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ロンボク好きの皆様の掲示板(含・インドネシア各地)です。初めてロンボクへ渡る方の質問も大歓迎ですよ…(^O^)…(2001年5月21日開設)





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★★★kirakiraコテージ「さんご礁にかこまれた白いビーチと太陽の光とともに刻々とブルーを変えていく澄んだ海。色とりどりの魚とたわむれたり、ハンモックに揺られながらお昼寝したり、そして夜には波の音をききながらまんてんの星空をながめて。。。そんな休日はいかがですか?」

※INDONESIA LINKに掲載させていただきました…2001-5/29

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[414]イスラム文明拝見 - 言葉の価値(1/2) -------- hori - 2004年05月31日 (月) 10時32分 -

04/5/31【智慧コラム】より

■言葉の力

イスラム文明では、「言葉」のもつ力を非常に重視しています。

「アッラー」からの啓示を自民族の「言葉=アラビア語」で受けられたという誇り、啓典を受けられる民族であるという誇り、はもちろんですが、「言葉」に対するイスラムの人々の感じ方には、砂漠地帯に住むという自然環境からの強い影響を感じずにはいられません。

砂漠は、見渡す限り空と砂ですから、物質的な豊かさというものは何もありません。

ですが、

砂漠の好きな人がよく、「砂漠は豊かだ、無一物即無尽蔵を感じる」と逆説的な言い方をするように

砂漠にあるのは、空と、砂と、向き合う自分という人間だけに限定されるために、むしろモノという不純物がなく、人間のもつ精神の豊かさを実感するようなのです。

人間の精神作用、つまり、思いや言葉、ビジョンは、何不自由なく、とめどなく出てきて無尽蔵なわけです。

この精神の働きは、目に見えないものですが、人間を動かす大きな力を持ち、言葉を介して「アッラー」とつながることも可能です。

ですから、イスラムの人々は元々「言葉」に宿る力=日本で言う「言霊」を重視してきました。

7世紀頃には、カアバ神殿に「詩人」も偶像として祭られていたとあります。

調べてみると、イスラム文明では、詩人の社会的地位が非常に高いのです。

人の魂を打ち精神を高め、浄化する「詩=言葉」を聞くことは、地上での最上の贅沢のひとつであり、真実を穿つ美しい言葉を詠ずる詩人を雇うことは、大変なステイタスなんです。

恋の詩、敵を嘲る詩、などなど。詩の優劣は部族の名誉にかかわるものであり、1年に1回、詩の競作大会を開催して詩人を育成していた、とあります。

部族間の戦争時にも、

まず、お互いの雇う詩人が歩み出て、言葉による戦闘を行い、それで説得力があり、兵士たちに感化を与えたときには勝ってしまうというものです。

あれ、何か、ピンと来ませんか?

去年のイラク戦争で、劣勢にもかかわらず毎日大々的に「ほら」を吹き通して、「コミカル・アリ」と言われていた、あの人物。元フセイン政権の宣伝相。

あれは、ひょっとするとイスラム伝統の「詩人による舌戦」を担ったものだったのかも...。

また、

偶像禁止により絵画・彫刻・写真・映画・宗教音楽がないのに加えて、

「アッラー」の「言葉」は、それだけで、特別な力があると信じられていますから、美しいアラビア文字のカリグラフィー=書芸術として発達していきました。

この書芸術を見ると、書体による表現の幅、平面デザイン感覚など、案外、日本の書道やジャパン・デザインの平面性との接点があって、感覚的に理解しあうことは可能だな、と思えてきます。

メッカのカアバ神殿(=巨大な長方体の建物)を被う布には、コーランの語句が金糸で縫い取りしてありますが、毎年、メッカ巡礼行事終了後に、30センチ幅程度に小割りにされ、イスラム圏各地のモスクなどに送られていくのだそうです。

さらに、アッラーの「言葉」を集めたコーランは、朗誦されるべきもの(=クルアーン=コーラン)として位置付けられ、こちらも音楽的な芸術にまで高められていきました。

が、このコーランを各国語に翻訳することはご法度でした。現在ではさすがに各国語への翻訳は、許可されていますが、あくまで訳本は解釈本にすぎず、コーランそのものではない、という位置付けです。

