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本流宣言掲示板


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母の大恩 (964)
日時:2011年05月04日 (水) 08時32分
名前:伝統

”童子 さま”のたてられてスレッド「慈母観世音 (947)」に触発されたこともあり、
また、5月8日が「母の日」であることもあり、このスレッドでは「母」に関する情報を紹介して
参ります。

・・・・・・・・・・・・・

*”童子 さま”のスレッド「慈母観世音 (947)」西村陽吉氏の歌から、

  「乳足らひし母にませどもおもかげの母を知らずてくやしかりけり」

  「吾生まして乳足らひし母のおもかげを知るすべしらに歎かひにけり」

  「冬の日のぬくき陽ざしまさしくも吾をはぐくみし母はいまはなし」

  「たらちねの母を恋ふときおもかげに立ちてきたまふ慈母観世音」

  「わが母や慈母観世音のすがたしてここに立たすををろがみまつる」


   *”童子 さま”許可なく、ここに再掲しましたことをお許しください。

・・・・・・・・・・・・・

 *以下は、仏教詩人・坂村真民さんの「母の大恩」という記事です。
    (月刊誌『致知』1987年8月号より)


私が詩を書くのは、母の大恩を思うたび、
詩に精進することによって、 少しでも恩を返したいからです。

母に関して、私にはいまだに忘れられない夢のような美しい思い出があります。

それは、まだ幼い私をおんぶした母が、田んぼの中にある共同墓地に行き、
「乳が多くて」「乳が出すぎて」といいながら、乳も飲めずに死んでいった童男、童女の墓石に
白い乳をしぼってはかけ、しぼってはかけて拝んでいる姿です。

体格のよかった母は、私の妹に飲ませて、
なお余りあるほど乳が出ていたんでしょうね。
本当にたらちねの母という言葉通りの大きい乳でした。


(インタビュアー:それは先生がおいくつくらいのときですか)


4歳くらいです。
ぼくはいまでも、その墓地で、おふくろが
乳をかけて回っている姿がはっきり浮かんできます。


「これはなあ、乳も飲まんで死んでいった子よ。だから、乳を飲ませてあげるのよ」
というて。

私は、母がよう4歳の私を連れていってくれたと思うんです。
私が今日信仰をしっかりと持つことができたのは、
深く掘り下げていくと、ここに行き着く。

だから、私は若い母親たちに必ず、いうんです。
こういうことは見たことも聞いたこともないだろうが、
しなさいや、と。

そしたら、子どもが見とる。
それだけ見せたら、あと、しつけもなにもいらん、と。

だから、幼い子になにを刻みつけてくれるかということ、
三つ子の魂の中に、なにを注ぎ込んだかということです。

(インタビュアー:
 先生は、そのお母さんの姿を詩になさっていますね。一部紹介しますと)



  そういう母の思い出のなかで

  私が今も忘れないのは

  乳が出すぎて

  乳が張りすぎてといいながら

  よく乳も飲まずに亡くなった村びとの幼い子たちの小さい墓に

  乳をしぼっては注ぎしぼっては注ぎ

  念仏をとなえていた母の

  美しい姿である

  若い母の大きな乳房から出る乳汁が

  夕日に染まって

  それはなんとも言えない絵のような

  美しい母の姿であった



母との最後は「木葉(このは)」という小さな駅で、
私を見送ってくれたときです。

そのときはこれが最後とは思っていませんでしたが、
列車が来るまでにベンチに一緒に腰をかけてた私たちの前に、老夫婦が腰かけていました。

私は四国に帰ったら、当分来れないから いろんな話をしよったら、母が私をつつくんです。


「黙っとんなさい、向かいの夫婦の話を聞くんだ」

と。それは、その老夫婦が、娘が離婚されて帰ってくる、そのつらさを二人で話しよるんですね。

そういう人たちの話、世の中のいろんな人の苦しみ悩みに耳を傾けるんだ、と。
しんみり聞いとくんや、と。

これも、おふくろがぼくに最後に示した教えです。
大慈大悲というのはこれだと思いましたね。
そういうおふくろは、やっぱり偉いなあと思いましたね。

           <平成23年5月4日 記>

「僕を支えた 母の言葉」  (976)
日時:2011年05月05日 (木) 12時33分
名前:伝統


泣ける感動ムービー 「僕を支えた 母の言葉」
http://www.youtube.com/watch?v=G_BonPLOkdk&feature=related


母親の観る目で、子どもは立ち直れる。

「お前は素晴らしい」、この言葉が子どもを支える。


もしも、もう一度あなた(母)に会えるなら伝えたい、
たったひと言伝えたい 「ありがとう」「ありがとう」・・・

         <平成23年5月5日>

「杜子春」 〜芥川龍之介 (1012)
日時:2011年05月06日 (金) 11時13分
名前:伝統

▼「心配しなくてもいいよ。私たちはどうなっても、おまえさえ 幸せになれるのなら。。。」

 母親の声がする。杜子春は、老人との約束を破って、「お母さん」と叫んでしまう。。。

▼芥川龍之介の『杜子春』は、教科書にもよく載せられているので、
 知っている人も多いのではないでしょうか。

 しかし、結末の、この母の言葉の重さは、容易に読み切れるものではありません。
 あらすじを追ってみましょう。

 ・‥…━━━☆


▼中国の唐の時代のことである。都の西の門の下に、貧しい青年が、ぼんやり立っていた。

 杜子春である。
 そこへ、老人が現れ、「おまえは何を考えているのだ」と言葉をかけた。

 「私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです」

 「そうか。それはかわいそうだな。では俺がいいことを一つ教えてやろう。。。」

 老人は杜子春に黄金が詰まっている場所を教えた。

 彼は、一日のうちに、都で一番の大金持ちになった。
 すぐに立派な家を買って、皇帝にも負けないくらい贅沢な暮らしを始めた。

 すると、今までは道で会っても挨拶さえしてくれなかった友達が、毎日、遊びに来るようになった。

 都の有名人で杜子春の家へ来ないものは一人もないくらいだった。

 彼は、いい気になって、毎日、酒盛りを続けた。

 しかし、お金には限度がある。
 働かずに贅沢ばかりしているので、次第に貧乏になっていった。

 そうすると、これまで遊びに来ていた友達が、挨拶さえしてくれなくなった。

 薄情なものだ。

 3年たって一文無しになると、この広い都の中で、一杯の水を恵んでくれる者さえいなくなった。

▼途方に暮れた杜子春は、以前と同じように都の西の門の下に立っていた。

 するとまた、あの老人が現れ、杜子春に黄金の在りかを教えた。

 彼は、天下第一の大金持ちになったが、前回と同じ結末を迎えてしまったのである。


 三たび都の西の門の下へ。

 やはり老人が現れ、黄金を与えようとしたが、杜子春は断った。

 「人間というものに愛想が尽きたのです。人間は皆薄情です。
 私が大金持ちになった時には、みんなペコペコして、お世辞を言いますが、
 いったん貧乏になってごらんなさい。

