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「硝煙の海」談話室

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[1091] 謡の特色
From:菊池金雄 [/]

http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc9/kouzou/musical/utai01.html

2018年05月09日 (水) 16時49分


[1090] 市制施行百十七周年記念式典―  ◆市政功労者(本市の振興発展に寄与された方)
From:菊池金雄 [/]

仙台市は明治22年の市制施行から、今年で117周年を迎えました。
市では、7月3日に仙台国際センターで行われた市制施行117周年記念式で、市政の発展に功績のあった特別市政功労者1人、市政功労者25人、永年勤続委員160人を表彰しました。
今回表彰された方のお名前は次のとおりです(敬称略。順不同)。
◆特別市政功労者(仙台市議会議員として20年以上にわたり市政の発展に寄与された方)
熊谷善夫
◆市政功労者(本市の振興発展に寄与された方)
〔自治・消防功労〕菊池金雄、村山浩太郎、中嶋信雄、伊藤]男、横田勇悟、奥山喜一郎、安住信行、赤間俊雄、清水義行、阿部邦彦、齋藤喜一郎、齋藤弘勝
〔健康・福祉功労〕條川祐男、武田穎子、千葉文兒
〔産業・経済功労〕出雲幸五郎、川村善一郎、庄子泰雄、森水達夫、佐藤節夫
〔教育・文化功労〕菊田茂男、本間雅夫、工藤敏夫、大橋広好、姉歯けい子

2018年05月07日 (月) 16時32分


[1088] 健康のための謡曲と日本酒
From:菊池金雄 [/]

http://www.sakedekanpai.jp/column/100nin/yamamoto_s5.html

2018年05月03日 (木) 18時26分


[1087] 残照;保護司に委嘱  
From:菊池金雄 [/]

             元あぶくま通信長 菊池金雄
定年退職して3年目の昭和59年に、地元町内会の知人から自分の仕事を手伝ってほしいとの話があり、多分町内会の雑事かと軽く応じていた3ヶ月後に「保護司内申書」に捺印を求められ仰天。強く辞退したところ、実は役所(保護観察所)側の了承を得るのに3ヶ月折衝してやっと手に入れた書類なので是非とも引き受けてほしいと懇望されてしぶしぶ捺印せざるを得なかった。その背景は一人で多数の保護観察対象者を担当しているため保護司適任者を推薦していたが、原則は60歳が上限で、当時私は64才であったため当局が難色を示したもののようで、同年5月保護司に委嘱された。
 引き受けたからには「保護司」なるものの職責、知識を吸収しなければならないので当局主催の「保護司初任者研修」に参加し、退潮気味の五官の再生に励み真面目に受講しながら、道交法違反、窃盗犯、麻薬事犯、殺人犯等娑婆では想像できない犯歴の面々と対面しなければならなかった。とにかく所定の遵守事項励行確認が必須で、面接の概要は月頭報告書で行い、末尾にある「良好・普通・不良」の評価欄については主任官(保護観察専門職)より、普通人の尺度とは異なると予め謎めいた助言があった。
 ある酒気帯び事犯対象者に反省を求めたところ「あの道路を通ったのがまずかった」の返答に苦笑し、次回再回答を求め、前段の普通人の尺度云々を実感した。
 保護司を引きうけて間もなく、強引に保護司関連団体(社会を明るくすら委嘱され、身分は非常勤国家公務員である。る運動)の地区委員長に推されてしまい、二股かけての未知の奉仕活動にはまりこんでいった。
 当然保護司の任務は部外者に目立たないように処遇を行う静的であるのに対し、本運動は、のぼり旗やチラシ等の広報で、一転して動的活動に変身。防犯、福祉団体はもとより、事務局担当の地元自治体とも密接な連携が必要で、分かりにくい運動の趣旨説明に汗だくだったが、親しいOBからビデオ支援やテッシュペーパー等の協賛をいただき心強かった。
どうも保護司仲間は海保と海自を混同しているようなので、地区の保護司会で年1回移動研修(懇親も加味)があるので、二管区本部に依頼して巡視船展示訓練を見学させたところ海保業務に対し強烈な印象をうけPR効果覿面だった。
それから数年後に、区の委員長が急死しため、意外にもピンチヒッターで後任に推されたので地区委員長をバトンタッチして区委員長に専従したが、平成12年5月保護司を定年になり、法務大臣の感謝状をいただき、やっと重荷から解放された。
常々対象者には保護観察終了後は私との出会いは忘れて正業に就くよう諭したので、知る限りでは再犯は1件だけで、恩赦が一件あったのは保護司冥利かと思う。
省みると、定年後にこれほどのエネルギーがあったかと自問すると共に、種々ご配慮いただいた海保部局ならびに友人各位に深謝し、余禄を付して結びとする。それは地域に同年代の第二の親友を得たことと、思いがけず平成18年に仙台市長より地域社会の健全育成関係で市政功労章をいただいた。因みに保護司は法務大臣から委嘱、非常勤国家公務員である。

