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真諦成就 (10779)
日時:2012年07月01日 (日) 07時07分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月1日>(P4)より

深海の中に棲む魚(うお)は盲(めしい)である。
暗(やみ)のみを心に思い浮かべているからである。

光を見る心になったときわれわれに眼ができ、
美しい世界がわれわれの周囲に展開したのである。

思想することは自由である。
幸福になるように、あるいは不幸になるように。
けれどもそれは各人の選択である。

ただひと筋に光明思想に随(つ)いて来るものは幸いである。

すべてのものがわが内にある。本当にある。本当にある。
ただそれだけを知ればよいのである。
ただそれだけを直視すればよいのである。

思想として、宗教として、哲学として、生長の家はすべてのすべてである。
このほかにもっと何かよいものがあるかと思ってさ迷い出るものは、
エデンの楽園にいてエデンの楽園をさ迷い出(い)ずるものである。

いろいろ変わった思想のものを読んで、思想を混乱させればさせるだけ、
自分の運命が混乱してくる。

罰を当てるのではないが、いろいろお蔭を戴いてから去ったものの運命が
それほど花々しくないのは、その人自身の思想が混乱しているからである。

元の思想に還ればまた幸福がその人のために甦ってくるのだが、
いったん光明思想を去った者が元の思想に還ることは負けたような気がして
正直に懺悔の心を表白することができない。

そこでその人はいつまでもグズついて不幸の中に身をまかせているのである。

真理の前に跪(ひざまづ)くことは、
不幸の中に身をまかせていることよりも
いっそう勇敢なことであることを知らなければならない。

         <感謝合掌 平成24年7月1日 頓首再拝>

心に神を持つ (10824)
日時:2012年07月02日 (月) 07時22分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月2日>(P5)より

本当の平和はわか心が神に結ばれたときのみに得られるのである。

神さえあれば何も要らない。
心に神を持つことは「すべて」を持つことである。

神は「すべてのすべて」であるからである。

・・・・・・

別のスレッド「神にむすばる」も、「心に神を持つ」ことにお役に立つかも知れません。
→ http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=2315

         <感謝合掌 平成24年7月2日 頓首再拝>

すべての経験は、「神」を掘り出す喜びの作業 (10879)
日時:2012年07月03日 (火) 07時40分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月3日>(P5〜P6)より

われらのすべての経験は、自分の内にある「神」を掘り出す作業である。
どんなにそれが失敗したように見えようとも、どんなにそれが深刻であり、
悲惨なように見えようとも、それが深刻であればあるほど、悲惨であればあるほど、

われらの神に通ずる坑道は深く穿たれていきつつあるのである。

深く深く下げていくうちには、やがて広々とした世界に出る。
そこには、もうなんの悲惨もない、常楽のみの世界なのである。

どんな経験も、苦しい経験も、
ただ、われわれは神に近づく掘り下げ方だとして喜ばなければならない。

・・・・

<参考として、次のスレッドもお役に立つかも知れません>

(1)経験を通して、神性が発現する<十一月の手紙> (5164)
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1091

(2)すべての経験に感謝しましょう<十ニ月の手紙> (5519)
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1205 

         <感謝合掌 平成24年7月3日 頓首再拝>

日本を「久遠無窮」の「理念」として愛する (10916)
日時:2012年07月04日 (水) 07時28分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月4日>(P6)より

宗教とは死なぬ道を教えるものである。
不滅の道を教えるものである。

ある場合には、それは「個」と「全体」との関連において。
「個」は「全体」とつながっているものなるがゆえに、「個」は滅びたように見えても、
「全体」は滅びないから、それにつながる「個」も滅びないというような考え方において。

ある場合には、それは国家理念の立場において。
「個人」は滅しても「理念」は滅びないがゆえに、国家理念のために没しきった個人の生命
は永遠に滅びないというような考え方において。

わたしは、日本を「久遠無窮」の「理念」として愛したいのである。
わたしは限りなく日本の国を愛する。

         <感謝合掌 平成24年7月4日 頓首再拝>

心の法則を活用せよ (10936)
日時:2012年07月05日 (木) 04時19分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月5日>(P7〜8)より

なんじの欲する事物の上になんじの心を集注せよ。
なんじの欲せざる事物の上になんじの心を集注せいてはならない。

病を欲するならば、病の上に心を集注せよ。症状を気にかけよ。心配せよ。
しからばなんじの病は必ず増大すべし。
心をそれに集注するものが実現するからである。

多くの人々がなぜ不幸であり、不健康であるかの原因は、
好まないものにことさら心を集注して心配するからである。
なぜ、君は自己の欲せず希望せざるものの上に心を集注するのであるか。

幸福ならんと欲する者は、自己の幸福のみに心を集注せよ。
他の人の幸福のみに心を集注せよ。他の人の幸福を羨(うらや)んではならない。
幸福を羨む心は、幸福を否定し、抑制し、不幸を欲する心であるがゆえに、
みずから不幸を招くのである。

他人の幸福を自己の幸福と感じうるものは、自分が今いかに現実に乏しくとも、
他(た)のすべての人の幸福が自分自身の幸福であるがゆえに、
すでに豊かであるのである。

なんじの欲する事物の上になんじの心を集注するとき念の創化作用によって、
ついにそれをこの世界に現実化するに至るのである。
なんじ、何を欲するや。これをまず自己自身に問え。

