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教育問題専用の掲示板です!! by yamateru

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[201] 疲労困憊の予感 投稿者:そにゃ 投稿日:2011年10月02日 (日) 19時43分
 大人社会での「いじめ」が無くならないのだ。こども間のいじめが無くならないのも無理はない。大人自体が精神的に豊かではないのだから、こども達に豊かな情操教育をするなど遠い。保護者は個の主張を言いたい放題。対応に追われる教師に全て任せ、学校問題となると一教師に責任を負わせる体制。
 昔のように先輩教師が手助けしてくれる体制ではない。ひたすら教師一人で頑張りぬく。そこへ来て、教員免許状更新講習30hの負担。部活動に加えて休み返上で講習を受けねばならない。その間にも学校では問題が起き対応に追われる。こども等は可愛い。しかし教育を取り巻く環境には空虚な気持だ。
 文部科学省は大学院出身者を教職に迎え入れたい腹積もりのようだが、実践に向かない教員で負担がまた増えるのか?口先ばかりで行動力のない教員ばかり増やして、教育現場が良くなっていくと思っているところが終わっている・・・
■[202] お笑い社会管理人(2011年10月21日 (金) 01時18分)
今の日本、本気で将来を考えるリーダが不在のように思われます。特に、政治家・お役人には、わが国の襲来を担う世代を育成する気構えが見えません。
TVを見れば、お笑い芸人ばかりが目立ち、NHKまでもがそういった風潮に迎合。我々が何か行動を起こす必要がありそうです。


[200] 公立中学とかで本格的に勉強が無理で悩んでる人。努力しても無理だった人 投稿者:○9○85I42○3I 投稿日:2011年09月17日 (土) 06時47分
勉強が出来たにこしたことはないが大人になれば勉強は役に立たないこと多いよ。田舎の市役所の職員、試験で入ってるだろうが小学生レベルの学力で十分ですし、
学校の成績悪くても変態な美人教師と知り合えば精力強ければ結婚も出来るし。大人は何が一つ出来て人殺したりしなければなんとかなるよ
■[203] 管理人(2011年10月21日 (金) 01時23分)
同感です。昔の社会には、学校など無かったですが、大人たちは堅実な暮らしをして、子供たちをちゃんと育てました。現代人は、もっと「昔に学ぶ」ことがあるように思います。


[191] イジメの原因 投稿者:臨任教師 投稿日:2008年05月23日 (金) 20時29分
日本の学校でイジメが無くならない理由−ま、一つには教師が教師をイジメてたりしますから−私の勤め先は埼玉県の公立高校ですが、教頭が私をイジメてますし、、とても生徒までは気がまわりません。奴らの管理職手当を全部削り取って非常勤を雇った方が何百倍も良い教育が出来るでしょうね
■[193] 強い心で管理人(2008年07月19日 (土) 02時05分)
臨任教師様
弱ったものですネ。
しかし、ご自分が正しいと思うのであれば、無視するか、反論すべきかも知れません。
強い心で、正義を貫けば、それは子供達に伝わり、何にも増した「教育」の一つになるでしょう。


[190] 教育とは? 投稿者:三木 康 投稿日:2008年05月08日 (木) 22時27分
以前お送りしたものより百倍わかりやすい、「TM紹介ブログ」を
お送りします。ご査収のほどよろしくお願いいたします。「現状で5%程度しか使っていない脳を100%使えるようにするテクニック」これがTMです。あらゆる資源開発が行われていますが、人々の脳機能は最も優先順位の高い開発すべき資源であることが、ブログをご覧になると一目瞭然です。

