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高津丸ただ一人の生存者(高津丸司厨員 南谷隆三氏、当時十八才)の手記から |
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From:高津九戦記 [/]
編著者 大同海運外B 菊池金雄
高津九は昭和十九年一月浦賀船梁にて竣工した陸軍の特殊船乙形で五、六五六総トソ・速力十七・五ノット・中甲板に大発十八隻、上甲板上に十二隻の合計三十隻搭載して船尾の扉から発進させることが出きるようになっていた。「 しかし実際には、通常の輸送船として使用されることが多く、その能力を生かす事なく昭和十九年年十一月の多号作戦において米軍機の攻撃を受けて轟沈。多量の犠牲者(104名)を出したが、ただ一人の奇跡的生存者手記を以下に要約してみることとする。
昭和十九年十月二十四日上海から関東軍と多量の弾薬、糧秣を搭載のうえ二十六日、浅間丸 能登丸 金華丸 高津丸 香 丸の五隻の船団でマニラ向け出港。 この船団では本船の武装が突出(左右両舷に高射砲機関銃十門、船首に高射砲三門、同、船尾に四門、ブリッジ左右舷に高射砲、機関銃二門)更に水中聴音気も備え、敵機や敵の潜水艦の備えは大丈夫と乗組員は絶対に安心していた。 船団は無事に台湾海峡を通過して、かのバシー海峡にさしかかった途端、総員戦闘配置のベルが鳴り、護衛の駆逐艦六隻が次々と爆雷投下による巨大な水柱を目撃・・・私は左舷の士官用バスを掃除中だったので、ポールドから海面を眺め“可愛い魚雷と一緒に積んだ青いバナナも黄色く蒸れた・・・”と軍歌を歌えながら、高速の駆逐艦に乗りたいナーと思った。 十月三十日船団は無事マニラに入港したら、港内には多数の日本船が沈没、着底してマストが林立・・・米空軍の猛攻ぶりを肌で感じざるを得なかった。 十一月一日午後突然本船に陸軍部隊が乗船、船の内外が鮨詰め状態となり、司厨部は二斗炊きライスボイラーで何回も炊飯するので調理場は炊飯の蒸気が充満。コックさんの汗は滝のよう・・・各パートとも懸命に持ち場に奔走した。 かくして本船は燃料をたっぷり補給して十一月一日行き先不明のままマニラを出港・・・フイリッピンの美しい島々を眺めながら、これでも戦争をしているのかと・・・平穏な海と好天に恵まれ、幸い敵の空襲もなく四隻の船団(内地出港時は五隻だったが、浅間丸はマニラから遭難船員を内地に輸送に転じ、バシー海峡で敵潜に攻撃され沈没したとのこと)十一月三日の深夜、不気味なほど静まり返っている某湾内(編著者注:レイテ島オルモック湾と思う)に投錨したところ、すぐ数隻の味方上陸用舟艇が各船に接舷し、兵隊がわれ先にジャコップをかけおり、なかには慌てて海に転落する兵も目撃されたが四日朝までに全部隊の上陸に成功した。 当然、何時空襲があるかを案じながら、甲板部全員で弾薬、糧秣揚陸に大童だった。 午前九時頃空襲警報のベルが鳴りB29が20機編隊で約一万メートルの高度から来襲したので味方艦船の高射砲、機銃が一斉に火蓋を切り・・・B29からは次々と爆弾投下・・・錨を揚げるいとまもなく一大音響・・・瞬間 大地震様に船体がブルブル震動・・・至近弾の爆風・・・両舷側に巨大な水柱・・・幸い被弾を免れたが、生まれて始めての空襲の怖さを実感させられたのだった。 この空襲で能登丸のハッチに爆弾が命中。火炎につつまれ沈没したが、高津丸 金華丸 護衛の駆逐艦六隻は六日朝無事マニラに帰港した。 さあこれで内地の懐かしい土を踏めるぞと乗組員一同喜んでいたのに、八日の朝に突然、関東軍部隊が高津丸と金華丸に乗船して船内外は超満員になり、更に燃料、弾薬を搭載してまたまたレイテ島オルモック湾に向かう。九日の夜、投錨早々レーダーで捕捉されたのか、P38 B24の編隊の銃爆撃にさらされ、見方艦船の砲火も一斉に反撃。兵員達は上陸用舟艇もなく、皆先を争って海に飛び込む・・・敵機は超低空で本船を機銃掃射するので、鉄板をぶち抜くカンカン音等で逃げ場探しに右往左往して一時バスルームにやっと飛び込む。それから敵機攻撃の反対側に逃げたりして船尾側のパーサー室に飛び込んだ瞬間一大音響、腹這いに伏せて、やっと気がついた途端、爆弾のガスで気を失った。それからパーサーのサポートでデッキから「飛び込め」と言った。(この言葉は終生忘れられない) 水面に首を出したら一面重油の海・・・ブリッチが吹っ飛び、船尾が三十度以上高くなってスクリューのスロウ回転を目撃・・・私は全力で泳いで助かり、間もなく船尾がズボット没した。 その間数分・・・多数の乗組員・兵隊が壮烈な戦死を遂げ船もろとも波に呑まれ、私はオルモック湾で十数時間漂流後、一隻だけ生き残った護衛の駆逐艦に救出され・・・つくじく「戦争はもう御免だ」と、思った。
写真 http://ww6.enjoy.ne.jp/~iwashige/kozumaru.htm
2020年06月23日 (火) 19時27分
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