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勤皇志士「平野国臣」 (9310)
日時:2012年05月20日 (日) 04時11分
名前:伝統


このスレッドでは、「維新の志士、平野国臣」を紹介して参ります。

この掲示板では、次のスレッドで、平野国臣の紹介がありました。

(1)スレッド「身は花守となりけんものを」 (2678) 」にて、
   http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=521

   ”破邪顕正 さま”がとりあげていた「維新の志士、平野国臣」の歌

   【 君が世のやすけかりせばかねてより身は花守となりけんものを 】

(2)スレッド「大御歌 (264)」内
   子記事「孝明天皇 (附) (8469)2012年04月19日」にて
   http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=72

   ”童子 さま”紹介の平野国臣の歌

   【 かくばかりなやめる君の御心をやすめ奉れや四方の国民 】

・・・・・

平野国臣は、筑前(現在の福岡県)の勤王志士。

平野は奇抜な格好を好み、髪を総髪、刀は一昔前の太刀作りの刀を佩き、
烏帽子・直垂を着て町中を歩くことがあったと伝えられる。

また、平野は文人、国学者でもあり、和歌・笛も嗜む風流人でもあった。

幕末に活躍した数多くの志士達の中でも、
平野は一匹狼で我が身を燃やし半生を国事に奔走した、豪傑であったと言える。

下記の歌は、そんな平野の性格をあらわしているとも言われております。


   【 我が胸の 燃ゆる思ひにくらふれば 煙はうすし 桜島山 】

            <感謝合掌 平成24年5月20日 頓首再拝>

資料が少ないですね (9415)
日時:2012年05月23日 (水) 16時07分
名前:童子

我がふるさとの勤皇志士
 福岡黒田藩の平野國臣、野村望東尼
 久留米有馬藩の真木和泉守

 維新の歴史小説には必ず出て来る人物ですが、残念ながら地元の図書館の郷土史コーナーでも満足な資料読み物が得られませんでした
 

 伝統さま よろしくお願いします。

”童子さま” ありがとうございます。 (9419)
日時:2012年05月23日 (水) 20時33分
名前:伝統

”童子さま” いつもありがとうございます。

”童子さま”のブログが2週間ほど更新されていなかったので、
少し心配しておりましたが、お元気なようで安心致しました。


>我がふるさとの勤皇志士 福岡黒田藩の平野國臣

そうですか、”童子さま”のお国の志士でしたか。

”童子 さま”には申し訳ないのですが、
私はこの掲示板で紹介があるまでは、記憶に残っていない勤皇志士でありました、

調べていくと、相当大事な役割を果たした志士であることがわかってきましたので、
現在、「平野国臣」関連の書物を読んで、全体を把握しようと努めております。

少しずつ、紹介していけたらと思っております。

            <感謝合掌 平成24年5月23日 頓首再拝>

恋闕第一等の人 (9424)
日時:2012年05月23日 (水) 23時22分
名前:山ちゃん1952

平野二郎國臣というのは青年会時代に学んだ維新の志士の一人です。
和歌を沢山詠んでおられるので有名ですね。
また、西郷と月照が入水自殺を図りそれを助けたのが平野國臣です。西郷は助かり、月照は死んでしまいますがその西郷が明治の魁となったのも世の光のように思います。
京都上京区の竹林寺に知らずに行ったことがありますが、朱門が印象的でした。また霊山護国神社にも墓があります。ここは四回ほど行きました。
真木和泉守に「恋闕第一等の人」と言わしめた人物です。

打たばうて 砕かばくだけ 砕くとも 身にみがきえし 大和魂

辞世
みよや人 嵐の庭の もみぢ葉は いづれ一葉も 散らずやはある

もののふの 思ひこめにし 一筋は 七代かゆとも よし撓むなじ

”山ちゃん1952 さま” ありがとうございます。 (9427)
日時:2012年05月24日 (木) 04時44分
名前:伝統


”山ちゃん1952 さま” いつも本当にありがとうございます。

>和歌を沢山詠んでおられるので有名ですね。

>打たばうて 砕かばくだけ 砕くとも 身にみがきえし 大和魂
>辞世
>みよや人 嵐の庭の もみぢ葉は いづれ一葉も 散らずやはある
>もののふの 思ひこめにし 一筋は 七代かゆとも よし撓むなじ

