とはいえ、日本で外来語っぽく定着している「テンションが高い」って意味のテンションではなく。日常に溶け込んでいる「テンションが高い」ってのは言うなれば・・・「この人、穏やかで謙虚だなぁ」と思っているある方が「興奮症」という単語(造語だと思うのですが、よく本を読まれている方って、この手の「言い得て妙」な的確な表現を作っちゃえるもんですな)を使ってましたが、まさしくソレかと。いうなれば・・・。事象に対する反応がデリケート、って事でしょ?表現においては、そういう興奮症的な表現を冷静にできると最高じゃないかと、最近思い至りました。反応を控えるといった反応もそのうちのひとつとして。ちょっと話はそれちゃうんですが。その興奮症なる方のライブを聴いてて。この方、その昔、私がライブを聴きまくっていた頃。どうやらボーカルのみだったようで。15年程も昔に散々聴いていたのはしっかりと覚えているのですが、ギターを弾いて無かった事について明確に意識はなかった。そうして最近いつ見てもギター&ボーカルで、それも不自然じゃないし(てか他のもの凄いギターの人と一緒に弾いて行ったり来たりしてるだけで十分何気に凄いと思うんだけど、本人気付いてないってのが笑える)特別何にも思わなかったのですが、ここ最近のMCの流れから推測すると唄う時にギターを弾くようになったのはこの数年っぽい。いやー、そんなの全然意識しなかったわ。こないだなんて突如、フレーズじゃなくて、メロディーを取り込んでたの。あれ、アドリブだと思うんだけど。ライブでそんな事を平気でしてる人が唄いながらのギターがここ数年だなんてね。やっぱアレですなぁ。ボーカリストとして散々日本を代表するギタリストとライブを重ねてらっしゃるので、そういう音の素はすっかり身体に馴染んでいるというか取り込み済みなんでしょうね。そうそう。テンションの話。大村憲司さんの音を評価するに、どこでだか「日本人にはめずらしいルースな音」っていうのを読んだ事がある。そうした憲司さんの音が大好きなので、テンションの高い、固い、アクセルとブレーキに余裕、遊び、がないような音はきっと私は苦手なんだと思う。大村憲司さんを大好きな沼澤尚さんがどこでだか「やるだけの事をやって事に挑む」みたいな事を書いてたけど、やっぱどういう方法であってもベースが染み付いていると、その先に進む際、余裕があっていいなと思う。基本的に瞬間にスライドしたりするライブが好きなんだけど、例えば、逆のハズの練習した事をそのままに再現するライブであっても、大貫妙子さんの音楽なんかは、苦手感どころか、「ビューティフルソング」コンサート第1回で妙子さんの歌唱を開口一番聴いたとたん、涙が溢れ出してきたみたくになるのは、やっぱ自分を律した事をなさっていても緊張だけでなく、その緊張に耐えうるだけの存分な余裕を、妙子さんから感じられるからなんだと思う。という訳で私は憲司さんのライブを始めて聴いた時、身体中の細胞が感動したようで、ひたすら目から涙がただただ溢れ出すばかり。訳もわからず泣き「なんかわからんけどとにかく凄い」といった言葉を涙を流しながら、ただ訴え続けるという間抜けな状況になったのだけれど、その時、憲司さんのギターをそういった具合に憲司さんの本質の素晴らしさそのまま届けてくれたのはポンタさんのドラムが一緒だったからこそで、スタッフの事とか他の環境の事も含めての事だと思うんだが、一生忘れない。そうそう。最近思い出した大好きなボーカリスト、久美さん。上田正樹さんのバッキングコーラスをなさってらした方。好き。めちゃくちゃカッコ良かった。