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No.263 巨石観察ノート2015年版01 石森山巨石群  投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年03月12日 (木) 00時44分 [返信]

山梨県山梨市下石森 石森山
花崗岩の巨石地形事例を集めるため、各地の花崗岩露出地を廻っています。
 いままでいろいろ廻りましたので、、備忘録代わりに簡略まとめします。
 2015年の最初は、山梨県甲府盆地の石森山の巨石群です。
 石森山は、山梨市下石森にあり、甲府盆地の笛吹川扇状地面から、15m位飛び出している小さな丘です。
 盆地北側の基盤岩の山が、盆地を埋めている砂礫層で埋めきれずに突出している地形です。
 丘の地質は、甲府花崗岩体といわれる、中新世に貫入した大きな底盤岩体の一部です。岩種は、花崗閃緑岩と思われます。
 もっとも、丘の岩石は、風化してほとんどマサ砂になっていて、基盤岩の丘といっても、砂のたかまりなのですが、山頂部から南側斜面にかけて、多数の未風化コアストーンが密集して露出し、特異な景観を作っています。
 その景観ゆえ、信仰の対象となり、古代からの創立伝承のある山梨岡神社が建立されており、境内は、巨石の散在する名勝地として知られています。(続く)

No.264 石森山の巨石景観 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年03月12日 (木) 13時03分

 画像は、石森山を南面から描いた案内鳥瞰図で、石森山の巨石景観がよく表現されています。山梨岡神社の境内広場、舞殿前にある看板案内図で、下に、山中の巨石ほかの名所一覧があります。
 ただ、この絵図は、時期は分かりませんが、現在の状態ではなく、一時代前の姿を描いたものです。
 絵図に描かれた祠の建屋や、社務所も形が変わっていますし、名所として描かれている松も枯れています。また、山の西側の道路も現状とは全然違いますし、周辺は耕地として描かれていますが、現在は市街化が進んでいます。
 しかし、この絵図に描かれているような、全山巨石の点在する特異な景観は、今でも変わっていません。巨石も人工改変されていそうなのは、図の左端の獅子岩付近が駐車場化された程度のようで、基本的に絵図の時代と変わらず、そのまま保存されているようです。
 現在は、公園としても整備されていて、遊歩道が新設され、ツツジの名所として植栽も行われているようです。

 <石森山各所の案内看板文面>
● 「山梨市八景・石森山のつつじと果実郷」看板
 石森山は記紀(古事記、日本書紀)の頃、日本式尊がご東征の折お立ち寄りになったと伝えられ、また古書は、この山に岩石(怪石奇岩群)と森林があったことから、石森山の地名が出たと誌(しる)す。伊邪(ママ)那美神ほか五神を祀る山梨岡神社があることから、山梨岡とも呼ばれ人々に親しまれている。
 松の緑や遊歩道の間に、赤、橙、白、紫など色とりどりのつつじの群落が見られ、花の盛りには遠近から花見客が訪れ、峡東のつつじの名所にふさわしい。神社の祭典には浦安の舞も奉納され、山は学童の自然観察地になっている。つつじは「市の花」でもある。
 山上から桃や葡萄の果実郷を展望することも楽しい。桃や葡萄、梨などは昔から甲斐の八珍栗として賞味され、ことさら桃の花盛リには重川一帯、万力山地などがピンクの絨毯を敷きつめたような感じで、おのずから幻想の世界に誘(いざな)われる。

● 「山梨岡神社」看板 
 山梨市下石森1
 創建年代は不詳ですが、社殿建築が発生する以前から「磐座」(下記参照)とよばれる古い石信仰の場として崇拝され、石森岡神社とも呼ばれました。
本殿には熊野大権規と国建大明神が2座相殿としてまつられています。
 江戸時代初期には徳川家によって杜領が安堵され、幕臣で当地付近を領した石谷氏と蒔田氏によって社殿が造営されています。
 「甲斐国志」「甲斐叢記」など多くの書物によって紹介され、主だった大石・巨岩には名が付けられているところからも、石の山が平地に突出した景観が存在感をもって人々に崇拝されていたことがわかります。
 磐座(いわくら)
 神霊が石に宿るという信仰に基づいて、石を御神体として祀ったことに由来する。祀られる石は、巨石や陰陽石など石の大きさや他とは違った特徴がみられるものがその対象となった。神社の社殿建築発生の前段階には、この石に神が降り下るとされて祭りが行われた。
 やがて神が鎮座するところという観念が固定し、石は神聖視され「磐座」と呼ばれるようになったのである。『古事記』『日本書紀』また『風土記』にその名称が散見され、古代の信仰形態のひとつとなっている。