ご感想などお聞かせいただければ幸いです。

マハリシ総合研究所 新宿センター
            三木 康
            


[189] 投稿者:yuki 投稿日:2008年03月27日 (木) 21時27分
はじめまして、現在高一で防衛大学校を目指している物です。
僕は元々、軽いながら言語障害を持っていまして小学生の時にいじめ(自分では認識は無かったですが)られていました。元々能天気な性格で「いじめ」を「いじめ」と認識せず一種の遊びと考え、遊びとして、やられた事を鸚鵡返しするって事をしてました・・・
当時、いじめるグループ、いじめられるグループ、いじめを黙視するグループに分かれていました。自分は、昔から効率主義の自己中心的だったので、どのグループにも属しませんでした。
いじめをいじめと認識していないので、「遊び」として、いじめをしている人を見ると一方的にやられている場合やられてる側について、今思うと仲裁(?)に近い事をしていました。それを全グループに適応していたので、おおっぴらないじめはいつの間にかなくなっていました。(まあ、喧嘩はよしましたがw)

まあ、自分で言うのは何ですが一人でも、本当の効率主義の自己中心的な存在つまり、自分さえ楽しくて、トータルの利得損害で考え、足手まといがいれば引きずりながらでも進み、自分が足手まといの時は、強引にでも手伝ってもらうそんな馬鹿でいじめがへりました。


乱文失礼します。


[186] 冒険教育指導者育成プログラムのご案内 投稿者:財団法人 日本アウトワード・バウンド協会 投稿日:2008年01月20日 (日) 14時18分
冒険教育指導者育成コース JALT(ジャルト)69日間 参加者募集

 野外教育・冒険教育の指導者を目指す方のためのプログラムです。教育に携わるために必要な技術と知識を学び、実習を行っていきます。あなたが目指しているものに対して、確かな土台とその道筋を示してくれるはずです。自分の気持ちに正直に、そして将来の夢に向かってぜひチャレンジして下さい。

開催日 2008年5月1日(木)〜7月8日(火) 68泊69日
開催地 [活動ベース]OBJ長野校(長野県北安曇郡小谷村)
     [活動エリア]基本プログラム、指導法は長野校周辺域で実施されます。
     山岳/北アルプス、雨飾山周辺域(長野、新潟、富山県)丹沢(神奈川県)
     カヤック/青木湖、犀川など
     ※天候、交通、参加者の状況などにより変更になることがあります。
参加費 712,000円(コース終了後の分割可)
    ※コース中の全ての指導費 、食費 、宿泊費 、交通費 、装備費 、保険料を含みます。
    ※ただし、集合・解散場所までの往復交通費は自己負担でお願いします。
対象 18歳以上の健康な方。
    前もっての野外活動の経験や、特殊なトレーニングは必要ありません。 
定員 8名
 
 無雪期の様々な野外活動の技術を身につけ、実際の現場での安全対策指導法などを確実に行うことのできる、冒険教育の指導者を育成します。冒険教育とは、参加者にとってできるかどうかわからない冒険的活動、例えばロッククライミング、カヤック、登山、滝にチャレンジする沢登りなどの教材を使い、セルフディスカバリー(自己の可能性やあり方に気づく)することを主な目的としています。
指導者として様々な冒険活動を教育として表現するためには、各活動の技術(ハードスキル)、野外で使える救急法、教育としての野外活動の捉え方(プログラミング)、経験から気づいたことを日常に生かすための指導法(ソフトスキル)が必要になってきます。JALTは、これらのことを、講義、トレーニング、実習を通して徹底的に身につける69日間です。

プログラム例
セルフディスカバリーコースの体験、カヤック技術、いかだ、無雪期登山技術、ロッククライミング技術、沢登り技術、マウンテンバイク技術、救急法( 日本赤十字社資格認定)、野外救急法、ソフトスキル(指導法)、相互実習、参加者を迎えての指導実習他。

持ち物 
登山、ロッククライミング、カヤックなどのほとんどの専門装備、例えばアタックザック、寝袋、テント、ロープなどは、当校より貸し出されます(無料)。参加者にご用意いただく個人装備で特殊なものは、登山靴、雨具、防寒着などです。詳しくは、参加申込後にお送りする参加要項をご覧下さい。
 
指導
OBJの複数のインストラクターが指導にあたります。インストラクターは野外活動の指導法、ファシリテート、野外救急法などの厳しい訓練を受けている専門スタッフです。また、プログラムによっては各専門分野の一線で活躍する講師を招き、指導を受けることもあります。

