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天皇・皇后両陛下の避難所・被災地訪問(行幸) (485)
日時:2011年04月09日 (土) 09時02分
名前:伝統

4月7日の産経新聞、4月5日NEWSポストセブンより

3月30日に東京武道館(足立区)で両陛下を迎えた被災者らは、会話を重ねるたび
緊張が解け、涙を流す姿もみられた。

福島県南相馬市の杉忠夫さん(80)は「不安を抱いていたが、優しいお姿に勇気が出た」。
同県いわき市の女性は「日常生活に戻れたら、またお会いしたい」と、
復興への意欲を新たにしていた。

「皇后様から、これから頑張ってくださいとお声をかけていただきました。
でも、これからどうしたらいいのやら」(いわき市からの避難者)

被災者は平成の「行幸啓」をじっと見つめ、涙を浮かべる老人もいた。


無私の取り組みを続ける陛下は、ビデオで公表したお言葉の中で「私たち」という
国民目線の言葉を使い、こう呼びかけられた。

「被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、さまざまな形で少しでも多く分かち
合っていくことが大切であろうと思います」


<参考Web>
天皇皇后両陛下、東京都内の避難所を訪問される
You Tube
http://www.youtube.com/watch?v=ssUBdg0S-Uw

・・・・・・・・・

4月8日の毎日新聞、読売新聞より

両陛下、埼玉の避難所訪問=原発事故の双葉町民お見舞い

52歳の女性は「皇后さまに『元気で頑張って下さい』と励ましていただき、
一から頑張って行こうという気持ちになりました」と涙ぐみながら話していました。

井戸川克隆・双葉町長は
「町民はこれまで3回の移動を強いられ、大きな疲労が
たまっていたが、両陛下に励まされて前向きな気持ちに変わったと思う」

「町民の笑顔が見られ、前向きになれた。私も疲れが飛びました」
と感想を話した。

・・・・・・・・

宮内庁によりますと、両陛下は震災直後からできるだけ早く被災地を訪問して
人々を慰めたいと強く希望されてきましたが、
まず来週14日にも津波の被害を受けた千葉県旭市を訪問されることになりました。

さらに、今月から来月にかけては茨城、宮城、岩手、福島の4県へ訪問されることも
視野に、現地の状況を見ながら日程などを検討することにしています。
(08日16:51 TBS Newsi)

         <平成23年4月9日>

被災地御訪問/千葉県旭市 (622)
日時:2011年04月15日 (金) 20時10分
名前:伝統

【天皇皇后両陛下】被災地御訪問/千葉県旭市

http://www.youtube.com/watch?v=daIvT8icyp8&feature=player_embedded#at=13


両陛下、被災地を初訪問=「頑張りましたね」―千葉・旭市
(時事通信社 - 04月14日 15:03)

天皇、皇后両陛下は14日午後、東日本大震災による津波で13人が犠牲となった千葉県旭市を
訪問された。両陛下が今回の震災の被災地を訪れるのは初めて。

両陛下は、同市海上公民館と飯岡福祉センターに設置された避難所を訪問。
ジャンパー姿の天皇陛下は膝を突いて、「どうぞお元気でね」と被災者に声を掛けた。

皇后さまは手を握ったり、腰をかがめたりしながら、
「よく頑張りましたね」「大丈夫よ、大丈夫よ」と被災者をいたわった。


ダウン症のため上手に話せない小野正和さん(36)は、「これからも頑張っていきます」と
書いたメモ帳を胸に掲げて両陛下に見せた。
母親と一緒に津波にのまれ、近所の人に助けられたといい、天皇陛下は小野さんのメモを
ゆっくりと声に出して読み、皇后さまは「えらかったですね」と励ましの言葉を掛けた。

両陛下は避難所のほかに、津波で家屋が流されるなどした横根地区を訪問。
1人が死亡し、1人が行方不明になった現場の路地に立ち、黙礼をささげた。


旭市では4カ所の避難所で、計約250人が避難生活を送っている。

         <平成23年4月15日 記>

両陛下、津波被害の北茨城の漁港で黙礼=被災者にも心痛める (759)
日時:2011年04月23日 (土) 07時56分
名前:伝統

天皇、皇后両陛下は22日、東日本大震災で5人が死亡、1人が行方不明となった
茨城県北茨城市を訪問された。

両陛下の被災地訪問は14日の千葉県旭市に続き2カ所目。
大型連休前後には宮城、岩手、福島の被災地を訪問する。


津波被害を受けた大津漁港をご視察。
近隣の数百人が並んで迎え、口々に「ありがとうございます」と声があがった

津波被害を受けた大津漁港を訪れた両陛下は、1人が行方不明になったと聞くと、
岸壁で海に向かって黙礼。

続いて地元の小学生ら市民と交流し、「大変でしたね」「元気でね」などと声を掛けた。
その後、壊れた家が立ち並ぶ港裏の路地を歩き、52歳の女性が津波で亡くなったことを
聞くと再び黙礼した。

(両陛下は、死者が出た住宅と、行方不明者がいる海に向かって、
 2回にわたって黙礼されました)

両陛下はその後、避難所となっている市民体育館に移動。
床に両膝を突きながら、被災者を励ました。


橋本昌知事らによると、昼の会食で陛下は、福島第一原発の放射性物質(放射能)の
風評被害を心配しながら、 「しっかりとした知識に基づいて行動してほしいですね」
などと話されたという。

また、会食の弁当には地元で水揚げされた魚料理が入っていたが、
陛下は「コウナゴは入っているんですか」と 尋ねられたという。
コウナゴについては、暫定基準値を上回る放射性物質が検出されたため、
出漁を自粛するなどの影響が出ている。

北茨城市では今回の震災で5人が死亡、1人が行方不明となり、
茨城県内で最も人的被害が大きかった。

   youtube:両陛下 北茨城市の漁港を訪問(NHKニュース)
   http://www.youtube.com/watch?v=7z3kLQ_egpE

・・・・・・・・・

天皇皇后両陛下の被災地訪問は、被災者へのお見舞いであるのと同時に、
亡くなられた方々への慰霊をしておられるのであります。

被災者には両膝をついて励まされ、亡くなられた人々には黙礼をされる。

そして、日々、”民安かれ”と神々に祈っておられるのであります。


今上陛下は、防災のために誰よりも必死で懸命であられると感じます。

政治家以上かも知れません。なぜなら、国家に災害が起こるのは、自分の責任だと
自覚されているような大きな思いを感じるからです。

今上陛下の行動(被災地訪問も含めて)は神祭りであり、
2600年の時を超えて、今のこの一点に、
日本の神々が懸命になっておられることを示しているようです。


            <平成23年4月23日>

「国や国民のために尽くす」 (808)
日時:2011年04月25日 (月) 17時06分
名前:伝統

  *以下は、NEWSポストセブン(4月25日) からの紹介です。


【天皇陛下 お言葉放映時に緊急速報入ったら中断依頼していた】


「国や国民のために尽くす」――天皇陛下がこれまで度々会見で話された言葉が、
今この震災下ほど深い実感をもって感じられることはない。

ご高齢の身を押して、避難所へ、被災地へと回り、一人一人に腰を折り膝をついて
話をされるその姿に、被災者たちからは感動の声が聞かれた。

文芸評論家の富岡幸一郎氏が報告する。

* * *

今回の東日本大震災とそれによる福島第一原発の事故は、
まさに国難ともいうべき事態である。

このような危機に瀕したとき、国の指導者に求められるものは何か。
それは艱難と悲しみに打ちひしがれた人々、不安と焦燥のなかにある国民にたいして、
沈着で冷静なそして大きな勇気を与える言葉を語ることであろう。

