沢庵と良寛と生長の家 〔2〕 (671) |
- 日時:2011年04月17日 (日) 12時19分
名前:童子
或る時、沢庵和尚と柳生但馬守とが一室で宗教談を交えていた。其処へちょうど雨がザンザと降って来たのである。
その時沢庵和尚は、柳生但馬に 『尊公は、天下一の武芸者であるが、その武芸の極意をもって、この雨に濡れないようにこの庭を一まわりして来て見せて貰いたいものぢゃ』 と云った。
柳生但馬は『やって見ましょう』と云うので早速刀の提げ緒で襷十字に綾どり、袴の股立ちたかくからげ、剣を抜いて庭におりると丁々発止と、電光石火の早業で斬りはらいつつ、庭を一周して戻って来た。
『どうです。濡れておりますかな。』 『さすがに天下一の剣客ぢゃ。どこも濡れておらぬが、』と沢庵は但馬の衣服をひとわたり見て、『ただほんの少し袂の裾に雫がかかっておりますな。では拙僧、少しも濡れないで庭へ出てお目にかけましょう』
こう云うと沢庵は何の支度もしないで駒下駄を履いて庭に出ると、庭先の石の上に端坐瞑目した。坐禅の姿である。折から愈々雨は激しく降りかかる。沢庵はまるで濡れないかの如くじっと端坐している。やがて沢庵はその部屋に戻って来た。
『どうでござる少しも濡れていないでござろう』 見ると沢庵の法衣はびしょ濡れで雫がポトポト垂れている。
『濡れていない』と云うのは、実は形は濡れても、心は濡れない、濡れることに心が引っかからない。心がそれで悲しみや憂えに濡れることがないと云うことであるのである。これは今までの宗教であり、あきらめの宗教である。
生長の家で『不幸がない』と云うのは、それと同じく、不幸に実際ぬれていながら、心のみが不幸に引っかからないと云うような、そんな現実的力がないものではないのである。
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