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No.339 岩手県遠野市 呼ばれ石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年08月28日 (月) 17時18分 [返信]

 ながらく休んでいましたが、またちょくちょくアップしようかと思います。
 暫くは、北上山地遠野盆地の巨石と山の、記録メモをあげてみます。
 この地方の巨石の事例は、インターネット上のyo-hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」(http:  //hamadas.exblog.jp/ 20130522現在)から所在情報を得ています。この呼ばれ石もその一つでした。
 yo-hamada氏のブログの画像を見ますと、単体の大きなコアストーンが、緩斜面の下部に突出して露出しています。動いてきたようですが、破断してはいないようで、転がってきたのでないようです。このような立地と形態の特異性が何故できたのか、巨石の成り立ちに興味を持って訪れてみました。まあ、遠野の巨石、続石と羽黒石を調査しに行ったついででもあるのですが。
 呼ばれ石とその周辺の地形を観察した結論をいうと、下半埋まっていますが4面露出。直径5〜6m厚さ3mほどの平たい鏡餅型のコアストーンでした。浮き石で異地性です。 巨大コアストーンがマサ砂の中にあって、谷上流の山地地下にあったものが、氷期に凍上作用などにより地表近くになリ、氷期の周氷河作用によりできた角礫混じりのマサ砂とともに、山地斜面から谷底へ、さらに谷口へと匍行(水飴が流れるみたいに粘性流体的にゆっくり動く)してきたものです。動いた年代は、12,000年前ぐらいに当たると思います。
 ついでにいうと、続石や羽黒石は、日本の巨石には珍しく、成因について記載した科学論文があって、呼ばれ石と同時期に、氷期の周氷河環境で形成された露岩地形である「トア地形」であるとされています。 後で紹介する機会があるかもしれませんが、私の調査では、単純なトア地形ではなくて、「特殊なトア地形」であるいう結果が出ました。


No.340 呼ばれ石の位置と宮守村誌の記述 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年09月12日 (火) 22時44分

呼ばれ石の情報は、浜田氏のブログに述べられていた「遠野遺産23号」にありました。
これは、遠野市のHPから見ることができ、所在場所の地図もあります。
 2.5万地形図(添付図)に位置を示します。なお、呼ばれ石の付近で南から合流する道の位置が拡幅に伴って最近改変されていて、交差点の形状が、2.5万地形図の形状と、現状とでは異なります。添付図では2.5万地形図の道路位置を修正しました。
 さて、「遠野遺産」とは、遠野市が独自でやっている文化財施策の「遠野遺産認定制度」のこと。平成19年度から開始。現在も追加認定が行われていて、対象は現在149ヶ所。
施策の内容は、ttp://www.soumu.go.jp/main_content/000152728.pdf (20170804現在参照)。市民参加で文化財保護活用をめざす方策で、なかなかスグレモノと思います。
 巨石関係では、No.23の呼ばれ石、78の羽黒堂と羽黒岩、111の石上不動岩と不動滝、132の舌出し岩があります。続石は市の指定文化財になっているので入っていないようです。
 遠野市のHP:遠野遺産23の呼ばれ石の項参照。現地の説明板も同文です。
ttp://mappage.jp/dtl/infolist.php?KanriNo=03208S370023&mode=md
(20170825現在)
 後日ですが、遠野市図書館で、呼ばれ石の文献記述を調べました。すると、『宮守村誌』 森嘉兵衛著 昭和52(1977)年 岩手県上閉伊郡宮守村教育委員会発行 という本があり、その中に、「よばりの石」の記述があります。遠野遺産の「呼ばれ石」の説明文や現地説明板の文章は、それを一部変えて引き写したと思われます。
 以下、宮守村誌の該当部分
========================
第二章 語り伝えた話
 六 よばりの石        
上宮守から塚沢に行く県道の側に大きな岩があった。
いつの頃のことかはっきりしないけれど、この巨岩の付近で働いた者達が、遠く離れた所にいる仲間に、昼飯だよと叫ぶと、その大石もその声に応じて同じことを言い、その石の上の方に同じょうな大きな石がもう一つあって、同じように応ずる。人々呼んで「よばりの石」といった。
何となくうすきみが悪いので、人々は狐狸のしわざだろうといって、猟師を頼んで一発石に打つと、それからその石は人間が叫んでも呼応しなくなったという。
今でもその石には鉄砲玉の傷が一つ残っているという。(河野三郎)
==============(引用終)=====
 <解題>
・河野三郎さんという方から聞き取りした伝承です。
・その時点では、石の名称が、「よばりの石」となっており、その後の遠野遺産の登録名になっている「呼ばれ石」とは違っています。
・石が音を発するという伝承は、夜泣石を始め多いですし、この伝承でも、呼び交わしているわけですので、岩が声を発する「よばわりの石」の方が、本来の名前だったのではと思われます。
・この石に呼応する、もう一つの大石があったといわれています。そちらの石については未調査ですが、国土地理院の空中写真のお見たところ、1977年の航空写真にはそれらしき立石の影が、写っていました。添付した2.5万地形図に、赤矢印で示した位置付近にあります。当時は、谷底全体が耕作地になっていたようですが、現在は耕作を止めて植林地に変わってしまっていて、最近のグーグルマップの空中写真では、樹林の中になってしまっていて、見えません。

No.338 遠野の続石にまつわる奇談 投稿者:滝おやじ    投稿日:2017年05月09日 (火) 23時21分 [返信]

続石の写真を、津波石として新聞に載せた・・・という奇談。

sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_18/27-Yamashita.pdf

続石にこんなことがあったんだとは、寡聞にして知りませんでした。




No.337 池田 碩(2017)1995.1.17 大地震と六甲山地 - 近畿地方整備局 - 国土交通省 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年03月28日 (火) 00時23分 [返信]

つい最近発表された報告です。
花崗岩巨石の基礎文献として、永久に残る世界的文献と思います。こうゆう情報がインターネットで簡単に見られるというのは本当に現代の幸せです。

池田 碩(2017)1995.1.17 大地震と六甲山地 - 近畿地方整備局 - 国土交通省

www.kkr.mlit.go.jp/rokko/disaster/pdf/20y-from1995.pdf

阪神淡路大震災の地震動による花崗岩巨石の破断移動例です。
巨石については、p21〜28、p170ごろからp273あたり。

No.336 巨石記録 花巻市高松 鞍掛石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年03月07日 (火) 20時03分 [返信]

鞍掛岩  
花巻市高松 鞍掛区入口交差点
 N29°23′36.02″
 E141°11′00.37″
20130924調査
 釜石街道を走っていたら石があるのが見えた。
 集落名は鞍掛。集落名の元になった火砕岩の岩塊。
 民俗的ないわれもあるものと思う。
 しかし、名称看板しかないので、いわれ不明。八幡太郎が関係かも。
東和町史にも記載が無かった。
・周辺の地質は、花崗岩を不整合で覆う稲瀬火山岩類:下部中新統と、それを不整合に覆う金沢層:鮮新統との境界付近。
・火砕岩の岩塊、岩種:火山礫凝灰岩。略直方体。・長辺約2.0m 短辺 0.8m 高さ1.0m 位。岩相から見ると、稲瀬火山岩に当たるのかも。
・盛り土の上にあり、移動されている。
・道路新設の際に動かされたのかも。移動時期は、看板の設置年度平成3年かもしれない。

結論
 自然・歴史両面ともデータ不足。よく分からなかった。

No.335 田代川の「二ツ釜」の紹介 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年02月22日 (水) 11時37分 [返信]

小櫃川源流にかってあった林業軌道を調査している、ヨッキれん氏の踏査結果に、田代川源流の川廻し滝、仮称「二ツ釜」の情報が載りました。
 有名なサイトですのでご存じの方も多いと思いますが、是非ご覧下さい。
http://をつけて、
yamaiga.com/rail/motokiyosumi/main16.html

yamaiga.com/rail/motokiyosumi/main17.html

 その前の記録を見ると、ツボイ沢水系の、本流、ホンツボイ沢、コツボイ沢の様子も知ることが出来ます。そのあたり興味ある方は必見。

No.334 濃溝の滝の紹介文を書いた。 投稿者:滝おやじ    投稿日:2017年02月19日 (日) 15時19分 [返信]

亀岩の洞窟・濃溝の滝

 君津市笹、清水地区所在。小櫃川支流笹川が、素掘りの河道短絡トンネルを滝となって流れている川廻しトンネルである。画像は観光化以前の1995年撮影。
 「川廻し」とは、江戸時代に曲流河川の曲流部をトンネルや堀り割りで人工的に曲流短絡し、曲流跡を埋め立てて水田化した新田開発工事のことで、上総地方の曲流河川で約450カ所も行われた。同様の工事は、新潟県の第三紀丘陵地の河川でも多数見られ、「瀬替え」と呼ばれている。
 この工事の結果、曲流部(フルカワ)の水田、短絡部(シンカワ)の堀切やトンネル、フルカワとシンカワに囲まれた、分離丘(ナカジマ)などの特異な景観が各所に残され、上総地方諸河川の特異な景観となっている。
 川廻し以前の笹川は、画面奥から流れてきて、トンネル向こうで曲がり、画面に見える護岸部分(埋め立てた跡)を画面左方へ流れていた。その先で曲流して向きを変え、トンネル手前にかけて、画面左手より流れてきていた。
この場所で、導水溝として長さ30mの堀り割りを作り、その先に、長さ30m、幅10m、高さ6mのかまぼこ形断面のトンネルを掘り、トンネル出口は落差5mの滝にして落として、笹川を短絡したのである。工事の結果、長さ約900mの細長いフルカワができ、約3町歩弱の水田ができたようである。
 現在の滝は、当初の滝がその後の侵食で変形し、最長で約30m後退した形である。

 川廻しのトンネルや滝には、名前が付けられられることなど無く、この滝も最近まで無名であった。
 片倉ダム・笹川湖の建設(2002年完成)に伴い、国道脇に清水渓流公園が作られ、地元の方々により、観光名として、公園に隣接するトンネルと滝が、「洞窟の滝」と名付けられ、その後、小字名「濃水」から「濃溝の滝」、亀の形が見えるというのでトンネル名が「亀岩の洞窟」となっていった。
 特に最近、トンネルから差し込む光がハート型を作る写真で有名になり、急に著名な観光スポットとなっている。新地名の発生という点でも興味深い。

No.333 落ちてきた巨石のニュース 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年02月15日 (水) 10時35分 [返信]

熊本地震の落下巨石にまつわる面白ニュース
http://mainichi.jp/articles/20170214/ddg/041/040/009000c

どれも興味深い。

No.324 巨石紹介:福島県郡山市西田町 鹿島神宮神体石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年01月27日 (金) 21時49分 [返信]

花崗岩の巨石地形事例を集めるため、福島県の阿武隈花崗岩露出地を廻っています。
 この地方の巨石の事例は、インターネット上のyo-hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」 (http://hamadas.exblog.jp/ 20130522現在)から所在情報を得ています。
 あわせて、HP「巨石巡礼」の「鹿島大神宮のペグマタイト岩脈」
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/020_kashima/kashima.htm 20130805現在 も参考にしました。
 この巨石はペグマタイトからなり、両氏の画像で見ても、普通の花崗岩とは異なった微地形をしていることは明らかですので、他に事例の無いペグマタイト巨石の微地形として、ついでに訪れてみました。
 結果は、花崗岩マサ砂中に、残存していたペグマタイトの露岩が、尾根先端の小峰として残っていました。岩脈としては線で露出してなく、個別の小岩体として点で残存しており、峰の山頂付近にのみ露出していました。
 露出岩体の表面微細地形は、岩体に多数の割れ目が入り、それに沿って割れた、角張った細かい破断形が卓越し、風化には抵抗性があるが、侵蝕には余り強くない岩石と思われます。
ここでは岩脈の厚さが10m以上ありますが、未風化花崗岩体の中に薄層としてある場合は、侵蝕弱線となると思われます。
 また、花崗岩コアストーンのような、特有の風化侵食形を示すこともありません。

画像1 社殿脇の神体石
画像2 ペグマタイト岩塊
画像3 巨石位置鳥瞰図

<諸元> 
20130809  調査・撮影 単独
名称 郡山市西田町丹伊田 鹿島大神宮 神体石(屏風石) 
   「鹿島神社ペグマタイト岩脈」として国の天然記念物指定されている。
所在 福島県郡山市西田町丹伊田字宮作239  鹿島大神宮境内の本殿裏
   丘陵性山地の尾根先端小峰〜山腹
地形図 2.5万「三春」 郡山市の地図はない。
緯度経度  N37°28′37.39″ E140°27′58.28″
標高350+m  (つづく)

No.325 <位置と周辺の地形> 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年01月27日 (金) 21時54分

 鹿島神宮の場所は、2.5万地形図「三春」で、「鹿島神社のペグマタイト岩脈」の注記がある。
 国の天然記念物で案内看板が各所に立っていて、鹿島大神宮の入口(Pの位置)まで簡単に行ける。
 周辺の山は、阿武隈山地の花崗岩のマサ砂でできたなだらかな砂山です。
 稜線は、標高350m+、東の山は標高380m+。
 岩脈の露出地は、そのなだらかな山並み稜線の枝尾根先端の小峰頂上です。
 図は、鹿島大神宮の山の鳥瞰図です。
 グーグル地図・写真から作ったので、2.5万地形図と標高が少々違いますが、まあ、気にしない。(^_^)
 社殿が山の頂上の直下にあり、ペグマタイトは、南北方向の岩脈の形で山頂に露出しています。あとは、全てマサの山。
 指定物件なので、岩石は割れないですが、境内に境内の造成工事でできた、割れたペグマタイト断片がたくさん落ちているので、岩相の観察には不自由しませんでした。
画像1 地質+位置図
画像2 境内のペグマタイト破片
画像3 境内のペグマタイト破片

No.326 ペグマタイト岩脈の産状 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年01月28日 (土) 17時42分

 ペグマタイト観察場所は、社殿脇の境内地で岩脈の下部を、踏み跡で登れる社殿裏の峰頂上で岩脈上部を見ることが出来ます。
 山頂は、地下の岩脈に沿って4面の露岩塊が散在し、山腹では、幅14mの岩脈断面が3面露出しています。

画像1 社殿脇のペグマタイト
画像2 山頂のペグマタイト
画像3 山頂の峰地形とペグマタイト露岩

No.328 <ペグマタイト岩脈の地質的説明> 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年01月29日 (日) 23時10分

画像1 ペグマタイト案内銅板解説
画像2 郡山市の文化財解説看板
 ペグマタイト岩脈とは、ということで、郡山市の出している文化財解説書と境内の看板の文面を出します。
 岩石・鉱物学的説明が主で、地形学的説明は、ほとんどなく、太字の部分ぐらいです。まあ、地形が指定されているわけではなく、岩石の露出が指定対象なので、無い物ねだりなのですが・・・。
 ペグマタイト岩脈の巨石とは、どうゆうものかについては、この次の書き込みで、私の観察を書きます。

最初は、境内の露出脇の銅板解説。地向斜が出てきたりして、内容は古いですが、一番詳細です。

(1) ペグマタイト案内銅板解説
コンクリートはめ込みの銅板に線刻。全文読めました。
以下、翻字結果。

碑裏の、建立年月日、建立者等を撮影し忘れ。(^_^;)
鹿島神社ペグマタイト岩脈 案内板銘文
ペグマタイト岩脈
 この岩脈は花崗岩の一種で巨晶花崗((ママ))ともゆう、
この種の岩石は、地球上において地向斜といわれる凹地を形成し、そこに厚い堆積岩を堆積したような地殻の比較的不定な地域すなわち造山帯の弱線に沿って迸入した。
 阿武隈山地は日本でも最も有名なペグマタイトの産地であるが、このような弱線は高原西縁部に稍南北に、北は宮城県伊具郡大張村より 福島県伊達郡白根村、霊山町 川俣町 東和村を経て郡山市西田町、高瀬を過ぎ 宇都峯山を通り 須釜村に達し 更に南下して野木沢 石川町を通って山橋 鮫川村を貫き 塙町に至るときはその勢が弱まり、二つに分離 その一つは茨城県多賀郡高岡村に、他は久慈郡賀美村に達する。その全長は一四〇粁に達す。多くのペグマタイトはこの弱線に沿って迸入し、その大さ 形状は種々様々である。構成鉱物は石英 長石 雲母等を主とするがその上部は又は縁辺部は長石 雲母 等 の外に電気石紅柱石ザクロ石キンセイ石モナズ石サマルスキー石 ヘルグリン石等ウラニウム、トリウム、イットリウム等の稀元素を含む鉱物を含有するも((ママ))のが特徴である。
 現在見られるこのペグマタイトは、岩体下部に相当し 主として石英の結晶の集合体であるが、一部に長石も残存する。 この岩石が生まれてから約一億年の時が経過し その間に地殻の変動、風化 侵蝕のために地表に突出したものであるが、その間の歴史は岩肌に強く刻み込まれている。これらの岩石を構成する石英及び長石は、光学レンズ 陶磁器等の重要な原料であるために、殆ど採掘し盡され このような雄大な自然の状態を示すものは稀である。従って このペグマタイトは学術的研究資料として貴重なるものである。
                       福島県文化財専門委員
福島大学教授 理学博士 三本杉己代治〔印〕

(2) 郡山市の文化財解説書
 神社入り口の、ペグマタイト岩脈看板にも同文が載っている。
 郡山市教育委員会編:郡山市の文化財 保存版 p104

94 鹿島神社ペグマタイト岩脈
郡山市西田町丹伊田字宮作239 昭和41年6月11日指定・・・1966年
所有・管理者 鹿島大神宮 tel 971-3276

西田町丹伊田の県道沿いに、杉の古木でおおわれた鹿島大神宮があります。
西田町丹伊田の県道沿いに。スギの古木でおおわれた鹿島大神宮があります。この境内のいたるところに純白の巨岩があります。これが石英や長石を主成分としたペグマタイトの岩脈で、露出している面の延長は約40m幅14mにおよび、地下10mまでこの岩石があるものと推定されています。
 現在見られるこのペグマタイトは、長い年月をかけての地殻の変動・風化・侵食のはたらきで地表に表れたものです。
 阿武隈山地の隆起運動にともなって花崗岩が貫入し、その末期にペグマタイトが貫入し、ゆっくり冷えて、非常に大きな結晶となったもので「巨晶花崗岩」とも呼ばれます。
 かつて、西田町から安達郡白沢村にかけての阿武隈山地は、ペグマタイトの産出地でしたが、その多くは、工業用原料として秤堀|されました。
しかし、ここには約14,000tと推定される量が、現在でも保存されており、大変珍しく貴重なものです

No.329 <ペグマタイト露岩の地形的記載> 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年02月01日 (水) 19時44分

画像1 岩脈の平面図と岩脈方向から見た正面図
画像2 岩脈方向から見た縦断図
画像3 再度掲示:岩脈末端の押し出し破断地形。破断岩塊が木に倒れかかっている。
 前回の岩石鉱物学的説明は、地下で出来ているペグマタイト岩脈の紹介であるわけですが、それが地表に露出して巨石となっている状態、その巨石化の過程については、何も書いてありません。つまり、巨石の材料としてペグマタイト岩脈を考えると、どんな性質であるかということが、地形学的説明ということになります。
 しかし、私の管見によれば、こんな特殊な稀な地形について、調査などした方はいず、まだ誰も述べたことがないのではと思っています。
 勿論、私も知りません。(^_^;)
 実際に露出しているペグマタイトの微地形・微細地形を観察して、一般化していく作業が必要です。
 以下は、この作業の第一歩としての、この露出地の事例観察です。 

 まず、岩脈オーダーの微地形について。
 上述のように、ペグマタイト岩体の露出は地表1カ所で、標高350m+の小峰の山頂部から、神殿境内まで比高13mぐらいの露岩列をなしています。
 露岩と周辺の微地形の関係をスケッチし、まとめてみました。
(1) ペグマタイト岩脈が露出するところは、突出して、山頂では四面露岩、山腹の境内では三面露岩となっています。あとは、ローム混じりのマサ砂です。マサ砂よりも硬いので侵食に抵抗して峰になっているのは明白です・・・正面図参照。
(2) 峰と言っても小さなもので、周辺マサ山の方が高いので、ペグマタイトがそんなに侵蝕に強いわけではありません。岩質は硬くても、割れ目が非常に多く砕けてしまうためでしょう。

