたのである。
盤珪さんが言いたいのは、 方向を間違えるとせっかくの修行も役に立たないという事であろう。
<合掌 平成23年11月24日 頓首再拝>
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