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田中静壹大将と甘露の法雨 (4660)
日時:2011年09月25日 (日) 21時38分
名前:山ちゃん1952


1945年の夏の一番長い日の時に敢然と立ち向った人がいます。
それは田中静壱大将は東部陸軍司令官でした。

この人をいち早く紹介した本が雅春先生著『地湧の浄土』の昭和27年です。
それでは書き込み致します。

中公新書クラレ 歴代陸軍大将全覧(昭和編/太平洋戦争期)
半藤一利、横山恵一、秦郁彦、原剛 共著 P179より抜粋

*この本は4名の歴史家の座談会形式でまとめた本ですが、生長の家
が登場したので、ご紹介します。

田中静壱大将の部より

 田中大将は、フィリッピンを守備する第14方面軍の司令官として赴任
しましたが、セブで発熱し病状が悪化します。

(原)18年5月初旬、東城(首相)がマニラに来て田中の病気が重いのに驚き、参謀
本部付の発令になります。(中略)そのまま第1陸軍病院に入院しますが、衰弱は増す
ばかりでした。天皇は田中に特に葡萄酒を下賜し「とくに大将に進級せしめよ」と言われ
田中は9月に大将に親任されるのです。

(横山)10月になると、血圧、体温が極端に下がり、軍医もサジを投げました。その
月末、夫人が信仰している「生長の家」の中島講師が面会謝絶の病室を訪れ、この宗教
の基本聖経である「甘露の法雨」を枕頭で読み始めます。中島が読み終わると、田中の
瞳に希望と歓喜の光が溢れ、その夜、寝汗をかかずに安眠し、翌日から食欲もまし、体力
を回復していったそうです。

(半藤)本当は死ぬはずの人が治っちゃうのでしょう。なんとも不思議な話ですよ。
田中を調べていくと「生長の家」が出て来るので、書きづらくて書きづらくて。
「そんな事があるのか」とも書けないし。

(以下、略)

ちなみに、病気が奇跡的に回復した田中大将は、東部軍司令官になり、終戦時の
近衛師団の反乱を見事に鎮圧したあと、責任をおい自決されています。この田中
大将がいなければ、クーデターは成功し、戦争はあと数ヶ月継続した可能性が高
いと言われています。

この話は谷口雅春先生が繰り返しお話して戴きました。
『生長の家30年史』にはP2〜

「国家に対する貢献というので思い出しましたが、日本の今日あるは、あの昭和20年8月15日、愛国の近衛兵が叛乱を起し終戦の詔勅放送の録音盤を奪取して終戦を防礙し、最後まで抗戦を継続するように計画し、時の近衛師団長森赳中傷を射殺してついにク−デタ−を敢行し永久抗戦の大事に至ろうとしていたのを、東部軍司令官田中静壱大将の叡智ある果断にてそれを制止し得たことによるのであって、あのまま近衛師団の反乱軍が終戦の詔書を阻んで、ク−デタ−を行い抗戦をつづけていたならば、その後の日本がどうなっていたろうか。
また国内戦が起こったときの悲惨はどのようであっただろうかと考えると肌寒い感じがするのであります。
まったく、当時の日本を救ったものは田中静壱大将の功績だと言うほかはないのでありますが、この田中静壱大将は、その三年ほど前、不治の腎臓の大患にて南方派遣軍より飛行機で日本に走還され、医師も手の施しようのない状態であったのが、時の生長の家教団理事長中嶋與一氏のただ一回の枕頭に於ける法話と、聖経『甘露の法雨』の読誦とによって病気回復し、現職に復帰しておられたので、この日本を救う大功を樹てることが出来たのであります。
まことに田中大将は終戦時の大事のために生長の家の神の神護によって生かされたのだということができるのであります。
田中大将は近衛兵の鎮圧を終り、日本軍の全面的無条件降伏の玉音放送が無事におわる事を見定め、軍全体の運命に殉ずる意味と、「わが任務了れり」という意味にて、静かに心臓部に拳銃を当てたまま収容として昇天されたのであった。
故大将の前にある机上には聖経『甘露の法雨』が按かれてあった。
殉死に先立ち聖経を誦せられたものだと考えられる。」

このようにお書きになられています。
また『新講 「甘露の法雨」解釈』にはさらに詳しく
「あとで「同じように天皇陛下の平和愛好の御心を説いた近衛師団長森赳中将を射殺しながら、何故田中静壱大将を射殺しないで帰順したか」と叛乱軍の将校に聞いてみたら、「あの時、田中大将は右手に紫色の袱紗に包んだ天皇陛下の御諚をもって来ておられた。それで田中大将は天皇陛下の御名代として来られた、そして"天皇陛下の御心はこうじゃ"といわれたように受取られた。
これを射ち殺したら天皇陛下に銃を向けたことになる。
自分たちは天皇陛下に背く心はない。
ただ重臣たちが自分の命が惜しいために無条件降伏による平和回復を計画しているのは許しがたいので、天皇陛下の御心のままに戦争を継続しようと策していたのだ」と答えたそうである。

田中静壱大将の右手に握られていたのは実は、紫色の帙に入った聖経『甘露の法雨』だったのである。
まことにこの聖経は、あの危機一髪の瞬刻限に、日本の国を滅亡から救い、世界に平和をもたらし、日本民族を救わんがために、霊的錯覚を生ぜしめて、聖経を紫色の袱紗に包んだ天皇陛下の御諚の如く感ぜしめられたのであった。
『甘露の法雨』の国家的、人類的な大功徳はかくの如しである。」

さて、次にこの『甘露の法雨』は昭和5年12月に発行の『生長の家』誌に「生長の家の歌」と題して掲載した自由詩三題が聖経『甘露の法雨』のもとになっている。「神」「霊」「物質」の三章です。
この詩を一冊5銭のパンフレットにしたのであるが(新講「甘露の法雨」解釈P13)売れ行きは悪かったのです。

「その頃生長の家の信者になる人は余り芸術とか、文字とかいうことに興味のない人が多かった。
本当に宗教的な救いが欲しいので、文学のようなものはいらん、詩というようなものはいらんというような意味からでありましょうか・・・・」
昭和6年2月の『生長の家』誌になると自由詩ははじめて『甘露の法雨』という題をもって顕れます。

『法華経』普門品第25(観音経)の一句に観世音が「甘露の法雨をそそぎ給ひて煩悩の焔を滅除し給ふ」とあるのを詩の題にしたのでは無いと断っています(『神秘緬より観たる生長の家40年史』より)
この『甘露の法雨』を所持していると危険から自然に避けることとなり、病気を癒し、事業は繁栄し、家族円満となり、祖先が喜びます。
その体験が陸続と顕れています。