本当に、多彩な能力を発揮した”志士”だったのですね。


>西郷と月照が入水自殺を図りそれを助けたのが平野國臣です。

英霊の計らいを感じます。


>真木和泉守に「恋闕第一等の人」と言わしめた人物

すごいですね。素晴らしい勤皇の志士であったようですね。
頭の中が沸騰してきました。(笑)

            <感謝合掌 平成24年5月24日 頓首再拝>

維新の先駆者 (9517)
日時:2012年05月27日 (日) 04時23分
名前:伝統


平野国臣は、筑前黒田家に仕える足軽の次男として生れましたが、
大きく変動する時代の流れに触発され、志を持って諸有志らと交わりを持ち、
積極的に国事運動に身を投じました。

国臣は奇抜な格好をよく好みました。
髪を総髪にし、刀は一昔前の太刀作りの刀を佩き、烏帽子・直垂を着て町中を
歩くこともあったと伝えられています。

こういった点だけを見れば、何か飾った豪快な人物だけのようにも見えますが、
国臣は和歌も嗜み、笛を奏でることも出来るのです。

国臣という人物は、博多男児に代表される快男児であっただけではなく、
一種の風流人でもあったのです。


幕末に活躍した数多くの志士達の中でも、国臣は異例の人物であったと言えます。

国臣は、西国の尊王攘夷派の結集を画策し、諸国を奔走しました。
坂本竜馬の先輩格、竜馬よりは7才年上で、
西郷隆盛は1つ上、大久保利通や吉田松陰は2才下になります。

国臣は維新の先駆者として活躍いたしました。

            <感謝合掌 平成24年5月27日 頓首再拝>

北条右門と平野国臣 (10220)
日時:2012年06月12日 (火) 04時43分
名前:伝統


国臣の父・平野吉郎右衛門能栄(よしひで)は筑前黒田家の足軽であり、二郎国臣はこの二男である。

18歳の時、普請方手付に任命され、太宰府天満宮の楼門の修理を手がけ、
弘化2年に江戸勤番を命じられ江戸にでた。

24歳の時、普請方手付として宗像郡大島に出張、北条右門(薩摩人:木村仲之丞が本名)
と出会い、感化を受け勤王に目覚めます。

北条は島津斉彬に早く島津家を嗣がせようと運動したことが災いとなり、仲間の多くは捕らえられ
処刑されたが、運良く逃れ福岡黒田家にかくまわれた。

当時の黒田家の当主は斉溥(なりひろ)【長溥(ながひろ)】で薩摩藩からの養子、
斉彬の大叔父にあたる人であった。

斉彬は国臣が北条と知り合った頃には薩摩藩の当主となっており、彼の忠誠を認め度々使いを
送って金品など贈った。その使いを多く勤めたのが西郷隆盛であった。

西郷の話すことは北条を通して国臣に伝わり、運命を左右する程の大きな影響を与えた。


後に、国臣は水戸の学者、会沢正志斎の「新論」に感激し、尊王論と国粋主義に傾注してゆき、
妻子をも捨てることになる。

「世のために 捨ては捨てしが 年経ても 忘れぬものは わが子なりけり」

            <感謝合掌 平成24年6月12日 頓首再拝>

平野国臣の恋? (10229)
日時:2012年06月12日 (火) 13時53分
名前:さくらふぶき

田中忠雄先生著『男性・女性・仏性』から
「益良雄とその娘」の一部分を転載します。

 こうして言葉に尽くし難い悲壮な妻子との一夜は終り、和泉守は水田(みずた)に帰って行った。妻と娘は、これ今生の最後の夫の、父の姿かと、遠ざかり行く和泉守を見送った。

