[65]jessica
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2004年07月04日 (日) 14時34分
ギリシア世界
@エーゲ文明(青銅器文明)
A.クレタ(ミノス)文明 紀元前2000年〜紀元前1400年 ギリシア系ではない先住民族 ↓ 中心地はクレタ島のクノッソス ↓ ↑イギリスのエヴァンズが発掘 ↓ 特色としては平和で明るい海洋文明で ↓ 海上貿易を行っていた ↓ 文化は絵文字と線文字A(未解読) ギリシア人の一派のアカイア人が破壊した?
B.ミケーネ文明 紀元前1600年〜紀元前1200年 アカイア人中心 ↓ 中心地はペロポネソス半島の ↓ ミケーネ・ティリンスが中心で ↓ ドイツのシュリーマンにより発掘された ↓ 特色としては力信仰があり好戦的で ↓ クレタを模倣したようだった ↓ 文化は線文字Bでイギリスの ↓ ヴェントリスが解読済 後にスパルタをつくる、ドーリア人の侵入により滅亡
・トロヤ文明 紀元前26世紀〜紀元前15世紀 民族系統は不明 クレタ文明の影響、シュリーマンが発掘
Aポリスの成立と発展
紀元前8世紀頃にポリスの形勢 有力な人々、つまり貴族が主となり、 アクロポリス(城山)とアゴラ(広場)を中心に 集住(シノイキスモス)して建てた独立の 小都市国家
ギリシア人は同族意識が非常に強く、 自分たち(同民族)をヘレネス、 異民族をバルバロイと呼んでいた。 ギリシア人共通の民族意識の自覚は、 共通の言語(ギリシア語)・宗教(オリンポスの 12神)やオリンピアの祭典、デルフィの神託、 オリンポスの12神の話を書いた詩人のホメロスの 詩を信じていたことからできたと考えられる。
人口増加と土地不足に伴い、植民市の建設を行った。 例として、現在はイタリアのマルセイユである マッサリア、フランスのナポリであるネアポリス、 イスタンブルであるビザンティオンがあげられる。 ↓ このことにより、貿易が拡大し、商業が発展して、 平民が富裕化し武具の価格が低下して、 平民主体の重装歩兵が誕生した。 それまでは軍役の義務は参政権を得るための条件 としてあったものの、武具は自弁で平民の武装は 不可能であり、貴族(重装騎兵)が政治を 独占していた。
★スパルタ ・ドーリア人が商工業に従事し、自由だが参政権が 無く、軍役の義務があるペリオイコイと、 奴隷身分の農民であるヘイロータイ(ヘロット)を 支配していた ・リュクルゴスの制という、国防やヘイロータイの 反乱防止のための軍国主義的な生活規定があった
Bアテネの民主政
貴族の第一人者の王政だったが、オリエント的な 専制君主ではなかった ↓ 貴族が政治の独占をしていた貴族共和政と なったが、重装歩兵が戦力の中心になったことに より、平民が参政権を要求した ↓ 民 ・紀元前621年頃にドラコンの立法により慣習法が 成文化された 主 ・紀元前594年頃、ソロンの改革として、市民の 奴隷化防止のために債務の帳消しと財産に 政 応じた権利と義務の財産政治が行われたが、 失敗に終わった へ ・紀元前561年〜紀元前528年にペイシストラトスの 独裁、要するに 主政治が行われた の ・紀元前508年にクレイステネスの改革として、 貴族勢力の抑止のために政治改革が、 流 主の出現防止 のために陶片追放制度 (オストラシズム)が行われた。 れ
Cペルシア戦争(紀元前492年〜紀元前449年)
契機としては、イオニア人植民市のミレトスの アケメネス朝ペルシアに対する反乱があげられるが、 真の原因としては、地中海・黒海の商業圏をめぐる アテネ等とアケメネス朝ペルシアに保護されていた フェニキア人との対立があったと考えられる。
経過 ・第一回遠征では、ダレイオス1世が艦隊派遣する も、上陸直前に嵐に遭い、撤退。 ギリシアの不戦勝となる。 ・第二回遠征では、ダレイオス1世がギリシアに 臣従を要求したが、アテネが拒否したため、 紀元前490年にマラトンの戦いがあり、 アテネが勝利した。 ・第三回遠征では、ダレイオス1世の息子、 クセルクセス1世が親征を行った。 ・紀元前480年にテルモピレーの戦いで スパルタ軍が全滅するも、 スパルタはその強さを証明した ・同年の紀元前480年にサラミスの海戦が 行われた。開戦の前にデルフィの神託で 「木の壁を作れば勝てる」と受けていた アテネは、テミストクレスの 「木の壁は船だ」という言葉により、 ポリス中から船を集めていた。 無産市民がこぎ手として参加していた。 アテネの勝利に終わる。 余談だが、その後テミストクレスは 陶片追放を受けて激怒し、 アケメネス朝へ亡命した。 ・翌年、紀元前479年のペラタイアの戦いで ギリシア連合が勝利し、 カリアスの和約が結ばれた。
結果、ギリシア側が勝利し、影響としては、 サラミスの海戦でこぎ手として参加した無産市民の 活躍により、自由民(市民)が参政権を得た
★アテネの民主政完成期、ペリクレス時代 ・デロス同盟でアテネが盟主となり約200の ポリスが加盟していた。 盟主となり調子に乗ったアテネにスパルタは 敵対心を抱いていた。
・民会は最高の議決機関であり、参政権をもつのは 18才以上の男子市民で、直接民主制だった ・公職はくじ引きで選出され、将軍だけは 例外として選挙で選ばれていた。 アテネの民主制完成期が、ペリクレス時代と 呼ばれる由縁はペリクレスが15年間連続で 将軍に選ばれていたからである。 *ここで誤解してはいけないのが、民主制とは いえど、その土台に奴隷制だということである。
続き〜
[67]jessica
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2004年07月18日 (日) 10時01分
Dポリスの衰退 ・ペロポネソス戦争(前431年〜前404年) アテネ vs アケメネス朝が押すスパルタ ↓ スパルタの勝利。 しかし次にはスパルタが調子に乗り、 他のポリスに自分たちの政治性を強制したが、 当時民主制だった彼らには受け入れられなかった。 ↓ ・レウクトラの戦い(前371年) スパルタ vs アケメネス朝が押すテーベ ↓ テーベの勝利
しかし、ポリスは衰退していく。 理由として、絶え間ない戦争による、 農業の荒廃と自営業の没落によって、 武具の自弁が不可能となり、 自分たちのポリスは自分たちの命をかけて守る というギリシア人の誇りが崩壊した。 これにより、重曹歩兵の崩壊を招き、 傭兵が普及した。 この時に行われた政治形態は、 調子の良い民衆のご機嫌とりをする デマゴーゴスという扇動政治家によって 行われた民主政治の堕落した形で 衆愚政治と呼ばれる。
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