ご希望の方には上記プログラムの詳細(カリキュラムやスケジュールなど)が記載されておりますパンフレットをお送り致しますので、お気軽にお問合せ下さい。

お問合せ・お申込先
財団法人 日本アウトワード・バウンド協会 長野校
〒399-9601長野県北安曇郡小谷村北小谷大網
TEL  025-557-2211
FAX. 025-557-2277
Email : info@obs-japan.org
URL : http://www.obs-japan.org



[185] 「スポーツを育てる」の記事より 投稿者:教員休職中 投稿日:2007年12月14日 (金) 11時10分
 今朝も朝刊を読んでいて、内容が何とも「言いがかり」ともとれるような文章表現があったので、思いを書き込みさせて頂きます。

「スポーツを育てる」 引退後の人生 学校は教えない

 スポーツ選手は誰でも一度はその門をくぐる。現役引退。 〜途中省略〜
「多くの学校の指導者はこの意識が抜け落ちている。目先の実績を追って、『今は競技に集中しろ』『実績を残せば後はなんとかなる』と言い続ける。それが夢をあきらめられない青い鳥症候群をいたずらに増やしている」
〜途中省略〜
本来学校教育で考える部分をプロ組織や競技団体が担う。この現実は皮肉だ

これらの文章を読んで、多くの部活動に関わる指導者は、きっと腹立たしい気持ちになるのではなかろうか。?学校現場では生涯スポーツの視点で、子ども・生徒に関わっている現実があります。プロ・スポーツ選手を育てることに、目的を定めて部活動の指導者は中・高の現場ではいないはずです。
結果的にスカウトされたり、本人のたっての希望でプロを目指す、顧問がプロを目指してみたらどうだと推薦するケースはあるかもしれません。

中・高では職場体験学習や進路学習等はどの学校でも必ず行われます。「どの職業もプロです。」途中で進路変更しなければならないリスクはどの職業でもあるのでしょう。中でも取り分けプロ・スポーツの世界は厳しい現実がある事は必ず一言二言は触れられて当然でしょう。
子ども・生徒は自分の進路を考えた時に、幼い時〜青年になっていく課程で色々な方向性が見えてくると思います。勿論、目標を1つに決めて取り組んでいく者もいますが、多くの生徒は第1希望・第2希望のように夢が現実的にならない場合にはどうするのか等悩むのだと思います。
基本的に学校のスタンスは、現実的な事も必ず伝えます。しかし幼い時期であればある程、「夢を持たせたり」「強く目標を持たせる」のが教育的な配慮だとも思います。最初からリスクばかりを中心に諭し、教員側で「夢を奪っていったり」「夢を持たせない」ような指導が理想なのでしょうか。

人は「夢や目標」があるから伸びるし、生きている実感がより強くなるようにも思います。

また、プロがある競技では「トップレベル組織」〜実業団・大学・高校・中学・小学校等のように、競技人口の獲得を目指している視点はありませんか。競技人口を増やす。「裾野を広げ多くのプレーヤーの中から、優秀なプレーヤーは上の組織に吸収していく」仕組みはありませんか。
これは学校が主導権を握るものではありません。おそらくこの図式は各競技毎になりったている筈です。
かく年代の学校で指導者は進学や上部組織に移る際に、確実に本人の願いから始まる筈です。スカウトされる場合や、推薦制度等は別問題です。

新聞に掲載された記事が、指導者の考え方のせいで「夢を追わせ、夢やぶれた瞬間に、最終的に職業を失わせている」ように受け取れたり。
また、「プロ・スポーツから進路変更した際には、その時点での当事者の就職の斡旋までもが学校に責任があるようにも受け取れる」内容が、どうにも理屈が分かりません。

これこそ「自己責任」かと思います。


[184] 「教育再生か行革か」の記事より 投稿者:教員休職中 投稿日:2007年12月13日 (木) 10時21分
今朝の朝刊では、文科省「数を」財務省「実質を」とサブタイトルが付いた記事が掲載されていました。

予算を掛けずに質を上げたいと思うのは上の立場の方ならば、誰しもが頭をよぎる事でしょう。様々な事を熟慮してバランスの良い方向性を出される事になればと思うのですが、個人的にはどうかなと思う意見がありました。今に始まった事ではありませんが、如何なものでしょうか・・?