 越えて十六日、それは和泉守が捕吏のかこみを破って白昼堂々と久留米藩を脱出した日であるが、平野次郎国臣が連絡のために久留米水天宮に現れた。主馬が応接した。

「父、和泉守は本日逃亡、薩摩に向かいました」と主馬が言うと、平野次郎は喜色満面、「時がきた」と言って天を仰いだ。

「平野殿、妹の小棹がこんな歌を詠んで、父和泉守におくりました」

 主馬はこう言って、「あづさ弓 春はきにけり ますらをの 花のさかりと 世はなりにけり」の一首を示した。

 平野次郎は、はらはらと涙を流した。そうして紙と筆とを乞い、次の二首を真木家にとどめて立ち去ったのである。


 ますらをの 花さく世とし なりぬれば この春ばかり 楽しきはなし


 数ならぬ 深山桜も 九重の 花の盛りに 咲きはおくれじ


 思うに平野次郎は、しばしば真木家を訪ねて天下のことを議するうち、いつしか小棹と相思の仲になっていた。しかし、二人はついに心の中を打ちあける機会とてなく、やがて平野は生野の義挙に捕えられ、京都六角の獄において獄卒に惨殺されるのである。


 見よや人 あらしの庭の もみぢ葉は いづれ一葉も 散らずやはある


 これが平野の辞世であった。あわれに、はかない二人の恋であった。

【転載ここまで】
この二人が恋仲に近い関係であったかどうかは、これは田中忠雄先生の推測であろうと思いますが、ありうることだと考えます。

「お棹」への”恋歌” (10260)
日時:2012年06月14日 (木) 04時42分
名前:伝統

”さくらふぶき さま” いつも本当にありがとうございます。
田中忠雄先生のご著書からの紹介、まことに感謝申し上げます。

田中忠雄先生著『男性・女性・仏性』は、相当以前、手にし読んだ記憶が少し
残っており、探してみましたが、見つけることができず残念です。



(以下は、手持ちの資料より、)

国臣は、嘉永元年(1848年)二十一歳の冬、江戸勤めの任期が満ちて、福岡に帰り、
間もなく養父彦六の第三女と結婚して、若い婿となった。

第三女、名は菊、時に歳十六歳、そして翌二年第一子が誕生する。
これが国臣の死後、明治4年に平野姓を名乗るようになる六平太である。

国臣と菊の間には、3人の子共をもうけたが、安政4(1857)年の春に離縁している。
ただ、この離縁は平野が家族を疎ましく思ったことが原因ではなく、彼の意図的なもの
であった。

この年の5月、平野は藩主へ直訴を決行して罪に問われているのだが、
おそらく国臣が妻子と離縁したのは、その罪の影響を家族に及ぼさないようにする
ための配慮が含まれていたのだろう。


さて、その4年後<文久元(1861)年10月>、
国臣はお棹と運命的に出会ったと伝えられている。

この年の10月23日、平野は自らが立てた倒幕論策『尊攘英断録』を真木和泉に披露して
意見を求めるため、当時久留米南郊の水田村に蟄居していた真木の幽居「山梔窩(さんしか)」
を訪れ、そこで5日間逗留している。

(*真木和泉:久留米水天宮の宮司の家に生まれ、幕末に尊攘の志士として活躍)

おそらくこの時初めて国臣はお棹と出会ったのだろう。
当時の国臣は三十三歳、お棹は二十歳、つまり二人は十三も歳が離れていた。


『平野國臣傳』は、お棹のことを「敏慧(びんけい)にして才思あり」と表現しており、
彼女は非常な才女であったことがうかがわれる。年若いながらも父譲りの学問がしっかりと
身に備わったお棹の聡明なところに、国臣は心惹かれたのかも知れない。

