No.227 巨石観察ノート 2014年版22 福島県石川町愛宕山・八幡山巨石群 投稿者:滝おやじ 投稿日:2014年11月02日 (日) 11時35分 [ 返信] |
・・・石都々古和気神社・塩竈神社・三芦城址所在・・・ 花崗岩の巨石地形事例を集めるため、阿武隈・北上山地の花崗岩露出地を廻っています。 福島県石川町の愛宕山・八幡山の巨石群を訪れました。 東北地方の巨石の事例は、インターネット上のyo-hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」 (http://hamadas.exblog.jp/ 20130522現在) から所在情報をもらいました。氏のブログでは、石都々古和気神社(いわつつこわけ神社)とその近くの塩竈神社の巨石群として紹介されています。 この2つの神社と巨石群は、愛宕山と八幡山という一続きの山体の東方と南西方にあり、成因的にいいますと、一連の山をなす愛宕山・八幡山の風化花崗岩のコアストーン群ですので、「愛宕山・八幡山の巨石群」と呼ぶことにします。 また、愛宕山〜八幡山の山体には、福島の名族石川氏の本城(三蘆城、三芦城・・・みよしじょう)が築かれ、愛宕山の山頂から山体の東半分が城塞化され、八幡山は城の本丸になっています。 時代順にいいますと、愛宕山・八幡山に、福島の名族石川氏の本城(三蘆城、三芦城・・・みよしじょう)が築かれ、廃城後、城の一部が石都々古和気神社となり、山裾の一角に塩竈神社が開かれたということになります。 なお、2.5万地形図には、343mの愛宕山のみが記され、その東方の八幡山(石都々古和気神社のある山)は注記されていません。 石都々古和気神社は、古代以来の神社らしく、名前から巨石に関係ありますので、信仰化された巨石があり、それが、中世の城となって、人工変化している例ではという興味で、探訪しました。 所在地の地質は、全山、中生代の阿武隈花崗岩の古期花崗閃緑岩です。全山風化してマサ砂の砂山となり、峰の高さがそろったなだらかな丸みを持った稜線の山となり、斜面はやや急、山麓は平らな沖積の谷底平野になっています。このなだらかな地形にアクセントをつけるように、所々の稜線や山裾に風化し残った花崗岩コアストーンが露出しています。 画像は、愛宕山山頂(三蘆城西館)の土塁と巨石。 山頂の石・・・2つある・・・を土塁に残し、掘り込んで郭の平地を造成したように見えます。 (続く)
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No.229 三蘆城縄張図・・・巨石付き 投稿者:滝おやじ 投稿日:2014年11月03日 (月) 14時52分 |
巨石調査の際、地元の郷土史資料を図書館で調べるのですが、この巨石群について素晴らしい資料がありました。 『石川町史別巻 ビジュアル石川町の歴史』2000年刊のP96〜97にある、「三蘆城縄張図」です。作図、佐伯正廣氏。 石川町発行2500地形図のうえに、城の曲輪、堀、土塁、切崖などをのせたもの。 この図で特筆すべきは、露出している巨石も記入されていることです。 2500地形図の大縮尺地形図で、城塞工事による人工の地形と、巨石の位置を全山に渡って面的に知ることができます。 図の範囲は、三蘆城の敷地が愛宕山〜八幡山の山体全部に広がっていた関係で、全山の人工造成地と巨岩露岩地の分布図ともなっています・・・まあ、図の性格上、城址地に限られていて、城址以外の山林地の岩塊は記入されて無い・・・確認しないと有無が分からないのですが。 なお、画像範囲に入っていませんが、塩竈神社の巨石群も、所在地が三蘆城の一部(出城?)だったので、図に含まれています。 そもそも、巨石の観光地で、その山全域の、全巨石の位置を等高線式地形図に正確に記入した図は、ほとんどありません。巨石の立地を知ることは、巨石の成因と変遷を知るための基本情報ですが、全山に渡って岩の所在をチェックするのは見通しが悪くてとても大変です。 この図を見ながら、巨石の位置を回ると、いろいろの発見があると思います。 画像は、その図の東半分、愛宕山頂から八幡山にかけてです。筆者が、巨石を赤で着色し、名称注記を加筆しました。 