2018年05月03日 (木) 15時49分


[1086] 90%が戦没した第1次戦時標準船
From:菊池金雄 [/]

  戦時標準船(戦標船)は戦争の拡大に対処するため、昭和17年に第1次戦標船の建造計画が策定された。太平洋戦争開戦当時、継続していた造船計画は建造中94隻36万総トン、未起工が187隻70万総トンあった。新たな戦標船建造の目的は大量建造、工期の短縮、資材の節約などであり、従来の建造計画や標準船型を大部分で踏襲し、鉱石船や油槽船を加えた計画であったが、工期も長く効率が悪かったため、 部品や材料の規格統一化、工事の簡素化により増産を図り、ある程度の性能低下が容認された。
  これ等の第1次戦標船は185隻が建造されたが、ミッドウエー海戦のころから米軍の反攻が激化し、船舶の損失が想像を超えて増加し、第1次戦標船は90%が戦没し、戦後に生き残った船舶はたった11隻であった。
  船舶の大量損失を補うため、昭和18年に第2次戦時標準船建造が計画された。その骨子は、@急速大量建造を行うA資材、工数を節約し、かつ輸送力を増大させるB諸設備は必要最小限にとどめるC耐用年数への考慮や、運行能率並びに航海安全性能を低下させても、徹底的に規格の簡易化を図る。これによって船体用鋼材を20〜25%方節約するなど、戦争遂行のため安全性能や耐用年数を犠牲にしても、大量の船舶建造を目指したものであった。
  この徹底した簡易化の対象は、二重底の廃止、隔壁の一部廃止、航行や安全のための設備、機関部・居住設備等の徹底した簡易化であった。そのため建造期間が極端に短縮されたが、その最たるものがE型船であった。
  第2次戦標船では、徹底した簡素化により大量建造を目指したが、低速力・低性能で運航効率が悪く、特に敵に攻撃されやすく、事故も多かったから、第3・4次戦標船の計画では、大型化・高速化船の建造を目指したが、資材も技術者や労働力も枯渇して、終戦までに3次船が5隻だけ建造された。


 1カ月で完成の2E型戦時標準船

  第2次戦標船は、徹底した簡素化により、短期大量建造を目指した。その中で、特にE型船(改E型ともいう)の建造方針は、@簡易造船所を新設して充てるA造船技術者や熟練工員を多く要しないで建造できるよう設計・工作を考慮し、労務員の主力を囚人労働者で充足するB厚鋼板供給能力の不足を補うため、 使用鋼板規格及び寸法を低下させ、従来造船材を生産しなかった製鉄会社も利用するC機関不足に対しては、新たに主機工場として中小工場を利用するほか、機関の種類も、レシプロ、ディーゼル、焼玉等入手できるものはすべて利用するーなどというものであった。
  新しく作られた改E型専門の簡易造船所は既存の4造船所が所管し、それぞれの創意によって、一流れ方式とか、ブロック組み立て方式、ソロバン船台流れ作業方式など、異なった方式で建造が進められた。
  改E型は着工から完成までが1カ月という猛スピードで、毎日新造船が完成する有様であったが、軍の命令で受け取った新造船が、水漏れが激しいためすぐに乾ドックに入れて修理する程の、低速の粗製乱造船であった。
  船舶の大量喪失の中で油槽船が逼迫し、この改E型貨物船を油槽船に改造することとなり、これを「ET型」と呼び、終戦までに149隻が建造された。貨物船として設計されたものを「油槽船」に改造したため、タンカーとしての性能が低く危険の多い船であった。E型はもともと国内航路用に設計された船であったが、シンガポールなど南方からの石油積み取りに使用され、戦没した船も多く、戦後海外で連合軍に接収された船も20隻を超えている。
  生き残った第2次戦標船で、戦後主機換装や二重底に改造して船級を取得した船は、昭和38年頃まで稼動したが、昭和25年の「低性能船買い入れ法」により政府に売却され、28・9年の新造船建造の引き当て船として解体された。