岩脈の崩落微地形
 山頂まで登り、岩脈の上に立ってのぞき込んでみると、山頂直下で、岩体が割れて、ブロックが下にすべって、山頂直下に小さな段地形を作っています・・・平面図参照。
 ペグマタイト岩脈が地表より突出しているため、自重により境内地側へすべり出したためで、すべり面はすでに沢山ある岩脈の横断方向の割れ目を境に滑ったものと思われます。
 岩脈の見学者に印象的な、境内の大木の幹に、岩脈の前面の岩塊が分離して、倒れかかっている光景は、この動きの結果と思われます。
 すなわち、この滑り出しによって、山が膨らみ、岩脈が全体的に境内地に向かって押し出し、岩脈前面が割れて、その一部が倒れ、境内の木の幹に倒れかかったものです。
 この倒れかかりは、ごく最近のことと思われ、境内地の整備により岩脈の下方の支えの地山が削られたことによる可能性が高そうです・・・縦断図山椒。
 このへん聞き取り調査をしたら面白そうです。

まとめ・・・ペグマタイト岩体の露岩の地史
(1) 地中のペグマタイト岩脈とその周辺のマサ砂が、侵蝕により地表に露出。
(2) 岩脈は均質・巨晶の風化しにくい石英からなるので、周辺のマサより硬く地表に露出する   と露岩となり、露岩の脈に沿って尾根に細長い小峰が形成される。
(3) ペグマタイトの露岩は、硬いが、そもそも割れ目が無数に入っているのでポロポロ割れて   しまい、峰の高さは低下する。
  露岩の白銀色の輝く地肌は他に無い景観で、信仰を集め、鹿島神社が作られる。
(5) 鹿島神社社殿が整備され、境内地が地山を掘り込んで形成される。
  岩脈下方の地山の除去により、支えを失った岩脈が滑り出し、境内方向にすべり、岩脈前  面の一部が分離して倒れる。(続く)

No.330 4.ペグマタイト岩脈露岩の表面形 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年02月09日 (木) 00時59分

画像1 ペグマタイト破片
画像2 ペグマタイト岩塊表面
画像3 ペグマタイトの破断

岩脈の表面形など微細な形についてみてみます。

(1) ペグマタイト岩脈露岩の外見(岩肌の色)
 岩肌が白い岩石には、チャートの一部あるいは石灰岩などがありますが、巨晶の白色半透明の石英からなるペグマタイトは、それらとはかなり違った肌の色に見えます。
 チャートや石灰岩とは違って、露岩表面の岩肌が、均質で硬そう、磁器のように白く・・・私は牡蠣の殻の内側の色を連想しました・・・かつ、新鮮な割れ口は、白銀色にギラギラと輝いて見えます。こんなギラギラの岩石はありません。すごく、特殊な石の肌色だと思います。⇒画像参照。

(2) ペグマタイト岩脈露岩の外見(割れ方と岩塊の形)
 岩肌の形についていうと、岩質は硬いのですが、無数の割れ目が入っていて、非常に割れやすい岩石だといえます。
 四角い網目状に冷却節理割れ目が発達していて、それを境にポロポロと崩れています。4〜5cm幅の割れ目が一番卓越していますが、その割れ目形の中に、また、より小さな割れ目が縦横に入っていて、より細かく割れており、最終的には一辺5mm位のサイコロ状のかけらになるようです。⇒画像参照。
 岩脈には、より大きな幅で、互いに直交する割れ目群が2〜3mの幅で入っていて、そのぐらい大きさの直方体の岩塊に分離しています。
 それら、大きなサイコロ状岩塊の露岩が、更にその表面が4〜5cmの小さなサイコロ状に割れているといえます。 ⇒画像参照

No.331 ペグマタイト露岩の微地形・・・まとめ 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年02月10日 (金) 13時54分

(1) ペグマタイト岩脈の露出により形成される地形
 地表に露出せず、地中にある状態では、ペグマタイト岩脈は、岩脈周辺の花崗岩体がマサ化していくのに対して、、マサ化せず、岩脈そのままの形を保つと考えられます。その結果、岩脈が地表に露出した段階では、周辺のマサ砂より硬く、地表での突出部分になります。
 地表露出後は、岩脈内部に元々割れ目が大小無数に入っているため、それに沿って破断し、露岩表面サイズとしては、縦割れの割れ目によって分離した小岩峰・岩塊の集合体となります。
 小岩峰は平面は方形で、上面は小サイコロ状の岩片が破断して角錐形、屋根型になっています。
 岩塊・岩峰の表面形は、一面に凸凹で、イコロ状の小破片が抜けた跡の表面形となる。

(2) 巨石地形の中での、ペグマタイト地形の位置づけ
 巨石としてみますと、地中で形成されたコアストーンのような、特有の風化形を作らない。また、地表露出後は、一応特徴的な岩塊微地形を作るが、細かい割れ目が多いせいでどんどん崩れてしまい、大きな巨石にはならない。
 火砕岩のように丈夫な岩体でなく、大きな露岩を作りません。また、花崗岩のような特徴のある形をも作りません。そんなわけで、一言で言えば、巨石調査対象としては取り柄がない岩種だと思います。
画像1:ペグマタイト岩塊(現地性)の表面形
画像2:ペグマタイト岩塊(小移動)の表面形

No.321 巨石の地学講座のお知らせ 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年01月16日 (月) 01時20分 [返信]

私事ですみませんが、上記の趣旨の講座を本年も行いますので、ご興味のある方のご参加をいただければ幸いです。 
 以下の講座です。
=====================
名称;信仰巨石の地学観察技能講座1・2
趣旨:巨石信仰の対象となっている日本各地の花崗岩巨石について、信仰化される以前の巨石の成り立ちと変遷を紹介し、観察のコツと技法を紹介します。連続受講優先。
開催日時:2017/2/11(土) 13:00〜16:00 2016/2/12(日) 10:00〜16:00
行事番号:101・102
シリーズ名:地学講座
受付方法・締切日:2016/1/28(土)
開催地・会場:千葉県立中央博物館 研修室
対象・定員:高校生以上・20名
講師 (所属):吉村光敏(館友)

2日に渡る講座で、総時間8時間分。
講座1:花崗岩巨石がどうでき、どう壊れるのかの概説。巨石を地形学の方法に則ってどのように調べるのか、山梨市の大石山巨石群を例に。
講座2:東日本の巨石を例に、主要な巨石の形成史を解説します。
お申し込みの方は、千葉県立中央博物館のHPから、申し込みでも結構ですが、
私の方へ、申し込んで頂いても結構です。その場合は、1/28過ぎでも大丈夫。(^_^)
上にメールアドレスがあります。・・・この掲示板は、アドレスを書くとはねられてしまうので、すみません。
画像は、山梨市大石山の甲石巨石群破断状況。元は1つの巨大岩塊だったのが炸裂破断
==========================
<補足>
・名称は、「信仰巨石」という、未消化な名前ですが、一般の巨石でなくて、信仰対象になっているような巨石の地形学という意味です。
 信仰対象になっている花崗岩巨石というのは、古人が不思議な立地だなあと思うような、マサの山地にポツンとある微地形(巨岩)なので、花崗岩地形としては地形学の対象としてほとんど取り上げられてこなかった場末の地形です。
・私の歩いた東日本の巨石を対象にして、巨石がどうできたのか、それをどのようにして調査するかということ、いったん形成された巨石が、古地震や重力風化などにより破断しつつある現在の姿をどう解釈するかということを、巨石地形学として解説します。
ちなみに、人工の巨石は1つもありませんでした。大石はありましたが。
・2日連続、土日なのは、もしかして遠方からの方がいらした場合、1回ですむようにとの考えです。1日目の夕方、懇談というのもありかも。遠方の方には、宿泊の手配もしたいと思います。
・この講座は、巨石愛好者向けを主に考えています。巨石の愛好者が、人間が発見する以前の巨石について考えるため、知るための基礎となる地形学知識と考え方を紹介するものです。まあ、「磐座前史」の考え方と知識として、皆様の巨石を観る目の足しになればと思います。
・講座としては、2年続きで巨石をやりますので、来年は別の主題になります。また、その次は、私が生きているかどうか心許ないので、今回の講座が最後の話になるかも(^_^;)。
・信仰巨石地形の調査を志す方が出たらいいなあと思ってやっています。

No.332 講座修了しました 投稿者:滝おやじ     投稿日:2017年02月13日 (月) 22時41分

2月11,12日の講座無事終了しました。
御参加頂いた方々ありがとうございました。
2日で延べ27名の参加を頂きました。このぐらいの人数が話しやすくていいです。質疑応答も多くできて良かったです。

No.320 今年の年賀状です 投稿者:滝おやじ   投稿日:2017年01月15日 (日) 16時12分 [返信]

奈々久良(ななくら)の滝
茨城県常陸太田市折橋所在。阿武隈山地南部竪破山の山腹、里川水系天竜川支流大沢の源流にある。阿武隈花崗岩の岸壁に懸かる3連の滝で、全比高約15m。支流の懸谷の滝。本流にはほとんど水がないのに対し、年中水が涸れず、竪破山の奇瀑といわれた。
 滝の上流が河川争奪地形で、他の支流の流域を横取りしているためで、意外にも、阿武隈山地の滝には河川争奪が絡んでいることが多い。

No.315 2017年もよろしくお願いいたします 投稿者:滝おやじ    投稿日:2016年12月30日 (金) 21時18分 [返信]

2016年後半は、いろいろあって、余り書き込めませんでしたが・・・来年は、ぼちぼち頑張りたいと思います。

No.313 「国石」候補のアンケート 投稿者:滝おやじ    投稿日:2016年07月25日 (月) 00時51分 [返信]

最近、日本地質学会が、「県の石」というのを。制定しました。
http://www.geosociety.jp/ 
 ちょっと話題になったと思います。わが千葉県は、千葉石になりましたが・・・。
あんまり面白くなかったなあ。

今度は、日本鉱物科学会が、「国石」というのを選ぼうとしています。
 http://jams.la.coocan.jp/ishi.pdf 
11候補挙げられていますが、いまならいろいろ意見も言えるようです。
日本には、どんな岩石鉱物がふさわしいかなんて、今まで考えたこともないので、ちょっと面白いですね。
 すぐでてくる「さざれ石」は、さすがに科学的にはどうも、ということなのでしょう。
 断層起源のミロナイトは、ちょっと重いし、うれしくないですね。
 付加体で、枕状溶岩というのもあるかも・・・ダサイか・(^_^;)
 歴史的には、銀鉱、金鉱でしょうけど、品位がない感じ。

 候補になっている、桜石か、双胴水晶ですかね。やっぱり、形にデザイン性があって、色もきれいなのがいいですよね。紋章みたいなもんだし。
 ヒスイは、中国が「俺のだ」と言って、怒りそう。

No.311 滝の調査に関する助言を募集しております。 投稿者:kuri    投稿日:2016年07月24日 (日) 00時43分 [返信]

初めまして。
自分は都内の大学に在籍し地理学を学んでいる二年次生です。三年次生からは地形学を専攻したいと考え、勉強しております。二年次の課題研究において滝の形成プロセスを研究したいと考えています。様々なサイトなどを巡っているうちにこちらの掲示板を見つけ、学外の滝に詳しい方の意見をいただきたいと考え、こうして書き込みをさせていただいております。
質問は二つあります。一つが持ち物についてです。現段階では
野帳・筆記用具・雨具・折れ尺・ルーペ・コンパス・地形図(自作品と1/25000)・カメラ・長靴・手袋・
熊鈴
を予定しております。このほかにあったら便利なものなどございましたらアドバイスをいただきたいと思っております。
二つ目は、皆様は滝を観察するときには特にどういったポイントに着目しているのか差支えがなければ教えていただきたいと思います。
よろしくお願いいたします。

No.312  投稿者:滝おやじ    投稿日:2016年07月24日 (日) 23時57分

滝おやじ
目的と、状況によって、いろいろ変化するのは当然として。
1人で、かつ、沢登りはしない範囲の調査ということなら・・・普通は、沢登り滝登りがあるので、基本、最低1人の、登山沢登り、測量用助手役を同行して行います。1人でできる滝は限られる。
 <持ち物>
安全確保のための携帯。GPS等の器具。長靴(鋲付き)か沢靴かは、現地で判断。
直接調査用具:岩石ハンマー、採集袋。
 筆記用具には色鉛筆。補助ロープ・登山用手袋。ヘルメットとランプ。
 5m箱尺を愛用していますが、持っては滝は登れない。樹高測定用の簡易尺でも使えるかも。場合によっては、50m巻尺が便利、
 携帯光波測距器(角度・距離表示)が必携。コンパスはオリエンテーリング用か軍用が良い。
 地形図・・自作品とは?。地形図に、空中写真判読地形分類と地質図・地すべり図情報を移写した作業図という意味でしょうか。
 市町村発行の1/2500も必携。実体空中写真(コピー)も必携。

 <観察のポイント>
概査と精査で違いますが、滝は、既存情報が貧困であったり不正確なことが多いので、、概査段階をきちんとやる必要がある・・・滝のある川を出会いから水源まで一通り歩いて観察。
 さらに、そもそも、瀑布帯や個々の滝について精査する前に、その滝のある一つの支流とその遷急点という、より大きな地形を把握する作業を欠かさないことが必要と思います。

 地質図・地すべり情報移写と空中写真判読を、流域で行い、現地で岩質等観察。
 出会いから水源までの河床縦断面を作図し、そこに、各滝を記入して、河川遷急点としての滝の位置づけを行う。
 河川遷急点(滝群)の位置と高さを現地測定し、地形図を補正する必要がある・・・地形図(特に、最近の空中写真図化による市町村地形図・・は誤りだらけ)。
 また、滝の地形は等高線式地形図では完全には表現されないので、瀑布帯ごとに、観察による平面地形学図と詳細縦断図を簡易測量で作って行く必要がある。

No.314  投稿者:kuri    投稿日:2016年07月25日 (月) 20時48分

滝おやじ様
お返事ありがとうございました。
詳しいご説明で参考になります。
ちなみに自作の地図とは、国土地理院基盤情報を利用した周辺の5mDEMの地図に等高線をつけ、地質図を写したものです。

No.310 参加募集:等々力渓谷の地形観察会を行います。‏ 投稿者:滝おやじ     投稿日:2016年03月16日 (水) 23時28分 [返信]

私事ですが、来る3月26日(土)、東京都世田谷区の等々力渓谷で、地形現地観察講座を行います。
 朝日カルチャーセンター千葉の、歴史・文学・教養・自然科学講座です。(^_^;) 有料4,104円 ('_')。

 等々力渓谷は、都内唯一の自然の渓谷ということで、地学系の学生は、一度はいったか、行かされた所だと思います。 この渓谷は河川争奪でできたという話はあったと思いますが、現地観察対象は、渓谷部分の崖に少し出ている地層のみだったはず。
 今回やる講座は、有料で4000円もする・・・カルチャー講座って高い物らしいです・・・のですが、それだけに、損はさせないよう、地質だけじゃなく、というか、地質の話は必要な部分だけに絞って、等々力渓谷の河川争奪により、どのように地形が変化したのか、峡谷の形成史を紹介します。そのため、時間も延べ4時間、観察範囲は、峡谷部だけでなく、その上流の滝のあった所までの2倍。観察対象は、地下水と河川と地層が作る、峽谷の微地形とそれから地形形成史をどう作るか・・・・など、マニアックに迫って、参加しても、元が取れたと思えるようにしたいと思います。
 ちなみに、この内容は、先日、千葉地理学会で発表したのですが、この3月21・22日の日本地理学会でもポスター発表する予定で、パリパリ新事実です。
 懇切丁寧、質問随時、費用対効果抜群、なるほどの目から鱗、を目指して開催しますので、ご気楽にご参加下さい。先着順15人ぐらいまでかも。
 画像は、等々力渓谷を念頭に作った、台地河川の河川争奪概念図
 
講座の名称や申込先は下記の通り
==========記==============
・講座タイトル
峡谷の形、その見方と目のつけ所(現地)・・・都区内唯一の峡谷・等々力渓谷を例に・・・講師
千葉県立中央博物館館友 吉村光敏
・講座紹介
この講座「地表の形、その味方と目のつけ所」は、山の形、滝の形、巨石の形等・・・地球表面の形を解釈して、できかたを考えます。今回は、川の峡谷地形をどう見るかを紹介。実は、今年、目黒区の等々力渓谷を調査したので、それを例に、地形的な見方を紹介します。河川争奪で峡谷が出来て、更に、その後どう変化してきたかという話です。個別の、それも、小さな峡谷の調査例ですが、河川地形の見方として応用が利き、観光旅行、登山が楽しくなるツールになるはず、気楽にどうぞ。
・時期時間
2016年3月26日(土) 10:30〜15:30 注)カルチャーの伝統で、大地震か台風が来ない限り雨天決行だそうです。
・費用
カルチャー会員3,544円 一般 4,164円
・装備
歩き用の靴、汚れることはない、寒さは自衛、昼食は持参・・・大都会の真ん中なのでコンビニあり。
・ご予約・問い合わせ先
朝日カルチャーセンター千葉 043-227-0131 担当石井 前日まで受け付け。

No.309 講座レジメを掲載しました。 投稿者:滝おやじ     投稿日:2016年03月04日 (金) 22時24分 [返信]

 巨石地学講座開催後、当日の資料を見たいというご要望を頂きました。
 また、当日のレジメは、資料代をケチらされ、カラー画像をモノクロ印刷したので、潰れてしまい、凄く見にくくなっています。 参加者へのお詫びの意味でも、カラーの画像にして、以下に当日のスライドを、順番にして掲載いたします。
 上のHomeから、拙HPへ飛び、巨石の見物記ページへ行って下さい。ご笑覧頂ければ幸いです。
 2日に渡る講座で、総時間8時間分ありますので、枚数103枚です。気長にどうぞ。(^_^;)
 スライド映写の前に、前置きとして、地形の見方、考え方の話を、A4資料4頁分したのですが、前置きですので省略します。
当日資料の乱丁・語句修正+少々補足もしたので、当日のスライドと微妙に違っていますが、内容は変化ありません。,
 巨石の産状用語:地中塔や現地性異地性などは、議論の共通用語として広がっていくと良いのですが・・・。

No.307 巨石の地学講座のお知らせ 投稿者:滝おやじ     投稿日:2016年02月04日 (木) 00時06分 [返信]

私事ですみませんが、上記の趣旨の講座を行いますので、ご興味のある方のご参加をいただければ幸いです。
 以下の講座です。
=====================
名称;信仰巨石の地学観察技能講座1・2
趣旨:巨石信仰の対象となっている日本各地の花崗岩巨石について、信仰化される以前の巨石の成り立ちと変遷を紹介し、観察のコツと技法を紹介します。連続受講優先。
開催日時:2016/2/27(土) 13:00〜16:00 2016/2/28(日) 10:00〜16:00
行事番号:125・126
シリーズ名:地学講座
受付方法・締切日:2016/2/13(土)
開催地・会場:千葉県立中央博物館 研修室
対象・定員:高校生以上・20名
講師 (所属):吉村光敏(館友)

お申し込みの方は、千葉県立中央博物館のHPから、申し込みでも結構ですが、
私の方へ、申し込んで頂いても結構です。上の Home をクリックすると、メールアドレスがあります。・・・この掲示板は、アドレスを書くとはねられてしまうので、すみません。

=======================
<補足>
・名称は、「信仰巨石」という、未消化な名前ですが、一般の巨石でなくて、信仰対象になっているような巨石の地形学という意味です。
 信仰対象になっている花崗岩巨石というのは、古人が不思議な立地だなあと思うような、マサの山地にポツンとある微地形(巨岩)なので、花崗岩地形としては地形学の対象としてほとんど取り上げられてこなかった場末の地形です。
・私の歩いた東日本の巨石を対象にして、巨石がどうできたのか、それをどのようにして調査するかということ、いったん形成された巨石が、古地震や重力風化などにより破断しつつある現在の姿をどう解釈するかということを、巨石地形学として解説します。
・講座1で、一般化した話をし、講座2で、事例を紹介します。東日本の花崗岩巨石については、有名な巨石は大体、その成因と破断について紹介できると思います。
・2日連続、土日なのは、もしかして遠方からの方がいらした場合、1回ですむようにとの考えです。1日目の夕方、懇談というのもありかも。
図は、甲府盆地、山梨市石森山の富窟岩塊群展開スケッチとメモ

No.308  投稿者:滝おやじ     投稿日:2016年02月26日 (金) 13時43分

多数のご参加を頂き、定員数よりオーバーで開催することになりました。ありがとうごじました。また、抽選に漏れた方々には、お詫び申し上げると共に、来年亦開催いたしますのでその節にはよろしくお願いいたします。

No.305 謹賀新年 投稿者:滝おやじ    投稿日:2016年01月01日 (金) 13時54分 [返信]

本年もよろしくお願い致します。
画像は、養老川水系筒森川の入知坊の滝。
去年最後に訪れた滝です。川廻しの人工滝で、川廻し完成当時はトンネル水路だったと思われますが、その後トンネル上の岩盤が尾根まで落盤して大きなV字谷になったと思われます。
今年中には、滝の調査まとめたいと思います。

No.294 福島県二本松市立石地区 立石巨石群 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年10月14日 (水) 01時13分 [返信]

