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夢をあきらめない (3596)
日時:2011年07月26日 (火) 20時25分
名前:伝統


☆ なでしこジャパンの奇蹟の優勝

☆ 坂本龍馬をはじめとした「維新の志士」による日本救国

☆ 谷口雅春先生による、人類光明化運動


これらはすべて、「夢を描き、夢を諦めない、夢を追い求め続けた」からの成就でした。

そのなかで、谷口雅春先生はご自分が始められた人類光明化運動に満足し、神界へと
天翔けられました。

さらに、人類光明化運動の発展をお弟子さん方へと引継ぎを行ないました。
引き継がれた弟子があきらめない限り、人類・国家の實相顕現運動(人類光明化運動)
への道のりは続きます。


大切なことは、諦めない、焦らない、夢を描き続けて行動し続けることです。


・・・・・

聖詩「夢を描け」の一節を、次に掲示します。



若きと老いたるとを問わず
兄弟よ、夢を描け、
蜃気楼(しんきろう)よりも大いなる夢を。

夢はあなたの肉体を超えて虚空にひろがり
ひろくひろく宇宙にひろがる雲となって、
あなたをより高き世界へ
あま翔(か)ける大いなる翼となるであろう。


此の翼こそ世にも奇(くす)しき翼である。
夢の奇(くす)しき翼に乗るとき
若きものは向上し
老いたるものは若返る。


兄弟よ、夢の翼を休めるな、
自己を出来るだけ偉大であると想像せよ。

あまり高く翔けのぼることを恐れるな、
躊躇するな、
尻込みするな、自分自身を限るな。

あなたは夢の翼によって肉体の制限(さかい)を超える。
たといあなたが地球にわいた黴(かび)よりもその肉体が小さくとも、
あなたの心は夢をえがくことによって
天地を造った偉大なる心と一つになるのだ。

兄弟よ、
悲しみに打たれるな。
打たれても起き上がれ。

描いた夢が破れても
あなたはまだ夢を描く自由はあるのだ。

自分にはまだ偉大な力が残っていると想像せよ。

夢を描くものにとっては
この世界は常に新天新地である。

・・・・・

              <平成23年7月26日 記>

義足のランナーの場合、 (3612)
日時:2011年07月28日 (木) 06時51分
名前:伝統


今回は、次の動画を紹介いたします。

「あきらめなければ、夢は実現する」、
ということを感じ取ることができるかも知れません。


  島袋勉さん 義足のランナーが残したものは・・・?
  →  http://www.youtube.com/watch?v=hi8LPTw85Q4

              <平成23年7月28日 記>

決して諦めない自分でいたい(1) (3660)
日時:2011年07月31日 (日) 05時56分
名前:伝統

<両足義足のマラソンランナー&ラシーマの社長 島袋 勉氏>の講演情報より

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 両足切断の事故にもかかわらず、やれば出来るという前向きなメッセージ。

 インターネットや、モードを利用した、新規事業に燃えていた平成13年。
 島袋さんは列車に轢かれ、膝下10センチ以下の両脚を切断した。

 重い後遺症と深い失意の中から再起し、現在は会社を経営する傍ら、
 両脚に義足をはめ、フルマラソンに挑戦する島袋さんは
 「人間はやろうと思ってやれないことはない」と語る。

 九死に一生を得て生かされた命をどう使うか。
 その立志、立命についてのお話です。


 島袋氏を紹介した書:『義足のランナー』
  http://www.bk1.co.jp/product/2623594

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 平成16年のホノルルマラソンに参加して、両脚義足のランナーとして話題になりました。
 踏み切り事故に遭って以来、両脚義足になって長い距離を歩くのが苦手でした。

 一度リハビリを兼ねて3キロのマラソンに挑戦したところ、
 たまたま新聞社の方が来ていて、「次の目標は?」と聞かれました。

 中学生の頃からの夢だったので、
 「いつかホノルルマラソンに出てみたいですね」と答えると、
 それが翌日の新聞に載ってしまったんです。

 それから会う人みんなが「いつ出るんですか?」と聞いてくるので、参加を決意しました。
 もともと体を動かすのが好きでしたが、私が本格的に体を鍛え始めたのは、
 怪我をしてからです。

