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地形(主に、滝・巨石・山地地形)の掲示板

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No.262 房総半島屏風ヶ浦の景観図 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年02月21日 (土) 11時33分 [返信]

屏風ヶ浦の海食崖地形を景観を図に作っています。全部で21枚になるのですが、描くだけで大変。
図は、銚子市三崎町三丁目付近。中央に海食崖型の懸谷がある。この海岸は長らく人跡稀だったが、1980年頃懸谷6の下を、掘り込んで作業用道路を作り、消波堤が築かれて、一般の人でも海岸に出られるようになった。消波堤築造後崖下部に連続して発達し、崖上部の香取層の崩れ方も変わるなど、大きな環境変化が起こっている。


 

No.261 福島県本宮市長屋 鼓石短報記録 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年02月12日 (木) 19時00分 [返信]

を、拙HPにアップしました。↑Home参照。
御笑覧頂ければ幸いです。

No.260 2月7日講座終了 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年02月08日 (日) 23時06分 [返信]

書き込み255にて、御紹介しました、2月7日の朝日カルチャーの巨石講座は、無事終了いたしました。
場所が千葉という巨石には関係ない所でして、人数的には伸びませんでしたけど・・・(^o^)、
東京や神奈川からも来ていただけて喜んでおります。ご参加下さった方々に御礼申し上げます。
 近日中に、お話ししたことのレジメ的なものを、拙HP、↑の記号、に出そうと思っています。
 画像は、最後にお話しした、山梨県山梨市牧丘町
西所在、大石山の裏の「花後薬師の丘」巨岩断面図。 面白い形です

No.258 岩手県花巻市谷内 丹内山神社 胎内石短報 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年02月03日 (火) 01時19分 [返信]

を、拙HPにアップしました。↑Home参照。
御笑覧頂ければ幸いです。
以前、この掲示板に掲載した観察情報+看板等文面+記録画像。

No.257 巨石観察ノート 2014年版22 福島県石川町愛宕山・八幡山巨石群 その3 塩竈神社神体石 <岩塊06・07> 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年01月18日 (日) 16時32分 [返信]

その2の掲載から時間がたってしまったので、こちらに出します。これで、石川町愛宕山・八幡山巨石群の速報 (^^;) は終了です。
塩竈神社神体石 <岩塊06・07>
整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群Si群06、07。
 塩竈神社の社殿裏にあります。
 大きな立石が磐座として信仰対象だったのが、後に、神体石として、社殿が作られている例ですね。
 もともとは、尾根の肩部分にある露岩群、動いていない現地性岩塊です、多分根石では無いと思う。
 岩塊06・07は、尾根の稜線部分にあり、元は一体の大きな立石であったものが、稜線の両側方向に開くように中央で割れて2つになっています。さらに、傾斜方向の破断割れ目が頂部に入って、頂上が壊れています。
 岩塊06・07の下は狭い平坦の段で現在社殿と拝殿が建っています。段の周辺や周りには破断した岩塊片が多数見られ、岩塊06・07頂部から破断落下したものだけでは足りないので、平坦部分にも岩塊群があったと思われますが、自然に崩れていたものを、城塞用地として人工的に積平され、廃城後社殿用地として利用されたと思われます。
 岩塊07は、コアストーン球面をよく残していて、分離した頂部が壊れているだけですが、岩塊06は元の形が分からないほど縦に大きく破断しています。
 なお、岩塊07の正面から見ると、平行した縦の細い割れ目があり、石都々古和気神社境内の天狗石や屏風岩にも見られた、岩質起源の割れ目と思われます。
(以上、愛宕山・八幡山巨石群の速報はこれで終了します。後日、拙HP:↑Home参照 に掲載します。)

No.256 奈良県山添村 竜王岩記録(短報) 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年01月14日 (水) 12時11分 [返信]

を、拙HPにアップしました。↑Home参照。
御笑覧頂ければ幸いです。

No.255 巨石の地学講座と、地学スケッチ講座のお知らせ 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年01月09日 (金) 00時02分 [返信]

私事ですみません。私がやらせて頂く講座のお知らせです。ご興味ありましたら参加頂ければ幸いです。

1。朝日カルチャーセンター千葉にて、巨石の地学の講座。

題名:巨石の形、その見方と目のつけ所
日時:2015年2月7日(土) 13:00〜15:00
趣旨:山の形、滝の形、巨石の形・・・地球表面の形を解釈して、できかたを考えるという趣旨で続けています。今回は、花崗岩類巨石を例に巨石の形の地学的・科学的見方を紹介。この2年で、山梨の大石山・石割石から岩手の続石まで、東日本の有名な巨石は皆、調査しました。観光旅行、登山が楽しくなるツールとしてどうぞ。
費用:有料。場所:千葉市、朝日カルチャーセンター千葉 http://www.acc-c.com/public/ 
申込先:朝日カルチャーセンター千葉の、歴史・文学・教養の講座
https://sp.asahi-net.or.jp/scgi/shop_pub/shopgen.cgi?id=S05L357RZD;tpl=a.tpl;code=0153-0130 
 <しゃべる役の私から一言>
 初めての巨石の地学に関する講座かもしれませんね。
 巨石マニアの方には、磐座前史として、巨石を知るための必須前提知識として聴いて頂ければと思います。巨石マニア以外の方には里山の露岩地形特殊事例としてご参考になればと思います。
 花崗岩コアストーンとマサの形成、コアストーンの露出、露出後の破断・変形の一般論と、各巨岩の具体例を、紹介するつもりです。
 もう少し詳しい内容シナリオについては、この掲示板にて再度掲示します。

2。千葉県立中央博物館の講座、地学スケッチと簡易測量の講座
題名:山の地学スケッチと作図の技能講座1
開催日時: 2015年2月28日(土) 10:00〜15:00 、3/14、3/28との連続講座(連続受講者優先)
開催地・会場 千葉県立中央博物館研修室 http://www2.chiba-muse.or.jp/ 
対象・定員:高校生以上・20名  費用:無料
行事番号 114  分野 地学 シリーズ名 地学講座
趣旨:地形地質の景観スケッチと簡易図化についてコツを紹介します。
受付方法・締切日 2015/2/14・・・受付期間は開催日の1ヶ月前から2週間前までです。
申し込み先ページ:
http://www2.chiba-muse.or.jp/?page_id=477 
※申込みの際には,なるべくパソコンのメールアドレスをお使い下さい。
※スパムメール対策のためhotmail.com及びyahoo.comからのメールは受け取れません.
 お手数ですが他のメールアドレスをお使い下さい.
 fax、はがきでも申し込みも可能。
 <しゃべる役の私から一言>
 こちらは無料です。この講座以外も、千葉県立中央博物館の講座は、内容充実・原則無料で、おすすめです。(^_^)
 もう少し詳しい内容シナリオについては、この掲示板にて再度掲示します。

No.252 2015年よい年でありますように 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年12月31日 (水) 10時22分 [返信]

謹賀新年。
少し早いですが、これから調査に出るので・・・。
2015年もよろしくお願いいたします。

画像は、千葉県市原市石神の石神不動滝。2連4.8m。
養老側資料の川廻しの滝です。川廻しの滝は普通名前が無いのですが、房総に2つあるうちの一つ。

No.253 「年賀状の滝」に追加 投稿者:滝おやじ     投稿日:2015年01月02日 (金) 23時12分

拙Ho「滝を観る」の「年賀状の滝」に石神不動滝を追加しました。

No.254 謹賀新年 投稿者:滝おやじ    投稿日:2015年01月06日 (火) 22時03分

2015年、明けましておめでとうございます。
正月期間は出ていまして、戻ってきました。
新年なので、富士山です。

甲府盆地、山梨市牧丘大石山の裾から。
左の山は釈迦ヶ岳だと思います。一度登ってみたいのですが、生きているうちにできるかなあ・・・。

No.251 岩手県遠野市二郷山 地質地形展望(短報) 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年12月28日 (日) 14時46分 [返信]

二郷山は、岩手県遠野市にある山です。北上山地遠野盆地を作っている、遠野花崗岩体のホルンフェルスリングの山です。良いアングルがあったので、スケッチしました。短報記録を拙HPにアップしました。
ご笑覧下されば幸いです。


No.248 巨石観察ノート 2014年版22 福島県石川町愛宕山・八幡山巨石群 その2 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年12月13日 (土) 23時54分 [返信]

塩竈神社の巨石群 
整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群Si群
 愛宕山の南西端の縄張図です。
 出典は、書き込み229参照。
 三蘆城の出城?として人工造成されていた場所のようです。
 その一角に、巨石が集中して露出している所があり、現在、塩竈神社となっています。
 石川町史下巻(昭和43年刊)の塩竈神社の項によると・・・
『塩釜神社 (式外) 石川町字当町
1、祭神 塩土翁命(祭日七月十日)
2、由緒 当社ハ古城主福田安芸守源有光、陸前国宮城郡塩釜神社ヲ此地二勧請シ、本郡ノ名ヲ擬シ、地ヲ宮城ト称ス、于時康平五年ナリ。爾来城主代々ノ崇敬タリシト云フ。
3、社殿 神殿 たて四尺よこ四尺五寸 拝殿 たて壱間半よこ三間 鳥居壱基、石燈龍二基、石段拾九階巾三尺、社殿造営ハ信者持、祭日七月十日。什宝物太刀壱振、幕一張、旗三流、永続方法、信者年分出金拾五銭。信者八戸、(境内九十六坪)
 以上は明治十二年五月報告より抜萃した。
4、同社現状
 木造四脚鳥居一基、石燈燈籠一対、文政八乙酉年二月吉日 山形村、小豆畑惣重、同彦右衛門両名奉納なるも破損している。石段廿六階、燈籠の火袋のみのもの一基、文政八乙酉三月吉日遠藤寅松外三名の奉納である。一説に塩釜神社地は山形の飛領地であったので参拝者も多かったのではないかと見ている人もある。然し前出の由緒から見れば必ずしもそう断定することは早計であるが、山形に信者の多かった事は事実であったらしい。』・・・・とあります。
 また、現地に行ってみると、由緒にも書かれていませんが、社殿奥や境内には巨石が聳え、明らかに巨石をご神体とする神社です。しかし、塩竈神社というのは、巨石には関係ない信仰のように思われるので、廃城後、元々巨石信仰の地であった所に塩竈神社が祀られたのではないでしょうか。
 この巨石群は、尾根末端に立地するタイプで、道路に面した入り口に現地性の大きなコアストン頂部が露出し、境内地は社殿背後の神体石岩体からの転落岩塊が散乱し、社殿背後の尾根稜線肩に、立石が束になった形の、現地性コアストーン岩塊群がみられます。
 山梨県山梨市の立石神社の立石に立地がよく似ています。立石コアストーン群が束になって立つ形状は、福島県本宮市の岩角山山頂の立石群や、二本松市の山神立石などと良く似た形です。
(続く、次は神社入口の大石)

No.249 塩竈神社巨石群 その2 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年12月17日 (水) 00時23分

塩竈神社社地は尾根末端が切土され、神社拝殿が造られています。
拝殿の後ろの立石と、尾根の先端に当たる01は、現地性の岩塊。他の岩塊は転落岩塊です。
 各岩塊の位置と説明
01 鳥居脇の左にあり。尾根先端に当たる、大きな現地性根石。
02 階段の右にあり。平たい転落岩塊。
03 拝殿下にあり。尾根斜面の転落岩塊、半分に破断している。
04 道脇にあり。平たい破断片。転落岩塊。
05 拝殿の右斜面にある岩塊群。 06下付近からの転落岩塊。
06 神体石。拝殿右後ろに立つ現地性、円柱形丸頭の立石コアストーン。縦に開口割れ目が入って尾根の両側に開いている。
07 神体石。拝殿真後ろに立つ現地性、円柱形立石コアストーン。2つのコアストーンが縦に重なっている。
08 拝殿左後ろにやや離れて立つ現地性、円柱形丸頭の立石コアストーン。
 <立石07の背後の尾根稜線にある岩塊群>
09 稜線上にある小さな丸頭石。 現地性コアストーン。
10 稜線上にある小さな丸頭石。 現地性コアストーン。
11 稜線上にある小さな丸頭石。 現地性コアストーン。
(続く、次は神社入口の大石01)