しかして、健康を欲するならば、「われは完全なり健康なり。われは生命(せいめい)なり。
われは神の子なり。われは永遠の存在なり。われは不老なり。われは何物をも羨まず。
われは日々にいっそう、神の子の完全さを顕現するなり」と常に精神を集注して念ずべし。

諸君が成功を欲するならば、常に偉大なる物のみを心に描け。
偉大を念ぜずして偉大になった者は一人もないのである。
小なる計画は人を魅(ひ)曳きつける磁石的力を有しないのである。

いやしくも失敗を予想するなかれ。しかし細心であれ。一歩一歩を大切にすべし。
大望を抱くものは日常生活に気をつけるのである。
気をつけることと、恐怖することはちがうのである。

将棋の木村名人のように一分一秒を大切にして、
しかも最後の勝利を前途に描く者はついに勝つのである。


心の法則を知らざる者は、健康を欲しながら病気を念じ、
成功を欲しながら失敗に精神を集注し、
すべて逆に逆にと心を使うから失敗するのである。

されば健康を欲し成功を欲するものは少なくともその基礎知識として勝利の常識として
わたしの「人生は心で支配せよ」の本一冊ぐらいは読んでおかなければならないのである。

・・・

*谷口雅春先生の著書「人生は心で支配せよ」については、次のWebも参考になります。

<参考Web:”山ちゃん1952 さま”のブログでの「人生は心で支配せよ〜はしがき」
       http://plaza.rakuten.co.jp/tecnopla/diary/201204160001/

         <感謝合掌 平成24年7月5日 頓首再拝>

罪・病・死は浮雲の陰影、実相は円満完全 (10968)
日時:2012年07月06日 (金) 04時54分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月6日>(P8〜10)より

罪と病と死とは、畢竟存在せざるものを夢中に描ける妄想にすぎないのである。

われわれが実際に金殿玉楼に錦秋の褥(しとね)を布(し)いて寝ていても、
夢の中で地獄で病気に苦しむ相(すがた)を描こうと思えば描ける。
そして、それを実在の如く感じて苦しむのである。

しかし、夢中にいかに苦しもうとも、それは実在ではないのであって、やはり金殿玉楼に
錦秋を纏うて眠っているということの事実を否定することはできないのである。

それと同じく、罪と病と死とはいかに”ある”かのごとく見えても、
実はここが蓮華蔵国であり、極楽浄土であり、このままここが天国であって、万(よろず)の
よきものが充満している世界であるのだということにまちがいはないのである。

人類よ眼の蔽いを除(と)れ。
なんじらがこの世界に不幸、病気、憂苦充満せりと見るのは肉体の眼をもって見るからである。

『法華経』の如来寿量品の自我掲に「衆生、劫尽きてこの世の焼くると見る時も、わが浄土は
安穏にして天人常に充満せり。諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり・・・わが浄土は壊せざるに、
衆は焼け尽きて諸々の憂怖充満せりと見る」とあるのを、

たいていの仏教者は、「この世界が焼けつきるような時が来ても、心さえ動じなかったら、
心の中には天人が充満しているのもおなじことであり、立派な堂塔伽籃がそびえ立って立派な宝
がいっぱい飾ってあるのも同じようなものだ。

この身は殺されても、心の中に確立された浄土は壊(くだ)くことができない。
釈尊は、衆生たちが焼けつきて阿鼻叫喚の状態を演じていても、いつも花降るような心境に
いられるのだ」というような意味に解釈しているのであるが、これはすこぶる浅い解釈だと
言わなければならないのである。

快川禅師の「心頭を滅却すれば火もまた涼し」などと言って実際に焼け死んだのも、
「心頭」の浅いところに「火の涼しさ」を弄んでいるからである。

浄土が今ここに厳存しているという事実は、
心頭や心境や、思いつきや、感じなどの浅い問題ではないのである。

厳として今ここに、実相の浄土が存在するのであって、その実相円満完全の表面に、
心頭を滅却したり、心境を一変したり、向下したり、向上したり、劫火が燃えていたり、
原子爆弾が爆発したり、衆生が阿鼻叫喚につつまれていても、
それは玲瓏円月上の浮雲(ふうん)が描く陰影にすぎないのである。

病気もまた、一片の浮雲(ふうん)にすぎない。
三省して自己の実相の円満完全さを見よだ。

         <感謝合掌 平成24年7月6日 頓首再拝>

自己の生命を「神の生命」なりと観ぜよ (11003)
日時:2012年07月07日 (土) 04時44分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月7日>(P10〜12)より

健康を得んと欲するならば、自己の生命を「神の生命(せいめい)」なりと観ぜよ。
神は健康であって病気に罹るなどのはずはないのであるから、「神の生命」が自己の生命で
あると観じられるかぎりにおいて健康を失うことはありえないのである。

瞑目合掌して自己の全身が「神の生命」に満たされて光明燦然と輝いている有様を瞑視して、
それに精神を統一せよ。
漠然と「健康」と観ずるよりも、具体的に観ずるほうがいっそう効果が多いのである。