3月16日の天皇陛下のお言葉は、
http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=13
まさに国家元首が被災者と全国民に向けて語られた、そのような言葉であった。

地震や津波による死者を悼み、避難生活を余儀なくされている被災者を励まし、
危険な状況のなかで救援活動を日夜展開する自衛隊員や警察官、消防士等の人々の労を
ねぎらい、各国元首や海外からのお見舞い、支援を伝えるメッセージを、

天皇はマイクに向かって静かな落ち着いた声でゆっくりと語られた。

震災直後から未曾有の災害であることを察知されていた天皇は、
自らの意志でお言葉の作成を進められ、15日に皇后と話し合われつつ
原稿を準備され、翌16日午後3時にビデオ収録、午後4時半にテレビ各局で
一斉に放映された。

とくに放映に先立ち、緊急のニュースが入ったときは、
放映を中断して速報を流すようにとの配慮を示されたという。

    ※週刊ポスト2011年5月6日・13日号

              <平成23年4月25日>

天皇皇后両陛下、宮城県をご訪問 (858)
日時:2011年04月28日 (木) 07時54分
名前:伝統

(1)両陛下が宮城入り 東北の被災地を初訪問(11/04/27)

   http://www.youtube.com/watch?v=asUNvkXtd64

(2)天皇皇后両陛下そろって被災地に向かって静かに一礼される

   http://news.so-net.ne.jp/article/detail/575752/?nv=r_cmn_movie

(3)両陛下、初めて東北の被災地を訪問

   http://www.youtube.com/watch?v=wEMmCKfVJiM


両陛下は4月27日午後1時ごろ、自衛隊機で、宮城・南三陸町の高台にある小学校に到着された。

沿岸部を望む高台に立ち、南三陸町の町長から、
「商店街や民家が立ち並んでいたが、すべてなくなってしまいました」と説明を受けると、
両陛下は静かにうなずかれた。

また天皇陛下は、「左の方に橋が少し残っていますね」と腕で示し、
皇后さまは「こんな橋まで落ちたんですか」と、衝撃を受けられていた。

そして両陛下は、そろって、被災地に向かって静かに一礼された。

このあと両陛下は、避難所になっている町内の中学校を訪れ、床にひざをついて、
被災者1人ひとりに声をかけて回られた。

また、医師や自衛隊、消防、警察の代表者をねぎらわれた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以下は、「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」という著書からの紹介です。

(1)「では、なぜ天皇は国民一人ひとりのお幸せお祈りになるのか。
   それは、天皇にとって最も大切なものは、国民だからである」

(2)「他の国にない日本の特徴の最たるものは、天皇と国民の絆ではなかろうか。
   天皇と国民は、何をもってしても絶対に断ち切ることのできない、強靱な絆に
   よって結ばれている」

(3)「日本人全体を一族と考えたら、皇室は日本人の宗家ともいえる存在で、
   天皇はその家長にあたると考えたら分かりやすいだろう。
   天皇と国民の関係を譬えるなら、親と子の関係に似ている」

(4)「そして、天皇と国民の絆は、国が混乱し、
   または大きな国難に出遭うたびに強くなってきた」

              <平成23年4月28日>

国民と苦楽をともにする、天皇陛下ご夫妻 (1021)
日時:2011年05月07日 (土) 09時00分
名前:伝統

(1)【ズバリ!文化批評】大災害、天皇陛下の御言葉と御巡幸 [桜H23/4/27]
   http://www.woopie.jp/video/watch/d8cc8773dbdb69c7

  @「国や国民のために尽くす」――天皇陛下がこれまで度々会見で話された言葉が、
   今この震災下ほど深い実感をもって感じられることはない。

   ご高齢の身を押して、避難所へ、被災地へと回り、一人一人に腰を折り膝をついて
   話をされるその姿に、被災者たちからは感動の声が聞かれた。

  A天皇陛下の床にひざをつき被災者と直接に向き合って励ましの言葉をかける姿は、
   すでに皇太子だったときから見られた。

   昭和61年11月29日、三原山噴火で千代田区の体育館に集団避難してきた
   大島島民を慰問されたとき、疲れ果ててぐったりと座りこんだ被災者たちが
   声をかけられても立ちあがれない様子を見ると、

   自らが腰をおとしひざをついて話を聞かれたのだった。

  Bそれはこの国の天皇、皇室の歴史上はじめての光景であった。
   しかし、そこには皇太子時代からの天皇の一貫した確たる信念があった。

   昭和61年5月、皇太子として自らこう語られていた。

   <天皇と国民との関係は、天皇が国民の象徴であるというあり方が、理想的だと思います。
    天皇は政治を動かす立場にはなく、伝統的に国民と苦楽を共にするという精神的立場に
    立っています。

    このことは、疫病の流行や飢饉にあたって、民生の安定を祈念する嵯峨天皇以来の
    写経の精神や、また「朕、民の父母となりて徳覆うこと能わず。甚だ自ら痛む」という
    後奈良天皇の写経の奥書などによっても表われていると思います>


  Cこの思いは天皇に即位されたときの
   「常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴として
   のつとめを果たす」との誓いによって、平成の御代の皇室の根幹をなす姿勢を形づくって
   きたのである。


  D先帝(昭和天皇)のご巡幸

   天皇の死者を悼み、艱難のなかにある国民を思い見舞う姿には、先帝である昭和天皇の
   終戦後昭和21年2月から足掛け8年半、3万3千キロにも及ぶ全国巡幸を想起させる。

    (本サイト内「昭和天皇さまの戦後のご巡幸」
       http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=70 を参照)
  
   昭和天皇の最初の訪問先は、空襲の被害のなかから復興した川崎市の昭和電工川崎工場で
   あったが、これを皮切りに返還前の沖縄をのぞく四十六都道府県をくまなく回られ、
   天皇が直接に声をかけられた人数は2万人に達したという。