 入院中が一番運動したのではないかな。


 20歳で起業して、自動車のメンテナンス会社を経営してました。
 平成13年、米国のインターネット事情を視察に行き、帰国。
 翌日東京で用を済ませてから、沖縄に帰る予定でしたが、その晩のことでした。

 ただ、ショックのせいなのか、頭を強く打ったせいなのか、
 その2日前からの記憶が全くなくて、ロスでレンタカーを返したところまでしか、
 覚えていないんです。

 だから気がついた時はICUのベッドの上、頭全部に包帯が巻かれ、
 全身にホースが張り巡らされ、寝返りを打とうと思っても打てない。
 おかしいと思って、シーツをパッと捲ったら、
 両脚とも膝下10センチを残し、それより下がありませんでした。
 自分に何が起きているのか、本当に分かりませんでしたね。

 そして不思議なことに、無くなった脚が物凄く痛いのです。
 「幻肢痛」というのですが、脚そのものの痛みではなく、脳が覚えている痛みなんですね。

 いまでも後遺症がありますが、最初のうちはかなりひどくて、
 右足の親指が痛いとか、左足のくるぶしが締め付けられるとか、
 狂いそうになるくらい痛いのですが、痛い箇所に手を出してもないんです。

 ところが、それ以上にひどかったのは、脳障害でした。
 頭を打っているから目に障害が出て、見たものの画像を合成することができなくなりました。
 人の顔が2つに見えたりして、目を覆っていないと、すぐに気分が悪くなってしまうんですね。

 そんなある日、病室に来た看護婦さんが私に向かって、こう言ったんです。
 「運が良かったんですね」
 もちろん、列車に轢かれて一命を取り留めたのだから、いまならその意味もよくわかります。

 しかし、その時は
 「なぜ何もしていないのに、自分だけがこんな目に遭うんだ。なんて運が悪いんだ」
 そんな気持ちでしたから、そのコトバを素直に受け取ることができませんでした。


決して諦めない自分でいたい(2) (3663)
日時:2011年07月31日 (日) 10時09分
名前:伝統

 地元、沖縄に院内で義足を作れる病院が無かったので、
 長野の「身体障害者リハビリテーションセンター」に転院しましたが、
 将来に対する漠然とした不安が拭いきれませんでした。

 リハビリとか言われたことは、一所懸命やるんですよ。
 でも、将来自分がどうなるか分からず、無気力でしたね。
 髭を剃るとか、顔を洗うといった身だしなみを整えることがひどく億劫でした。

 ある日、実家に電話しましたら、母が出て、暫く話していたら、
 「痛い?」と聞くのです。

 そりゃそうでしょう。
 両脚切って、骨を切って痛み止めのクスリを飲んで、座薬も使って、
 それでも治まらないから筋肉注射まで使っているんですよ。


 「それは痛いよ」と答えると、母は、
 「こんな痛い思いをして何も学ばなかったら、ただのバカだよ。アハハハハ」
 と笑いました。


 一瞬、「何を言っているんだろう」と意味がわからなかった。
 でも晩になって、もう一度母の言葉を思い返して、ハッとしたんですね。

 自分は突然こういう体になって、「大変でしょう」「痛いでしょう」という
 同情の言葉に、慣れきっていたのではないか。
 だから無意識のうちに母にもそういう言葉を期待していたんだなぁ、と。


 確かに母の言うとおりです。
 こんな思いをしたのだから何かを学ばなければ、と思うようになってから、
 考え方が変わり、それまで見えなかったものがいろいろと見えてきました。


 センターにはたくさんの身障者がいましたが、
 明るい顔をしている人と、暗い顔をしている人の二通りなんですね。

 ある日、私より1年前に片脚を切断した人と病室でお会いしました。
 その頃、私は社会復帰を目指しリハビリに励み、食事も残さず食べて、
 義足を作るために、その勉強もして、自分なりに一所懸命やっていました。
 片脚とはいえ、脚を失った先輩ですから、
 退院した後の心構えとして聞いてみたんです。