「〜評価に応じた報酬の仕組み作りが先決」この考え方は現場の教員のどの程度の方が望んでいるのでしょう。?
給与に反映する事でのモチベーションを高めさせるような発想と受け取りましたが、もし解釈が違っていたら申し訳ありません。・・「馬にニンジン作戦」ともとれるような安易な発想に受け取れます。「金銭」では解決できない内容が結構あると思うのですが。

私個人としては、この二者択一問題に1つ解答するのであれば、間違いなく文科省を選ぶでしょう。多くの教員が同じように感じられているのではないかとも思うのです。個々の分担の密度を上げていくために具体的に動きやすい事で考えるのであれば「手数が増える事」になっていくのでしょう。一人ひとりの教員の分担が軽減される事で、より専門性を深めたり、重点的に力を注げる部分の密度を上げられる事につながるのではないでしょうか。

個人的な意見では給与の伸び率が、低くなった(一時的に止まった)としても教員数増員を選択するでしょう。逆説的に定員増にならないのであれば、給与に反映させて下さい。となっていくのかも知れませんが。

本題の根本的な問題は「いかに子ども育てるか」これが何を差し置いても、外す事ができない事です。現場の実情を踏まえて選択される事が第一かと思います。現場の先生方は、みなさんが「歯を食いしばって」頑張ってられると思い
ます。

今の公立学校の先生方が強く望んでいる事は、「公教育の社会的な意義の浸透」「公教育の尊重」のように感じているのですが、個人的な意見ですので戯言と思って下さい。
「必要とされるから頑張れる」「意味を理解してもらえるから頑張れる」「尊いと感じてもらえるから頑張れる」・・

「金銭的な部分よりもこちらの理解をして頂ける状況の方が遙かにありがたい」

先生方はみんな「子どもが好きだったり」「育てる事に生き甲斐を感じて」この職に就いたのだと思うのです。「教育の密度が上がる事に何よりもの喜びを感じるなんて方が多数いる職種の筈です」

「密度が上がりやすい環境(受け手側へ)のテコ入れが本当は一番ありがたいのかも知れません」



[183] 法教育の記事より 投稿者:教員休職中 投稿日:2007年12月12日 (水) 11時08分
今日の朝刊で「法を生活道具に」という大見出しでパネルディスカッションの様子など合わせて掲載されていました。大変共感できる部分があり、思う事を書き込みしたいと思います。

価値観が多様化する現代だからこそ、何かに拠り所を求めたい気持ちがあるのが事実です。学校現場では、些細な点でも受取り方や行動面で子ども・生徒の対応は当然変わります。人には個性がありますから当然同じように受け取ってもらえるケースの方が希かとは思いますが。また、当然保護者の対応も、理解して頂ける方と理解して頂けない方のように両極になって現れてくる事は良くある事でしょう。

朝刊のコメントでこんな事が書き込まれていました。「私たちは法の上で安心して暮らしていけるのです。〜感謝の気持ちを覚えさせるのが必要だと思う。」
学校現場を小社会ともとらえた視点で多々表現もされていました。当たり前の事ですが、「学校」は子ども・生徒が社会に出て行く時に「健やかな生活」を送れるように練習する(鍛える)場所だと思うのです。一人ひとりの子ども・生徒がやがて社会の一員として、ルールの中で生活していきやすい状況の道標になる必要があると思います。

現実はどうなのでしょう。

もしかすると保護者は、子ども・生徒の行く末を「学業的・進学先」のような点で心配することは多々あると思うのですが、「社会ルール的」な視点では疎かになっている事はないでしょうか。子どもの躾の第一責任者は親になるわけです。ですが、「ここまで躾なければいけない」「これは躾る必要性があるのか?」「この年代で何を躾たらよいか分からない」・・