No.250 塩竈神社の入り口大石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年12月25日 (木) 00時37分

整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群Si群01。
塩竈神社の入口鳥居脇の左にあります。前図の01。
大きな石で、迫力がある。前面・側面は露出していますが、後面は埋め立てられて、頂上部のみが地表に出ていて、埋め立て地は神社駐車場になっています。
 地表に露出している部分は、すべて地中委にあったときに作られたコアストーン球面がそのまま残っていて、破断はなく、側面に風化割れ目が少しあるだけです。
 コアストーンの形は、平面5m×5m×地上高さ3mの節理面に沿って割れた、サイコロ状の岩塊。頂部が略円頂の形で、根石だとすると、かっての地中コアストーン柱の最上部に当たります。
 元々の位置は、尾根先端と沖積面との境に当たり、巨石があるので、侵食が進まず尾根が保存されているとも言うことができます。尾根先端鎮め石型とでも名付けたい立地タイプです。類例としては、拙HPで紹介している、福島県本宮市和田 岩角山の蛇舐石などがあります。
 現地性根石のことが多いのだが、この石に限っては動いている可能性もあり、何ともいえないです。
(続く、次は神社の神体石 06〜08)

No.227 巨石観察ノート 2014年版22 福島県石川町愛宕山・八幡山巨石群 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月02日 (日) 11時35分 [返信]

・・・石都々古和気神社・塩竈神社・三芦城址所在・・・
花崗岩の巨石地形事例を集めるため、阿武隈・北上山地の花崗岩露出地を廻っています。
 福島県石川町の愛宕山・八幡山の巨石群を訪れました。
 東北地方の巨石の事例は、インターネット上のyo-hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」 (http://hamadas.exblog.jp/ 20130522現在) から所在情報をもらいました。氏のブログでは、石都々古和気神社(いわつつこわけ神社)とその近くの塩竈神社の巨石群として紹介されています。 この2つの神社と巨石群は、愛宕山と八幡山という一続きの山体の東方と南西方にあり、成因的にいいますと、一連の山をなす愛宕山・八幡山の風化花崗岩のコアストーン群ですので、「愛宕山・八幡山の巨石群」と呼ぶことにします。
 また、愛宕山〜八幡山の山体には、福島の名族石川氏の本城(三蘆城、三芦城・・・みよしじょう)が築かれ、愛宕山の山頂から山体の東半分が城塞化され、八幡山は城の本丸になっています。
 時代順にいいますと、愛宕山・八幡山に、福島の名族石川氏の本城(三蘆城、三芦城・・・みよしじょう)が築かれ、廃城後、城の一部が石都々古和気神社となり、山裾の一角に塩竈神社が開かれたということになります。
 なお、2.5万地形図には、343mの愛宕山のみが記され、その東方の八幡山(石都々古和気神社のある山)は注記されていません。
 石都々古和気神社は、古代以来の神社らしく、名前から巨石に関係ありますので、信仰化された巨石があり、それが、中世の城となって、人工変化している例ではという興味で、探訪しました。
 所在地の地質は、全山、中生代の阿武隈花崗岩の古期花崗閃緑岩です。全山風化してマサ砂の砂山となり、峰の高さがそろったなだらかな丸みを持った稜線の山となり、斜面はやや急、山麓は平らな沖積の谷底平野になっています。このなだらかな地形にアクセントをつけるように、所々の稜線や山裾に風化し残った花崗岩コアストーンが露出しています。
 画像は、愛宕山山頂(三蘆城西館)の土塁と巨石。
 山頂の石・・・2つある・・・を土塁に残し、掘り込んで郭の平地を造成したように見えます。
(続く)

No.229 三蘆城縄張図・・・巨石付き 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月03日 (月) 14時52分

 巨石調査の際、地元の郷土史資料を図書館で調べるのですが、この巨石群について素晴らしい資料がありました。
 『石川町史別巻 ビジュアル石川町の歴史』2000年刊のP96〜97にある、「三蘆城縄張図」です。作図、佐伯正廣氏。
 石川町発行2500地形図のうえに、城の曲輪、堀、土塁、切崖などをのせたもの。
 この図で特筆すべきは、露出している巨石も記入されていることです。
 2500地形図の大縮尺地形図で、城塞工事による人工の地形と、巨石の位置を全山に渡って面的に知ることができます。
 図の範囲は、三蘆城の敷地が愛宕山〜八幡山の山体全部に広がっていた関係で、全山の人工造成地と巨岩露岩地の分布図ともなっています・・・まあ、図の性格上、城址地に限られていて、城址以外の山林地の岩塊は記入されて無い・・・確認しないと有無が分からないのですが。
 なお、画像範囲に入っていませんが、塩竈神社の巨石群も、所在地が三蘆城の一部(出城?)だったので、図に含まれています。
 そもそも、巨石の観光地で、その山全域の、全巨石の位置を等高線式地形図に正確に記入した図は、ほとんどありません。巨石の立地を知ることは、巨石の成因と変遷を知るための基本情報ですが、全山に渡って岩の所在をチェックするのは見通しが悪くてとても大変です。
 この図を見ながら、巨石の位置を回ると、いろいろの発見があると思います。
 画像は、その図の東半分、愛宕山頂から八幡山にかけてです。筆者が、巨石を赤で着色し、名称注記を加筆しました。
 一見して、山頂や稜線付近に巨石が偏在しています。山頂や稜線部分に露出していたコアストーンとそれが破断・あるいは人工で転落したもののようです。
 さらに、特殊事情として、城塞造成工事で地下から掘り出されて、人工崖斜面に露出した巨石がみられます。その例・・・
(1)、図の北西の大きな直線の人工崖に露出している岩塊群・・・・今回は、草が茂っていて道形が見えず、見に行けませんでした。
(2)、画像中央、本丸址の南西側の人工崖に露出している、勾玉岩・神籬岩、石門などは、本丸の虎口造成工事等で露出したものでしょう。
 また、山の斜面ほとんどが、曲輪として階段状に平坦化されていますので、除去された岩塊も多数あったと思われ、現在曲輪平坦面上にある巨岩は、人工で落とされた岩塊が多いのではないかと思われます。
 訪ねたときは、道沿いの曲輪は草刈りがされて見通しもよく、縄張図の地形が良く見渡せました。
とても保存のよい中世山城とのことですし、巨石と中世城城郭を併せて見られる、とても良い観光スポットだと思います。
(つづく)

No.232 天狗石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月06日 (木) 14時17分

整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群A群09
位置は、上の縄張図参照。
石都々古和気神社の参道谷側にある巨石。
 この参道は、縄張図で見ると、腰曲輪というのでしょうか、幅の狭い水平な曲輪で天狗石はその曲輪直下の人工斜面に露出しています。
 参道上から見ると、石の上部1.4mぐらいが出ているだけでそんなに大きな石に見えないですが、下から見上げると4m余りの立石です。
 天狗石地点の参道山側は、岩続きで岩塊A10があり、天狗石から続く岩脈状の小尾根になっています。
 地下では基盤に続く地下の岩塔か、非常に大きなコアストーンがあり、天狗石はその頂上部にあたり、勿論動いていない現地性岩塊です。
 城塞化以前の地形を考えると、山頂からの緩斜面と山周りの急斜面の傾斜変換線(遷急線)の位置にあった露岩と考えられます。立地としては、よくあるタイプです。
 城の工事との関係では、「おっつ、この岩好都合。頭の高さで水平に段にして、岩に沿って斜面削ると、いい腰曲輪できる」という感じでしょうか。
 次に、地表に露出後、岩塊の形がどう変わってきたのかという観点から、岩の形を細かく見てみます・・・展開図と画像参照。橙色が当初のコアストーンの表面、赤色がその後割れた破断面です。
 当初は円頭の形で、その頭部が平行な割れ目で3つに欠けています。また、左部分の表面に特徴的な平行溝群があります。一般の花崗岩はこのような片状構造は見られないのが普通なのですが、この山の花崗岩岩塊には、このような、節理の割れ目よりスケールの小さい平行した割れ目・風化凹溝が見られ、特徴的です。
 この風化形は、この山を作る花崗岩の岩質に対応していると考えています。
 地質文献をまとめると、愛宕山・八幡山の花崗岩は、中生代白亜紀貫入の古期花崗岩類で、岩質は花崗閃緑岩。貫入岩体としては、石川岩体といわれます。古期花崗岩類の岩相の特徴は、有色鉱物(黒雲母や角閃石など)が片状組織を作ることで、岩体としても貫入の際の同心円状の面構造がみられ、露頭レベルだと、高角度の傾斜の面構造があるといわれます。
 天狗石に見られるような、片状の割れ目や風化溝は、この花崗閃緑岩の元々の片状構造が、風化によって、弱線が集まってコアストーン内部の割れ目や凹溝となったものと思われます。また、コアストーンの外形を作っている、冷却節理(一般に垂直方向に直交する向きで形成される)にも片状の影響が見られるようで、岩脈状の尾根形なのはその現れかもしれません。
 (次は、天狗岩に続く無名岩)

No.233 天狗石の続きの岩 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月07日 (金) 21時55分

整理番号は、愛宕山・八幡山巨石群A群10。
 天狗岩A09と一体の岩で、参道を隔てた山側にあります。
 画像の画面中央から斜め右下に岩脈状につながった先が天狗石になります。
 地中にあった時点から動いていないと思われるので、現地性岩塊。
 大して目立つ岩ではありませんが、放射状に割れ目が入っていて砕け方が凄い。節理に沿って割れたのでなく、勿論、表層風化の球面に平行な割れ目でもなく、重力破断した割れ目と思われます。
 この岩塊の表面を見ると、地中で作られたコアストーンの表面と思われるなめらかな球面が残っている部分と、地表に露出後に破断した破断跡の部分に分けられ、図化してみると現況図のようになります。
 この図から、地表に露出直後のコアストーンの姿を復元・想定すると、半球状のコアストーンの姿が浮かんでます。
 花崗岩は、このような地中でのコアストーンの形が復元できる例が多く、地表に露出した後の壊れ方、あるいは、移動の様子が推定できるのが面白いところです。
 巨岩地形を作る岩石には、花崗岩以外に斑糲岩や火山砕屑岩などがありますが、この手の岩石の作る巨岩地形は、初期状態の形とその後の破断形判読が、イマイチ明瞭でなく、地形としては、あんまり面白くないですね。
(続く、次は亀石と屏風岩)

No.234 亀石と屏風岩:立地と成因 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月09日 (日) 20時37分

整理番号は、愛宕山・八幡山巨石群B群01〜03。
位置は、上記の縄張図参照。神社参道の坂道西側にあります。この参道は、縄張図によると、天狗石の腰曲輪からあがる本丸への道で、人工的に掘り込まれたものらしい。
 以前この付近に鳥居が立っていたが、3.11の震災で倒壊撤去されたようです。
 図は、傾斜方向の縦断図を示します。
岩塊B01(亀石)と岩塊B02は転石。屏風岩コアストーンの谷側半分が破断転落したものです。
 なお、亀石は、破断転落して大きく2枚に板状にはがれ、向こう側の厚さ2mほどの板がずれて飛び出し、その三角の断面形が亀の頭部分に見えるということらしい。
 亀石の手前側の表面は、転落前のコアストーン谷側表面と思われる球状面です。また、横方向の割れ目線が見られるが、花崗閃緑岩の片状組織に対応した片状割れ目で、当時は垂直方向であったものが、横倒しになったものと思われます。
 屏風岩は、地中にあった状態から動いていない(現地性という、動いていれば異地性)のコアストーンの残存部分です。
 地下に未風化岩盤が続いている根石ではなさそうですので、「浮石」ということになります。
 愛宕山・八幡山は山体のマサ化が進んでいて、山頂、稜線部分にある岩塊は、地中では、みなマサの中にぽつんと一つコアストーンが残っている、「現地性浮石」状態になっていたものです。 これらは、周囲のマサがなくなり、地表に露出すると、容易に転落したり、破断します。
 屏風岩コアストーンも同じで、もともとは、山頂緩斜面の肩に露出していて、下から見ると比高6mほどの立石であったものです。これが、後に、重力破断して半分が転落・堆積して亀石となったものです。
 地形より見て、屏風岩・亀石の地形を利用して、参道が作られていますから、亀石の破断転落は、城塞化工事より古いといえます。
 (続く:次は、屏風岩の破断形)

