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霊峰富士 (7018)
日時:2012年02月23日 (木) 07時00分
名前:伝統


今日、2月23日は【富士山の日】。

このスレッドでは、古来から仰がれてきて霊峰「富士山」について
紹介して参りたいと思います。


【富士山の日】は、「2(ふ)2(じ)3(さん)」=「富士山」の語呂合わせと、
この時期は富士山がよく望めることから、2月23日を「富士山の日」
と1996年(平成8年)に制定されております。


(1)お札の富士山

  @ 旧五千円札の逆さ富士は写真家岡田紅陽さんが本栖湖で撮影された「湖畔の春」を
   基にデザインしたものです。

  A現在の千円札の富士山のデザインも、岡田先生の「湖畔の春」を基にしてますが、
   デザインですので微妙に違い、さらに千円札の左下に「桜の花」をあしらってあります。

   *参考Web:新旧お札・逆さ富士の不思議
    http://www.navi-city.com/tokusyu/tokusyu_satsu.html


(2)金運神社

   新屋山神社
   http://www.yamajinja.com/

   金運を招く霊峰・富士山に守られた新屋山神社奥宮
   http://www.myspiritual.jp/2010/07/post-1794.php


(3)浅間神社

  @ご祭神は、木花咲耶姫(木花之佐久夜毘売、木花開耶姫)神です。
   → http://www.bashouan.com/pdSakuyahime.htm

   神話によると、木花咲耶姫神は、天孫降臨の「瓊々杵尊」の奥方であり、
   神武天皇の祖母に当たります。

  A信じるか信じないかは、自己責任ですが、
   Web上に「木花咲耶姫(このはなさくやひめ)様からの神示」というサイトもあります。
   http://696.kibanamano.net/archives/cat_50050737.html

  B富士山頂「奥宮」
   http://fuji-hongu.or.jp/sengen/okumiya/index.html


(4)富士河口湖練成道場

  @谷口雅春先生は、霊峰富士を仰ぐ素晴らしい聖地に道場を開設されました。

  A個人的には、富士河口湖練成道場での練成中、浅間神社へお参りした記憶があります。

  B最近、河口湖の練成を受けられた方のブログがありましたので、紹介しておきます。
   → http://igaiganet.seesaa.net/article/249277970.html             


(4)霊峰富士百景を追う
   http://sige3776.3.pro.tok2.com/1fuji-fuji1.html

            <感謝合掌 平成24年2月23日 頓首再拝> 

御製(明治以降)「富士山」 (7047)
日時:2012年02月24日 (金) 06時09分
名前:伝統


明治天皇御製

 ☆ あかねさす夕日のかげは入りはてゝ空にのこれる富士のとほお山


大正天皇御製

 ☆ ここちよく晴れたる秋の青空にいよいよはゆる富士の白雪


昭和天皇御製

 ☆ ふじのみね雲間に見えて富士川の橋わたる今の時のま惜しも


今上陛下御製

 ☆ 外国の旅より帰る日の本の空赤くして富士の峯立たつ


皇太子殿下お歌

 ☆ 雲の上に太陽の光はいできたり富士の山はだ赤く照らせり


   *「富士山百人一首」より
     →https://www2.pref.shizuoka.jp/all/file_download105700.nsf/D9F270D26099A089492578410013DA22/$FILE/hyakuninissyu.pdf

            <感謝合掌 平成24年2月24日 頓首再拝>

【賞賛を浴び続けてきたのが富士山】 (7087)
日時:2012年02月26日 (日) 07時23分
名前:伝統


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2011年04月22日)」より。

・・・・・

 『富士山は「二つとない素晴らしい存在=不二(ふじ)」と「賞賛」を浴びてきた。
 そのエネルギーやパワーの蓄積が、人にパワーを与え、元気にする』

 人から賞賛を浴び続けてきたものは、「賞賛」を貯金のように貯めて
 パワーやエネルギーの塊にしているような気がします。

 富士山などは、累計で見ると、何億人どころか何十億の人から
 「すごい」「素晴らしい」と賞賛を浴び続けてきたのですから、それを見た私たちが
 エネルギーやパワーを感じて元気になっていくのも当然のことでしょう。