田中静壱大将と甘露の法雨A (4664)
日時:2011年09月25日 (日) 22時10分
名前:山ちゃん1952

このフィリピンにおいての腎臓の不治の病が治癒したことを中嶋與一先生のお話から抜粋させていただきます。
無血終戦の偉勲者田中静壱大将のこと
中嶋與一(元生長の家本部總持)
昭和十八年十月二十九日、陸軍大将田中静壱氏夫人の操さんが生長の家本部へ訪ねて来られました。その日、谷口雅春先生は九州御巡錫中にて、私が本部道場の指導を受持っておりました。操夫人が訪れた時には私はすでに道場へ出ていたので、受付氏が「道場へいらしゃい」と言ったのですが、「待たせていただきます」と言われ、四畳半ほどの薄暗い部屋で約三時間待ったようであります。
 私が道場から下がって会ってみますと、その用件は「夫が病気で重態です。すでに諦めてはおりますけれども、何か心の中に苦しみがあるように思えるのです。可哀そうで見ていられないので、その心の苦しみを取去って安心させてあの世へ送りたい」ということでありました。
「病院はどちらですか」
「陸軍第一病院でございます」
「軍人さんですか」
と尋ねますと、夫人は名刺を出されました。見ると「陸軍大将田中静壱」とあるのです。
「はあー、これは軍人さん、大将閣下ですね。すみませんが、私はお断りします。誰か他の講師を紹介しましょう。」
と、椅子から立って部屋を出ようとしますと、夫人はあわてて、
「なぜでございます。」
と詰寄ってこられました。
「私は近頃の軍人さんは大嫌いです。」
と言いました。というのは、その時分、私は牛込の憲兵隊や名古屋の憲兵隊から呼び出されて、「お前は"海ゆかば"の歌はいけんちゅうて講演しとるそうじゃな」と、さんざん油をしぼられ、その頃は身体に油気が少なくなっていた上に、さらにしぼられたので意識が不明瞭になったほどでありました。そこで、
「私は軍人恐怖症で、ことにあなた様の御主人は大将さんですから恐ろしいです。とてもお会いする勇気がありません。」
と言いますと、夫人は、
「私の夫は大将でございますけれども至極やさしい人でございます。お友達から貴方様を紹介されましたので主人もお待ち致しているのでございますから、是非お願いします。」
と懇願されるのです。
「そのお友達というのは誰のことですか。」
「東條大将の奥さんです。」
ここにいたって私はいささか狐につままれたような気持ちになりました。
「はあー、少し変ですねえ。私は東條夫人は新聞でお顔を知っているだけですが」
「奥さんもそう言っておられました。お会いしたことはないけれども、毎月この雑誌の文章を読んで知っているだけなのですが、きっといい指導をして下さると言って紹介して下さったのです。」
その雑誌は『白鳩』でありました。夫人は「主人は貴方様を神様の次のような御方と思って会いたがっております。」
と言われ、その言葉にそそのかされて私は逢ってみようかという気になったのです。十月三十一日午後五時頃、病院を訪ねたのでありました。病室の入口には「面会禁止」とあり、その下の机には山のように名刺がおいてありました。
病室に入ると、将軍が寝台に長い体を横たえて、目をとじております。その傍らに腰をかけ、ちょっと挨拶の言葉をかけてみたけれども返答がありません。額に掌をあててみると相当熱い。「お熱があるようですね」と言ってみたのですが相変わらず、黙然としているのです。こうなると心持ちがわるくなって「さようなら」をするところでありますが「主人が待っている」という夫人の言葉をまにうけて腰をあげることができない。しばらく考えこんでおりますと、フト何気なくポケットに手が行って『甘露の法雨』をとり出したのであります。
そこで、「これから生長の家の聖経『甘露の法雨』を読みますから、閣下はそのままの姿勢でお聴き下さい。」
と宣言して読みはじめたのであります。二人の位置の関係上、私の右の掌は将軍の額に当たり、聖経をくりひろげる左手は胸部に置いている恰好でありました。最後に「聖経終」と読み了えたとき、田中大将はカッと目をあげて、案外やさしい声で、「ありがたいお経ですね」と言ったのです。それから私は『甘露の法雨』の講義をやったのであります。田中大将はフィリピンへ出征中、その年の三月十二日に発病し、三十九度を越す高熱がつづいているにもかかわらず病因が不明、マラリアに似ているが病因が発見出来ず、ついに八月六日、飛行機にて東京の陸軍病院へ送還されたということでありました。

将軍の語ったところによりますと、アメリカ駐在武官としてワシントンに在ったころ、マッカーサー氏(当時佐官)と親交があり、その友人を今では敵とすることになった、悪因縁でしょうね、と自嘲されるのでした。また田中大将は、こうして病臥していることは天皇陛下に相すまない、同時に多くの兵を戦場の露と消えさせることも、その遺族に対しても申しわけない、といとも悩ましげに話されるのです。そこで私は、因縁というものにとらわれているのは"迷い"です。迷いは無い、真理のみが実在である。人間は神の子で無限力、健康であるのが実在であって、われ病めりという心の迷いが映し出されているにすぎないのです。閣下は大忠臣です。けれども陛下にすまない、すまないと言いながら今病気で死んでは田中陸軍大将は病気に負けてしまったことになる。

"肉体は心の影""われに使命あり"と敢然と心中に唱えれば「言葉は神なり」、すべてのものこれによりて成るのです。私の言葉は決して間違っていません。たとえ大いなる槌をもって大地を損することがありましても、私の言葉は壊れることは断じてありません、と言い放ったのであります。すると将軍は一つ一つうなずいて聴いて、そして最後にニッコリして「有難うございました」と一言いわれたのであります。

翌十一月一日、朝七時に田中大将夫人から電話が入りました。その要旨は、主人は昨夜グッスリ眠り、今朝は上機嫌に目を覚まし、これまで出しぶっていた尿が快調に出て大層心持ちがよろしい、また熱も三十七度に下り、私としましては嬉しくて、たとえようもございません。これは奇蹟です、涙がこぼれて仕方がありません、というのです。その日、もう一度病院を訪ねると、将軍はちゃんと寝台に端座して私を待っておられました。そこで再び『甘露の法雨』の講義を致し、以後毎日講義をつづけたのであります。講義中は実に真面目に謹聴せられ、その態度はさすがに立派でありました。