 優しい顔さえ見せてはくれません。
 そんなことを考えると、
 たとえもう一度大金持ちになった所で、何にもならないような気がするのです」

 
 続けて杜子春は、老人に訴えた。

 「あなたは仙人でしょう。私を弟子にしてくださいませんか」

 意外にも、仙人は簡単に引き受けてくれた。
 二人は、仙人の修行をするために峨眉山へ向かう。


 杜子春を岩の上に座らせて、老人は、厳しく言いつけた。


 「いろいろな魔性が現れて、おまえをたぶらかそうとするだろうが、
 たとえどんなことが起ころうとも、決して声を出すのではないぞ。

 もし一言でもしゃべったら、おまえは到底仙人にはなれないものと覚悟しろ。
 よいか。天地が裂けても、黙っているのだぞ」


 「決して声なぞは出しません。命がなくなっても、黙っています」
 杜子春は誓った。


▼やがて、彼の前に、虎や大蛇などが現れ、

 「そこにいるのは何者だ。返事をしないと命はないぞ」と脅迫してきた。

 沈黙を守る杜子春は殺されて、地獄の底へ落ちていく。


 閻魔大王は、雷のような声で

 「こら、その方は何のために、峨眉山の上で座っていた!」と怒鳴りつけた。

 しかし、杜子春は返事をしない。


 怒った閻魔は、剣の山や炎の谷など、あらゆる地獄の責め苦を与えたが、
 彼は、一言も口をきかなかった。


 あきれた閻魔大王、
 「この男の父母は、畜生道に落ちているはずだから、早速ここへ引き立ててこい」と
 鬼に命じた。


 間もなく連れてこられた二匹のやせ馬を見て、杜子春は、肝がつぶれるほど驚いた。
 姿形は馬でも、顔は夢にも忘れない、死んだ父母ではないか。


 閻魔は叫ぶ。

 「こら、その方は何のために、峨眉山の上に座っていたのだ。
 白状しなければ、今度はその方の父母に痛い思いをさせてやるぞ」

 鬼どもは鉄のムチで、二匹の馬を容赦なく打ちのめし始めた。

 ムチはりゅうりゅうと風を切って、所嫌わず雨のように、馬の皮肉を打ち破る。


 馬になった父母は、身もだえして、血の涙を浮かべ、苦しそうにうめいている。

 とても見ていられない。

 「どうだ。まだ白状しないか」

 閻魔大王が杜子春に言った時には、
 二匹の馬(父母)は、肉が裂け骨は砕けて、息も絶え絶えであった。


 杜子春は、必死に、老人との約束を守ろうとして、固く目をつぶっていた。

 するとその時、彼の耳に、ほとんど声とはいえないほどの、かすかな声が伝わってきた。

 「心配しなくていいんだよ。私たちはどうなっても、おまえさえ幸せになれるのなら、
 それより結構なことはないのだからね。
 大王が何とおっしゃっても、言いたくないことは黙っていていいんだよ」


 それは確かに懐かしい、母の声に違いなかった。

 杜子春は思わず、目を開けた。

 母は力なく地上に倒れたまま、悲しそうに彼の顔へじっと目をやっている。

 母はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、
 鬼どものムチに打たれたことを、恨む気色さえも見せない。


 大金持ちになればお世辞を言い、貧乏人になれば口も聞かない世間の人に比べると、
 何というありがたい志だろうか。  何というけなげな決心だろうか。

 杜子春は老人の戒めも忘れて、転ぶようにその側へ走り寄ると、
 両手に半死の馬の首を抱いて、はらはらと涙を落としながら、「お母さん」と一声叫んだ。



▼杜子春は、夢が覚めたように、夕日を浴びた都の西の門の下に、ぼんやりたたずんでいた。

 すべてが峨眉山へ行く前と同じであった。

 老人は厳かな顔で、杜子春に言った。

 「もしおまえが、ムチを受けている父母を見ても黙っていたら、
 俺は即座におまえの命を絶ってしまおうと思っていたのだ―」


 ・‥…━━━☆


▼果たして、この物語は、子供向けに書かれたものなのだろうか。
 二匹の馬を、「親の心」に置き換えてみる。

 親の心に、鉄のムチを振るってきたのは誰だろう。

 親の心が泣いているのに、目をつぶってきたのは誰なのか。

 皮が破れ、骨が砕けるような仕打ちを受けても、
 「おまえさえ幸せになるなら」とほほえんでくださる方が、「親」以外にあるだろうか。

 『杜子春』は、本当は怖い話なのだ。

 見たくもない己の心の姿を、芥川は、描き出したに違いない。


▼閻魔大王の叱責は、まさに、わが身に向けられているようだ。

 「この不幸者めが。おまえは父母が苦しんでも、
 自分さえ都合がよければ、いいと思っているのだな」


  *出典は、「親のこころ」木村耕一(編著)です。

         <平成23年5月6日>

”姥捨山” (1023)
日時:2011年05月07日 (土) 10時07分
名前:伝統

(姥捨山は、昔から語り継がれていた素晴らしい話ですが、
 その内容は、語り継がれた地方によって、少しずつ異なります。
 以下に紹介するのは、その一例です)


 昔、信濃国に、老人が大嫌いな殿様がいた。

 「年寄りは汚い。見るのも嫌だ」と言って、
 「70歳以上のものを島流しにせよ」  と、無慈悲な命令を出した。

 島には食べ物がないので、流された人は皆、すぐに死んでしまった。

 
 この国に、70歳を迎えた母を家の中にかくまっている一人の男がいた。

 大恩ある母を守りたい。

 しかし、見つかったら自分も殺されるかもしれない。
 日に日に不安が高まっていった。


 「いつ、役人が調べに来るか分からない。
 どうせ島流しに遭うくらいなら、お母さんを山の奥へ捨ててこよう。
 そうすれば俺も殺されなくてすむ。申し訳ないが、仕方がない・・・」


 ちょうど十五夜であった。

 満月が、山や野を照らしている。
 男は、母の側に、そっと座った。

 「お母さん、月がきれいですね。山の上で、月見をしましょうか」

 「山にはとても登れないよ、縁側で十分さ」

 「大丈夫です。私が背負って行きますから」


 親子の影が一つになって山道を登っていく。
 背中の母は、ポキポキと木の枝を折っては、しきりに道へ捨てていた。

 「なぜ、木の枝を折っているのですか」

 尋ねても、母は、笑っているだけだった。

 森を抜け、谷を越えて、山の奥地に着いた。
 男は、母の顔を見つめながら、ポロポロと涙を流した。

 「どうしたんだい」
 母は、優しく語りかける。

 男は、両手を突いて謝った。

 「お母さん、申し訳ありません。ここに来たのは、月見のためじゃありません。
 実は、お母さんをだましたのです・・・。どうぞ堪忍してください」

 すると母は静かに言った。

 「ちゃんと分かっていましたよ。私のことは心配しなくてもいいから、おまえこそ、
 体を大事にしておくれ。おまえが帰る時に、道に迷ってはいけないと思って、
 木の枝をところどころに捨てておきました。枝のある道を捜して早くお帰り・・・」