 いわるゆ御神木も巨木も、また、見事な建造物や仏像も、
 それらは「すごい」「素晴らしい」と賞賛を浴び続けてきた存在です。

 それらをすべて兼ね備えた神社やお寺であれば、「そこへ行くだけで元気になる」
 というパワースポットになっていたとしても不思議ではありません。


 これは、人の場合でも同じこと。

 多くの人から賞賛されてきた人物は、やはりパワーやエネルギーを内に貯めています。
 だからこそ、そういった人たちの近くにいれば、「高いエネルギー」を浴びて、
 こちらも元気になる。


 逆に、もし人を「素敵だ」とか「素晴らしい」と思ったら、
 遠慮なく相手を賞賛しましょう。

 そうすれば、相手はエネルギーを貯めてどんどん元気になってくれて、
 あとでそれを「私」に返してくれます。

     <『心を軽くする言葉』イースト・プレス より>

・・・・・

自分にパワーがないときは、人にパワーを与えることはできない。

ガソリンがカラカラの状態で、車が動けないのと同じだ。


昨今は、パワースポットブームだ。
元気をもらえる場所、癒されるところへ人は集まる。

その象徴が富士山。

富士山ほど、古来より歌に読まれた場所はない。


「世の人の およばぬ物は 富士のねの 雲居(くもい)に高き 思ひなりけり」(村上院)

「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は 変わらざりけり」(山岡鉄舟)

「万国の 博覧会にもち出せば 一等賞を取らん 不尽山(ふじさん)」(正岡子規)

「いにしえの 登呂村(とろむら)びとが 仰ぎけむ 富士の神やま いまも空にそびゆ」(土岐善麿)

「雪の富士 車窓に映(は)えて おのづから 帽(ぼう)を取りたり 旅する我は」(田谷鋭)

「遠つあふみ 大河ながるる 国なかば 菜の花さきぬ 富士をあなたに」(与謝野晶子)

            <感謝合掌 平成24年2月26日 頓首再拝>

富士講 (7100)
日時:2012年02月27日 (月) 06時52分
名前:伝統


(1)霊峰・富士山は信仰のお山

  @日本一の富士山は、古来から「霊峰」と呼ばれる信仰の山。

   死者の魂は山に還るという「山上他界」の在来信仰を基盤に、
   神道、また密教や道教の流れをくむ修験者により信仰が広められ、
   山頂に至るまでいくつもの霊場が開かれてきました。

  Aまた詩歌や絵画にも取り上げられ、日本人の美意識の原点のひとつともなってきました。

  B祭神の木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀る浅間神社は、
   山頂はもちろん、富士吉田市内の北口本宮冨士浅間神社や小室浅間神社、
   また周辺の富士河口湖町や富士宮市にもあります。

(2)富士講のはじまり

  @現在の富士講につながる流れは、江戸時代初期(17世紀前半)に開祖・長谷川角行が
   山中で修行を重ね崇敬を集め、18世紀前半以降、その流れをくむ村上光清、
   食行身禄の積極的な布教により一般に広まったとされます。

   とりわけ富士山中で入定(即身成仏)した食行身禄の宗教的情熱はその弟子達により
   広く流布され大きな勢力となりました。

   富士講の開祖といわれる長谷川角行は九州長崎の人で、富士の人穴で千日間立ち行の末に
   悟りを開いたといわれ、さらに数々の難行苦行を行い、庶民の信仰を一身に集めました。
   そして富士山登山百数十回、断食300日などの苦行を成し遂げ、106歳のとき人穴で
   入寂したと伝えられています。

   その後、身禄が、享保18年(1733)、富士山7合目の鳥帽子岩で断食入定、
   即身仏となって自己の信仰を貫きました。
   以来富士講の信者は大いに増え、江戸末期には「江戸八百八講」といわれるほどの
   講集団の盛況を見ました。

  A登山口のある北口本宮冨士浅間神社付近は多くの登拝客を集め、
   夏の登山期には大いににぎわいました。

   *参考Web:富士講と御師
          http://www.cbr.mlit.go.jp/fujisabo/fuji_info/mamechisiki/d01/index.html