No.235 屏風岩の破断表面と片状割れ目 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月12日 (水) 11時34分

屏風岩の垂直破断面を正面から見上げた画像と図です。
 屏風岩の輪郭は、コアストーンの球状面の断面で、底部も丸く細くなっていて、浮き石であることが分かります。
 正面からだと分かりませんが、破断面は平面でなく、緩やかに湾曲した曲面で、節理面で割れたのでないことが分かります。
 破断面の表面には、細かい割れ目が入っています。割れ目は直線でなく曲線でカーブしているところもあり、節理割れ目ではありません。
また、表層風化割れ目のようにコアストーンの外形に平行な割れ目でもありません。
 この割れ目は、天狗石の所で述べた、古期花崗閃緑岩の片状組織に対応した片状割れ目と思われ、他所の花崗岩類のコアストーンでは見かけませんが、この山の岩にはよく見られます。 (続く:次は、石門・神籬石)

No.236 石門・神籬岩の立地 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月15日 (土) 23時23分

屏風岩の先の参道沿いにある巨石です。位置は、書き込み229の縄張図を参照して下さい。
 神社参道の両側に巨石(D04とD03)があり、これが石門。石門を過ぎると、参道両側が高まりになり、溝の底を通るようになります。左手の斜面は、神社のある山頂平地の直下の崖で、中途に2つの岩(D02とD01:神籬岩)が露出しています。 神籬は「ひもろぎ」と読む。意味は辞典でどうぞ。
 この地形を縄張図で見ると、この参道沿いの溝地形は、明らかに人工の地形です。
 八幡山山頂から東へ続く幅広の山稜を南北に掘り割り、本丸とその東の曲輪を分離し、掘り割りの底を本丸への通路としたようです。
 掲載した断面図は、石門を過ぎて溝の底から振り返った状態で、図の右側の高まりが本丸です。
 城塞化により溝が掘られる前の、自然状態の斜面と巨石の様子を考えます。
 D03・04の2つの巨岩は、斜面下部にあった転落(人工落下かも)岩塊と考えられます。
 また、D02・D01は、以前は、斜面の傾斜変換線に、頂部のみが見える状態で埋没していた岩塊と思われます。それが、溝の掘り下げにより岩の下部まで露出するようになったのでしょう。
 なお、D02は、D01の位置から、少しずり落ちています。D01は動いていないようです。
 溝が掘られた後、三蘆城が現役だった時代は、石門も神籬岩も、本丸直下の通路沿いという位置からみて、城塞設備の一部として利用されていたはずです。
どんな様子だったのでしょうかね。
(続く:次は、石門)

No.237 石門 その2 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月18日 (火) 16時07分

前項で述べたように、転落してきて斜面下部に止まっている2つの岩塊で、その間を少々掘り込んで、道を作ったものです。
絵に描いたような、すぐ見て分かる浮き石で、斜面の上に乗っています。
 D03は、岩塊底部が平らで、斜めに斜面上にあります。さらに、斜面下側(参道側)では、岩塊の下に2〜3個の小さな岩塊があって、その上に乗っています。この辺が、転落岩塊である明白は証拠。
 D04は、北面より見た下の画像でみると、右側から落下してきた勢いで、参道反対側の逆傾斜した斜面まで行って止まったと考えられます。南面から見ると、岩塊の下がマサであることがよく分かります。
 D04には、節理に起因する平面割れ目が1本入っていますが、それを除くと、D03、D04とも側面は、マサ中にあった時のコアストーン球面のままで、なめらかな丸みを帯びた表面形です。
 さらに、転落して地表に露出後、表層が殻状にはがれていく風化(よく、玉ねぎ状風化といわれている)の初期を受けていて、網目状の細かい割れ目がみられます。上方画像の、D~3やD04の表面にみられる割れ目群を参照。
 (続く 次は船岩)

No.239 船形岩 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月24日 (月) 13時46分

整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群D群07。山頂への参道(城の大手道跡)が、石門(D03、04)の先で、堀割の底道になっていて、山頂とは反対側の土塁状高まりの上に船形岩があります。位置は、巨石位置図・縄張図参照。
 長径3.5m×短径2.0m×高さ0.7mの板状の大きな破断岩塊。マサ土の上に乗っていて、当然異地性の浮き石です。岩の形状は、コアストーンがパカッと破断した形でよくあるタイプです。
 しかし、破断転落したものならば、当然斜面になければならないのですが、この岩塊は、両側が切れ落ちた稜線状のたかまりに乗っています。
 一見、稜線の続きにある勾玉岩の頂上から、稜線伝いに滑り落ちて、うまい具合に止まったものかもと見えますが、そんなにうまく滑るはずもなく、勾玉岩の上も丸頭で、船形岩が乗っていた跡はありません。
 どうも、本丸方向から転げてきた岩塊と考えられます。すなわち、縄張図を見ますと、参道堀割は、自然の谷ではなく、人工の掘り込みで、参道は本丸への大手道跡と思われます。また、船形岩の反対側斜面も、急傾斜で、下の腰曲輪の造成で掘り込まれた崖と思われます。
 この掘り込みを元に戻して考えますと、城塞化工事以前は、船形岩の山頂側は、山頂の緩斜面(本丸)から続くやや急な斜面であったと思われ、船形岩はそこに山頂(本丸)側から転落してきた岩塊が中途で止まったものでしょう。
 勾玉岩と船形岩をつないだ形で土塁状に残して、両側を掘り下げたものと思われます。溝は最大で比高10m余もあり、たいしたものだと思います。
 船形岩の破断元の位置は、今は空中になったのか、どこかは分かりません。
 (続く 次は勾玉岩)

No.241 勾玉岩 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月25日 (火) 09時31分

整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群E群01〜03。
 石都々古和気神社参道脇にあり、境内への最終階段の登り口に露出しています。
 画像は勾玉岩を階段から見下ろしたもの。手前が参道で、スケッチ図もその向きから見た勾玉岩です。
 なお、スケール代わりの人物像は、今回はバックが黄色いので黄色おじさんにしました。
 身長170cmぐらい、愛称は「変質おやじ」です・・・イラストの分野「学校行事、防犯」にありました。感じが私に似てるのでお気に入りです・・・。
 図の岩塊E01とE02を勾玉岩と言っているようです。
 画像のE01は半割れで、右側に天龍桜からの根で開口割れになっている片割れのコアがあり、復元すると大きな球形のコアストーンになります。また、卵形のE02の裏に、同じ卵形のE03があり、3つの球形のコアストーンが並んでいます。
 この3つのコアストーンが埋まっているマサの土手は、上に天龍桜が生えていて、画面右隅に見える船形岩(書き込み239)に続く土塁状の高まりです。
 縄張図(書き込み229)をみますと、石門から上ってきた参道と境内への階段の部分は、三蘆城本丸大手の虎口に当たります。参道と会談は、自然の斜面を大きく掘り込んで、鍵の手に作った人工の溝の底ですので、勾玉岩の3つの岩塊は、その掘り込み工事で掘り出され、溝の表面に露出したコアストーン群ということになります。
 勾玉岩〜船形岩の高まりの向こう側も人工による急崖です。ただし、船形岩の下と違い、勾玉岩の下の崖にはコアストーンが露出しているようです。しかし、勾玉岩の底は球形で、マサになり、岩が連続していません。
 地下でのコアストーンのでき方について言いますと、一般に、花崗岩類は、岩体の冷却収縮による鉛直方向の2方向の節理割れ目と、シーティング節理と呼ばれる水平方向の節理割れ目によって、方形節理系と呼ばれる割れ目ができ、サイコロ状に区切られます。 マサの中のコアストーンは、そのサイコロの中心が球形に残ってできるのが一般的です。
 勾玉岩の3つのコアストーン群も、地中塔の頂部が方状節理の鉛直節理面に沿って分離して、コアストーンとなったものと思われます。
 コアストーンが地表に露出しますと、重力作用や風化作用によって破断変形するようになります。
 勾玉岩では、その割れ目が各種見られます。
 まず、スケッチ図で、コアストーン球面を割る割れ目が見られますが、これらの割れ目は、コアストーンごとに違う向きで連続せず、割れ目も曲面で平面でないことから、花崗岩節理面ではなく、地表露出後の重力破断・風化破断の割れ目と考えられます。
 ここでは、3種類の破断形が見られます。
 (1) スケッチでは、隠れて見えないのですが、E01を2つに割っている、木の根開口割れ目。
 (2) E01のコアストーン形が、斜めですので、谷側(画像の向こう側)の土が動いて、斜め下方向に重力がかかり、3つに袈裟懸け破断しています。E02の右上の大きな割れ目も同じと思われます。
 (3) E02の表面、右下に沿って、表層風化して、殻状に剥離破断しています。
一カ所で、まとめてみられる良い例と思われます。

 (続く 次は剣岩)

No.242 剣岩 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月27日 (木) 18時06分

整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群F群03。
 石都々古和気神社脇に、祖霊社、多賀神社、諏訪神社の祠が並んでいます。剣岩はその背後のマサ土の土塁上にあります。高さ2.5m、幅6m、奥行き2.5mほどで、浮き石ですが、現地性のコアストーンです。
 図の縄張図は、書き込み229の図の、本丸付近の拡大です。土塁は三蘆城本丸西端の土塁で、現地で見ると盛り土でなく、山頂部を切り込んで平坦にした際に切り残して土塁としたものです。スケッチ図に示したように、5つの岩塊が土塁上にありますが、いずれも土塁化される前からあった、山頂型のコアストーンと判断されます。
 また、土塁の西側の急崖は、人工的に掘り込まれて、比高10〜12mの急崖とされています。
 縄張図に赤で多数の露岩岩塊を示しました。城塞工事以前の自然の状態では、緩やかな緩傾斜の山頂地形で、その山頂緩斜面の肩の所に、コアストーンが露岩となっていたと思われます。
 現在の、土塁より西側の岩塊は、土塁下の人工急崖直下か、その下の腰曲輪面状にあり、いずれも人工の地表上にありますので、自然の状態ではなく、山頂付近にあったコアストーンが城塞工事に伴って落とされたり、掘り出されたものであろうと思われます。
 剣岩(F03)は、城の施設として、そのまま利用されたものと思われますが、全く動いていないわけではなく、土塁の斜面側に少し傾いていて、少し滑っており、基底部には滑動による割れ目が見られます。谷側部分の一部は、破断分離して、急斜面下に転落しているものと思われます。
 一方、岩塊F04は、以前土塁上にあった岩塊が3〜4個の破片に割れて、逆に本丸側に転落しています。このことから、D04の破断は、土塁が切り込まれた時より後であることがわかります。
破断の様子は、天狗岩の続き岩塊(A10)の壊れ方と似た感じです。
 (続く 次は鏡岩)

No.243 鏡岩 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年11月30日 (日) 13時30分

整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群G群01(鏡岩)、02。
 石都々古和気神社境内の北にある駐車場の両側にあります。
 G01(鏡岩)は、径3.5m、厚さ0.7mほどの円盤状の破断破片で、上から落ちてきて斜面途中に引掛った形で止まっています。当然、現地性でなく、異地性。
 縄張図で見ると、斜面の上は三蘆城本丸の西端土塁で、前回掲載した剣岩のある土塁の続きです。
 駐車場は、本丸下の腰曲輪上にあたり、G01の落ちてきた斜面は人工化された斜面である可能性もあります。
 実は、どこから落ちてきたのかを見に行ってないので、再訪の必要があります。
 なお、G01は、脇から見るときれいに袈裟懸けに破断し、上半分がズレていて、今にも落ちそうです。
 G02は高さ1.7mぐらいの半球型で、姿の良い石です。腰曲輪の平坦面上にポツンと飛び出しています。
 根石か浮き石か決めかねていますが、根石にしてはできすぎていて、G01と同じように落ちてきて、破断面を下にして止まった半欠けのコアストーンかもと思います。また、このぐらいの大きさだし、姿も良いので、人工的に運んできて置いた可能性もありますね。
 (続く 次は、西館二十番塔土台石 Ni08)