県指定有形文化財 山梨岡神社本殿
 昭和35年11月7日指定
 社記によると、社殿の造営は神護景雲2年(768)、文治3年(1187)、文明6年(1474)、永禄6年(1563)、天和2年(1682)としていますが、造営を担った領主と地域との関係が確認できるのは、天和2年の石谷長門守・蒔田八郎左衛門のみです。
 本殿は、その時代の建築的特徴をもちますが、昭和36年の解体修理の際に大斗裏に元禄16年(1703)の墨書が発見され、それが建立年代を示すものと考えられています。2座相殿の二間社流造で、蟇股や水引虹梁に優れた彫刻が施されており、元禄期の建築意匠を知る上で貴重な遺構です。

市指定天然記念物 石森山のハリモミ
 平成14年5月1日指定
 ハリモミは、日本固有の常緑針葉高木であり、大きなものは樹高30m、直径1mにもなります。
北は福島県から南は九州の一部にまでみられ、マツ科トウヒ属中最も暖かい所まで分布しています。
 石森山のハリモミは自生種と考えられ、今日では主に山地に分布しているものが、平地に隔離されて残っており、この付近の植生を考える上で貴重です。目通り1.70m、樹高約23m。
==========
・・・・・今気づいたのですが、このハリモミはどこにあったのでしょうか。(^_^;)
 石を見ていたので、全く眼に入らなかった。2日ぐらいはいたのですが・・・。
(続く)

No.266 石森山の巨石景観2 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年03月16日 (月) 02時17分

画像は、社殿前にある、前掲書き込み265の「山梨岡神社」看板の付図です。
 同じ265の画像、境内広場にある案内図の元図のようですが、細部に異同があります。

 石森山の巨石や石祠の解説としては、この看板絵図の他に、明治14年に書かれた神社由緒書上の記述があり、石森山の各巨石同定のために利用しました。 これは、山梨市史(平成17年発行)、山梨岡神社の章に、史料として採録されています。
 山梨市史の文章は、今まで見たHPや巨石の紹介本には紹介されていないので、興味のある方がおられると思います。それで、山梨市史の山梨岡神社の項を抜粋して、以下に紹介いたします。
==引用元 山梨市役所編集・発行 山梨市史 文化財・社寺編 平成17年日発行=
 山梨岡神社
所在地  山梨市下石森一番地
祭 神  伊弉諾尊 事解男命 速玉男命 国常立尊 大国主命 少彦名命
由 緒  熊野大権現(事解男命・伊弉冊尊・速玉男命)と国建大明神(他三神)を相殿に祀り、石森岡神社とも呼ばれる(社記)。
 延喜式所載の「山梨郡 山梨岡神社」と伝えるが、笛吹市春日居町鎮目の山梨岡神社も式内社との所伝を持つ。
 社記は日本武尊勧請以来の伝承を伝えるが、史料に見えるのは「永禄番帳」に「石森之祢宜」とあるのが古い。 慶長八年(1603)徳川家四奉行社領証文を所持し(社記)、「古高帳」「慶長番帳」にも載る。
 「国志」を始め、「甲州噺」「甲陽随筆」「甲斐名勝志」「甲斐叢記」などの諸書に紹介され、平地上に忽然と聳える孤丘と巨岩が江戸時代を通じて人々の目を引いたことがわかる。
 社殿については、神護景雲二年(768)、文治三年(1187)、文明六年(1471)、永禄六年(1563)の造営を伝えるが、造宮を担った領主と地域との関係は明らかではない。
 特に文明六年二月二十六日の地頭小松修理亮有久・同孫六有清、永禄六年八月三日の飯富源四郎昌景(後の山県三郎兵衛尉)は(社記)、ともに甲府市小松町の諏訪神社造営を手掛けており、同社には文明十八年二月二十六日(六は十八の読み誤りカ)、永禄六年八月三日の棟札が残されていたから(「県史」資7・在銘一五七〜八号)、或いはこれを参考にして伝承ができた可能性もあるが、天和二年(1682)三月十二日の造営を担当した石谷長門守・蒔田八郎左衛門については(社記)、当地との関係が確認できる。
 ・・・・中略・・・・
 現本殿(昭和三十五年十一月七日県指定)はこの時代の建築的特徴を持つが、昭和三十六年の解体修理の際発見された元禄十六年正月の墨書が建立年代を示すものと考えられる(「県史」文化財編一五五頁)。
 明治初年郷社となる(郷村社)。同十三年六月の明治天皇巡幸の際には、写真・水晶・青礞石等が供覧され、翌年二月の第二回内国博覧会にも出品されている(史料1)。