 わが子は母を捨てようとしているのに、それでも、案じ続けてくださる母であった。

 男は泣かずにおれない。

 母が心配したとおり、男は、何度も道に迷いそうになった。
 深夜、こんな山奥で遭難したら、それこそ命がないだろう。

 「もうだめか」と思った時に、不思議と母が目印に折ってくれた木の枝を見つけることが
 できた。

 その枝のある方へ、ある方へと下りおりていくと、無事に、家へ帰り着いたのである。

 男は、山の上の月を眺めながら泣いていた。

 「母は、いつも、俺のことばかり心配してくれていたではないか。
 それなのに、俺は、どれほど母のことを思っていたであろうか・・」

 自分に対する怒りと悲しみの情に耐えられなくなり、男は、再び、山へ向かった。


 母は、目をつぶって同じ場所に座っていた。

 「お母さん、私が悪うございました。
 どんなことがあろうとも、お母さんを捨てることはできません。
 これまでどおり、お世話させてください」

 母親を背負って家に帰ったのであった。


 やがて、信濃国の殿様の所へ隣国から、
 「灰の縄を作ってもらいたい。できなければ、貴国の領土をもらう」
 と宣戦布告状が届いた。

 隣国は強い。攻め込まれたら必ず負ける。

 しかし、灰で縄など作れるはずがない。 困った殿様は、国中から妙案を募った。

 しかし、期限が近づいても、誰一人、いい知恵が浮かばなかった。

 いよいよ戦争かと、あきらめかけていた時に、
 母をかくまっている男が、灰の縄を、城へ持ってきた。殿様は大喜び。


 「どうやって作ったんだ」

 「縄に塩を塗ってから焼きますと、形が崩れずに灰になります」

 「偉い、偉い、約束の褒美を取らせる」

 男は、母から教わったとおりに作っただけだった。


 再び、隣国から使者が来た。

 「使いの者に持たせた玉に絹の糸を通してもらいたい。できねば信濃を攻める」
 という書状を携えている。

 玉には小さな穴が開いており、曲がりくねって向こうへ貫通していた。

 殿様は驚いた。

 「こんな曲がりくねった穴に糸が通るはずがないではないか」

 また国中からよい考えを募った。

 すると前回と同じ男が現れ、絹糸の先にアリを結んだ。
 そして玉の一方の穴に蜂蜜を塗り、もう一方の穴からアリを入れた。

 アリは蜂蜜のにおいに引かれて穴の中を進んでいく。
 とうとう、糸を引っ張ったまま反対側の穴から出てきたのである。

 殿様は感心してしまい、

 「おまえの望みは何でもかなえてやろう」と言った。


 母から教わったとおりにやっただけである。

 本当のことを言って、母の命を助けてもらおうと思ったが、怖くなって言えなかった。


 しばらくすると、また、隣国から書状が届いた。

 「ひとりでに音のする太鼓を作ること。できなければ、攻め込む」

 前回以上の無理難題であった。

 
 殿様は、三たび国中に呼びかけた。

 この難問を解いたのは、やはり、母をかくまっている男、ただ一人であった。

 母から教わったとおりに作った太鼓を二、三回左右に振ると、
 ドンドン、ドンドンとひとりでに音が鳴り出す。

 「太鼓の革を張る前に、カナブンをたくさん入れました。
 太鼓を振ると、カナブンがビックリして飛び跳ねます。
 中で太鼓の革にぶつかるので音が出るのです」

 男の説明に、殿様は感心した。

 「おまえは、国中で一番の知恵者だ。さあ、望みの物を言え、何でもやる」


 男は、今度こそ、と決意した。

 「私は、品物は頂こうと思いません」

 「では、何が欲しいのか」

 「どうか、母の命をお助けください。母は、今年70でございます」

 「70ならば、もう島流しにしたはずだ。とっくに死んだであろう」

 「実は、家の中にかくまっておりました」


 恐る恐る言うと、殿様は、激怒した。

 「けしからん。わしの命令に背いたのか!」

 「どうか、今度の手柄に代えて、母の命をお助けください。
 年寄りの知恵は、いろいろなことをよく知っていますので、貴重なものであります」

 「バカを言え、老いぼれに、そんな価値があるか」

 「実は、灰の縄も、玉の糸も、ひとりでに鳴る太鼓も、
 みんな母に教えられて作ったものでございます」


 これを聞いて、殿様も、じっと考え込んでしまった。
 やがて、静かな声で言った。

 「そうであったか。年寄りというものは、なかなか役に立つものだな。
 隣国からの難題を逃れられたのは、全くおまえの母のおかげだった。

 年寄りを嫌って島流しにしたのは、わしの間違いだった。
 おまえの母の命は助けてやる。
 年寄りを島流しにすることも、今日限り撤廃する」


 さすがに傲慢な殿様も、改心せざるをえなかった。

 隣国も、この国には知恵者がいると恐れて、攻めることをあきらめたという。

 「姥捨て」の伝説は、各地に残っている。
 そこには、息子の帰り道を案じて、目印に木を折る親の姿が描かれているものが多い。

      <メルマガ「いい話(080914/080915)」より>

 <参考Web:姥捨山
  http://www.geocities.jp/widetown/otona_20.htm >

         <平成23年5月7日>

【母の日】 ありがとう おかあさん (1035)
日時:2011年05月08日 (日) 02時08分
名前:伝統

今日、5月8日(日曜日)は、【母の日】。

お母さんに、カーネーションとともに、感謝の言葉を伝えましょう!

霊界のお母さんには、感謝の想いを送りましょう!



You Tube
 ありがとう おかあさん
  http://www.youtube.com/watch?v=DwpJx4z0Xhg

         <平成23年5月8日>

親の大恩 (1144)
日時:2011年05月11日 (水) 07時00分
名前:伝統

お釈迦さまは、次のように説かれております。

「父に慈恩あり、母に悲恩あり、父母の恩重きこと、天の極まり無きが如し」


私たちは、両親から非常に大きな恩を受けています。

その恩に十種あると、お釈迦さまは『仏説父母恩重経』に説かれています。


親の恩「親の大恩十種」

(1)懐胎守護の恩〜この世に誕生するまで受けた恩
(2)臨生受苦の恩〜この世に誕生する際に受けた恩
(3)生子忘憂の恩〜子供の健康を一心に念ずる親の恩
(4)乳哺養育の恩〜睡眠時間を削りながら母乳で育てられた恩
(5)廻乾就湿の恩〜おねしょした際に受けた恩
(6)洗潅不浄の恩〜汚れたおむつ・服を洗ってもらった恩
(7)嚥苦吐甘の恩〜子どもの発育を優先してもらった恩
(8)為造悪業の恩〜悪行をしてまでも守ってもらった恩
(9)遠行憶念の恩〜子どもの遠出の際心を配ってもらった恩
(10)究竟憐愍の恩〜老いても、慈しみを受けた恩

 <参考Web:漫画「父母恩重経」>
  http://byoung.tulip-k.jp/comic/hubo/index.html


ただし、この「親の大恩十種」は、お釈迦さま在世当時の時代背景があっての
「親の大恩十種」であることをご理解願います。

           <平成23年5月11日 記>

峻厳なる「母の愛」 (1216)
日時:2011年05月12日 (木) 04時32分
名前:伝統


峻厳なる「母の愛」〜「13歳で知った母の真実」
       
  *月刊誌『致知』(2011年6月号)より〜西村滋(作家)


 僕は幼少期に両親を結核で亡くしているんですが、まず母が6歳の時に亡くなりました。

 僕は両親の愛情をいっぱいに受けて育てられた。
 殊に母親の溺愛は近所の物笑いの種になるほどだった。

 しかし、物心のついた時から、なぜか僕を邪険にして邪険にして、
 嫌なお母さんだったんですよ。
 散々いじめ抜かれて、憎まざるを得ないような母親でした。


 これは後で知ったことですが、
 母は僕に菌をうつしちゃいけない、傍へ寄せつけちゃいけない、という思いでいたようです。
 
 本当は入院しなきゃいけない身なんですが、そうなれば面会にも来させられないだろう。
 
 そこで母は、どうせ自分は死ぬのだから、
 せめてこの家のどこかに置いてほしいと父に頼み込み、離れを建ててもらったそうです。

 僕はそこに母がいることを知っているものですから、
 喜んで会いに行く。するとありったけの罵声を浴びせられ、物を投げつけられる。
 
 本当に悲しい思いをして、だんだんと母を憎むようになりました。
 母としては非常に辛い思いをしたんだと思いますよ。


 それと、家には家政婦がいましてね。
 僕が幼稚園から帰ってくると、なぜか裏庭に連れて行かれて歌を歌わされるんです。
 
 「きょうはどんな歌を習ってきたの?」と聞かれ、いくつか歌っていると
 「もっと大きな声で歌いなさい」 なんてうるさく言うから嫌になったんですがね。
 
 これも母が僕の歌を聞きながら、成長していく様子を
 毎日楽しみにしていたのだと後になって知りました。


 僕はそんなことを知る由もありませんから、母と死に別れた時もちっとも悲しくないわけね。

 でも母はわざとそうしていた。
 病気をうつさないためだけじゃない。

 幼い子が母親に死なれて泣くのは、優しく愛された記憶があるからだ。
 憎らしい母なら死んでも悲しまないだろう。
 
 また、父も若かったため、新しい母親が来るはずだと、考えたんでしょうね。
 継母に愛されるためには、実の母親のことなど憎ませておいたほうがいい、と。
 
 それを聞かされた時は非常にびっくりしましたね。


 私がそれを知ったのは、孤児院を転々としながら非行を繰り返し、
 愛知の少年院に入っていた13歳の時でした。
 
 ある時、家政婦だったおばさんが、
 僕がグレたという噂を聞いて駆けつけてくれたんです。
 
 母からは20歳になるまではと口止めされていたそうですが、
 そのおばさんも胃がんを患い、生きているうちに本当のことを伝えておきたいと、
 この話をしてくれたんですね。