(3)「江戸八百八講、講中八万人」

    参考Web:江戸の民間信仰 「富士講の世界」
          http://www.youtube.com/watch?v=PioH-p-_Iho

  @「江戸八百八講、講中八万人」とは、
   江戸の町の数ほどたくさんの富士講があったことの例え。

  A江戸時代の文化・文政期(19世紀初期)に隆盛を迎えた富士講は、
   「富士を拝み、富士山霊に帰依し心願を唱え、報恩感謝する」という分かり易い、
   一種の新興宗教のブームのようなものでした。

  B食行身禄の弟子・高田藤四郎が起こした「身禄同行」という講社が始まりとされます。

   白装束に金剛杖で六根清浄を唱えながら進む行者一行は、富士に至るまで折々の禊場で
   身を浄め、登拝にあたりまず北口本宮冨士浅間神社に参拝、下山してからも富士講八海巡り
   (仙水、山中湖、明見湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖、四尾連湖)などの修行を
   重ねました。

  C講中の代表として参詣する代参という形をとり、通常行けない庶民が信仰の対象と
   したのが、近くに造られた「富士塚」。今でも都内で見かけるミニ富士山です。
   なかには、小さな山頂から本物の富士山が遠望できたものもありました。

    *富士塚の例 → http://www.tanken.com/fujiko.html

           → http://japanfestival.web.fc2.com/04-tradition/fujiko/fujiko.html

            <感謝合掌 平成24年2月27日 頓首再拝>

芙蓉の挑戦者(野中到・千代子夫妻) (7345)
日時:2012年03月06日 (火) 06時47分
名前:伝統

富士山越冬観測に挑んだ野中到・千代子夫妻

(1)気骨の人

  @明治時代に生きた人物には、「気骨」という言葉以外、評する言葉がない人がいます。
   野中至(のなか いたる)と千代子(ちよこ)もそれに当ります。

  A野中は、日本の気象学発展のためには高層気象の観測が是非とも必要と考え、
   その観測の最適地は富士山頂で、ここでの通年観測することが必要だと訴えました。

   しかしいくら主張してもそんな高所での通年観測など出来るはずもないと、当時の
   良識ある人々にはだれにも相手にされません。なにせ当時は冬季の富士山は、
   その登頂にさえ誰一人成功したことの無い時代だったのです。

   富士山は昔からよく知られた山であり、夏の富士は登山客で溢れるほどですから、
   登りやすい山と思う方もいらっしゃるかも知れませんがさにあらず。
   単独峰で風雪風雨の影響が強く、またもろい土質で落石も多い危険な山です。

   ことに冬の富士山は現在の登山技術を持ってしても大変危険な山です。
   強風と厳寒、そんな冬の富士山で気象観測なんてとても出来るはずがないと
   いうのが当時の分別ある人達の一致した意見でした。

(2)富士山野中測候所

  @野中はこうした当時の常識を覆すためには実際にやってみせるしかないと考え
   私財を投じて富士山測候所の元となる野中測候所を作りました。
   明治28年(1895年)はその野中測候所の開設日です。

   野中至は「天気予報が当たらないのは、高層気象観測所がないからなのだ。天気は高い空
   から変わってくるだろう。・・・中略・・・富士山は3776メートルある。
   その山頂に気象観測所を設置して、そこで一年中、気象観測を続ければ、天気予報は
   必ず当たるようになる。

   だが、国として、いきなり、そんな危険なところへ観測所を建てることは出来ない。
   まず民間の誰かが、厳冬期の富士山頂で気象観測をして、その可能性を実証しないかぎり、
   実現は不可能である」。千代子は夫が日ごろ口にしているそのことばを暗記していた。

  A野中もやはり一番の問題は冬の富士山頂の風と寒さだと考えました。
   そのため実際の「富士山の冬」を経験しようと、この年の1、2月に
   冬季の富士登山を行なっています。

   当時のことですから冬山用の登山用品などあるわけもなく、ツルツルの氷と化した雪面を
   登るための靴作りから始めなければならない有様だったようですが、
   野中至は登頂に成功し、富士山頂での観測の可能性を確認しました。

  B野中至は私費で1895年 (明治28年)に山頂に六坪の建て屋を作り、
   薪炭や食料、観測機器を設置して、野中測候所が完成し、通年観測を目指して観測が
   開始されたのは1895年10月1日。