   GHQは戦争責任を追及されるかも知れない天皇が国民の非難を浴びるのではないかと思いこみ
   巡幸を許可したといわれているが、現人神であった天皇自らが敗戦後の困難のうちにある
   国民に親しく接し、肉声で言葉をかけられたことは、計り知れない勇気と復興への希望を与えた。


   <ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ 松ぞををしき人もかくあれ>

   (意味は、スレッド「大御歌」内の(271)(272)を参照願います)
    http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=72
   
   この昭和21年の敗戦直後に詠まれた歌の励ましの力が、巡幸に際しての、
   <戦のわざわひうけし国民を おもふ心にいでたちて来ぬ>という御製へと響き合い、

   被災地や戦災孤児の施設、傷痍軍人の入院する病院、また学校、工場、農村など全国津々浦々
   を歩かれる昭和天皇の実際の行動となった。


  E今、天皇陛下ご夫妻は、国民と苦楽を共にし、
   「民の父母」としていたわり、ねぎらい、はげまされている。


(2)両陛下が岩手・釜石など避難所をお見舞い(5月6日)

   http://www.youtube.com/watch?v=YjnQDCdsq_k


         <平成23年5月7日>

皇后さまのお言葉 (1042)
日時:2011年05月08日 (日) 12時37分
名前:伝統

・・・・・・・・・

天皇皇后両陛下は6日、東日本大震災で甚大な被害を受けた被災者を励ますため、岩手県を訪問された。

天皇皇后両陛下は、6日2カ所目の避難所となる岩手・宮古市の体育館で、
声をかけた一人ひとりを確認するように手を振られた。

陛下は避難所の中で、「大丈夫ですか?」、「ここはだいぶ長いのですか? 体の方は」、
「皆さんご無事でした?」 などと、被災者に声をかけられた。

陛下は、まもなく避難生活が2カ月を迎える中、一人ひとりの体調を何より気遣われた。


また、皇后さまは「ご家族は?  それはよかった、本当に」などと声をかけられた。

皇后さまは、時には被災者の手をとり、ほほ笑まれることもあった。

皇后さまは「おつらくありませんか?」、「どういうふうに逃げましたか?」と声をかけられ、
被災者が「着の身着のまま」と答えると、「よく助かってくださいましたね」と励まされた。

声をかけられた男性は、皇后さまとのやりとりについて、「『おうちは?』、『流されました』、
『大変でしたね』って。力をいただきました」と語った。


また、声をかけられた女性は、「子どもがいたので」、
「子どもに声をかけてくださって。(わたしに)『よくお守りになられましたね』と」と語った。


また両陛下は、宮古市の前に釜石市の避難所をご訪問された。

家族の写真を皇后さまに見せる子ども。

そして、両陛下が釜石市の避難所を訪問されている際、地震が発生した。

皇后さまと会話した被災者は、

「皇后さまと話をしていたんです。そうしたら地震がドンッとなったの。
サッと(皇后さまの)手につかまった」と語った。

突然の地震に皇后さまの手に思わずつかまった被災者。

地震後の皇后さまについて、被災者は「『時々このような地震になるのですか?』と聞かれたので、
『はい、なりますよ』って。

そしたら、今度は(皇后さまが)こっち(上)から握ってくれたの。両手握ってくれたの。
すごくやわらかくてね。あの手見たらもう少し頑張ろうかなって」と語った。

『FNNニュース』5月6日

・・・・・・・・・

子供を「よくお守りになりましたね」、と皇后さまから声を掛けられた女性は、
カメラの前で嗚咽をもらし、涙で言葉にならなかった。

そして、着の身着のままで逃げ延びたと語る男性には、
「よく助かってくださいましたね」と声をかけられた。


まさに、天皇皇后両陛下が国父、国母(こくも)と感じられる瞬間だ。

被災し、歯を食いしばって頑張っている人たちに、これほどの温かな力づける言葉があるだろうか。


平成12年に島が噴火して被災した東京都三宅村の平野祐康村長は、陛下のご訪問の効果を、
最大限の言葉でこう語った。

「両陛下のご訪問は、被災者にとって何よりの薬。
行政が(村民が避難生活を送った)4年5カ月かけて一生懸命がんばっても、
両陛下の一言にはかなわない」。


明治天皇はかつてこういう歌を詠まれた。

『敷島の 大和心の雄々しさは 事あるときぞ 現れにけり』

「大和心とは日本人らしい自然で素直な心。その日本人の雄々しい気骨や気概は、
平時には判らないが、有事に際してはっきりと判るものだ」


日本人は古来より、一旦何か大きな事があったときには、必ずや、雄々しく立ち上がる民族。

大事な人を守るため、今こそ力の限り頑張りたい。

  *以上は、メルマガ「人の心に灯をともす(5月8日)」より。

         <平成23年5月8日>

天皇陛下、福島県訪問 (1229)
日時:2011年05月12日 (木) 08時55分
名前:伝統


天皇陛下・皇后陛下は、被災地訪問のため、福島県相馬市を訪問された。

・・・・・・・・

天皇が外出することを、行啓、または行幸と言います。

行幸(ぎょうこう)は、「みゆき」とも読みます。
御幸、みゆき族、みゆき座、みゆき通りなどが関連しています。

但し、行幸は、天子、天皇のみに使われます。
「君がみゆきは今にしあるべし」(万葉集巻9)

・・・・・・・・

東北被災地入りは宮城、岩手に続き3県目。

両陛下は、福島空港に到着後、佐藤雄平知事から被災状況の説明を聞き、
ヘリで県内を移動。

震災発生2カ月の節目に当たり、地震発生時間の午後2時46分には、
自衛隊ヘリで移動中の同県相馬市上空で1分間の黙とうをしたという。


主に原発事故による避難者620人が暮らす「あづま総合体育館」(福島市)では、
天皇陛下は、子供連れで避難しているという女性(34)に
「こうした事故があると小さいお子さんは心配でしょうね」と気遣った。

皇后さまは、相馬市から避難してきた男性会社員(61)に
「(伝統の)野馬追(のまおい)がまたできるといいですね」と励ました。

福島県相馬市は、東京電力・福島第一原発から、わずか45キロの地にある。

訪れた相馬市立中村第二小体育館では被災者を見舞った後、
自衛隊やボランティアなどの関係者をねぎらった。

この後、津波被災地を視察、立谷秀清市長の説明を受け、
両陛下は小雨そぼ降る中、傘を閉じて黙礼した。


youtube〜両陛下、相馬市の津波被害受けた地域で黙礼
http://www.youtube.com/watch?v=bADsuFA36MQ

・・・・・・・・・

天皇陛下・皇后陛下は、被災地に入り、被災者ひとりひとりに話しかけられて、
その苦労をねぎらい、苦しみを癒されており、
天皇陛下・皇后陛下の励ましの訪問は、大きな感動を呼んでおります。