 「できないことはなんですか」と。
 彼は「うーん」と考えて
 「別に何もないよ。ただ、何をやっても、すんごく疲れるけど」と言いました。


 それを聞いた時、自分の頭の中では
 「大変なこと」と「不可能なこと」を区別できていないんだと気づきました。

 頭の中の考え方を、すべて変えなければダメだと思いましたね。


 同時にセンターの中にいて暗い顔をしている人と、
 明るい顔をしている人の違いが分かるようになりました。

 暗い顔をしている人は失った体の機能や、
 それによってできなくなったことばかりを考え、できないことに言い訳をしている。

 それに対して明るい人は、残された機能でできることを考え、
 「これができるようになったから、次はあれができるようになりたい」と
 いつも夢や目標を語っている。

 それまでの私は、心のどこかでいつも失った脚のことを考えていました。
 それではいけない、残された才能をどう活かすのか、と考えるようになり、
 これまで以上に、真剣にリハビリに取り組みました。
 義足の歩行練習を始めたのもそれからです。

 最初はこんなに痛くて、本当に歩けるのかと思いましたよ。
 痛すぎて、体重を全部乗せることができませんでした。
 ほんの少し歩行練習をすると、すぐに義足と接する面に傷ができ、
 それが看護婦さんに見つかると、治るまでは練習をさせてもらえないんです。

 私は早く歩けるようになりたかったから、
 傷ができても看護婦さんたちに悟られないようにして練習しました。
 どちらかというと、傷との闘いというよりは、看護婦さんとの戦いでしたね。

決して諦めない自分でいたい(3) (3665)
日時:2011年07月31日 (日) 10時10分
名前:伝統


 リハビリの合間を縫って、長野にある画家の東山魁夷の記念館へ行きました。

 その時「自分は生かされていると思うようになった」という一節に出会いましたが、
 私もそういうふうに感じ始めていました。

 二十歳で起業してからというもの、事業は比較的順調に伸びてきて、
 ケガをする前は幾つか会社を持っていました。

 やっぱり錯覚するのですね。
 もちろん皆の助けがあるからとは、頭では分かっていながら、
 「自分がいるから」という自負も強かったと思います。


 こういう体になって、初めて心底、「自分は一人で生きているんじゃないんだ」と実感しました。
 だからこそ、早く会社に帰って、また皆と一緒に働きたかった。
 その思いが支えでした。


 会社の経営は実の父に任せていました。
 どうにか義足で歩くことができるようになりましたが、私が経営の場に戻るためには、
 もう一つ乗り越えなければならない大きな壁がありました。
 それは高次脳機能障害です。

 目の障害もそうですが、かなりひどい記憶障害がありました。
 家族が面会に来て席を外すと、今来たのか、席を外していたのかもわからない。
 本や雑誌を読んでも、すっかり忘れてしまうから、翌日また楽しく読めるんです。

 「記憶障害を治すには、どうしたらよいでしょうか」と医者に聞いて、
 「治す方法はありません」と言われた時は、さすがにショックでした。
 脚を失った、脳にも障害がある。

 ただ対症療法はあるというので、すがるような思いで取り組みました。

 とにかくすべて、ノートに書けということです。
 朝、看護婦さんと会話をしたらその内容を書く。
 食事をした、薬を飲んだと、その日の行動を全部書く。

 次の日にしようと思っていることも全部書いて、看護婦さんにチェックしてもらう。
 そしてノートは、必ずベッドのテーブルの上に置くように指示されました。
 別のところに置いたら、もう僕の頭では探せないというのです。

 そんな小学生のような生活を、1年以上続けたでしょうか。
 丁度12月になってボーナスの時期になりましたから、
 ちゃんと払えるかどうか、会社に電話を入れたんですね。

 ところが驚きました。
 電話の向こうからは、ボーナスどころか給料も出せない。
 倒産の準備をする以外道はない、という言葉が返ってきたのです。

 私はすぐ医者を説得して、2日後には沖縄に帰りました。
 1年8ヶ月ぶりの会社に戻り、いろいろと状況を調べましたが、
 自分が知っている、かつての会社ではないような惨憺たるものでした。

決して諦めない自分でいたい(4) (3666)
日時:2011年07月31日 (日) 10時11分
名前:伝統


 ただ、入院していた間に、私はとてもいい習慣を身につけていたんですね。
 記憶障害ですから、気づいたらノートに書く、すべて書く。
 そうして山のように溜まった、会社の悪い点を見て、一瞬「これは大変だな」と思いました。

