地形(主に、滝・巨石・山地地形)の掲示板
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No.267 巨石観察ノート2015年版02 石森山巨石群の対比同定(修正) 投稿者:滝おやじ 投稿日:2015年04月03日 (金) 08時36分 [ 返信] |
前回、267〜269で書き込んだ内容について、先日、石森山に再度行った所、草が刈られて見通しが良くなり、日本武尊腰掛石も分かり、多々修正すべき点もありましたので文章を大幅に差し替えました。汗顔の至りですが、御笑納頂ければ幸いです。 ・・・ 石森山にかぎらず、巨石群を見に行き、最初にやることは、何処に何があるのか、地図化することです。しかし、石森山はこれが大変でした。 案内看板の絵図(書き込み264と266の画像参照)が、時期が古く、現在ではかなり景観が変わっているだけでなく、両絵図の間で、微妙に異なっています。 そのため、看板の巨石と、現地の巨石と対比同定したいのですが、時間がたっていて、看板とは様子が変わっていたり、看板の片方が違っていたりしました。 絵図の他に、由緒書上の文章(書き込み266参照)を参考にすることと、、現地で巨石に小さな名称板が付いている場合があり、それにも助けられて、巨石の比定をおこないました。 しかし、名称板も草に覆われて見つからないことが多く、最近になってようやく看板にある巨石の比定が全部できましたので、看板絵図や書上書にある巨石などの比定結果を紹介します。 画像は、日本武尊腰掛石・富窟付近の絵図拡大と現地平面図スケッチ。絵図01は、書き込み264の画像部分拡大、絵図02は、266の画像部分拡大です。平面図中の岩塊群bヘ、私の付けた整理番号です。 30は、日本武尊祠の乗る岩塊付近の岩塊群、31は、絵図の番号ロ、巨石名「富窟」付近の岩塊群。個々の巨石は、ABC・・・を付けて示します。 なお、日本武尊腰掛石(絵図のイ)は、2つの絵図で、富窟(絵図のロ)の西隣にあることになっていますが、現地のスケッチ平面図で示すように、西隣は遊歩道で、その西にも・・・・見当たりません。 (続く)
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No.268 武尊神と大神宮・・・岩塊群30付近 投稿者:滝おやじ 投稿日:2015年03月21日 (土) 13時12分 |
絵図01には、武尊神と大神宮、絵図02には、武尊社と大神宮の注記と絵があります。 由緒書上の「摂社二社末社八社」の内と思われるが、この2つについての記述はない。 現状は、岩塊群30にあたり、ABCの3つで、最大はB、社祠の載るのはCです。 絵図01では30の岩塊は1つで、上に日本武尊社祠があるように描かれています。 絵図02では2つで、現状の岩塊Aと、日本武尊社祠が載る岩塊B+Cとに描かれています。 岩塊A、B、Cともに、斜面上方から移動してきた石で、広い尾根の段で止まったものです。移動してきたときは、BとCは一体だったと思われますが、現地に停止後、長辺が折れたものと思われます。このイベントがいつか、絵図02の状態後とも考えられますが、絵の表現の問題なので、何とも言えません。 また、3つの岩塊とも、背後の小崖斜面に押しつけられています。岩塊Aの前の東屋(現状かなり破損)や岩塊BC前の通路を確保するため、少々ですが、人工的に動かされていると思われます。 大神宮は、絵図では両方とも壁のあるまともな建物として描かれていますが、現状は、壁のない、屋根も薄い簡素な覆い屋。元の建物はなくなっているのでしょう。 元の建物の場所についてですが、絵図02に大神宮参拝のための階段が、建物正面に描かれています。現状でも、草に覆われていましたが階段は残っていたので、以前の大神宮の場所と、現状の覆い屋の場所は同じと思われます。 画像:30岩塊群と大神宮跡 岩塊Aの東屋より、手前岩塊B、奥は日本武尊社祠の載る岩塊C、その後ろ、大神宮跡の覆い屋。(続く)
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No.269 富窟・・・岩塊群31 投稿者:滝おやじ 投稿日:2015年04月03日 (金) 08時37分 |
絵図01、02に、岩「ロ」の注記で、ひときわ目立つ巨石で、重なりあった変わった形で、石下に石祠があると描かれている。 書上には、「富窟(とみくつ) 右石(腰掛石)ノ東ニアリ、大一丈二尺、小八九尺石重リタル中二末社祠・神体石アリ」とあります。 現状は、石の前に、富窟の名称板があり 形も絵図と似ていてすぐ分かりました。 成因としては、 (1) 山頂緩斜面末端に,3つのコアストーンABCが接して露岩となっていた。 (2) 地震振動により炸裂破壊し、ABは3つに分かれ、最大のコアストーンCは、全体が70cmずり落ちると共に、7つの岩片に破断・分離した・・・ものです。 C岩塊のコア部分C1・2・3の前面で、ずり落ちた分がオーバーハングの岩庇を作り、富窟と言われ、末社の稲荷社の石祠があります。 書上の、二末社・神体石については、稲荷社しか現存していないようです。 (続く、次は日本武尊腰掛石)
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No.272 日本武尊腰掛石 投稿者:滝おやじ 投稿日:2015年04月03日 (金) 08時34分 |
絵図01、02に、岩「イ」の注記で、富窟の脇に描かれている岩です。 由緒書上(書き込み266)には、「神殿ノ東ノ方二日本武尊御腰掛石有、上ノ方二天神社、祭神武尊ヲ祭」 「日本武尊御腰掛石 本社ノ東ニアリ、正面一丈一尺」 「富窟 右石(腰掛石)ノ東ニアリ、・・・」とあります。 絵図01、絵図02で、富窟の西側に岩続きで、やや低くて大きな平たい石があり、腰掛石とされています。 というわけで、富窟の西側に続いている巨石があるはずです。 ところが、書き込み267の平面スケッチに示したように、現状は、富窟の西側は遊歩道があり、その続きも大神宮の間の平地になっていて、腰掛石は影も形もなく、三基の石祠があるだけです。→画像左を参照。 遊歩道を下がると、画像右に示す平たい大きな岩(岩塊32)が斜面にあります。この石が、腰掛石ではないかと思うのですが、絵図とだいぶ違うので、なんとも言えませんでした。 先日再度訪れたところ、32の石の裏の草が刈られて、日本武尊腰掛石の名札が現れ、腰掛石が32であることが分かりました。草茫々だったとはいえ,確認不十分で汗顔の至りです。 結局、絵図01は大間違いでした。それに対し、絵図02は比較的正確でした。すなわち、絵図02をよく見ると、腰掛石の脇に大神宮へ上がる石の階段が描かれています。この階段は、今は使われていなくて廃道ですが、草の中に現存していました。その位置関係から、絵図02に描かれた腰掛石は、岩塊32であることが確かめられます。その点はよいのですが、絵図02でも、富窟と腰掛石の関係は近接して岩続きのように描かれていて、離れて、個別の岩塊である現状とは大きく異なって描かれています。 (続く、次は山頂部の巨石群)
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