<位置>
 花崗岩の巨石地形事例を集めるため、阿武隈・北上山地の花崗岩露出地を廻っています。
 備忘録代わりのまとめ。
 東北地方の巨石の事例は、インターネット上のyo-hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」 (http://hamadas.exblog.jp/ 20130522現在) から所在情報をもらいました。 
この立石もその一つです。
  http://hamadas.exblog.jp/13618095/  
 所在地は、位置図を参照。国土地理院2.5万地形図「安達太良山」図幅に注記しました。
 福島県二本松市立石地区にあり、有名な岳温泉の近くです。
 位置図に示したように、岳温泉への道沿いに案内看板があり、そこから、荒れかけた林道を行って、尾根の肩に登り、巨石の前まで車で行けました・・・2015年4月。
 この尾根は、立石から山を越える、旧二本松街道として利用されていました。巨石のある尾根の肩は、立石集落から急坂を登り切った場所に当たり、集落の山の神が祀られています。また、露岩の立石が集落名の元にもなっています。
 なお、立石集落から直接登る旧街道道は、歩道のみ。
<立地>
 阿武隈花崗岩からなる低い山地の稜線肩にあります。標高約485m。
 残念なことに2.5万地形図にしては珍しく地図の等高線表現が不正確で、稜線の形が正確でありません。
 現地でみると、その稜線の肩は、重力すべり起源と思われる二重山稜地形で、その二重山稜の峰部に、花崗岩コアストーンが露出している地形です。
 二重山稜や、稜線立地などから、コアストーン露岩の露出には氷期の周氷河作用と、稜線効果による裸地化が関わっていたのだろうと思います。

 全景画像は、尾根肩の地点から撮影。前面の浅い凹地が二重山稜の底にあたり、凹地底の道路が二本松街道で、道脇に山の神と刻まれたコアストーンの半切岩塊が、文化年間に石塔として立てられています。なお、最近、林道工事に伴って、山の神塔前の道幅が、さらに拡張され、道沿いの岩塊も動かされているようです。
 画像の右手が、二重山稜の峰部分で、そこにある岩塊群が、立石とよばれる石です。この露岩群の信仰の中心となっていると思われる石で、岩の麓に小宮が祀られています。
 
<コアストーンの破断分解>
 実を言うと、そんなに規模の大きな巨石群というわけではありません。私が、興味を引かれて訪れたのは、この露岩コアストーンが見事に破断して壊れているという点です。
 近接画像は、その立石の壊れっぷりを側面から見上げた景観です。変質者人形(身長1.7mぐらい)を、スケールにしました。
 一見して、元はひとかたまりで、もっと高く聳えていたコアストーンが、破断して周りに落下したり、落ちかかっていると見えます。
 落ちている1つ1つの岩塊について、落ちてきた方向を矢印で記入してみます。すると、砕ける前は、画面に記入したコアストーンAとコアストーンBの2つが少し離れて立っていたと考えられます。コアストーンAは、尖った卵形で、背が高く、コアストーンBは、球形で、こぶり立ったようです。 その後、Aの上部や側面が、バラバラに砕けて落下し、Bの上にものしかかり、さらに、周りに散乱堆積していると読み取れます。
 その辺が面白いので、破断する前の各コアストーン単位で、どう破断しているのかを中心に見ていくことにしました。(続く)

No.299  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年10月24日 (土) 23時33分

<巨石群の位置図>
立石巨石群の概略位置図です。
 現地での簡略測量で作ったので厳密な位置図ではありませんが。(^_^;)
 図のように、西北西〜東南東方向の二つの稜線が平行した、二重山稜地形です。
 その稜線部分に、かってコアストーン起源のゆで卵の半分を立てたみたいな形の露岩が点在していて、それが破断して周辺に散乱している地形と解釈されます。
 図では、現地性岩塊と転落岩塊に色分けしてあります。なお、図では、当初の位置に近い場所にあるものを現地性岩塊としていますので、破断せず当初の位置に留まっている・・・全く動いていない・・・岩塊はごく少数です。
 破断・転落する前の、当初の岩塊位置を考え、その元々のコアストーンごとに仕分けて、岩塊群に分けました。
 位置図に示すように、A、B、C、D、,E、F(山上塔台石岩塊群)、G(立石岩塊群)、の7つの各岩塊群を識別しました。・・・C岩塊群は、単独の卵形コアでなく、それが連続した岩列だとおもいますので、1つにまとめました。(つづく)

No.300 <A〜Gの7つの巨石群> 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年10月24日 (土) 23時36分

<A〜Gの7つの巨石群>
・A〜E および F:立石岩塊群 G山の神塔岩塊群に区分。7つの各岩塊群を識別しました。
・A〜E群は、現地性岩塊が少し破断しているのみ。
・現地性コアストーンの内、特に大きくて立っている、G群(立石岩塊群)が、名の元になった「立石」でしょう。
・立石の周辺に、欠け落ちたと思われる破断岩片が多数散在していて、それらを含めてG群とします。
・D、E岩塊は、それら散在するF群岩片範囲中にありますが、円頭半埋もれ石で現地性の球面岩塊と判断して、F群とは分けました。
・F群:山の神塔台石巨石群。 山の神塔石は、加工して立てた石で明らかに人工。その台石も大きいが、全面破断し、球面を下にした浮き石。一見G群の破断片かとも思えるが、それにしては大きく、台石付近にあった独立のコアストーンの破断したものの可能性があり、また、人工移動・加工されているので別群とします。
・山神塔銘文:「山神塔」「文化三寅天十月十七日」・・・施主名なし。

画像:F群:山神塔台石巨石群の人工加工
台座になっている石と、台石の上に立つ山神塔石は、もと一体のコアストーンが真っ二つになった跡のようです。 ただ、人工加工が激しく、文化三の面は人工カットで、直立する姿は人工に据えられたものと見える。そうみると、塔の石の後ろの石も支えに置かれたもののようで、これは、G群の転落岩片を人工移動して乗せたようですし、台石も都合の良い平面になるように回転させてありそうです。位置そのものが車道工事の際に移動されている可能性もありますね。(続く)

No.301  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年10月24日 (土) 23時48分

<A群>
稜線上に露出している、鯨の背びれのような形の、尖り頭のコアストーンです。地表高さ1.3m 長径2mほど。
 図の桃色部は、コアストーンの風化球面で、緑色部分は破断面。桃色の部分をつなげると、破断前の形が一目で復元できます。
 図に示すように、A・B・Cの3つの岩塊からなり、破断前は3つが一体だったことが分かります。
 Aの形や、BCの離れ具合から、このコアストーンは地下に岩体がずっと続いている根石では無く、マサ中にある浮き石と考えられます。
 また、動けば倒れてしまう形ですので、Aは動いていないと思われ、異地性ではなく現地性の岩塊と判断します。
 つまり、花崗岩体が深層風化してマサになっており、未風化部分が、表面球面のコアストーンとなって、マサのなかに埋もれていた状態で、そのコアストーン単体が侵食により地表に半分露出した状態と思われます。
 立石巨石群の各岩塊は、G群(立石岩塊群)のA(宮の祀られた立石) を除いて、みな、このように、現地性の浮き石コアストーンを起源にしていると思われます。
 破断状態については、コアストーン主部Aの両裾が破断して、岩塊B、Cが分離しているのはよく分かりますが、地下の部分で割れ目がどう続いているのか、掘るわけにもいかず不明です。ちょっと残念。(続く)

No.302  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年10月24日 (土) 23時51分

<C群>
C巨石群の景観です。
破断した岩塊の多くは、南側の谷に転落してしまったようで、付近には見当たりません。
稜線部に残っている岩塊の様子から、以前は、マッシュルームのような球形のコアストーンが並んでいたらしく思われます。
 その割れ方ですが、D1,D2、A1,A2のように、単純にパリンと割れて、お互いの破片が近くにあるというのは少なく、大部分は、割れた破片の片割れが近くに見えないような、もっと激しい爆発的な割れをしたように思われます。(続く)

No.303  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年10月27日 (火) 11時42分

<F群・山神塔台石岩塊群>
F群の景観です。
画像の手前が林道で、林道脇の岩塊は一直線に並び、林道工事で動かされているのは明白。
 山神塔本体は、江戸時代文化年間に加工して立てられたもの。
 山神塔の台石も,石の下に平らな岩片を重ねて敷いた上に乗せて台石にした感じで、、前の書き込みで画像を示した側面観からも、山神塔と台石ごと林道工事で、脇に移動されているようです。
 山神塔とその台石の元は、G群の破断岩片かもと思いましたが、後述するG群の破断復元結果から見て、G群とは別の単独のコアストーンであったもののようです。
 B群が残片のみの岩塊群なので、単なる可能性ですが、B群のあたりにあったものを移動したのかもと想像しています。(続く)

No.304  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年11月20日 (金) 13時17分

<G群・立石神体石岩塊群 東面>
G群の東側から見た景観です。画像とスケッチ図で示し、各岩塊に名称をつけました。
 スケッチ凡例
桃色着彩面:地下でのコアストーンの風化球面。
緑色面:露出後の破断面。
橙色面:、桃色面と同じ風化球面か、あるいは、コアストーン球面に平行に殻状に破断した破断面かが未定のもの・・・前者の可能性の方が高そうです。
赤線:元の位置からの転落移動方向です。

・G群岩塊群の概要
 立石神体石(G群)岩塊群は、岩塊A〜Kに分離しています。
 前述したように、これらは元は2つの露出コアストーン(名前をGA、GBとします)があり、それが破断して、A〜Kの乱雑積み重なり・散在した岩塊群になったものです。
 GAは、H以外の岩塊の元で、動いていない岩塊B・Cと、その上に乗っていたAを中心とする位置にあった大きな立石の露出コアストーンです。GBは、その西に近接して立っていた球状の小型の露出コアストーンで、現在はGAから転落してきた岩塊の下敷きになり、岩塊H1〜3に割れています。
 GA、GBとも、勿論現地性で動いていませんが、底に岩が続いている、根石のようには見えません。ただし、そうであっても、岩の規模から見て地下すぐに地中塔の頭がある思われます。
 この向きからの眺めでは、GBは見えず、尾根二重山稜稜線の肩上にある旧GAを、尾根の下から見上げるアングルになります。

・東面で見られる破断の様子
 図に示したように、岩塊B1、B2・・・割れ目が入って2つに分離している岩塊、岩塊C・・・表面に神像が浅い線刻で刻まれている、が、動いていない状態で立石を構成しています。その上に乗っていた岩塊AはBCの後ろに落ちているので見えません。
 手前右の落下岩塊Kは、岩塊Aの上か脇に付いていたものが落下したと思われます。
 手前左の落下岩塊Iの形と、立石Cの断面形が一致する・・・・Cの点P・Qと、岩塊IのP1・Q1とが対応する・・・・ので、岩塊Iは、岩塊GA南東側の三角形の破断凹みからの岩片です。
岩塊Iの近くの、岩塊J、岩塊Gもその凹みからの破片と云うことになります。
 落下岩塊E・Fについては、岩塊Bあるいは岩塊A唐の破断ですが、南面の景観解説の際に述べます。 
 各岩塊の破断状況を見ると、各岩塊の破断面は、節理面の開口による面ではなく、微妙に凹凸のある曲面で、節理と関係なく大きく破断した面です。
 また、岩塊I・J・Gは同時に破断転落したと思われ、移動距離や破断の様子から、単純に剥がれ落ちて落下衝撃で割れたにしては移動量が大きいと思われます。
 さらに、岩塊I・J。Gの抜けた跡である、岩塊B・Cの破断面も、一見垂直の節理面のようですが、垂直の開口破断割れ目と思われます。
 これらのことから、GAからの各岩塊の破断は、地震動による炸裂破壊の可能性が高いと思われます。

No.280 福島県鮫川村 天狗橋の巨石・遷急点 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年09月19日 (土) 14時18分 [返信]

 花崗岩の巨石地形事例を集めるため、阿武隈・北上山地の花崗岩露出地を廻っています。
 備忘録代わりのまとめ。
 東北地方の巨石の事例は、インターネット上のyo-hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」 (http://hamadas.exblog.jp/ 20130522現在) から所在情報をもらいました。 この巨石・天狗橋もその一つです。
 http://hamadas.exblog.jp/13684097/ 

IN上で検索してみますと、福島県の緑地環境保全地域であり、ふくしま緑百景にもなっていて、景勝地として知られ、鮫川村の観光地であるとのこと。
 鮫川村の公式ホームページ www.vill.samegawa.fukushima.jp/page/page000112.html での記述=======
 <観光情報 天狗橋(てんぐばし)>
 その昔、天狗がかけたと言い伝えられる「天狗橋」は、長さ7.9メートル、幅4メートルの自然の石橋です。橋の周辺はイヌブナやアカシデ、コナラなどの 古木がうっそうと生い茂り、涼しい空気が漂います。また、遊歩道沿いには多くの山野草が咲き、訪れる人を楽しませてくれます。
 橋を中心とした0.87ヘクタールの地域は、昭和59年6月に福島県の緑地環境保全地域(第1種地域)※に指定されています。
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 画像のように、巨石が破断して川底に横たわっていて、石橋になっている変わった形の巨石とのことです。
 どうしてこうなったのでしょうか・・・人工なのか、自然なのでしょうか・・・面白そうです。
 さらに、所在位置を地形図で調べてみますと、河川の遷急区間の頂部(狭義の遷急点)にあるらしいことがわかりました。
 巨石の立地にかんして、尾根や斜面の遷急点に関連した巨石はいくらでもありますが、河川の遷急点に関連した巨石は珍しいので、興味を引かれました。
 もっとも、これはマニアの私の興味で、いまどき天狗が作ったと言われて驚く人はいるわけもなく、まして、現地にその現象を解説する解説板も何もないので、私が訪れた時も、観光客が数組訪れていましたが、皆、一目見てさっさと行ってしまいました。
(つづく)

No.281  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年09月20日 (日) 23時55分

 天狗橋の所在地を位置図に示します。5万図幅「竹貫」の南西部、2.5万地形図図幅「磐城新宿」にあたります。
 鮫川村赤坂東野 字蕨ノ草で、位置図の、鮫川本流沿いの遊歩道が川を渡る部分に当たります。 標高540m付近。
 周辺の地形は、阿武隈山地の南西部にあたり、阿武隈花崗岩がマサ化した低い山地です。この山地は、阿武隈小起伏面の中位面(620m前後)と下位面(530m前後)の境付近にあたります。
 天狗橋は、その山地を侵食している鮫川の谷底にあります。その谷底の地形は、位置図に示すように、3種に区分されます。
 (1)高位沖積谷底 : 図の緑色。標高540mを下限とする床谷地形の谷。沖積谷で、谷底は水田化されています。
 (2)低位沖積谷底 : 図の黄色。標高500m以下の床谷地形の谷。沖積谷で、谷底は水田化されています。
 (3)遷急区間 : (1)と(2)の谷底面間の欠床谷地形のV字谷峡谷部分。図で赤色で示した。標高540〜510m、比高30mほどの遷急区間。この遷急区間を、「天狗橋遷急区間」とよぶことにします。
 この遷急区間は鮫川の本流にありますが、位置図に示すように、鮫川の支流の谷にも、同時期の遷急区間が各所で認められます。
 あと、遷急区間は、前述した山地小起伏面の境にあたります。その成因的関連については後述します。
 また、このような谷の勾配が大きくなる遷急区間は、阿武隈山地の河川では夏井川などを典型にして、下流から上流にかけて5〜6段見られます。鮫川でもすぐ下流にもう一段あり、「強滝」という景勝地になっているようです。
 河川の遷急区間の数は、その地域の山地の形成しに対応して地域差があり、私の地元の房総丘陵の川では、遷急点1つが普通で、多摩川のような関東山地の川は2つが普通と思います。(つづく)

No.282  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年09月21日 (月) 12時34分

高位沖積谷底の景観
天狗橋遷急区間上流に広がる床谷地形です。遷急区間上流の草木橋上から望む。
位置図の草木集落下の谷底で、水田化されています。
 周りの山地は、花崗岩マサの山。
画面右の緩斜面は、畑や集落に利用されている麓屑面地形です。この地形は氷期に形成されたものかもしれません。
 阿武隈や北上山にはよく発達していますが、私の地元房総半島の侵食谷底には発達が悪く、あっても高さが低い。

No.283  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年09月23日 (水) 00時01分

 最初の画像では、「天狗橋」というのがよく分からないという声があったので、側方からの画像を示します。
 上流側から見た景観。巨石の下が川になり、橋として利用されているのが分かります。
 橋になっている巨石とその左の木の生えている巨石、および人物像の後ろの破断割れ目のある巨石は、いずれも丸みのある表面が見てとれ、大きなコアストーンの破断したものであることが分かります。
 たしかに、珍しい景色です。ただし、花崗岩の渓谷で、河床が土石流で運ばれたり、転落してきた大きな角張った岩塊が積み重なって、谷底を埋めている場所を沢登りで通過する際に、巨岩の下がトンネル風になっているのを見たり、くぐった経験のある方は多いと思います。
 そのような、花崗岩角礫が作るトンネル地形の、丸石版といえそうです。

 後述しますが、現地での観察で、これらのコアストーン破断片は、画像右手枠外の斜面上部から転落し、画像右手の崖錐部分を転がり落ちてきて、鮫川の河床に落ち込んで破断し・止まった岩塊であると結論しました。
 ただし、それだけでは、石橋にはならないですが、転落・堆積後の石橋化についても、後で述べます。(つづく)

No.284  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年09月23日 (水) 19時03分

 天狗橋遷急区間の景観 画像は遷急区間の急勾配河床と、河道両側のV字谷斜面下部。
 比高約25mの遷急区間は、谷幅が河道幅と同じ、欠床谷になっています。河道両側の谷斜面は、森林に覆われたV字谷地形で、下部は崖錐が連続する。
 画像に見えるように、河床にはびっしり丸い巨石が積み重なり、川の水が石をよけつつ小さな段々をなして流れ下っています。これらの丸石は、斜面上部のマサとコアストーンの崖に露出していたコアストーンが、転落してきたものです。大きな岩塊ほど崖錐末端に集まるので、崖錐末端にあたる河床に、コアストーン起源の丸みの面を残す破断礫が河床に集積します。
 画像手前の木や草の生えた巨大岩塊も移動してきたものだと思われます。
 普通、遷急区間地形は硬い岩石が露出することで、滝場となり、岩盤河床であるのが通常で、阿武隈山地でも各所に見られます。
 それに対して、天狗橋遷急区間の河床は岩盤ではなく、花崗岩の風化したマサ砂で、斜面から落ちてきた未風化コアストーンが河床に集積して岩盤の替わりをしているという珍しい地形だと思います。
 岩塊が1個や2個なら、洪水時に押し流されてしまうでしょうが、この区間では河床に多数のコアストーンが供給され、それが互いに組み合って河床を固め、河床の変化を止めているので、遷急区間の地形変化が起こらず、遷急区間が保存されているということができます。(つづく)

No.285  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年09月24日 (木) 20時29分

画像は、天狗橋脇の杉植林碑
 <現地解説板についての感想>
天狗橋とその遷急区間は、上述のように、マニアックな地学的見地で見ると、なかなか珍しい、興味ある景観です。しかし、勿論のことそれに関する解説板などありません。
 では、生物方面で、「天狗橋緑地環境保全地域」になっているので、そちらの紹介があるのかというと、「天狗橋緑地環境保全地域につき、□□すべからず」の看板が1枚あるのみ。
 一般観光客(県民)に、石橋の驚異や、この林の価値と保全の意味を、興味を持って分かってもらうような解説看板の設置を望みます。
 そもそも、緑地環境保全地域には、事業として保護の観点はあっても、紹介する観点は乏しいようですね。INで検索してみましたが、緑地環境保全地域について、福島県のHPには、ほとんど情報がありませんでした。
 県の一覧表に、「S59.6.15指定 第1種 0.87ha 天狗橋と一体になった自然環境」 とあるのみで、それより詳しい解説は見当たりませんでした。
 もう一つ、ここは、「ふくしま緑の百景 天狗橋の緑」というのになっていて、その石碑があります。
銘文:ふくしま緑の百景 天狗橋の緑 昭和60年6月選定 主唱 福島民報社・福島県緑地推進委員会 きれいな郷土 みんなの願い、東北電力
 こちらも、解説はなし。
 というわけで、現地には、地域を知る情報装置がほとんど無いのですが、唯一、いわくありげな仙台石の板碑・・・画像参照・・・があって、「天狗橋植林の記」と刻まれていましたので、紹介します。
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 〔表面銘文〕
 天狗橋植林の記
鮫川の上流 渓谷林相の美を極めるところ 一大巨石をもって架する橋がある 人よんで天狗橋という この地はもと国有であったが後にこれを村有とした
 ここに本村議会の議に因り 周辺の山に杉を植えて村有林とする
 以って後世村民の福祉に資せんとするものである 天然の美 人心の和を加えて 美わしき村の源泉とならば幸甚である
 昭和三十四年四月 鮫川村長 石田卯子八識
〔裏面銘文〕
 事業概要
施行面積 三町 反 畝
植樹本数 杉 七三◯◯本
施業□□ 昭和三十三年四月
 □樹□□実施者
鮫川村議会議員
 議長 山形 武
 〔以下 役職人名〕
・・
鮫川村青年会長 ・・・・
鮫川村婦人会長 ・・・・
 □:写真画像から判読できず。 ・・・・:翻字省略。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 以上、昭和33年に鮫川村が杉7300本を植樹した記念碑でした。範囲は3町歩ということで、緑地保全地域の0.87haより3倍以上広い範囲に植樹したとのことです。
 しかし、天狗橋の遷急区間には、下流端に一部杉林がありますが、渓流部の両側の斜面にも、遷急点より上流の堰堤にかけても、杉は見当たらず、落葉広葉樹林の林が広がっています。生育しなかったのか?
 植林事業の20年後、昭和59年に緑地環境保全林になって以降、落葉広葉樹林であることが評価され、保全されてきたらしいです。
 想像するに、天狗橋の渓流沿いを杉の美林にしようとした、この昭和34年の杉植林計画は理念的にも、実際上でもうまく行かなかったようです。
 ということで、せっかく紹介した、この石碑もガセネタということになりますが、自然保護行政の時代変化を示している歴史資料と言えるのかもと思います。
 