   この日から毎日、2 時間毎に 1日12回の気象観測を野中至はたった一人で行ない
   始めます。

   毎日昼夜の別なく 2時間毎の観測を一人でするのですからそれこそ寝る間もないことに
   なります。そんな状態で一冬ずっと観測を続けようなんて、ちょっと考えれば
   「無理がある」とその計画の段階で解りそうなものですが、そこはそれ大馬鹿者の
   野中至はそうは考えません。やってしまうわけです。

  Cとはいいながら、やはりどう考えても一人では無理。
   少なくとも衣食住の世話くらいはしてあげないと。
   そう考えた野中の妻千代子さん、至に少し遅れて富士山に登りました。

   しかし、寒さと高山病、栄養失調で野中至は歩くことも出来ない状態になり(それで
   も膝に草鞋をくくりつけて這って観測をしていたそうです)、これに代わって観測を
   継続していた千代子もこれに近い状態となってしまい冬季観測は途中で中止せざるを
   得ませんでした。

   こんな状態でもなお、観測を継続しようとした野中夫妻ですが、このままでは二人の
   生命が危険と考えた支援者たちは観測所に救援隊をおくり、救援隊の説得によって
   夫妻が観測継続を断念したのは 12月22日。

   夫妻はこの日、救援隊によって富士山頂から担ぎ降ろされました。

  C当時、富士山より高いところにある観測所は南米のエル・ミスチー山とフランスの
   モンブラン山でしたが、いずれも夏期しか観測しておらず。富士山での冬期観測は
   世界記録でした。

  Dちなみに、富士山頂の連続滞在日数の記録は現在でもなお明治28年に記録された
   野中至の滞在日数83日。そして第 2位の記録はその妻、野中千代子の71日です。

(3)その後

  @救助隊の救援によって一命は取り留めた野中でしたが、健康が回復するとまた何度も
   富士山に登って観測を継続しました。こうした彼の活動が徐々に認められるように
   なって、彼の提唱した富士山での高層気象観測の重要性も認識され、中央気象台に
   よって富士山測候所(中央気象台臨時富士山頂観測所)が建設されたのは昭和7年(1932)、
   野中夫妻が冬季観測を行った年から37年後のことでした。

  A昭和77年に開所した富士山測候所の開所の日付は 7/1ですが、富士山測候所記念日は
   この日ではなく、野中夫妻観測所が開所した8月30日とされています。

   この記念日は、富士山測候所の記念日であるとともに気骨ある一人の大馬鹿者と
   その妻の記念日でもあるのです。

  B1964年(昭和39年)9月には、気象観測や台風予報のための富士山レーダーが
   完成します。その設置工事は困難を極め、あの『プロジェクトX』の第1回放送で
   「巨大台風から日本を守れ〜富士山頂・男たちは命をかけた〜」として取り上げられました。

   富士山レーダーは1999年11月にその役割を終えて撤去され、
   現在は富士吉田市の体験学習施設「富士山レーダードーム館」に展示されています。

   有人の気象観測は、2004年10月1日に幕を閉じました。

・・・・・

   以下は、新田次郎・著「芙蓉の人」からの抜粋です。

(1)千代子(夫人)の決意

   夫人の千代子も、夫の理想を我が理想として、何があろうと成就してみせると決意する。
   千代子は、夫には秘密で、気象学を学び、体を鍛錬し、登山の準備を重ねていた。
   そして夫の後を追って、富士山頂に登頂したのである。

(2)妻として女性としてのこまやかな目

  @大自然の猛威に晒された極限の状況にあって、気象観測を続けていくために、
   千代子の女性としての見方や行動が、どれほど大きな力となったことか。

  Aもともと、青年・野中が設計した観測所や観測計画には、無理があった。
   女性であり、母である千代子の目から見れば、観測する「人間」への配慮が
   乏しかったからである。

  B千代子は、食事、栄養、睡眠時間、暖房、トイレ等々、観測する「人間」を守る、
   こまやかな配慮をしていった。

  C山頂は酸素も少ない。高山病との戦いが続く。
   壮絶な環境は、千代子の体調も狂わせた。

   しかし、そのなかでも、彼女は、殺風景な観測所に、せめてもの飾りつけをするなど、
   少しでも心が和らぐ工夫を怠らなかった。

  D「千代子は一日に何度か声を上げて笑った。その笑い声を聞いているだけで至は、
   富土山頂にひとりでいるのではないという気持になり、千代子のためにも自分のためにも
   しっかりしなければならないのだと思っていた」