ある日、病院の廊下で一人の看護婦から呼びとめられました。その人は田中大将を看護している三人の看護婦の中の一人でした。「先生、毎日ご苦労様です」と挨拶されてから彼女が私に語ったことによると、長い間閣下は一言もお言葉がなく、何をしてさしあげてもあの大きな目でジロッと御覧になるばかりでした。それが、先生が来られてからというものガラリと態度が変わり、検温が終りますと「有難う。ごくろうだね」と笑顔をむけられるようになったというのです。今まで病室へ行くのを三人で譲り合って、誰も行きたがらなかったのが、この頃では皆で行き、将軍をまじえて大声で笑い合うようになり、こんな嬉しいことはありません、というわけです。

こうして田中大将自身は日増しに恢復し、また操夫人は各方面へ『生命の実相』を配ったのであります。退院した田中大将は、やがて東部軍管区の司令官として軍務にいそしむようになったのです。昭和二十年八月十五日、終戦の御聖断が下ってからもなお戦争続行を主張する青年将校たちの叛乱が起こりました。その叛乱をめぐって重要な役割をし、後に監禁された私の以前からの知人からも、次のような驚くべきことを聞いたのであります。

その日、正午から陛下の御放送が行われるという直前、叛乱軍の幹部将校七名によって、今上の御命を頂戴し幼い皇太子を擁立し戦争を続行する、との密議が行われたといいます。かかる激越な行動に移らんとした青年将校たちを説得し、とり静めたのが田中静壱大将であったことは、総裁先生のお話によって、つとに知られるところであります。かくて陛下の歴史的な放送により、事なく終戦を迎えたのであります。

想うに、今上の御命をお救い申しあげるについて田中静壱大将の偉勲は無上であると申しても過言ではないと思います。その田中大将は、すでに昭和十八年に病にて絶えるはずであったと思われるのが『甘露の法雨』によって救われたのでありますから、田中静壱大将を通じて住吉大神のご使命が具現せられたということであります。

陛下には田中大将の働きに対し、八月十五日午後五時十五分、蓮沼侍従武官長侍立の上拝謁をたまわり、
「今朝ノ軍司令官ノ処置ハ誠ニ適切デ深ク感謝スル。今日ノ時局ハ真ニ重大デ色々ノ事件ノ起ルコトハ固ヨリ覚悟シテイル。非常ノ困難ノアルコトハ知ッテイル。シカシ斯クセネバナラヌノデアル。田中ヨ、コノ上トモシッカリヤッテクレ」
との優渥なるお言葉があったと承わっております。しかして八月二十四日、一切の使命を完うして、田中大将は極楽浄土へ移籍せられたのでありました。
              「生長の家四十年史」より     昭和四十四年十一月二十二日発行

更に『ああ!皇軍最後の日』塚本清著 昭和28年12月20日初版(非売品)には
将軍の陣頭指揮は、間断なく続けられていったのであったが、不幸にして、重なる疲労は遂に将軍をして病床に伏するの已む無きに至らしめたのであった。
だが、生来負けず嫌いの将軍は、病を押して討伐を続けられたが、如何にせん、三月以降(昭和18年)は遂に立つこと能わず、マニラの病院に入院されることになった。
病名は、マラリヤといい黄疸といい、或はその併合症だともいわれ区区であった。入院後も将軍の気力は毫も衰えることはなかったが、体躯の衰弱は日増しに加わっていった。
将軍病篤し
前略  八月六日空路マニラを出発、羽田飛行場に無念の帰還をされたのである。高度五千の空気の稀薄は病体には大きく影響し、帰還後は三十九度を越える高熱が続いたのである。
将軍は直ちに若松町の第一陸軍病院に病因不明のまま収容された。
だが、帰還後も将軍の病勢は一向に捗々しなくなり、秋に入り、衰弱は一層その度を加えていった。
将軍は、再度の予備役願を出されたのである。この願を受けた東條陸相は中将のままで将軍を予備役にすべく、陛下に奏上申上げたのである。
陛下は将軍の病勢をいたく御心痛になり、恩賜のブドウ酒を賜れるとともに、特に大将に進級せしめよ、とお言葉を賜った。
陸軍省人事局は直ちに大将進級の手続きをとった。病床の身にありつつも、多年の功労を嘉し給う特旨に依って、将軍は大将に進級されたのであった。
比島から帰還された将軍の戦況奏上も、杉山元帥が将軍に代わって奏上された程であり、茲に全く、将軍の病勢は死を待つのみと思われたのである。
嗚!忠勇至誠の将軍、遂に病の床に斃れられるのであろうか―。
将軍起死回生す
世に起死回生と云う言葉があるが、これはぴったり田中大将の場合に云うことが出来る。
十月に入って大将の病状の悪化の一途を辿り、遂に主治医の大釣軍医も絶望してしまった。血圧は六十に下り、体温は三十五度四分以上は昇らなくなった。大将の危篤の報は伝えられ、軍医も
『尽くすべきは尽くしましたが―』と最後の言葉を残したのであった。
「ああ、何とかして夫をもう一度丈夫な身体にして、御国のために働かせなければならない」と、枕頭にある操夫人は、常日頃から信仰している『生長の家』に中島講師を訪ねられたのであった。
昭和十八年十月二十九日の夜だった。翌日中島講師は病室を訪れたが、一切面会禁止で、絶対安静の札がかけられてあった。扉外に立った中島講師は『大丈夫です、大将に霊気が溢れていますから』と言明して室内に入り、静かに大将に黙礼した後、「甘露の法雨」を取り出すと、静かに瞑目して中島氏の「甘露の法雨」を聴かれていた。
中島氏が読み了ると、大将は瞳を開かれたが、その瞳の中には、数分前まで、誰しも認めることの出来なかった、希望と歓喜との光があった。そのあとで大将はいくつかの質問をされたのであったが、中島講師は、その一つ一つに対し生命の實相をゆっくりと語られた。
この日大将は、人間は物質にあらず、肉体にあらず「生命(いのち)」である。その生命は神なる大生命と直通のものであるのを単的に「人間神の子」というのであって、肉体はその生命が起す波動、即ち心のかげである、病気になるのも心からであると同時に、癒えるのも心からである。境遇というも、運命というも、同時に心が先であり、凡て心が支配する、ということが真理だと理解されたのであった。
従来から観音の信仰に厚い大将には観音の教理に似た「生長の家」の理念は容易に了解する事が出来たのである。
大将の精神的の悩みは、いま戦争が激しくなりつつあるにもかかわらず自分は軍人として病床に臥していて働けないことは天皇陛下に対して相すまない。また自分は部隊長として軍隊を指揮して闘ったがその度に多くの部下を戦死せしめたのは、その本人に対しては勿論、遺族に対しても誠にお気の毒であり申しわけがない。
今日本では国民生活が段々圧迫してみんなが苦しんでいる際に、自分は病気と言い乍ら、病院にいて安閑として何の不自由なく手当を受けている事は、まことに申しわけない等等の為、心は常に悶々の情で閉じ込められていられたのであるが、聖書にも、「一羽の雀でも神の御心なしには地に墜ちず」とある如く、一切は神の摂理であると判られたのである。人間の一生は使命遂行の為だ、使命が終わるまでは肉体は続くのである。釈迦は八十五歳だが、イエスに至っては三十歳になるやならずで現世における肉体使命が終幕になっているのだ―
こうして中島講師の第一日の話は終わったのであったが、突然、翌朝、中島氏の耳を破ったのは、操夫人の報告の電話であった。
昨夜ははじめて将軍はグッスリ寝られ、寝汗が出なくなり寝巻を着更えることもなく、久しく出なかったお小水が朝になり二回も出たと言うのであった。
その日から中島講師は大将の病床を見舞っては「甘露の法雨」の講義をつづけられたのであった。長男の光祐氏も、死ぬる前には人間は一時よくなることがあるから気をつけて下さいよと、操夫人に語られたが、その言葉も取越し苦労となって、急に食欲が増進し、自然排便もあり、ぐんぐん体力は恢復に向っていったのであった。
絶対安静の大将の身体も、五日、十日と日を追うて寝台の上に起き上がれるようになって来た。遂に一ヶ月日には、寝台から降りて立ちあがれるようになられた。
十一月末には更に寝台の周囲が歩行出来るようになり、遂に軍医までも絶望とまで思われた大将の肉体は、不屈の精神力に依って眼に見えて健康をとり戻されたのである。
以前から大将は、両親に似て信仰の厚い人であったが、この時以来「甘露の法雨」を離されたことがなく、自決の机上にも、この「甘露の法雨」は置かれていたのである。