親は子どもの躾に対して「できています・できていません」と評価される機会は大変少ないのでしょう。昔は三者面談で教員が親に対して随分と言えたように思えます。少なからずそれを受け入れて頂ける器が親にもあったように思います。時代にともなって変化してしまった残念な一面だと思います。
おそらくその時点での教員側のスタンスで、親を正す言葉が「子ども・生徒」に巡り巡る事を理解して頂けたからだと思います。

でも現在は「ものの言い方が気に入らない」「言われる筋は無い」「ちゃんと躾ています」「他の子どもさんもそうでしょう」「そのくらい大したことではない」・・
ニュースなどで教員の言葉が紹介される時に「若い先生が・・保護者をモンスターにしない言葉を選択する努力をしています」と語っていた場面がとても象徴していたも感じました。

受容の大切さと、「時間」との関わりで心配を抱いています。

昨今、教員は「受容的なスタンス」に大きく流れは傾いていっていると思います。大切な事ですから不必要とは私も思っていません。特に大きく周囲に影響を与えるような状況下では、該当する子ども・生徒の変化と「時間」との関わりも大きいかと思っています。
該当する子どもが変化していく「時間」が長引けば長引く事で、「周囲の子ども・生徒からも理解を得にくくなっていく」「こども・生徒から認められなくなっていく」「子ども・生徒から見放されていく事もある」・・その子どもに対しての内情をよく理解してあげた上でも、「周囲の子どもの理解が得にくい」「同年代の子どもでは理解できない」なんて事は結構ある事でしょう。
最悪の自体は、「該当生徒が周囲に対して悪影響を及ぼしてしまった瞬間かも知れません。」その子自体を受容し、教師と子ども・生徒の人間関係が構築されていたとしても、周囲の子ども・生徒がその生徒の状況に納得できていなければ、問題は波及していく。なびいてしまった周囲の子ども・生徒を含めて。

少年法

第1章 総 則
(この法律の目的)第1条 この法律は、少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行うとともに、少年及び少年の福祉を害する成人の刑事事件について特別の措置を講ずることを目的とする。

第1節 通 則
第3条 次に掲げる少年は、これを家庭裁判所の審判に付する。
ニ 自己又は他人の徳性を害する行為をする性癖のあること。

                                   一部抜粋

これは少年法の内容を一部抜粋したものです。学校が小社会として例えた場合には、学校内では明らかにこれに該当してくる事になります。加えてこの時点で「保護者の躾義務が怠っていた現実が表面化」するのかも知れません。しかしそれで解決することもなく、該当する保護者は自分の言い分を語って平行線を辿っていくなんて事になるのでしょう。
もし一方的に巻き込まれてしまった、周囲の子どもの親であったらどんな気持ちになるのであろう。・・「自分の子どもにも責任がある」「何故あの子どもさんと関係を・・」「該当する親に一言、言わないと気が済まない」・・心中複雑かと思います。

この一例であれば「なんとか早期に止める事ができれば二次的な問題は出なかった事になる訳です」・・「結果そのこの子どもさんのためにもなる」「他者に対して迷惑をかける事がなかったと」・・

その子自身・周囲の子ども共に「守った」事になると思うのですが、これは受容的スタンスが強すぎると間に合わない事かと感じています。おそらく教師と子ども・生徒の人間関係が構築されていたとしても、たとえ信じあえていたとしても「とらえきれないその子の内情が余波を生む」・・「事が大きくなっている」

なるべく学校で失敗するのであれば、小さい内に止めてあげたいと思うのが親心でしょう。タイミングを逸してしまうかも知れません。
事が大きくなれば「親もそれだけダメージは大きいかも知れませんし、反発も大きくなるかも知れない」

朝刊の最後に中学生のコメントが一行掲載されていましたので、まとめとして載せます。

「ルールがマナーに変わっていてほしいです」


[182] 子ども・生徒に対しての愛おしさ 投稿者:教員休職中 投稿日:2007年12月07日 (金) 12時44分
最近、自分の辿ってきた足跡を振り返ってみる事が多々あります。「自分は何故教師を目指したのか」「何故教師になりたいと思ったのか」

