唄いたくて仕方ないのですがどうすれば良いのかわかりません。
唄を唄う。身体の中にいる唄の人が「私に唄わせて」と言う声が聴こえる。ただ唄いたい。唄えなくて悔しい。唄う人達がすでに沢山いるから、私は唄ってはいけないのだろうか。私が唄いたいと願い、自分の存在場所を探し、自分に必要な音楽を求める。それはそんなにいけない事なのだろうか。オリジナルの曲が完成し、5オクターブの発声がある事に気がつき、公園でアフリカンが叩くジャンべに身体は独りでに反応した。別にジャンべを叩くのがアフリカンでなくても自然界に元からある、例えば体内リズムといったようなものに近しく、私の性質と相性の良いリズムがナチュラルに表現されていればそう意識などせずとも、私が思考せずとも身体や音は勝手に反応する。そうした反応のまま、音楽を表現したい。40歳も過ぎて、そう願うのはそんなに妙な事なのだろうか。人に合わせる事が最優先のこの国では。いつだって続いている事の方が絶対的に優先されるのだろうか。
元々唄う事は好きだったけれど。ある日、あるサキソフォンを聴いて唄の教室を探す必然性を感じた。ジャズボーカル教室に通い、初見の楽譜から英語歌詞とメロディを馴染ませる方法を知った。そこで英語の発音で唄う事の心地良さを知った。合唱団に通い、ハーモニーで唄う事の心地良さを知った。音楽理論などを教えてくれる教室に通って、ジャズやブルーズの、音楽理論を構築する前からその中にすでにあったある種の理論性に感心し、しっかり知識として自分で構築はできないけれども、その昔、そうとは知らずさんざんに聴いた音楽達のおかげで少しはそうした感覚が身体に馴染んでいるもんだと、その音楽を聴いた時に自分の無意識の反応で気付いた。突然、音楽を始めたと自分でも思っていたけれど、記憶にない程の昔、実際はそうした頃、自分で意識的に音楽を聴き、付合いだとか、仕事だとか、生活や、あらゆる事が音楽を聴くためにあった頃よりもその昔の頃の体験があらゆる事の基礎になっているような気がする。それは「三つ子の魂百まで」というみたいに音楽に限らずだけれども。
私はただ唄いたいんだ。もっともっと。
神様どうか。
いっそどこだか知らぬ離島で自然を相手に唄う事など・・・
なんちて(笑)。
でも都会のビル群(なんて今どき言うかよ、笑)の真ん中の陸橋の上で唄いたかったりもするんだが・・・。
って、アンタ誰だよ!?
(笑)
ともあれ。
私には何もかも解らない事だらけです。