一見して、山頂や稜線付近に巨石が偏在しています。山頂や稜線部分に露出していたコアストーンとそれが破断・あるいは人工で転落したもののようです。 さらに、特殊事情として、城塞造成工事で地下から掘り出されて、人工崖斜面に露出した巨石がみられます。その例・・・ (1)、図の北西の大きな直線の人工崖に露出している岩塊群・・・・今回は、草が茂っていて道形が見えず、見に行けませんでした。 (2)、画像中央、本丸址の南西側の人工崖に露出している、勾玉岩・神籬岩、石門などは、本丸の虎口造成工事等で露出したものでしょう。 また、山の斜面ほとんどが、曲輪として階段状に平坦化されていますので、除去された岩塊も多数あったと思われ、現在曲輪平坦面上にある巨岩は、人工で落とされた岩塊が多いのではないかと思われます。 訪ねたときは、道沿いの曲輪は草刈りがされて見通しもよく、縄張図の地形が良く見渡せました。 とても保存のよい中世山城とのことですし、巨石と中世城城郭を併せて見られる、とても良い観光スポットだと思います。 (つづく)
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No.232 天狗石 投稿者:滝おやじ 投稿日:2014年11月06日 (木) 14時17分 |
整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群A群09 位置は、上の縄張図参照。 石都々古和気神社の参道谷側にある巨石。 この参道は、縄張図で見ると、腰曲輪というのでしょうか、幅の狭い水平な曲輪で天狗石はその曲輪直下の人工斜面に露出しています。 参道上から見ると、石の上部1.4mぐらいが出ているだけでそんなに大きな石に見えないですが、下から見上げると4m余りの立石です。 天狗石地点の参道山側は、岩続きで岩塊A10があり、天狗石から続く岩脈状の小尾根になっています。 地下では基盤に続く地下の岩塔か、非常に大きなコアストーンがあり、天狗石はその頂上部にあたり、勿論動いていない現地性岩塊です。 城塞化以前の地形を考えると、山頂からの緩斜面と山周りの急斜面の傾斜変換線(遷急線)の位置にあった露岩と考えられます。立地としては、よくあるタイプです。 城の工事との関係では、「おっつ、この岩好都合。頭の高さで水平に段にして、岩に沿って斜面削ると、いい腰曲輪できる」という感じでしょうか。 次に、地表に露出後、岩塊の形がどう変わってきたのかという観点から、岩の形を細かく見てみます・・・展開図と画像参照。橙色が当初のコアストーンの表面、赤色がその後割れた破断面です。 当初は円頭の形で、その頭部が平行な割れ目で3つに欠けています。また、左部分の表面に特徴的な平行溝群があります。一般の花崗岩はこのような片状構造は見られないのが普通なのですが、この山の花崗岩岩塊には、このような、節理の割れ目よりスケールの小さい平行した割れ目・風化凹溝が見られ、特徴的です。 この風化形は、この山を作る花崗岩の岩質に対応していると考えています。 地質文献をまとめると、愛宕山・八幡山の花崗岩は、中生代白亜紀貫入の古期花崗岩類で、岩質は花崗閃緑岩。貫入岩体としては、石川岩体といわれます。古期花崗岩類の岩相の特徴は、有色鉱物(黒雲母や角閃石など)が片状組織を作ることで、岩体としても貫入の際の同心円状の面構造がみられ、露頭レベルだと、高角度の傾斜の面構造があるといわれます。 天狗石に見られるような、片状の割れ目や風化溝は、この花崗閃緑岩の元々の片状構造が、風化によって、弱線が集まってコアストーン内部の割れ目や凹溝となったものと思われます。また、コアストーンの外形を作っている、冷却節理(一般に垂直方向に直交する向きで形成される)にも片状の影響が見られるようで、岩脈状の尾根形なのはその現れかもしれません。 (次は、天狗岩に続く無名岩)
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No.233 天狗石の続きの岩 投稿者:滝おやじ 投稿日:2014年11月07日 (金) 21時55分 |