 家政婦のオバサンはなぜ母が鬼になったのかを話した。
 死の床で母は家政婦のオバサンに言ったのだ。

 「私は間もなく死にます。あの子は母親を失うのです。
 幼い子が母と別れて悲しむのは、優しく愛された記憶があるからです。

 憎らしい母なら死んでも悲しまないでしょう。

 あの子が新しいお母さんに可愛がってもらうためには、
 死んだ母親なんか憎ませておいたほうがいいのです。
 そのほうがあの子は幸せになるのです」


 僕は話を聞いて呆然とした。
 僕はこの13歳の時にようやく立ち直った、と言っていいかな。

 あぁ、俺は母に愛されていた子なんだ、
 そういう形で愛されていたんだということが分かって、とめどなく涙が溢れてきました。

           <平成23年5月12日 記>

”大恩に報いるには”〜父母恩重経から (1287)
日時:2011年05月13日 (金) 04時50分
名前:伝統


私たちは、親に大恩を受けていますは、このような大恩を受けておりながら、
どんなご恩返しが出来ているでしょうか。


 「用事があって息子を呼ぶと、目をむいて怒る。
 妻子も罵倒し辱め、頭を垂れ薄笑いをうかべる。
 妻子ともに不孝であり、夫妻ともに大罪を造っています」

急用で呼んでも、子は10回中9回までは無視します。

 来ても頼み事を引き受けないどころか、

 「おいぼれ、早く死んだらどうだ」 と腹を立てるのです。

 そんな言葉を聞いて、両親は
 「お前は誰のおかげで大きくなったと思っているのか。こんな
 ことなら産まねばよかった。育てねばよかった」
 と恨み悲しみ、涙を流すのだと説かれているのです。

 これは、2600年前のインドだけの話ではないですね。
 今日もまったく変わらぬ浅間しい我々の姿ではないでしょうか。。。

 ほんとぴったりそのまま現代の家庭内を言われているようで身につまされますね。


 
○聞法していた阿難というお弟子が服装を整え、

 「お釈迦様、天の極まりなきが如き親の大恩に、どう報いればよいのでしょうか。
 お教えください」

 と、報恩の道を尋ねました。


 それに対して釈迦は、外出して、時新の甘果(旬の果物など)を頂けば、
 帰宅して父母に見せなさい。

 喜ぶ両親は申し訳なく思い、まず仏さまに供養して聞法心を発こすであろう。


 両親が病気になれば、病床を離れず、自ら看病して、血のつながらぬ他人に任せてはならない。

 時間を見て、便を尋ね、食事を勧めなさい。
 親が眠れば、呼吸をうかがい、覚めたら、医師に尋ねて薬を与えよ。

 日夜、仏さまを礼拝し、病の全快を願い、報恩の気持ちを忘れるな。


 阿難尊者が尋ねます。
 「世尊よ、出家の子、能く是の如くせば以って父母の恩に報ると為すか」

 すると釈迦は、
 「否。未だ以て父母の恩に報ると為さざるなり」


 と否定なされ、続いて、悪事を働く親に、子のとるべき道を教導されます。


 仏法を聞かず、無慈悲に殺生を重ね、正義に反して物を盗み、倫理に反し浮気をしたり、
 他人を欺き、酒におぼれる親には、諌めて善導せよ。

 諌めても悪を止めない親には、世間の事例を示し、因果の道理を説いて、
 悪果を招かぬようにせよ。


 それでも、悪をやめない親にはどうするか。

 「態度を改めぬときは、手をついて泣き、断食して諌めよ。
 さすれば、いかに頑迷な親でも、衰弱する我が子の姿に、
 決心して悪を恐れ光に向かうであろう」


 最後に、お釈迦様は、結論を言われます。

 「汝ら大衆能く聴けよ。父母のために心力を尽して、有らゆる佳味・美音・妙衣・車駕
 ・宮室等を供養し、父母をして一生遊楽に飽かしむるとも、若し未だ三宝(仏法)を
 信ぜざらしめば猶以て不孝と為す」


 (大衆よ、どんなに心を尽くして、父母にあらゆるご馳走をふるまい、美しい音楽、
 すばらしい衣装、立派な車、宮殿のような家を与えたとしても、仏法を伝えなければ、
 仏弟子としては、なお不孝といわれねばならぬのだ。

 ゆえに、両親に真実の仏法を伝えて、この世も未来も絶対不滅の幸福に導入することが、
 真の孝行なのだ)

 と教えてられています。


 これは、佳味、美音、妙衣、車駕、宮殿などの孝行を否定されたのではありません。

 これらもとても大事なことですが、
 その上で最高の孝行の道を説かれたのが、『父母恩重経』なのです。

   *メルマガ「ちょっといい話(080601)」より

  『父母を喜び敬うものの家は、仏や神の宿る家である』

         <平成23年5月13日>

ご指摘に感謝申し上げます。 (1296)
日時:2011年05月13日 (金) 12時26分
名前:伝統

”祝 生長の家本流復活 さま”ありがとうございます。
そろそろ、本格的に、お出ましする頃ではないかと、期待しておりました。(笑)


>パソコンの画面に向かい、一字一字、心をこめてタイピングされるお姿がありありと
 浮かんで参ります。


 ありがとうございます、ご指摘のとおり、最近は、「生長の家“本流宣言”掲示板」に捕まって
 しまい、「生長の家“本流宣言”掲示板」オタク状態です。(お笑いですね)


 そうは言っても、そんな長い時間、パソコンに向かって、タイピングしているわけでも
 ありません。

 


>木村耕一『親のこころ』とあるのを認め、せっかくの感動が多少損なわれてしまいました。
 『親のこころ』という書名を認めてがっかり致しましたのは、なにを隠そう、
 この著者といい、出版元といい、統一協会と並ぶ「大学生の親泣かせ」カルトである富山県下の
 某教団に深く関係しているからでございます。



 そうですか、”祝 生長の家本流復活 さま”を不愉快にしてしまい、まことに申し訳けなく、
 お詫び申し上げます。

 ネット上で、そういう噂が流れていることは知ってましたが、
 その真実については、愚生にはわかりませんので、ここでは触れることはできません。

 また、編者である「木村耕一さん」がどのようなお立場の人であるかについて、
 愚生には知るよしもないのですが、結果として、”祝 生長の家本流復活 さま”を不愉快に
 してしまったこと重ねてお詫びいたします。


 ここでは、 編者である「木村耕一さん」の言行不一致を指弾している
 ”祝 生長の家本流復活 さま”には、申し訳ないのですが、
 愚生の見解を以下に申し述べさせていただきます。

 


 この世の中においてのそれぞれの事象には、必ず光と闇が交錯しております。
 その中から、闇を排除し若しくは薄め、光の部分をいかに抽出するかという姿勢を
 堅持してきております。


 さて、”祝 生長の家本流復活 さま”ご指摘の書は、幾種類かのシリーズとして発行
 されており、愚生は、そのほとんどに目を通しております。

 この書の内容の良さは、昔からの良い話を集め、編纂しているところにあります。
 無論、集められた話には、編者の取捨選択があるのは勿論のことでありましょう。

 しかし、個々の話自体は、古から伝えられてきたものであり、多少の脚色はあっても、
 基本的には、多くの方々の目と時間を経て、現在に伝え残されてきたものであります。

 今回紹介した話の内容自体も、この書の編者の頭から生み出されたものではありません。

 愚生のこの書に対する姿勢は、誰が編集したというところには、ほとんど関心を持って
 おらず、内容が真実もしくは真理から判断したらどうか、人の心琴線に触れることができるか
 どうかに力点を置いております。


 そう意味で、今後も、よい話であれば、紹介していけれればと考えておりますので、
 ご理解いただきますようお願い申し上げます。

 その中で、”祝 生長の家本流復活 さま”が愚生に要望されている点について、
 必要があれば反映していくことは勿論のことと捉えております。

         <平成23年5月13日>

お礼! (1366)
日時:2011年05月14日 (土) 17時25分
名前:伝統

”「谷口雅春に訊け」ブログ管理人 さま”ありがとうございます。

>なお、貴殿ご投稿のご文章でありますが、
 後日弊ブログにて掲載させて頂く事は可能でしょうか。
 愚生蔵書にはかの文章、見当たらぬ次第でありまして
 ・・・ご快諾頂けますと幸いです。


 愚生の投稿した資料の活用はOKです。
 ただし、引用元を明示している場合は、その引用元の明示もお願いいたします。

 それから、このサイトでは、以前の「生長の家本流復活掲示板1」にて、愚生以外
 の投稿者の資料を、この「生長の家”本流宣言”掲示板」に行きがかり上、それを明示
 して活用しているケースがありますが、その場合は、元の投稿者の了解を得る必要
 があると思われます。


><木下惠介による「陸軍」挿入歌に関し>
 あのシーン(06:58)で流れる挿入歌ですが、
 この歌詞はご存知ないでありましょうか?