 <史 料>・・・・・史料1と2の順序を入れ替えて掲載する・・・・
 2 「若尾明細」 山梨岡神社の項(抄)
由緒 景行天皇四十一年日本武尊東夷征伐ノ時二当り、軍ヲ此二処二駐メ諸神ヲ祀ル、此レ当社ノ初メナリ、
貞観元年甲斐守紀貞守幣帛ヲ奉ル、又神護景雲二年坂上苅田丸、文治三年加々見遠光、文明六年地頭小松有久、永禄六年飯富昌景、天和二年地頭石谷長門守等ノ神殿造営ノ挙アリ、
明治六年之ヲ郷社二列ス、
甲斐風土記二山無岡或ハ離岡ト載ス、此丘祇巍然平地ヲ抽キ万頃ノ田圃之ヲ囲行繞ス、高サ十丈、周囲三百間余、奇岩怪石磊々トシテ重畳シ万松基間々森立ス、恰モ深山幽谷二入ルガ如シ、延喜式二甲斐国山梨岡神社アリ、甲斐国志ニハ同郡鎮目村(今ハ岡部村)ノ山梨岡神社ヲ以テ其式内ノ社トナセ共、同社ハ山ノ裾二在テ岡ノ形ヲ為サズ、蓋シ延喜式二謄スルモノハ此石森丘ノ社ニハアラザルカ、姑ク記シテ後者ノ採択ヲ待ツ

 1 山梨岡神社由緒書上(「地誌稿」)
 山梨県甲斐国東山梨郡加納岩村ノ内石森村鎮座
郷社 山梨岡神社
祭神  事解男命 大国主命 伊弉冊尊 国常立尊 相殿 速玉男命 少彦名命
景行天皇四十一年日本武尊東夷征伐ノ時勧請シ給フ云々、風土記二載ル 山無岡又山梨岡、六帖二載ル巌ノ社、又離岡又石森岡ト云、則延喜式二載ル所也、古歌ニ
 かた山の稲野の原の離岡夏草しけし鹿や鳴らん  一条摂政
 甲斐ケ根に咲にけらしな足引の山梨岡の山梨の花  能因法師
 吹く風に靡はせらん思ふこと家にも石の森の下草
 足引の山梨岡に行水の絶すぞ君を恋渡るつき    読人不知
此岡ハ四方ノ山ヲ離去事教里ニシテ広野ノ中二塊然タリ、奇巌怪石ヲ 畳テ恰モ深山幽谷ノ如シ、岡高十丈余、是岡元名タリ、東南二重川有、西北二笛吹川流有り、要害ノ地ナルカ故ニ、日本武尊数日此岡二坐給フ時岡ノ西ノ方二覓狩シ給フ、其所ヲ狩野ト云フ、獣追所ヲ追野ト云フ、今大野ト云フ、岡ノ東二地名梨木田ト云、又東ノ方二休足ト云諸軍元休息ノ地也、百姓綿ヲ献スル所ヲ今綿塚ト云、諸軍弓ヲ射給フ所ヲ今的場トテ弓祭ヲ執行ス、神殿ノ東ノ方二日本武尊御腰掛石有、上ノ方二天神社、祭神武尊ヲ祭
 摂社 二社 末社 八社
祭日正月十七日 三月十二日 九月九日 大祭礼
文武天皇九年初入祈年祭幣帛例
  貞観元年甲斐守紀貞守象
  勅奉幣帛、其後度々奉幣有之侯
一 造営
   神護景雲二年坂上苅田丸神殿造営
   文治三年加賀見遠光造営
   文明六年地頭小松有久造営
   永禄六年飯冨昌景造営
   天和二年地頭石谷長門守造営
  旧社地七反五畝十一歩
   現今弐千弐百六拾五坪、外大門六拾九坪
   岡周経(径)弐百三拾二間