No.244 西館、観音二十番塔土台石 Ni08岩塊 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年12月03日 (水) 23時05分

整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群Ni群08(西館、観音二十番塔土台石)。
 位置は、前回書き込みの縄張図に記入しましたので参照して下さい。鏡岩のある北駐車場から西へ行く道路沿い、盛り土土堤先の斜面にあります。
 縄張図を見ると、土堤は、本丸と西館の間を隔てる空堀を埋めたものです。画像は、その土堤上から空堀と西館を望んだもの。写真が下手なので、よく分かりませんが、この空堀、規模雄大で凄く立派です。
 さて、この石は、無名なので、石の上に最近立てられた、観音二十番塔の名を取って、その土台石ということにします。形は、一言で言うと、直径3mの球体を1/4した形。
展開図を作りました。図の橙色は、コアストーンの球面、緑色は、コアストーンの節理面、赤色は、コアストーン露出後の破断面です。
 成因は、自然のものだとすると、滑ってきた岩塊と言うことになります。しかし、片割れが見つからないのはまあよくあることとしても、斜面がとても緩く、滑ってきそうもありませんし、斜面上部に石の跡がありません。
 むしろ、この石の位置が、廃城以前、空堀脇で、本城と西館とを連絡する施設(吊り橋とか、門とか)があった所ですので、成因は、人工の可能性が強いと思います。
 すなわち、この石は人工的に引っ張ってこられて、何らかの施設の土台になっていたのではと想像されます。運びやすそうですし・・・。
(続く 次は、Ni-06,07岩塊 西館観音二十一番・二十二番塔土台石)

No.245 西館付近、愛宕山北面の岩塊群(未見) 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年12月07日 (日) 23時47分

愛宕山(図中央の・344)付近の縄張図です。
 図の東側、道路が土堤になっている所が、前項の書き込みで紹介した、空堀と二十番塔土台石で、空堀から西の曲輪群が三蘆城の「西館」と呼ばれる部分です。
 縄張図には、道路の北側の城址部分に多数の巨岩があり、特に北東・南西方向の直線的な人工崖面に、神社境内にある岩塊よりも大きな岩塊群が存在することが示されています。
 今回の探訪時に、草茫々で、道型も見えなかったので、道路沿いの小ぶりの岩塊を見ただけで、通過してしまいました。
 まあ、最大の宝の山を前にして、夏の暑さに退散するぐらいの、ヘタレであったということですが・・・・・どなたか踏査紹介して頂ければと思います。
(続く 次は、Ni-06,07岩塊 西館観音二十一番・二十二番塔土台石)

No.246 西館二十一番、二十二番塔土台石 Ni06,7岩塊 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年12月09日 (火) 22時34分

整理番号・・・愛宕山・八幡山巨石群Ni群06・07(西館、観音二十一、二十二番塔土台石)。
 位置は、西館の縄張図の右半中央、道路際にある2つです。 この石も、無名なので、石の上に最近立てられた、観音二十一、二十二番塔の名を取って、その土台石ということにします。
 Ni06は、道路沿いの土塁端にあり、この岩が土塁端になっています。築城前は、愛宕山の山頂稜線の肩にあたる場所にあった岩塊と思われます。
 07は、明らかに、06の頂部が剥離し、転落したもので、転落は土塁斜面より後の時期になります。
(続く 次は、塩竈神社Si-01岩塊)

No.247 長くなったので・・・・ 投稿者:滝おやじ    投稿日:2014年12月13日 (土) 23時47分

えらく長くなってしまったので、塩竈神社の巨石群からは、項を改めることにします。

No.223 巨石観察ノート 2014年版21 奈良県山添村菅生地区 あたごさん巨石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年10月13日 (月) 20時35分 [返信]

画像:あたごさん全景 ゴジラの背中のトゲみたいな、花崗岩離れした特異な形の巨石
花崗岩の巨石地形事例を集めるため、各地を回っています。
最近、奈良県の花崗岩分布地を廻ってきました。その際に、「山添村イワクラMap」というパンフの写真に惹かれて、山添村菅生の「あたごさん」を見に行きました。
 <到達ルート> 国道25号を山添村菅生まで行けば、道ばたにあります。
世界座標 緯度  N34°40′19.00″ 経度 E136°02′29.59″
5万地形図「上野」、2.5万地形図「月ヶ瀬」図幅内。 国道25号沿いにあり、道路反対側に広い駐車スペースもあります。
 <発端>
「山添村イワクラMap」に、「菅生あたごさん」として紹介されていた岩塊です。
 丘の上に露出した岩が60°位傾いて立っていて、自重で開口して3つに割れています。花崗岩の露岩地形ではあまり見かけない形なので興味を持って訪れてみました。
 現地は、大和高原地域に当たり、マサ化した低い山地を解析する谷の谷底にありました。地質は、5万地質図「上野」によると、白亜紀後期の花崗岩貫入岩体の一つで、城立(じょうりゅう・・・地名)トーナル岩(花崗岩の一種)という岩石です。
 周りの山々の岩石はほとんど風化してマサになっていて、要するに砂山みたいなものですが、そのうちに未風化の部分があり、未風化の地中塔頂部が沖積平野上に露出し、離れ島地形の小丘になっているものです。
 この巨岩の形について結論を言うと、
(1) 地中にある時から、トーナル岩の片麻構造に沿って急角度に傾いた割れ目が岩盤中にあり、傾いた節理系であった。
(2) それが、地表に露出し丘の稜線の露岩となって、周囲の岩塊が落下し、傾いた立石が形成された。
(3) その後、更に立石内に、自重による割れ目が入り、片麻構造の方向に沿って3つに裂けた。
 ・・・といえます。(続く)

No.224 城立トーナル岩の岩相と弱線 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年10月16日 (木) 10時12分

 画像:小丘基部のトーナル岩表面を撮影したもの。画像幅150mmぐらい。

 丘の上のゴジラのトゲのような石は、根石か浮き石かといいますと、小丘の先端と側面にも岩盤が見えますし、浮き石だったら倒れてしまうほど傾いていますので、傾いて立っている露岩は根石なのは確実です。
 この岩石は、5万地質図を見ると、白亜紀後期の花崗岩類で、城立トーナル岩となっていて、花崗岩の一種ですが、普通の花崗岩と見かけが少々違います。

 トーナル岩とは・・・花崗岩類の一種。珪長質鉱物(白色の鉱物、石英・正長石・斜長石など)のうち石英と斜長石が多く、正長石がほとんどないタイプの花崗岩。石英と斜長石、および有色鉱物からなる深成岩。石英閃緑岩よりも石英が多いものを指す・・・とのこと。
 さらに、城立トーナル岩とは、5万地質図「上野」の記載によると・・・・珪長質鉱物と苦鉄質鉱物がそれぞれ卓越した縞状構造(片麻状構造)が著しい。この構造は,(図幅)南端西半部で走向が東―西性で北へ30°〜50°程度傾斜する。・・・・・とのこと。
 画像で見ると、白い鉱物(白が斜長石、灰色が石英かな)と黒い鉱物(黒雲母)が、縞状(片麻構造)になっています。縞の傾斜面は、向きは東西、50°ほどの傾斜で北落ちになっています。
 片麻構造とは、鉱物の配列の縞状構造をいうのだと思いますが、露頭で見ると片麻構造と平行する微細な割れ目がたくさん入っているのが分かります。そして、それが連続して大きな割れ目にもなっています。
 地下での節理系や、地表に露出後の重力破断割れ目は、この片麻構造に沿った岩石の弱線に沿っているようです。 つまり、片麻構造と同一の方向の割れ目が発達する傾向があるようです。
 この、片麻構造に起因する風化割れ目が発達し、同じ方向に割れ目が反復する形が、この岩石の風化形の特徴のようです。

No.225 あたごさん丘の傾いて立っている露岩は、 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年10月20日 (月) 00時49分

未風化な岩石が、地中塔の形で小丘になって露出し、その頂部が丘の上に根石になって露出したものです。
 あたごさんの丘で、割れ目を側方から見る方向で、側図してみました。
 小丘の基部に見える岩盤の割れ目方向と、小丘上の傾いた立石露岩の割れ目方向が同じことが分かります。
 露出部分では、岩石内部の片麻構造に沿って、更に割れ目が入り、岩石が破断しているといえます。
 なお、岩の形は、東西方向北落ちの割れ目のほかに、それに直交する、南北方向・垂直な割れ目により、岩が柱状になっています。南北方向の割れ目は、直線的で節理系と思われます。

 再度まとめますと、
 あたごさんの丘で、岩の形が、通常の花崗岩類の形と違った形である理由は、城立トーナル岩の岩相と普通の花崗岩類の岩相との違いによると思われます。
 すなわち、一般の花崗岩は、組織が均質なため、地中でも垂直な節理が発達し、直方体の未風化ブロックができた後、それが周囲から風化して球状のコアストーンを作ります。その後、地表に露出すると、組織が均質なため、もともとの節理面かコアストーンの傾斜方向に割れていきます。
 一方、城立トーナル岩の岩質は、組織が不均質・片状の片麻構造を持つため、地中でも片麻構造に沿って傾いた節理が発達し、傾いた形の未風化ブロックができると思われます。その後、地表に露出すると、組織が不均質・片状の片麻構造を持つため、岩石の片麻構造に沿って重力破断割れ目が発達しやすいためと思われます。

No.226 詳細情報を拙HPの出向記録にアップ 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年10月22日 (水) 23時50分

あたごさんの巨石について、拙HPの巨石奇石巡り記録の項にアップしました。
上述掲示板の情報より詳しい情報ですが、結論は変わりませんので、ご興味のある方がのぞいてくだされば幸甚でございます。

No.222 巨石が動いた証拠 投稿者:滝おやじ    投稿日:2014年09月04日 (木) 22時56分 [返信]

2014年9月撮影、撮影して間もないです。福島県本宮市和田 岩角山にて。
岩角山は、阿武隈花崗岩が風化したマサからなる阿武隈山地の丘陵性山地の中で、ちょっと高い未風化な花崗岩による残丘。山頂や尾根稜線沿いにコアストーンとその破断した岩塊群が多数露出し、有名な巨岩群の山です。
 超が付く、これは凄い!という大岩塊はないけど、中〜小型のコアストーンが多く、花崗岩巨岩地形の諸類型が一カ所で見られる所です。
 いままで、各コアストーンが、どんな所にあり、どんな形をしているか、延べ3日ぐらい調べていますが、あと2日はかかりそうです。
 画像は、巨岩が滑り動いたせいで、ガムを伸ばしたみたいに変形させられた木の幹。
 画像の2つの巨岩は、元は1つで、平たい大きなコアストーンだったのが、画面中央で2つに裂け、下半分(画面の左側)が滑って、そばの木の幹に当たり、元の位置から1m近く脇に押しやっています。
 押された木も変形して、画像のように幹が奇妙な形に変形しています。

No.218 巨石観察ノート 2014年版20 岩手県花巻市石鳥谷町呼石地区 夜鳴石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年08月24日 (日) 16時31分 [返信]

花崗岩の巨石地形事例を集めるため、岩手県北上山地の遠野花崗岩露出地を廻っていて、花巻市石鳥谷町五大堂、呼石地区の夜鳴石を訪れたので、備忘録代わりに簡略まとめ。
 東北地方の巨石事例は、インターネット上のyo-hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」 (http://hamadas.exblog.jp/ 20130522現在) から所在情報を得ています。 この夜鳴石もその一つです。
 また、その後、岡田謙二氏のHP「巨石巡礼」 http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/ でも「呼石大明神」として取り上げられ、この石にまつわる伝承が紹介されています」。
 それらで見ると、丘陵性山地の山頂直下にある、とても大きな花崗岩平石らしく、根石ではないのかということと、風化破断形が、復元できそうで、特に平頭の形がどうできるのか興味があって、訪れてみました。 画像は、夜鳴石正面、谷側から見た景観。
 正面・長辺12m×断面・短辺5m×高さ2.7mぐらいな平頭な石であった。・・・それなりに迫力あり。
 手前の岩塊は、正面が円弧状破断による分離岩塊。節理面起源の平頭だが、水平でなく、山側に面が傾き、未分離の岩片が2つ上に載っているのが見える。 (続く)