 というわけで、ここに足を運ぶ人が、石橋や渓谷林を見て感心するための仕掛けが全くないので、これでは一目見てみんな行ってしまうのも無理もないと思われます。
 再度言いますが、一般観光客(県民)に、この石橋の驚異や、林の価値と保全の意味を、興味を持って分かってもらうような解説看板の設置を望みたいと思います。(つづく)

No.286  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年09月27日 (日) 22時37分

<天狗橋遷急区間の地形>
天狗橋遷急点をもう少し詳しく見てみます。
・ちょっと一言:駐車場、道
 今回書き込みの平面図に示すように、駐車場が2カ所あります。
 個人的感想ですが、草木橋から行く上流側の駐車場は、天狗橋へは近いのですが、あまりお勧めできません。
 地図では草木橋から歩道です。この道は、拡幅されて車が通れるのですが、急な谷斜面の未舗装路でガードレールもなく、道幅がやや物足りない感じです。軽ならともかく、車幅が大きい車で入って、操作を誤ると谷底へ転落しそうです。
 その点、下流側の駐車増は、道は狭いですが、ちゃんとした舗装道路で安心。
 なお、下流側からですと、2.5万地図の道通りに行くと道が消えて藪に突入。遊歩道は平面図に示した位置に掛け替えられています。
・河床縦断面図
 平面図に対応する河床縦断面図を下に示します。
 横軸に、鮫川の河道沿いの距離をとり、縦軸に、河床の標高を、読図と現地での簡易測量で計測して作成しました。あんまり正確ではありません。誤差は2m以内だとは思いますが・・・(^_^;)。
 堰堤には、銘板があり、「昭和48年3月竣工 戸草ダム 工事概要 高さ8.5m 長さ52.0m 福島県」となっていました。
 図の遷急点や堰堤の基部に、地中塔状態の未風化基盤が存在しているかもしれません。・・・未調査です。
・縦断から見た遷急区間
 遷急区間は、長さ120m、比高25mですが、天狗橋付近を境にして、緩やかな上半部 (長さ35m、比高3mぐらい)と、急勾配な下半部 (長さ85m、比高22m)に分かれます。
 後述しますが、上半部と下半部の境に、天狗橋があるのは、単なる偶然ではないと思います。
 前の書き込みで、この遷急区間は丸石が河道を保護することによりできていると述べました。
 現実は、丸石の高さ分の小段の連続ですが、図化した縦断形はそれが馴らされて、直線状の縦断形なことです。
 岩石型の遷急区間は、瀑布帯になり、滝の所は急な段になり、滝の間の河床は緩傾斜で平滑な断面形なので、全体は不揃いな階段状の形になります。
 この差異は、岩石露岩型の遷急点は、河床縦断形が変化しつつある地形であるのに対し、丸石型の遷急点は、一種の化石地形で変化していない、あるいは、変化し始めたらすぐ壊れてしまう地形であるからではと思います。
 以上、今までの書き込みをまとめて、この丸石型の遷急区間の地形を考察してみると
岩石露岩型遷急区間の地形景観:河床が岩床で、両岸は岩の廊下地形になり、河床縦縦断は階段状で、瀑布帯か単一瀑布になる。
 これに対し、
丸石型遷急区間の地形:河床はマサと積み重なった丸石で、両岸は崖錐地形とそれが切られたマサと丸石の土崖になり、河床縦断面は直線状で、丸石の重なり合った渓流になる、と考えられます。
 もっとも、大規模な例はこの一例だけなので、推測です。・・・妄想かも。(^_^;)
(続く)

No.287  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年09月28日 (月) 20時23分

<天狗橋より上流の渓流景観>
 天狗橋の石橋の上から上流を望む。
 遷急区間の上半部にあたり、河床勾配が緩い。
 両側左右の斜面は崖錐地形の末端で、手前の巨石3つ(一番大きいのは長径5m位はあったと思う)は、右側の斜面から落ちてきた崖錐礫。
 平凡な緩やかな渓流景観に見えますが、
(1) 川の流れがささやかな割に、礫が大きい。
(2) 礫が、上流から動かされてきた河床礫でなく、側面から転落して溜まった崖錐礫である。
(3) 河床の礫が、すべて、球面をもった未風化コアストーン起源である。
などの点で、ちょっと変わっています。 
(続く)

No.288  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年09月29日 (火) 18時12分

<天狗橋より下流の渓流景観>
 284の画像でも示しましたが、上に出した上流景観と対比の意味で、下流の急勾配遷急区間の画像をもう一枚出します。
 こちらの画像でも、河床に、コアストーン起源の丸みの面を残す破断礫が集積、川の水が石をよけつつ小さな段々をなして流れ下っている様子が分かります。
 「丸石型」遷急区間とよぶにふさわしい景観です。
 なお、画面奥に、天狗橋の石橋下のトンネルが見え、石橋付近ではやや河床勾配が急になっていることが分かります。
 後述するように、石橋の巨石は単独で落ちてきたものではなく、右岸側から多数の岩塊が転落して、河床に溜まり、積み重なってできた、平面半円形の高まりの地形・・・「崩落堆」の頂上の岩塊です。河床が石橋下流で急勾配になるのは、崩落堆の下流側側面に当たるためと思われます。 (つづく)

No.290  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年10月01日 (木) 14時30分

<天狗橋の岩塊群>
 天狗橋周辺の岩巨石群の景観です。
 巨石が落ちてきて止まった側(右岸・東側)の対岸(左岸・西側)から見た様子です。
 下の画像は、この景観の解釈図です。
 この地形のでき方を順に述べると・・・・、
(1) 最初に、斜面上部で崩壊がおこり、主にマサ砂からなる崩落堆が谷底に落ちて溜まり、平面半円形の高まりを作りました。そのため川が堰き止められ、水路が手前側に迂回しました。
(2) 崩壊後、斜面の大きなコアストーンが、転落し、落ちてきて破断し、崩落堆の上に転石群として乗っかって止まりました。
(3) その後、天狗橋石下の崩落堆に、マサ砂が洗いだされて,トンネルができ、直行する水路ができて、石橋化された。その結果、迂回した水路と直行する水路の2つに分流するようになった。この経緯はこちらからは見えないので後述。
 ・・・・・ということになると思います。
(1)と(2)のイベントは、別の現象ではありますが、崩落堆の頂上に、ぴったり転石群の主体が乗っていることなどから、時間をおかず連続して発生した現象で、斜面のマサ砂崩壊の発生が、その直上のコアストーン露岩の転落を誘発したのだろうと思われます。
(つづく)

No.291  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年10月09日 (金) 16時09分

<天狗橋巨石群の平面図>
天狗橋巨石群の平面スケッチです。
 前の書き込みの画像と同じ範囲。概念略図なので細かいところは大雑把です。
 崩落堆の堰き止めにより、谷底に迂回した水路が作られた後、天狗橋他のコアストーン破断岩塊が転落してきて転石群となった後、崩落堆中央を横切る新水路ができています。これは、転石群下の崩落堆がマサ砂と岩塊からなり、スカスカで水が浸透しやすく、浸透水によりマサが流されて上流側からの水あたりの所が掘られて新水路ができたと判読されます。
 
 この地形は、谷斜面から、コアストーンが谷底に、崩壊あるいは転落して堆積し、谷底を埋めているタイプの巨石堆積地形ということができます。
 ありふれたよく起こる地学現象で、この巨石のある遷急区間も、この現象の積み重なりで形成された地形と言えます。珍しいと言えば、落ちてくるのが球形のコアストーン岩塊という所ぐらいでしょう。
 しかし、巨石地形としてはあまり見かけません。谷底に落ちてきても、その後の洪水や土石流で運搬されてしまうため、長期にわたって残存せず、伝説の対象になったり、名前を付けてもらえるのが、意外と少ないのかもしれません。
 私も、そんなに歩いているわけでもなく、2例だけしか例が挙がりません・・・・落下した岩塊がコアストーンでない例なら、御岳昇仙峡を始め至る所にありますが。
 1例は、まだ訪ねておりませんが、浜田氏の東北巨石番付2011年5月28日のページで紹介されていた、福島市飯坂町茂庭、茂庭湖上流の亀石地区にある亀石巨石。コアストーンが転石型の典型例ではないかと思っています。
 もう1例は、有名な栃木県足利市名草の奥ノ院巨石群で、こちらは崩壊型の典型例と思います。(つづく)

No.292  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年10月11日 (日) 00時31分

名草奥ノ院巨石群
画像は、栃木県足利市名草弁天 奥ノ院巨石群の景観。下流側から見たもの。
 足利市名草弁天の山は、足利花崗岩体と呼ばれる花崗岩の小規模な貫入岩体からなる山地です。
 奥の院巨石群は、名草弁天上流の谷底平地に、破断した花崗岩コアストーンが多数積み重なり、水は伏流している景観の巨石群です。
 今まで紹介してきた天狗橋の巨石群とは、谷斜面から移動した、コアストーンが谷底に堆積し、谷底を埋めているタイプの巨石堆積地形である点で、似ています。
 ただし、似ているところはそこまで。でき方はかなり違います。
 奥ノ院巨石群の成り立ちは、画像に示す現地景観観察から、以下のように復元できます。
(1)風化マサ化した花崗岩山地の谷斜面から、未風化コアストーンと風化マサ砂が一緒に崩落し、谷底に堆積して崩落堆となり、谷底を埋め、谷水は伏流となった。
(2)その後、洪水時に伏流が地表水流となり、流路に当たる部分のマサ砂を流し出して、涸れ谷を作り、その涸れ谷の空中に積み重なってコアストーン群が露出した。
 天狗橋巨石群の成り立ちとは微妙に違いますね。 
 (蛇足)
 ちなみに、奥の院巨石群の下流にある、名草弁天宮の巨石群は、別タイプの地形で、峡谷の谷頭に地中塔が林立して露出する、侵食地形景観です。
(つづく)

No.293  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年10月11日 (日) 20時59分

<補足>
今までの天狗橋巨石群の紹介で、後回しにして書かなかった観察・読図事項を補足します。
(1)天狗橋遷急区間の位置と、山地の小起伏面境界部とが対応している事について。
 丸石型の遷急区間の成立には、地表近くに未風化コアストーンがたくさん埋まっているのが条件となります。
 未風化コアストーンの頻度は地下深くなるほど多くなるはずです。また、山地小起伏面の境界部分では、高位の小起伏面山地の地下側面が地表近くに露出しています。
 この2つのことから、境界部で、未風化コアストーンの頻度が多くなる・・・おそらく地中塔の形で・・・と考えられ、河川が、低位の小起伏山地を下刻していって、境界部分にさしかかったときに、丸石型遷急区間が作られやすくなると思われます。

(2)遷急区間上半部と下半部の境に、天狗橋がある事について。
 本来独立名現象のはずの、遷急区間の傾斜変換点位置と、天狗橋の崩落堆と転石群の位置が一致しています。
 どちらが先かと考えると、傾斜変換点にぴったり合わせて崩壊し、落ちてくるというのはおかしいので、崩落堆と転石群の位置から、傾斜変換が起こったと思われます。
 つまり、天狗橋の崩落堆と転石群により、河床の堰き止めがおこり、その結果、上流側勾配が緩くなっていると考えた方が良いと思います。
 画像は、天狗橋近くで咲き終わっていた花。この花だけが彩りでした。
 花には興味ないのですが、何草というんでしょうか?
(以上、天狗橋巨石群の紹介終了、次は、銚子屏風ヶ浦の海食崖後退絵図の予定だが、先のことは分かりません。)・・・(^_^;)

No.278 巨石観察ノート 福島県福島市立子山 鯨石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年07月16日 (木) 23時25分 [返信]

花崗岩の巨石地形事例を集めるため、各地の花崗岩露出地を廻っています。
 いままでいろいろ廻りましたので、、備忘録代わりに簡略まとめをします。
 福島県福島市立子山地区の鯨石を見てきました。
 旧飯野町発行の「飯野町巨石探訪」という冊子で訪れたのですが、それによると、近くに、船石、太鼓石、一円寺境内には方位石(未見)があるとのこと。この冊子は、千巻森の中腹にあるUFOふれあい館で売っていました。
 鯨石の位置は図1参照。図は、国土地理院2.5万「月館」図幅に加筆。
 鯨石の緯度経度は、北緯37°41′27.60″ 東経137°31′32.27″。
 阿武隈山地の西部にあり、付近の名山、千貫森と一貫森の円錐形の山体の山麓にあります。
 鯨石は、図2のように、旧国道沿いにあり、阿武隈山地の広い谷底に、花崗岩の大きな岩塊が、ポツンと地表に出ています。 マッコウクジラの背中のようなので、鯨石というとのことです。
 長径7m×短径4.5m×高さ2.5m程の長方形で、角が丸くなっています。
 花崗岩は、地下では、本来は節理の割れ目によって直方体の形の岩塊に分かれています。それが、地下で深層風化により、全体がマサ砂に変わる際に、未風化の岩塊では、直方体の角が丸くなって、球面になったコアストーンと呼ばれる岩塊ができます。鯨石の形は、このコアストーンそのものです。
 ただし、この岩塊は底に根がなく、地表面に乗っている浮き石状態です。さらに、岩塊頂面の平面と、石底の地表面は平行です(図3、下から見上げた景観参照)。また、右手からの扇状地状地形の末端にあり、長径が扇状地の傾斜と直交します。こんな形から、地下にあったコアストーンが、土石流で流されてきて、土石流扇状地の末端で止まったものと思われます。
 古くは、平地にポツンと孤立した、巨大で特異な丸石であることから、不思議なものとして巨石信仰の対象になっていたと思われます。
 さらに、江戸時代天保年間の石碑が石上に建てられています。石碑には、一円寺の開祖、日尊上人がこの石の上で説教をした説法石として信仰された旨が述べられていて、中世・近世、仏教が土着化して、地域に寺院が建てられる際に、地域の聖地であった鯨石の信仰が、寺院宗教に取り入れられたのでしょう。
 なお、寺にも盛衰があり、石碑も、一円寺が荒廃した後、再興された記念に建立されたものとなっています。この寺の荒廃は、年代から見て天保の飢饉によるものではと想像しました。

No.277 山梨県甲州市塩山藤木 八坂神社の巨石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年07月11日 (土) 23時21分 [返信]

を、拙HP ↑にアップしました。
ご笑覧頂ければ幸いです。

No.267 巨石観察ノート2015年版02 石森山巨石群の対比同定(修正) 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年04月03日 (金) 08時36分 [返信]

 前回、267〜269で書き込んだ内容について、先日、石森山に再度行った所、草が刈られて見通しが良くなり、日本武尊腰掛石も分かり、多々修正すべき点もありましたので文章を大幅に差し替えました。汗顔の至りですが、御笑納頂ければ幸いです。
 ・・・
 石森山にかぎらず、巨石群を見に行き、最初にやることは、何処に何があるのか、地図化することです。しかし、石森山はこれが大変でした。
 案内看板の絵図(書き込み264と266の画像参照)が、時期が古く、現在ではかなり景観が変わっているだけでなく、両絵図の間で、微妙に異なっています。
 そのため、看板の巨石と、現地の巨石と対比同定したいのですが、時間がたっていて、看板とは様子が変わっていたり、看板の片方が違っていたりしました。
 絵図の他に、由緒書上の文章(書き込み266参照)を参考にすることと、、現地で巨石に小さな名称板が付いている場合があり、それにも助けられて、巨石の比定をおこないました。
 しかし、名称板も草に覆われて見つからないことが多く、最近になってようやく看板にある巨石の比定が全部できましたので、看板絵図や書上書にある巨石などの比定結果を紹介します。
 画像は、日本武尊腰掛石・富窟付近の絵図拡大と現地平面図スケッチ。絵図01は、書き込み264の画像部分拡大、絵図02は、266の画像部分拡大です。平面図中の岩塊群bヘ、私の付けた整理番号です。
 30は、日本武尊祠の乗る岩塊付近の岩塊群、31は、絵図の番号ロ、巨石名「富窟」付近の岩塊群。個々の巨石は、ABC・・・を付けて示します。
 なお、日本武尊腰掛石(絵図のイ)は、2つの絵図で、富窟(絵図のロ)の西隣にあることになっていますが、現地のスケッチ平面図で示すように、西隣は遊歩道で、その西にも・・・・見当たりません。
 (続く)

No.268 武尊神と大神宮・・・岩塊群30付近 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年03月21日 (土) 13時12分

絵図01には、武尊神と大神宮、絵図02には、武尊社と大神宮の注記と絵があります。
 由緒書上の「摂社二社末社八社」の内と思われるが、この2つについての記述はない。 
 現状は、岩塊群30にあたり、ABCの3つで、最大はB、社祠の載るのはCです。
 絵図01では30の岩塊は1つで、上に日本武尊社祠があるように描かれています。
 絵図02では2つで、現状の岩塊Aと、日本武尊社祠が載る岩塊B+Cとに描かれています。
 岩塊A、B、Cともに、斜面上方から移動してきた石で、広い尾根の段で止まったものです。移動してきたときは、BとCは一体だったと思われますが、現地に停止後、長辺が折れたものと思われます。このイベントがいつか、絵図02の状態後とも考えられますが、絵の表現の問題なので、何とも言えません。
 また、3つの岩塊とも、背後の小崖斜面に押しつけられています。岩塊Aの前の東屋(現状かなり破損)や岩塊BC前の通路を確保するため、少々ですが、人工的に動かされていると思われます。
 大神宮は、絵図では両方とも壁のあるまともな建物として描かれていますが、現状は、壁のない、屋根も薄い簡素な覆い屋。元の建物はなくなっているのでしょう。
 元の建物の場所についてですが、絵図02に大神宮参拝のための階段が、建物正面に描かれています。現状でも、草に覆われていましたが階段は残っていたので、以前の大神宮の場所と、現状の覆い屋の場所は同じと思われます。
 画像:30岩塊群と大神宮跡 岩塊Aの東屋より、手前岩塊B、奥は日本武尊社祠の載る岩塊C、その後ろ、大神宮跡の覆い屋。(続く)

No.269 富窟・・・岩塊群31 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年04月03日 (金) 08時37分

絵図01、02に、岩「ロ」の注記で、ひときわ目立つ巨石で、重なりあった変わった形で、石下に石祠があると描かれている。
書上には、「富窟(とみくつ) 右石(腰掛石)ノ東ニアリ、大一丈二尺、小八九尺石重リタル中二末社祠・神体石アリ」とあります。
 現状は、石の前に、富窟の名称板があり
形も絵図と似ていてすぐ分かりました。
 成因としては、
(1) 山頂緩斜面末端に,3つのコアストーンABCが接して露岩となっていた。
(2) 地震振動により炸裂破壊し、ABは3つに分かれ、最大のコアストーンCは、全体が70cmずり落ちると共に、7つの岩片に破断・分離した・・・ものです。
 C岩塊のコア部分C1・2・3の前面で、ずり落ちた分がオーバーハングの岩庇を作り、富窟と言われ、末社の稲荷社の石祠があります。
 書上の、二末社・神体石については、稲荷社しか現存していないようです。
 (続く、次は日本武尊腰掛石)

No.272 日本武尊腰掛石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年04月03日 (金) 08時34分