年老いて、健康に不安もある、天皇陛下・皇后陛下の真摯な思いは、
被災地で苦しむ人々にとり、暖かい励ましとして、長く記憶に残るだろう。

         <平成23年5月12日>

天皇、皇后両陛下の被災者お見舞い (3610)
日時:2011年07月28日 (木) 06時39分
名前:伝統


栃木県那須町の那須御用邸で静養中の天皇、皇后両陛下は27日同町のホテルを訪れ、
東京電力福島第1原発事故で福島県から避難した被災者をお見舞いされた。


両陛下は3月30日から7週連続で避難所・被災地の訪問を続けられ、
今回は5月11日の福島県以来のお見舞いとなった。


 <福島第1原発事故で福島県から避難した被災者をお見舞い>
 → http://www.47news.jp/CN/201107/CN2011072701000760.html

・・・・

天皇、皇后両陛下は、公務であっても、ご静養であっても、
常に被災者そして国民に心を寄せております。

ただただ、そのお姿に頭が下がります。

           <平成23年7月28日 記>

【よく耐えてこられましたね】 (4727)
日時:2011年09月29日 (木) 05時07分
名前:伝統

     *メルマガ「人の心に灯をともす(H23年09月26日)」より

・・・・・

  美智子妃が、小学4年生の頃、学童疎開が行われた。

  その頃は教科書以外に、ほとんど読むべき本が無かった。
  父上が東京から持ってきてくれる数少ない本を、惜しみ惜しみ読まれた。

  なかでも児童書の、日本神話伝説物語を、最も面白く読まれた。

  小学生の皇后が、深く感動したのは、倭建御子(やまとたけるのみこ)と
  その后(きさき)、弟橘比売命(ことたちばなひめのみこと)の哀切なエピソードだった。

  父天皇の命で遠征した倭建は、途中、海が荒れ、乗った船が難儀する。

  弟橘は海神の怒りを鎮めるため、入水(じゅすい)する。

  その時、后は美しい別れの歌を歌った。


  「さねさし相武(さがむ)の小野に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも」

  敵の謀計にあって枯野に火を放たれ、逃げまどったことがありました。
  燃える中にあって私の安否を気づかってくださった君の心は、決して忘れません。


  美智子皇后は、この物語を、こう受けとめられた。

  「何かもっと現代にも通じる象徴性があるように感じられた」のである。

  「それは愛というものが、時として過酷な形をとるものなのかも知れないという(略)
  愛と犠牲の不可分性への、恐れであり、畏怖であったように思います」



  また、のちのちまで気にかかったのは、
  新美南吉(にいみなんきち)の『でんでんむしのかなしみ』だった。

  一匹のでんでん虫が、ある日、自分の背中の殻に、悲しみが詰まっていることに気づく。

  自分はとても生きていられぬ、と友人のでんでん虫に訴える。

  友人は、あなたばかりじゃない、私の背中の殻にも満ちている、と言う。
  別の友だちに聞いても同じ、別の友に尋ねても答えは変わらぬ。

  そこで初めて気がつくのである。
  悲しみは誰もが持っているのだ、自分だけはない、私はこの悲しみをこらえていかねばならない。

  でんでん虫は、嘆くのをやめた。


  皇后は、語る。

  読書は自分に悲しみや喜びについて、思いめぐらす機会を与えてくれた。

  「本の中には、さまざまな悲しみが描かれており、
  私が、自分以外の人がどれほどに深くものを感じ、どれだけ多く傷ついているかを
  気づかされたのは、本を読むことによってでした」


  「本の中で人生の悲しみを知ることは、自分の人生に幾ばくかの厚みを加え、他者への思いを
  深めますが、本の中で、過去現在の作家の創作の源となった喜びに触れることは読む者に生きる
  喜びを与え、 失意の時に生きようとする希望を取り戻させ、再び飛翔する翼をととのえさせます」



  「東日本大震災」の被災地を見舞われた皇后は、避難所のお年寄りの手を取られて、

  「よく耐えてこられましたね」と労(ねぎら)われた。

          <『日本人の美風』(出久根達郎・著、新潮新書)>

・・・・・

安岡正篤師は「酔古堂剣掃」の中にこう書いている。

『愛という字は「かなし」と読む。 本当の愛は必ず悲しみを持つ。
深い哲学になるかも知れないが、母のことを悲母と言い、大慈大悲の観世音菩薩と言う。
人間はこの愛しみの心を持たないといけない』


観世音菩薩は、慈母観音とも呼ばれ、大慈大悲という、大きな慈悲を与えたもうという。

慈悲とは、いつくしみ、あわれむことであり、なさけでもある。
そこには、人の痛みや悲しみを我がこととして受け止める、大いなる愛がある。


まさに、美智子皇后こそ、大慈大悲の観世音菩薩ではないだろうか。

人の悲しみや苦しみを深く感じとれる慈悲の人でありたい。

               <平成23年9月29日 記>

天皇陛下のお言葉〜東日本大震災1周年追悼式 (7489)
日時:2012年03月11日 (日) 19時08分
名前:伝統

東京都千代田区の国立劇場で行われた東日本大震災1周年追悼式で、
天皇陛下が述べられたお言葉は以下の通り。

         ◇ 

東日本大震災から1周年、
ここに一同と共に、震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。

1年前の今日(こんにち)、思いも掛けない巨大地震と津波に襲われ、
ほぼ2万に及ぶ死者、行方不明者が生じました。

その中には消防団員をはじめ、危険を顧みず、人々の救助や防災活動に従事して
命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません。

さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより、
危険な区域に住む人々は住み慣れた、そして生活の場としていた地域から
離れざるを得なくなりました。

再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという
困難な問題が起こっています。

この度の大震災に当たっては、国や地方公共団体の関係者や、
多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ、
被災者のためにさまざまな支援活動を行ってきました。

このような活動は厳しい避難生活の中で、避難者の心を和ませ、
未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。

この機会に、被災者や被災地のために働いてきた人々、
また、原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を、深くねぎらいたく思います。

また、諸外国の救助隊をはじめ、多くの人々が被災者のためさまざまに心を尽くしてくれました。

外国元首からのお見舞いの中にも、日本の被災者が厳しい状況の中で互いに絆を大切にして
復興に向かって歩んでいく姿に印象付けられたと記されているものがあります。
世界各地の人々から大震災に当たって示された厚情に深く感謝しています。

被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。
国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくよう
たゆみなく努力を続けていくよう期待しています。

そしてこの大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、
防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。

今後、人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い、
御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。

・・・・・

天皇陛下のお言葉を聞いていて、涙が出てきました。

やはり、日本国は、天皇陛下を父とし、皇后陛下を母とする、
素晴らしい家族国家である、と確認したお言葉でありました。

            <感謝合掌 平成24年3月11日 頓首再拝>

被災地(宮城県)へのお見舞い時の秘話(平成23年4月27日) (7625)
日時:2012年03月19日 (月) 04時47分
名前:伝統

   *少し前ですが、「SAPIO2012年2月22日号」からの紹介です。

東日本大震災以来、天皇、皇后両陛下は幾度も被災地にお見舞いに向かわれた。
今あらためて被災した東北3県を取材し、お見舞いの際に両陛下と被災者の間に生まれた
心温まる秘話を再現する。