No.219 夜鳴石の伝承 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年08月26日 (火) 22時57分

夜鳴石は、花巻市石鳥谷町五大堂、呼石地区の呼石大明神という神社社殿裏にあります。
緯度経度(世界座標)は、北緯39度26分19.15秒、東経141度12分13.29秒。
2.5万地形図図幅は、「石鳥谷」。
 北上山地の白亜紀遠野花崗岩体がマサ化した丘陵性山地の145.9mの平頂峰の北斜面132m付近にあります・・・・花巻市2500分の1地形図による。
 この地域は、花崗岩の山地はマサ化して侵食されやすく、標高250〜150の低い山地で、谷頭まで水田化された短い谷がたくさん入っています。一方、北東には、斑糲岩・蛇紋岩が分布し、風化しにくく、緻密なため、花崗岩山地よりひときわ高く聳える残丘山地(権現堂山・標高476m)になり、山の斜面形は岩質を反映して山襞のない平滑な形が特徴です。
 上記の周辺の地形や、夜鳴石の神性、呼石という地名の起源、などにまつわる伝承が、図書館にあった、菊池邦雄著「いしどりや歴史散歩」:1996、自家出版 という本に記録されていました。
 以下、その本のp109〜110、夜鳴石の項、引用です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(引用開始)〜〜〜〜
 夜鳴石(よなきいし)
 八重畑(注 1955年石鳥谷町に合併した八重畑村地区)の呼石に呼石大明神という神社がありますが、境内に夜鳴石といわれている石があります。 夜鳴石は、部落のほぼ中央の丘の北側中段にあります。長さ約十三メートル、幅約七メートル、高さが約三メートルで、石の上からは東側や西側、北側を見渡すには好都合な場所になっています。あ
 いい伝えによれば、今から六百五十年程前に、無底禅師(水沢市黒石町の正法寺開祖)(注 水沢市は現奥州市水沢区)が布教のため奥州へ下り、黒石の地が大変気にいって庵を建てて住んでいました。庵の近くには沼があり、沼には鎮守の神霊が住んでいました。沼の主を鎮守姫(お池峰ともいう)と.いいました。
 禅師は、黒石の地を仏法の霊場とするために仏戒の諸法を講じて祈ったところ、突然沼の土手が破れ、水が北上川に流れ出しました。そのために鎮守姫は住む場所がなくなり、滝田の権現堂山(注 呼石の北東にある山 標高476.3m)にきて一晩に千の沢を作って居住の場所にしようとしました。使いの天狗たちを働かせて九百九十九沢まで作ってあと一沢という時に、夜明けを告げる鶏の鳴き声が聞こえ、鎮守姫は驚いて早池峰山の方へ去って行ってしまいました。 鎮守姫が沢作りを始めた際に、大石が呼び声を上げ、その声につれて山の麓の石まで皆頭を権現堂山の方に向けたということから、この大石を夜鳴石と称し、これより呼石の地名が起こったといわれています。
 夜鳴石と呼石大明神とのつながりは明らかでありませんが、昭和六、七年ごろまでは、石の上に堂が建てられていました。神社の祭神は現在は弁財天といわれていますが、弁財天が祀られる前には、・夜鳴石を信仰の対象として崇めてきたのではないかとみられています。
 夜鳴石の周辺には、蛇石とよばれている石や、元文五年(一七四〇年) に立てられた庚申塔があります。蛇石は唐檀石(からといし)ともよばれ、横割目の入った石で、石には沢山の蛇が棲んでいて、その蛇を殺傷した者には崇りがくるといういい伝えがあります。また、庚申塔は御庚猿と刻まれ、町内にある庚申塔では最も古い稗です。夜鳴石から神社のあるあたりは、古くからこの地域での信仰の中心の地になっていたのではないかとみられています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(引用終わり)〜〜〜
 現地では、石の上からは、石の周りの木々が茂っていて、展望はありませんが、展望ソフトで確認すると、木がなければ、視界一杯に権現堂山が望める立地です。ただ、早池峰山は、権現堂山の影でまったく見える可能性がありません。
 聖山を領する神・水源の神・女神という概念や、山を望む(拝する)・巨石・神を呼ぶ。あるいは、神が呼ぶなどの場所の機能伝承など、民俗には門外漢ですが、内容の濃い伝承だなあと思います。
 なお、蛇石という石は、どれだか分かりませんでした。残念。それから、境内には4基の石塔があったけど、金毘羅塔、天照皇大神他2神、三十三番観世音塔が2基という顔ぶれで、元文5年の庚申塔って、どこにあるんでしょうかね。見当たりませんでした。

No.220 夜鳴石の移動と停止 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年08月29日 (金) 01時06分

画像は、山頂から夜鳴石を通る斜面の縦断面図です。花巻市発行の1/2500地形図を利用して図の水平距離を取り、標高は概測で作りました。キチンと測量したわけでありませんので、寸法は大体です。
 念のため、1/2500地形図は、空中写真測量で作った2m等高線の正確な地形図ですが、一般に林冠の下の地表表現が不正確で地図の等高線を信用できません。夜鳴石周辺の2500図の等高線も現実の地形と違っていて、地滑り地形が表現されていませんでしたので、平面図は出しません。
 さて、夜鳴石の底面を見ますと、岩塊底部はマサの上に乗っていて、明らかに根石でなく、動いていることが分かりました。上に登って、周りの微地形を見ますと、夜鳴石は、小さな浅い地滑り地形の中にあり、その地滑りの最上部の小さな地すべりブロック(地滑り堆)の前面に当たり、長辺を地滑り地形の等高線と平行にして止まっている状態であることが分かりました。長辺の向きからみますと、同じ移動してきた岩塊でも、転落した岩塊は等高線に直交する傾向があり、地滑りや土石流で動いてきて止まった岩塊は等高線に平行になるようです。
 図で示した縦断図から判断しますと、そのような地盤の所で、山頂近くの斜面から、小規模で浅い地滑りが起こり、夜鳴石が12〜3m移動したあと、傾斜が緩くなり、長辺を等高線に平行になる方向に露出して止まったことになります。
 その時期は、伝承の語るように、夜鳴石が古くからの信仰対象になっていることからも、ずっと古く、また、江戸時代以来動いていないと思われます。
 地滑り発生以前の地形は、平頂峰の端に、未風化のコアストーン巨岩が1つある、稜線先端部に立地する型だったと言えます。
 また、夜鳴石の頂上に登ってみますと、石の頂面が山側に傾いて、緩やかですが逆傾斜になっています。斜面に平行に滑ったのでなく、少しですが逆回転しながら滑ってきたことを示していると思います。地滑り移動の岩塊と、転落や土石流移動岩塊との違いかもしれません。
 以上、夜鳴石の立地形状は、地滑りによる移動岩塊という点で、以前紹介した花巻市の胎内石(この掲示板書込142〜145参照)や、福島県寒川町の破石、宮城県丸森町経石(拙HP http://chibataki.moo.jp/ の巨石奇石見物記参照)と同じと言えます。
 特に、花巻市丹内の胎内石と、頂面が逆傾斜する所など、動き方、停止の仕方が酷似していると思います。

No.221 露出後の岩塊風化・破断形 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年08月31日 (日) 12時13分

画像は、夜鳴石の西側面。すべりの方向でいうと側面、岩塊の形でいうと短辺です。
画面右手から滑ってきて、止まっています。右手の押してきた土塊を止めているといってもよいです。
 岩の表面には平行した割れ目がたくさん入っています。露出後の表層が剥離する風化に伴ってできる割れ目と思われます。 風化割れ目の模様は、花崗岩巨石の表面によく見られますが、前に紹介した山梨県甲州市の鎧石(拙HP の巨石奇石見物記参照)のような網目模様と、夜鳴石のような平行模様があるようです。こちらの模様については、いろいろ考慮中。
 先述したように、夜鳴石頂部は、節理面の沿って破断した平面形で、頂部の平面は逆傾斜していて、山側に傾き、割れた岩片群が平面の下部に溜まっています。
 画像の右上端に落下して寄りかかっている岩片は、夜鳴石の頂部から山側方向に落ちてきた岩片です。また、画面の中央上部の凸部は、石の谷側(前面)で、割れ残った部分があり、頂部から突出しているところ。
 地滑りで滑ってきて、逆傾斜して止まり、頂面が節理面で破断して後ろや側面に落ちているという状況は、何度も言いますが岩手県花巻市の胎内石(この掲示板書込142〜145参照)と同じです。
 なお、書込218の正面画像で手前の分離岩塊は、夜鳴石前面(節理面起源の元々のコアストーン面)の一部が、重力破断して、円弧状の割れ目ができ、分離落下したもの。この掲示板書込193の、山梨県山梨市大石山の甲石から浮舟石が分離した例と同じタイプと思います。(以上)

No.214 巨石観察ノート 2014年版19 福島県三春町蛇石 厳島神社の蛇石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年08月10日 (日) 15時20分 [返信]

花崗岩の巨石地形事例を集めるため、阿武隈・北上山地の花崗岩露出地を廻っています。
 今回紹介するのは、福島県田村郡三春町蛇石地区の蛇石。
 三春ダム人工湖さくら湖の新越田和橋近くに、王子神社と厳島神社がある・・・位置図参照。蛇石は、厳島神社境内、社殿の裏にあります。
 先日、立ち寄ったのですが、蛇石に関する名文を読ませてもらったので紹介します。
 東北地方の巨石の事例は、インターネット上のyo-hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」 (http://hamadas.exblog.jp/ 20130522現在) から所在情報をもらっています。この蛇石もその一つです。
 ブログを見ますと、石のある様子や大きさから見て、以前見た、山梨県甲州市塩山の踊石のように動かされた石では・・・と思って、寄ってみました。
 踊石については、拙HP http://chibataki.moo.jp/kyosekiyamanashi/kousyuodoriisi/odoriisi.html参照。
 結果をいいますと、この石は元々あった所在地がダム湖の湖底に沈むことになり、村の名前のもとになった由緒あるものだからとのことで、地元の方々の交渉によって、姿・形そのままに、現在地に移動されたのだそうです。
 昭和63年(1988年)に建立された記念碑があり、その碑文が何度も言うけど名文。

No.215 蛇石、前方?から見た画像。 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年08月10日 (日) 15時22分

厳島神社社殿裏に、庚申塔などと一緒に玉垣に囲まれて置かれている蛇石。
 石だけでなく、王子神社も厳島神社社殿も、移転してきたものです。
 高さ1.4m×長径3.8m×短径2.5mほど、阿武隈花崗岩のコアストーンです。1個だけの岩塊ですので、単体のコアストーンが地表に露出していたのでしょう。
 卵形の形状で、高さ半分の所に全周に渡るほぼ水平な割れ目が入り、割れ目に沿う欠けが口に見え、成る程、大蛇の頭のようです。
 コアストーンの球面は頂上部分にだけ残っていて、側面は風化剥離面や節理面に沿って剥げ落ちていますが、コアストーン当初の丸みがある形は十分残っています。
 欠けなどもなく、丁寧に運ばれてきたのでしょう。

No.216 記念碑画像 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年08月10日 (日) 15時24分

