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「硝煙の海」談話室

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[1079] 日本海軍の商船護衛 について
From:菊池金雄 [/]

   
大内建二先生(仙台市在住)の所見

日本海軍当局の商船護衛に関します姿勢は、自国の商船隊の護衛の意味をどこかで本質的に取り違えて考えている様子が見て取れます。やはり船団護衛や通商破壊作戦という事柄は、日本海軍の発展の中では完全に異質の存在であったようで、海軍の本来の存在意義が、日露戦争以来完全に履き違えた信念の中で育てられてしまったように思われます。
 イギリス海軍は、その発展過程が商船隊に基礎があり、国家の通商活動の中で商船隊が他国の勢力によって災いを受けることを未然に防ぐ為に、その保護の為の武装集団として長年にわたって発展して来ただけに、海軍と商船隊は完全に一体となった存在になっていることから比較すると、日本の海軍と商船隊との間にはあまりにも大きな較差があることに気がつきます。
 日清戦争も日露戦争も、その後の大陸で起きた数々の紛争も、商船隊としての大だい的な活躍の姿はなく、何時しか海軍力が全ての存在になっています。特に日露戦争における日本海軍の大勝は、その後の日本海軍に対して慢心と亡霊となって存在し、「日本海軍は無敵」とする根拠のない妄想に取り付かれてしまったことに、日本海軍の船団護衛軽視の全ての原点があるようです。
 「海軍力で制海権を獲得した後に船団護衛については考えよう」と解釈してもよさそうな海軍当局の思考は、戦争という事態に突入した時には到底受け入れられるものではないはずで、両方を同時に進行することの重要性とその対策を考え出さねばならないことに全く考えが及んでいないことに何とも情けない感情を抱かずにはいられません。
 日本海軍はイギリス海軍を大きな手本にして育っていますが、それは組織やハード面だけのことで、様々な事態に対応できる海軍の役割を徹底して学ぶ必要があったように思われます。

2018年04月30日 (月) 15時18分


[1076] 90%が戦没した第1次戦時標準船
From:菊池金雄 [/]

  戦時標準船(戦標船)は戦争の拡大に対処するため、昭和17年に第1次戦標船の建造計画が策定された。太平洋戦争開戦当時、継続していた造船計画は建造中94隻36万総トン、未起工が187隻70万総トンあった。新たな戦標船建造の目的は大量建造、工期の短縮、資材の節約などであり、従来の建造計画や標準船型を大部分で踏襲し、鉱石船や油槽船を加えた計画であったが、工期も長く効率が悪かったため、 部品や材料の規格統一化、工事の簡素化により増産を図り、ある程度の性能低下が容認された。
  これ等の第1次戦標船は185隻が建造されたが、ミッドウエー海戦のころから米軍の反攻が激化し、船舶の損失が想像を超えて増加し、第1次戦標船は90%が戦没し、戦後に生き残った船舶はたった11隻であった。
  船舶の大量損失を補うため、昭和18年に第2次戦時標準船建造が計画された。その骨子は、@急速大量建造を行うA資材、工数を節約し、かつ輸送力を増大させるB諸設備は必要最小限にとどめるC耐用年数への考慮や、運行能率並びに航海安全性能を低下させても、徹底的に規格の簡易化を図る。これによって船体用鋼材を20〜25%方節約するなど、戦争遂行のため安全性能や耐用年数を犠牲にしても、大量の船舶建造を目指したものであった。
  この徹底した簡易化の対象は、二重底の廃止、隔壁の一部廃止、航行や安全のための設備、機関部・居住設備等の徹底した簡易化であった。そのため建造期間が極端に短縮されたが、その最たるものがE型船であった。
  第2次戦標船では、徹底した簡素化により大量建造を目指したが、低速力・低性能で運航効率が悪く、特に敵に攻撃されやすく、事故も多かったから、第3・4次戦標船の計画では、大型化・高速化船の建造を目指したが、資材も技術者や労働力も枯渇して、終戦までに3次船が5隻だけ建造された。


