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「硝煙の海」談話室

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[1112] 仙人峠道路(せんにんとうげどうろ)
From:菊池金雄 [/]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E4%BA%BA%E5%B3%A0%E9%81%93%E8%B7%AF

2018年06月17日 (日) 06時24分


[1111] 「声」 投稿文
From:菊池金雄 [/]


        無職 菊池金雄
  (宮城県仙台市 83歳)
                電話022−293−0324

 終戦9日前の8月6日からA型戦時標準船「向日丸」(むかひまる)は北鮮の羅津港で内地向けの穀物等の積荷を行っていた。ところが9日未明から在港輸送船団は国籍不明機群に急襲され各船警乗の隊員が必死に応戦、やがて夜が明けソ連機と判明し大混乱に陥った。
 たまたま次席通信士が病床に伏していたが自船が危機にさらされたので、彼を陸軍病院に緊急入院させた。ソ連機は至近基地からのべつまくなしに飛来。西船長は軍に離岸許可方の伝令を出したが事務所は空っぽで連絡がとれず、在泊各船は次々と被弾にさらされ、
西船長もついに負傷して陸軍病院で応急措置後10日早朝帰船。やっと軍から脱出許可がでたので全速で南下し、元山から残存船団で舞鶴に向かい奇跡的に終戦の3日後帰還した。しかしその後の調査で羅津で下船させた次席通信士が現地で戦死したことが確認され自責の念に絶えなえないものがある。

2018年06月11日 (月) 19時22分


[1110] 上有住駅(かみありすえき)は、岩手県気仙郡住田町上有住字土倉にある
From:菊池金雄 [/]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9C%89%E4%BD%8F%E9%A7%85

2018年06月10日 (日) 18時50分


[1109] S25年高栄丸南米就航の件
From:菊池金雄 [/]

浦本氏(以後は氏のみ)曰く
「当時日本の船腹保有量は120万トンであったと思う」その中でロイド船級協
会の
検定を受けていた船は、郵船の”氷川丸”三井の”有馬山丸”そして我が大同
の”高栄丸”の僅か3隻のみというなんとも誇らしいことであった」 又S25
年神戸出港の折川崎造船所で高和丸、高昌丸、高明丸の新造船を建造中であっ
た。 なんとも意気盛んな大同海運であった。(ただし高和丸については大兄の
回想録と若干時間的誤差があるようですので確認の要があります。)
高栄丸は八幡でビレット(鉄塊の半製品)を神戸で鉄線コイルを積み込み船足も
深く6月24日アルゼンチン、ブエノスアイレスへの長途につきます。
実はこの積荷は復路アルゼンチンより積み込む日本向けの食料品(主に小麦)の
代価であったということです。 氏が会社幹部より聞き及んだ機密事項だそうで
す。
戦後の経済復興半ばの日本経済界は輸入品の支払い代価(ドル)が無く、バー
ター契約での商取引が行われたようです。
高栄丸は一路南下いたします。西回りです。マラッカ海峡(或はズンダ海峡)か
らインド洋を経て南アフリカのケープタウンまで直行いたします。 ケープタウ
ンでは
燃料の補給をします。   休む間もなく大西洋を横断、ラ、プラタ河口のブエ
ノスアイレスに入港しました。   S25年8月12日 日本から実に2ケ月
の長い航海でした。   アルゼンチンには多数の在留邦人がおりその方々の盛
大な歓迎を受けての入港は実に晴れやかなものでした。
在留邦人の方々は母国恋しやの一念でしょうか、家から2時間も駆けて訪船する
方もありました。
船長の回想録にもありましたが”日の丸”を掲揚することもできずの入港は実に
内心忸怩としたものがあったと考えられます。  日の丸の無き日本船を歓迎し
た在留邦人の心中やいかばかりか、察するに余りあるものでした。 中にはぜ
ひ”日の丸”を                     
見せて欲しいという在留邦人の方々もおりました。    氏は言います「俺の
部屋に来い
”日の丸”を見せてあげよう」氏の部屋には手作りの日の丸が壁に掲げられてい
ました。そして日の丸の脇には”国家再建。労使協調。国旗を愛せ。と墨痕も鮮
やかに
添書されていたそうです。
又その際、帰り際に何もあげるものが無いけどと一升瓶に日本の水を詰め訪船の
在留邦人に呑んでもらったそうです。在留邦人は皆涙してこれが母国の水なん
だ、
「美味い、美味い」と喜んでくれたそうです。
ブエノスアイレスでは在留邦人が多くいたせいもあり、とても大事にされモテタ
そうです。ラテン特有の明るさと開放感は随分と乗り組みの心を和ましてくれま
した。
荷役は朝9:00頃から昼食をはさみ16:00頃までで一日の作業は終了しま
した
まさにアスタマニヤーナに耽溺したようでした。既に週休二日制でした。
夜になると飲み屋も娼家もたくさん在りましたが在留邦人の多くの家庭からの招
待が毎晩のようにあったそうです。
体が二つ欲しい状況だそうでした。色白く目はパッチリの南米女性には皆すっか