日本武尊御腰掛石 本社ノ東ニアリ、正面一丈一尺
富 窟 右石ノ東ニアリ、大一丈二尺、小八九尺石重リタル中二末社祠・神体石アリ
石上松 本社ノ西ニアリ、高一丈二尺 此外石上松生タル多シ
烏帽子石 同高一丈二尺 横二丈四尺
駆上石 社前ノ西ニアリ、高一丈二尺 参詣ノモノ上ラントスルナリ
桃 石 中壇ノ西ニアリ
母 石 桃石ノ東ニアリ、二丈四尺、一丈二尺
屏風石 凡テ六枚、竪一丈四尺、巾七尺、厚八九寸 諸石ノ中二立リ、正面西二向フ
太鼓石 右石ノ下ニアリ、一丈六尺
鼓 石 太鼓石ノ上ニアリ、右ニッノ石 小石ヲ以テ打ツトキハ、各其闇ヲ生ス
船 石 其数六ツ、大一丈五尺、小五六尺
馬蹄石 石上馬蹄ノ跡数多アリ上面三丈
不老石 右石ノ傍ニアリ高二丈五尺
富士見石 一丈五尺、石ノ根不知
子持石 高一丈六尺、横同
枕 石 長一尺
要 石 池ノ西ニアリ、高二尺、径二尺五寸 石ノ根地中二人テハカリガタシ 此所鹿島祠有
兜 石 同所ニアリ、高一丈三尺、一丈八尺
獅子石 山ノ西ノ側ニアリ、一丈一尺、獅子頭口形其状ヲナセリ
朝日崔 富窟ノ北ニアリ
夕日滝 北ョリ西へ山ノ腰ヲ廻り、池ノ西南二落ルナリ
夕日松 滝ノ傍ニアリ、常葉、色黄ナリ
見上松 桃石ノ傍ニアリ
蓬莱石 本社ノ西ニアリ
水晶渓 本社ノ西ニアリ、小石ノ英ヲ産ス  本草綱目云、白石英、六稜、白色ニシテ如水精トイフ是ナリ
青礞石 同所二産出スル薬石ナリ
此外 松下躑躅 樹陰納涼 田間明月 夕日紅葉 惣テ四季共見所多シ、一丈二尺ノ石(ママ、意味不明)不可数挙

亦明治十三年六月 御巡幸ノ節ニハ、山梨県庁ノ命令ヲ蒙り此岡ノ内景ト外景ト二ツナカラ写真二取、水晶・青礞石及社丘ノ由来書相添天覧二供シ奉り、依テ甲州街道栗原駅へ是ヲ距ル石森丘へ八丁ト建札アリ、尚本年二月第二内国博覧会へ右山景ノ内外写真及水晶・青礞石相添出品ナシタリ
右者今般史誌編輯取調二付、格前旧神官ヨリ奉書上置侯由緒写及現今之景況上申仕候間、何卒御採用相成度、此段上申仕侯、以上
  明治十四年第七月四日
           東山梨郡加納岩村戸長 清水市右衛門印
 山梨県史誌編輯掛御中
========引用終わり====
引用文中の、「青礞石」とは、HP 薬膳情報-net の中薬―礞石(もうせき)の項
http://www.yakuzenjoho.net/chuyaku/mouseki.html によると、
漢方の清化熱痰薬になるもので、青礞石と金礞石の2種類を礞石というとのことです。
 「青礞石と称されるものは、緑泥石に曹長石を混ぜた緑泥片岩、金礞石と称されるものは雲母と石英に深黄色泥を挟雑した雲母片岩である。」・・・とのことです。
 石森山から出たものは、水晶と一緒ということから、花崗岩の晶洞が風化したものだと思うので、この記述の通りの緑泥片岩がでたとするのは、地質の上からあり得ないと思います。それで、青礞石(緑泥片岩)ではない、別のものでは、と思うのですが、鉱物には暗いのでここまで。
(続く)



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