 しかしすぐに、でもよかったと思いました。
 もしも悪いところがなくて、会社が傾いているならば、立て直すことはできない。
 こんなに改善点があってよかったと思ったんです。


 そして入院中にもう一ついい習慣が身についていました。
 「できること」と「できないこと」を分け、今できることだけをやる。
 できないことでは悩まない。
 そう決めて今度は改善点をたくさん書いていきました。

 父が経営に対して、自信も情熱も失っていることは明らかでした。
 私は交替を申し出ましたが、脳にも、体にも障害がある人間に、
 経営なんてできるわけがない、と父は決めつけていた。

 そこで取締役に意見を求めると、
 「これ以上悪くなることはないだろうから、替わってもいいのではないか」と言います。

 体の状態よりも、「できる」と思っている人間がリーダーになる。
 それが一番だと考えたので、再び私が社長に就任しました。

 金融機関には「これ以上続けても借金を増やすだけだから、潰した方がいい」
 と言われましたが、
 「社長、役員、全部入れ替えますから」と頼んで、最後の1回のチャンスをもらいました。

 ただ、私も二十ヶ月、現場を離れていましたから、正直不安もありましたよ。

 まずは、自信を取り戻す訓練から始めようと思いました。
 その頃は銀行も差し押さえ、社会保険庁も差し押さえという状況で、
 社員からの報告は、大体よくないことです。


 だからまずは、どんなに大変なことを報告されても、絶対に顔が曇らないよう訓練しました。
 社員たちに悲壮感を感じさせてはいけない。
 「大丈夫だよ」と言い続けました。

決して諦めない自分でいたい(5) (3667)
日時:2011年07月31日 (日) 10時12分
名前:伝統


 それから、やはり記憶障害という壁がありましたので、
 自分で言ったこと、報告を受けたことは、全部カードに書いて、
 いつも目につくところに貼るようにしました。

 すると不思議なことに、社内で一番忘れずに、仕事をしているのは、私だったんですね。
 どんなに能力が低くても、基本に忠実であれば、しっかりと仕事ができると思いました。

 もちろん平行して、少しでも記憶力が回復するように、読書でトレーニングもしました。

 1回読んで忘れるなら、2回読む。
 2回で駄目なら、3回で駄目なら10回、10回でも駄目なら100回読もうと挑戦すると、
 6ヶ月後には商談の際、話している最中にメモをとらなくてもよくなったんです。

 終わってから思い返せるようになりました。
 それから3ヶ月後には、1日の終わりに振り返れば十分になりました。
 近頃は殆ど普通の人と変わりません。


 「自分のできること」という基本に従い、規模は縮小しましたが、
 利益の出る体質を作り、倒産の危機は脱しました。
 申告所得は公示対象になるまでに回復しました。

 今でも一番苦手なのが長時間歩くことです。
 30分立ち続けることはできません。

 しかし、自分にとって一番辛いこと、苦しいことができるようになれば、
 何でもできるのではないか。
 どんなに苦しくとも、諦めない習慣をつけたいと思い、挑戦したのです。

 両脚義足で走った人がいたら、情報を得たいと思い、メーカーに問い合わせたところ、
 両脚義足で走った人なんて、聞いたこともないとのことでした。

 「義足でトライアスロンに出ている人がいるじゃないですか」と言うと
 「片脚がない人と、両脚がない人を一緒に考えられたら困ります」と言われました。

 それでも走る方法を自分で考えなくてはと思い、いろいろと考え
 「杖を使えば・・・」と閃きました。
 事務局に問い合わせると車輪がついてなければ、OKということでしたので、
 松葉杖をついて走ることにしました。

決して諦めない自分でいたい(6) (3668)
日時:2011年07月31日 (日) 10時13分
名前:伝統

 ホノルルマラソンに参加を表明した時、
 周りの人達は、何をバカなことをと、いう雰囲気でしたが、
 皆、私の性格を知っていますので、止めても聞かないだろうし、
 やるだけだったら、途中で諦めるだろうという感じでした。

 ところが、いざスタートしたら2キロくらいで脚に傷ができてしまいました。
 汗をかくと皮膚が軟らかくなるから、傷ができやすくなる。

 だから、汗をかくたびにそこで停まって、義足を取って乾かして、
 脚を氷で冷やしました。
 その繰り返しでしたから、停まっている時間が異常に長くて、
 完走するのに、12時間59分29秒、約13時間かかりました。