申し訳ないのですが、お尋ねの「挿入歌」については、判りかねますが、
関心はあります。この歌の「題名」は何と言うのでしょうか?

木下惠介監督が、数ある軍歌の中から選んだものでしょうから、
非常に興味があります。

どなたか、わかる人があれば、お教えくだされば、幸いです。

・・・・・・・

さて、以下は全く関連がないのですが、その昔、本部練成道場で歌われていた
愛唱歌を紹介いたします。(今、どのように活用しているかどうかは不明ですが)


われら愛す
http://www.youtube.com/watch?v=tqpdhmynALE

愛国の華
http://www.youtube.com/watch?v=vkER85s_W2U&feature=related

青年日本の歌 〜(歌詞のみになりますが、)

(1)黎明告げる東(ひんがし)の
   空紅に輝きて
   聖なる教え生まれし地
   ここ日の本に生を享け
   高き理想の実現に
   誠捧げて進みゆく
   あゝ我等こそ日本に
   光もたらす晴れの使徒

(2)霊峰富士を仰ぎつゝ
   七つの海に船出して
   聖なる教え広めんと
   こゝ日の本の青年は
   清き理想の実現に
   生命捧げて進みゆく
   あゝ我等こそ人類に
   救いをもたす霊の使徒

(3)真理の鐘は高らかに
   世界の上に鳴り響き
   輝ける朝訪れる
   こゝ日の本の青年は
   愛と誠に満ちあふれ
   雄々しく強く進みゆく
   あゝ我等こそ常久(とことわ)の
   平和もたらす愛の使徒

         <平成23年5月14日>

たけしの母〜北野さき (1650)
日時:2011年05月20日 (金) 08時43分
名前:伝統


(1)ここに母あり―北野さき一代記(1988年出版)より

   あとがきに。

 「私の人生を振り返って思うことは、
  子どもたちに恵まれたってことですね。それはほんとに
  有難いと思ってます。

  だれだって、いい家に生まれたいでしょ、
  お坊ちゃんお坊ちゃんって育ちたいでしょ。
  それが不幸にも貧乏な家に生まれてしまった。
  子どもにはなんの責任もないのに、のっけから、
  貧乏ってお荷物をしょって生きたくちゃならない。

  親にできることといったら、
  教育をつけてやることぐらいしかない。
  体につけた財産は、どんな泥棒だって盗めやしないですからね。

  だから、どんなに貧乏だって、
  とうちゃんと喧嘩したって
  子どもに当たったことは、私は一度としてありませんでしたよ。

  それが母親の責任だし子どもには貧乏というもう充分に
  申し訳ないことしてますからね。

  私のときと時代が違うから、間違っているかもしれないですよ。

  だけど、親ってものは、
  自分より先に子どものことを考えるものだと思いますけどねえ。

  あとがきまでこんな偉そうなこといっちゃうと、
  口の減らないばあさんだって嫌われ.ちゃいますか。

  最後になりましたけど、
  たけしのおかげで出した本を読んで頂いて有難うございました。
  一なにせ、80歳を過ぎた人間が、
  何十年も前のことを話したものですから、
  間違っていたり、失礼なことをいったりしているかもしれません。
  その点は、年寄りの戯言だと思って、ご容赦ください。

  また、たげしにしても、今があるのは、
  大ぜいの方々がひいきにしてくださってるおかげです。
  たけしにかわってお礼をいわせてもらいます」

(2)【北野さきの訓え】〜子どもたちが、母さきから受け継いだもの

  @誇りの高さ

   ・自慢、高慢、バカがする。
    〜人を見下すような態度は貧乏よりも卑しいという訓え。

   ・武士は食わねど高楊枝
    〜お金に困ることがあっても、自尊心を失ってはならないという訓え。

    どんな状況であっても、自尊心を忘れず、謙虚に、自分のできる範囲で
    精一杯生活する。必要以上に見栄を張らず、身の丈にあった暮らしをする。

  A現実主義的な生き方

   さきは、起きてしまったことに「しょうがねえなあ」と対応する現実主義的な考え方を
   持ち、使えるものは何でも使うという人であったようだ。

   起きたことは起きたこととして、その場でできる最善の策をとる。
   

(2)たけし 母の通夜で雷雨の中 号泣! (享年95歳)
   http://www.youtube.com/watch?v=Umu76AmBnQE


(3)槇原敬之「母親」(作詞:北野 武、作曲:槇原敬之)
   http://www.youtube.com/watch?v=sVs8xCSM5hs

           <平成23年5月20日 記>

「どん底の淵から私を救った母の一言」  (6162)
日時:2012年01月16日 (月) 08時30分
名前:伝統


   *メルマガ「人間力(2012/1/12)」からの紹介です。


 奥野博(オークスグループ会長)談
  (北陸地方随一の冠婚葬祭チェーンを育て上げたオークスグループ創業者)
        

【記者:昭和42年、40歳のときに経験された倒産が、
    今日の奥野会長の土台になっているようですね】
    

倒産が土台とは、自分の至らなさをさらけ出すようなものですが、
認めないわけにはいきません。

戦後軍隊から復員し、商社勤務などを経て、兄弟親戚に金を出してもらい、
事業を興したのは30歳のときでした。

室内設計の会社です。
仕事は順風満帆でした。
私は全国展開を考えて飛び回っていました。

だが、いつか有頂天になっていたのですね。
足元に忍び寄っている破綻に気づかずにいたのです。
それが一挙に口を開いて。


【記者:倒産の原因は?】

「滅びる者は、滅びるようにして滅びる」。

これは今度出した本の書き出しの一行です。
  (*「恩の人生録」<致知出版社(刊)>)

倒産の原因はいろいろありますが、つまるところはこれに尽きるというのが実感です。
私が滅びるような生き方をしていたのです。


出資者、債権者、取引先、従業員と、倒産が社会に及ぼす迷惑は大きい。
倒産は経営に携わる者の最大の悪です。

世間に顔向けができず、私は妻がやっている美容院の2階に閉じこもり、
なぜこういうことになったのか、考え続けました。

すると、浮かんでくるのは、
あいつがもう少し金を貸してくれたら、
あの取引先が手形の期日を延ばしてくれたら、
あの部長がヘマをやりやがって、
あの下請けが不渡りを出しやがって、
といった恨みつらみばかり。