東北3県のうち最初のお見舞い先は4月27日の宮城県。
両陛下が同県で最初に視察された被災地、南三陸町の町長・佐藤仁氏(60歳)が振り返る。

「両陛下は町立伊里前小学校の校庭に自衛隊ヘリで降りられ、被災した市街地を校庭の隅から
視察されました。学校は高台にあり、校庭の先は崖になっているため、安全を考えて
校庭の隅にある花壇の手前に立っていただく予定にしていたのですが、
両陛下は崖のすぐ近くまで歩み寄られ、じっと眼下の市街地を見ておられました」

両陛下は市街地に向かって黙祷を捧げ、佐藤町長から被災状況などについて説明を受けられると、
被災者が待つ町立歌津中学校の体育館を訪ねられた。

同行した佐藤町長はそこで両陛下の心遣いの深さを目の当たりにする。

「私が先に体育館に入り、両陛下をお迎えしました。
実は当時はまだ物が不足していて、スリッパも用意できたのは両陛下に履いていただく
2足分だけで、私はスリッパを履いていませんでした。

すると、それを見られた皇后陛下が、いったん履かれたスリッパを脱がれたのです。
さらに天皇陛下までがスリッパを脱ごうとなさった。

それで皆で慌ててお止め申し上げたのですが、他の誰も履いていないのに、
自分たちだけ履くわけにいかない、というお心遣いだったのでしょう」

            <感謝合掌 平成24年3月19日 頓首再拝> 

被災地(岩手県)へのお見舞い時の秘話(平成23年5月6日) (7860)
日時:2012年03月30日 (金) 06時48分
名前:伝統

被災地訪問の両陛下 揺れるバスの中で立って手を振り続けた

   *「SAPIO2012年2月22日号」からの紹介です。

東日本大震災以来、天皇、皇后両陛下は幾度も被災地をお見舞された。
今あらためてお見舞いの際に両陛下と被災者の間に生まれた心温まる秘話をしよう。

昨年5月6日、両陛下は岩手県を訪れた。
釜石陸上競技場から被災者が待つ釜石市立中学校にマイクロバスで向かわれたのだが、
その時、驚くことがあった、と同行した釜石市長・野田武則氏(58歳)が話す。

「バスの中で天皇陛下は右側の、皇后陛下は左側の席にお座りになりました。
ところが、近隣の住民たちが沿道の左側に立ち、手を振っていました。
すると天皇陛下は、ご自分のお姿が住民によく見えるようにと立ち上がり、
背凭れなどにつかまりながら手を振り始められました。

不安定なので、失礼ながら私が『お座りになった方がよろしいのではないでしょうか』
と申し上げると、『皆が出迎えてくれているので手を振らなければなりません。
だから、座らなくていいのですよ』とおっしゃいました。

結局、釜石中学校に着くまでの20〜30分間、揺れるバスの中でずっとお立ちになったままでした。
これが自分の責務なのだ、という強い思いを抱いていらっしゃるようにお見受けしました」

            <感謝合掌 平成24年3月30日 頓首再拝> 

被災地(福島県)へのお見舞い時の秘話(平成23年5月11日) (7881)
日時:2012年03月31日 (土) 06時46分
名前:伝統

   *「SAPIO2012年2月22日号」からの紹介です。


皇后陛下 被災者に「生きていてくれてありがとう」とお言葉


東日本大震災以来、天皇、皇后両陛下は幾度も被災地にお見舞いに向かわれた。
今あらためて、お見舞いの際に両陛下と被災者の間に生まれた心温まる秘話を再現する。

5月11日、両陛下は福島県へ入られた。
当時両陛下は福島県が原発事故による風評被害を受けていたことに心を痛め、
訪問を強く希望されていた、と言われている。

両陛下は福島入りすると、まず福島市、次いで相馬市の被災者をお見舞いされた。
相馬市の中村第二小学校でお見舞いを受けた主婦の阿部千恵さん(35歳)は、
今でも皇后から掛けていただいたお言葉が忘れられないと話す。

皇后が、幼い息子2人と一緒にいた阿部さんのそばで正座をされ、
「(地震、津波の時は)子供たちと一緒だったのですか」と質問された。

阿部さんが「下の子は一緒にいたのですが、上の子は学校に行っていたので、
捜しにいって連れて帰りました」と答えると、皇后は目に涙を浮かべるようにして、
こう言われたという。

「子供たちを守ってくれてありがとう」

阿部さんが振り返る。

「私はその言葉を聞いてハッとしました。地震や津波の時には、ただ必死だっただけですが、
皇后さまのお言葉を聞き、もっともっと子供を大切にしなければならない、もっともっと
必死に子供を守らなければならない、と思うようになりました。
そのことを皇后さまが気付かせてくださったのです」


同じく中村第二小学校でお見舞いを受けた菊池祥子さん(41歳)も、
皇后に「忘れられないひと言」をもらったひとりだ。

菊池さん一家の場合、夫婦も3人の子供も全員無事だったが、
自宅も夫が経営する和食店も津波に呑まれた。

小学校や保育園に子供を捜しにいった時、実は津波がほんの数メートル後ろまで迫っており、
そのことを後で知ってゾッとしたという。

「一番下の6歳の娘に『これから天皇陛下と皇后さまがいらっしゃるのよ』と話したら、
『あ〜、わかる。日本の父と母ね』と言うので、どこで覚えたのだろうと驚きました」

菊池さんは両陛下のためにと座布団を2枚用意していたが、皇后だけが来られた。
菊池さんが危機一髪で助かったことを話すと、皇后はこう言われたという。

「生きていてくれてありがとう」

菊池さんが振り返る。

「予想もしないお言葉だったので驚きました。
ただ生きているというだけで感謝していただいたのです。
実は当時は何もかも失ってしまったという喪失感があったのですが、
皇后さまのお言葉により、“そうか、生きていること自体が大切なんだ”と思えるように
なったのです」