自己の顔色(かおいろ)が桜色に輝き、筋肉はたくましく、内臓が健やかに
その職能を果たしつつある事実を心に描いて観ぜよ。

次のごとく具体的に心に唱えながら観ぜよ、

「神はわが眼にプラナを流れ入らしめたまい、わが眼を祝福して言いたまわく、
『眼よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。この眼は神の眼であって、神はこの眼を
通して自己の創造の美しさを鑑賞したまうのであるから、毎日いっそうわが眼の視力は増大
するのである。

神わが耳にプラナを流れ入らしめ給いて、わが耳を祝福して言いたまわく『耳よ、健やかであれ』と。
すなわちかくなりぬ。この耳は神の耳であって、神はこの耳を通して大自然および神の子たる
人間の音楽のいかに美しきかを鑑賞したまうのであるから、毎日いっそうわが耳の聴力は微妙で
あっていかなるデリケートな音調でも聴き分けることができるのである。

神わが鼻より咽喉、気管、気管支、肺臓および肋膜にプラナを流れ入らしめたまいて、これらを
祝福して言い給う『呼吸器よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。

わが肺臓は神の霊が神の生命(せいめい)を呼吸するための器官として具象化したまいしもので
あるから霊的実在であるのである。だから決して黴菌に侵(おか)されるようなものでは
ないのである。自分はこの内臓が病菌に侵されるというような人類の共通観念を今かなぐり
捨てたのである。神の祝福したまいしごとくわが肺臓は健やかであるのである。

神わが心臓にプラナを流れ入らしめ給いてこれを祝福して言い給う『心臓よ、健やかであれ』と。
すなわちかくなりぬ。わが心臓は神の霊の具体化であるのである。
だからわれは神がすべての人を愛したまうごとくわれもまたすべての人々を愛したのである。

神がすべての人々をゆるし給うごとくわれもまたすべての人々をゆるしたのである。
だからわが愛の感情は常に平安である。わが愛の感情は平安であるがゆえに常に
わが心臓も平安であるのである・・・」

このようにして「神が祝福し給う」という観念と言葉を通して現実的に一つひとつの
身体各部を健全化して視るのである。

「神プラナを流れ入らしめ給いて・・・」と念ずるときに、神のプラナを吸い込むような
気持ちで呼吸をそれに合致せしめるといっそうよいのである。

         <感謝合掌 平成24年7月7日 頓首再拝>

「日本」の理念の復興を (11043)
日時:2012年07月08日 (日) 04時19分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月8日>(P12〜13)より

ローマが滅亡したのは、理念または理想に対する献身的態度や、持久の精神、
堅忍不抜の精神の衰退したのによるのである。

ものの尊さも、国の尊さも、今ある形の大きさによるのではない。

理想 ―― 理念を失ったものは、すでに内容のない形態ばかりのものになっているのだから、
今はまだ生き生きしていようとも、それはすでに幹から断ち切られた生け花のようなものである。
それは時間のたつにしたがって、衰退枯渇してゆくほかはありようはないのである。

どんなに小さくとも生ける理念を内部に失わないものは、
時期が来れば生長するほかはないのである。
それは生命(せいめい)の種子(たね)であり、機会ごとに伸びるのだ。

西欧文化は、偉大なように見えても、もう理念が失われている。
日本も久遠無窮の理念が失われたとき弱体化するのである。
理念が本当の「日本」であって、形はその影にすぎない。

日本を大いに復興しようと思うならば、「日本」の理念を復興しなければならぬ。

         <感謝合掌 平成24年7月8日 頓首再拝>

神への信 (11078)
日時:2012年07月09日 (月) 07時37分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月9日>(P13〜15)より

困難を避けて遊惰(ゆうだ)を喜ぶようになったとき、その民族の衰退は始まる。

今、われわれに課せられた状態がいかにあろうとも、今が、そしてその状態が自己の魂の進歩
にとり最善の時であり、最高の機会なのである。われわれがわれわれ自身を見出すところの
今の環境が、その時と処においてわれわれにとって最もよいということである。

われわれの前に起こるところの義務は、そして手近にあるところのすべてのものは、
われわれを導く神の智慧が開かれつつあるところの道である。

家庭の茶飯事、その勤める店での呼鈴(よびりん)に応えること、事務所で働くこと、
病める隣人をまたは親類縁者を看護することなどは散文的な、あまり馨(かんば)しからぬ
ように見えるかもしれない。

それはそうかもしれないが、しかしわれわれの日常生活における義務を、神に対する義務の
ごとく、また、人生に捧げる捧げ物のごとく忠実に行なうことは、その人の魂に与えられた
日課を果たすということになるのである。

そしてその時その場における内部に宿る神の催しに従うこと、
すべての時において神の掟を守りて正しく生きること、また生活がわれらに齎(もたら)し
たるところのすべての位置において全力を尽して試みることは、
魂の向上の道に入るための日々の課業であるのである。

人から見て目覚しい仕事を為すということは、それはすでに報いを受けたのであるから、
それほど価値はないのである。

すべての人生の出来事と環境において、人から見て目立たない仕事を人のために尽すとき、
その報いは天の倉に貯えられるのである。すべての善は神よりのみ来るのである。
だから決して善行誇りに陥ってはならないのである。

