↓(じゃかるた新聞)2004年11月4日より
テロリストの系譜(上)
爆弾テロが後を絶たない。インドネシアではスハルト政権崩壊後、各地で小規模の爆弾事件が頻発したが、二〇〇二年十月のバリ島爆弾テロ事件以降、大規模な殺傷を目的とする自爆テロに変質した。今年九月には豪州大使館爆弾テロが発生、警察は東南アジアの地下組織ジュマ・イスラミア(JI)の犯行と断定し捜査を進めているが、自爆テロ要員のリクルートはいまも続けているとみられる。JIとは何か。識者や関係者の話からテロリストの系譜を探る。
西ジャワ州スカブミ県クボンペデス郡クボンペデス村。首都ジャカルタから約八十キロ南東にある村は、田んぼのすき間で民家が肩を寄せ合うように密集した、ジャワの典型的な農村だった。
今年九月九日午前十時半、爆弾を積んだ軽トラックに乗り、南ジャカルタ・クニンガンの豪州大使館前で自爆したヘリ・ゴルン(三〇)はこの村で生まれ育った。
事件後、クボンペデス村に住むゴルンの父ディディン・ライディンさん(四九)と母アナ・ハサナさん(四二)を訪ねた。古びた家屋の居間には、何度も新聞に掲載されたゴルンの顔写真が掛けられていた。
■「息子の遺体を返して」
ゴルンは地元のイスラム系中学卒業後、ボゴールのガラス工場に一時就職した。結婚したがすぐに離婚。バタム島の建設労働に半年間従事するなど、転職を繰り返した。
一九九五年、村に戻り再婚したが、ゴルンは一年ほど前から過激な思想を口にし始めた。ディディンさんは回想する。
「ある日、『イスラム教徒の国であれば、イスラム法(シャリア)を施行すれば良い。パンチャシラ(国家五原則)は、何のためにあるのか』と息子に聞かれた。ただ驚くばかりで答えを返せなかった」
そして今年五月、「何か過ちがあれば、心からお詫びしたい」という手紙を残し、ゴルンは姿を消した。その直前に所有する木を売却し、借金をすべて返済している。ディディンさんは「息子が当時、村に戻る遺志がなかったことに父として気付くべきだった」と唇をかむ。
事件後の連日の取り調べ、遺体のDNA鑑定のための血液採取、マスコミの対応に追われ、憔悴したアナさんは「警察が保管している息子の遺体の一部でも返してほしい」と涙をにじませる。
■元活動家の説教に影響
クボンペデス村の一つの変化は、一九九八年、アミン(四九)という説教師が移り住んできたことにある。
アミン師は語る。
「ゴルンは私の説教を熱心に聴講する住民の一人だった。私は過去十年ほど、ダルル・イスラム(DI)運動に参加したことがあるが、ゴルンは当時の話を熱心に聞きたがった」
DIは、五〇年代に国内で隆盛したイスラム国家建設運動。西ジャワはカルトスウィルヨという指導者の下、激しい蜂起があった。運動は六〇年代前半に鎮圧されたが、アミン師のような思想的継承者はジャワ各地に散在する。
アミン師はまた、JIの精神的指導者とされるアブ・バカル・バアシル師と二〇〇〇年にジョクジャカルタで会ったこと、JI軍事指導者のハンバリ(米当局が拘束中)はチアンジュールの同胞で、古くから面識があることを認めた。
自爆テロ犯ゴルン、イスラム国家建設運動、JIを結ぶ点と線が、一人の説教師を通じて浮かび上がる。
■6人が今も行方不明
アミン師は警察の調べに対して、JIとの関係は一貫して否定している。
しかし、転職を繰り返し、恐らく社会に対して大きな失意を感じたゴルンが、アミン師の説教を通じ、過激思想に自己の存在価値を見出したことは間違いない。
警察の捜査によると、ゴルンと同時期、他に六人がクボンペデス村から姿を消し、ロイスというJI幹部(いずれも指名手配中)に率いられジャワに潜伏している。ゴルンは六人と親しく、グループの一員だった可能性が高い。
この六人の中から、いつ第二のゴルンが生まれるのか。さらに言えば、イスラム国家建設運動という歴史的背景がある西ジャワで、失業にあえぐ無数の若者がいる限り、「ゴルン」は永遠に存在し続けるのではないか。