            <感謝合掌 平成24年3月31日 頓首再拝> 

被災地(岩手県)へのお見舞い時のお話 (7994)
日時:2012年04月04日 (水) 04時41分
名前:伝統


    *「女性セブン2012年3月22日号」からの紹介です。

《被災地女性 美智子さまの「大丈夫ですよ」に奮起し店を再開》


家族や友人を亡くした悲しみ、そして家や職を失い、将来が見えぬ不安を抱え、
被災者たちはこの1年、苦しい道のりを歩んできた。

しかし、くじけそうになったときに、ふと出合った言葉に支えられたという人は少なくない。

岩手県釜石市の松田節子さん(75才・理容師)は昨年5月、
天皇皇后両陛下が釜石中学校をお見舞いされたとき、避難生活中だった。

傍らに皇后美智子さま(77才)がいらっしゃるときに余震があり、
思わず美智子さまの手を握ってしまった。

すると、美智子さまはゆっくりもう一方の手を重ね「大丈夫ですよ」とおっしゃった。

「赤ちゃんのように柔らかい手でした。避難所で天皇陛下と皇后陛下は何度も膝をついて
避難者とお話しされていたうえ、私にも優しく声をかけてくださいました。
津波で店を失って落ち込んでいましたが、“これは頑張らねえと”と思いましたね」
                            (松田さん)

一時は引退を考えた松田さんは美智子さまのお言葉に奮起。昨年6月、店を再開した。

            <感謝合掌 平成24年4月4日 頓首再拝> 

被災地(宮城県)へのお見舞い時のお話 (8067)
日時:2012年04月06日 (金) 06時47分
名前:伝統

    *「女性セブン2012年3月29日・4月5日号」からの紹介です。

《「死んだ方がマシ」と思っていた被災者 天皇陛下に救われる》


東日本大震災の被災者、宮城県の菊地ふみ子さん(70才)は、昨年4月、
天皇皇后両陛下が仙台市宮城野区の避難所を訪問された際、
両陛下と直接言葉を交わし励まされたひとりだ。菊地さんはこう語る。

「私の主人は50才のときに、天皇陛下と同じように心臓のバイパス手術を受け、
約3か月間の入院生活を余儀なくされました。

ところが陛下は、手術後すぐに退院され、しかも追悼式にまで出席してくださいました。
でも、きっと陛下はご無理をなさっているはずです。
もう少しゆっくりとお体を休めていただきたいという思いを
どうにも打ち消すことができません。

1年前、私たち被災者が身も心もボロボロになっているときに、
陛下のお言葉でどれほど勇気づけられ、生きようという気持ちになったことか。
あのお言葉があったからこそ苦しみを乗り越えられたのです」

菊地さんの夫は、震災のショックで心の病に陥ってしまった。
両陛下が避難所を慰問されたとき、夫は両陛下のお姿を見ても、
ただ呆然と立っているだけだったという。

「おそらく陛下は主人の様子が変なことに気づかれたのでしょうね。
“どうしました? どうしました? どうしました?”と、
陛下は3回も繰り返して主人に声をかけられ、心配してくださいました」

陛下に失礼と思い、菊地さんは事情を陛下にお話しした。
すると陛下は幾度もうなずかれ、「それは大変でしたね。
どうぞ、お体を大事になさって、頑張ってください」と、菊地さん夫婦をいたわられた。

「主人がこんな状態になって、正直、私自身も疲れ果ててしまい、
一緒に死んだほうがマシだと思ったことがあったんです。
でも、陛下の優しい笑顔とお言葉によって救われたんです」

   Web: http://news.livedoor.com/article/detail/6379741/

            <感謝合掌 平成24年4月6日 頓首再拝> 

「震災支援に感謝伝えたい」 陛下、訪英前にご感想 (9126)
日時:2012年05月12日 (土) 07時20分
名前:伝統


18日に行われるエリザベス女王の在位60周年祝賀行事に出席する天皇陛下は11日、
訪英を前に文書で所感を発表された。

陛下は59年前、昭和天皇の名代として臨んだ女王の戴冠(たいかん)式について
「興味深く、楽しい時を過ごした」と振り返り、
「ほぼ60年、務めを元気に果たしている女王陛下にお祝いを伝える機会を持てて
うれしい」とつづられた。

さらに、今回の出席者のうち、戴冠式にも列席しているのは、
陛下とベルギーのアルベール2世国王だけと聞いているといい、
「旧交を温めることも楽しみ」と続けられた。

東日本大震災の際、英国から救援隊派遣やチャリティー活動などを通じた支援が行われたことに
対しては、「関係者とお会いし、私ども、そして日本国民の感謝の気持ちを伝えたいと思います」
と述べられた。

心臓手術から約3か月で外国訪問となったが、「現在リハビリに努めているところだが、
健康を取り戻しているように感じている」と説明された。

                   (各種報道資料より抜粋)

           <感謝合掌 平成24年5月12日 頓首再拝>

仙台市の仮設住宅を訪れ被災者を見舞われる (9170)
日時:2012年05月14日 (月) 06時20分
名前:伝統


5月12日 両陛下、仙台入り
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120512-00000075-mai-soci

両陛下は新幹線で宮城入りし、村井嘉浩知事から復興状況などを聞いた後、
今村教授から津波が時速約700キロで波及したメカニズムや今後の対策について
説明を受けた。

今村教授が教訓を後世に伝える重要性を指摘すると、
天皇陛下は「学校の教育が非常に大事になるのではないでしょうか」と話した。


5月13日 両陛下、仙台市の仮設住宅を訪れ被災者を見舞われる

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20120513-00000187-fnn-soci

両陛下は、一人一人に「こちらの生活はいかがですか」「大変でしたね」などと声を掛けて回り、
仮設住宅内にできた町内会役員らと懇談。

住民が復興を願い、荒浜地区のシジミの貝殻で作ったストラップ「福幸(ふっこう)かえる」
を持ち帰った。

           <感謝合掌 平成24年5月14日 頓首再拝>

【 深々と頭を下げる 】  (9241)
日時:2012年05月17日 (木) 04時51分
名前:伝統

《 両陛下のご訪英の成功をお祈り申し上げます。》

  *天皇皇后両陛下、ロンドンに到着
   → http://www.home.ne.jp/channels/news/newsi/content/story/5031255.shtml