重ねて言う。すべての善は神よりのみ来るのであるということを記憶せよ。
されば、自分の善を誇ってはならないし、またどんな困難が来ても恐れてはならないのである。

無限者なる神に信頼さえすれば、すべての悩みよりわれわれは保護され、
あらゆる場合の危険よりわれわれは守護されるのである。

さらにまた、すべての供給は神より来たるのであるから御心を行じていてわれらは決して
乏しきことはありえないのである。神は唯一の本源であり、われらの求めるすべてのものを
豊かに与え給うているのである。

われわれがもしこの高き意識のうちに生活するならば、すべてはよくなり自己に来る
すべての事件は最初はいかに見えても好転するほかはないのである。

いさ、読者諸君よ、常に次のごとく念ぜよ。

「神は吾と偕(とも)なればわれは大いなる力とともにあり、
神はわが護りなれば、たれか吾に逆(さか)らうものあらんや。」

常にこの信念を把握して、神に対して任せるとき、荊棘(いばら<けいきょく>)は
切りひらかれ、道なき所に道を生じ、砂漠に花咲き、
豊かなる富の恵みは噴泉(ふんせん)を成して湧き出ずるであろう。

         <感謝合掌 平成24年7月9日 頓首再拝>

神、われを導き給う (11105)
日時:2012年07月10日 (火) 07時50分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月10日>(P15)より

われを導くものは神である。(これは私自身だけのことを言っているのではない)
すべての人間は「われを導くものは神である」と自覚しなければならない。

神の国に到る「道」は、自分のうちにある。
われは「道」なり ―― とイエス・キリストは言っている。

「われは真理なり、道なり、生命(いのち)なり、われによらずして神の国に到りし者なし」
とは肉体イエスのことではない。
万人の”うち”に宿る真理なるキリスト(Chrisut Ideal)のことである。

静かに瞑目してわが内に無限の叡智が宿っていることを黙然せよ。
そこから、その日その日なすべき「道」が示される。
彼は「智慧」であり、「道」であり、われらの内に宿ってい給うのである。

         <感謝合掌 平成24年7月10日 頓首再拝>

神を感ずるために (11152)
日時:2012年07月11日 (水) 07時57分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月11日>(P16〜17)より

まのあたり、今、ここに、この身のうちに、神の”いのち”宿りいますを感じ、
神の智慧宿りいますを感じ、神の愛に取り巻かれてあることを感ずる者は幸いである。

しかしそれを感じえない者はどうしたらよいか?

 ―― なぜ彼は感じないのであるか?
 ―― 彼自身が感じないからである。

 ―― どうしたら感じるようになるか?
 ―― 彼自身が感ずるようにすればよいのである。

 ―― 感ずるようにするにはどうしたらよいか?
 ―― 感ずるということは、一つの認識作用であるから、感ずる対象と同じ波を
    こちらが起さねばならぬ。神を感ずるには、神は愛あるから、
    愛の波を自分の内に動かさねばならぬ。

静かに眼を瞑って、
「われはすべてを愛し
すべてはわれを愛す」

と「実相を観ずる歌」の一節を繰り返し念ずるがよい
―― その心のリズムのうちにわれわれは神を感ずることができるのである。

また神は「生命(いのち)」である。
すべてを生かしているのは神の生命(せいめい)であるから、われらが神を自分のうちに感ずる
ためには、すべてを生かす心を起したときに、その心のリズムの中に、その心の波長の上に、
霊感的に感応するところの神を感ずることができるのである。

だから神を心に感じようと思うならば、時々、寸暇を利用して瞑目心を静め、
「実相を観ずる歌」の一節 ――  

  「神は生命(いのち)にして
   我は神の子なれば
   我はすべてを生かし、
   すべては我を生かす」

と心の中に繰り返し繰り返し念ずるならば、「個(ひとり)」と「全体」との
つながりの意識が蘇生(よみがえ)ってきて、神を更に感ずることができるのである。

         <感謝合掌 平成24年7月11日 頓首再拝>

すべての人に宿る「神」を拝む (11183)
日時:2012年07月12日 (木) 07時28分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月12日>(P17〜18)より

あの利益、この利益と求めている者にもお蔭はあることはあるが、割合にお蔭が少ないものである。
なぜなら現象に捉われて、生命それ自身の自由自在さを失ってしまいやすいからである。

あの利益、この利益と求めるものは近眼(ちかめ)である
 ―― 心の近眼(ちかめ)である。

孑孑(ぼうふら)を追い求めるよりも呑舟(どんしゅう)の大魚(たいぎょ)を求むるに
若(し)かずである。
すべての利益が与えられているのに、あの利益、この利益と求むるには及ばないのである。

神はすべてのすべてであるから、神をわが内に見出せば、
「すべてのもの」はおのずから調(ととの)うのである。
何よりも、まず「神」である。

その「神」が自分の内部に宿っているのに、多くの人は未だ自分自身を拝んだことがなかった。
自分自身に感謝したことがなかった。
幸福な人が少なくて、不幸な人が多いのも、そうした理由から当然のこと事である。

見よ!  まず自分のうちに宿る神を!
われらはまず自分自身のうちの「神」を拝むことを教え、
自分自身のうちの「神」に感謝することを教える。

かくのごとくして、われらはしだいに進んで各人自身のうちに「神」を宿したまうた
本源の神を拝むことを知るのである。

          <感謝合掌 平成24年7月12日 頓首再拝>

法爾(ほうさながら)に動く (11222)
日時:2012年07月13日 (金) 04時33分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月13日>(P19)より