コーランは神の言葉そのものだから、それを他言語に置き換えることなどはできない、不敬である、とされているようです。
↓↓


[415]イスラム文明拝見 - 言葉の価値(2/2) -------- hori - 2004年05月31日 (月) 10時36分 -

■コーラン検証

すっかりお馴染みになったイスラム教徒のジハード(聖戦)=自爆テロです。

なぜ、あのように武力・暴力を肯定しているのか、を眺めてみます。

イスラム教徒のすべての行動は、「アッラー」が人間マホメットを通して与えたコーランから出てくるのは、間違いないことです。

というのも、「アッラー」の言葉、啓示を受けたマホメットの言動を踏襲することは、イスラム教徒の模範とすべき姿だからです。

そこで、コーランを調べてみました。

「日本ムスリム協会  日亜対訳注解聖クルアーン」ホームページにあるコーラン日本語訳を使用させていただきました。
http://www.isuramu.net/kuruan/index.html

このホームページに付いていた検索機能を使い、コーランの中に出てくる「聖」と「戦」と「努」を検索すると、

「聖」は65箇所
「戦」は89箇所
「聖戦」は5箇所
「努」は44箇所  ヒットしました。

「聖戦=ジハード」⇒自爆テロ。元々は、「神の道に奮闘努力する」という意味を表わす動詞だそうです。

コーラン自体は、全7,800語、114章に分かれ、折々にマホメットに下された啓示を並べたもので、体系的に語られたものではなく、ストーリー性もありません。文字量もそんなに多くはありません。

その中で、この「戦う」言葉が本当に頻発しています。不信心者との戦い、多神教徒との戦い、アッラーの道のために戦い、アッラーを認めない者は敵であり、その敵と戦え、自分の弱さと戦い奮闘努力せよ、とまあ、よく「戦う」経典です。

これを日々学んで、戦わなかったら、むしろいい加減なイスラム教徒だろうと思われます。それが、筆者の素直な感想です。

彼らは、この教えに忠実に、現在でも方々で「戦って」いるわけです。それは、間違いありませんね。

しかも、ジハードで武運つたなくあの世へ行けば、天国に行くことも書いてありました。だから、ジハードが止まないんですね。「行動することは、信仰を正しく実践する」ことでしょうから。

イスラム教徒たちの書いた資料も読みましたが、

彼らは、自分たちが誤解されていると嘆き憤っています。イスラム教徒は平和を求めていると。イスラムの意味は「平和」「帰依」を表わしている宗教だと。

ですが、その「平和」は黙って天から与えられるものではなく、自ら入手するものだと理解してますから、武力、暴力、戦争が絶えません。

彼らの言う「平和」は、俗世の形としての平和ではなく、人々の心の中の平和を指しているものだそうです。

部外者から見ると、そんなに「平和」を求めているなら、なぜ戦争しているのか? というところですね。ここが、水掛け論になり、決定的に見解の分かれるポイントです。

コーランを読んでみて、マホメットという人は、商業に明るく、軍事的才能に秀でた、政治家というような、多面的な人物なんだろうというのがわかります。

日本でいえば、織田信長が「アッラー」から啓示を受けたような、という評価があるのももっともな気がします。

共に、軍事能力が高く、商業センスがあり、次の時代を拓いた政治家です。織田信長の方は比叡山の僧兵を焼き討ちにして物議を醸しましたが..、まあ、その織田信長が「アッラー」から啓示を受けたような感じが、けっこう近いのかもしれませんね。

少なくとも、弱者を救う、といった宗教指導者のイメージではありません。

マホメットがメッカで布教を開始したときに、同族の多神教徒たち=つまりメッカの有力な商人一族たちから攻撃され、一旦、メディナという街に退避して、その後にメッカに攻め上って勝っていることから見ても、(これが最初のジハード=聖戦ですね)

砂漠のアラブ人たちの勝ち負けの感覚は、元々他の文明圏よりも激しく、それが通常の姿なのでしょう。

生き物を「殺すな」と仏陀が教えている仏教の文明圏では、仏教徒は殺生をしないようになりますから、これはもう、「戦え」というイスラム圏とは対極にある世界になるはずですね。

こうして眺めてみると、僭越ですが、

? これしかない! という唯一絶対のアッラーの教えと、
? マホメットに代表される戦闘性の高いアラブの布教方法で、

イスラムの人々が自分たちの首を絞めているのは、確実なようですね。

ここから、21世紀のイスラム過激派が育っているわけです。世間が狭く純粋な青少年が、イスラム原理主義、イスラム過激派、自爆テロへと進むのは、簡単だろうと思えます。純粋な「アッラー」への信仰を行動で表わすには、「ジハード」は甘美な口実です。

ジハード決行を最後に後押しするもの、それは、お金です。

この地域は最貧国地域で年収は1人100ドルに満たないほどです。ジハード者には、1人25,000ドルが家族・遺族に支払われていたそうですが、フセインも、ヨルダンのアンマンに支払い用の特別口座を開いて、イラクの国庫からジハード用資金を供給していたのだそうです。