骨を抜かれ、随喜の涙を流し感激のようでした。
実に楽しく過ごしたブエノスアイレスでの停泊でした。
一月ほどの停泊が終わり前述した問題の食料を(主に小麦)満載に積み込み一路
神戸へ向け出帆いたします。
復路も往路と同じ航路を走ります。大西洋から喜望峰を回航し一気に
シンガポールまでです。シンガポールでは燃料などを補給します。
ブエノスアイレスで小麦積み込みの時10数羽の鳩が船に居つき実にシンガポー
ルまで付いてきました。シンガポールの陸地が見える頃ふと消えてしまったそう
です。
あの鳩は何処へいってしまったか?皆残念がっていたそうです。
船が東シナ海に入りました頃、再びあの鳩が飛来し船共々日本まで付いてきたの
には
驚嘆させられました。移民ならぬ移鳩でした。
又キャプテンが、南米で犬を貰い船中の慰みに飼育していました。
シンガポールでこの犬がいなくなりました。間もなく出帆です。
しょうがないと諦めていたところヒョッコリ戻ってきました。すんでのところで
乗り遅れ犬になるところです。生き物の感覚の鋭さに感心したそうです。
往きも帰りも安穏な航海でした。S25年11月24日神戸港に入港いたしまし
た。
5ヶ月間の長い航海でした。
帰港して数日後ブエノスアイレスで知り合ったアフリカの船員と神戸で偶然遭遇
いたしました。ふと彼の足元を見ると靴ならぬ地下足袋を履いていました。  
その
地下足袋はブエノスアイレスで氏が愛用していたものでした。 彼にせがまれ革

と交換したんです。  地下足袋は甲板やリギンなどにしっかりフィットし大変
具合が良いそうです。 実に奇遇な再会でした。
氏は50年以上を経た当時の”高栄丸”の壮挙を嬉しそうに、昨日のように、
語って下さったのがとても印象的でした。
後刻第3報をお届けいたします。











 「元米兵が世話になった旧日本兵を探しています」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
神奈川県葉山にお住いの菅原完さんという方から、こんな相談がありました。

菅原さんは海軍兵学校の最終卒業生で、戦後は航空会社に勤務し、現在は日米軍人の
友好交流に尽力されている方ですが、その中で知り合った元米海軍軍人ジャック・
リーミング氏から人捜しを依頼されました。
リーミング氏は、昭和17年3月4日、南鳥島付近で空母エンタープライズの艦載機
に搭乗中、日本軍に撃墜され、ゴムボートで漂流していたところを日本軍に捕まっ
て、南鳥島に連行されました。日本軍の残酷さを聞いていたので、いつ射殺されるか
と怯えていましたが、海軍の監視兵たちは非常に親切にしてくれ、彼らとすっかり仲
良くなりました。その5日後に日本本土へ移送される時には、お互いに別れを惜し
み、住所を交換しあい、戦争が終わったらぜひ再会しようと約束しました。
その後彼は、横浜、大船、大阪、富山の収容所を転々とし、辛い捕虜生活を送ったの
ですが、戦後数十年経っても南鳥島での親切が忘れられず、ぜひ彼らと再会したい
と、菅原さんに人捜しを頼んできたのです。