神はすべてのすべてだとわかったら、罪を犯してまで何を求めることがあろう。
「罪」というほどでないにしても、「無理」なことをしてまで何を求める必要があろう。

すべての必需物(なくてならぬもの)は神すべてを与えていたまうのである。
ただそれを見出せばよいのである。

「ただ見出せばよい」といっても、手を拱(つか)ねてじっとしておれという意味ではない。
法爾(ほうに)として、法爾(ほうさながら)に自然(じねん)に動き出してくる
ごとく素直に動けばよいのである。

「無理な動き」を厭うのであって、「法爾(ほうさながら)に動く」ことを尊ぶのである。
仏の掌中にあって、仏のみこころのままに動くのである。

         <感謝合掌 平成24年7月13日 頓首再拝>

「無限供給」は”今””既に””ここに”ある  (11265)
日時:2012年07月14日 (土) 07時58分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月14日>(P19)より

何かが自分にとって欠乏しているならば、
その「何かが」自分の内に欠乏しているのである。

自分の見出し方が欠乏しているか、法爾(ほうさながら)の動きが欠乏しているかである。

「無限供給」は”今”ある ―― すでにある ―― ここにある。
法爾(ほうさながら)の動きは、それをただ開くのである。

         <感謝合掌 平成24年7月14日 頓首再拝>

愛のみ生かす (11292)
日時:2012年07月15日 (日) 04時48分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月15日>(P20)より

愛しなかったならば、戻ってくることは少ない。
時計は回るようにできており、時間を正確に指示するように物理的精密さでできているが、
それでさえわれわれがもし愛しなかったら停まってしまうのである。

そんな馬鹿なことはない、捻子さえ回しておけば時計は物理的に回るのだと
抗弁する人があるかもしれぬ。

では、「だれが捻子を掛けるのであるか?」
人間の愛が、人間の時計に対する「関心」が、捻子を掛けるのであって、
物理的な力のみでは決して、時計に捻子を掛けないのである。

わたしの懐中時計ロンジンは、誌友から贈られたものであるが、講演旅行などで携帯する
時には10日間ぐらい絶対に時間を合わさないでも数秒も指針の誤差はないが、さて旅行から
帰ってくると、本箱の前方に吊り下げられたまま停まっていたり、時間が遅れたりしている。

時計の必要を感じないので、時計をそれほど愛しなくなるからである。
時計を動かすのも愛の力である。

愛のみ生かす。
知的に真理を理解したといっても、それだけでは時計の構造を理解したと同じである。
時計の構造を理解しただけで時計が動かないのと同じく、真理も知的に理解しただけでは
生命(せいめい)を生かす力がないのである。

時計のくわしく構造を知らなくとも、教えられたとおりに素直に信じて竜頭を回せば
時計は動く。それと同じく、真理のくわしい理論は知らなくとも、愛することのできる人は、
そして教えられたとおりに素直に信じて実行する人は、人を生かすことができるのである。

         <感謝合掌 平成24年7月15日 頓首再拝>

まず神を愛せよ (11311)
日時:2012年07月16日 (月) 04時55分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月16日>(P20)より

神を御利益信心の対象にのみする者は神の全貌を知らないものである。
神は父であるから、神は愛であるから、神が智慧であるから、神は生命であるから、
財的な御利益以上の無限供給であるのである。

人間の父でさえもただ物質だけを家族に与えて満足している者ではないのである。
人間の父でさえも「父とは金を供給してくれるだけの道具である」と思っていては、
父の心も気まずくなり、その金さえも供給してくれなくなるであろう。

神は「無限の赦し」であるから、神を御利益信心の対象としてのみ取り扱っていても、
神はわれらを罰し給うことはないであろう。
またその供給を惜しみ給うこともないであろう。

しかし、神と人間との関係は父と子とも関係であるから、神をただ「無限供給の源泉」
として視るものは、神から最も少なくを得るものなのである。

まず神を愛せよ。
父を愛するごとく、母を愛するごとくに神を愛せよ。
しからば神もまた、父のごとく母のごとくわれらを愛し給うであろう。

否すでに愛していてくださるのであるが 
―― われわれが神を愛することを始めるまではそれを拒んでいたのである。
われわれが神を愛しはじめるとき、われわれの心のリズムが初めて「神」の愛を
捕捉(キャッチ)する ――

そこに物質の無限供給にみならず、われらはいっさい万事をキャッチするのだ。

         <感謝合掌 平成24年7月16日 頓首再拝>

知的に理解できないからといって、必ずしも否定はできない (11334)
日時:2012年07月17日 (火) 07時27分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月17日>(P22)より

今の段階において、われらが知的に理解しえないものといえども、
必ずしも存在を否定することはできない。

野蛮人には電子も、電波も、ラジオも知的に理解しうるものはない。
しかし、われらはそれを知的に理解しうるのである。

人類がもっと知的に進歩してきた時には、現在「奇蹟」と認められている物事も、
ただ尋常茶飯事としてわれらは驚かぬようになるであろう。

それはあたかも、われらが、野蛮人の驚くラジオ・セットを尋常茶飯事として
少しも驚かないのと同じことである。

         <感謝合掌 平成24年7月17日 頓首再拝>

心の「絞り」を調整する (11356)
日時:2012年07月18日 (水) 04時08分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月18日>(P23)より