前向きな発想で教員を志すタイプは二つに分けられるように思います。
1)「子ども・生徒を、ありのままの姿で純粋に愛おしく思っているタイプ」
2)「子ども・生徒を育てていくことに生き甲斐を感じ、その中から愛おしさを感じ ていくタイプ」
ここではあえて「でもしか○○」「とりあえず○○」等の考えから目指されたケースは割愛します。

私は(2)後者の割合が強いのでしょう。(1)のスタンスで気持ちがわき上がってくるような方には、温かさに感動したり、尊敬すら覚えます。ただ、子どもを受け入れるだけでなく「集団の中の一員としてのモラル等」をしっかりと伝えられていなければ、見方は変わってしまいます。「単に甘いだけのタイプ」だときっと思ってしまうのでしょう。

(2)の視点は誤解されると困りますので「当てはめ指導」「画一的指導」等の単純な理解はご遠慮下さい。
この方向性は「教師」と「子ども・生徒」が目指す方向性が一致している時には大変な力が出てくると思っています。きっと相乗効果で「生徒」も伸びるし「教師」も伸ばされる。私自身はこちらに近いタイプだと思っていますので、悩む事等も多々思いつく事にはなります。
目指すものは「教員側で提示するような時と」「教師・生徒共にで考えて出した方向性」等の種類はありますが、共通に納得できる理解の元に運営されれば素晴らしい「成長」が期待できると思っています。「教師を含めてチームとして育った」感じでしょうか。成長を教師と子ども・生徒が共有することによって互いに愛おしさが増大していく。

こう考えると(1)が「無条件の愛おしさ」に対して(2)は「じわじわ生まれる愛おしさ」のようにも分けられるかも知れません。

ここで、そんな自分は「何をできたら良いのであろうか」「自分は何を目指したらよいのだろう」等を自問自答します。色々と足跡を辿って大切なものを「ふるい」にかけるように一番最後まで残る「思い」を探していく感じです。

「愛される人になって欲しい」「信頼される人になって欲しい」「幸せになって欲しい」・・こんな感じかも知れません。

親ではないので、ずっと一人ひとりの「子ども・生徒」に関わっていく訳ではありませんが、こんな気持ちの元に「色々と手段・切り口」を考えているのでしょう。

「愛される人」・・人に対しての思いやりや、優しさ、相手を理解しようとする気持ち、互いに尊重し会える気持ち、・・
「信頼される人」・・礼儀を大切にできる、平気で人をだましたりしない、人をバカにしたりしない、嘘をつかないようにしている、・・

「幸せになって欲しい」に最後は繋がっていくのでしょうか・・?

それぞれの子ども・生徒が少しでも「幸せになるために」自分なりの尺度で大切だと思う事を伝えていくこになっていくのでしょうか。・・大変に難しい・・あまり強く持ちすぎると「何様!」神様でもあるまいし、・・しかし「考えが硬くなって行く」少しでも+になるよう自分なりの方法を見つけて関わる。関わりが濃くなり「愛おしさを増していく」・・

しかし価値観の多様化する現代

「幸福感」も多様化しているとも言えるのでしょう。自分の「思い」はナンセンスなのかも知れない。ただ、そんな生き方をしていたら「幸せにはなれないであろう」等の状況が多々見られて、それらの内容にぶつかって行く
・・子ども、生徒は「自分の思いを通す事に幸福感を持っているかも知れない」「ほっといてくれ」「自由にさせてくれ」・・「今の気分の良さだけを考えたような言葉が返ってくるかも知れない。」
「親も高学歴にする事が子どもの幸せになる」「他の子どもさんよりも自分の子ども」「自分の子どもを勝たせたい」・・
「先生方の中にもそこまでは求めすぎだよ」「ハードルが高いかな」「そこまでは理解できないであろう」・・

こう考えると自分の「幸せになって欲しい」と思う考え方自体が「エゴ」なのかとも思えてくる。







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