田中静壱大将と甘露の法雨B (4666)
日時:2011年09月26日 (月) 00時04分
名前:山ちゃん1952

最後に田中大将の奥様操様は熱心な生長の家信徒でした。その後子弟様はやられていないのが残念ですが、兵庫県たつの市の旧家にあり、周りは田中姓が多いのです。
この田中静壱の業績はたった一冊の本しか残っていませんが、宮城炎上と帝都炎上の責任をとられて自害されておられます。

死ぬまで『甘露の法雨』を身体に携えて、生長の家で救われて最後まで日本人としての気概をもたれていました。

『生長の家50年史』

この『甘露の法雨』は最初に『生長の家の歌』として昭和5年12月1日発行の『生長の家』誌に「生長の家の歌」の題で”神””霊””物質”の三章が発表され、昭和6年2月1日発行の同誌には『甘露の法雨』と題して”実在””智慧””無明””罪””人間”が発表され、昭和7年2月1日発行の同誌に『甘露の法雨』と題して、”生長の家”が発表されたのであった。
最後に発表された”生長の家”の詩は今日の聖経『天使の言葉』となっているものであるが、そもそも「甘露の法雨」と「天使の言葉」は谷口雅春先生がインスピレ−ションによって一揆に書かれたところの自由詩であったのである。

谷口雅春先生は、この誌が「甘露の法雨」として掲載された時の『生長の家』誌において次のようにこの詩を説明しておられる。

《…「生長の家の歌」三篇「神」「霊」「物質」の続編にして、この三篇と共に生命の真理を霊感によって書かしめられたものであります。「生長の家」では所在の経典のほかに神仏の祭壇に対って之を朗読することにしています。病人に対して又は、病人自身が繰返し朗読すれば病ひが不思議に癒え、障りの霊に対して読誦すれば、障りの霊が悟りを開いて守護のかはる助けとなります。それ故これは誠に生長の家の経典とも云うべきものであります。》

この言葉どおり誌友の間には『甘露の法雨』を読誦することによって病気は治癒し、家庭が調和するなどの体験が相ついで起こった。やがてこの「甘露の法雨」の詩は、昭和10年6月、当時京都に於ける熱心な誌友である工学博士小木虎次郎氏が『甘露の法雨』の詩を『生長の家の歌』という詩集の中にのみ収めておいては、功徳のあることを知らない人が多いから、ハッキリとこれは聖経であると明示して、折本型の経本として発行すれば、功徳を受ける人が多いであろうと、生長の家京都教化部から経本式折本として発行されることになった。

こうして『甘露の法雨』が経本になって頒布されるや、陸続として功徳を受ける人が現れた。さらにそれを携帯するだけで、交通事故に遭いながら微傷も負わなかった人が出て来たりもしたのである。
そこで京都の教化部ではこれを京都のみで独占すべきではないと、その出版権を昭和11年末に、光明思想普及会に移すことになったのである。その後聖経『甘露の法雨』は、さらにその功徳を発揮して、多くの人々をさまざまな人生苦から解放して行ったのであるが、その功徳の及ぼす範囲は、単に個人だけでなく、後に述べるように、あの大東亜戦争の終結の危機を未然に救う働きをも果たすまでになるのである。

このようにして『甘露の法雨』の功徳は個人及び国家を救い給う。

私はその昭和12年の最初の光明思想普及会の『甘露の法雨』を所持しています。それは今もなお高貴燦然として輝いているのです。いっこうに衰えもしない紙質は光にみちているのである。
光明遍満の世界がそこに現れるのである。



田中操未亡人から中島與一先生への書簡 (4702)
日時:2011年09月27日 (火) 09時03分
名前:童子

 御申訳けもなき御無沙汰申上げて居りましたのに、おしかりもなく御文給はりかたじけなくおなつかしきに唯々涙のみにございました。先生の御恩は決して決してお忘れいたして居りません。倅達も常に語りましては感謝のみ致して居ります。

 去る二十四日五年回忌をおつとめ致して居りました時お焼香に来られた方が『大将は中島先生の御手でお治りになさったそうですね』と申され又新しく先生を思い出したので御座います。先生も二十四日に御追憶新になさって下さいました御由、これも神さまの御引きよせと嬉しく存じ上げました。

 八月十五日の東京日々新聞、八月号の小説泉九月号文藝春秋に大将自決の真相が発表されました。御覧頂きましたでせうか。

 
 存命中常に先生の御噂を申しながら職務に忙殺心ならずも御無礼いたして居りましたが最後まで甘露の法雨は手元はなさず死につきました。

 十八年十月二十九日はじめて先生の御厄介になりましてあんなに立派な霊、体共に浄化させて頂きましたのもあの日の為にお残し頂いたのだと、誠に一家一同感激いたして居りました。