写真を写すにも、絞りを調整することによって、
その写真が上手に写ったり下手に写ったりするのである。

それと同じく現世をよくするには心の「絞り」を調整することが必要である。

内部が整うて、外界が整うのである。
何か外界に悪しきことが起こったら、まず内部を調整すべきである。

         <感謝合掌 平成24年7月18日 頓首再拝>

自分の魂を高めよ! (11392)
日時:2012年07月19日 (木) 04時22分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月19日>(P23〜25)より

ひとの優劣を自分の尺度で推し測ってはならない。
自分が愚劣な心を持つから、ひともまた愚劣であろうと思ってはならない。

自分が動物的な欲望の支配下にあるから、
ひともまたかくのごとくであろうと思ってはならない。
自分のうちに悩みがあるから、世界中の人はすべて悩んでいるのだと思ってはならない。

本当に他人の偉大さがわかる者は、自己がそれだけ偉大であるのである。
自分の魂の高揚しただけのものを、われわれは他において見るのである。

釈尊のすぐれた人格を知る者は、自己のうちに存在する釈尊がそれを知るのである。
釈迦やキリストといえども、時には悩み、苦しんだであろうと考える者は、
聖者を引きずり下ろして自己と同等のレベルに置こうとする卑怯者である。

彼は一種のエディプス・コンプレックスの虜囚(とりこ)なのである。
自分よりすぐれた者の存在を知ることが、
自己の驕慢心にとってたえがたい屈辱感になるのである。

われわれは、かくのごとく、ひとを引きずり下ろす醜(みにぐ)き心を去り、
自己があくまでも向上して、美しき人類の理想を成就することによって
聖者と等しきレベルにまで到達しなければならないのである。

大海に溺れつつあるある者どもが、お互いに他を引き下ろして、それによって、
自己が浮き上がろうとするのは醜悪である。

他を賤しめ軽んずることによって、ひそかに自己を偉大ならしめようと努力するくらい
みじめな動物的行為はないのである。他を軽んずることは、自己を軽んずることである。
他を醜くすることによって、まっさきに自己が醜くなるのである。

『従容録』には自分の口を血に染めて他人に吹きかけると書かれている。

常不軽菩薩は、すべての人々を仏様(ほとけさま)だと言って拝んだのである。
釈尊は山川草木国土有情非情すべてことごとく仏なりと観ぜられたのである。
わたしだけが偉大だとも、彼だけが仏で、他は俗物だとも観じたのではなかったのである。

われわれはすべての人々を自己と同等のレベルにまでコキ下ろす劣悪を知っている。
しかしさらにそれよりやや進歩した劣悪として、特定の人々のみを尊敬するが、
他はことごとく”うじ虫”奴(め)らであると思う愚かさを知るのである。

それはただ、自己のうちに、他の偉大さをみとめる美点のあることを誇示し、
それによって自己を偉大ならしめ、さらに他を軽んずる快感をも
同時にむさぼろうとする鵺(ぬえ)的存在である。

山川草木皆これ仏であると拝む仏様からは縁の遠い人々である。

         <感謝合掌 平成24年7月19日 頓首再拝>

躓くごとに反省し、感謝せよ (11421)
日時:2012年07月20日 (金) 04時50分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月20日>(P21)より

われわれはわれわれを躓かしてくれたものに怒ることなく、
かえってこれに感謝すべきである。

われわれは躓くごとに、自分の”内部の故障”に眼を向けて反省しさえすれば、
躓きはかえって内部を浄める指示機となり、
いっそうわれわれを高めあげてくれる動機となるのである。

三界唯心の理は、反省が内面に向かうとき向上の契機を与える。

         <感謝合掌 平成24年7月20日 頓首再拝>

行き届いた「愛」を (11446)
日時:2012年07月21日 (土) 04時47分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月21日>(P25)より

失敗が起こるごとに反省せしめられることは、わたしはまだどこかの点において
「愛」が足りなかったということである。

偏った「愛」はザラにあるけれども、行き届いた「愛」はめったにないのである。

         <感謝合掌 平成24年7月21日 頓首再拝>

神を心に満たせ! (11467)
日時:2012年07月22日 (日) 04時51分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月22日>(P26)より

「神はすべてのすべて・・・」
眼を瞑ってかく念ぜよ。

繰り返し念じつつ自分の周囲に、そして宇宙いっぱいに、そして自分のうちに、
あらゆるいっさいのうちに、神満ちていますという思いをもって心を満たせよ。

ほかに何物をも思念のうちに求めるにはおよばない。

神はすべてであり、いっさいであるからである。

ます神を把握せよ。その人はいっさいを把握するであろう。

         <感謝合掌 平成24年7月22日 頓首再拝>

『全き神のいのち』に浸りきる (11497)
日時:2012年07月23日 (月) 04時19分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月23日>(P26)より

「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き生命(いのち)」と
瞑目して繰り返し繰り返し念ぜよ。

かく念じつつ、神の生命(いのち)が、宇宙全体に、すべてのものの内に、いっさいのものの
内に、そして「自分の内にも充ち満ち、その『全き神のいのち』にすっかり包み込まれ、
それに生かされている」との深い実感のうちに、30分間を浸りきることは極めて尊き
神想観である。