絵図01、02に、岩「イ」の注記で、富窟の脇に描かれている岩です。
 由緒書上(書き込み266)には、「神殿ノ東ノ方二日本武尊御腰掛石有、上ノ方二天神社、祭神武尊ヲ祭」 「日本武尊御腰掛石 本社ノ東ニアリ、正面一丈一尺」 「富窟 右石(腰掛石)ノ東ニアリ、・・・」とあります。
 絵図01、絵図02で、富窟の西側に岩続きで、やや低くて大きな平たい石があり、腰掛石とされています。
 というわけで、富窟の西側に続いている巨石があるはずです。
 ところが、書き込み267の平面スケッチに示したように、現状は、富窟の西側は遊歩道があり、その続きも大神宮の間の平地になっていて、腰掛石は影も形もなく、三基の石祠があるだけです。→画像左を参照。
 遊歩道を下がると、画像右に示す平たい大きな岩(岩塊32)が斜面にあります。この石が、腰掛石ではないかと思うのですが、絵図とだいぶ違うので、なんとも言えませんでした。
 先日再度訪れたところ、32の石の裏の草が刈られて、日本武尊腰掛石の名札が現れ、腰掛石が32であることが分かりました。草茫々だったとはいえ,確認不十分で汗顔の至りです。
 結局、絵図01は大間違いでした。それに対し、絵図02は比較的正確でした。すなわち、絵図02をよく見ると、腰掛石の脇に大神宮へ上がる石の階段が描かれています。この階段は、今は使われていなくて廃道ですが、草の中に現存していました。その位置関係から、絵図02に描かれた腰掛石は、岩塊32であることが確かめられます。その点はよいのですが、絵図02でも、富窟と腰掛石の関係は近接して岩続きのように描かれていて、離れて、個別の岩塊である現状とは大きく異なって描かれています。
(続く、次は山頂部の巨石群)

No.263 巨石観察ノート2015年版01 石森山巨石群  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年03月12日 (木) 00時44分 [返信]

山梨県山梨市下石森 石森山
花崗岩の巨石地形事例を集めるため、各地の花崗岩露出地を廻っています。
 いままでいろいろ廻りましたので、、備忘録代わりに簡略まとめします。
 2015年の最初は、山梨県甲府盆地の石森山の巨石群です。
 石森山は、山梨市下石森にあり、甲府盆地の笛吹川扇状地面から、15m位飛び出している小さな丘です。
 盆地北側の基盤岩の山が、盆地を埋めている砂礫層で埋めきれずに突出している地形です。
 丘の地質は、甲府花崗岩体といわれる、中新世に貫入した大きな底盤岩体の一部です。岩種は、花崗閃緑岩と思われます。
 もっとも、丘の岩石は、風化してほとんどマサ砂になっていて、基盤岩の丘といっても、砂のたかまりなのですが、山頂部から南側斜面にかけて、多数の未風化コアストーンが密集して露出し、特異な景観を作っています。
 その景観ゆえ、信仰の対象となり、古代からの創立伝承のある山梨岡神社が建立されており、境内は、巨石の散在する名勝地として知られています。(続く)

No.264 石森山の巨石景観 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年03月12日 (木) 13時03分

 画像は、石森山を南面から描いた案内鳥瞰図で、石森山の巨石景観がよく表現されています。山梨岡神社の境内広場、舞殿前にある看板案内図で、下に、山中の巨石ほかの名所一覧があります。
 ただ、この絵図は、時期は分かりませんが、現在の状態ではなく、一時代前の姿を描いたものです。
 絵図に描かれた祠の建屋や、社務所も形が変わっていますし、名所として描かれている松も枯れています。また、山の西側の道路も現状とは全然違いますし、周辺は耕地として描かれていますが、現在は市街化が進んでいます。
 しかし、この絵図に描かれているような、全山巨石の点在する特異な景観は、今でも変わっていません。巨石も人工改変されていそうなのは、図の左端の獅子岩付近が駐車場化された程度のようで、基本的に絵図の時代と変わらず、そのまま保存されているようです。
 現在は、公園としても整備されていて、遊歩道が新設され、ツツジの名所として植栽も行われているようです。

 <石森山各所の案内看板文面>
● 「山梨市八景・石森山のつつじと果実郷」看板
 石森山は記紀(古事記、日本書紀)の頃、日本式尊がご東征の折お立ち寄りになったと伝えられ、また古書は、この山に岩石(怪石奇岩群)と森林があったことから、石森山の地名が出たと誌(しる)す。伊邪(ママ)那美神ほか五神を祀る山梨岡神社があることから、山梨岡とも呼ばれ人々に親しまれている。
 松の緑や遊歩道の間に、赤、橙、白、紫など色とりどりのつつじの群落が見られ、花の盛りには遠近から花見客が訪れ、峡東のつつじの名所にふさわしい。神社の祭典には浦安の舞も奉納され、山は学童の自然観察地になっている。つつじは「市の花」でもある。
 山上から桃や葡萄の果実郷を展望することも楽しい。桃や葡萄、梨などは昔から甲斐の八珍栗として賞味され、ことさら桃の花盛リには重川一帯、万力山地などがピンクの絨毯を敷きつめたような感じで、おのずから幻想の世界に誘(いざな)われる。

● 「山梨岡神社」看板 
 山梨市下石森1
 創建年代は不詳ですが、社殿建築が発生する以前から「磐座」(下記参照)とよばれる古い石信仰の場として崇拝され、石森岡神社とも呼ばれました。
本殿には熊野大権規と国建大明神が2座相殿としてまつられています。
 江戸時代初期には徳川家によって杜領が安堵され、幕臣で当地付近を領した石谷氏と蒔田氏によって社殿が造営されています。
 「甲斐国志」「甲斐叢記」など多くの書物によって紹介され、主だった大石・巨岩には名が付けられているところからも、石の山が平地に突出した景観が存在感をもって人々に崇拝されていたことがわかります。
 磐座(いわくら)
 神霊が石に宿るという信仰に基づいて、石を御神体として祀ったことに由来する。祀られる石は、巨石や陰陽石など石の大きさや他とは違った特徴がみられるものがその対象となった。神社の社殿建築発生の前段階には、この石に神が降り下るとされて祭りが行われた。
 やがて神が鎮座するところという観念が固定し、石は神聖視され「磐座」と呼ばれるようになったのである。『古事記』『日本書紀』また『風土記』にその名称が散見され、古代の信仰形態のひとつとなっている。

県指定有形文化財 山梨岡神社本殿
 昭和35年11月7日指定
 社記によると、社殿の造営は神護景雲2年(768)、文治3年(1187)、文明6年(1474)、永禄6年(1563)、天和2年(1682)としていますが、造営を担った領主と地域との関係が確認できるのは、天和2年の石谷長門守・蒔田八郎左衛門のみです。
 本殿は、その時代の建築的特徴をもちますが、昭和36年の解体修理の際に大斗裏に元禄16年(1703)の墨書が発見され、それが建立年代を示すものと考えられています。2座相殿の二間社流造で、蟇股や水引虹梁に優れた彫刻が施されており、元禄期の建築意匠を知る上で貴重な遺構です。

市指定天然記念物 石森山のハリモミ
 平成14年5月1日指定
 ハリモミは、日本固有の常緑針葉高木であり、大きなものは樹高30m、直径1mにもなります。
北は福島県から南は九州の一部にまでみられ、マツ科トウヒ属中最も暖かい所まで分布しています。
 石森山のハリモミは自生種と考えられ、今日では主に山地に分布しているものが、平地に隔離されて残っており、この付近の植生を考える上で貴重です。目通り1.70m、樹高約23m。
==========
・・・・・今気づいたのですが、このハリモミはどこにあったのでしょうか。(^_^;)
 石を見ていたので、全く眼に入らなかった。2日ぐらいはいたのですが・・・。
(続く)

No.266 石森山の巨石景観2 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年03月16日 (月) 02時17分

画像は、社殿前にある、前掲書き込み265の「山梨岡神社」看板の付図です。
 同じ265の画像、境内広場にある案内図の元図のようですが、細部に異同があります。

 石森山の巨石や石祠の解説としては、この看板絵図の他に、明治14年に書かれた神社由緒書上の記述があり、石森山の各巨石同定のために利用しました。 これは、山梨市史(平成17年発行)、山梨岡神社の章に、史料として採録されています。
 山梨市史の文章は、今まで見たHPや巨石の紹介本には紹介されていないので、興味のある方がおられると思います。それで、山梨市史の山梨岡神社の項を抜粋して、以下に紹介いたします。
==引用元 山梨市役所編集・発行 山梨市史 文化財・社寺編 平成17年日発行=
 山梨岡神社
所在地  山梨市下石森一番地
祭 神  伊弉諾尊 事解男命 速玉男命 国常立尊 大国主命 少彦名命
由 緒  熊野大権現(事解男命・伊弉冊尊・速玉男命)と国建大明神(他三神)を相殿に祀り、石森岡神社とも呼ばれる(社記)。
 延喜式所載の「山梨郡 山梨岡神社」と伝えるが、笛吹市春日居町鎮目の山梨岡神社も式内社との所伝を持つ。
 社記は日本武尊勧請以来の伝承を伝えるが、史料に見えるのは「永禄番帳」に「石森之祢宜」とあるのが古い。 慶長八年(1603)徳川家四奉行社領証文を所持し(社記)、「古高帳」「慶長番帳」にも載る。
 「国志」を始め、「甲州噺」「甲陽随筆」「甲斐名勝志」「甲斐叢記」などの諸書に紹介され、平地上に忽然と聳える孤丘と巨岩が江戸時代を通じて人々の目を引いたことがわかる。
 社殿については、神護景雲二年(768)、文治三年(1187)、文明六年(1471)、永禄六年(1563)の造営を伝えるが、造宮を担った領主と地域との関係は明らかではない。
 特に文明六年二月二十六日の地頭小松修理亮有久・同孫六有清、永禄六年八月三日の飯富源四郎昌景(後の山県三郎兵衛尉)は(社記)、ともに甲府市小松町の諏訪神社造営を手掛けており、同社には文明十八年二月二十六日(六は十八の読み誤りカ)、永禄六年八月三日の棟札が残されていたから(「県史」資7・在銘一五七〜八号)、或いはこれを参考にして伝承ができた可能性もあるが、天和二年(1682)三月十二日の造営を担当した石谷長門守・蒔田八郎左衛門については(社記)、当地との関係が確認できる。
 ・・・・中略・・・・
 現本殿(昭和三十五年十一月七日県指定)はこの時代の建築的特徴を持つが、昭和三十六年の解体修理の際発見された元禄十六年正月の墨書が建立年代を示すものと考えられる(「県史」文化財編一五五頁)。
 明治初年郷社となる(郷村社)。同十三年六月の明治天皇巡幸の際には、写真・水晶・青礞石等が供覧され、翌年二月の第二回内国博覧会にも出品されている(史料1)。

 <史 料>・・・・・史料1と2の順序を入れ替えて掲載する・・・・
 2 「若尾明細」 山梨岡神社の項(抄)
由緒 景行天皇四十一年日本武尊東夷征伐ノ時二当り、軍ヲ此二処二駐メ諸神ヲ祀ル、此レ当社ノ初メナリ、
貞観元年甲斐守紀貞守幣帛ヲ奉ル、又神護景雲二年坂上苅田丸、文治三年加々見遠光、文明六年地頭小松有久、永禄六年飯富昌景、天和二年地頭石谷長門守等ノ神殿造営ノ挙アリ、
明治六年之ヲ郷社二列ス、
甲斐風土記二山無岡或ハ離岡ト載ス、此丘祇巍然平地ヲ抽キ万頃ノ田圃之ヲ囲行繞ス、高サ十丈、周囲三百間余、奇岩怪石磊々トシテ重畳シ万松基間々森立ス、恰モ深山幽谷二入ルガ如シ、延喜式二甲斐国山梨岡神社アリ、甲斐国志ニハ同郡鎮目村(今ハ岡部村)ノ山梨岡神社ヲ以テ其式内ノ社トナセ共、同社ハ山ノ裾二在テ岡ノ形ヲ為サズ、蓋シ延喜式二謄スルモノハ此石森丘ノ社ニハアラザルカ、姑ク記シテ後者ノ採択ヲ待ツ

 1 山梨岡神社由緒書上(「地誌稿」)
 山梨県甲斐国東山梨郡加納岩村ノ内石森村鎮座
郷社 山梨岡神社
祭神  事解男命 大国主命 伊弉冊尊 国常立尊 相殿 速玉男命 少彦名命
景行天皇四十一年日本武尊東夷征伐ノ時勧請シ給フ云々、風土記二載ル 山無岡又山梨岡、六帖二載ル巌ノ社、又離岡又石森岡ト云、則延喜式二載ル所也、古歌ニ
 かた山の稲野の原の離岡夏草しけし鹿や鳴らん  一条摂政
 甲斐ケ根に咲にけらしな足引の山梨岡の山梨の花  能因法師
 吹く風に靡はせらん思ふこと家にも石の森の下草
 足引の山梨岡に行水の絶すぞ君を恋渡るつき    読人不知
此岡ハ四方ノ山ヲ離去事教里ニシテ広野ノ中二塊然タリ、奇巌怪石ヲ 畳テ恰モ深山幽谷ノ如シ、岡高十丈余、是岡元名タリ、東南二重川有、西北二笛吹川流有り、要害ノ地ナルカ故ニ、日本武尊数日此岡二坐給フ時岡ノ西ノ方二覓狩シ給フ、其所ヲ狩野ト云フ、獣追所ヲ追野ト云フ、今大野ト云フ、岡ノ東二地名梨木田ト云、又東ノ方二休足ト云諸軍元休息ノ地也、百姓綿ヲ献スル所ヲ今綿塚ト云、諸軍弓ヲ射給フ所ヲ今的場トテ弓祭ヲ執行ス、神殿ノ東ノ方二日本武尊御腰掛石有、上ノ方二天神社、祭神武尊ヲ祭
 摂社 二社 末社 八社
祭日正月十七日 三月十二日 九月九日 大祭礼
文武天皇九年初入祈年祭幣帛例
  貞観元年甲斐守紀貞守象
  勅奉幣帛、其後度々奉幣有之侯
一 造営
   神護景雲二年坂上苅田丸神殿造営
   文治三年加賀見遠光造営
   文明六年地頭小松有久造営
   永禄六年飯冨昌景造営
   天和二年地頭石谷長門守造営
  旧社地七反五畝十一歩
   現今弐千弐百六拾五坪、外大門六拾九坪
   岡周経(径)弐百三拾二間

日本武尊御腰掛石 本社ノ東ニアリ、正面一丈一尺
富 窟 右石ノ東ニアリ、大一丈二尺、小八九尺石重リタル中二末社祠・神体石アリ
石上松 本社ノ西ニアリ、高一丈二尺 此外石上松生タル多シ
烏帽子石 同高一丈二尺 横二丈四尺
駆上石 社前ノ西ニアリ、高一丈二尺 参詣ノモノ上ラントスルナリ
桃 石 中壇ノ西ニアリ
母 石 桃石ノ東ニアリ、二丈四尺、一丈二尺
屏風石 凡テ六枚、竪一丈四尺、巾七尺、厚八九寸 諸石ノ中二立リ、正面西二向フ
太鼓石 右石ノ下ニアリ、一丈六尺
鼓 石 太鼓石ノ上ニアリ、右ニッノ石 小石ヲ以テ打ツトキハ、各其闇ヲ生ス
船 石 其数六ツ、大一丈五尺、小五六尺
馬蹄石 石上馬蹄ノ跡数多アリ上面三丈
不老石 右石ノ傍ニアリ高二丈五尺
富士見石 一丈五尺、石ノ根不知
子持石 高一丈六尺、横同
枕 石 長一尺
要 石 池ノ西ニアリ、高二尺、径二尺五寸 石ノ根地中二人テハカリガタシ 此所鹿島祠有
兜 石 同所ニアリ、高一丈三尺、一丈八尺
獅子石 山ノ西ノ側ニアリ、一丈一尺、獅子頭口形其状ヲナセリ
朝日崔 富窟ノ北ニアリ
夕日滝 北ョリ西へ山ノ腰ヲ廻り、池ノ西南二落ルナリ
夕日松 滝ノ傍ニアリ、常葉、色黄ナリ
見上松 桃石ノ傍ニアリ
蓬莱石 本社ノ西ニアリ
水晶渓 本社ノ西ニアリ、小石ノ英ヲ産ス  本草綱目云、白石英、六稜、白色ニシテ如水精トイフ是ナリ
青礞石 同所二産出スル薬石ナリ
此外 松下躑躅 樹陰納涼 田間明月 夕日紅葉 惣テ四季共見所多シ、一丈二尺ノ石(ママ、意味不明)不可数挙

亦明治十三年六月 御巡幸ノ節ニハ、山梨県庁ノ命令ヲ蒙り此岡ノ内景ト外景ト二ツナカラ写真二取、水晶・青礞石及社丘ノ由来書相添天覧二供シ奉り、依テ甲州街道栗原駅へ是ヲ距ル石森丘へ八丁ト建札アリ、尚本年二月第二内国博覧会へ右山景ノ内外写真及水晶・青礞石相添出品ナシタリ
右者今般史誌編輯取調二付、格前旧神官ヨリ奉書上置侯由緒写及現今之景況上申仕候間、何卒御採用相成度、此段上申仕侯、以上
  明治十四年第七月四日
           東山梨郡加納岩村戸長 清水市右衛門印
 山梨県史誌編輯掛御中
========引用終わり====
引用文中の、「青礞石」とは、HP 薬膳情報-net の中薬―礞石(もうせき)の項
http://www.yakuzenjoho.net/chuyaku/mouseki.html によると、
漢方の清化熱痰薬になるもので、青礞石と金礞石の2種類を礞石というとのことです。
 「青礞石と称されるものは、緑泥石に曹長石を混ぜた緑泥片岩、金礞石と称されるものは雲母と石英に深黄色泥を挟雑した雲母片岩である。」・・・とのことです。
 石森山から出たものは、水晶と一緒ということから、花崗岩の晶洞が風化したものだと思うので、この記述の通りの緑泥片岩がでたとするのは、地質の上からあり得ないと思います。それで、青礞石(緑泥片岩)ではない、別のものでは、と思うのですが、鉱物には暗いのでここまで。
(続く)

No.262 房総半島屏風ヶ浦の景観図 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年02月21日 (土) 11時33分 [返信]

屏風ヶ浦の海食崖地形を景観を図に作っています。全部で21枚になるのですが、描くだけで大変。
図は、銚子市三崎町三丁目付近。中央に海食崖型の懸谷がある。この海岸は長らく人跡稀だったが、1980年頃懸谷6の下を、掘り込んで作業用道路を作り、消波堤が築かれて、一般の人でも海岸に出られるようになった。消波堤築造後崖下部に連続して発達し、崖上部の香取層の崩れ方も変わるなど、大きな環境変化が起こっている。


 

No.261 福島県本宮市長屋 鼓石短報記録 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年02月12日 (木) 19時00分 [返信]

を、拙HPにアップしました。↑Home参照。
御笑覧頂ければ幸いです。

No.260 2月7日講座終了 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年02月08日 (日) 23時06分 [返信]

書き込み255にて、御紹介しました、2月7日の朝日カルチャーの巨石講座は、無事終了いたしました。
場所が千葉という巨石には関係ない所でして、人数的には伸びませんでしたけど・・・(^o^)、
東京や神奈川からも来ていただけて喜んでおります。ご参加下さった方々に御礼申し上げます。
 近日中に、お話ししたことのレジメ的なものを、拙HP、↑の記号、に出そうと思っています。
 画像は、最後にお話しした、山梨県山梨市牧丘町
西所在、大石山の裏の「花後薬師の丘」巨岩断面図。 面白い形です

No.258 岩手県花巻市谷内 丹内山神社 胎内石短報 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年02月03日 (火) 01時19分 [返信]

を、拙HPにアップしました。↑Home参照。
御笑覧頂ければ幸いです。
以前、この掲示板に掲載した観察情報+看板等文面+記録画像。

No.257 巨石観察ノート 2014年版22 福島県石川町愛宕山・八幡山巨石群 その3 塩竈神社神体石 <岩塊06・07> 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年01月18日 (日) 16時32分 [返信]

その2の掲載から時間がたってしまったので、こちらに出します。これで、石川町愛宕山・八幡山巨石群の速報 (^^;) は終了です。
塩竈神社神体石 <岩塊06・07>
整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群Si群06、07。
 塩竈神社の社殿裏にあります。
 大きな立石が磐座として信仰対象だったのが、後に、神体石として、社殿が作られている例ですね。
 もともとは、尾根の肩部分にある露岩群、動いていない現地性岩塊です、多分根石では無いと思う。
 岩塊06・07は、尾根の稜線部分にあり、元は一体の大きな立石であったものが、稜線の両側方向に開くように中央で割れて2つになっています。さらに、傾斜方向の破断割れ目が頂部に入って、頂上が壊れています。
 岩塊06・07の下は狭い平坦の段で現在社殿と拝殿が建っています。段の周辺や周りには破断した岩塊片が多数見られ、岩塊06・07頂部から破断落下したものだけでは足りないので、平坦部分にも岩塊群があったと思われますが、自然に崩れていたものを、城塞用地として人工的に積平され、廃城後社殿用地として利用されたと思われます。
 岩塊07は、コアストーン球面をよく残していて、分離した頂部が壊れているだけですが、岩塊06は元の形が分からないほど縦に大きく破断しています。
 なお、岩塊07の正面から見ると、平行した縦の細い割れ目があり、石都々古和気神社境内の天狗石や屏風岩にも見られた、岩質起源の割れ目と思われます。
(以上、愛宕山・八幡山巨石群の速報はこれで終了します。後日、拙HP:↑Home参照 に掲載します。)