つまり、私はすべてを他人のせいにして、
自分で引き受けようとしない生き方をしていたのです。

だが、人間の迷妄の深さは底知れませんね。

そこにこそ倒産の真因があるのに、気づこうとしない。

築き上げた社会的地位、評価、人格が倒産によって全否定された悔しさがこみあげてくる。

すると、他人への恨みつらみで血管がはち切れそうになる。
その渦のなかで堂々めぐりを繰り返す毎日でした。


【記者:しかし、会長はその堂々めぐりの渦から抜け出されましたね】

いや、何かのきっかけで一気に目覚めたのなら、悟りと言えるのでしょうが、
凡夫の悲しさで、徐々に這い出すしかありませんでした。


【記者:徐々にしろ、這い出すきっかけとなったものは何ですか】

やはり母親の言葉ですね。

父は私が幼いころに死んだのですが、
その三十三回忌法要の案内を受けたのは、奈落の底に沈んでいるときでした。

倒産後、実家には顔を出さずにいたのですが、法事では行かないわけにいかない。
行きました。

案の定、しらじらとした空気が寄せてきました。

無理もありません。
そこにいる兄弟や親族は、私の頼みに応じて金を用立て、
迷惑を被った人ばかりなのですから。


【記者:針の莚(むしろ)ですね】

視線に耐えて隅のほうで小さくなっていたのですが、
とうとう母のいる仏間に逃げ出してしまいました。


【記者:そのとき、お母さんはおいくつでした?】

84歳です。母が「いまどうしているのか」と聞くので、

「これから絶対失敗しないように、
 なんで失敗したのか、徹底的に考えているところなんだ」

と答えました。

すると、母が言うのです。

「そんなこと、考えんでもわかる」

私は聞き返しました。

「何がわかるんだ」

「聞きたいか」

「聞きたい」

「なら、正座せっしゃい」

威厳に満ちた迫力のある声でした。


【記者:84歳のお母さんが】

「倒産したのは会社に愛情がなかったからだ」

と母は言います。心外でした。
自分のつくった会社です。
だれよりも愛情を持っていたつもりです。


母は言いました。

「あんたはみんなにお金を用立ててもらって、 やすやすと会社をつくった。
やすやすとできたものに愛情など持てるわけがない。
 
母親が子どもを産むには、死ぬほどの苦しみがある。 だから、子どもが可愛いのだ。
あんたは逆子で、私を一番苦しめた。だから、あんたが一番可愛い」
 
母の目に涙が溢れていました。

「あんたは逆子で、私を一番苦しめた。 だから、あんたが一番可愛い」

母の言葉が胸に響きました。

母は私の失態を自分のことのように引き受けて、私に身を寄せて悩み苦しんでくれる。
愛情とはどういうものかが、痛いようにしみてきました。

このような愛情を私は会社に抱いていただろうか。
いやなこと、苦しいことはすべて人のせいにしていた自分の姿が
浮き彫りになってくるようでした。

「わかった。お袋、俺が悪かった」

私は両手をつきました。
ついた両手の間に涙がぽとぽととこぼれ落ちました。

涙を流すなんて、何年ぶりだったでしょうか。
あの涙は自分というものに気づかせてくれるきっかけでした。

            <感謝合掌 平成24年1月16日 頓首再拝>

「お母さん、ぼくは家に帰ってきたんか」 〜土井敏春・中尉 (7229)
日時:2012年03月02日 (金) 07時11分
名前:伝統

       
  *『一流たちの金言2』〜上月照宗(曹洞宗大本山永平寺監院) の言葉より
        

親と子といえば、私には
どうしても忘れられない逸話があるんです。

土井敏春という中尉の話です。

昭和16年の安慶の攻略線の際、土井中尉は
部下5人を連れて将校斥候に出たのですが、
敵の地雷に引っ掛かってしまった。

    (中略)

一瞬にして5人の部下が
即死してしまったのだから惨いことです。

助かったのは土井中尉一人。
しかし、彼自身も両足と片腕を吹き飛ばされ、
爆風で脳、眼、耳が完全にやられてしまった。

あまりの苦しさに舌を噛み切って自害するといわれますが、
土井中尉は上下の歯もガタガタになってしまった。
死ぬに死ねません。これほど悲惨なことはありません。

どこにいて、何をしているのかもわからない。
声だけは出るものですから、病院に担ぎこまれても、
ただ怒鳴り散らすばかりです。

まだ昭和16年のころでしたし、将校ですから、
病院や看護婦は至れり尽くせりの看護をしたのですが、
本人にしてみれば地獄です。

目は見えない、耳は聞こえない、自分で歩くことも、
物に触れることもできない。

食事も食べさせてもらうのはいいが、
しょっちゅう漏らして看護婦の世話になる。
ただ、怒鳴るだけしかできず、介護に反発しますから、
ついには病院中のだれにも嫌われてしまった。

それで内地送還になり、
最後は箱根の療養所に落ち着くのです。
その連絡がお母さんのところに届きます。


すでに、夫を亡くしていたお母さんは
その当時はみんなそうでしたが、
息子のために毎日毎日、陰膳を供えて
彼の無事な帰還を祈っていました。

ですから、息子が帰ってきたという知らせに
母は娘と夫の弟さんを連れて、取るものも取りあえず、
箱根に駆けつけたんですね。

療養所では面会謝絶です。院長にお願いしても、

「せっかく来られたのですが、
 息子さんにはとてもあなた方のことはわからないでしょう。
 今日はお帰りください」

と聞き入れてもらえない。

しかし、母にとっては待ちに待った息子の帰還です。
何とか一目でいいから会わせてほしいと懇願し、
やっとの思いで院長の許可を取ることができました。

病院に案内されると廊下の向こうから
「わぁー」という訳のわからない怒鳴り声が聞こえます。
どうもその声は、自分の息子らしい。
毎日陰膳を供えて息子の無事を祈っていた
自分の息子の声であったのです。

たまらなくなって、その怒鳴り声をたどって
足早に病室に飛び込みます。

するとそのベッドの上に置かれているのは、
手足を取られ、包帯の中から口だけがのぞいている“物体”。
息子の影すらありません。声だけが息子です。

「あぁー」と母は息子に飛び付いて、
「敏春!」「敏春!」と叫ぶのですが、
耳も目も聞こえない息子には通じません。

それどころか、「うるさい! 何するんだ!」といって、
残された片腕で母を払いのけようともがくのです。


何度呼んでも、体を揺すっても暴れるだけです。
妹さんが「兄さん!兄さん!」と抱きついても、
叔父さんがやっても全然、受け答えません。
三人はおいおい泣き、看護婦も、
たまらずもらい泣きしました。

何もわからない土井中尉はただわめき、
怒鳴っているばかりです。

こんな悲惨な光景はありますまい。
しばらくして、面会の時間を過ぎたことだし、

「またいいことがあるでしょう。今日はもう帰りましょう」

と院長が病室を出ると、妹さんと叔父さんも泣きながら、
それについて帰ります。

しかし、お母さんは動こうとしない。
どうするのか、見ていると、
彼女はそばにあった椅子を指して
看護婦にこういうのです。


「すみません。
 この椅子を吊ってくださいませんか」


そして、それをベッドに近寄せると
お母さんはその上に乗るや、もろ肌脱いでお乳を出し、
それをガバッと土井中尉の顔の
包帯の裂け目から出ているその口へ、
「敏春!」といって押しあてたのです。


その瞬間どうでしょう。

それまで、訳のわからないことを怒鳴っていた土井中尉は、
突然、ワーッと大声で泣き出してしまった。
そして、その残された右腕の人差し指で
しきりに母親の顔を撫で回して


「お母さん! お母さんだなあ、
 お母さん、ぼくは家に帰ってきたんか。
 家に帰ってきたんか」


と、むしゃぶりついて離さない。
母はもう口から出る言葉もありません。

時間です、母は土井中尉の腕をしっかり握って、
また来るよ、また来るよといって、帰っていきました。

すると、どうでしょう。
母と別れた土井中尉はそれからぴたりと怒鳴ることをやめてしまいました。

その翌朝、看護婦がそばにいることがわかっていて、彼は静かにいいました。

「ぼくは勝手なことばかりいって、申し訳なかった。
 これからは歌を作りたい。
 すまないが、それを書きとどめていただけますか」

その最初の歌が、


   見えざれば、母上の顔なでてみぬ
    頬やわらかに 笑みていませる


目が見えないので、お母さんの顔、この二本の指でさすってみた、
そしたらお母さんの顔がやわらかで、 笑って見えるようであった。

土井中尉の心の眼、心眼には
母親の顔は豊かな、慈母観世音菩薩さまのように
映ったのに違いありません。


  (中略)