 一度御目もじ申上げてすっかり先生にお耳に入れ度存じますが唯今は郷里にて百姓に専念いたして居ります。もし当地方へ御通過あそばしました節には是非とも御立寄り頂き度一同お待ち申上げて居ります、長男、次男、四男、孫、嫁と十三人の大家族、女中合わせて十四人、終戦のおかげにて皆々一緒にむつまじく過して居ります。

 申遅れましたが先生御宅様にては御長男様未だ御帰還なき御様子何とも御申上げようもなき御事にございます。何卒御奥様御令嬢様方へも山々御よろしく御伝え頂き度お願い申上げます。

 尚ほ本日白鳩、生長の家御送附にあずかりありがたくお厚礼申上げます。白鳩、生長する青年は月々拝見させて頂き、いつもいつも有難き生長の家に感謝させて頂いてをります。

 また三男は目黒区平町四小林家に養子に来り、嫁や母(私の妹稲荷たみゑ、これは元の衾町の私宅に居ります)は稲荷と共に月々のお会合には必ず出席させて頂いて居ります。私は田舎で生命の實相は必ず毎日十頁づつ拝読いたし丁度三回目繰返して居ります。

 先ずはとりいそぎ御厚礼のみ。               かしこ。田中操

 中島先生お前に

八・一五事件とは何か (4704)
日時:2011年09月27日 (火) 10時41分
名前:童子

 『先生は私のためには生命の恩人です。後で聞いたら医学上では死ぬる以外に何の見込みがなかったそうですよ。それを先生に助けて頂いたのですからね』 と云われたので、私はそれを打ち消して

 『閣下、それは違います。閣下の生命の恩人は私ではなく閣下御自身の生命です。生命が生命を生命したのです。生命があったからその生命の力によって閣下自らが復活せられたのです。その復活は何の為かと申せば、それは使命遂行の為です、閣下には何か大きな使命(Great mission)がおありになるにきまっています。これからその重大使命を遂げられなければならないために肉体保存の必要があるので、この奇蹟的快復がなり立ったと私は確信しているのです』 とお答えしたのであった。


 サテ田中大将の使命は何であったろうか?この疑問は容易にとけなかった。終戦前後私は東北地方巡講中であったので新聞を見るヒマも余りなく、田中大将の自決のことも余程日数を経過した後で耳にしたので、あの時の復活は自決のためであったのであろうか、単なる自決ならばそれは個人感情の最後の精算でしかない、そのための復活? と考えた時聊(いささ)か寂しさを感じたのであったが、それ以外に考え直す資料がなかったので、その侭にして置いたのだった。

 従って瀕死の容体、医学上は絶対駄目だった肉体が、復活という言葉がふさわしいが如くに全く奇蹟的に快復せられた事にも、大した意義を発見し得なかったし興味も薄らいだので、今日まで文章で発表しなかったのであったが、此度フト新聞雑誌で八・一五事件の真相の記事を読んで始めて一切の神秘的意義が判明したので、ここに書きつらねて神の御心の深遠にして宏大なることを知って頂く便りとしたいと念願して筆をとることにしたのである。


 『八・一五事件』とは何か? 簡単にいえば昭和二十年八月十五日ポツダム宣言受諾に反対し飽まで戦うという一部青年将校達が、血気に逸り常識を失い団結して、聖断を翻へしめんと企て遂に暴動化し、時の近衛師団長森赳を射殺したのをはじめ、あらゆる暴逆行動に出て一時的快感を味わんとした暴挙を云うのである。この行動が押し拡められ、深刻化したならば、天皇の身辺も危殆に瀕し、日本の国を全く崩壊せしめる力となったに違いないのであったのを、即発寸前に食い止めて、天皇陛下を安泰におき、日本国を滅亡から救いとったのが、東部軍管区司令官田中静壱大将であった。

 大将の大なる使命(Great mission)なるものは實にそれであったのである。偉なる哉偉なる哉田中大将の功績、どんなに称賛しても到底たたえ切れないほどなのである。その日の田中大将の行動は神慮そのままが現われたようであった。先ず近衛第一連隊営庭にては、渡邊連隊長に対し・・・・・・(中略)・・・ 続いて、軍旗奉焼の問題を大将ただ一人の責任とする扱い方を了し、二十四日の埼玉県川口の放送所を占領した予科仕官学校の生徒に対し峻烈極る訓示をして、これらを鎮めた。

 この歴史的大変革に際して、以上の大仕事をなし遂げる者は田中大将を措いて他に求め得ないので医者で分からない病気になり、ヒリッピンから東京へ帰ったことが第一の摂理であった。操夫人が生長の家本部を訪れる摂理は第二であり、私が『甘露の法雨』の講義を十一月いっぱいに亘って聴いて貰ったのが第三の摂理であった。そして奇蹟的に健康を快復せしめたのと高級霊の指導であったことが分って大変嬉しくなったのである。

 操夫人にもこのことが分ったらしく前記した近信中にも『あんなに立派な霊、体共に浄化させて頂きましたのもあの日の為にお残し頂いたのだと誠に一家一同感激いたして居ました。』と認めて居られるのである。あの日のためため誰かこれを予知し得るか、ただ神慮あるのみ、尊い極みであった。

 
 自決の意義は、現世に於ける肉体的使命を完了したので、もはや霊界に昇天すべきだと大悟せられたためではあるけれども、自決を選んだ理由は遺書の一節に 『将兵一同に代り閣下に御詫び申上げ皇恩の万分の一に報ずべく候閣下並に将兵各位は厳に自重自愛断じて軽挙を慎まん以て祖国の再建に邁進せられん事を』 とある。

 即ちイエスキリストが十字架にかかったと同様多くの人達の身代りであった。今や高級の霊界より平和日本、民主日本の建設のために善良なる霊波を放送されつつあることが分かるのであり、その霊波が時間空間の枠を通して必ず実現することも一点の疑いを挿む余地なきことも分かるのである。


 以上を書き終って振り返って見れば田中大将の霊の目醒めを促した摂理は甘露の法雨の中のコトバであったことが分かるのである。若しこれなかりせば大将の肉体は遅くとも十八年十一月中には北ぼう一片の煙と化して了った筈であったことを思う時、春秋のひっぱふを借りるまでもなく『甘露の法雨』克く田中静壱大将をしてこの偉業を完成せしめた。といっても決して過言でないと、私は固く信じているのである。