整理番号は、愛宕山・八幡山巨石群A群10。 天狗岩A09と一体の岩で、参道を隔てた山側にあります。 画像の画面中央から斜め右下に岩脈状につながった先が天狗石になります。 地中にあった時点から動いていないと思われるので、現地性岩塊。 大して目立つ岩ではありませんが、放射状に割れ目が入っていて砕け方が凄い。節理に沿って割れたのでなく、勿論、表層風化の球面に平行な割れ目でもなく、重力破断した割れ目と思われます。 この岩塊の表面を見ると、地中で作られたコアストーンの表面と思われるなめらかな球面が残っている部分と、地表に露出後に破断した破断跡の部分に分けられ、図化してみると現況図のようになります。 この図から、地表に露出直後のコアストーンの姿を復元・想定すると、半球状のコアストーンの姿が浮かんでます。 花崗岩は、このような地中でのコアストーンの形が復元できる例が多く、地表に露出した後の壊れ方、あるいは、移動の様子が推定できるのが面白いところです。 巨岩地形を作る岩石には、花崗岩以外に斑糲岩や火山砕屑岩などがありますが、この手の岩石の作る巨岩地形は、初期状態の形とその後の破断形判読が、イマイチ明瞭でなく、地形としては、あんまり面白くないですね。 (続く、次は亀石と屏風岩)
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No.234 亀石と屏風岩:立地と成因 投稿者:滝おやじ 投稿日:2014年11月09日 (日) 20時37分 |
整理番号は、愛宕山・八幡山巨石群B群01〜03。 位置は、上記の縄張図参照。神社参道の坂道西側にあります。この参道は、縄張図によると、天狗石の腰曲輪からあがる本丸への道で、人工的に掘り込まれたものらしい。 以前この付近に鳥居が立っていたが、3.11の震災で倒壊撤去されたようです。 図は、傾斜方向の縦断図を示します。 岩塊B01(亀石)と岩塊B02は転石。屏風岩コアストーンの谷側半分が破断転落したものです。 なお、亀石は、破断転落して大きく2枚に板状にはがれ、向こう側の厚さ2mほどの板がずれて飛び出し、その三角の断面形が亀の頭部分に見えるということらしい。 亀石の手前側の表面は、転落前のコアストーン谷側表面と思われる球状面です。また、横方向の割れ目線が見られるが、花崗閃緑岩の片状組織に対応した片状割れ目で、当時は垂直方向であったものが、横倒しになったものと思われます。 屏風岩は、地中にあった状態から動いていない(現地性という、動いていれば異地性)のコアストーンの残存部分です。 地下に未風化岩盤が続いている根石ではなさそうですので、「浮石」ということになります。 愛宕山・八幡山は山体のマサ化が進んでいて、山頂、稜線部分にある岩塊は、地中では、みなマサの中にぽつんと一つコアストーンが残っている、「現地性浮石」状態になっていたものです。 これらは、周囲のマサがなくなり、地表に露出すると、容易に転落したり、破断します。 屏風岩コアストーンも同じで、もともとは、山頂緩斜面の肩に露出していて、下から見ると比高6mほどの立石であったものです。これが、後に、重力破断して半分が転落・堆積して亀石となったものです。 地形より見て、屏風岩・亀石の地形を利用して、参道が作られていますから、亀石の破断転落は、城塞化工事より古いといえます。 (続く:次は、屏風岩の破断形)
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No.235 屏風岩の破断表面と片状割れ目 投稿者:滝おやじ 投稿日:2014年11月12日 (水) 11時34分 |
屏風岩の垂直破断面を正面から見上げた画像と図です。 屏風岩の輪郭は、コアストーンの球状面の断面で、底部も丸く細くなっていて、浮き石であることが分かります。 正面からだと分かりませんが、破断面は平面でなく、緩やかに湾曲した曲面で、節理面で割れたのでないことが分かります。 破断面の表面には、細かい割れ目が入っています。割れ目は直線でなく曲線でカーブしているところもあり、節理割れ目ではありません。 また、表層風化割れ目のようにコアストーンの外形に平行な割れ目でもありません。 この割れ目は、天狗石の所で述べた、古期花崗閃緑岩の片状組織に対応した片状割れ目と思われ、他所の花崗岩類のコアストーンでは見かけませんが、この山の岩にはよく見られます。 (続く:次は、石門・神籬石)