この話はその現場に立ち会っていた
相沢京子さんという看護婦から聞いたものなのですが、
その相沢さん自身も母親の姿を目の当たりにして、
患者の心になり切る看護というものに目覚めたということです。


道元禅師の言葉にこうあります。

「この法は、人々の分上に豊かにそなわれりといえども、
 未だ修せざるには現れず、証せざるには得ることなし」

「法」とは「仏性」のことです。
ですから、すべての生きとし生けるものには みな仏性があると、根本信条を諭されます。

しかし、道元禅師は、それも修行して
磨きをかけないと本当の光が出てこない。

本当に磨きをかけることによって、
真実の父親、母親になれ、
その真実の人がそのものになり切ってこそ
偉大な力を発揮するということになるのです。

            <感謝合掌 平成24年3月2日 頓首再拝>

生れるということ (8846)
日時:2012年05月03日 (木) 04時57分
名前:伝統


 *「お母さんは命がけであなたを生みました」内田美智子・著からの紹介です。

(1)生れるということ、産むということ(P16)

   「私は親から何もしてもらっていない」
   そんな不満を口にする人がいます。

   みなさんは、自分がどんなふうに生れてきたか知ってますか?
   想像したことがあります。

   あなたのお母さんは、命がけであなたを出産したのです。


   あなたが、ここに存在することは、そういうことなのか。
   考えてみてくださいね。

   あなたは「私は親から何もしてもらっていない」ことは、ないのです。


(2)ご褒美のない苦しみ(P26〜P27)

   あるお母さんの話です。

   妊娠10か月に入り、今日にも明日にもと、
   生まれる日を待っていたお母さんは、胎動がないことに気付きました。

   「おかしい・・・・・・。いつもと違う」

   胎児は、母の胎内ですでに輝きを失っていたのです。

   亡くなった胎児でも、母親は産まなければならないんです。

   私たち助産師は、陣痛に苦しむ母親に
   「がんばろうね」
   「もうすぐ、元気な赤ちゃんに会えるよ」
   と声をかけ、励まします。

   でも、死産の子を出産する母親には、
   何と言って励ませばいいのでしょうか。

   分娩室で付き添った若い助産師は、
   何も声をかけることができなくて、
   ただ、手を握っているだけでした。

   それしかできないのです。
   言葉さえ出すことができなかったのです。

   そのお母さんは、ご褒美のない陣痛の痛みに耐え、
   命を輝かせることのない胎児を出産しました。

   産声の上がらない分娩室で、
   母親の嗚咽する声だけが悲しく響きます。

   泣かない赤ちゃんを母親は泣きながら抱きしめます。
   もう、それしかできない。
   それ以上のことはできないのです。


(3)産んでくれてありがとう(P20〜P21)

   生れたばかりの赤ちゃんは、お母さんとへその緒でつながっていますね。
   へその緒を切ると、私たち助産師は、赤ちゃんを「さあ、どうぞ」って、
   母親に抱かせます。

   すると、お母さんは、抱っこした赤ちゃんに語りかけます。

   「よく生れてきたね」
   「がんばったね、えらかったねぇ」
   「時間がかかってごめんね・・・」


   分娩室での忘れられない出来事があります。

   あるお母さんは、同じように赤ちゃんに語りかけたあと、
   枕元に立っていた自分の母親にこんなことを言いました。


   「お母さん、私を産んでくれてありがとう」


   素敵な女性だと思いませんか?

   自分が子どもとして、どうやって育てられたのか。
   親が自分にどれだけ愛情を注いでくれて、何をしてくれたのか。

   子どもに授乳を始めてしばらくすると、お母さんはそんなことを考えて、
   自分の母親に対する感謝の気持ちでいっぱいになります。

            <感謝合掌 平成24年5月3日 頓首再拝>

生き続ける (8904)
日時:2012年05月05日 (土) 04時36分
名前:伝統

 *「お母さんは命がけであなたを生みました」内田美智子・著からの紹介です。

(1)ある女の子(高校生)からの問いかけに対して(P30)

   ある女の子は、
   「お母さんは私を産んだことを後悔していないと思いますか?」
   と聞いてきました。

   幼いころお母さんが出て行き、お母さんの顔を覚えていない。

   どこでどうしているかもわからない。

   自分が本当に生まれてきてよかったのかどうかを確かめたい、というのです。



   「後悔してないよ」
   「後悔なんかするもんですか」

   あなたを手放したことは後悔しているかもしれないけど、
   命がけで子どもを産んだことは後悔していないよ。

   もしかしたらどこかで新しい家族をつくっているかもしれないけど、
   そこで自分が幸せであればあるほど、
   手放した子どものことは忘れることはできないのです。

(2)《先に逝くのは、あなたではなく親です》(P32)

   親は何があっても子を助けます。
   自分のいのちと引き換えに、子を助けることも厭わない。

   それが親です。

   でも、親は子より先に死にます。
   その順番が逆になってはいけません。

   子に先立たれることほど、親にとって、つらいことはありません。
   みなさんは、一人で生きていかなければならない日が、必ずやってきます。

   ちゃんと、ご飯はつくれますか。

   つらいことに直面することも多いでしょう。

   そんなとき、父さん母さんがいなくても、耐えることができますか。
   どんなことでもがんばれますか?
   何があってもくじけない強い子に育っていますか?

   一人でも強く生きていかなくてはいけないのです。


(3)生き続けること(P48)

   親からいろいろなことをしてもらって育ちました。
   食べること、温かい布団で寝れること、遊ばせてもらうこと。
   病気のときは看病をしてくれます。
   
   では、逆に、みさなさんは父さん母さんに、何をしてあげたでしょうか。
   なかなか思い浮かびませんね。

   日々の暮らしの中で、みなさんにしかできないことが、たったひとつだけあります。
   それは、いま、ここにいるということ。
   生きていることです。

   いま、みなさんがここにいること。
   それは、親にとって、生きる力になるのです。

   自分を必要としてくれる誰かのために、生きることも必要なのです。

            <感謝合掌 平成24年5月5日 頓首再拝>  

”がん”になった後に、ムスメを授かった母の思い (8985)
日時:2012年05月08日 (火) 06時30分
名前:伝統


 *「お母さんは命がけであなたを生みました」内田美智子・著からの紹介です。

本当に、命懸けで産んでよかったとあらためて感じています。
いまは私がムスメから寿命を延ばしてもらっています。

ムスメの卒園式まで
ムスメの卒業式まで
ムスメの成人式まで
ムスメの成人式まで
ムスメの結婚式まで
ムスメの子どもが生れるまで・・・

できる限り延ばしたいものです。

天から私たち私たちのところにやってきてくれた宝物だから
十数年後に、きちんと社会に恩返しできるように
心を込めて育てなければ・・・。


私は、がんになった後に、ムスメを授かりました。
だから、この子を残して、死ななければなりません。

がんになってもならなくても、死ぬ順番は、私が先に決まっています。

逆になったら、いけない。


だとすると、心残りがないように、死ななければなりません。

彼女は、私がいなくなった後、
生きる上で必須科目となる、家事はできるだろうか。


いま、ムスメに手伝わせている家事は、
洗濯干し、洗濯たたみ、風呂洗い、靴並べ、掃除、保育園の準備、タンスの整理、
自分の服の管理等・・・。


ついつい、わかっていても、危ないから、自分がした方が早いから云々と
理由をつけて、一番大事な料理は最期になってしまいますね・・・。

彼女の手伝いの中に、配膳と料理部門を増やすことが、今後の私の課題。

(中略)