No.256 奈良県山添村 竜王岩記録(短報) 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年01月14日 (水) 12時11分 [返信]

を、拙HPにアップしました。↑Home参照。
御笑覧頂ければ幸いです。

No.255 巨石の地学講座と、地学スケッチ講座のお知らせ 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年01月09日 (金) 00時02分 [返信]

私事ですみません。私がやらせて頂く講座のお知らせです。ご興味ありましたら参加頂ければ幸いです。

1。朝日カルチャーセンター千葉にて、巨石の地学の講座。

題名:巨石の形、その見方と目のつけ所
日時:2015年2月7日(土) 13:00〜15:00
趣旨:山の形、滝の形、巨石の形・・・地球表面の形を解釈して、できかたを考えるという趣旨で続けています。今回は、花崗岩類巨石を例に巨石の形の地学的・科学的見方を紹介。この2年で、山梨の大石山・石割石から岩手の続石まで、東日本の有名な巨石は皆、調査しました。観光旅行、登山が楽しくなるツールとしてどうぞ。
費用:有料。場所:千葉市、朝日カルチャーセンター千葉 http://www.acc-c.com/public/ 
申込先:朝日カルチャーセンター千葉の、歴史・文学・教養の講座
https://sp.asahi-net.or.jp/scgi/shop_pub/shopgen.cgi?id=S05L357RZD;tpl=a.tpl;code=0153-0130 
 <しゃべる役の私から一言>
 初めての巨石の地学に関する講座かもしれませんね。
 巨石マニアの方には、磐座前史として、巨石を知るための必須前提知識として聴いて頂ければと思います。巨石マニア以外の方には里山の露岩地形特殊事例としてご参考になればと思います。
 花崗岩コアストーンとマサの形成、コアストーンの露出、露出後の破断・変形の一般論と、各巨岩の具体例を、紹介するつもりです。
 もう少し詳しい内容シナリオについては、この掲示板にて再度掲示します。

2。千葉県立中央博物館の講座、地学スケッチと簡易測量の講座
題名:山の地学スケッチと作図の技能講座1
開催日時: 2015年2月28日(土) 10:00〜15:00 、3/14、3/28との連続講座(連続受講者優先)
開催地・会場 千葉県立中央博物館研修室 http://www2.chiba-muse.or.jp/ 
対象・定員:高校生以上・20名  費用:無料
行事番号 114  分野 地学 シリーズ名 地学講座
趣旨:地形地質の景観スケッチと簡易図化についてコツを紹介します。
受付方法・締切日 2015/2/14・・・受付期間は開催日の1ヶ月前から2週間前までです。
申し込み先ページ:
http://www2.chiba-muse.or.jp/?page_id=477 
※申込みの際には,なるべくパソコンのメールアドレスをお使い下さい。
※スパムメール対策のためhotmail.com及びyahoo.comからのメールは受け取れません.
 お手数ですが他のメールアドレスをお使い下さい.
 fax、はがきでも申し込みも可能。
 <しゃべる役の私から一言>
 こちらは無料です。この講座以外も、千葉県立中央博物館の講座は、内容充実・原則無料で、おすすめです。(^_^)
 もう少し詳しい内容シナリオについては、この掲示板にて再度掲示します。

No.252 2015年よい年でありますように 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年12月31日 (水) 10時22分 [返信]

謹賀新年。
少し早いですが、これから調査に出るので・・・。
2015年もよろしくお願いいたします。

画像は、千葉県市原市石神の石神不動滝。2連4.8m。
養老側資料の川廻しの滝です。川廻しの滝は普通名前が無いのですが、房総に2つあるうちの一つ。

No.253 「年賀状の滝」に追加 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年01月02日 (金) 23時12分

拙Ho「滝を観る」の「年賀状の滝」に石神不動滝を追加しました。

No.254 謹賀新年 投稿者:滝おやじ    投稿日:2015年01月06日 (火) 22時03分

2015年、明けましておめでとうございます。
正月期間は出ていまして、戻ってきました。
新年なので、富士山です。

甲府盆地、山梨市牧丘大石山の裾から。
左の山は釈迦ヶ岳だと思います。一度登ってみたいのですが、生きているうちにできるかなあ・・・。

No.251 岩手県遠野市二郷山 地質地形展望(短報) 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年12月28日 (日) 14時46分 [返信]

二郷山は、岩手県遠野市にある山です。北上山地遠野盆地を作っている、遠野花崗岩体のホルンフェルスリングの山です。良いアングルがあったので、スケッチしました。短報記録を拙HPにアップしました。
ご笑覧下されば幸いです。


No.248 巨石観察ノート 2014年版22 福島県石川町愛宕山・八幡山巨石群 その2 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年12月13日 (土) 23時54分 [返信]

塩竈神社の巨石群 
整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群Si群
 愛宕山の南西端の縄張図です。
 出典は、書き込み229参照。
 三蘆城の出城?として人工造成されていた場所のようです。
 その一角に、巨石が集中して露出している所があり、現在、塩竈神社となっています。
 石川町史下巻(昭和43年刊)の塩竈神社の項によると・・・
『塩釜神社 (式外) 石川町字当町
1、祭神 塩土翁命(祭日七月十日)
2、由緒 当社ハ古城主福田安芸守源有光、陸前国宮城郡塩釜神社ヲ此地二勧請シ、本郡ノ名ヲ擬シ、地ヲ宮城ト称ス、于時康平五年ナリ。爾来城主代々ノ崇敬タリシト云フ。
3、社殿 神殿 たて四尺よこ四尺五寸 拝殿 たて壱間半よこ三間 鳥居壱基、石燈龍二基、石段拾九階巾三尺、社殿造営ハ信者持、祭日七月十日。什宝物太刀壱振、幕一張、旗三流、永続方法、信者年分出金拾五銭。信者八戸、(境内九十六坪)
 以上は明治十二年五月報告より抜萃した。
4、同社現状
 木造四脚鳥居一基、石燈燈籠一対、文政八乙酉年二月吉日 山形村、小豆畑惣重、同彦右衛門両名奉納なるも破損している。石段廿六階、燈籠の火袋のみのもの一基、文政八乙酉三月吉日遠藤寅松外三名の奉納である。一説に塩釜神社地は山形の飛領地であったので参拝者も多かったのではないかと見ている人もある。然し前出の由緒から見れば必ずしもそう断定することは早計であるが、山形に信者の多かった事は事実であったらしい。』・・・・とあります。
 また、現地に行ってみると、由緒にも書かれていませんが、社殿奥や境内には巨石が聳え、明らかに巨石をご神体とする神社です。しかし、塩竈神社というのは、巨石には関係ない信仰のように思われるので、廃城後、元々巨石信仰の地であった所に塩竈神社が祀られたのではないでしょうか。
 この巨石群は、尾根末端に立地するタイプで、道路に面した入り口に現地性の大きなコアストン頂部が露出し、境内地は社殿背後の神体石岩体からの転落岩塊が散乱し、社殿背後の尾根稜線肩に、立石が束になった形の、現地性コアストーン岩塊群がみられます。
 山梨県山梨市の立石神社の立石に立地がよく似ています。立石コアストーン群が束になって立つ形状は、福島県本宮市の岩角山山頂の立石群や、二本松市の山神立石などと良く似た形です。
(続く、次は神社入口の大石)

No.249 塩竈神社巨石群 その2 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年12月17日 (水) 00時23分

塩竈神社社地は尾根末端が切土され、神社拝殿が造られています。
拝殿の後ろの立石と、尾根の先端に当たる01は、現地性の岩塊。他の岩塊は転落岩塊です。
 各岩塊の位置と説明
01 鳥居脇の左にあり。尾根先端に当たる、大きな現地性根石。
02 階段の右にあり。平たい転落岩塊。
03 拝殿下にあり。尾根斜面の転落岩塊、半分に破断している。
04 道脇にあり。平たい破断片。転落岩塊。
05 拝殿の右斜面にある岩塊群。 06下付近からの転落岩塊。
06 神体石。拝殿右後ろに立つ現地性、円柱形丸頭の立石コアストーン。縦に開口割れ目が入って尾根の両側に開いている。
07 神体石。拝殿真後ろに立つ現地性、円柱形立石コアストーン。2つのコアストーンが縦に重なっている。
08 拝殿左後ろにやや離れて立つ現地性、円柱形丸頭の立石コアストーン。
 <立石07の背後の尾根稜線にある岩塊群>
09 稜線上にある小さな丸頭石。 現地性コアストーン。
10 稜線上にある小さな丸頭石。 現地性コアストーン。
11 稜線上にある小さな丸頭石。 現地性コアストーン。
(続く、次は神社入口の大石01)

No.250 塩竈神社の入り口大石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年12月25日 (木) 00時37分

整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群Si群01。
塩竈神社の入口鳥居脇の左にあります。前図の01。
大きな石で、迫力がある。前面・側面は露出していますが、後面は埋め立てられて、頂上部のみが地表に出ていて、埋め立て地は神社駐車場になっています。
 地表に露出している部分は、すべて地中委にあったときに作られたコアストーン球面がそのまま残っていて、破断はなく、側面に風化割れ目が少しあるだけです。
 コアストーンの形は、平面5m×5m×地上高さ3mの節理面に沿って割れた、サイコロ状の岩塊。頂部が略円頂の形で、根石だとすると、かっての地中コアストーン柱の最上部に当たります。
 元々の位置は、尾根先端と沖積面との境に当たり、巨石があるので、侵食が進まず尾根が保存されているとも言うことができます。尾根先端鎮め石型とでも名付けたい立地タイプです。類例としては、拙HPで紹介している、福島県本宮市和田 岩角山の蛇舐石などがあります。
 現地性根石のことが多いのだが、この石に限っては動いている可能性もあり、何ともいえないです。
(続く、次は神社の神体石 06〜08)

No.227 巨石観察ノート 2014年版22 福島県石川町愛宕山・八幡山巨石群 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月02日 (日) 11時35分 [返信]

・・・石都々古和気神社・塩竈神社・三芦城址所在・・・
花崗岩の巨石地形事例を集めるため、阿武隈・北上山地の花崗岩露出地を廻っています。
 福島県石川町の愛宕山・八幡山の巨石群を訪れました。
 東北地方の巨石の事例は、インターネット上のyo-hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」 (http://hamadas.exblog.jp/ 20130522現在) から所在情報をもらいました。氏のブログでは、石都々古和気神社(いわつつこわけ神社)とその近くの塩竈神社の巨石群として紹介されています。 この2つの神社と巨石群は、愛宕山と八幡山という一続きの山体の東方と南西方にあり、成因的にいいますと、一連の山をなす愛宕山・八幡山の風化花崗岩のコアストーン群ですので、「愛宕山・八幡山の巨石群」と呼ぶことにします。
 また、愛宕山〜八幡山の山体には、福島の名族石川氏の本城(三蘆城、三芦城・・・みよしじょう)が築かれ、愛宕山の山頂から山体の東半分が城塞化され、八幡山は城の本丸になっています。
 時代順にいいますと、愛宕山・八幡山に、福島の名族石川氏の本城(三蘆城、三芦城・・・みよしじょう)が築かれ、廃城後、城の一部が石都々古和気神社となり、山裾の一角に塩竈神社が開かれたということになります。
 なお、2.5万地形図には、343mの愛宕山のみが記され、その東方の八幡山(石都々古和気神社のある山)は注記されていません。
 石都々古和気神社は、古代以来の神社らしく、名前から巨石に関係ありますので、信仰化された巨石があり、それが、中世の城となって、人工変化している例ではという興味で、探訪しました。
 所在地の地質は、全山、中生代の阿武隈花崗岩の古期花崗閃緑岩です。全山風化してマサ砂の砂山となり、峰の高さがそろったなだらかな丸みを持った稜線の山となり、斜面はやや急、山麓は平らな沖積の谷底平野になっています。このなだらかな地形にアクセントをつけるように、所々の稜線や山裾に風化し残った花崗岩コアストーンが露出しています。
 画像は、愛宕山山頂(三蘆城西館)の土塁と巨石。
 山頂の石・・・2つある・・・を土塁に残し、掘り込んで郭の平地を造成したように見えます。
(続く)

No.229 三蘆城縄張図・・・巨石付き 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月03日 (月) 14時52分

 巨石調査の際、地元の郷土史資料を図書館で調べるのですが、この巨石群について素晴らしい資料がありました。
 『石川町史別巻 ビジュアル石川町の歴史』2000年刊のP96〜97にある、「三蘆城縄張図」です。作図、佐伯正廣氏。
 石川町発行2500地形図のうえに、城の曲輪、堀、土塁、切崖などをのせたもの。
 この図で特筆すべきは、露出している巨石も記入されていることです。
 2500地形図の大縮尺地形図で、城塞工事による人工の地形と、巨石の位置を全山に渡って面的に知ることができます。
 図の範囲は、三蘆城の敷地が愛宕山〜八幡山の山体全部に広がっていた関係で、全山の人工造成地と巨岩露岩地の分布図ともなっています・・・まあ、図の性格上、城址地に限られていて、城址以外の山林地の岩塊は記入されて無い・・・確認しないと有無が分からないのですが。
 なお、画像範囲に入っていませんが、塩竈神社の巨石群も、所在地が三蘆城の一部(出城?)だったので、図に含まれています。
 そもそも、巨石の観光地で、その山全域の、全巨石の位置を等高線式地形図に正確に記入した図は、ほとんどありません。巨石の立地を知ることは、巨石の成因と変遷を知るための基本情報ですが、全山に渡って岩の所在をチェックするのは見通しが悪くてとても大変です。
 この図を見ながら、巨石の位置を回ると、いろいろの発見があると思います。
 画像は、その図の東半分、愛宕山頂から八幡山にかけてです。筆者が、巨石を赤で着色し、名称注記を加筆しました。
 一見して、山頂や稜線付近に巨石が偏在しています。山頂や稜線部分に露出していたコアストーンとそれが破断・あるいは人工で転落したもののようです。
 さらに、特殊事情として、城塞造成工事で地下から掘り出されて、人工崖斜面に露出した巨石がみられます。その例・・・
(1)、図の北西の大きな直線の人工崖に露出している岩塊群・・・・今回は、草が茂っていて道形が見えず、見に行けませんでした。
(2)、画像中央、本丸址の南西側の人工崖に露出している、勾玉岩・神籬岩、石門などは、本丸の虎口造成工事等で露出したものでしょう。
 また、山の斜面ほとんどが、曲輪として階段状に平坦化されていますので、除去された岩塊も多数あったと思われ、現在曲輪平坦面上にある巨岩は、人工で落とされた岩塊が多いのではないかと思われます。
 訪ねたときは、道沿いの曲輪は草刈りがされて見通しもよく、縄張図の地形が良く見渡せました。
とても保存のよい中世山城とのことですし、巨石と中世城城郭を併せて見られる、とても良い観光スポットだと思います。
(つづく)

No.232 天狗石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月06日 (木) 14時17分

整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群A群09
位置は、上の縄張図参照。
石都々古和気神社の参道谷側にある巨石。
 この参道は、縄張図で見ると、腰曲輪というのでしょうか、幅の狭い水平な曲輪で天狗石はその曲輪直下の人工斜面に露出しています。
 参道上から見ると、石の上部1.4mぐらいが出ているだけでそんなに大きな石に見えないですが、下から見上げると4m余りの立石です。
 天狗石地点の参道山側は、岩続きで岩塊A10があり、天狗石から続く岩脈状の小尾根になっています。
 地下では基盤に続く地下の岩塔か、非常に大きなコアストーンがあり、天狗石はその頂上部にあたり、勿論動いていない現地性岩塊です。
 城塞化以前の地形を考えると、山頂からの緩斜面と山周りの急斜面の傾斜変換線(遷急線)の位置にあった露岩と考えられます。立地としては、よくあるタイプです。
 城の工事との関係では、「おっつ、この岩好都合。頭の高さで水平に段にして、岩に沿って斜面削ると、いい腰曲輪できる」という感じでしょうか。
 次に、地表に露出後、岩塊の形がどう変わってきたのかという観点から、岩の形を細かく見てみます・・・展開図と画像参照。橙色が当初のコアストーンの表面、赤色がその後割れた破断面です。
 当初は円頭の形で、その頭部が平行な割れ目で3つに欠けています。また、左部分の表面に特徴的な平行溝群があります。一般の花崗岩はこのような片状構造は見られないのが普通なのですが、この山の花崗岩岩塊には、このような、節理の割れ目よりスケールの小さい平行した割れ目・風化凹溝が見られ、特徴的です。
 この風化形は、この山を作る花崗岩の岩質に対応していると考えています。
 地質文献をまとめると、愛宕山・八幡山の花崗岩は、中生代白亜紀貫入の古期花崗岩類で、岩質は花崗閃緑岩。貫入岩体としては、石川岩体といわれます。古期花崗岩類の岩相の特徴は、有色鉱物(黒雲母や角閃石など)が片状組織を作ることで、岩体としても貫入の際の同心円状の面構造がみられ、露頭レベルだと、高角度の傾斜の面構造があるといわれます。
 天狗石に見られるような、片状の割れ目や風化溝は、この花崗閃緑岩の元々の片状構造が、風化によって、弱線が集まってコアストーン内部の割れ目や凹溝となったものと思われます。また、コアストーンの外形を作っている、冷却節理(一般に垂直方向に直交する向きで形成される)にも片状の影響が見られるようで、岩脈状の尾根形なのはその現れかもしれません。
 (次は、天狗岩に続く無名岩)

No.233 天狗石の続きの岩 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月07日 (金) 21時55分

整理番号は、愛宕山・八幡山巨石群A群10。
 天狗岩A09と一体の岩で、参道を隔てた山側にあります。
 画像の画面中央から斜め右下に岩脈状につながった先が天狗石になります。
 地中にあった時点から動いていないと思われるので、現地性岩塊。
 大して目立つ岩ではありませんが、放射状に割れ目が入っていて砕け方が凄い。節理に沿って割れたのでなく、勿論、表層風化の球面に平行な割れ目でもなく、重力破断した割れ目と思われます。
 この岩塊の表面を見ると、地中で作られたコアストーンの表面と思われるなめらかな球面が残っている部分と、地表に露出後に破断した破断跡の部分に分けられ、図化してみると現況図のようになります。
 この図から、地表に露出直後のコアストーンの姿を復元・想定すると、半球状のコアストーンの姿が浮かんでます。
 花崗岩は、このような地中でのコアストーンの形が復元できる例が多く、地表に露出した後の壊れ方、あるいは、移動の様子が推定できるのが面白いところです。
 巨岩地形を作る岩石には、花崗岩以外に斑糲岩や火山砕屑岩などがありますが、この手の岩石の作る巨岩地形は、初期状態の形とその後の破断形判読が、イマイチ明瞭でなく、地形としては、あんまり面白くないですね。
(続く、次は亀石と屏風岩)

No.234 亀石と屏風岩:立地と成因 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月09日 (日) 20時37分

整理番号は、愛宕山・八幡山巨石群B群01〜03。
位置は、上記の縄張図参照。神社参道の坂道西側にあります。この参道は、縄張図によると、天狗石の腰曲輪からあがる本丸への道で、人工的に掘り込まれたものらしい。
 以前この付近に鳥居が立っていたが、3.11の震災で倒壊撤去されたようです。
 図は、傾斜方向の縦断図を示します。
岩塊B01(亀石)と岩塊B02は転石。屏風岩コアストーンの谷側半分が破断転落したものです。
 なお、亀石は、破断転落して大きく2枚に板状にはがれ、向こう側の厚さ2mほどの板がずれて飛び出し、その三角の断面形が亀の頭部分に見えるということらしい。
 亀石の手前側の表面は、転落前のコアストーン谷側表面と思われる球状面です。また、横方向の割れ目線が見られるが、花崗閃緑岩の片状組織に対応した片状割れ目で、当時は垂直方向であったものが、横倒しになったものと思われます。
 屏風岩は、地中にあった状態から動いていない(現地性という、動いていれば異地性)のコアストーンの残存部分です。
 地下に未風化岩盤が続いている根石ではなさそうですので、「浮石」ということになります。
 愛宕山・八幡山は山体のマサ化が進んでいて、山頂、稜線部分にある岩塊は、地中では、みなマサの中にぽつんと一つコアストーンが残っている、「現地性浮石」状態になっていたものです。 これらは、周囲のマサがなくなり、地表に露出すると、容易に転落したり、破断します。
 屏風岩コアストーンも同じで、もともとは、山頂緩斜面の肩に露出していて、下から見ると比高6mほどの立石であったものです。これが、後に、重力破断して半分が転落・堆積して亀石となったものです。
 地形より見て、屏風岩・亀石の地形を利用して、参道が作られていますから、亀石の破断転落は、城塞化工事より古いといえます。
 (続く:次は、屏風岩の破断形)