王子神社前に立つ記念碑。ダム建設による移転経緯が記されています。

以下、銘文・・・・読みやすいように改行しました。碑を移しましたので、文字の翻字ミスがあるかもしれませんが、ご容赦下さい。
========
記念碑
 数々の伝承と、豊かな伝説を持つ蛇石。祖先が永きに亘り、苦難に耐え、山野を拓き耕し、墳墓の地としたこの地区で、昭和四十三年ダム建設の基礎調査が始められた。為に、生業に係る計画立案もままならず、我々は動揺し困惑した。
 同四十五年、建設計画が発表され、我々は生活再建、移転問題等々幾多の難題を抱えながらも、事態の推移黙し難く、補償基準の妥結を決断した。時に同五十九年十二月である。
 鎮守王子神社は、社殿を解体せず、所謂「曳き舞」工法により現在地に遷す。
 厳島神社(又の名を、弁天様、蛇神様とも)の御神体は、「蛇石」と呼ばれる大石で、地名発祥の謂あるものなれば、姿、形を変えることなくその處を移した。
 昔より伝えられた祭典行事の一つ、三匹獅子舞は、氏子大半の移転のため、廃止の止むなきに至った。
 この碑の前に佇む時、湖底に、豊かな耕地あり、それを潤した祖先の大いなる遺産であった潅漑用水路あり、その中を県道栃本線、大越線が走り、傍に鎮守の森を見 農協支所、郵便局、公民館、商店が軒を連ね、戦後誰言うとなく「蛇石銀座」と呼ばれ親しまれた聚落があったことに、思いを馳せられたい。
 我等がこよなく愛した故里、蛇石の歴史を、永遠に留めるべく、我々はこの碑を建立する。

  昭和六十三年十二月吉日
             撰文 村上民之助
                宗像慶夫
                橋本元春
         元中郷小校長 橋本義男
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平易な文章ですが、惜別を惜しむ心情溢れる名文ですね。(以上)

No.217 蛇石の記録を、HPにアップしました 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年08月13日 (水) 22時12分

蛇石の調査記録を、拙HPにアップしました。
掲示板に書いたことに加えて、石の展開図と解釈、画像を補いました。

No.212 屏風ヶ浦の海食崖型の滝 海側からの画像 投稿者:滝おやじ    投稿日:2014年07月25日 (金) 21時20分 [返信]

先日紹介した屏風ヶ浦の海食崖に懸かる滝の画像を、いただきましたので紹介します。
 屏風ヶ浦の地形や地質を調査されている、伊藤修二様から頂きました。今年の5月に氏が撮影したもの。
 消波堤の上から撮影したと思われます。
 三崎三丁目の懸谷から海に降りて消波堤を約1.2km歩きとのこと。
 まあ、親知らずと同じで、波が穏やかでないと行けません。

No.213 梯子が・・・ 投稿者:滝おやじ    投稿日:2014年07月25日 (金) 21時23分

 さらに、よく見ると滝の傍らに繋いだ2連の梯子が中途までぶら下がっています。
 なんでしょうね。

No.206 巨石観察ノート2014年版18 山梨県山梨市牧丘町西 大石神社の巨石 その14 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年07月12日 (土) 00時40分 [返信]

最初の画像は、大石山遊歩道の北端、花後薬師の丘との鞍部にある鎧石。

No.207  投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年07月12日 (土) 00時41分

 次の画像に示すように、この尾根斜面は、樹林に覆われているのにかかわらず、地表は岩塊累々とした移動岩塊に覆われ、さらに、ものすごい巨岩塊が転落して斜面下に堆積しています。樹木は、岩塊の割れ目にやっと生えている状態。 
 花崗岩の山は、マサ化した砂山というのがイメージですが、このような、マサ化してない花崗岩の山の場合は、凄い岩壁山ですね。
 鎧石は、破断して、これも破断した露岩斜面にひっ懸かっている移動岩塊です。今にも落ちそうに見えます。
 落ちないのは、大石山の他の石は、コアストーンの浮き石なのに対して、鎧石岩塊群と・・・富石岩塊群も・・・根石の大きな地中塔が侵食により露出したものであるからと思われます。

No.208 鎧石の尾根頂上 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年07月12日 (土) 22時58分

 鎧石の尾根の頂上の画像・・・石がよく見えるようになりました。その13・・・尾根先端に行く遊歩道が草刈りされて、通れるようになりました。
 鎧石の上にも露岩が続き、尾根先端の頂上にも露岩があります。鎧石は地中塔の一部で、地中塔頂上が尾根先端部の頂上になっている。
 尾根頂上に露出している露岩は、頭がコアストーンと同じように丸い形と表面をしています

No.209 尾根の側面 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年07月12日 (土) 23時03分

左の斜面:花後薬師の丘
右の斜面:大石山の枝尾根。
 右の尾根先端が鎧石です。
尾根の先端が、地中塔になっていて、尾根の続きはマサと思われる。

No.211 鎧石地中塔のイメージ。 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年07月12日 (土) 23時08分

 富石も同じ構造と思われます。また、以前紹介した、福島県本宮市岩角山の蛇舐石の立地も、尾根先端で同じといえます。

 大石山のコアストーンや地中塔は、中新世に地下に貫入した甲府花崗岩体が、鮮新世頃に地表に露出し、風化により地表近くの厚さ数十m分がマサ化した際に、風化せずに硬いまま残ったものと考えられます。
 マサ化した花崗岩層が、谷の下刻侵食によって、さらに山地・丘陵に掘られて行くにつれ、未固結のマサの中にある、球状のコアストーンや地中塔の突起が、地表に露出すると、周囲のマサより硬いために削り残され、尾根の頂上部分や、尾根の先端部分に露出するようになります。
 現在の巨岩の姿は、この露出したコアストーンや地中塔が、周りのマサがなくなることで周囲の支えがなくなり、完新世以来の重力破断や斜面の重力移動によって更に破断・移動した結果の姿といえます。
 もっとも、現時点では、落ちるところは落ち尽くしているし、樹木の根で固定されているしで、ほとんど化石地形化していて、巨石の場所が地すべり地でもなければ、木の根開口か地震動でもないと動かないように思います。(以上)

No.204 房総のヤマヒル拡大の新ルート 投稿者:ゴンベ    投稿日:2014年07月05日 (土) 11時16分 [返信]

国道410号線の「君鴨トンネル」直上にある「請雨山」(しょううさん)にてヤマヒル被害が発生しました。

トンネル上は、東から西へ安房高山ー請雨山ー三郡山と並ぶ郡界尾根です。
比較的交通量がある410号線が、鹿の東西交流を妨げ、結果として鹿に付着するヤマヒルの西進の防波堤となっていたのですが、、、、
実はトンネル上が鹿達の「緑の陸橋」となっていたのです!

ヤマヒルが、既に三郡山から西、北に進出している可能性があります。志組、志駒、梨沢の地元の方々は「ヤマヒルなんて知らないよ」と言われます。

なお清和県民の森にはヤマヒルはまだ居ないとされていましたが「寂光不動」でヤマヒルは発見されまてます。
油断は禁物です。

No.202 房総 梨沢七つ釜が復活! 投稿者:ゴンベ    投稿日:2014年06月24日 (火) 13時31分 [返信]

10年以上も、巨大倒木による天然ダム湖の底に沈んでいた「七つ釜」が姿を現しました。大雨で巨木が動き、それを地元の方がカットしてくれたので、ダムが決壊したのです。まだお釜の中には砂礫が堆積してますが、いずれ昔の美しい姿に戻るでしょう。
行くなら「今でしょ!」

No.203 そうだったんですか! 投稿者:滝おやじ    投稿日:2014年06月26日 (木) 14時15分

天然ダムで浸水してたんですか。そもそもそれを知りませんでした。(-_-;)
そういえば、10年近く行ってないかも。
とにかく、めでたいですね。

No.199 巨石観察ノート2014年版17 山梨県山梨市牧丘町西 大石神社の巨石 その13 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年06月06日 (金) 22時48分 [返信]

 原甲石を復元してみました。
 画像は、甲石を北東側から見た画像。後ほど、神社正面側から見た測量図を出します。
画像の手前建物は神社拝殿、その奥の別棟が本殿です。
 甲石は本殿に被さるように接しています。本殿右の巨石は、原甲石北東側上部が剥離して落下した分離岩片の産屋石。画像中の標尺は5m。
 原甲石は、大石山山頂にあった巨大なコアストーンで、現在、破断して数個の岩塊に分かれ、原位置に残っている岩塊が甲石、分離した岩塊は、影向石、産屋石、浮舟石などです。分離した岩塊群を復元すると高さ7m×直径14mほどと復元されます。
 余談ですが、説明看板には甲石の高さが12mとなっています。この数字は、「山梨市史」採録の(大石神社)「神社御由緒調査書」(市史の解題によれば、大正4年頃作成と推定されている)に、高さ四丈二尺とあり、その辺の数字を換算したものと思います。
 現地で見ると、明らかに過大です。画像には甲石の頂上付近(頂上は、ほぼ平らなので、正確には頂上の肩)が写っていますので、5mの標尺との比較からも12mはないことがわかります。
 後で測量図を出しますが、神社境内地からの比高が7.5mといった所でした。後述するように、甲石は、根石ではなさそうで、底部も丸い形をしているとすると、厚さ(=高さ)7m+だと思われます。・・・・もっとも、12mでなくても、巨大なことに変わりはありませんが。(^o^)

No.200 甲石を南側から見る 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年06月07日 (土) 11時11分

南側の屏風石側から見た画像です。
 手前の剥離して転倒している岩片が浮舟石。
 後ろの、縦に割れ目が入って破断開口・分離している岩片が、影向石。
 下図で模様をつけた面が、原甲石コアストーンの表面。
 神社本殿側の側面は、上部が、本殿の屋根に接する所で、垂直に人工カットされています。側面下部は、浮舟石側の破断面のようにオーバーハングしていて、こちら側もおそらく剥離分離したと思われるが、神社建造の際(中世以前)に除去されたものと思われます。
 浮舟石や影向石を元の位置に戻すのは頭の中では容易ですので、原甲石の形を想像でき、鏡餅形というよりタマネギ形の丈の高い球形をしているのが分かります。
 なお、こちらの画像でも、標尺(5m)を立てて撮影しました。

No.201 甲石東面の計測図 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年06月08日 (日) 19時29分

 原甲石の復元をするため作図。東側の大石神社正面側から、甲石東面と産屋石を見た図です。
 甲石の前面は、前に書き込んだ様に、側面が1m近くオーバーハングしていて、その先が垂直にカットされていて人工と思われます。またハングの下の凹所は、剥離趾と思われますが、剥離した岩片は神社建物下には見えず、撤去されているようです。
 図として描くと、甲石の後半分が割れて、石のある緩斜面の傾斜方向に辷って移動し、移動してない前半分から、1.5mぐらいズレているのが見えます。
 これは、原甲石が緩傾斜尾根の稜線上にあり、その後ろ半分が、石のある緩斜面に沿って稜線両側に割れて開口し、原甲石の左側が左手に動いて前述の影向石などになり、右側も図に示すように動いているためです。
 また、甲石の底が見えるのは、本殿周辺の部分ですが、神域なので立ち入れません。見たところ、甲石は根石でなく、石の底は基盤の花崗岩が風化したマサのようです。
 大石山の山頂にある巨岩は、皆、根石でなく、マサ中の巨大なコアストーンであると観察しています。
 このような、根石でないコアストーンの場合、根石と違って動き易いであろうと予想されます。
 これの引き起こした現象として、(1)隣の、原屏風石コアストーンの破断移動 (2)大石山に隣接した「花後薬師の丘」の山腹にあった4重の巨岩石塔が、最下層の岩塊の回転・辷り落ちにより倒壊したこと、などがあげられます。

No.205 甲石岩塊群平面図 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年07月10日 (木) 15時03分

諸事繁忙と体調不良で間が空いてしまいました。気を取り直して、甲石の続き。
 原甲石が破断散乱した岩塊群を甲石岩塊群として、図化しました。
 屏風石岩塊群のように広く散乱していないで、元の位置近くに残っているので、この現況図で原甲石のイメージとそれがどのように破断して移動しているのかがわかります。
 直径15mぐらい、高さは7.5mぐらいの、鏡餅形というよりタマネギ形のコアストーンで
した。
 コアストーンが尾根上に露出後、前半分は側面がはげ落ちて、浮舟石と産屋石が分離し、後ろ半分は、縦の割れ目が入って3つに割れ、1/3は影向石となり、1/3は数片に分かれて離れています。 