そして、日々祈るのです。
旦那とムスメが、
朝、「行ってきます」と言って出かけた後、
「ただいま〜」と、元気に帰ってくることを。

がん友や、大切な人々が、毎日元気でいることを。

それぞれの家族が、できるかぎり長く、幸せであることを。

・・・・・・・

これは、(がんで)闘病中の千恵さんがブログに綴った日記の一部です。
はなちゃんが5歳になる直前に書かれたものです。

2008年2月20日、はなちゃんが5歳の誕生日を迎えたその日。


はなちゃんの生長を見届けたたい思いを糧に、一度は再発した3センチのがんを
食事療法などで撃退しましたが、その年の7月、たくさんの愛とメッセージを残して、
神様の御許へと召されました。

<参考Web:がんとムスメと、時々、旦那>
http://plaza.rakuten.co.jp/cmbird7/diary/200802160000/

            <感謝合掌 平成24年5月8日 頓首再拝>  

親を看取るということ (9078)
日時:2012年05月11日 (金) 04時09分
名前:伝統

 *「お母さんは命がけであなたを生みました」内田美智子・著からの紹介です。

親を看取るということ(P59)


親は子どものオムツがどんなに臭かろうと替えてくれます。
下痢したオムツも替えてくれます。

でもそのうちその親が年老いてオムツが必要になります。

お母さんはオムツをしてご飯もひとりで食べれなくなるかもしれません。

車いすに乗ることだってあるかもしれません。

そんな両親をあなたは受け止めることができますか?

鳥取県に「なごみの里」という看取りの家があります。
ここで代表を務めているのが柴田久美子さん。

柴田さんが、まだ島根県の離島の社会福祉協議会でヘルパーをしていらっしゃったころの
ことでした。島の高齢者生活福祉センターに入所していたおばあちゃんは、当時92歳。
医師から、もう長くないと言われ、息子さんに引き取られました。

息子さんは、高度な医療を必要としたお子さんがいたので家族を大阪に残し、
単身で帰郷しました。定年まで数年を残し、早期退職されたのです。
そうした家族の複雑な事情の中で、親子という縁がなおさら重みを増していきました。

もう寝たきりのおばあちゃんですが、若いころは、もちろん息子さんのオムツを替え、
乳を飲ませていたのです。昼間は畑仕事で疲れ切った体で子どもたちを育てました。

おばあちゃんは、もう長くは生きられません。
今度は、育てられた子どもが恩返しをする番です。
息子さんは寝る間を惜しんで、あばあちゃんのオムツを替えました。

柴田さんが、その息子さんに「男の人が母親のオムツを替えるのって、どんな気持ちなんですか」
と尋ねたことがありました。

「どうもないよ。自分が出てきたとこだけんな」と、笑顔で答えが返ってきたそうです。

息子さんの家族も、不定期に島を訪れました。
息子さんのお父さんが、あばあちゃんのオムツを替える姿を見て、どう感じたのでしょうか。
自分も母をこうして送るときがくるかもしれない、と感じたのでしょうか。

「点滴は嫌だ」というおばあちゃんの言葉を受け、息子さんは、母の好物を思い出し
ながら天然のジュースを作りました。
それは、自分で採ってきたイカに、搾った大根、ニンジンを加えたものでした。

そして、一口、一口、あばあちゃんの喉を通るたびに喜び合いました。
それは、息子さんが幼い日、おばあちゃんからしてもらった光景だったかもしれません。

いのちの尊さを次の世代に手渡すとは、こうした単純なかかわり合いを
繰り返していくことだと思います。


<参考Web:なごみの里>
  → http://www5c.biglobe.ne.jp/izanami/kaminohado/010murayamasakon.html

            <感謝合掌 平成24年5月11日 頓首再拝>  

”3本のビデオ”  (9123)
日時:2012年05月12日 (土) 07時09分
名前:伝統

 
   *Web「やすらぎの村、村長のつぶやき(080621)」より


暖かい暖かいお母さんの愛のお話。

実話やねんて。

愛の深さはすべての人を幸せにする。


「ある家族のはなし」

サキちゃんのママは重い病気と闘っていました。

死期を悟ってパパを枕元によんだ。
その時、サキちゃんはまだ2歳。

「あなた、サキのためにビデオを3本残します。
1本目はサキの3歳の誕生日に、2本目は小学校入学式に。
そして3本目は・・・・・の日に見せてあげてください」

まもなく、サキちゃんのママは3本のビデオを残し天国へ旅立ちました。

サキちゃんの3歳の誕生日。1本目のビデオがかけられました。

テレビ画面に、病室のママが映し出されました。

「サキちゃん、お誕生日おめでとう。ママ、うれしいなぁ。
でもママはね、テレビの中に引っ越したの。だから、
こうやってしか会えないの。パパの言うことをよく聞いて、
おりこうさんでいてね。
だったら、ママ、また会いにいくからね。」


サキちゃんの小学校入学の日、2本目のビデオがかけられました。

「サキちゃん、大きくなったネ。おめでとう・・・。
ママ、うれしいな。どんなにこの日を待っていたか。
サキちゃん、ちゃんと聞いてね。
ママが住んでいるところは、天国なの。だから、もう会えない。
パパのお手伝いがちゃんとできたら、ママは、もう1回だけ会いにきます。
じゃあ、魔法かけるよ。

エイッ!ほうら、サキちゃんはお料理やお洗濯ができるようになりました」

そんなある日、パパに義母がお見合いの話をもってきました。

パパは再婚する気はなかったのですが、サキちゃんの将来を考えて
お見合いすることにしました。

パパが結婚の話をサキにした時、サキちゃんは自分の部屋に走って行き
「サキのママはママしかいないのに」とママの写真を見て泣きました。

サキちゃんが結婚を受け入れないまま新しい母親を迎える日がやってきました。
この日が、3本目のビデオを見る日でした。

タイトルには、こう書いてあったのです。

「新しいママが来た日にサキちゃんに」

それはサキちゃんが10歳のときでした。

「サキちゃん、お家の仕事がんばったね。

えらいね。

でも、もう大丈夫よ。新しいママがきたんだから。

・・・サキちゃん。今日で本当にお別れです。

・・・サキちゃん、今、身長はどれくらい?
ママには見えない・・・・・・。

(ママの泣き崩れ、カメラを抱え込む姿が映る) 

ママ、もっと生きたい・・・。

あなたのために、おいしいものをいっぱいつくってあげたい・・。

あなたの成長を見つめていたい・・・。

本当はサキちゃんと友達の話をしたり、ボーイフレンドの話をしたかった・・・。

ひと目でいいから、サキちゃんの花嫁姿をこの目で見たかった・・。

・・・・・・サキちゃん、これがママの最後の魔法です。

それは{ママを忘れる魔法}です。

ママを忘れて、パパと、新しいママと、新しい暮らしをつくってください。

では、魔法をかけます。1・2・3・ハイッ!!」

そこでビデオは終わった。
サキちゃんは魔法の通りに、3人で仲良く暮らしました。

しかし最後の「ママを忘れる魔法」だけは、サキちゃんにも、
パパと、新しいママにも、効かなかった。

ママは、どんなことがあっても忘れることのない“心の宝石箱”として、
ちゃんと残っていた。


以上、お母さんの優しい優しいお話でした。

もしも、あなたが命がわずかだとして、メッセージビデオを作ると
するならば、誰と誰にどんな言葉を伝えますか?


【泣ける感動動画】ある家族の話
http://www.youtube.com/watch?v=h6ON-CsgLUg&feature=related

            <感謝合掌 平成24年5月12日 頓首再拝>  

【母の日】母への感謝 (9147)
日時:2012年05月13日 (日) 04時33分
名前:伝統


今日、5月13日(日曜日)は、【母の日】。

お母さんに、カーネーションとともに、感謝の言葉を伝えましょう!

霊界のお母さんには、感謝の想いを送りましょう!


<Web:感動CM 母の日 >
  → http://www.youtube.com/watch?v=_5YEsRZ2Ngk&feature=youtube_gdata_player

<Web:母の貯金(霊界の母への感謝) >
  → http://www.youtube.com/watch?v=ozVgImiSL-0&feature=related

            <感謝合掌 平成24年5月13日 頓首再拝>



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