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No.236 石門・神籬岩の立地 投稿者:滝おやじ 投稿日:2014年11月15日 (土) 23時23分 |
屏風岩の先の参道沿いにある巨石です。位置は、書き込み229の縄張図を参照して下さい。 神社参道の両側に巨石(D04とD03)があり、これが石門。石門を過ぎると、参道両側が高まりになり、溝の底を通るようになります。左手の斜面は、神社のある山頂平地の直下の崖で、中途に2つの岩(D02とD01:神籬岩)が露出しています。 神籬は「ひもろぎ」と読む。意味は辞典でどうぞ。 この地形を縄張図で見ると、この参道沿いの溝地形は、明らかに人工の地形です。 八幡山山頂から東へ続く幅広の山稜を南北に掘り割り、本丸とその東の曲輪を分離し、掘り割りの底を本丸への通路としたようです。 掲載した断面図は、石門を過ぎて溝の底から振り返った状態で、図の右側の高まりが本丸です。 城塞化により溝が掘られる前の、自然状態の斜面と巨石の様子を考えます。 D03・04の2つの巨岩は、斜面下部にあった転落(人工落下かも)岩塊と考えられます。 また、D02・D01は、以前は、斜面の傾斜変換線に、頂部のみが見える状態で埋没していた岩塊と思われます。それが、溝の掘り下げにより岩の下部まで露出するようになったのでしょう。 なお、D02は、D01の位置から、少しずり落ちています。D01は動いていないようです。 溝が掘られた後、三蘆城が現役だった時代は、石門も神籬岩も、本丸直下の通路沿いという位置からみて、城塞設備の一部として利用されていたはずです。 どんな様子だったのでしょうかね。 (続く:次は、石門)
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No.237 石門 その2 投稿者:滝おやじ 投稿日:2014年11月18日 (火) 16時07分 |
前項で述べたように、転落してきて斜面下部に止まっている2つの岩塊で、その間を少々掘り込んで、道を作ったものです。 絵に描いたような、すぐ見て分かる浮き石で、斜面の上に乗っています。 D03は、岩塊底部が平らで、斜めに斜面上にあります。さらに、斜面下側(参道側)では、岩塊の下に2〜3個の小さな岩塊があって、その上に乗っています。この辺が、転落岩塊である明白は証拠。 D04は、北面より見た下の画像でみると、右側から落下してきた勢いで、参道反対側の逆傾斜した斜面まで行って止まったと考えられます。南面から見ると、岩塊の下がマサであることがよく分かります。 D04には、節理に起因する平面割れ目が1本入っていますが、それを除くと、D03、D04とも側面は、マサ中にあった時のコアストーン球面のままで、なめらかな丸みを帯びた表面形です。 さらに、転落して地表に露出後、表層が殻状にはがれていく風化(よく、玉ねぎ状風化といわれている)の初期を受けていて、網目状の細かい割れ目がみられます。上方画像の、D~3やD04の表面にみられる割れ目群を参照。 (続く 次は船岩)
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No.239 船形岩 投稿者:滝おやじ 投稿日:2014年11月24日 (月) 13時46分 |
整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群D群07。山頂への参道(城の大手道跡)が、石門(D03、04)の先で、堀割の底道になっていて、山頂とは反対側の土塁状高まりの上に船形岩があります。位置は、巨石位置図・縄張図参照。 長径3.5m×短径2.0m×高さ0.7mの板状の大きな破断岩塊。マサ土の上に乗っていて、当然異地性の浮き石です。岩の形状は、コアストーンがパカッと破断した形でよくあるタイプです。 しかし、破断転落したものならば、当然斜面になければならないのですが、この岩塊は、両側が切れ落ちた稜線状のたかまりに乗っています。 