病ある者はすみやかに癒されるであろう。

観中、「病を癒す」などの念を起こす必要はない。
神の生命(いのち)の中に没入しているかぎりにおいて、そこには病は無いのであるから。

         <感謝合掌 平成24年7月23日 頓首再拝>

普遍意識に没入するとき、万事が都合よくゆく (11536)
日時:2012年07月24日 (火) 04時54分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月24日>(P27)より

瞑目精神を統一して、「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き叡智(みちえ)」と
繰り返し繰り返し念ぜよ。そして宇宙全体に、すべてのもののうちに、さらに自分自身の
うちにも、神の智慧充満せりと観じ神の智慧の中に溶け込んでしまうのである。

神はすべてのすべて、全てに行きわたって存在する智慧であるならば、その智慧の中に
没入するとき、われらは知らないものは一つもないのである。

現在意識が何を知らなくともわれらは恐れることは要らないのである。
現在意識は「脳髄」という個別的反射鏡の上に投光された普遍意識(すべてに満ちて
行きわたる智慧)の一部が反射し出されたる反射光にすぎない。

反射光が何を知っていようとも、また、何を知らずにいようとも、自分のうちに宿り給う
普遍意識は”すべて”を知っているのであるから、われらはこの普遍意識の中に没入し、
普遍の智慧と一つになるとき、知らず知らず万事が都合よくゆくのである。

「何でも都合よくゆく」という人は
普遍の智慧を知らず知らず”わがもの”としている人である。

普遍意識は自分のうちにも宿ると同時に、他のうちにも宿るが故に、
自分自身にみならず、他をを知らず知らずに動かしつつ、
万事都合のよい配合にまでいっさいを動かしてゆくのである。

         <感謝合掌 平成24年7月24日 頓首再拝>

神の聖愛(みあい)を観ずる (11577)
日時:2012年07月25日 (水) 04時31分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月25日>(P28)より

今日はさらに、「神はすべてのすべて・・・神は完(また)き聖愛(みあい)・・・」
と念じよう。そしてすべてのものの内に、宇宙全体の神の聖愛(みあい)の充ち満ちていること、
そして自分のうちにも神の聖愛(みあい)が充ち満ちていることを深き精神統一のうちに念じよう。

そして「神の愛に護られ、生かされ、育てられている」ことを念じよう。

すべての不安と恐怖とは、この神の聖愛(みあい)を観ずる神想観によって
消滅してしまうのである。

すべての自己の不安、焦燥がこの神想観によって消滅したとき、その反映として
自分の家族の精神状態が非常に円満になるものである。

そしていっさいが神の聖愛(みあい)で包まれていることを心の底深く知るがゆえに、
感覚的な麻酔的陶酔の必要が消える。飲酒癖、喫煙癖などはかかる心境に達したとき、
本当に自然に、抑制する必要なく剥落する・・・。

         <感謝合掌 平成24年7月25日 頓首再拝>

あらゆるところに神を見出す (11615)
日時:2012年07月26日 (木) 04時29分
名前:伝統


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)<7月26日>(P29〜30)より

神は光である。
わが室(へや)の窓の外に、
神の光は待っているのである。
倦(う)まず撓(たゆ)まず。


わたしはいつまで神がそこにいることに気がつかなかったろう。
神はわたしがその窓を開くのを待っているのだ。
神はいないのではない。
わたしが心も窓を開かなかったのだ。

―― 光はわたしの内にある
だれかが戸を叩いている。
神がわたしの家の門口(かどぐち)に来て戸を叩いているのだ。

わたしは神を求めなかったのに、
神はわたしを求めてい給うのだ。

わたしはなんという親不孝者だったのだろう。
わたしが神の膝に跳びつきさえすれば
すべてはすでに与えられているのだ。


神のないところに生命(せいめい)はない。
神のないところに美はない。
神のないところに智慧はない。
神のないところに愛はない。

生命(せいめい)があり、
美があり、
智慧があり、
愛があるということは、
そこに神が在(いま)すということだ。

すべてのものに、
自分の外(そと)に、
自分の内に。

かくてわたしはあらゆるところに神を見出すのだ。

         <感謝合掌 平成24年7月26日 頓首再拝>

ハーヴィ・S・ハードマン博士の語録より (11645)
日時:2012年07月27日 (金) 07時25分
名前:伝統


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月27日>(P31)より

もし両親が自分の子供たちに対して性の問題を論ずるのに
フランクなうちあけた態度であることができるならば
人類の多くの不幸は除かれたとであろうと考えられるのである。

子供の無邪気さは「性」に関するあやまれるそして粗雑な考えに対して
それを防ぐところの楯をなしているのである。

その純潔なる心が、古い人類がもつところの「性」についての不純なる観念、
性的関係に関する罪についての哲学や神学の脅迫力から自分たちを守るところの
働きをしているのである。

もし父と母とが生殖の法則と人間出生の法則とを汚れなき健全な方法において子供に
説明してやらないで、まるでサンタクロースのおとぎ話の中からでも子供が生まれて来るかの
ように教えるならば、彼らは性的に堕落した青年男女から、最も神聖なる人生の行事を
間違った観念によって植えつけられるおそれがある。

