タイで最も津波の被害を受けたプーケット島は人口約30万人弱。歴史的にはインドと東南アジアの結節点として重要な役割を果たしてきたため、インド系、マレー系、中華系も多く住む島である。ヒンズー寺院では漢字混じりの線香が使われ、タイ人がお参りに来るなど、当地の寛容さを肌で感じることができる。
タイは出稼ぎ労働者の送り出し国でも受け入れ国でもある。タイで就労する外国人労働者は2002年現在、政府に登録した者で43万人、非合法労働者で50万〜120万人といわれる。ほとんどはミャンマー人で治安の悪化から逃れるため、ブローカーを介してタイ北部の山を超えチェンマイを基点に全国に散らばっている。男性は漁業、農業、製造業、建設業に従事し、女性は製造業や家事労働に就いている。
2001年、タイ政府は彼らの就労を認める代わりに登録を雇用者と労働者に求めた。しかし登録料や医療保険料の負担が必要なため、実際に登録しているのは一部で、多くは摘発を恐れながら働いている。
ミャンマー人はプーケット島でも多く就労していた。しかし犠牲者の数などはよくわかっていない。彼らは津波のあと家財道具や犠牲者のポケットなどから現金などをあさる「火事場の泥棒」として報道されていた(ただしこれはミャンマー人だけのことではない)。またある者は職を失い、津波を恐れてミャンマーに戻ったともいわれる。一方、プーケットの地元紙は約3,000人のミャンマー人が摘発と強制送還を恐れてゴムのプランテーションに隠れていると伝えている。人権団体は登録証の再発行と食料支援、医療支援を求め、未登録労働者に対しても寛大な処置を求めている。
プーケットにはモッケンと呼ばれる島々の移動を繰り返してきた少数民族がいる。一説によるとミャンマーあたりから移動してきたというが、言葉を聞くと明らかにマレー系である。彼らは40年以上前にプーケット島の中心地近くの風向明媚な海岸沿いに定着し、主に漁業を生業としてきたが、経済発展とともに都市部で働く者も増えてきた。
津波当日、第一波は突然やってきた。すぐに住民は聖地がある小高い丘に逃げ、第二波が来るまでの数十分は静けさを取り戻したという。その間、ある者は取り残された高齢者を助けだし、ある者は家財道具などを取りに帰ろうとした。ところが島の南部から第二波が来たという携帯電話の連絡があり、慌てて丘のより高い位置まで避難し成り行きを見守った。より大きな第二波で家々が倒され、船は集落に打ち上げられ、背後のマングローブ林からも波が到達し、集落は前後から波を受けたという。被害は集落ほとんど全世帯に及び、全壊9戸、100戸以上が何らかの被害を受け、隻の漁船も損害を被った。当日は周辺を歩くことさえ困難で、集落の者はパニックのまま近くの丘の上にたつ寺院に寝泊まりすることになった。救援物資はその日のうちに届き食事の問題はなかったという。ある者は4日間寺院で寝泊まりしながら、復旧作業を行ったという。
津波から1カ月後、多くの家では流されてなくなってしまったドアを取り付け、家電製品を撤去し、新しい家の建設を始めた。欧米のキリスト教系団体も現地入りし、高齢者や障害者が居住する家の建設を手伝っていた。壊れた船は修理され、政府の支援で新しい船に変わった。家々の修復も進みちょっとした堤防も建設されつつあり、建設関係者は復興景気を感じていた。先の選挙でタクシン首相率いるタイ愛国党が圧勝したのも国民が迅速な復旧を行ったからだと指摘されている。
ただ住民は不安も抱えている。津波による経済損失以外に心理的な影響を受けた者もかなりいる。またタイ政府は集落の裏手に24戸の住宅を建設中で、海沿いの家屋の移転を計画しており、海岸部のリゾート転用が伝えられている。漁業が衰退し、都市で就労する住民が増えているとはいえ、一部の住民は移転に強く反対している。
ある住民は今回の地震について、「急に海が干上がったら丘に上がるようにという祖先からの言い伝えがある」と言った。海に住んできた彼らにとって、実は津波は初めての経験ではない。でも彼らが津波の第二波のことを知ることができたのは携帯電話の連絡を受けたから。「私たちは移動をやめ海を忘れつつある。でも完全に忘れたのではない。海沿いに住むことを希望している」と締めくくった(NNA)。