     *以下は、メルマガ「人の心に灯をともす(2012年05月07日)」より

  井上新甫氏の心に響く言葉より…


  震災後、私が大変感銘を受けたのは、両陛下が被災地を訪ねられた時、
  最初に海に向かって深々と頭を下げられた。

  それから今度は山に向かってまた深々と頭を下げられました。

  なぜ、そうされたのか。

  私たちはよくよく考えなくてはならないと思います。

  人間と自然との共存共栄を願われる両陛下のお姿です。


  いま世界中でエンペラーと呼ばれる方は天皇陛下ただお一人です。

  それに次ぐのがキング、あるいはクイーン、すなわち国王であり女王。

  その次が首相というランクです。

  これが国際的評価です。

  数年前、アメリカのオバマ大統領が来日され、
  陛下を前に45度以上、深々と頭を下げられました。

  あれを見たアメリカのメディアの中には「オバマは卑屈だ」と報じたところもあった
  と聞きますが、陛下には大きな仁徳による気高さがあるからでしょう。

  これは理屈ではない。


  陛下は神代の神々と歴代天皇の命(みこと)を背負われていらっしゃるお方です。

  その歴史のゆえんを知れば、はっきりとしてまいります。

  とにかくこれまでの歴史を省みれば、日本人は無数の災害を経験し、
  これを逞(たくま)しく乗り越えてきました。

  世界の地震の2割は実に日本で発生しています。
  地震山脈の上に我が国は乗っかっているといえます。

  そうした厳しい地勢上にありながら、いやあるからこそ、
  むしろ自然を怨(うら)まず受け容れていく。

  ヨーロッパ文明のように、自然と対決しようなどとは考えない。


  本居宣長(もとおりのりなが)の和歌に

  「しきしまの 大和心を 人問わば 朝日に匂ふ 山桜花」

  というのがありますが、桜花の命を惜しむのか、あるいははかないものと
  諦観(ていかん)するのか。

  決してそうではなく、来年になればまた花は咲く、
  つまり再生するというのが神ながらの精神です。

     <“日本精神を甦らせる道”より
      『月刊致知 2012年6月号』(井上新甫&土屋秀宇)致知出版社 >

  ・・・・・

天皇陛下は毎年1月1日(元旦)の朝4時に、四方の神々に向かって
国の安泰や豊作を祈って礼拝されるが、これを「四方拝(しほうはい)」と言う。

この四方拝は宮中の祭祀(さいし)の中でも、もっとも尊い祭祀の一つだそうだ。


その四方拝で、天皇陛下は「国民に降りかかる害悪がわが身を通して浄化されますように」
という趣旨の祝詞を奏上されると言われている。

2700年、連綿として続く皇室祭祀だ。


明治天皇はこう詠まれた。

 「敷島の 大和心の 雄雄しさは ことある時そ 現われにける」


日本人にとっての雄々(おお)しさは、自然と対峙(たいじ)することではなく、
どんなに悲惨な状況に陥っても、嘆(なげ)かずに、幾たびでも再生してみせること。

今年散った桜花も、来年になれば、またきれいな花を咲かせる。


太陽や天地自然に対し、畏敬の念をもって深々と頭をさげる…

           <感謝合掌 平成24年5月17日 頓首再拝>

日本でしかあり得ない尊い光景 (9738)
日時:2012年06月01日 (金) 04時53分
名前:伝統


     *Web:美しい国 からの紹介です。

       ○        ○

佐々淳行氏が「天皇ー最高の危機管理機構」と題し、(ワック出版「歴史通」五月号掲載)
次のように述べられています。

(平成23年<2011年> 3月16日に今上陛下が国民に向けて発せられたお言葉を踏まえて、

「我が日本民族は、1世紀に1回ぐらいの割合で起こる国難に直面するたびに、
救国の危機管理機構=天皇によって危機を乗り越えてきた。
平時、我が国では、天皇陛下を『権威』としていただいている。

しかし、一旦緩急あって非常事態に直面すると、時の政権は、天皇に『権力』を
もっていただいて事態を収拾してきた。

そして、体勢が安定すると、また権威に戻っていただく形を繰り返してきた。
代々、天皇陛下は、神道において天と国民を結ぶ仲保者・祭祀長という立場を
占めてこられたのである。」と・・・

       ○        ○

畏くも両陛下におかせられましては、
東日本大震災後、避難所の人々を親しく激励あそばされた。

激励された人々の顔は皆すがすがしく、異口同音に元気を戴きました、
勇気付けていただきました、と感激を語っていました。

また陛下のご不例ご平癒ならぬ御身で、
東日本大震災追悼式典へのご親覧、訪英、地方行幸とご高齢にも関わらず、
ただひたすらに御国の安寧と、臣民の幸せ、世界平和を願われています。


この天皇皇后両陛下のお姿と被災地の国民の様子、地方行幸を見ているとき、
この光景は、「日本でしかあり得ない尊い光景だ」と感じました。

北畠親房公が神皇正統記に記したように、
「(万世一系の)我が国のみこのことあり。異朝にはこの類なし」とはこのことです。
日本は、一国一文明一王朝の国です。これは他国ではあり得ない誇りです。
日本人にしか感じられない至福です。


今上陛下は、被災地の人々を慰め励まし、自衛隊をはじめ救助復興にあたる組織の人員の
労苦をねぎらい努力に感謝され、さらに、全国民に一致協力して復興にあたるように
呼びかけられました。

これは、まさに、非常時における「統治者」として呼びかけられておられ、
ここから、真の危機克服が始まってきている。

このことは、世界が感嘆する紛れもない事実です。

今上陛下のお言葉に直に接した被災地の人々の表情や言葉、
地方行幸の臣民の表情から明らかです。


被災地の復興を願われ、万民の幸せと、安寧、彌榮を願われる両陛下の御意そのままと
拝し、拙き両目にも、心の汗溢れ来る思いを禁じえません。

すべての日本人が、天皇陛下の大御心の下(もと)に結集する時、
敷島の國は息を吹き返し、世界に冠たる道義国家として復活するでありましょう。


(以上、Web:美しい国 からの紹介でした。
 詳しくは、次のWebアドレスにて確認することができます。
  http://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc/archive/2012/5/30  )
  
           <感謝合掌 平成24年6月1日 頓首再拝>

両陛下、長野・栄村訪問へ 7月 (10283)
日時:2012年06月15日 (金) 04時06分
名前:伝統


天皇、皇后両陛下が昨年3月に震度6強の地震に見舞われた長野県栄村を、
7月中旬に日帰りで訪問される方向で日程調整が進められていることが
13日、宮内庁関係者への取材で分かった。

関係者によると、訪問日程は7月19日を軸に調整中。
両陛下は東日本大震災の翌日に発生し、忘れられがちな栄村の被災者を気遣っている。

昨年12月に一度、訪問が検討されたが、
天皇陛下が11月に気管支肺炎で入院し見送られていた。

http://www.home.ne.jp/channels/news/sogo_news/story/20120613/2012061301001100.shtml

           <感謝合掌 平成24年6月15日 頓首再拝>

天皇陛下の勇気 (10422)
日時:2012年06月20日 (水) 07時09分
名前:伝統


(掲示板”生長の家「本流復活」について考える”内の”金木犀 さま”の記事を
 もとに、以下に紹介いたします〜金木犀:2012/06/19(火) 05:50:06)

 〜今年4月2日の産経新聞の記事から、石原都知事「天皇陛下の勇気」より〜

●産経新聞 平成24年4月2日 より

http://sankei.jp.msn.com/life/news/120402/imp12040203120002-n1.htm

【日本よ】

石原慎太郎 天皇陛下の勇気

2012.4.2 03:11

先月の十一日、1年前の東日本大震災の犠牲者を追悼する式典が天皇、皇后両陛下の御来臨
のもと東京の国立劇場で行われた。

それからわずか二十二日前、陛下は心臓の大手術を東大病院で受けられており
御来臨は危ぶまれていたが、陛下のたっての御意志で実現されたのだった。

術後間もないこととて当初の予定は半分に短縮されたが、
それでも陛下は確かな足取りで登壇されて弔辞を述べられた後に退席された。

陛下が舞台の上手から現 れた時、実は私は固唾を呑(の)む思いで身を凝らし
そのお姿を見守っていた。
それは満場の出席者の誰とも違った、私一人の後ろめたさの故だった。