No.235 屏風岩の破断表面と片状割れ目 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月12日 (水) 11時34分

屏風岩の垂直破断面を正面から見上げた画像と図です。
 屏風岩の輪郭は、コアストーンの球状面の断面で、底部も丸く細くなっていて、浮き石であることが分かります。
 正面からだと分かりませんが、破断面は平面でなく、緩やかに湾曲した曲面で、節理面で割れたのでないことが分かります。
 破断面の表面には、細かい割れ目が入っています。割れ目は直線でなく曲線でカーブしているところもあり、節理割れ目ではありません。
また、表層風化割れ目のようにコアストーンの外形に平行な割れ目でもありません。
 この割れ目は、天狗石の所で述べた、古期花崗閃緑岩の片状組織に対応した片状割れ目と思われ、他所の花崗岩類のコアストーンでは見かけませんが、この山の岩にはよく見られます。 (続く:次は、石門・神籬石)

No.236 石門・神籬岩の立地 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月15日 (土) 23時23分

屏風岩の先の参道沿いにある巨石です。位置は、書き込み229の縄張図を参照して下さい。
 神社参道の両側に巨石(D04とD03)があり、これが石門。石門を過ぎると、参道両側が高まりになり、溝の底を通るようになります。左手の斜面は、神社のある山頂平地の直下の崖で、中途に2つの岩(D02とD01:神籬岩)が露出しています。 神籬は「ひもろぎ」と読む。意味は辞典でどうぞ。
 この地形を縄張図で見ると、この参道沿いの溝地形は、明らかに人工の地形です。
 八幡山山頂から東へ続く幅広の山稜を南北に掘り割り、本丸とその東の曲輪を分離し、掘り割りの底を本丸への通路としたようです。
 掲載した断面図は、石門を過ぎて溝の底から振り返った状態で、図の右側の高まりが本丸です。
 城塞化により溝が掘られる前の、自然状態の斜面と巨石の様子を考えます。
 D03・04の2つの巨岩は、斜面下部にあった転落(人工落下かも)岩塊と考えられます。
 また、D02・D01は、以前は、斜面の傾斜変換線に、頂部のみが見える状態で埋没していた岩塊と思われます。それが、溝の掘り下げにより岩の下部まで露出するようになったのでしょう。
 なお、D02は、D01の位置から、少しずり落ちています。D01は動いていないようです。
 溝が掘られた後、三蘆城が現役だった時代は、石門も神籬岩も、本丸直下の通路沿いという位置からみて、城塞設備の一部として利用されていたはずです。
どんな様子だったのでしょうかね。
(続く:次は、石門)

No.237 石門 その2 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月18日 (火) 16時07分

前項で述べたように、転落してきて斜面下部に止まっている2つの岩塊で、その間を少々掘り込んで、道を作ったものです。
絵に描いたような、すぐ見て分かる浮き石で、斜面の上に乗っています。
 D03は、岩塊底部が平らで、斜めに斜面上にあります。さらに、斜面下側(参道側)では、岩塊の下に2〜3個の小さな岩塊があって、その上に乗っています。この辺が、転落岩塊である明白は証拠。
 D04は、北面より見た下の画像でみると、右側から落下してきた勢いで、参道反対側の逆傾斜した斜面まで行って止まったと考えられます。南面から見ると、岩塊の下がマサであることがよく分かります。
 D04には、節理に起因する平面割れ目が1本入っていますが、それを除くと、D03、D04とも側面は、マサ中にあった時のコアストーン球面のままで、なめらかな丸みを帯びた表面形です。
 さらに、転落して地表に露出後、表層が殻状にはがれていく風化(よく、玉ねぎ状風化といわれている)の初期を受けていて、網目状の細かい割れ目がみられます。上方画像の、D~3やD04の表面にみられる割れ目群を参照。
 (続く 次は船岩)

No.239 船形岩 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月24日 (月) 13時46分

整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群D群07。山頂への参道(城の大手道跡)が、石門(D03、04)の先で、堀割の底道になっていて、山頂とは反対側の土塁状高まりの上に船形岩があります。位置は、巨石位置図・縄張図参照。
 長径3.5m×短径2.0m×高さ0.7mの板状の大きな破断岩塊。マサ土の上に乗っていて、当然異地性の浮き石です。岩の形状は、コアストーンがパカッと破断した形でよくあるタイプです。
 しかし、破断転落したものならば、当然斜面になければならないのですが、この岩塊は、両側が切れ落ちた稜線状のたかまりに乗っています。
 一見、稜線の続きにある勾玉岩の頂上から、稜線伝いに滑り落ちて、うまい具合に止まったものかもと見えますが、そんなにうまく滑るはずもなく、勾玉岩の上も丸頭で、船形岩が乗っていた跡はありません。
 どうも、本丸方向から転げてきた岩塊と考えられます。すなわち、縄張図を見ますと、参道堀割は、自然の谷ではなく、人工の掘り込みで、参道は本丸への大手道跡と思われます。また、船形岩の反対側斜面も、急傾斜で、下の腰曲輪の造成で掘り込まれた崖と思われます。
 この掘り込みを元に戻して考えますと、城塞化工事以前は、船形岩の山頂側は、山頂の緩斜面(本丸)から続くやや急な斜面であったと思われ、船形岩はそこに山頂(本丸)側から転落してきた岩塊が中途で止まったものでしょう。
 勾玉岩と船形岩をつないだ形で土塁状に残して、両側を掘り下げたものと思われます。溝は最大で比高10m余もあり、たいしたものだと思います。
 船形岩の破断元の位置は、今は空中になったのか、どこかは分かりません。
 (続く 次は勾玉岩)

No.241 勾玉岩 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月25日 (火) 09時31分

整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群E群01〜03。
 石都々古和気神社参道脇にあり、境内への最終階段の登り口に露出しています。
 画像は勾玉岩を階段から見下ろしたもの。手前が参道で、スケッチ図もその向きから見た勾玉岩です。
 なお、スケール代わりの人物像は、今回はバックが黄色いので黄色おじさんにしました。
 身長170cmぐらい、愛称は「変質おやじ」です・・・イラストの分野「学校行事、防犯」にありました。感じが私に似てるのでお気に入りです・・・。
 図の岩塊E01とE02を勾玉岩と言っているようです。
 画像のE01は半割れで、右側に天龍桜からの根で開口割れになっている片割れのコアがあり、復元すると大きな球形のコアストーンになります。また、卵形のE02の裏に、同じ卵形のE03があり、3つの球形のコアストーンが並んでいます。
 この3つのコアストーンが埋まっているマサの土手は、上に天龍桜が生えていて、画面右隅に見える船形岩(書き込み239)に続く土塁状の高まりです。
 縄張図(書き込み229)をみますと、石門から上ってきた参道と境内への階段の部分は、三蘆城本丸大手の虎口に当たります。参道と会談は、自然の斜面を大きく掘り込んで、鍵の手に作った人工の溝の底ですので、勾玉岩の3つの岩塊は、その掘り込み工事で掘り出され、溝の表面に露出したコアストーン群ということになります。
 勾玉岩〜船形岩の高まりの向こう側も人工による急崖です。ただし、船形岩の下と違い、勾玉岩の下の崖にはコアストーンが露出しているようです。しかし、勾玉岩の底は球形で、マサになり、岩が連続していません。
 地下でのコアストーンのでき方について言いますと、一般に、花崗岩類は、岩体の冷却収縮による鉛直方向の2方向の節理割れ目と、シーティング節理と呼ばれる水平方向の節理割れ目によって、方形節理系と呼ばれる割れ目ができ、サイコロ状に区切られます。 マサの中のコアストーンは、そのサイコロの中心が球形に残ってできるのが一般的です。
 勾玉岩の3つのコアストーン群も、地中塔の頂部が方状節理の鉛直節理面に沿って分離して、コアストーンとなったものと思われます。
 コアストーンが地表に露出しますと、重力作用や風化作用によって破断変形するようになります。
 勾玉岩では、その割れ目が各種見られます。
 まず、スケッチ図で、コアストーン球面を割る割れ目が見られますが、これらの割れ目は、コアストーンごとに違う向きで連続せず、割れ目も曲面で平面でないことから、花崗岩節理面ではなく、地表露出後の重力破断・風化破断の割れ目と考えられます。
 ここでは、3種類の破断形が見られます。
 (1) スケッチでは、隠れて見えないのですが、E01を2つに割っている、木の根開口割れ目。
 (2) E01のコアストーン形が、斜めですので、谷側(画像の向こう側)の土が動いて、斜め下方向に重力がかかり、3つに袈裟懸け破断しています。E02の右上の大きな割れ目も同じと思われます。
 (3) E02の表面、右下に沿って、表層風化して、殻状に剥離破断しています。
一カ所で、まとめてみられる良い例と思われます。

 (続く 次は剣岩)

No.242 剣岩 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月27日 (木) 18時06分

整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群F群03。
 石都々古和気神社脇に、祖霊社、多賀神社、諏訪神社の祠が並んでいます。剣岩はその背後のマサ土の土塁上にあります。高さ2.5m、幅6m、奥行き2.5mほどで、浮き石ですが、現地性のコアストーンです。
 図の縄張図は、書き込み229の図の、本丸付近の拡大です。土塁は三蘆城本丸西端の土塁で、現地で見ると盛り土でなく、山頂部を切り込んで平坦にした際に切り残して土塁としたものです。スケッチ図に示したように、5つの岩塊が土塁上にありますが、いずれも土塁化される前からあった、山頂型のコアストーンと判断されます。
 また、土塁の西側の急崖は、人工的に掘り込まれて、比高10〜12mの急崖とされています。
 縄張図に赤で多数の露岩岩塊を示しました。城塞工事以前の自然の状態では、緩やかな緩傾斜の山頂地形で、その山頂緩斜面の肩の所に、コアストーンが露岩となっていたと思われます。
 現在の、土塁より西側の岩塊は、土塁下の人工急崖直下か、その下の腰曲輪面状にあり、いずれも人工の地表上にありますので、自然の状態ではなく、山頂付近にあったコアストーンが城塞工事に伴って落とされたり、掘り出されたものであろうと思われます。
 剣岩(F03)は、城の施設として、そのまま利用されたものと思われますが、全く動いていないわけではなく、土塁の斜面側に少し傾いていて、少し滑っており、基底部には滑動による割れ目が見られます。谷側部分の一部は、破断分離して、急斜面下に転落しているものと思われます。
 一方、岩塊F04は、以前土塁上にあった岩塊が3〜4個の破片に割れて、逆に本丸側に転落しています。このことから、D04の破断は、土塁が切り込まれた時より後であることがわかります。
破断の様子は、天狗岩の続き岩塊(A10)の壊れ方と似た感じです。
 (続く 次は鏡岩)

No.243 鏡岩 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月30日 (日) 13時30分

整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群G群01(鏡岩)、02。
 石都々古和気神社境内の北にある駐車場の両側にあります。
 G01(鏡岩)は、径3.5m、厚さ0.7mほどの円盤状の破断破片で、上から落ちてきて斜面途中に引掛った形で止まっています。当然、現地性でなく、異地性。
 縄張図で見ると、斜面の上は三蘆城本丸の西端土塁で、前回掲載した剣岩のある土塁の続きです。
 駐車場は、本丸下の腰曲輪上にあたり、G01の落ちてきた斜面は人工化された斜面である可能性もあります。
 実は、どこから落ちてきたのかを見に行ってないので、再訪の必要があります。
 なお、G01は、脇から見るときれいに袈裟懸けに破断し、上半分がズレていて、今にも落ちそうです。
 G02は高さ1.7mぐらいの半球型で、姿の良い石です。腰曲輪の平坦面上にポツンと飛び出しています。
 根石か浮き石か決めかねていますが、根石にしてはできすぎていて、G01と同じように落ちてきて、破断面を下にして止まった半欠けのコアストーンかもと思います。また、このぐらいの大きさだし、姿も良いので、人工的に運んできて置いた可能性もありますね。
 (続く 次は、西館二十番塔土台石 Ni08)

No.244 西館、観音二十番塔土台石 Ni08岩塊 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年12月03日 (水) 23時05分

整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群Ni群08(西館、観音二十番塔土台石)。
 位置は、前回書き込みの縄張図に記入しましたので参照して下さい。鏡岩のある北駐車場から西へ行く道路沿い、盛り土土堤先の斜面にあります。
 縄張図を見ると、土堤は、本丸と西館の間を隔てる空堀を埋めたものです。画像は、その土堤上から空堀と西館を望んだもの。写真が下手なので、よく分かりませんが、この空堀、規模雄大で凄く立派です。
 さて、この石は、無名なので、石の上に最近立てられた、観音二十番塔の名を取って、その土台石ということにします。形は、一言で言うと、直径3mの球体を1/4した形。
展開図を作りました。図の橙色は、コアストーンの球面、緑色は、コアストーンの節理面、赤色は、コアストーン露出後の破断面です。
 成因は、自然のものだとすると、滑ってきた岩塊と言うことになります。しかし、片割れが見つからないのはまあよくあることとしても、斜面がとても緩く、滑ってきそうもありませんし、斜面上部に石の跡がありません。
 むしろ、この石の位置が、廃城以前、空堀脇で、本城と西館とを連絡する施設(吊り橋とか、門とか)があった所ですので、成因は、人工の可能性が強いと思います。
 すなわち、この石は人工的に引っ張ってこられて、何らかの施設の土台になっていたのではと想像されます。運びやすそうですし・・・。
(続く 次は、Ni-06,07岩塊 西館観音二十一番・二十二番塔土台石)

No.245 西館付近、愛宕山北面の岩塊群(未見) 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年12月07日 (日) 23時47分

愛宕山(図中央の・344)付近の縄張図です。
 図の東側、道路が土堤になっている所が、前項の書き込みで紹介した、空堀と二十番塔土台石で、空堀から西の曲輪群が三蘆城の「西館」と呼ばれる部分です。
 縄張図には、道路の北側の城址部分に多数の巨岩があり、特に北東・南西方向の直線的な人工崖面に、神社境内にある岩塊よりも大きな岩塊群が存在することが示されています。
 今回の探訪時に、草茫々で、道型も見えなかったので、道路沿いの小ぶりの岩塊を見ただけで、通過してしまいました。
 まあ、最大の宝の山を前にして、夏の暑さに退散するぐらいの、ヘタレであったということですが・・・・・どなたか踏査紹介して頂ければと思います。
(続く 次は、Ni-06,07岩塊 西館観音二十一番・二十二番塔土台石)

No.246 西館二十一番、二十二番塔土台石 Ni06,7岩塊 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年12月09日 (火) 22時34分

整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群Ni群06・07(西館、観音二十一、二十二番塔土台石)。
 位置は、西館の縄張図の右半中央、道路際にある2つです。 この石も、無名なので、石の上に最近立てられた、観音二十一、二十二番塔の名を取って、その土台石ということにします。
 Ni06は、道路沿いの土塁端にあり、この岩が土塁端になっています。築城前は、愛宕山の山頂稜線の肩にあたる場所にあった岩塊と思われます。
 07は、明らかに、06の頂部が剥離し、転落したもので、転落は土塁斜面より後の時期になります。
(続く 次は、塩竈神社Si-01岩塊)

No.247 長くなったので・・・・ 投稿者:滝おやじ   投稿日:2014年12月13日 (土) 23時47分

えらく長くなってしまったので、塩竈神社の巨石群からは、項を改めることにします。

No.223 巨石観察ノート 2014年版21 奈良県山添村菅生地区 あたごさん巨石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年10月13日 (月) 20時35分 [返信]

画像:あたごさん全景 ゴジラの背中のトゲみたいな、花崗岩離れした特異な形の巨石
花崗岩の巨石地形事例を集めるため、各地を回っています。
最近、奈良県の花崗岩分布地を廻ってきました。その際に、「山添村イワクラMap」というパンフの写真に惹かれて、山添村菅生の「あたごさん」を見に行きました。
 <到達ルート> 国道25号を山添村菅生まで行けば、道ばたにあります。
世界座標 緯度  N34°40′19.00″ 経度 E136°02′29.59″
5万地形図「上野」、2.5万地形図「月ヶ瀬」図幅内。 国道25号沿いにあり、道路反対側に広い駐車スペースもあります。
 <発端>
「山添村イワクラMap」に、「菅生あたごさん」として紹介されていた岩塊です。
 丘の上に露出した岩が60°位傾いて立っていて、自重で開口して3つに割れています。花崗岩の露岩地形ではあまり見かけない形なので興味を持って訪れてみました。
 現地は、大和高原地域に当たり、マサ化した低い山地を解析する谷の谷底にありました。地質は、5万地質図「上野」によると、白亜紀後期の花崗岩貫入岩体の一つで、城立(じょうりゅう・・・地名)トーナル岩(花崗岩の一種)という岩石です。
 周りの山々の岩石はほとんど風化してマサになっていて、要するに砂山みたいなものですが、そのうちに未風化の部分があり、未風化の地中塔頂部が沖積平野上に露出し、離れ島地形の小丘になっているものです。
 この巨岩の形について結論を言うと、
(1) 地中にある時から、トーナル岩の片麻構造に沿って急角度に傾いた割れ目が岩盤中にあり、傾いた節理系であった。
(2) それが、地表に露出し丘の稜線の露岩となって、周囲の岩塊が落下し、傾いた立石が形成された。
(3) その後、更に立石内に、自重による割れ目が入り、片麻構造の方向に沿って3つに裂けた。
 ・・・といえます。(続く)

No.224 城立トーナル岩の岩相と弱線 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年10月16日 (木) 10時12分

 画像:小丘基部のトーナル岩表面を撮影したもの。画像幅150mmぐらい。

 丘の上のゴジラのトゲのような石は、根石か浮き石かといいますと、小丘の先端と側面にも岩盤が見えますし、浮き石だったら倒れてしまうほど傾いていますので、傾いて立っている露岩は根石なのは確実です。
 この岩石は、5万地質図を見ると、白亜紀後期の花崗岩類で、城立トーナル岩となっていて、花崗岩の一種ですが、普通の花崗岩と見かけが少々違います。

 トーナル岩とは・・・花崗岩類の一種。珪長質鉱物(白色の鉱物、石英・正長石・斜長石など)のうち石英と斜長石が多く、正長石がほとんどないタイプの花崗岩。石英と斜長石、および有色鉱物からなる深成岩。石英閃緑岩よりも石英が多いものを指す・・・とのこと。
 さらに、城立トーナル岩とは、5万地質図「上野」の記載によると・・・・珪長質鉱物と苦鉄質鉱物がそれぞれ卓越した縞状構造(片麻状構造)が著しい。この構造は,(図幅)南端西半部で走向が東―西性で北へ30°〜50°程度傾斜する。・・・・・とのこと。
 画像で見ると、白い鉱物(白が斜長石、灰色が石英かな)と黒い鉱物(黒雲母)が、縞状(片麻構造)になっています。縞の傾斜面は、向きは東西、50°ほどの傾斜で北落ちになっています。
 片麻構造とは、鉱物の配列の縞状構造をいうのだと思いますが、露頭で見ると片麻構造と平行する微細な割れ目がたくさん入っているのが分かります。そして、それが連続して大きな割れ目にもなっています。
 地下での節理系や、地表に露出後の重力破断割れ目は、この片麻構造に沿った岩石の弱線に沿っているようです。 つまり、片麻構造と同一の方向の割れ目が発達する傾向があるようです。
 この、片麻構造に起因する風化割れ目が発達し、同じ方向に割れ目が反復する形が、この岩石の風化形の特徴のようです。

No.225 あたごさん丘の傾いて立っている露岩は、 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年10月20日 (月) 00時49分

未風化な岩石が、地中塔の形で小丘になって露出し、その頂部が丘の上に根石になって露出したものです。
 あたごさんの丘で、割れ目を側方から見る方向で、側図してみました。
 小丘の基部に見える岩盤の割れ目方向と、小丘上の傾いた立石露岩の割れ目方向が同じことが分かります。
 露出部分では、岩石内部の片麻構造に沿って、更に割れ目が入り、岩石が破断しているといえます。
 なお、岩の形は、東西方向北落ちの割れ目のほかに、それに直交する、南北方向・垂直な割れ目により、岩が柱状になっています。南北方向の割れ目は、直線的で節理系と思われます。