   笑いは力である。笑顔は励ましである。
   とりわけ、女性の聡明な笑顔、生き生きとした声の響きこそ、
   皆に勝ち進む活力をみなぎらせていく源泉である。

(2)夫婦の支え合い

  @野中夫妻は、励まし合い、支え合いながら、病気と戦い、困難と戦い、気象観測を続ける。
   しかし、幾つかの肝心の観測器が、あまりに過酷な厳寒の富士の環境に耐えられず、
   壊れた。

  A心に打撃を受けた夫は、ついに重い高山病で起き上がれなくなってしまった。

   (至)「もはやおれは死を待つしか能のない身体になった。もし、おれが息を引き
      取ったら、その水桶に入れて、器械室へころがして行って、春になるまで置いてくれ」

   千代子は、毅然と言った。
   「私の野中至は死んだらなどという弱気を吐く男ではなかったわ」
   「そんなことを云うだけの力があったら、粥のいっぱいも余計に食べたらどうなんです。
   薬でも飲むつもりで食べたら、力が出て来て、病気なんかふっとんでしまいますわ」

   そして、涙ながらに、夫を励ました。
   「耐えるのよ、頑張るんだわ。私たちにとって、いまが一番苦しい時なのよ。
   私だってもうだめかと思っていたのが、急に快くなったでしょう」

  Bその夫に代わって、千代子は観測所の主役を担っていくのである。

   「(千代子は富士山頂での)冬期連続観測の記録の鎖に、彼女の手で一環一環を加えて
   行くことに、どれほどの意味があるかも充分知っていた。
   すべては未知の記録への挑戦であった」と。

  Cまさに、一歩一歩、一日一日が、まだ誰も成しえなかった、高層気象観測の記録である。
   それは、男尊女卑の風潮が強く、理不尽な男女差別が続いていた明治時代の
   ある一人の女性が命がけの執念で切り開いていった魂の尊厳の記録ともなった。

  <参考Web:第46回桂冠塾『芙蓉の人』(新田次郎)>
        http://prosecute.way-nifty.com/blog/2009/01/index.html

            <感謝合掌 平成24年3月6日 頓首再拝>

明治天皇と昭和天皇の御製 (7368)
日時:2012年03月07日 (水) 06時52分
名前:伝統

《明治天皇御製》

(1)「新しき 年を迎へて 富士のねの 高きすがたを 仰ぎみるかな」
                     (明治11年以前)

(2)「富士のねも はるかに見えて あしたづの たちまふ空ぞ のどけかりける」
                     (明治17年)

(3)「年のたつ あしたに見れば ふじのねの 雪の光も あたらしきかな」
                     (明治19年)

(4)「あま雲も いゆきはゞかる 富士のねを おほふは春の 霞なりけり」
                     (明治29年)

(5)「あかねさす 夕日のかげは 入りはてゝ 空にのこれる 富士のとほ山」
                     (明治35年)

(6)「富士のねに 匂ふ朝日も 霞むまで 年たつ空の のどかなるかな」
                     (明治38年)

(7)「萬代(よろずよ)の 国のしづめと大空に あふぐは富士のたかねなりけり」
                     (明治41年)

(9「あたらしき 年のはつ日に 富士のねの 雪もにほへる 朝ぼらけかな」


《昭和天皇御製》

(1)「しづみゆく 夕日にはえてそそりたつ 富士の高嶺は むらさきに見ゆ」
                     (昭和23年)

   <参考Web写真:葉山から富士山の夕暮れ>
    http://www.yokohama-mobilepla.jp/hayamakarahuzisanyugure.html

(2)「白雲の たなびきわたる 大空に 雪をいただく 富士の嶺みゆ」 
                    (昭和35年、九州への空の旅の途上)

(3)「山やまの 峯のたえまに はるけくも 富士は見えたり 秋晴れの空」
   (昭和53年、長野県でのやまびこ国体に出席され、帰京の途上中央線の車中)

(4)「ふじのみね 雲間に見えて 富士川の 橋わたる今の 時の間惜しも」
         (昭和56年、富士川を渡る新幹線の車中)