一見、稜線の続きにある勾玉岩の頂上から、稜線伝いに滑り落ちて、うまい具合に止まったものかもと見えますが、そんなにうまく滑るはずもなく、勾玉岩の上も丸頭で、船形岩が乗っていた跡はありません。 どうも、本丸方向から転げてきた岩塊と考えられます。すなわち、縄張図を見ますと、参道堀割は、自然の谷ではなく、人工の掘り込みで、参道は本丸への大手道跡と思われます。また、船形岩の反対側斜面も、急傾斜で、下の腰曲輪の造成で掘り込まれた崖と思われます。 この掘り込みを元に戻して考えますと、城塞化工事以前は、船形岩の山頂側は、山頂の緩斜面(本丸)から続くやや急な斜面であったと思われ、船形岩はそこに山頂(本丸)側から転落してきた岩塊が中途で止まったものでしょう。 勾玉岩と船形岩をつないだ形で土塁状に残して、両側を掘り下げたものと思われます。溝は最大で比高10m余もあり、たいしたものだと思います。 船形岩の破断元の位置は、今は空中になったのか、どこかは分かりません。 (続く 次は勾玉岩)
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No.241 勾玉岩 投稿者:滝おやじ 投稿日:2014年11月25日 (火) 09時31分 |
整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群E群01〜03。 石都々古和気神社参道脇にあり、境内への最終階段の登り口に露出しています。 画像は勾玉岩を階段から見下ろしたもの。手前が参道で、スケッチ図もその向きから見た勾玉岩です。 なお、スケール代わりの人物像は、今回はバックが黄色いので黄色おじさんにしました。 身長170cmぐらい、愛称は「変質おやじ」です・・・イラストの分野「学校行事、防犯」にありました。感じが私に似てるのでお気に入りです・・・。 図の岩塊E01とE02を勾玉岩と言っているようです。 画像のE01は半割れで、右側に天龍桜からの根で開口割れになっている片割れのコアがあり、復元すると大きな球形のコアストーンになります。また、卵形のE02の裏に、同じ卵形のE03があり、3つの球形のコアストーンが並んでいます。 この3つのコアストーンが埋まっているマサの土手は、上に天龍桜が生えていて、画面右隅に見える船形岩(書き込み239)に続く土塁状の高まりです。 縄張図(書き込み229)をみますと、石門から上ってきた参道と境内への階段の部分は、三蘆城本丸大手の虎口に当たります。参道と会談は、自然の斜面を大きく掘り込んで、鍵の手に作った人工の溝の底ですので、勾玉岩の3つの岩塊は、その掘り込み工事で掘り出され、溝の表面に露出したコアストーン群ということになります。 勾玉岩〜船形岩の高まりの向こう側も人工による急崖です。ただし、船形岩の下と違い、勾玉岩の下の崖にはコアストーンが露出しているようです。しかし、勾玉岩の底は球形で、マサになり、岩が連続していません。 地下でのコアストーンのでき方について言いますと、一般に、花崗岩類は、岩体の冷却収縮による鉛直方向の2方向の節理割れ目と、シーティング節理と呼ばれる水平方向の節理割れ目によって、方形節理系と呼ばれる割れ目ができ、サイコロ状に区切られます。 マサの中のコアストーンは、そのサイコロの中心が球形に残ってできるのが一般的です。 勾玉岩の3つのコアストーン群も、地中塔の頂部が方状節理の鉛直節理面に沿って分離して、コアストーンとなったものと思われます。 コアストーンが地表に露出しますと、重力作用や風化作用によって破断変形するようになります。 勾玉岩では、その割れ目が各種見られます。 まず、スケッチ図で、コアストーン球面を割る割れ目が見られますが、これらの割れ目は、コアストーンごとに違う向きで連続せず、割れ目も曲面で平面でないことから、花崗岩節理面ではなく、地表露出後の重力破断・風化破断の割れ目と考えられます。 ここでは、3種類の破断形が見られます。 (1) スケッチでは、隠れて見えないのですが、E01を2つに割っている、木の根開口割れ目。 (2) E01のコアストーン形が、斜めですので、谷側(画像の向こう側)の土が動いて、斜め下方向に重力がかかり、3つに袈裟懸け破断しています。E02の右上の大きな割れ目も同じと思われます。 (3) E02の表面、右下に沿って、表層風化して、殻状に剥離破断しています。 一カ所で、まとめてみられる良い例と思われます。
