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No.55 香取神宮の要石・・・文書でたどる「伝説」・・・ 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年01月20日 (日) 21時45分 [返信]

1.はじめに・・・要石・現在の伝説
<香取神宮にも要石がある。見に行きました>
 2013年の年神様を香取市の香取神宮に買いに行きました。神宮の参道で売っている土鈴で、毎年購入して、車に飾っています。
 そこで、気づいたのだが、香取神宮にも要石があるのですね。要石と言えば、鯰絵で有名な鹿島神宮だとばかり思っていました。勧請したのでしょうか。
 本殿や参道から少し離れた、境内末社の押手神社脇にありますので、見に行きました。
 要石は、香取神宮の本殿等の建物からやや離れた、境内社の押手社の脇にあり、すぐ近くに護国神社もあります。
 立地場所の面から言いますと、要石・本殿・押手社・護国神社はいずれも標高35mほどの平坦面(下総上位面とよばれている海成段丘面)の上にあります。
 この平坦面に連なる平坦面上には、又見古墳などの古墳が築かれています。押手社や護国神社の背後に平坦面上に明らかに人工盛土した丘があります。・・・一見古墳墳丘みたいだが埋蔵文化財所在地図に記載がないのでより新しい築造かも。
 平坦面上にあることから、この地表は厚さ5mぐらいの風成火山灰層(関東ローム層)に覆われていると考えられ、実際地表は赤褐色のローム層が露出していました。

No.56 要石の立地 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年01月20日 (日) 23時16分

<要石の位置図>
 国土地理院発行数値地図より作成。等高線間隔10m。
 赤点が要石の位置。
 彩色、薄緑:30m以上:台地の平坦面を示す。
 黄色:10m以下:沖積低地を示す。

 要石の所在地は、標高35mの台地表面の平坦面にあたります。
 地質は上から関東ローム層、段丘面構成層(砂層の木下層、一部は常総粘土層)、その下位の海成砂層(木下層より下位の下総層群の地層、おそらく藪層など)になると思われ、要石のような大きな礫を含む地層はありません。

No.58 要石の産状 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年01月20日 (日) 23時26分

画像は、関東ローム層の赤土の中から頭を出している要石。
 玉垣に囲まれた中央にある円頭の石。周りの円磨された小礫は勿論後で撒いた砂利。
一見して、人工的に円磨されたものでなく自然の河床礫に見えます。河床礫といっても、礫径が大きく、この辺にはなくて上流の扇状地の河原にあるような礫です。この付近の台地地層中にもないでしょう。
 そして、この異地性の礫が、礫の長軸を鉛直にして、関東ローム層の赤土に埋まっているわけですから、当然、自然の状態ではあり得ない産状です。
 自然の産状ではないから、天為である、大神の所為であると解釈しているのでしょう。
以下に、神の所業であるという事をどのように文章化しているのか、神宮の境内看板と香取神宮HPの説明を書き出してみます。

No.59 香取神宮要石の説明文章 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年01月21日 (月) 20時01分

<要石玉垣前の木札>
要石
香取、鹿島の大神、往古この地方尚ただよえる国であり、地震が多く地中に住みつく大鯰魚(おおなまず)を抑える為地中深く石棒をさし込みその頭尾をさし通した。香取は凸形、鹿島は凹形である
 伊能穎則
「あづま路は香取鹿島の二柱うごきなき世をなほまもるらし」

<境内の案内板>
要石(かなめいし)
古伝によればその昔、香取・鹿島の二柱の大神は天照大神の大命を受け、芦原の中つ国を平定し、香取ヶ浦付近に至った。しかし、この地方はなおただよえる国であり、地震が頻発し、人々はいたく恐れていた。
 これは地中に大きな鯰魚(なまず)が住みつき、荒れさわいでいると言われていた。大神たちは地中に深く石棒をさし込み、鯰魚の頭尾を押さえ地震を鎮めたと伝わっている。
 当宮は凸形、鹿島神宮は凹形で地上に一部だけをあらわし、深さ幾十尺とされている。貞享元年(1664)三月、徳川光圀公が当宮に参拝の折、これを掘らせたが根元を見ることが出来なかったと伝わる。