国臣は真木の幽居を訪ねる度毎にお棹との逢瀬を心待ちにし、やがて二人が深い愛情で
結ばれていくことになったのは確かなことである。


国臣自身がお棹との深い関係を詠った歌がある。

「一日(ひとひ)だに 妹を恋ふれば 千歳川 つひの逢瀬を 待つぞ久しき」

「妹と我 ふかき契りは 千歳川 かはる淵瀬に ならはさらなん」


この歌を見る限り、二人は非常に強く、そして深い絆で結ばれていたようである。

しかし、そんな二人の恋は、その後「時勢」という大きな潮流に翻弄され、
飲み込まれていくことになる。

文久2(1862)年3月、薩摩藩の島津久光が兵を率いて上京することになったため、
国臣はそれを機に倒幕の兵を挙げようと試み、自らも上京を計画した。

その際、お棹は国臣に対し、次のような和歌を詠んで、彼を京に送り出している。

「梓弓 春は来にけり ますらをの 花のさかりと 世はなりにけり」


このお棹の和歌に対し、国臣は次の二つの返歌を彼女に贈り返した。

「ますらをの 花咲く世とし 成りぬれば この春ばかり 楽しきはなし」

「数ならぬ 深山桜も 九重の 花のさかりに 咲きは後れじ」


この二人の歌のやり取りを見ると、死を決して旅立つ国臣の覚悟と、
そして旅立つ彼の背中をいつまでも見送るお棹の姿が、まさに目に浮かぶようである。

しかし、お棹に見送られて意気揚揚と京に入った国臣であったが、倒幕計画に失敗して
捕われの身となり、その後約1年間、福岡の牢獄で過ごすことになるのである。

投獄中の国臣は、牢獄内への紙と筆の持ち込みを禁じられたため、
支給されるちり紙を使って「紙縒り(こより)」を作り、
それを折り曲げるなどして文字の形に仕上げ、その紙縒り文字をご飯粒などを使って、
また広げたちり紙に一文字ずつ貼り付けて文章を作成した。

恐ろしく気の遠くなるような作業だが、平野はこの方法で数篇の著述を行ったのである。

これが有名な『平野国臣紙撚文書』と言われるものである。


この国臣野が紙縒りで作成した文書の中に、
『囹圄消光(れいごしょうこう)』という和歌集があるが、

ここには生き別れになったお棹のことを想う恋歌がいくつも収められている。

「逢うことを 妹も千とせの 川の瀬の 下にこがれて 待ち渡るらん」

「恋わたる 妹が門辺の 川の名の 千歳の契り 交わすもかな」

「かかる身と なりぬと聞きて 契りてし 妹もや我を うとみはつらん」

「妻とたに 契りおかすは かくばかり 逢わざる妹は 偲びさらまし」

国臣は、お棹のいる久留米の筑後川(別名「千歳川」)の情景を思い出しながら、
一つ一つ丁寧に紙縒りで文字を作り、獄中でこれらの恋歌を詠んだのである。

このことからも、国臣のお棹に対する愛情の深さと大きさが読み取れます。

その後、国臣が投獄生活から解放された後も、お棹との恋愛は進行し、
国臣の友人であった筑前の女流歌人・野村望東尼(のむらもとに)は、
二人の結婚を取り持とうと考え、色々と手を尽くしたのだが、

文久3(1863)年6月、福岡藩から国臣に対し新たに上京命令が下ったため、
結局はその婚礼話も立ち消えとなってしまった。
そして、その国臣の上京が、愛するお棹との永遠の別れになってしまったのである。