No.197 巨石観察ノート2014年版16 石がよく見えるようになりました。その12。 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年05月26日 (月) 22時35分 [返信]

 画像は、甲石岩塊群を西側から見た画像。以前は草に覆われて、全貌がよくつかめませんでした。
影向石と同時に割れた、原甲石の1/6にあたる岩塊群の移動を示した画像です。
 画面左に影向石、その奥に甲石が見えます。
 影向石の右側にかってあった原甲石部分(赤い点線部)が赤線のように移動しています。
 赤点線部分の分離した岩塊は、道の右側に4つ、足下に3つの計7つ見つかります。
 産屋石・浮舟石・影向石などは、原岩からの移動距離が短く、自重でコアストーンの一部が割れて転落あるいは開口したと考えて、いかにもな移動位置にあります。
 しかし、影向石と同時に割れたと思われる7つのうち、4つの岩塊は、大きく離れており、単に割れて転落したとは考えにくい移動状態を呈しています。飛び散ったという言葉がぴったりです。
 各地の巨石の破断を復元しますと、破断岩片が破断の際に大きく移動している事例がしばしば見られ、自重による破断だけでなく、他の外力が加わっていると考えられます。
 明瞭な例としては、岩手県一関市大東町大東の続石の破断例が挙げられます。
 外力として一番あり得る形は、地震振動による爆砕という現象で、直下型の地震動による、岩塊の飛び上がりと落下の際に割れて、破片が飛び散る現象があげられます。
 阪神・淡路大震災の時に、六甲山の花崗岩岩塊の破断・転落事例で見られています。

No.198 4つの内最大の岩塊 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年05月26日 (月) 22時41分

道の右側まで移動した4つの内、最大の岩塊。
幅4.6m×奥行4,5m×厚2.0mの大きな板状の岩塊で、元の場所から最短で約5m移動し、緩斜面の表面に乗っている。
側面が、原甲石のコアストーン表面の球状面。上面は破断面。下面は?。

No.196 巨石観察ノート2014年版15 石がよく見えるようになりました。その11  投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年05月26日 (月) 22時22分 [返信]

 画像は、甲石岩塊群を南西側から見た画像。以前は草に覆われて、岩の上部しか見えず、全貌がよくつかめませんでした。
 甲石岩塊群は大石山山頂にあった巨大なコアストーン(「原甲石」と呼ぶことにします)が破断して数個の岩塊に分かれたものです。原位置に残っている岩塊が甲石、分離した岩塊は、影向石、産屋石、浮舟石などです。
 原甲石は、分離した岩塊群を復元すると高さ7m×直径14mほどの巨大なものと復元されます。
 画像中央の割れ目の左側が影向石(こうごいし)、右側が甲石。右端に浮舟石。
 影向石や浮舟石のほか、甲石の末端も割れ目が完全に入って分かれています。
 影向石は、頭が富士山風に尖った鏡餅形をした原甲石の南西側3分の1が垂直の割れ目で原甲石から分離し、更に割れて、分離片のほぼ2分の1が元位置近くに残った岩塊です。原石の1/6といっても、高さ5.5m×幅6m×奥行き8mの巨岩です。
 画像では甲石の方が低く見えますが、画像のアングルで甲石の頂上が見えないためです。
・・・・5月26日:画像を差し替えたので、文章も直しました。

No.194 巨石観察ノート2014年版14 山梨県山梨市牧丘町西 大石神社の巨石 その10 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年05月17日 (土) 20時56分 [返信]

 石がよく見えるようになりました。その10。
 画像は、大石山山頂中央にある甲石巨石群の甲石と産屋石。北側斜面下から見た画像です。社殿は、大石神社の本殿と拝殿。 以前は草に覆われて、産屋石の全貌がよく見えませんでした。
 甲石岩塊群は大石山山頂にあった巨大なコアストーンが破断して数個の岩塊に分かれたものです。
 原位置に残っている岩塊が甲石、分離した岩塊は、影向石、産屋石、浮舟石ほか3〜4片あります。
 産屋石は、草が刈られて全景が見えるようになり、分かり易くなりました。画像に示すように、甲石の上部に、斜面方向に向いた袈裟懸けの破断面ができて割れ、破断面より上の、平面楕円形の部分が滑り落ちたのが産屋石です。
 滑り落ちた岩塊は、長径約8m×短径4m×厚さ2mぐらいで、甲石との間は三角形の隙間になっていて、胎内くぐりの空間を作っています。
 同じような胎内くぐりは、花巻市丹内山神社胎内石にもありました。当掲示板 No.142〜参照。

No.193 巨石観察ノート2014年版13 山梨県山梨市牧丘町西 大石神社の巨石 その9 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年05月15日 (木) 12時34分 [返信]

 石がよく見えるようになりました。その9・・・・ここは、草刈り関係なく、大体見えてました。(^_^;)
 画像は、大石山山頂中央にある甲石巨石群の甲石と浮舟石。社殿は、大石神社の本殿と拝殿。
 甲石岩塊群は大石山山頂にあった巨大なコアストーンが破断して数個の岩塊に分かれたものです。
 原位置に残っている岩塊が、甲石、分離した岩塊は、影向石、産屋石、浮舟石ほか3〜4片あります。
 浮舟石は、一見して分かる破断例で、甲石の側面の、幅7m×高さ3m×厚さ1mほどが割れて分離し、倒れています。
 甲石も、甲石の「石」の字の右上へんから斜めに割れ目が入って完全に割れ、画像の手前側が落ちています。
 コアストーンの側面が破断して分離しますと、球状面が下になって、上が破断した平面になる形の岩塊ができ、舟石とか浮舟石と名付けられる例が多いようです。
 茨城県の竪破山や、福島県の岩角山にもありましたし、そう言えば、逆さまになったのでは、栃木県の名草の奥宮巨石群(転倒したのでなく、10m近く転落したものですが)にもありますね。

No.192 巨石観察ノート2014年版12 山梨県山梨市牧丘町西 大石神社の巨石 その8 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年05月13日 (火) 10時01分 [返信]

石がよく見えるようになりました。その8。
 画像は、大石山山頂緩斜面中央にある巨石群。以前は草に覆われて、下部がよく見えませんでした。北西側から見た画像です。
 画像右側の、大きな割れた凸面が見えるのが屏風石(手前に標柱がある)で、画像左側の三角形の岩塊が立烏帽子石です。この石は、かっての屏風石北側部分が割れて傾き落ちたものです。
 立烏帽子石は、屏風石との間の開口部が崩れ土で埋まっていますので、全貌が見えませんが、高さ5m×幅7m×奥行き2.5mほど、画像ではその上部高さ3.5mほどの部分が見えています。
 石の内側(画像では右側)は、屏風石の破断面に対応する凹面の破断面で、石の外側(画像の左側)は、以前屏風石と一体であった時の巨大なコアストーンの球状表面です。
 2つの石は、復元すればぴったり合います。
 大石山山頂にある巨石群は、かってあった巨大なコアストーン群が破断・散乱したものですが、、かってのコアストーンの球状表面形を手がかりに以前の姿を復元することができます。

No.191 巨石観察ノート2014年版11 山梨県山梨市牧丘町西 大石神社の巨石 その7 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年05月11日 (日) 15時36分 [返信]

石がよく見えるようになりました。その7

 画像は、大石山山頂の北東にある、あんまり巨大でない石・・・名称板がなく、無名かも。斜面下から見上げると烏帽子石によく似ているので「小烏帽子石」と私称しています。
 南側から、東面と南面。 以前は草に覆われて、よく見えませんでした。画像左端にあるのが烏帽子石。
 斜面方向から見ますと、幅4.5m×高さ3.0mと大きいのですが、画像のように横から見ますと、厚みが1.2mしかない、薄い板状の立石です。
 石の地下に未風化の岩盤が続いている根石とは思われず、地下は真砂土の小規模なコアストーン塊と思われます。
 ただし、斜面途中にあるコアストーンは大部分が動いてきている異地性岩塊なのですが、この岩塊は、板状のコアストーンが動いたなら、傾くなり、倒れるなりするはずですのに、現状垂直に立っていますので、動いていない現地性の岩塊と判断しました。
 この岩塊の立地は、山頂緩斜面の末端にあたります。 石を境に上は緩斜面、下はやや急斜面になっていますので、こんな頼りなさそうな、根石でもないコアストーンですが、斜面侵食により急斜面が山頂に向かって伸びてくるのを止めている侵食に対する抵抗点になっていると思われます。

No.190 巨石観察ノート2014年版10 山梨県山梨市牧丘町西 大石神社の巨石 その6 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年05月03日 (土) 10時46分 [返信]

 石がよく見えるようになりました。その6。
 画像は、大石山山頂の北東端にある巨石・・・烏帽子石。 東側側面、スケールは4m。大きい上に、以前は草に埋もれて周りに立ち入り難く、全体像がつかめない巨岩でした。
 今回、草が刈られ、周りの様子や落下した岩片群を見られるようになったので、周りからスケッチをとり、転落岩塊と開口部の認定と、開口・転落前のコアストーンの形状復元をしました。
 時系列順に述べると、
(1) 本来、山頂緩斜面の北東端に、北向き斜面に面して露出した現地性の、幅7m×奥行6m×高4mの大きな岩塊であった。
(2) 露出峙は、平面形は、垂直の節理面起源のほぼ四角形で、南東端を頂点とする2段の岩塊であった。岩塊の上面・側面は鏡餅状に傾き下がる風化球状面が露出していて、いかにもコアストーンという形状であった。
(3) 露出後、斜面侵食の結果、岩塊の下方斜面に尾根ができ、岩塊の西側に谷の谷頭が掘られた。その結果、岩塊の東側が尾根上に残り、岩塊の西側が谷側に落ちて、岩塊は真っ二つに割れて、南北方向の開口ができ、開口部の破断岩片が北側の岩塊直下に転落した。
(4) 落下した岩片群は、ほとんどが元の岩塊直下に留まっている。
 ということになります。

 画像は、尾根上に残った東側部分の側面で、当初露出していた2段の鏡餅形のコアストーンの姿がよくわかります。石宮のある所が岩塊の南東端の頂点。
画面右下にある岩塊群は、画面裏側にある南北方向の破断開口部から落下してきた破断岩塊。
 破断のイメージとしては、山梨県甲州市塩山、上小田原所在の裂石に見られる破断形とよく似ています。
 拙HPの巨石奇石→山梨県の巨石→甲州市 裂石

No.189 巨石観察ノート2014年版09 山梨県山梨市牧丘町西 大石神社の巨石 その5 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年04月29日 (火) 21時26分 [返信]

 石がよく見えるようになりました。その5。
 画像は、大石山山頂の参道階段脇にある巨石・・・指門石。
 以前は斜面に出ている部分が草に覆われて、よく見えませんでした。草が刈られて、岩塊の周囲がよく言えるようになりました。
 大石山山頂部の岩塊群の東端にある現地性と思われる巨石です。
元はもっと大きく、原位置に残っている残片て、地表に露出している形は、長径7m×短径4m×高さ4mほど。
 元々は頂部が平らな鏡餅型をした大きなコアストーン岩塊だったようで、大きく3つに割れています。
 後ろ2/3が左右に割れ、前1/3が割れて斜面を転げ落ちています。後ろの右半分が原位置に残って指門石、後ろの左半分はすぐ脇に落ちています。前の部分は指門石の上端から、10mぐらい下の斜面に転落しています。
 3つ合わせて復元すると、大石山では、原甲石、原屏風石に次ぐ大きなコアストーンだったと言えます。
 画像は指門石の側面で、元々のコアストーン表面に当たり、丸みを帯びた滑らかなコアストーンの球状表面と平らな節理面起源の頂上部が見えます。

No.188 巨石観察ノート2014年版08 山梨県山梨市牧丘町西 大石神社の巨石 その4 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年04月26日 (土) 22時25分 [返信]