<香取神宮のHP 要石の項>
  http://www.katori-jingu.or.jp/index.htm 2013年1月18日現在
 要 石(かなめいし)
古くより、この地方は大変地震が多く、人々はとても恐がっていました─これは、地中に大きなナマズが住み着いて荒れ騒いでいるのだと。香取・鹿島両神宮の大神様等は、地中に深く石棒を差し込み、大ナマズの頭尾を刺し通されたといいます。当神宮は凸形、鹿島は凹形で、地上に一部を現し、深さ幾十尺と伝えられています。貞享元年(一六八四)水戸光圀公が当神宮参拝の折、これを掘らせましたが根元を見ることが出来なかったといわれています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−
 香取神宮の要石は、鹿島神宮の要石とペアになっているというか、鹿島神宮の方が要石のメインだと思うので、ついでに鹿島神宮のHPで要石の項も以下に書き出し。

No.60 鹿島神宮の要石 解説文 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年01月21日 (月) 20時56分

<鹿島神宮のHP  要石の項>
 http://www.kashimajingu.jp/wp/  2013年1月18日現在
●要石が地震を起こす地底の大鯰(おおなまず)の頭を押さえているから、鹿島地方では、大きな地震がないと伝えられています。
●要石は見かけは小さいが、実は地中深くまで続いている巨岩です。地上の部分は氷山の一角です。
●水戸の徳川光圀公(みつくに)が、要石の根本を確かめようと、七日七晩この石の周りを掘りました。でも、掘れども掘れども、掘った穴が翌日の朝には元に戻ってしまい、確かめることできませんでした。さらに、ケガ人が続出したために掘ることをあきらめた、という話が【黄門仁徳録】に伝えられています。
●現在は、要石の下には鯰(ナマズ)がいると言われていますが、始めごろまでは龍(りゅう)がいると言われていました。
●万葉集(まんようしゅう)に、香島の大神おおかみ)がすわられたと言う、石の御座(みまし)とも古代における大神奉祭(おおかみほうさい)の岩座(いわくら)とも伝えられる霊石(れいせき)です。
●地震歌を一首
ゆるぐとも よもや抜けじの 要石 鹿島の神の あらんかぎりは
−−−−−−−−−−−−−−−−−
以上、書き出した要石の説明文から、香取神宮要石について概念化すると、以下のようになると思います。
 1.頭が一部出ている地下の巨岩 形は石棒、深さ幾十尺(?)
 2.鹿島神宮の大~が頭、香取神宮の大~が尾の2本の要石がある。
 3.徳川光圀が貞享元年掘ったが掘れなかった。・・・鹿島の方か香取の方か両方か?
 4.鹿島の要石は、本来別の霊石とも言われる。

このような概念・疑問のルーツを、文書のなかで探ってみることにしました。

No.61 <「黄門仁徳録」を読む> 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年01月28日 (月) 18時14分

 そこで、最初に、鹿島の要石のところで出てきた、「黄門仁徳録」ってなんだろう、水戸藩の記録文書で、権威あるものかしらと思いました。
 インターネットで探すと、『水戸黄門仁徳録』というのがあり、国会図書館の近代図書ライブラリーに明治16年の復刻本があって、要石の部分は77丁の69-71丁にあたります。
 http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/882052 
 この本の原本は、宝暦年間に出版され、作者不詳の小説「義公黄門仁徳録」で、長野電波技術研究所付属図書館のHP
 http://www.i-apple.jp/catseye/2011/07/post_161.html
に実物が見えます。
 というわけで、読んでみたのですが、まことに読んで面白い。是非お暇な方はご覧ください。
上のリンクで閲覧できます。
・・・毎度のことですが、図書館に行かなくても、INetで見れるとは、便利になったものですね。

 以下、要石関係の文章です。江戸時代の文章ですので、現代風文章に書き下しました。
原本は上記リンクからご覧ください。句読点や「」を補っています。( )はふりがな。[ ]は当方の注釈です。