上京した国臣は、その年の10月に起こった「生野の変」に加わって敗走し、
翌年の元治元(1864)年7月20日、京の六角獄で刑死することになる。

国臣が京の六角獄に投獄されている時、一輪の百合の花が密かに
差し入れられたことがあった。

国臣はこの百合の花を見て、次のような和歌を詠んでいる。

「名にめでて いと懐かしく 見ゆるかな やさしく咲ける 姫百合の花」


国臣は獄中に差し入れられた可憐に咲く一輪の百合の花を見て、
久留米に残してきた最愛の恋人お棹の姿を懐かしく思い出していたのではないだろうか。

            <感謝合掌 平成24年6月14日 頓首再拝>

伝統様、ありがとうございます。 (10264)
日時:2012年06月14日 (木) 07時10分
名前:さくらふぶき

伝統様

平野国臣が小棹を思って詠んだ和歌が、これほど多くあるとは、存じませんでした。本当に深い心の繋がりがあったのですね。また、紙を撚ってこよりにして、文字を綴るというほどに、文書を残そうとする思いの強さには、切ないような、鬼気迫るような感じがしますね。幕末の志士が過酷な状況に置かれて、尚強い思いを残そうとする姿勢は、楠公の七生報国の精神を憶わせるものがありますね。

私も生学連のときに、先輩から平野国臣の名前は聞いて知っていましたが、くわしいことは知らず、田中忠雄先生の御著書に載った部分でしかわからなかったので、このスレッドで勉強させて頂きまことに感謝しております。

野村望東尼の事も、やはり同様に生学連のときに少し学びましたが、田中忠雄先生のこの御著書に取り上げられていた一章で、学びました。

いつも様々なことを教えて下さり、ありがとうございます。

維新の英雄・西郷隆盛の命を救った「平野国臣」 (10557)
日時:2012年06月25日 (月) 06時39分
名前:伝統


西郷と平野の関係を語る上で、欠く事の出来ないのは、月照(げっしょう)の薩摩入りです。

京都清水寺成就院の住職を勤めていた僧・月照は、公家の近衛家と薩摩藩の仲介役として、
西郷らと共に朝廷方面での運動に活躍しました。

しかし、井伊直弼が行った「安政の大獄」により、月照もその身が危険となったのです。

幕府の探索の手から月照を守るため、西郷は月照を薩摩で匿うことを計画しました。
西郷は月照と共に京を脱出し、下関に到着した後、月照の身柄を筑前博多近郊に住む
同志の北条右門(ほうじょううもん)に託し、急遽先行して薩摩に戻ることにしました。
月照の薩摩入りの下工作をするためです。

しかし、西郷が出発した後、事態は急変しました。
幕府が派遣した京都町奉行支配の目明し二人が月照の後を追い、博多に潜入してきたのです。

このまま月照が博多に留まっているのは危険と感じた北条は、西郷からの連絡を待たずに、
月照を先に薩摩に潜入させるのが良いと考え、上座郡大庭村へ月照とその下僕を脱出させました。
 しかし、月照単独の力だけで遠い薩摩に行けるはずがなく、誰か月照の供をして一緒に薩摩に潜入してくれる頼もしい人物が必要だと、北条は感じていました。

「こんな時に、平野どんが居てくれれば……」

北条の頭の中には、平野国臣という人物が浮かんでおり、
北条は彼しかこの大役を果たせる人はいないとも考えていました。

平野と、月照を匿った北条とは、非常に親しく付き合っていた間柄でした。

また、平野は若い時分から京や江戸に出向くなど、非常に旅慣れた人物であったので、
北条は彼に月照の供を頼みたいと考えたのです。

しかし、その頃、平野は筑後・肥後方面に旅に出ており不在でした。
平野が不在であったため、北条は日々月照の薩摩入りについて頭を悩ましていたのですが、
突然その平野自身が北条を訪ねて来たのです。北条の喜びは一通りではありません。

一番手を借りたいと思っていた人物が、期せずして現れたのですから。

「これこそ、天の助けなり」

北条は平野に全ての事情を話し、月照の供をして薩摩に行ってくれないかと頼みました。
その北条の頼みに、平野は二つ返事で答えました。

「ようござす。行きましょう」

このように、平野という人物は、いついかなる時でも、清々しいほどの男気と勇気を
発する人物なのです。

平野は月照の供をして薩摩に入ることを簡単に引き受けましたが、
当時の薩摩藩は独自に鎖国政策を行なっていたかの如く、関所の警備は厳重を極め、
容易に他国人の入国を許しませんでした。