 再度まとめますと、
 あたごさんの丘で、岩の形が、通常の花崗岩類の形と違った形である理由は、城立トーナル岩の岩相と普通の花崗岩類の岩相との違いによると思われます。
 すなわち、一般の花崗岩は、組織が均質なため、地中でも垂直な節理が発達し、直方体の未風化ブロックができた後、それが周囲から風化して球状のコアストーンを作ります。その後、地表に露出すると、組織が均質なため、もともとの節理面かコアストーンの傾斜方向に割れていきます。
 一方、城立トーナル岩の岩質は、組織が不均質・片状の片麻構造を持つため、地中でも片麻構造に沿って傾いた節理が発達し、傾いた形の未風化ブロックができると思われます。その後、地表に露出すると、組織が不均質・片状の片麻構造を持つため、岩石の片麻構造に沿って重力破断割れ目が発達しやすいためと思われます。

No.226 詳細情報を拙HPの出向記録にアップ 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年10月22日 (水) 23時50分

あたごさんの巨石について、拙HPの巨石奇石巡り記録の項にアップしました。
上述掲示板の情報より詳しい情報ですが、結論は変わりませんので、ご興味のある方がのぞいてくだされば幸甚でございます。

No.222 巨石が動いた証拠 投稿者:滝おやじ    投稿日:2014年09月04日 (木) 22時56分 [返信]

2014年9月撮影、撮影して間もないです。福島県本宮市和田 岩角山にて。
岩角山は、阿武隈花崗岩が風化したマサからなる阿武隈山地の丘陵性山地の中で、ちょっと高い未風化な花崗岩による残丘。山頂や尾根稜線沿いにコアストーンとその破断した岩塊群が多数露出し、有名な巨岩群の山です。
 超が付く、これは凄い!という大岩塊はないけど、中〜小型のコアストーンが多く、花崗岩巨岩地形の諸類型が一カ所で見られる所です。
 いままで、各コアストーンが、どんな所にあり、どんな形をしているか、延べ3日ぐらい調べていますが、あと2日はかかりそうです。
 画像は、巨岩が滑り動いたせいで、ガムを伸ばしたみたいに変形させられた木の幹。
 画像の2つの巨岩は、元は1つで、平たい大きなコアストーンだったのが、画面中央で2つに裂け、下半分(画面の左側)が滑って、そばの木の幹に当たり、元の位置から1m近く脇に押しやっています。
 押された木も変形して、画像のように幹が奇妙な形に変形しています。

No.218 巨石観察ノート 2014年版20 岩手県花巻市石鳥谷町呼石地区 夜鳴石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年08月24日 (日) 16時31分 [返信]

花崗岩の巨石地形事例を集めるため、岩手県北上山地の遠野花崗岩露出地を廻っていて、花巻市石鳥谷町五大堂、呼石地区の夜鳴石を訪れたので、備忘録代わりに簡略まとめ。
 東北地方の巨石事例は、インターネット上のyo-hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」 (http://hamadas.exblog.jp/ 20130522現在) から所在情報を得ています。 この夜鳴石もその一つです。
 また、その後、岡田謙二氏のHP「巨石巡礼」 http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/ でも「呼石大明神」として取り上げられ、この石にまつわる伝承が紹介されています」。
 それらで見ると、丘陵性山地の山頂直下にある、とても大きな花崗岩平石らしく、根石ではないのかということと、風化破断形が、復元できそうで、特に平頭の形がどうできるのか興味があって、訪れてみました。 画像は、夜鳴石正面、谷側から見た景観。
 正面・長辺12m×断面・短辺5m×高さ2.7mぐらいな平頭な石であった。・・・それなりに迫力あり。
 手前の岩塊は、正面が円弧状破断による分離岩塊。節理面起源の平頭だが、水平でなく、山側に面が傾き、未分離の岩片が2つ上に載っているのが見える。 (続く)

No.219 夜鳴石の伝承 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年08月26日 (火) 22時57分

夜鳴石は、花巻市石鳥谷町五大堂、呼石地区の呼石大明神という神社社殿裏にあります。
緯度経度(世界座標)は、北緯39度26分19.15秒、東経141度12分13.29秒。
2.5万地形図図幅は、「石鳥谷」。
 北上山地の白亜紀遠野花崗岩体がマサ化した丘陵性山地の145.9mの平頂峰の北斜面132m付近にあります・・・・花巻市2500分の1地形図による。
 この地域は、花崗岩の山地はマサ化して侵食されやすく、標高250〜150の低い山地で、谷頭まで水田化された短い谷がたくさん入っています。一方、北東には、斑糲岩・蛇紋岩が分布し、風化しにくく、緻密なため、花崗岩山地よりひときわ高く聳える残丘山地(権現堂山・標高476m)になり、山の斜面形は岩質を反映して山襞のない平滑な形が特徴です。
 上記の周辺の地形や、夜鳴石の神性、呼石という地名の起源、などにまつわる伝承が、図書館にあった、菊池邦雄著「いしどりや歴史散歩」:1996、自家出版 という本に記録されていました。
 以下、その本のp109〜110、夜鳴石の項、引用です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(引用開始)〜〜〜〜
 夜鳴石(よなきいし)
 八重畑(注 1955年石鳥谷町に合併した八重畑村地区)の呼石に呼石大明神という神社がありますが、境内に夜鳴石といわれている石があります。 夜鳴石は、部落のほぼ中央の丘の北側中段にあります。長さ約十三メートル、幅約七メートル、高さが約三メートルで、石の上からは東側や西側、北側を見渡すには好都合な場所になっています。あ
 いい伝えによれば、今から六百五十年程前に、無底禅師(水沢市黒石町の正法寺開祖)(注 水沢市は現奥州市水沢区)が布教のため奥州へ下り、黒石の地が大変気にいって庵を建てて住んでいました。庵の近くには沼があり、沼には鎮守の神霊が住んでいました。沼の主を鎮守姫(お池峰ともいう)と.いいました。
 禅師は、黒石の地を仏法の霊場とするために仏戒の諸法を講じて祈ったところ、突然沼の土手が破れ、水が北上川に流れ出しました。そのために鎮守姫は住む場所がなくなり、滝田の権現堂山(注 呼石の北東にある山 標高476.3m)にきて一晩に千の沢を作って居住の場所にしようとしました。使いの天狗たちを働かせて九百九十九沢まで作ってあと一沢という時に、夜明けを告げる鶏の鳴き声が聞こえ、鎮守姫は驚いて早池峰山の方へ去って行ってしまいました。 鎮守姫が沢作りを始めた際に、大石が呼び声を上げ、その声につれて山の麓の石まで皆頭を権現堂山の方に向けたということから、この大石を夜鳴石と称し、これより呼石の地名が起こったといわれています。
 夜鳴石と呼石大明神とのつながりは明らかでありませんが、昭和六、七年ごろまでは、石の上に堂が建てられていました。神社の祭神は現在は弁財天といわれていますが、弁財天が祀られる前には、・夜鳴石を信仰の対象として崇めてきたのではないかとみられています。
 夜鳴石の周辺には、蛇石とよばれている石や、元文五年(一七四〇年) に立てられた庚申塔があります。蛇石は唐檀石(からといし)ともよばれ、横割目の入った石で、石には沢山の蛇が棲んでいて、その蛇を殺傷した者には崇りがくるといういい伝えがあります。また、庚申塔は御庚猿と刻まれ、町内にある庚申塔では最も古い稗です。夜鳴石から神社のあるあたりは、古くからこの地域での信仰の中心の地になっていたのではないかとみられています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(引用終わり)〜〜〜
 現地では、石の上からは、石の周りの木々が茂っていて、展望はありませんが、展望ソフトで確認すると、木がなければ、視界一杯に権現堂山が望める立地です。ただ、早池峰山は、権現堂山の影でまったく見える可能性がありません。
 聖山を領する神・水源の神・女神という概念や、山を望む(拝する)・巨石・神を呼ぶ。あるいは、神が呼ぶなどの場所の機能伝承など、民俗には門外漢ですが、内容の濃い伝承だなあと思います。
 なお、蛇石という石は、どれだか分かりませんでした。残念。それから、境内には4基の石塔があったけど、金毘羅塔、天照皇大神他2神、三十三番観世音塔が2基という顔ぶれで、元文5年の庚申塔って、どこにあるんでしょうかね。見当たりませんでした。

No.220 夜鳴石の移動と停止 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年08月29日 (金) 01時06分

画像は、山頂から夜鳴石を通る斜面の縦断面図です。花巻市発行の1/2500地形図を利用して図の水平距離を取り、標高は概測で作りました。キチンと測量したわけでありませんので、寸法は大体です。
 念のため、1/2500地形図は、空中写真測量で作った2m等高線の正確な地形図ですが、一般に林冠の下の地表表現が不正確で地図の等高線を信用できません。夜鳴石周辺の2500図の等高線も現実の地形と違っていて、地滑り地形が表現されていませんでしたので、平面図は出しません。
 さて、夜鳴石の底面を見ますと、岩塊底部はマサの上に乗っていて、明らかに根石でなく、動いていることが分かりました。上に登って、周りの微地形を見ますと、夜鳴石は、小さな浅い地滑り地形の中にあり、その地滑りの最上部の小さな地すべりブロック(地滑り堆)の前面に当たり、長辺を地滑り地形の等高線と平行にして止まっている状態であることが分かりました。長辺の向きからみますと、同じ移動してきた岩塊でも、転落した岩塊は等高線に直交する傾向があり、地滑りや土石流で動いてきて止まった岩塊は等高線に平行になるようです。
 図で示した縦断図から判断しますと、そのような地盤の所で、山頂近くの斜面から、小規模で浅い地滑りが起こり、夜鳴石が12〜3m移動したあと、傾斜が緩くなり、長辺を等高線に平行になる方向に露出して止まったことになります。
 その時期は、伝承の語るように、夜鳴石が古くからの信仰対象になっていることからも、ずっと古く、また、江戸時代以来動いていないと思われます。
 地滑り発生以前の地形は、平頂峰の端に、未風化のコアストーン巨岩が1つある、稜線先端部に立地する型だったと言えます。
 また、夜鳴石の頂上に登ってみますと、石の頂面が山側に傾いて、緩やかですが逆傾斜になっています。斜面に平行に滑ったのでなく、少しですが逆回転しながら滑ってきたことを示していると思います。地滑り移動の岩塊と、転落や土石流移動岩塊との違いかもしれません。
 以上、夜鳴石の立地形状は、地滑りによる移動岩塊という点で、以前紹介した花巻市の胎内石(この掲示板書込142〜145参照)や、福島県寒川町の破石、宮城県丸森町経石(拙HP http://chibataki.moo.jp/ の巨石奇石見物記参照)と同じと言えます。
 特に、花巻市丹内の胎内石と、頂面が逆傾斜する所など、動き方、停止の仕方が酷似していると思います。

No.221 露出後の岩塊風化・破断形 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年08月31日 (日) 12時13分

画像は、夜鳴石の西側面。すべりの方向でいうと側面、岩塊の形でいうと短辺です。
画面右手から滑ってきて、止まっています。右手の押してきた土塊を止めているといってもよいです。
 岩の表面には平行した割れ目がたくさん入っています。露出後の表層が剥離する風化に伴ってできる割れ目と思われます。 風化割れ目の模様は、花崗岩巨石の表面によく見られますが、前に紹介した山梨県甲州市の鎧石(拙HP の巨石奇石見物記参照)のような網目模様と、夜鳴石のような平行模様があるようです。こちらの模様については、いろいろ考慮中。
 先述したように、夜鳴石頂部は、節理面の沿って破断した平面形で、頂部の平面は逆傾斜していて、山側に傾き、割れた岩片群が平面の下部に溜まっています。
 画像の右上端に落下して寄りかかっている岩片は、夜鳴石の頂部から山側方向に落ちてきた岩片です。また、画面の中央上部の凸部は、石の谷側(前面)で、割れ残った部分があり、頂部から突出しているところ。
 地滑りで滑ってきて、逆傾斜して止まり、頂面が節理面で破断して後ろや側面に落ちているという状況は、何度も言いますが岩手県花巻市の胎内石(この掲示板書込142〜145参照)と同じです。
 なお、書込218の正面画像で手前の分離岩塊は、夜鳴石前面(節理面起源の元々のコアストーン面)の一部が、重力破断して、円弧状の割れ目ができ、分離落下したもの。この掲示板書込193の、山梨県山梨市大石山の甲石から浮舟石が分離した例と同じタイプと思います。(以上)

No.214 巨石観察ノート 2014年版19 福島県三春町蛇石 厳島神社の蛇石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年08月10日 (日) 15時20分 [返信]

花崗岩の巨石地形事例を集めるため、阿武隈・北上山地の花崗岩露出地を廻っています。
 今回紹介するのは、福島県田村郡三春町蛇石地区の蛇石。
 三春ダム人工湖さくら湖の新越田和橋近くに、王子神社と厳島神社がある・・・位置図参照。蛇石は、厳島神社境内、社殿の裏にあります。
 先日、立ち寄ったのですが、蛇石に関する名文を読ませてもらったので紹介します。
 東北地方の巨石の事例は、インターネット上のyo-hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」 (http://hamadas.exblog.jp/ 20130522現在) から所在情報をもらっています。この蛇石もその一つです。
 ブログを見ますと、石のある様子や大きさから見て、以前見た、山梨県甲州市塩山の踊石のように動かされた石では・・・と思って、寄ってみました。
 踊石については、拙HP http://chibataki.moo.jp/kyosekiyamanashi/kousyuodoriisi/odoriisi.html参照。
 結果をいいますと、この石は元々あった所在地がダム湖の湖底に沈むことになり、村の名前のもとになった由緒あるものだからとのことで、地元の方々の交渉によって、姿・形そのままに、現在地に移動されたのだそうです。
 昭和63年(1988年)に建立された記念碑があり、その碑文が何度も言うけど名文。

No.215 蛇石、前方?から見た画像。 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年08月10日 (日) 15時22分

厳島神社社殿裏に、庚申塔などと一緒に玉垣に囲まれて置かれている蛇石。
 石だけでなく、王子神社も厳島神社社殿も、移転してきたものです。
 高さ1.4m×長径3.8m×短径2.5mほど、阿武隈花崗岩のコアストーンです。1個だけの岩塊ですので、単体のコアストーンが地表に露出していたのでしょう。
 卵形の形状で、高さ半分の所に全周に渡るほぼ水平な割れ目が入り、割れ目に沿う欠けが口に見え、成る程、大蛇の頭のようです。
 コアストーンの球面は頂上部分にだけ残っていて、側面は風化剥離面や節理面に沿って剥げ落ちていますが、コアストーン当初の丸みがある形は十分残っています。
 欠けなどもなく、丁寧に運ばれてきたのでしょう。

No.216 記念碑画像 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年08月10日 (日) 15時24分

王子神社前に立つ記念碑。ダム建設による移転経緯が記されています。

以下、銘文・・・・読みやすいように改行しました。碑を移しましたので、文字の翻字ミスがあるかもしれませんが、ご容赦下さい。
========
記念碑
 数々の伝承と、豊かな伝説を持つ蛇石。祖先が永きに亘り、苦難に耐え、山野を拓き耕し、墳墓の地としたこの地区で、昭和四十三年ダム建設の基礎調査が始められた。為に、生業に係る計画立案もままならず、我々は動揺し困惑した。
 同四十五年、建設計画が発表され、我々は生活再建、移転問題等々幾多の難題を抱えながらも、事態の推移黙し難く、補償基準の妥結を決断した。時に同五十九年十二月である。
 鎮守王子神社は、社殿を解体せず、所謂「曳き舞」工法により現在地に遷す。
 厳島神社(又の名を、弁天様、蛇神様とも)の御神体は、「蛇石」と呼ばれる大石で、地名発祥の謂あるものなれば、姿、形を変えることなくその處を移した。
 昔より伝えられた祭典行事の一つ、三匹獅子舞は、氏子大半の移転のため、廃止の止むなきに至った。
 この碑の前に佇む時、湖底に、豊かな耕地あり、それを潤した祖先の大いなる遺産であった潅漑用水路あり、その中を県道栃本線、大越線が走り、傍に鎮守の森を見 農協支所、郵便局、公民館、商店が軒を連ね、戦後誰言うとなく「蛇石銀座」と呼ばれ親しまれた聚落があったことに、思いを馳せられたい。
 我等がこよなく愛した故里、蛇石の歴史を、永遠に留めるべく、我々はこの碑を建立する。

  昭和六十三年十二月吉日
             撰文 村上民之助
                宗像慶夫
                橋本元春
         元中郷小校長 橋本義男
==================
平易な文章ですが、惜別を惜しむ心情溢れる名文ですね。(以上)

No.217 蛇石の記録を、HPにアップしました 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年08月13日 (水) 22時12分

蛇石の調査記録を、拙HPにアップしました。
掲示板に書いたことに加えて、石の展開図と解釈、画像を補いました。

No.212 屏風ヶ浦の海食崖型の滝 海側からの画像 投稿者:滝おやじ    投稿日:2014年07月25日 (金) 21時20分 [返信]

先日紹介した屏風ヶ浦の海食崖に懸かる滝の画像を、いただきましたので紹介します。
 屏風ヶ浦の地形や地質を調査されている、伊藤修二様から頂きました。今年の5月に氏が撮影したもの。
 消波堤の上から撮影したと思われます。
 三崎三丁目の懸谷から海に降りて消波堤を約1.2km歩きとのこと。
 まあ、親知らずと同じで、波が穏やかでないと行けません。

No.213 梯子が・・・ 投稿者:滝おやじ    投稿日:2014年07月25日 (金) 21時23分

 さらに、よく見ると滝の傍らに繋いだ2連の梯子が中途までぶら下がっています。
 なんでしょうね。

No.206 巨石観察ノート2014年版18 山梨県山梨市牧丘町西 大石神社の巨石 その14 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年07月12日 (土) 00時40分 [返信]

最初の画像は、大石山遊歩道の北端、花後薬師の丘との鞍部にある鎧石。

No.207  投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年07月12日 (土) 00時41分

 次の画像に示すように、この尾根斜面は、樹林に覆われているのにかかわらず、地表は岩塊累々とした移動岩塊に覆われ、さらに、ものすごい巨岩塊が転落して斜面下に堆積しています。樹木は、岩塊の割れ目にやっと生えている状態。 
 花崗岩の山は、マサ化した砂山というのがイメージですが、このような、マサ化してない花崗岩の山の場合は、凄い岩壁山ですね。
 鎧石は、破断して、これも破断した露岩斜面にひっ懸かっている移動岩塊です。今にも落ちそうに見えます。
 落ちないのは、大石山の他の石は、コアストーンの浮き石なのに対して、鎧石岩塊群と・・・富石岩塊群も・・・根石の大きな地中塔が侵食により露出したものであるからと思われます。

No.208 鎧石の尾根頂上 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年07月12日 (土) 22時58分

 鎧石の尾根の頂上の画像・・・石がよく見えるようになりました。その13・・・尾根先端に行く遊歩道が草刈りされて、通れるようになりました。
 鎧石の上にも露岩が続き、尾根先端の頂上にも露岩があります。鎧石は地中塔の一部で、地中塔頂上が尾根先端部の頂上になっている。
 尾根頂上に露出している露岩は、頭がコアストーンと同じように丸い形と表面をしています

No.209 尾根の側面 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年07月12日 (土) 23時03分

左の斜面:花後薬師の丘
右の斜面:大石山の枝尾根。
 右の尾根先端が鎧石です。
尾根の先端が、地中塔になっていて、尾根の続きはマサと思われる。

No.211 鎧石地中塔のイメージ。 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年07月12日 (土) 23時08分

 富石も同じ構造と思われます。また、以前紹介した、福島県本宮市岩角山の蛇舐石の立地も、尾根先端で同じといえます。

 大石山のコアストーンや地中塔は、中新世に地下に貫入した甲府花崗岩体が、鮮新世頃に地表に露出し、風化により地表近くの厚さ数十m分がマサ化した際に、風化せずに硬いまま残ったものと考えられます。
 マサ化した花崗岩層が、谷の下刻侵食によって、さらに山地・丘陵に掘られて行くにつれ、未固結のマサの中にある、球状のコアストーンや地中塔の突起が、地表に露出すると、周囲のマサより硬いために削り残され、尾根の頂上部分や、尾根の先端部分に露出するようになります。
 現在の巨岩の姿は、この露出したコアストーンや地中塔が、周りのマサがなくなることで周囲の支えがなくなり、完新世以来の重力破断や斜面の重力移動によって更に破断・移動した結果の姿といえます。
 もっとも、現時点では、落ちるところは落ち尽くしているし、樹木の根で固定されているしで、ほとんど化石地形化していて、巨石の場所が地すべり地でもなければ、木の根開口か地震動でもないと動かないように思います。(以上)



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