  中島與一先生  『無血終戦夜話』 ― 田中静壱大将と『甘露の法雨』 ― より




 

童子様 (4709)
日時:2011年09月28日 (水) 00時14分
名前:山ちゃん1952

貴重な書簡ありがとうございます。
私も知りませんでした。

田中静壱大将は『甘露の法雨』で救われた命をどこかでお返ししなければならないと常に考えておられた。

宮城事件では近衛兵の鎮圧にあたり、日本を救ったのにも拘らず。それさえも首都炎上と宮城炎上の責任をとり、自殺されておられる。
今の政治では考えられないかも知れないが、常に生と死を向き合って生きてこられたような気がします。

立派な軍人であります。

田中静壹大将と甘露の法雨C (5762)
日時:2011年12月17日 (土) 07時16分
名前:山ちゃん1952

田中静壹大将の記功碑であります。兵庫県たつの市の竜野公園にある石碑であります。頂上には赤とんぼ荘があり少し下った所には小さな動物園があります。
田中静壹大将顕彰会が昭和50年に建立した石碑ですが、そうした責任者がお亡くなりになればこの石碑が残るだけであります。今や石碑だけが残るだけで「三木露風」「三木清」などが有名となり記念館や資料館があるが、田中静壹大将はこの石碑がたつの市に残された。また「嗚呼玉杯の花うけて」の矢野勘治も有名である。たつの市出身の著名人の名に田中静壹氏を大きく掲載して欲しいものであるが、名は小さく掲載されている。日本を救った軍人は、「軍人」というだけで肩身が狭い思いをしなければならないのが、戦後教育なのか。石碑だけでも救われているといえば悲しいが、確かにそうである。諸外国ではこうした軍人は宝として鄭重に保存し伝える。
たつの市役所、たつの図書館及び田中家の皆様には突然の訪問にも関わらず、気楽に応じていただきましたことに感謝申上げます。
なお、田中静壹大将の慰留品は現在は姫路自衛隊機地に保管されています。

田中静壹大将と甘露の法雨D (5764)
日時:2011年12月17日 (土) 07時20分
名前:山ちゃん1952

『生長の家50年史』から抜粋致します。田中静壹大将の御功績に今や生長の家の信徒の人も知らない。谷口雅春先生はいろいろな書物で田中大将の事を記載されておられます。

終戦時における住吉大神の働き
ところで天皇陛下の終戦の詔勅のラヂオ放送が無事に行なはれた蔭には、生長の家大神すなはち住吉大神の御働きがあったことをわれわれは見過すことは出来ない。
終戦の日の午前零時、降伏にあくまで反対して、軍務局の中少佐級にひきゐられた近衛第一師団の一部がクーデタ行動をおこした。彼らは宮城を占拠し、天皇の放送をくひとめ、終戦の「御聖断」を覆さうとしたのである。そのために近衛師団長を殺害して、宮城を占拠したのであったが、東部軍司令官田中静壹大将の沈着な処置によって、クーデターは鎮圧され、無事に終戦の玉音放送が行なはれたのである。もしもこの時クーデターが鎮圧されてゐなかったならば、戦争はそのまま続行し日本全土は焦土と化してゐたであらう。
当時、侍従としてクーデターの渦中に、天皇陛下のお側近く仕へてゐた入江相政氏は、「終戦前夜記」(『侍従とパイプ』に収録)の中で「陛下のお力でさしもの戦争もやめになったが、戦争をやめることをいさぎよしとしない連中がおこしたどさくさも、田中さんのおかげでさうたいした事もなくしづまった。われわれは田中静壹大将の功と恩とを忘れることはできない」と田中大将の功績を称へてゐる。この日本の歴史上最大の危機を未然に防いだといふ田中静壹大将は、『甘露の法雨』の功徳によって原因不明の高熱による危篤から起死回生し、首都防衛の任にあたる東部軍司令官につかれた人である。塚本清著『あゝ皇軍最後の日』によれば、田中大将は病気回復後聖経『甘露の法雨』を片時も離されたことはなく、終戦の一切の処理を終へて自決された時にもその机上には他の遺品と共に『甘露の法用』が置かれてゐたといふ。そして座右の銘として「一ヽ我ハ陛下ノ信任ヲ忝フス ー、我ハ神ノ子ナリ ー、我ハ無限ノカヲ有ス ー、我判断誤ルコトナシ」といふ言葉が半紙に書き記されて、『甘露の法雨』と共に常に携帯されてゐたと言はれる。この座右の銘は、生長の家の真理から採られた言葉であった。かやうな田中大将によって日本の危機が救はれ、天皇の御稜威が輝き渡ることになったのであるが、その奥にこそ住吉大神の神力が大きく働き給うてゐたのである。谷口先生はこの時の経緯についてつぎのやうに教へてをられるのである。
《……原爆投下後、天皇陛下の御前にて終戦の会議があり、ポツダム宣言受諾の陛下の御綻があり、終戦の詔勅を八月十五日正午に日本全国に放送されるために御吹き込み頂いた録音盤を、近衛師団の叛乱軍が奪取して、終戦の詔勅を伏せてしまひ、戦争継続を企ったとき、生長の家信徒である田中静壹大将(東部軍管区司令官)が『甘露の法雨』を奉持して近衛将校を説得して、近衛兵の叛乱を鎮圧し、無事、無血で平和を恢復せしめ得た功績の如きは、まことに、個人では為し得ないところの功績で、田中静壹大将の大胆沈着なる人格のしからしむるところであるとは言へ、携行された紫表紙の聖経『甘露の法雨』が叛乱軍の将校すべてに紫色の袱紗に包んだ「天皇陛下の御淀」と見え、それを携行してゐる田中静壹大将は天皇陛下の御名代として来てゐられると感じたので、反抗することも、狙撃することも出来ず、叛乱を中止して無事無血終戦を迎へるに至ったのでありますが、これこそ田中静壹大将がその時携行された住吉大神の神授の聖経『甘露の法雨』が奇蹟をあらはし給うたのだと感得するほかないのであります。何しろあの時、叛乱・抗戦継続の近衛将校は、叛乱抗戦に反対する者は近衛師団長と雖も射殺してゐるのでありますから、当り前ならば近衛師団長と同じやうに叛乱に反対する田中静壹大将を射殺しないで唯々諾々と田中大将の説得に従ったことは神秘と言へば神秘、神徳と言へぱ神徳であります》(『神の真義とその理解』)