正式な関所手形も無く、目明しに追われている月照の供を引き受けるのは、
まさに命懸けの行動と言えるものでした。そんな危ない橋を渡ってまでも、
月照の身を引き受けた平野の勇気と義侠心は、際立っております。

北条の依頼を受けた平野は、早速月照の潜む大庭村へと向かい、そして、
平野と月照は直ぐに身支度を整え、大庭村を出たのですが、その途中、平野は古道具屋で
山伏の装束を買い求め、月照とそれに着替えて薩摩へと向かいました。
山伏に扮装するあたりが、いかにも豪快で変装好きな平野らしいやり方です。

その後、平野の知恵と勇気で数々の困難を乗り越えた月照一行は、
何とか薩摩領境まで辿り着いたのですが、案の定関所で薩摩への入国を拒否されて
しまいました。

しかし、平野はそれでも諦めませんでした。
近辺で舟を雇い、強引に薩摩領内に上陸しようと試みたのです。
舟で薩摩領内に入るためには、当時潮流が早く、航海の難所と言われていた「黒の瀬戸」と
呼ばれる長島と下出水半島との間の海峡を通らなければなりませんでした。

この状況から見ても、当時の薩摩への密入国は命懸けだったと言えます

このようにして月照と平野はようやく薩摩に入ることが出来たのですが、
薩摩では大きな悲運が待ち受けていたのです。

先行して薩摩に戻っていた西郷は、四方八方手を尽くし、藩政府に月照の保護を要求
していたのですが、幕府のとがめを恐れた藩政府の態度は非常に冷たく、
藩として月照を庇護しようとはしませんでした。

それでも西郷は諦めずに嘆願を続けていたのですが、
月照が平野に連れられて薩摩に入国したことを藩政府が知ると、
月照と平野を使者宿に隔離し、西郷を呼び出して、月照らを藩外に追放するよう命じたのです。

西郷はその命令に憤りを感じましたが、藩士として藩の命令に背くわけにはいきません。
かと言って、薩摩藩にとって大恩のある月照を見捨てることも当然出来ません……。

一先ず西郷は月照と平野を引き連れ、一路日向に向けて鹿児島錦江湾の海に船を漕ぎ出しました。

船中では、これから待ち受ける月照の苦難を慰めるかのように、
平野は笛を奏でていたと伝えられています。

平野の哀しい笛の音が鳴り響く中、船が錦江湾の華倉の沖合いを過ぎた時、
突然、西郷と月照は二人合い抱いて寒中の海に身を投げたのです。

事態に絶望した西郷と月照は、心中をはかったのです。

「ザブーン」

という大きな水音が鳴った瞬間、船室に居た平野はすぐに外に飛び出ると、
西郷と月照がいないことに気付きました。

「船を止めろ〜! 帆を下ろせ〜!」

平野は船頭に向かって絶叫しました。

平野と船に同乗していた薩摩藩の足軽・坂口周右衛門(さかぐちしゅうえもん)は、
必死になって辺りを捜しまわりましたが、二人の姿は見えません。

その後、懸命な捜索が続き、数刻経った後、二人の体が突然海面に浮き上がってきました。
平野らは二人を船に引き揚げ、華倉の浜辺へ急遽上陸し、二人を蘇生させるべく
熱心な介抱を続けました。

その結果、月照は絶命しましたが、西郷はすんでのところで息を吹き返したのです。

西郷の命が助かったのは、ひとえに平野の熱心な捜索と看病のお陰であったと言えます。


もし、平野の活躍がなかったならば、西郷の命も、ここで潰えて、
明治維新もさらに遅れたか、変わったものになっていたとも考えられます。

そのことからも、平野国臣のこの場面での働きは、
日本にとって大きな存在であったようにも感じられます。

            <感謝合掌 平成24年6月25日 頓首再拝>



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