◯西山公[徳川光圀]鹿島の要石を掘り給う事 ならびに 霊夢の事
・・・[略 筑波山参詣の文・奇石の紹介はない、]・・・・それより鹿島の郡(こおり)、鹿島ガ崎へお越しあり。鹿嶋明神へ参詣し給う。そもそも此の鹿島明神は神代の初め、此の国に垂迹(すいじゃく)ましますと申せども年暦更に知る者なし。そののち幾多の星霜押し移りて、建久年間[西暦1190〜1198]鎌倉将軍頼朝公、此の宮殿をご造営ありしと、今に言い伝う。すなわちご神体は武甕槌神(たけみかつちのかみ)なる由。
 ・・・・[略 常陸帯(ひたちおび)神事の文]・・・・・。
 昔より神領は二千石にて霊験著しき御神なり。また、社の右の方に高間(たかま)ガ原と唱えるあり、それより浜辺へいづる所に大石土中に埋(うず)みあり。
 是なむ鹿嶋の要石とてその本(もと)は根の国より生じ、世の人もって地震の圧(おさへ)なりと云ふ。
 しかるに西山公は此の所にて是を熟々(つくづく)御覧あそばし、御家臣に向かい仰せらるるは、「たとへ根の国へ続くと言い伝えたりとも、人夫を掛けて掘り返さんに、何程の事かあらん、いでいで此の石を掘り起こしてその根元(こんげん)を見極むべし」と仰せに、ハッと畏まり、それより役人へ仰せ付け、さっそく人夫百余人程呼び集め、早朝より取り掛かり是を掘らせ給いけるに、浜辺のこと故、潮(うしお)満ちて中々はかどりかねければ、それぞれ手段を巡らして〆切りの杭を丈夫に打ち、板をもって土の崩れを留め、櫓(やぐら)を組みてその外へ水車(みずぐるま)を多分に仕掛け、他に人夫数百人にて潮(うしお)を汲み出し精力を尽くしければ、日暮れ迄に深さ凡(おおよ)そ二町余掘り込みたり。
 ・・・・「町」は原文のままです。横穴ならともかく縦穴ですから、2町=約200mも掘れるわけないですので、2間:3.6mの「間」を間違えて印刷かと思ったのですが、以下の文章でもすべて「町」になっています。]。
 されども、此の石の根元少しも見えざれば、また力を尽くして次第次第に下へ掘り行く程に、地中四方に広がり中々一日二日掛かっても容易に掘り得がたき様子に、「まず今日は是にて差し置き、又々明日早朝より掘るべし」との御指図に、人夫のものをはじめとして皆々その夜は旅宿に帰りぬ。
 かくて明けの朝に至り、西山公はいつもより早く御目を覚めされ、御指図遊ばされければ、役人衆も早速に人夫を呼寄せ、かの石のもとへ至りて見分なすに、昨日二町余程も深く掘りたりしに、今朝は少しも掘りたる様もなく、平地と同じ様になり石はこれまでの如くわずかに地上へ出でて、その辺は箒(ははき)にて掃きたる如く奇麗に地面かたまりて、土塊一つなかりければ、諸役人も肝を潰し、「是は大方浜辺ゆえ土の食い込みたるなるべし、さりながら、かくまで奇麗に埋めたるは是只事にあらず」と云て、早速その旨を申し上げれば、西山公にも御出あり御覧あるに、皆々より申し上げたる通りなれば、暫くは近辺を御歩行にて、仰せ出さるるは、「是は予が我慢の心を取り挫(ひし)がんと天狗などがなせし所為(わざ)なるべし。よし今日よりは人夫を増し、昼夜を分かず堀りいださせん」と、すなわち、御領分の百姓町人の別(わか)ちなく十五歳より五十歳迄の者、今般の工事に従事せんと思ふ輩(ともがら)は参るべし、相応の賃金をつかはさんとの御触に、我も我もとはせ集まる人夫三万余人なり。
 さて是を六手に分かち給い、以前の如く掘り掛けさせしに、最初の一手は二の手と代わり、穴を出れば御酒下され、休息致せし、その上にて潮を汲み出す方へ廻し、先繰り先繰りに差し替えて人夫の労(つか)れざす様に御指図あり。
 早朝より昼夜休み無く日数五日の間掘りければ、深さ二十町程も掘り込みたり。されども今に至るまで石の根元顕(あらわ)れず。人夫の者は順番に代わりて掘るとはいいながら、昼夜少しも落ち付きて寝たる者さへなき程なれば、大いに疲労(つかれ)て、一同掘り厭倦(あぐみ)たる様子なれば、西山公には「まずまず今晩は休むべし、かほどに深く掘り込みたれば最早埋(うず)むる事叶ふまじ、皆々休めよ」と宣ひければ、いづれも労(つか)れ果てたる事故、此の御詞を聞くとそのまま鶴の嘴(つるのはし)又は鍬鋤など数百挺、穴の中あるいは浜辺に差し置きて、おのれおのれが宿所へ帰り、又、遠方の者共は旅宿へまいりて休みたり。
 西山公も昼夜をも御詰め切りにてありしかば、その夜は御心よく寝給いしが、夜も明けしかば、御近習の者を召されて、「彼処の模様如何なりしや見届け参れ」と仰せらるるに、いずれも畏まり立ち越し見るに、さしもに深く掘り込みし所は跡無く、又、石は以前の地面より少し頭(かしら)を出(いだ)すのみ、近傍の土は平均(たいら)になり、昨夜穴に捨て置きし鋤鍬などは穴の中へは置かずして一ツ所へ寄せ集め、地形(ちぎょう)の固きは掘ぬ前に少しも変わる事なく、その辺至って奇麗なれば大いに驚き、走(はせ)帰りて早速此の旨を申し上げるに、西山公もしからばとて御出ありて御覧あるに、何様昨日まで多人数掛かりて堀し所は跡なく、以前に変わらぬ有様にて地形は実に数年来踏み固めたる如くなれば、つらつら心に思(おぼ)す様、「誠に此の要石なり、最早掘るに及ばず」とそのまま御旅館へ御帰りありて、御家臣に向かい給い、「さてさて神力と云うものは世に恐ろしきものぞかし、予も十分に心をつくして数万人の人夫を昼夜掛け五日の間掘り込ませしに、ただ一夜のうちにあの如くことごとくよく土をかけ、しかも地形も元の如くあいなりしは、人の及ばぬ事、是は魔物の所業(わざ)ならず。全く鹿島の大御神の神業ならん」と仰せあれば、人々奇異の思いをなしぬ。
 かくて御酒宴に及ばせられ、その夜もここに御逗留あそばされしが・・・・・[後略。以下、西山公の夢に異形の者と鹿島神が現れ、云々と更に荒唐無稽化していくので略す]・・・・