 いくらホノルルマラソンに制限時間がないとはいえ、
 最後は給水所も撤収、交通規制も解除され、
 段差の激しい歩道を走らなければなりませんでした。

 走れば走るほど脚の痛みが増していく中で、
 すでに完走した一人の外国人ランナーが戻ってきました。

 私は目に障害があるので、妹が伴走してくれていたのですが、
 彼は妹に「一緒に走っていいですか」と聞いてきたんです。
 そして私が走りやすいよう、人や車の交通整理をしながら、伴走してくれたのです。

 ゴールする寸前、夕日が沈むのが、とてもきれいだったようなんですね。
 彼は「見て下さい、すばらしい夕日です。あなたを祝福しているようです」とか、
 いろいろ話しかけてくるのですが、もうこっちは痛みに耐えるのに必死ですから、
 そんなの見ている余裕はない。

 転がるようにしてゴールすると、そこには撤収作業を終えた警察官や、
 消防隊員などが30人くらい待っていてくれて、拍手で迎えられました。

 そしてその時伴走してくれた彼から、クリスタルのグラスをプレゼントされました。
 どうやら彼は一度ホテルに帰り、そのグラスを私に渡そうと思って、
 再び戻って来たらしかったのです。

 私は休みたい一心でしたから、グラスを受け取るだけ受け取って、ホテルへ帰りました。

 翌日家族と「あの外人さん、何だったんだろうね」と話しながら、
 そのまま帰国しましたが、自分の中で、きちんとお礼を言えなかった後悔が、
 だんだんと大きくなってきたんですね。

決して諦めない自分でいたい(7) (3669)
日時:2011年07月31日 (日) 10時14分
名前:伝統


 事務局やら方々に問い合わせて、彼の住所を教えてもらい、
 平成17年6月に、彼の住むロスアンゼルスを訪ねました。

 彼は海兵隊出身の市民ランナーでしたが、
 なぜあのグラスを私に渡してくれたのかと聞くと、こう答えました。

 「海兵隊には、”決して諦めずに挑戦し続ける”というスピリットがある。
 必死で走る君の姿に共通するものを感じ、
 その象徴であるグラスを、受け取ってもらいたかった」

 ホノルルの次に挑戦した、バンクーバーのフルマラソンでは、
 10時間以内に完走することが目標でしたが、結果は8時間40分44秒。
 前回から4時間以上縮めたことになります。

 記録がよくなっていくことも嬉しいのですが、
 私が走る姿を見て「自分もやってみようかな」とか、
 「年だから遠ざかっていたけど、もう一度始めようかな」と
 言って挑戦してくれる人が、増えているそうなんですね。

 自分自身、マラソンを通じて、「諦めない」気持ちの習慣をつけたかったのですが、
 それが周りの人達にも伝わっているのかもしれないと思うと、とても嬉しいですね。

 今後とも、「やりたい」と思ったことは、簡単に諦めたくないですね。

 体にも脳にも障害がある人間が、会社経営をするとか、
 両脚がないのに、フルマラソンに挑戦するとか、
 一般的には非常に難しいと思いますよね。

 しかし、周りがどんなにおかしいと思っても、
 それに近づく努力を続けられる自分でいたいと思います。

 人間は調子のいい時は、夢や希望に燃えますが、
 調子が悪くなると諦めてしまう人が多い。
 それは障害があるなしに拘わらず、誰にでも言えることですよね。

 どんなに状況が厳しくても、諦めない心の習慣を、自分は身につけたいと思うし、
 一人でも多くの人に、そうなって欲しいと思います。

 私は事故に遭った時たくさんの人から、多くの気づきと学びをもらいました。

 「両脚がないなんて、自分はまだ軽い」と思うくらい、
 大変な障害がありながら明るく生きている人がいる。

 彼等が「時間がかかっても、格好が悪くても、人間はやろうと思えば何でもやれる」
 と教えてくれたように、

 私も自分の生きる姿を通して、多くの人達に、「諦めない心」を伝えていきたいです。


 <参考Web: 義足のランナー 島袋勉さんインタビュー >
         http://www.youtube.com/watch?v=IQJeh5tBpaQ&NR=1

              <平成23年7月31日 記>



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