その訳はあの大震災の十九日後陛下が東京都足立区の東京武道館に避難してきている
福島県民を見舞われた時のことによる。

私は密(ひそ)かにある筋を通じて、東京武道館にいる被災者たちは他の被災者たちと
違って比較的東京に近いいわき市近辺から放射線の危険を避けるべく、原発の危険が
まだ定かならぬ時点で の勧告で避難してきた人々が主で、

あの大津波で着の身着のまま、命からがら、家族を失いながら離ればなれに
退避している被災者に比べれば、めぼしい財産を かき集めた上自家用車で
逃れてきた人たちで避難生活にも比較的余裕があり、

陛下がお見舞いに来られる時間帯にはかなりの人たちが他出しているだろうことを
伝えていた。

しかしなお陛下はそれでも来臨されて被災者たちを一人一人声をかけてねぎらわれたものだった。
しかしやはり被災者の多くは 他出していて陛下のお見舞いは予定より早く終わってしまい、
警護の都合もあって予定の出発時まで控え室で過ごされることになって

その間私は同席し、発災後 間もなくヘリで飛んで視察に赴いた福島、宮城、岩手の各都市の
惨状を報告し、すでにかつて他の病での手術を受けておられる陛下にはとても無理としても、
若く元気なご子息の両殿下を名代として出来るだけ早く現地の見舞いに差し向けられてはいかがと
僭越(せんえつ)にも建言させていただいた。

その間皇后陛下は一々頷いて私の言葉を聞いておられたが、
陛下はなぜかただ黙ったまま表情も見せずに聞いておられた。

やがて時が来てお立ちとなり、先行して部屋を出てお見送りのために玄関口に立っていた
私の所へ何故か突然陛下がつかつかと歩み寄られ、小声で、しかしはっきりと、
「東北へは私が自分でいきます」といわれたものだった。


私は唖然(あぜん)たる思いでそれを聞き取り、立ち去られる陛下を見送っていた。



私のような健康体の人間にとっても被災三県へのヘリでの飛行はかなりこたえるものだったが、
すでに手術を受けられているお体にとって、ましてそのお人柄からして東京でと同じように
被災者に一人一人身をかがめて声をかけられるだろう作業は並大抵のものではあるまい。

しかし陛下はそれを完全になしとげられた。
同行する県知事や幹部たちはその後ろで侍立しているだけだが、
陛下は東京と比べものにならず数多い被災者たちに、東京でと同じように、
いや被災者の惨状が惨めなるほど身につまされてだろう、実に懇切に対応されていた。

その後の御疲労のほどは計り知れぬものがある。

私の慰問と視察などは、県の知事室で今後の実務の協定の打ち合わせをした後
現地を気ままに歩き回っての視察ですむが、

陛下のおつとめは肉体 的にもその数十倍、いや数百倍に違いない。
陛下からじかに声をいただき感涙した人々はそれでどれほど心を癒やされたことかと
思うが、陛下のお体にはとんでもない負担がかかったに違いない。

そして今回の心臓の大手術とあいなった。

それを聞いた時、私はあの東京武道館の玄関口での陛下のお言葉を思い出さぬ訳にいかなかった。
しかし思うに、私の建言なんぞの前に陛下はとうにご自分で心に決めておられていたのだと思う。

そしてその決断と実践がすでに前の手術で痛んでいたお体にさらに鞭(むち)を加えての
発病になったのだとしたら、陛下は日本の元首として、国を守るべき一人の兵士と同じように、
その職に徹して倒れられたといえるのかもしれない。

しかし陛下にじかに、余計だったかも知れぬ建言を申し立てた私としては、
陛下が心臓の病で倒れられたと聞いた時密(ひそ)かな自責の念に囚(とら)われぬ
訳にはいかなかった。

追悼の記念式典に来臨された陛下はやはり前よりも痩せられてみえたが、
歩く御姿はむしろ普段よりも凛(りん)として見うけられた。

式辞を述べられ退席される陛下に出来れば私は、
二階正面から陛下の御健勝を祈って天皇陛下万歳を叫びたかったが、
なぜか司会者は天皇のご退席は着席のままお見送りするようにと案内していたので
それはかなわなかった。


一国の元首を兵士に例えるのは非礼かも知れぬが、
しかし陛下はその身の危うさを顧みることなく見事な君主として、
そして見事な男として、その責を果たされたものだと思う。

我欲に溺れ国民にいうべきこともいえず、いい訳を繰り返し無為のまま
この国を損ないつつある政治家たちは、陛下が我が身を顧みずに示された責任の履行
という、責務を負うた者の生き方の原理を見習うべきに違いない。

           <感謝合掌 平成24年6月20日 頓首再拝>

両陛下、長野・栄村をご訪問 (11424)
日時:2012年07月20日 (金) 07時38分
名前:伝統

天皇皇后両陛下が「もう1つの被災地」長野・栄村をご訪問

(1)天皇皇后両陛下は19日午後、長野・栄村を訪問された。
   この栄村は、東日本大震災の翌日、震度6強の揺れに襲われ、
   甚大な被害が出たもう1つの被災地。

(2)栄村は、現在でも、道路もいまだ、通行止めや片側通行の箇所が、
   村のあちらこちらにあった。
   現在も、100人以上の住民が、仮設住宅での生活を余儀なくされている。

(3)2011年12月に栄村へのご訪問が計画されたが、
   天皇陛下が11月に気管支肺炎で入院され、中止になった。

   しかし陛下は、栄村訪問を強く望まれていた。
   そして、19日午後3時すぎには、仮設住宅をご訪問された。

   担当の記者は
   「(陛下は)約束を果たすということを、ご自身のポリシーとして、
   大切に持っていらっしゃるし、いつもそれを守ることを、基本とされている
   ような部分があるのだと思います」
   と語った。

(4)栄村の住民は次のように語っている。

   「大変元気をもらいました。ありがとうございます」

   「1人ひとりに声をかけていただいて、本当に感激しました。
   (約束を)果たしていただいて、本当にみんな喜んでいます」

  <Web:天皇皇后両陛下が「もう1つの被災地」長野・栄村をご訪問(動画あり)
       http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00227810.html

       <両陛下>長野・栄村の仮設住民らを見舞う
       http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120719-00000080-mai-soci

       天皇皇后両陛下、栄村ご訪問
       http://yunotura.blog5.fc2.com/blog-entry-1032.html     >

           <感謝合掌 平成24年7月20日 頓首再拝>



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