秋山真之のエピソード〜その2 (5833) |
- 日時:2011年12月21日 (水) 06時50分
名前:伝統
(1)慶応4年3月20日(1868年4月12日)〜大正7年(1918年)2月4日。 大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
ロシアのバルチック艦隊の迎撃作戦を立案し、 日本海海戦の勝利に貢献した帝国海軍屈指の名参謀。
(2)1907年(明治40年)、ハワイのセントルイス野球団が日本に来て慶応大学と試合を 行なったが、慶応はそれまで連戦連敗であり、最後の試合には、日本の名誉のためにも どうしても勝たなければならないという非常に重大な局面に立たされていた。
その頃、毎日のようにネット裏でその試合を見ていた日本海軍の名参謀、 秋山真之は、慶応大学野球部に、「褌論」(ふんどしろん)の書簡を送り、 褌(ふんどし)で丹田を締め付ける効用を説いた。
これを受取った選手達は文字通り褌を締め直して元気を取り戻し、 最後の試合に勝つことができたという。
(3)当時、ロシアのバルチック艦隊は、世界最強の艦隊で、 経験の浅い、日本の未熟な海軍では、逆立ちしても勝利の見込みはありませんでした。
世界のどの国も、バルチック艦隊の出動で、日本は負けてしまい、 万が一にも勝てる見込みがない! と、思われていたのです。
ところが、絶対に有り得ない奇跡が起きたのです。
(4)日露戦争の艦隊作戦は、ことごとく秋山真之がやった もので、 旅順港外の奇襲戦、仁川沖海戦、三次にわたる 旅順港閉塞、第二軍の大輸送、 ついで日本海海戦にいたるまでの作戦とその遂行は、
すべて秋山の頭から出、かれの筆によって立案されたもので、 その立案したものはほとんど常に即座に東郷長官の承認を得たものであります。
日露戦争における海上作戦はすべてかれの頭脳から出たものであります。
かれが前述の作戦を通じて、さまざまに錯雑してくる状況を、その都度その都度、 統合してゆく才能にいたっては、実に驚くべきものがありました。
かれは、その頭に、こんこんとして湧いて尽きざる天才の泉というものを 持っていたのです。
<感謝合掌 平成23年12月21日 頓首再拝>
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