2018年05月02日 (水) 16時37分


[1085] 商船戦記
From:菊池金雄 [/]

 自分史のネタ探しのために戦記関係本を買いだめし、もてあまし気味なので一念発起、アマゾンのカスタマーレビユー(書評)に匿名で投稿しているが、目下80件ほどになった。
 これらの大半は職業軍人のもので、商船側のものは僅少であるのは遺憾に堪えない。その理由は、敵軍との華々しい戦闘場面を叙述=読者の興味をかもす筋書きに対し、商船側の戦記は、ただただ敵に襲われる悲劇物語のため読者が敬遠するものと思われる。
 先般、私の戦時体験の一部が光人社NF文庫の{戦時船員達の墓場}に収録されたので仙台の各書店で買い漁り、更に上京の際、東京の本屋で数冊買おうとしたら、在庫が1冊だけだった。と言うことは余り売れないためかと思う。
 あの戦争での日本の継戦力喪失の真因は、石油等の戦力資源の枯渇=商船隊の潰滅であることをご理解いただきたいと、生き残り元船員は願っている。

2018年05月02日 (水) 08時49分


[1083] 「ダンピールの海 戦時船員たちの記録」土井全二郎著
From:菊池金雄 [/]

<< 作成日時 : 2011/01/13 22:58 >>
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太平洋戦争時に、船員の死亡率が軍人よりも高かったのは知られていない。この本は徴用された船と船員の物語である。
戦ったのだが、華やかな物語はない、徹底的に悲惨な物語である。それは「兵、軍馬、軍犬、軍鳩」の下に船員が位置づけられていたということによる。
この本に書かれているが、馬鹿な軍人によって「闇夜でも心眼を働かせれば見えるんだ。見えんというのはたるんでいる」とか「猫は怪我をしても舐めてキズを直す。薬品は兵のためである。諸君(船員)は猫を見習うべし」とかの暴言を受けながらも、任務についていたのだ。
護衛をつけると言われても、結局は輸送船団だけで出港し、すぐに爆撃され、魚雷を撃ち込まれ、海に投げ出され、そこを機銃掃射で狙われる。ほうほうのていで島に泳ぎつけば、「兵ならば食料は支給するが、船員にやる食料はない」と言われる。

ダンビールとはラバウルとニューギニアの間の海峡である。この海峡で将兵も含めてだが3600余が海没している。
この悲惨な事実を読んでいくと、運命とははじめから決まっているのかと思う。被災してボロボロになった船で救助を待つ。やっと駆逐艦が来る。兵から収容していく、定員が一杯になる。けなげに「自分たちはこの船で頑張ります」と心で泣いて、駆逐艦側に伝える。その駆逐艦がしばらくすると目の前で轟沈する。
敵にやられ海へ投げ出される。救命胴衣がない。一方で救命胴衣をつけた漂流者。そこに米軍の無慈悲な機銃掃射。救命胴衣を着て漂流する兵は沈んでも浮かんでくるから、その標的になってしまう。
この本には多くの悲惨な物語が取材されて、掲載されているが、これだけ悲惨でも、まだましと言う。何かと言えば、一人残らず戦死、海没した船では語り継ぐ人もいないのだ。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

2018年05月01日 (火) 19時15分


[1082] 日号作戦(日本海における、大陸からの緊急輸送作戦)
From:菊池金雄 [/]

s20年1月20日〜3月16日の間 南方からの石油特攻輸送にならい、日本海でも大陸からの物資(主に大豆・豆かす・穀類・岩塩等)を内地へ緊急輸送のためS20年6月28日に日号作戦が発令された。