(続く 次は剣岩)
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No.242 剣岩 投稿者:滝おやじ 投稿日:2014年11月27日 (木) 18時06分 |
整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群F群03。 石都々古和気神社脇に、祖霊社、多賀神社、諏訪神社の祠が並んでいます。剣岩はその背後のマサ土の土塁上にあります。高さ2.5m、幅6m、奥行き2.5mほどで、浮き石ですが、現地性のコアストーンです。 図の縄張図は、書き込み229の図の、本丸付近の拡大です。土塁は三蘆城本丸西端の土塁で、現地で見ると盛り土でなく、山頂部を切り込んで平坦にした際に切り残して土塁としたものです。スケッチ図に示したように、5つの岩塊が土塁上にありますが、いずれも土塁化される前からあった、山頂型のコアストーンと判断されます。 また、土塁の西側の急崖は、人工的に掘り込まれて、比高10〜12mの急崖とされています。 縄張図に赤で多数の露岩岩塊を示しました。城塞工事以前の自然の状態では、緩やかな緩傾斜の山頂地形で、その山頂緩斜面の肩の所に、コアストーンが露岩となっていたと思われます。 現在の、土塁より西側の岩塊は、土塁下の人工急崖直下か、その下の腰曲輪面状にあり、いずれも人工の地表上にありますので、自然の状態ではなく、山頂付近にあったコアストーンが城塞工事に伴って落とされたり、掘り出されたものであろうと思われます。 剣岩(F03)は、城の施設として、そのまま利用されたものと思われますが、全く動いていないわけではなく、土塁の斜面側に少し傾いていて、少し滑っており、基底部には滑動による割れ目が見られます。谷側部分の一部は、破断分離して、急斜面下に転落しているものと思われます。 一方、岩塊F04は、以前土塁上にあった岩塊が3〜4個の破片に割れて、逆に本丸側に転落しています。このことから、D04の破断は、土塁が切り込まれた時より後であることがわかります。 破断の様子は、天狗岩の続き岩塊(A10)の壊れ方と似た感じです。 (続く 次は鏡岩)
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No.243 鏡岩 投稿者:滝おやじ 投稿日:2014年11月30日 (日) 13時30分 |
整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群G群01(鏡岩)、02。 石都々古和気神社境内の北にある駐車場の両側にあります。 G01(鏡岩)は、径3.5m、厚さ0.7mほどの円盤状の破断破片で、上から落ちてきて斜面途中に引掛った形で止まっています。当然、現地性でなく、異地性。 縄張図で見ると、斜面の上は三蘆城本丸の西端土塁で、前回掲載した剣岩のある土塁の続きです。 駐車場は、本丸下の腰曲輪上にあたり、G01の落ちてきた斜面は人工化された斜面である可能性もあります。 実は、どこから落ちてきたのかを見に行ってないので、再訪の必要があります。 なお、G01は、脇から見るときれいに袈裟懸けに破断し、上半分がズレていて、今にも落ちそうです。 G02は高さ1.7mぐらいの半球型で、姿の良い石です。腰曲輪の平坦面上にポツンと飛び出しています。 根石か浮き石か決めかねていますが、根石にしてはできすぎていて、G01と同じように落ちてきて、破断面を下にして止まった半欠けのコアストーンかもと思います。また、このぐらいの大きさだし、姿も良いので、人工的に運んできて置いた可能性もありますね。 (続く 次は、西館二十番塔土台石 Ni08)
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No.244 西館、観音二十番塔土台石 Ni08岩塊 投稿者:滝おやじ 投稿日:2014年12月03日 (水) 23時05分 |