 石がよく見えるようになりました。その4。
 画像は、大石山山頂の遊歩道沿いにある巨石・・・百足石。以前は草に覆われて、よく見えませんでした。
 大石山山頂部の岩塊群の東端にある巨石です。平らな細長い鏡餅型。 地表に露出している形は、長径7m×短径4m 高さ1.6mぐらい。
 画像は山頂の大石神社境内から南西方向に百足石を見下ろしたもの。
 山頂の緩傾斜面と東側のより急斜面との傾斜変換線上に露出していて、下部が急斜面に露出しているため、斜面に平行に3つに割れて傾いていて、その様子が画像に見えています。
 画像の側の裏側で、割れた所で、石の下が見えますが、石の下がなく基盤の真砂土の上に、厚さ2mほどの平らな板状に乗っていて、現地性の石でなく動いてきたものです。
 移動元は、すぐ脇の石刺の後ろの巨岩(私は、「第2屏風石」と仮名つけてます)の、傾いた平らな頂部の上に乗っていた部分が分離して落ちてきたものと思われます。
 また、画像で、岩塊前面(北側)は、節理面がみえますが、そこにかってあった岩塊は、分離して転落したらしく、それらしき分離岩塊が下の遊歩道沿いに落ちています。
 大石山山頂部の巨石群は、以前は丸みを持った球面のお餅型の露岩が散在する形だったのが、その後の地震や風化破断により砕けて散乱・転落し、現状の形になったと解釈できます。
 破断散乱する以前は、山頂部中央に大きな背の高い鏡餅状の岩塊が甲石の位置にあり、甲石の周囲から割れて分離したのが、影向石・産屋石・浮舟石です。また、屏風石・立烏帽子石など屏風石周辺の岩塊群は元は一つで、これも背の高いタマネギ状の大きな球形岩塊(原屏風石と呼ぶことにします)でした。
 原屏風石の近くには、第2屏風石+百足石・指門石・尾笠石の前身の石など、甲石の近くには烏帽子石などのやや小さな現地性の岩塊がありました。

No.187 巨石観察ノート2014年版07 山梨県山梨市牧丘町西 大石神社の巨石 その3 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年04月26日 (土) 00時40分 [返信]

石がよく見えるようになりました。その3。
 画像は、大石山山頂の遊歩道沿いにある巨石・・・尾笠石。以前は草に覆われて、よく見えませんでした。
 スケールは4m。
 大石山山頂部の岩塊群の南端にある巨石です。平らな鏡餅を4つに切り分けた1片のような形をしていて、長辺6m×短辺5m 高さ約4mです。
 画像は長辺(東側)。根元まで見えるようになり、根石でないのがわかります。角度20度ぐらいのマサの傾斜面に乗っていて、右方(北側)から左方へ滑り落ちてきた岩塊です。
 移動元は、すぐ右の巨石が地上部分がない状態なので、その上部と思われる。
 移動元の岩は、移動してない現地性の岩塊の可能性が高そうです。
 さらに面白いことに、屏風石の岩塊が爆砕して現在位置に動いた時に、屏風石の東半分の岩塊が、尾笠石の移動元の石に当たり、上半分が跳ね飛ばされて落ちたのが、尾笠石ではないかと思っています。
 なお、移動してきた後、岩塊下の地形の凹凸に対応して、自重で節理面とは無関係な割れ目が入り、4つの部分に割れています。
 画像の側面では2つに割れているのが見えます・・・画像左側にも割れ目が見えるが、これは岩塊の全周を廻ってなく、割れかけの割れ目です。

No.186 富津市 鹿原地区の北下の大滝 投稿者:ゴンベ    投稿日:2014年04月25日 (金) 20時04分 [返信]

不入斗から鹿原へ登る道路沿いに沢あり。
その沢の支流が総丘CCゴルフ場裏道沿いに東へ分かれます。
200m先で更に南下する枝沢が鹿原地区へ突き上げてます。
この沢を遡行し、東俣へ入ったら、予期せぬ大滝に突き当たりました。深い滝壺あり、目測で7m、数段の滝です。
その上の落口は、なんと護岸のある水路でした、ガッカリ。
すぐ上は鹿原の人家。だから昔からの名前があるはずですが、不在で聞けませんでした。
また写真が横倒しになるかも?

No.184 巨石観察ノート2014年版06 山梨県山梨市牧丘町西 大石神社の巨石 その2 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年04月23日 (水) 23時28分 [返信]

 石がよく見えるようになりました。その2。
 画像は、外遊歩道沿いにある巨石。以前は草ボウボウで、よく見えなかった雷石。
 この石は、画像中央のとがった破片型の岩塊をいうらしい。
 実は、画像右手側に、大きな花崗岩のコアストーンがあり、急斜面の最上部に露出し、破断・傾動しています。さらに、ほぼ同じ大きさのコアストーンが6個ほど連続して露出し、幅20mほどの岩塊群になっています。
 雷石は、そのコアストーン群の末端コアの頂部が、殻状に破断して、下の急斜面に転落し、偶然直立しているもののようです。図の矢印参照。
 一見、右手の岩塊の端が開口した割れ目のように見えますが、そうだとすると、画像中央の割れて分離した岩片の方が高くなるのがおかしいと思います。
 画像右の岩塊頂部の丸みと、雷岩左側の凹面との対応に注目。
  雷石の下の岩塊も同じ成因の岩片のようです。

No.183 鹿野山 本村川下流  投稿者:ゴンベ    投稿日:2014年04月23日 (水) 20時35分 [返信]

昔、遡行した本村川下流を再訪してきました。倒木、崩壊が多く、荒れてます。
写真はドンドン滝の上半分です。「滝一覧」の記述は、極めて正確で、たしかに川回しで作った人工水路のようです。この上にもミニサイズの川回しトンネルあり。周囲は廃田で、岸の土留めも崩壊が進んでます。ドンドン滝は、遡行せずとも上の地蔵橋から廃田の縁を100m下ると滝壺が下に見え、簡単に降りれます。なお、この間にあるはずの国見滝らしきものは発見できません。崩れた砂防堰堤の残骸があり、埋まったらしい。なお最下流の国道砂採掘場わきには、白粘土岩盤の滝が辛うじて残っています。

No.185 情報ありがとうございます。 投稿者:滝おやじ    投稿日:2014年04月23日 (水) 23時32分

国見滝、埋まってしまったんですか。

No.182 巨石観察ノート2014年版05 山梨県山梨市牧丘町西 大石神社の巨石 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年04月22日 (火) 22時05分 [返信]

石がよく見えるようになりました。

巨石では超有名な場所だそうです。公園化されているのですが、以前、訪れた時は、全山草茫々で、遊歩道も草に埋もれ、神社参道廻りの石しか、観察できませんでした。
今回訪れたところ、木の伐採と草刈りによる整備で、見通しも良くなり、各巨石の根元までじっくり見ることができるようになっていました。
 神社付近の巨石だけでなく、山頂周辺の遊歩道廻りの巨石も御覧になると面白いと思います。
 私も、3日ほど通って、大石山脇の花子薬師の丘も含めて、巨石群を見て廻り、測定してきました。非常に大きなコアストーン岩塊の山稜頂部型露出と破断・移動の好例ですね。

 画像は、以前は、どこにあるか分からなかった富石岩塊群の頂部。
 地表からの高3mぐらいのさほど大きくない花崗岩岩塊ですが、谷底から見上げると大きな地中の塔が侵食谷の急斜面に露出している頂部であると分かります。 
 露出部分は、重力破断して、岩塊の重なりになっています。セミクジラの口のような形の破断形が印象的です。

No.181 千葉 房総 鹿野山 本村川 中流 投稿者:ゴンベ    投稿日:2014年04月21日 (月) 20時43分 [返信]

林道崩壊箇所は歩行通過は可能です。

No.179 房総 鹿野山 本村川中流案内図 投稿者:ゴンベ    投稿日:2014年04月20日 (日) 08時03分 [返信]

既に掲示した源頭域と源流域の案内図に続いて、中流域の案内図も作りました。ここは大雨、大雪などで崩壊しやすく、天然ダムが出来て突破出来なかったりします。また、中間点にも深い淵があります。上には林道からの不法投棄タイアなどが大量にあり悲しい。中間点のV字谷の沢床は、ようやく歩けるような狭い溝です。いくつもの小滝の写真などは、地元探険家の方がレポートされてますので、そちらを参照してください。更なる下流域は平凡です。
林道、砂防堰堤、山砂採掘場も無かった時代には、この本村川は全長にわたり立派な渓谷だったのでしょう。

No.180 みんな助かります。 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年04月20日 (日) 22時38分

 詳しい情報ありがとうございます。
 林道崩落で、天神堀滝には反対側からでないと行けないのですね。知りませんでした。

No.178 房総鹿野山本村川源流帯 投稿者:ゴンベ    投稿日:2014年04月14日 (月) 20時39分 [返信]

削除、および写真の転回、有難うございました。
この絶壁に挟まれた部分が、本村川の最狭部です。
屈曲していて底が見えません。

No.174 房総 鹿野山 本村川源流ゴルジュその3 投稿者:ゴンベ    投稿日:2014年04月09日 (水) 19時40分 [返信]

申し訳ありませんが、更新した図を添付しますので、返信No.173で送りました図とコメントを全て削除してください。
理由
1.最下流の涸滝と、下部井戸涸滝との間は到達で  きていないので未確認。
2.深さ30m、幅3mの白くて狭い、屈曲した垂  直岩壁なので底がよく見えない。
3.落差が相当あるので、この間にも別な涸滝があ  るかも知れない。

懸垂下降のプロに踏破してもらいたいものです。

なおゴルジュ内の写真は縦長でないと入らず、投稿すると横倒しになってしまいます。申し訳ありません。

No.175 173の書込 投稿者:滝おやじ    投稿日:2014年04月13日 (日) 17時51分

ご依頼のように削除しました。管理人

No.177 縦長の画像が・・・ 投稿者:滝おやじ    投稿日:2014年04月13日 (日) 18時05分

やってみたら入りました。
どうしてでしょうね?

それとは別に、特異な景観ですね。

No.170 鹿野山 間滝ルート(再) 投稿者:ゴンベ    投稿日:2014年03月30日 (日) 10時47分 [返信]

間滝尾根を降りて出合いまで20分間、72歳!のゴンベでもスイスイ行けます。問題は、たった2mの小滝のシャワークライム突破が困るのと、落石、落木がコワイことです。恩田川下流からの溯上も1時間くらいで簡単です。ただしゴルフ場の処理汚水、ゴルフボール、堰堤、工事瓦礫、古タイアなどで人間が荒らしてますから、はっきりいってキタナイ。それでも猪、鹿、猿、蛇、アナグマ、イタチ、ハクビシン、いろいろ出会います。

No.171 反響 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年04月05日 (土) 00時23分

間滝の情報、利用して行った人がいるようです

http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/out/1284356679/
の657以下。

No.168 房総 鹿野山 間滝へのルート 投稿者:ゴンベ    投稿日:2014年03月28日 (金) 19時33分 [返信]

民有地を通るな!とかモメてるようですので、昔から通られている最短ルートを案内図にしました。紙面の上が北です。ただし通称「間滝尾根」は行政の管理地。将来、万一閉め出されたら、更に南に古道を降りて最初の廃屋裏から、恩田川支流の源頭を急降下出来ます。ゴチャゴチャ書き込んだので見にくくなってしまいました。間滝を巻いて突破した猛者もいますが、源頭直進および左側(右岸)は民有地に向かってしまいます。牧場があるので夏はアブが多く、冬がベストです。どうしてこういう地形が出来たのか?不思議です。秘境のままにしておきたい。観光吊橋などが出来ないことを祈ります。

No.169 おお、これは良いですね。 投稿者:滝おやじ     投稿日:2014年03月28日 (金) 21時56分

わかりやすい図ですね。
土地所有者との間でトラブルになっているのなら、その回避に役立つといいのですね。
 45年前に、案内してくれた方に付いて行っただけですが、結構スイスイ行けた気がします。 今は荒れてしまって下流側から行くのはしんどいと聞きますが・・・。
 今となっては、行けそうもないなあ。(^_^;)



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