No.62 <黄門仁徳録 読んだ感想> 投稿者:滝おやじ     投稿日:2013年01月28日 (月) 18時20分

 なんとなく、志村の殿様と家来のやりとりみたいな雰囲気ですが、まず突っ込みを入れると
 鹿島神宮のHPには、・・・・『水戸の徳川光圀公が、要石の根本を確かめようと、七日七晩この石の周りを掘りました。でも、掘れども掘れども、掘った穴が翌日の朝には元に戻ってしまい、確かめることできませんでした。さらに、ケガ人が続出したために掘ることをあきらめた、という話が【黄門仁徳録】に伝えられています。』・・・・とありますが、
仁徳録の文章では以下の異同があります。
1.掘ったのは、1日晝と5日晝夜なので、7日7晩ではない。
2.要石の根本を確かめる点については、1日目に2町(200m)ぐらい、更に、5日5晩掘って、20町(約2kmほど)は掘ったのですから、すごい深いことが分かったと言うべきでは。
3.光圀公の賢慮によって、分業して疲れないように掘っていったが、さすがに5日もやるとみんな疲れたとあるだけで、ケガ人続出などの不祥事はない。
4.光圀公は単に掘れなかったから諦めたのではなく、より深い考えに立って、当初は、穴がふさがったのは邪神の仕業と考えたが、5日5晩掘って、鹿島神の神業と分かったので、深慮して掘るのを止めたのであると解釈できます。敬神のこころざしですよね。
 まあ、こんなささいな揚げ足取りはおくとして、仁徳録は面白い読み物ですが、記録としては、荒唐無稽な小説でしょうね。
 これを根拠としてものを言うことはできない、さらに、これしか根拠がないのでは、「鹿島の要石を徳川光圀が掘ったが掘れなかった」ということは、伝承であって歴史的事実ではないと考えた方が良さそうな感じです。
 さらに、「香取の要石を、徳川光圀が貞享元年掘ったが掘れなかったと伝わる」という「伝承」の元にもなっているらしいので、そちらも、そうゆう伝承があったのかなあ?という疑問が湧いてきます。



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