ある宗教家は男女の性的結合を人間の原罪的な性質として恥ずべきことのように教えるので
あるけれども、キリスト教と呼ばれる宗教が二千年もつづいてきた後に、なお人間の性質が
すべてまちがっていると言うならば、その長い間常に人間の心の中に善き教えをふきこんで
きたと称する宗教の教師たちは今すぐに辞職しなければならないであろう。

なぜならその長い時間の間教会はアダの原罪から人間を救うための努力をしてきたので
あるからである。

わたしは人間性は本来正しきものであることを信じ、人間の自然の原理に叶うところの教えが
本当の宗教であり道徳であるのであって、外側ばかり純潔な顔をして不潔な妄想を内部に
はらんでいる人工的宗教は、本当の宗教ではないと信ずるのである。

      (ハーヴィ・S・ハードマン博士の語録より)

         <感謝合掌 平成24年7月27日 頓首再拝>

神のない快楽 (11679)
日時:2012年07月28日 (土) 06時35分
名前:伝統


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)<7月28日>(P32)より

神のない快楽は、根を切った切花のようなものである。

やがてそれは打ち萎(しお)れ、どす黒い苦い苦しみに変わってゆくものである。

         <感謝合掌 平成24年7月28日 頓首再拝>

「心」と「言葉」と「行ない」との一致 (11725)
日時:2012年07月29日 (日) 06時36分
名前:伝統


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)<7月29日>(P32〜33)より

生長の家では、心と言葉と行ないとこの3つが一致しなければならないのである。

「イエス言い給う『なんじらも今なお悟りなきか。すべて口に入るものは腹にゆき、
遂に厠に棄(す)てらるることを悟らぬか。されど口より出(い)ずるものは心より出ず、
これ人を汚すなり』」と「マタイ伝」第15章16節〜19節にある。

またあるところでは「主よ主よと言うもの必ずしも天国に入るに非ず、天の父の御意(みこころ)
を行なう者のみ天国に入るなり」ともイエスは言っている。

口先ばかりでも救われないし、行ないばかりでも救われない。
心が伴った言葉、心が伴った行ないでないと救われないのである。

         <感謝合掌 平成24年7月29日 頓首再拝>

真理は愛の実践を要求する (11754)
日時:2012年07月30日 (月) 04時26分
名前:伝統

    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)<7月30日>(P33〜34)より

はじめに精神科学や光明思想に救われながら、やがてそれに自分が救われなくなり
落伍する人々が多いのはなぜであろうか。

ウィリアム・ジェイムズはその著『宗教的体験の種々相』の中に「最善の悔い改めは神の道を
一心不乱に前進して、今までありし罪と自分との関係についていっさい忘れてしまうことである」
と言っているが、これらの光明思想の落伍者は、神の道に一心不乱に突き進むことを忘れて
いるのである。

「彼らは光明思想に触れる。それによって引き上げられ、それの与える恵福を満喫する。
そしてただそれを受けるだけで、周囲の人々にその恵福を頒ち与えることを忘れ、そして
それゆえにそれを失ってしまう」とボールトン・ホール氏は言っている。

真実確保しうるものはただ他に与えた部分だけであるのである。
ある人が真理に対する理解を得たとする。そしてそれが自分の苦痛や、病気や、不幸を解除
することができたとしてもそれは大したことではないのである。

自己の苦痛や悩みを救うだけに真理が使われるならば、それはただ、利己的目的だけにすぎない。
利己的目的そのことが真理に反いているのであるから、やがてその真理は自殺状態に陥って
自分自身をも救いえなくなるのである。

真理は「私」してはならないのである。
真理を知らされたということは、それを他の人々に伝えるために知らされたのだということを
知らなければならない。

人類のまず目覚めなければならないことは、個々人として孤立した存在ではないという
ことである。われわれは自他一体の存在であるから、この世の中に一人でも不幸な人が存在する
かぎり、真に自分は幸福になることはできないのである。

1本の歯が痛むだけでも全体の肉体は痛むのである。
宇宙全体が一体に自分の生命(せいめい)と連関をもっていると知るとき、その1本の歯にも
比すべき一人の人間が苦しんでいるとき、自分の生命(せいめい)もまた苦しむのである。

「真理とは何ぞや」(「ヨハネ伝」第18章36)とピラトはイエスにきいた。
イエスは黙然である。
それは言葉巧みな講釈ではないのである。

自分を捕えに来た獄吏の耳の傷を癒し、弟子の足を洗い、自分を磔けにした人々の
幸福のために神に祈り、そして従容として十字架につくことである。
かく真理は愛の実践を要求するのである。

愛を実践する者のみ「王」であり、永遠に復活するのである。

         <感謝合掌 平成24年7月30日 頓首再拝>

偉大なる人物 (11785)
日時:2012年07月31日 (火) 06時54分
名前:伝統


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)<7月31日>(P33〜34)より

人が拝み合うほどわたしを喜ばす話はない。
人が愛し合う話ほどわたしを喜ばす話はない。

人が罵り合う話ほどわたしを悲しませる話はない。
人が憎み合う話ほどわたしを悲しませる話はない。

他(ひと)が悪いということに憎みを感ずる者は愚かな者である。

他(ひと)が自分より優れていることを聞いて
素直に喜べる人だけが偉大なる人物である。

         <感謝合掌 平成24年7月31日 頓首再拝>



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