日号作戦兵力
 海軍 港湾と船舶護衛
   飛行機 第901航空隊 130機
       第903航空隊  66機
   海防艦 62隻  その他20隻
   駆逐艦  4隻
   掃海兵力 26隊
 陸軍
   掃海兵力 21隊
   飛行機 52機(夜間 12機)
   高射砲 224門
   照空灯 155基

日号作戦の実態
 この作戦は「特攻朝輸送」とも称された。当時の本土近海は敵の制圧下に入り、この輸送の成否は本土の生活危機回生を左右するものであり、これが任務の輸送船の大半は急造の戦時標準船が主で、船員、警戒隊および戦砲隊の苦闘並びに責務が大であった。
 かくして8月9日ソ連参戦によって朝鮮北部各港で諸物資搭載荷役中の大型輸送船団は甚大な戦禍に遭った事実は終戦とともに報道されなかったことは遺憾に耐えない。

2018年05月01日 (火) 16時24分


[1081] 【旭盛丸】大同海運 5,493総トン 戦記
From:菊池金雄 [/]

  81号作戦(第1次ラエ輸送作戦)参加、昭和18年2月28日ラバウルにおいて兵員1,316名、火砲11、車輌12、軍需品2,000立方メートル、大発4を搭載し23時30分発出港、ラエ向け9Ktで船団航行中、2日07時55分頃、グロセスター岬北西海上においてB17七機と交戦、内三機が本船に狙いを定め08時05分高度2000mより爆撃を開始した。
本船は応戦と被弾回避につとめたが、08時16分頃、一・二番艙に被弾同時に火災発生、次いで船速が低下し船列より脱落、かくて09時26分沈没。直ちに護衛の「朝雲」と「雪風]が救助にあたり819名と山砲一門を収容、そのまま先行しラエに揚陸した。
 部隊464名、船砲隊21名、船員1名戦死。
沈没位置 南緯05度02分、東経148度14分(グロセスター岬北北西55Km付近)

2018年05月01日 (火) 14時42分


[1080] 定年退職後の生き様考
From:菊池金雄 [/]

 ご存知のとおり海保(海上保安庁)は陸上部署と巡視船配置があり、折角船乗りから転向したので陸上勤務に固執したのですが、潮気が抜けた55歳で八戸の巡視船に飛ばされ、ここで定年退職となりました。そこで何か定年の印をと模索・・・自動車学校に5ヶ月通って昭和55年十一月、何とかやっとのことで免許を取得して中古車を購入・・・独習・・・昭和56年4月定年退職。マイカーで八戸出発。盛岡〜仙台間は始めて高速道で何とか無事仙台に着きました。
 内心・・・留守中の家族が地域のお世話になっていただろうから、何か奉仕をと思案中、町内会から声がけがあり、すぐ三等役員として二年間勤め退任したら、親しくしたK氏から、私の仕事を手伝ってほしいとのことで、多分町内会の雑事であろうと・・・私にできることであればと安請け合いしたのが運のつきで、数ヵ月後「保護司内申書」に捺印を求められ仰天、拒絶するも「この書類をもらうのに○ヶ月かかった」ので是非捺印方を懇請され、不承不承応じざるを得ませんでした。
 そんな訳で宮城野地区保護司会員になり西条会長等と面識を得て、遂次宮城野地区連合町内会のメンバーとも懇意になりました。
 
 保護司は法務大臣委嘱の非常勤国家公務員で、初任者には所定の研修があり、就任早々未成年女子の道交法違反事件担当の指示があり・・・私は未熟で担当不可と具申したら・・・余り難しく受け止めないで、雑談程度で結構と言うので彼女に会ってみましたら・・・酒気帯び運転=自損事故で、 郡部の父親(町会議員)に電話したら・・・先生(保護司のこと)あんな娘に真面目に対応すること無し・・・との返答に、新米保護司は仰天の態でした。
 それから間もなく西条会長が他の要職に就き、意外にも私に社明宮城野地区委員長をバトンタッチしたいとのこと、私は未熟でと拒否したら、万事お手伝いするからとワープロでの資料調整も可、とのことなので引き受けざるを得ませんでした。
 しかし超多忙の同氏に毎回ワープロ要請は気が引けるのでワープロ独習に励み、何とか打てるようになり・・・観察所の報告にも活用することができました。

2018年04月30日 (月) 18時55分







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