田中静壹大将と甘露の法雨E (5783)
日時:2011年12月18日 (日) 08時34分
名前:山ちゃん1952

下記の文章は谷口清超先生の『もっと深く愛そう』昭和33年9月5日発行のものです。
田中静壹大将の件は更に詳しく記載されておりますので茲に抜粋致します。

第十章 大いなる使命のために
人の生命と全体の生命
 私が兵庫県の龍野市へ講習に参りましたときに、會場にきて一番前で熱心に話をきいておられた一婦人がありました。あとで昼食のときに、地元の幹部がこの婦人を私に紹介して「田中操夫人です」と申されました。田中操さんは故田中静壹大将の未亡人で、龍野が郷里である関係上、戦後はずっとここにお住いになっているということは私も前からきいて知っていましたが、お目にかかるのはその日がはじめてでした。その日操夫人は私と共に食事をとられ乍ら、色々の事を話しておられましたし、それから講習會での体験談の時にも発表されたことなどから、田中大将がどのようにして病を得、叉その病から立上り、其後大きな仕事をして昇天されたかということをくわしく知ることが出来ました。私達は一人の人間の生命は決して孤立したいのちではないという事をよく承知しているのでありますが、故田中静壹大将の場合のようにまざまざと、一個の人間が全日本の運命に大きく関係していることを示している実例は少ないとおもうのであります。
分裂した治療の悲劇
田中静壹大将が病にかかられたのは昭和十八年の三月十二口、フィリッビンに従軍なさっていた時でありましたが、その症状はマラリヤに似ているが菌を発見出来ず、間接的に高熱がつづいていたのでありました。当時田中さんは骨と皮とにやせ細って内地の陸軍病院に入院せられて治療をうけられましたが、衰弱の度は加わる一方であって、もう息を引きとるのは時間の問題であるとさえ言われたのでありました。しかも当時東京の第一陸軍病院で六人の選り抜きの軍医さんが診断をして命名した病名が何と、「不明熱」というのであって、血圧は六十、順温は発作時以外は三十四度五分に下り、脈拍はほとんど手に感じなくなってしまったのでありました。
どうしてそんな奇妙な症状になったのかと申しますと、これはあとになって田中大将が発病当時のことを夫人に話されたのでわかった事なのですが、最初は何のことはない風邪であったのです。しかし当時陸軍中将であり、しかも軍の要職にあった田中さんには軍医がつきっきりで、単なる風邪であり乍ら無闇やたらと注射をしたのだそうです。
それも一人の医者ならば統一的な治療もやれますが、次から次へと別の軍医が来て、別の注射をやって行くのです。遂には東京から軍用機で軍医がわざわざフィリッピンまではせつけて、注射をするという具合であって、全く分裂した治療法を個人の肉体に對してほどこしていたのがわるかったらしいので、その結果不明熱という悲劇的な結果となったのでありました。

播かれた種子は生える
 しかも当時天皇陛下は田中中将の病篤しとおきき遊ばされて、大変心をおいためになり、特に異例ではあるが大将に昇進させるという発表が出されましたので、当時の新聞はもう田中大将は死ぬるのだ。いや既に死んでいるのだとして、号外を刷って用意しました。そしてしきりに操夫人に電話をかけて来ては、大将が死んだかどうかその実状をさぐり、いちはやく「田中大将死す」の第一報を出そうと、夫人の言葉尻をつかまえる工夫をこらしていたのでありました。一方そのような危篤状態がしばらくつづいていました間に、操夫人はかつて読んでいた『生命の實相』にたよる以外にもう道はないという事を自覚なさいまして、軍医にその旨を申しますと、軍医はもうとっくに「不明熱」で手をあげているところでありますから、「どうぞ奥様心残りなく何なりとおやり下さいませ」ということになったのであります。
 何故そのとき操夫人が『生命の實相』にたよる他なしと決心なさったかといいますと、それは丁度昭和十年頃のことでした。田中夫人は御姉妹から『生命の實相』を知らされ、平素から秘かによんでおられたのでありますが、其当時憲兵司令部の総務部長をしておられた御主人にみつけられて、「お前、何をよんでいるか」と問われたことがありました。「有難い『生命の實相』という御本をよんでいるのでございます」と申しますと、御主人もその『生命の實相』をよみはじめられましたが、しばらくすると丁度其当時、警視庁が大本教の不敬事件をあげたものでありますから、御主人は「憲兵隊の幹部の官舎で、こういう宗教の本をもっていると、すこぶる危険であるから、はやく焼いてしまえ」とおっしゃりはじめました。奥さんは「あなたももっと読んでごらんなさい。とってもよい事が書いてあるんですから」と言いましたが、其当時の田中さんは、ただ本を焼くことにのみ熱心でありましたので、奥さんは仕方なく親戚の方のところへ『生命の實相』をあずけておしまいになりました。
そのようなことがあってから八年たった後、御主人が大病をしたときに操さんはその『生命の實相』をもって来て、二ヵ月ほど御主人の枕許でよんでおられたのでありました。そしていよいよ「何でも心残りなくやりなさい」という事になった時に、夫人は早速東京の生長の家の本部においでになりまして、丁度そのとき谷口雅春先生は九州へ御旅行中であられましたので、中嶋先生に面会なさり、明日の三時におうかがいしましょうという約束を得てお帰りになったのでありました。