だから、貧しいほど、ジハードが魅力的に映ります。信仰も大義も立ち、お金も、天国も保証されていますから。

これを乗り越えていくには何が必要になるのでしょうか? この問いは続きます。

来週は、混沌きわまるイスラム政治の基礎を眺めてみます、お楽しみに


[418]イスラム文明拝見 - コーラン政治-------- hori - 2004年06月07日 (月) 11時12分 -

■イスラムの政治
イスラム世界では、マホメットが「アッラー」からの啓示を受けて、唯一神信仰を説き、地上の人間の生き方(イスラム共同体)全般を説きました。

これは、神政一致=祭政一致の政治と言われます。つまり、「聖」と「俗(政治、軍事)」が渾然一体化しているということです。

日本でも、天照大神、卑弥呼の時代など、定期的に神降ろし(=ご宣託)をして政治の判断・方向を伺い、それで地上世界の政治を行っていたのと基本は同じです。

そのマホメットが西暦632年に亡くなり、以後、地上のイスラム世界には宗教的権威の中心は存在しないと言われます。これは、どういうことかと言うと、

つまり、唯一神の「アッラー」がいて、地上にはイスラム教徒として平等な個人個人の集りと、コーランだけが残されたということです。

宗教と政治と軍事が一体化していますから、

残された人間たちにとっては、「正しい信仰とは ⇒ 正しい信仰を実践することであり ⇒ 正しい政治を行うこと」となり、「政治」を、「正しい信仰の実践のための手段とみる」のが、イスラムの政治の特徴となっていきました。

「政治」は「信仰を行動で表わしたもの」ですから、

以後、イスラム世界では「宗教紛争」と「政治紛争」は渾然一体のものとなり、常に「後継者」を巡って合い争うことになっていきました。

イスラムの政治は、「正しい統治者のあり方」をめぐって揉め、「誰を政治の指導者 = つまり、正しいイスラム信仰の実践者として戴くか」という1点で動くのが、特徴です。

スンニ派、シーア派、ワッハーブ派..などなど分裂しますが、すべて、後継者争いから発生した分裂です。

ですから、「各派」は、欧米・日本社会でいう「信仰を持った政治団体」と同じような働きをすると見てよいと思われます。

TV画面で、シーア派住民のデモ..などなど映りますが、欧米・日本社会の一般人デモより、もっときわめて「信仰+政治」行動なんです。

個人個人の行動は、「口コミで情報を知らせる」「石を投げる」「銃を発砲する」ことかもしれませんが、その行為はその個人の「信仰+政治+軍事」行為なんです。

イスラム教は、よく「行動する宗教」だと言われるようですが、

アッラーの定めた善行(=聖戦も含めて)を行うことが求められ、心の中だけで神を信じているということはありえないのだそうです。

ホメイニ師、サドル師、OOO師..という宗教指導者が常にそれぞれの自派の人々をリードしていきますが、一般の人々よりOOO師が上位に位置するという上下観では見ていないようですね。

まず、共に人間として、アッラーの下に平等であると見ていて、イスラム法学者としてより専門的にアッラーの教えを深く理解している人、解釈する立場にある人、という立場なんだとか。

一般のイスラム教徒は、難しい問題は、自分の独断で物事を判断することはなく、この専門学者の解釈に従うことになっています。

ですから、人質事件も、このイスラム法学者の解釈と判断が発されると、誘拐犯たちもほぼ従うわけです。

サドル師がリードする民兵たちも、イスラム法学者シスターニ師が新たに発足したイラク暫定政権を承認したら、もう撤退するしか取る道はないわけです。

■部族主義
イスラム圏が部族社会を捨てて、または捨てずに、民主化するものでしょうか?

イラク民主化の足かせになっている、と欧米・日本などから見られている「部族社会」を見てみます。

いろいろな資料を読むうちに、

アラビア半島の砂漠地帯の自然環境はほんとうに過酷で、その中で生き抜く智恵として、代々この部族主義を取らざるをえなかったのだなあ、と思えてきました。

温帯地域に住む人々とは、基本的に自然に対する感じ方が違っています。

温帯では、人間が何もしなくとも、自然は恵みを与えてくれるものです。
太陽が照り、豊かな大地には周期的に雨が降り、植物が自生し、実りをつけ、人間にも収穫を与えてくれる。