彼が大切に持っていたメモには4人の名前と住所が記されており、菅原さんはその人
たちを捜しましたが、1人は亡くなり、他の3人は消息がわかりません。
当時、南鳥島に駐留していたのは、小笠原・父島の海軍第7根拠地隊から派遣された
350人ですが、この部隊の戦友会はないとのことで、このルートで捜すこともでき
ません。
そこで今年8月に、産経新聞に記事を載せてもらいましたが、何の反応もありません
でした。また、リーミング氏が日本の厚生省に手紙を出し、さらに菅原さん自身も手
紙を出したり電話をかけたりしたのですが、プライバシー保護を理由に、部隊の名簿
を明らかにしてくれないとのことでした。
リーミング氏はすでに83歳で、時間との競走です。何とか捜す手はないものかと、
私に相談してきた次第でした。
どなたか、良い方法があったら教えてください。

引用おわり

以上のようなことで協力したく、いろいろな方に声をかけています
菊池さまの関係でなにか方策はないものでしょうか.

不躾なご依頼ですが、どうかよろしくお願い申し上げます

三輪祐児

2018年05月26日 (土) 19時29分


[1108] 大同海運船舶写真集
From:菊池金雄 [/]

http://www.geocities.jp/ken_kikuchi3/kaneojp/03/030101.html

2018年05月24日 (木) 18時25分


[1107] 滝観洞(ろうかんどう)は、岩手県気仙郡住田町にある大理石からなる鍾乳洞であり、一部が観光洞として公開されている。
From:菊池金雄 [/]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E8%A6%B3%E6%B4%9E

2018年05月24日 (木) 16時01分


[1105] 海軍(舞鶴鎮守府)徴用船 高瑞丸戦記余禄
From:菊池金雄 [/]

                   平成二十二年一月             菊池金雄
私は昭和十五年一月太洋海運(その後大同海運に移籍)恵昭丸(五八〇〇トン)で、新米の通信士を満二年間修業してから、昭和十七年六月高瑞丸(七千トン)に舞鶴港で乗船した。
実はこの船の戦歴は何も関知していなかったが、普通船員が相当交代する様子を垣間見た。下船グループはオールウエーブラジオやシンガーミシンなど携行、こんな危険な船はごめんだと言っていた。
しかし、士官グループからは戦争に参加云々は耳にしなかったが、実習で乗った員外通信士が戦闘中・・・気が狂ったように逃げ回ってもてあました・・・と言う話は耳にした。
林局長からは全然戦時談は聞かなかった・・・ところが拙著「硝煙の海」を平成十四年に上梓するにあたり、八方に会社の戦時資料収集過程で「ジャパンライン想出集」に出会い、その中に林局長が下記一文を投稿していたので、はじめて同船がラバウル攻略作戦に参加した事実を知ることができたのであった。
「昭和十七年一月二十三日未明、わが陸海軍の部隊は、高瑞丸を含め約三十隻の艦艇に分乗。 ラバウル攻略のため敵前上陸を敢行し、無血で占領した。
高瑞丸は、その後ラバウルを基地として同年 六月頃まで小作戦に協力。その間潜水艦攻撃やら、豪州空軍の爆撃に遭うなど、恐ろしい事ばかりで全く生きた心地がしない毎日だった。
特に、ニューブリテン島東南のスルミ攻略では、豪州空軍から爆撃を受け、七十キロ爆弾が三番船倉に五個命中。一個不発、他の一個は喫水線ぎりぎりのため浸水。右舷はみるみるうちに傾き、もはや沈むかと思った。
この爆撃機の攻撃戦法は、低空から船腹への水平爆撃だった。幸い、勇敢な村垣範通機関長の適切な応急措置で、左ウイングタンクに海水を張り、弾穴が喫水線上になるように船体を傾けた結果、沈没を免れた。
その数時間後。工作船「津軽」が穴を塞ぎ、無事ラバウル基地に帰港することができた。
 当時、ラバウルは一日数回の空爆に晒されていたが、高瑞丸は同年六月舞鶴軍港に無事帰還した。」
最近になって、前任の次席通信士が相良信夫氏だったことを知り、懐かしさ一入である。
とにかく私は恵昭丸で修業したので実務には自信があったが、林局長は物品をことさら大事にするタイプで、新型のスーパー受信機は壊れると修理が大変だからと、旧型受信機のみ使うよう厳命されたのには不満だった。
本来、船の装備機器は可能な限り乗組員が保守に当るべきものを、壊れると困る! という発想はいかがなものであろうか?
私が乗船中は主にジャワ方面占領地航路に就航し、前戦出動は無かったが、昭和十七年十二月二十一日から佐世保海軍工廠に於いて十九日間でタンカーに改造。シンガポール経由、ボルネオのタラカンで原油搭載し徳山に輸送後、私は交代下船した。
それから三ヵ月半後の昭和十八年十月十四日沖縄北方で雷撃をうけ沈没。社史では戦死者ゼロなるも、他の資料には戦死三名と記録があり、目下関係方面に照会中なるも確認に至らない。http://www.geocities.jp/kaneojp/03/0323.html
(付記=そもそも貨物船を短期間でタンカーに改造した無謀によって、二十 隻の全改造船が戦没したようである)
林局長と二度目の鉢合わせ
私は戦後に乗り組んだ船は、ほとんど改E型戦標船ばかりだったが昭和二十五年三月高和丸
http://www.geocities.jp/kaneojp/02/0273.htmlに乗船したら、何と林局長だった。彼は専ら無線監督代行で新造船の受け取りに従事し、間もなくヒゲの西山局長と交代したのでほっとした。
 噂によれば林局長は退職後、神戸で船舶無線関係の会社を設立とのこと。本来メカに弱い人がと怪訝に思ったが、船舶無線用部品扱いのようで納得の巻きであった。機会があれば相良氏とも旧交を温めたい思いがあるが、お互い高齢なので難しいようである。