神癒
その翌日の三時に中嶋先生がおいでになりました時は、軍医さんが「面会時間は五分間ですよ」といいまして、その約束で中嶋講師は田中大将の病室に入りました。すると田中さんは「この汗を止めていただけましたらねえ」とまるで蚊の鳴くような声でおっしゃるのであります。その当時でもまだ田中大将は三十度の熱から発作時には四十度近い熱が一日に三、四回出る状態でありました。その度に病衣がびしょびしょにぬれてしまうほどの汗をかき、敷布もべったり濡れてしまうのであります。それを取り替えるのに、三人の看護婦と奥さんとで非常に努力し、そのたびに病人は大きな苦痛をうったえておられたのであります。中嶋先生は、それを聞いて「これは自壊作用ですから、熱は出るままでいいんですよ。汗はいくら出ても結構なんですよ」とおっしゃいまして、それから『甘露の法雨』を誦けてその目は帰られたのであります。
ところが何とその晩は、六ヶ月間三回四回はげしい悪寒があって四十度の熱が出ては又ひっこむという状態で、その度の汗で非常に苦しんでおられたのでありますのに、その晩はそれっきりぴたりと汗がとまって、熱も三十七度台に下ってしまったのであります。これは奇蹟というしか仕方のない治り方でありまして、単なる精神の暗示療法でもなければ、精紳安定によって肉体がいやされて行ったというような生やさしいものでもない−全くの神癒だったのであります。
 その翌朝になりましてから尿が出ましたが、その尿は千三百グラムで、熱は三十七度台になりました。病人に非常に元気が出ましたので、病院中の凡ての人々はよろこび、つづいて中嶋先生にお礼を申し上げて1ヶ月間つづいて来ていただくように約束なさったのであります。田中大将は「早く電話をかけろ、はやくかけて先生に御報告せよ」といいまして、早朝中嶋先生に電話をかけさせました。そしてその目の三時に再び中嶋先生がいらっしゃるという事になりますと、田中大将はもう二時頃からおくさんにはやく玄関にお出迎えしないのかとそれは大変うるさく言って玄闘へ操夫人をお出迎えに出させるという熱心さでありました。
 そして毎日『甘露の法雨』をあげて、色々の真理のお話をきいておられるうちに、田中さんの健康はめきめきと回復して行かれました。それは肉体的にのみならず精神的にも向上されたのでありまして、大変気持が変られたのであります。それ以来田中さんは生き生きとして明るい感謝の言葉をいわれるようになり、看護婦さんにも「有難う、有難う」とことごとにお礼をおっしゃるようになられたのでありました。このような心の変化こそ、一切のものが好転して、すばらしい真意の実現する必須条件であるという事が出来るのであります。
 このようにしてどんどんよくなって行かれました田中さんは、三ヵ月たったときには完全にもと通りの身体に回復し、次いで陸軍犬學校の校長を拝命せられ、これを五、六ヶ月つとめられましてから、続いて東部軍管区司令官に任命せられたのであります。そしてこの状態のままで終戦を迎えることになりました。
 以上が大体の、田中大将が病を得られてから瀕死の状態になり、それから回復されるまでの概要でありますが、中嶋與一講師が面会をして色々指導なさった状態につきましては、中嶋講師の『光明生活の手引』(日本教文社刊)という本の中にくわしく記されております。

田中静壹大将と甘露の法雨F (5784)
日時:2011年12月18日 (日) 08時45分
名前:山ちゃん1952

終戦時の使命
 さてこのような状態で昭和二十年八月十五日ボツダム宣言受諾が行われたのでありますが、そのとき、有名なハ・一五事件というのが起りました。それは一部の青年将校達が聖断をひるがえしてあくまでも戦をつづけようと暴動を起し、近衛師団長森赳氏を射殺し、そして、クーデターを決行しようとした事件であります。若しこれが本常に成功しておれば、天皇陛下の御身辺も危殆に瀕し、日本の國も滅亡に近づいたかもわかりませんが、そのとき田中大将は先ず近衛第一聯隊営庭にのりこみ、渡邊聯隊長に對し「君のうけた師団命令は師団參謀のつくった偽命令である。森師団長はすでに殺害された。今後はこの田中が近衛師団の指揮をとるから、部隊をすみやかに解散させよ」といって、二千余名の兵をただちに解散させられたのであります。若しこのようなことが田中大将によって行われなかったならば、近衛師団は暴徒と化し、日本終戦の大偉業は達成されなかったのであると考えられます。其他の暴徒の青年将校に對しても、田中大将はただ人格の力、信念の力によって話しをすすめ、遂に暴動を鎮圧し、玉音放逸は無事十五日の正午に行われたのでありました。この報告を受けられました天皇陛下は、非常におよろこびになりまして「今朝の軍司令官の処置はまことに適切であった」と感謝の言葉を申され、色々の有難い御言葉を田中大将に与え給うたのであります。

使命
こうして無事戦は終わりましたが、それから約二十数日たって、大将は或る日机上を整理し、その上に恩賜の軍刀、白手袋、明治天皇の御像、恩賜の煙草、観音経、及び『甘露の法雨』を置かれたのであります。そして安楽椅子を机から一間位はなして、そこに浅く腰をかけられ、自分のうしろにクッションを置き、心臓部に拳銃をあてがわれました。何故一間ほど机から椅子をずらせたかと申しますと、自決したときに自分がうしろに倒れると同時に、脚が上にハネ上り、机をはねとばし、机の上の大切なものが散乱するというような見苦しい事のないようにという思慮の下に、脚の長さだけ椅子を机から誰されたのであります。そして副官を節かに呼ばれました。副官が丁度部屋の扉を開いて入って来られたときに「よろしくたのむぞ」との一言を残して、ピストルを心臓の真中に見事にうち込んだのでした。かけよった副官は、大将をだきおこし「閣下、お見事でございました」と申しました。大将の自決はすでに計画されていた通りを冷静に実行されただけであって、副官も息子さんも、操夫人さえも事の起ることをみな知っておられたのであります。しかしいつそれを決行されるかという事は、最後まで田中大将一人の胸の中にありました。大将は発射後ただちに意識不明におちいられまして、脈拍が完全に停止したのは五分後でありました。非常にらくな往生でありまして、大将の身体は白い麻布であらかじめ血どめの下ごしらえがしてありましたので、全く清らかな遺骸でありました。急をきいてかけつけた杉山元帥なども、その見事な自決を讃嘆なさいまして、その後つづいてこの方も自決をなさったのでありました。
 このようにして、一人の人間が『生命の實相』によって、一度はうしなわれていた生命を回復し、しかもその復活した生命によって偉大なる使令をなしとげ、途に自ら霊界へ旅立って行かれたということは、ただ単に一人の人間が御敦えによって救われたというだけではなく、その一人の生命が何干萬の人々の生命、國の生命をすくったという事になるのであって、それは偉大な仕事であったと言わなければなりません。かくの如く人間の生命は決して自分一人のいのちではない。大きくひろく世界にひろがり、凡ての人々と直結している生命であるという事を自覚して、吾々はそのいのちをもっともよい姿で、紳揉の御意にかなうやり方で発現しなければならないということを強く感ずるのであります。そして一人の人間のいのちを救うことも、このように大きな仕事をなしとげうるのでありますから、二人三人……いやさらに何千萬という人々の心の中にこの永遠不滅の真理をよみがえらせることが出来ましたならば、全世界の精紳を革命し、地上天国を建設するという一大偉業も、やすやすとなしとげられると硬く信ずるのであります。時代はまさに、正しい萬人救いの原理を求めています。いまこそ、正しい宗教がもっとも普遍的な姿で、凡ての人々の胸の中によみがえらなければならない時であります。新しい栄光の世が、今やおとずれようとしているのであります。



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