これに対して、砂漠地帯ではこうなります。

犯罪人を罰するときには、犯人から服を剥ぎ取り、丸裸にして砂漠に2〜3日放置すれば、人間が何もしなくとも苛烈な太陽が刑を執行してくれる。

水のあるオアシスから一歩出れば、そこは無人の荒野であり砂漠です。こうした砂漠では、水がなければ人間も動物も、植物も、非常に非力でか弱い存在です。その非情さを痛感しているのだと思います。1日、2日と水がないだけで、生命が持ちません。

そうした中で放牧し、交易をし、家族を養い、人生を生き抜いていくには、リーダーの判断が生死を分けます。自分ひとりで砂漠を乗り切れないなら、優秀なリーダーの判断に従う以外に、生き残る道はなくなります。個人の自由の範囲は非常に狭くなります。

アラブの砂漠では、個人が1人の人生を全うするとして、人生全分野の知識と技術と判断力、体力に秀でていたとしても、オアシスを束ねる部族と親交がなければ、水1滴手に入りません。人は、万能ではありませんから、部族を離れてはどんな助力も得られません。

人は何がしかの部族に所属することなく、生きることができないわけです。

アラブでは、「砂漠にはたわわな樹木の姿はない。唯一あるのは、家族樹という豊かさだ」という考え方があるそうですが、

過酷な砂漠の地で生きていくには、何より人間の結びつきが大事なわけで、イザというときに助けてもらえる身内が何人いるかが、暮らしやすさや繁栄、情報、交易、安全保障に直結します。

ですから、

アラブ女性は、多産が奨励されます。徹底して、多産で母性的な女性とその生き方が理想とされています。太閤秀吉の「千成り瓢箪」のように、家族樹が子沢山でたわわになる姿が、アラブ部族社会のひとつの理想形なのだと思われます。ちなみに、日本の出生率は1.34ほど、パレスチナのガザ地区では6.6にもなります。

よそ者が、オアシスのある部族に入りたいと来た場合は、その部族の長がOKを出してはじめて泊まれますが、いきなりその部族の者ならどの家にも泊まれるものではなく、

その部族家系樹という身内のどこかに位置付けられるか、部族家系樹から外れた場所にテントを張っても良い許可が出る。というものだそうで、かなり厳密な区分があるようです。

こういった部族家系樹の配置は、戦闘時の戦陣の組み方にも忠実に出ているのだそうです。

ですから、

この家族樹での名前の付け方は、徹底して父方を延々と遡っていきます。
民族の祖先のイブラーヒーム(=アブラハム)まで、理路整然と父方の名前を辿れるほどすばらしいのでしょうね。

本人、父、祖父、曽祖父、...→....イブラーヒーム(アブラハム)=アラブ民族の先祖

日本の「寿限無(じゅげむ)〜」も顔負けで..通常は使いづらいので、現在、サウジアラビアでは本人、父、祖父、(部族名 or 家族名 or 出身地名 or 職業名を1つ)長くとも4つ程度を並べるだけだそうです。

「オサマ・ビンラーディン」と通例呼ばれるテロリストは、

「ウサーマ・ビン=ムハンマド・ビン=アワド・ビン=ラーディン」を縮めた呼称で、本人名+父+祖父+家族名で構成されていますが、

この「ビン〜」自体が、「〜の息子」を意味し、サウジアラビアでは、「誰それの息子=ビン〜」と名乗るのが通例なのだそうです。ラーディン氏から分かれた男性子孫はみなビンラーディンを名乗っていることになります。

大物テロリスト(アルカーイダ No.2)として名前が出る「アイマン・ザワヒリ」も、

本名は別にあり、今では最後に付けた出身地名「=ザワヒリ」だけを強調して呼ぶようになって、犯罪界にデビューしているわけです。

ですから、旧約聖書などの冒頭で、誰の子どもが誰で、誰で、誰で、誰で、..と延々出てくる記述は、父方を継承する部族家系樹のアラブ独特の由緒正しい表現方法なんでしょうね。

筆者は、この名前の列記箇所で気絶してしまい、一度もその先に読み進んだことがありません。

まあ、懸案のイラクの民主化ですが、民族の出自にまで遡るアラブの部族主義を乗り越えていくには、イラク側にも欧米・日本側にも、相当の覚悟と忍耐が必要でしょうね。

部族主義が用を為さないような事態となってからでないと、民主化を受け入れる気持ちにはならないかもしれませんね。100年、200年のスケールで少しずつ染み渡っていくのではないでしょうか。

来週は、6月末に迫るイラクへの主権委譲の山場を中心に眺めてみます。
お楽しみに



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