2018年05月22日 (火) 10時05分


[1104] 新 海上保安庁長官
From:菊池金雄 [/]

https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG14H1M_U6A610C1EAF000/

2018年05月21日 (月) 16時19分


[1103] 回想;小型タンカー昭豊丸爆沈記
From:菊池金雄 [/]

  H26年 菊池金雄
この船は戦時急造の三十五日間で進水した戦時標準船(2ET型タンカー 八三五総トン)で、当初パレンバン〜シンガポール間の局地原油輸送に、二ヵ年間派遣の指令を受け、昭和十九年四月十日門司〜鹿児島〜基隆〜マニラ経由シンガポール向け護衛なしの単船で**航海に挑戦し 何とかマニラに無事到着。ところがマニラの暁部隊命で、マニラ〜ミリ間に変更。またまた単船で同年十月二十日頃ミリに到着。近海油槽船所属共同丸(1090総トン)と重油搭載し、二隻船団に陸軍護衛船がパラワン島まで護衛したが、なぜか護衛を打ち切りUターンした直後、昭豊丸は同月二十五日パラワン島北辺のスルー海で米哨戒機に襲われ至近弾だけで沈没。船員一 海兵一 計二名戦死。幸い同行の共同丸に救出され、近くのコロン陸軍基地に揚陸後〜マニラ〜高雄経由〜翌年一月八日門司に無事帰還することができた。
 共同丸はその後マニラ経由で帰国途次の翌年一月六日一三三〇リンガエン湾で、アメリカ第三八任務部隊搭載機の爆撃を受けて沈没し、船員10名が戦死との記録を入手。切に、昭豊丸乗員を救出した恩人各位のご冥福を念ずる。

回想
 齢90途の今日、往時を回顧すると、**航海の途次の戦没は遺憾ではあるが、若し、共同丸と同様マニラ方面に回航したなら何れ米機に襲撃されたかも知れず、むしろ波穏やかなスルー海での戦没は幸いのようにも思われる。
 反面、米潜水艦の跳梁する海域単独航海の陸軍指令は、万一戦没した場合には救出不可のため、まさに特攻的無謀な軍命だったと断じたい。


2018年05月21日 (月) 10時40分


[1102] 開戦前夜の東京湾における触雷
From:菊池金雄 [/]

http://www.geocities.jp/torikai007/pearlharbor/mine1941.html

2018年05月20日 (日) 16時28分







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