            <感謝合掌 平成24年3月7日 頓首再拝>

霊峰富士と木ノ花咲耶媛命 (8761)
日時:2012年04月30日 (月) 04時24分
名前:伝統


☆残雪の富士山麓で桜満開

    *共同通信ニュース(2012年4月28)より

    → http://news.goo.ne.jp/photo/kyodo/life/PN2012042801001950.html

☆木ノ花開耶媛

 万葉の昔から歌に詠まれる霊峰富士山。この富士山の神が、木ノ花開耶媛命である。

 富士山頂を始め全国にたくさんある浅間神社の御祭神で、海幸彦の母でもあります。

 桜の化身のようなこの姫は美しいが炎のような情熱があることでも有名。

 ある古伝によると、媛はある日突然、自分の美のはかなさを知った。
 花が美しいのは、まさにその散らんとする時期(とき)だけ。
 彼女は白馬にまたがり、ただ一人で霊山に登り、剣を地に立て昇天した。
 ちなみにその場所を剣ヶ峰と言い富士山最高峰である。

 これより彼女は富士山の開山として伝承の主役となり、
 富士山周辺の浅間神社は春を告げる桜が美しく咲くように
 必ず植えてあると言われております。

            <感謝合掌 平成24年4月30日 頓首再拝>

富士は、国家鎮護の神と仰がれてきた (9579)
日時:2012年05月29日 (火) 04時40分
名前:伝統


     <「謎とき 伊勢神宮」井上宏生・著」(P141)より>

『万葉集』の時代から、富士山の秀麗な山容は日本人の心を魅了した。
万葉の家人、山部赤人は詠んでいる。

(万葉集より)

 天地(あめつち)の分れし時ゆ、神さびて、高く貴き 駿河なる 布士(ふじ)の高嶺を、
 天(あま)の原 振り放(さ)け見れば、渡る日の 影も隠らひ、照る月の 光も見えず、
 白雲(しらくも)も い行きはばかり、時じくそ 雪は降りける、
 語り継ぎ言ひ継ぎ行かむ、富士の高嶺は

<参考Web: 山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)
       http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/three/m0317.html >

この長歌に対する返歌

(万葉集より)

  田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ 不尽(ふじ)の高嶺に 雪は降りける

<参考Web: 山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)
       http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/three/m0318.html >


歌人、高橋出麻呂も『万葉集』で詠んでいる。

 日の本の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも


山部赤人や高橋出麻呂が生きた万葉の時代、秀麗な山容を誇る富士山はすでに
国家鎮護の神、あるいは日本のシンボルとして存在していたようです。

            <感謝合掌 平成24年5月29日 頓首再拝>

富嶽三十六景 (10219)
日時:2012年06月12日 (火) 04時38分
名前:伝統


今年の3月頃、NHKで浮世絵師・葛飾北斎を取り上げた番組が放送されておりました。

この葛飾北斎の代表作でもあり、浮世絵風景画の代表作でもあるのが
「富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」。
「神奈川沖浪裏」や「凱風快晴」は、余りにも有名です。

このシリーズは天保初年ごろより、西村永寿堂から出版されました。
初め、題名の通り36図出版されましたが、非常に好評であったため、
後から10図が追加され、最終的に46図のシリーズになりました。

(当初の36図を「表富士」、追加の10図を「裏富士」と呼びます)


当時、人々の間には、富士山に対する篤い信仰がありました。
富士山に集団で参拝する「富士講」が盛んに行われ、
富士山に見立てた築山「富士塚」が江戸の各地に作られました。

こうした社会的風潮の中で「富嶽三十六景」は生まれ、爆発的なヒットをとばしたのです。

いつの時代も日本人の心の中にある富士山の姿。
「富嶽三十六景」は、単なる風景画の域を超え、日本人の心の風景を描き出しています。


北斎の「富嶽三十六景」
http://www.tomoiki.tv/fugaku36/main.html

富嶽三十六景 (浮世絵)
http://www.youtube.com/watch?v=3IN_edo0SZY


同様に、歌川広重の浮世絵も人気を集めていきます。

富士三十六景 歌川広重
http://www.tomoiki.tv/fuji36/main.html

            <感謝合掌 平成24年6月12日 頓首再拝>



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