整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群Ni群08(西館、観音二十番塔土台石)。 位置は、前回書き込みの縄張図に記入しましたので参照して下さい。鏡岩のある北駐車場から西へ行く道路沿い、盛り土土堤先の斜面にあります。 縄張図を見ると、土堤は、本丸と西館の間を隔てる空堀を埋めたものです。画像は、その土堤上から空堀と西館を望んだもの。写真が下手なので、よく分かりませんが、この空堀、規模雄大で凄く立派です。 さて、この石は、無名なので、石の上に最近立てられた、観音二十番塔の名を取って、その土台石ということにします。形は、一言で言うと、直径3mの球体を1/4した形。 展開図を作りました。図の橙色は、コアストーンの球面、緑色は、コアストーンの節理面、赤色は、コアストーン露出後の破断面です。 成因は、自然のものだとすると、滑ってきた岩塊と言うことになります。しかし、片割れが見つからないのはまあよくあることとしても、斜面がとても緩く、滑ってきそうもありませんし、斜面上部に石の跡がありません。 むしろ、この石の位置が、廃城以前、空堀脇で、本城と西館とを連絡する施設(吊り橋とか、門とか)があった所ですので、成因は、人工の可能性が強いと思います。 すなわち、この石は人工的に引っ張ってこられて、何らかの施設の土台になっていたのではと想像されます。運びやすそうですし・・・。 (続く 次は、Ni-06,07岩塊 西館観音二十一番・二十二番塔土台石)
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No.245 西館付近、愛宕山北面の岩塊群(未見) 投稿者:滝おやじ 投稿日:2014年12月07日 (日) 23時47分 |
愛宕山(図中央の・344)付近の縄張図です。 図の東側、道路が土堤になっている所が、前項の書き込みで紹介した、空堀と二十番塔土台石で、空堀から西の曲輪群が三蘆城の「西館」と呼ばれる部分です。 縄張図には、道路の北側の城址部分に多数の巨岩があり、特に北東・南西方向の直線的な人工崖面に、神社境内にある岩塊よりも大きな岩塊群が存在することが示されています。 今回の探訪時に、草茫々で、道型も見えなかったので、道路沿いの小ぶりの岩塊を見ただけで、通過してしまいました。 まあ、最大の宝の山を前にして、夏の暑さに退散するぐらいの、ヘタレであったということですが・・・・・どなたか踏査紹介して頂ければと思います。 (続く 次は、Ni-06,07岩塊 西館観音二十一番・二十二番塔土台石)
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No.246 西館二十一番、二十二番塔土台石 Ni06,7岩塊 投稿者:滝おやじ 投稿日:2014年12月09日 (火) 22時34分 |
整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群Ni群06・07(西館、観音二十一、二十二番塔土台石)。 位置は、西館の縄張図の右半中央、道路際にある2つです。 この石も、無名なので、石の上に最近立てられた、観音二十一、二十二番塔の名を取って、その土台石ということにします。 Ni06は、道路沿いの土塁端にあり、この岩が土塁端になっています。築城前は、愛宕山の山頂稜線の肩にあたる場所にあった岩塊と思われます。 07は、明らかに、06の頂部が剥離し、転落したもので、転落は土塁斜面より後の時期になります。 (続く 次は、塩竈神社Si-01岩塊)
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No.247 長くなったので・・・・ 投稿者:滝おやじ 投稿日:2014年12月13日 (土) 23時47分 |
えらく長くなってしまったので、塩竈神社の巨石群からは、項を改めることにします。
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