 1カ月で完成の2E型戦時標準船

  第2次戦標船は、徹底した簡素化により、短期大量建造を目指した。その中で、特にE型船(改E型ともいう)の建造方針は、@簡易造船所を新設して充てるA造船技術者や熟練工員を多く要しないで建造できるよう設計・工作を考慮し、労務員の主力を囚人労働者で充足するB厚鋼板供給能力の不足を補うため、 使用鋼板規格及び寸法を低下させ、従来造船材を生産しなかった製鉄会社も利用するC機関不足に対しては、新たに主機工場として中小工場を利用するほか、機関の種類も、レシプロ、ディーゼル、焼玉等入手できるものはすべて利用するーなどというものであった。
  新しく作られた改E型専門の簡易造船所は既存の4造船所が所管し、それぞれの創意によって、一流れ方式とか、ブロック組み立て方式、ソロバン船台流れ作業方式など、異なった方式で建造が進められた。
  改E型は着工から完成までが1カ月という猛スピードで、毎日新造船が完成する有様であったが、軍の命令で受け取った新造船が、水漏れが激しいためすぐに乾ドックに入れて修理する程の、低速の粗製乱造船であった。
  船舶の大量喪失の中で油槽船が逼迫し、この改E型貨物船を油槽船に改造することとなり、これを「ET型」と呼び、終戦までに149隻が建造された。貨物船として設計されたものを「油槽船」に改造したため、タンカーとしての性能が低く危険の多い船であった。E型はもともと国内航路用に設計された船であったが、シンガポールなど南方からの石油積み取りに使用され、戦没した船も多く、戦後海外で連合軍に接収された船も20隻を超えている。
  生き残った第2次戦標船で、戦後主機換装や二重底に改造して船級を取得した船は、昭和38年頃まで稼動したが、昭和25年の「低性能船買い入れ法」により政府に売却され、28・9年の新造船建造の引き当て船として解体された。

2018年04月30日 (月) 06時42分


[1073] 米寿の関西行脚余談
From:菊池金雄 [/]


                    08年10月  菊池 金雄
去る10月26日神戸の旧船会社(大同海運梶jのOB会である同友会から3年毎の物故者追悼法要も行う旨の案内があり、あの戦争の末期、ソ連機の空爆に曝された北鮮の羅津港を奇跡的に脱出した私の船(向日丸=むかひまる)が必死に南鮮向け避航中、清津沖で追撃してきたソ連雷撃機に襲われたとき、首尾よく第八十二号海防艦と合流。両艦船と敵雷撃機と激烈の海空攻防戦を展開。向日丸は敵機2機撃墜するも、該海防艦は敵機3機撃墜後、不運にも被雷〜轟沈したため、向日丸が生存者を懸命に救出して城津まで送り届けた秘話があったのであるが、今回の法要にその生き残り代表者が、すでに亡くなった当時の向日丸船長以下乗組員各位へ、往時のお礼の追悼文を奉納する手はずで、今日参集するOBはすべて戦後派のためと、会社側には自社船の戦没一覧表だけで、生存船の戦時記録も見当たらないので、私が6年前に上梓した拙著「硝煙の海」が唯一の記録のため、証人として老骨に鞭打って西下したのであった。
 往路は25日1030発の 仙台―伊丹 ANA1836便で 久々でフライトを楽しみ、幸い徐々に晴れ間となり 一時間ほどで「渥美半島上空 中部国際空港が見えます」とアナウンスがあり 眼下にはっきり望見しながら、間もなく伊丹空港着。三宮までバスに乗り継ぎ 一年ぶりで活気に満ちた ミナト神戸の土を踏む。
物故者追悼法要は神戸市の八王寺で翌26日午前10時から催されるので、広島市から参列する海防艦側代表の横見氏とホテル パレス神戸で同泊を約束していたので、三宮で所用後、在神戸の姪のクルマでホテルまで送ってもらい、六年ぶりで同氏と再会することができた。ということは、私はかつて呉の海軍墓地にある同艦の慰霊碑に参拝したことがあったからである。
 翌日、二人で八王寺に行き、大同海運外B25名が参集して物故者の追悼法要が執り行われ、横見氏の追悼文、並びに私も、故小川次席通信士へのお詫びと、スルー海で爆沈した昭豊丸戦死者への追悼及び、故中村清三郎船長の的確な指揮に対する謝辞を奉納した。
 この「商船が沈没海防艦将兵救出」は当然海軍サイドから会社へ謝辞があって然るべきなのに、当時すぐ終戦という混乱期のため今日まで公式記録も見当たらず、膝もとのOB会は、元の会社が合併を重ね、今日、商船三井に吸収された関係もあり往時の記録もあいまいなので、今回、救助された側の代表者が参列下さったことは、私の記録の証言ともなり、有意義な法要となったことと、加えて、当日、作家の土井全二郎先生がわざわざ東京から取材に駆けつけ、何れ、次回の作品に載せてくださるものと期待されるところである。
 正午、席を改め三宮の第一楼で更に15名加わって40名が懇談し、盛会裏に閉幕した。
翌朝、横見氏と新神戸駅で東西に別れを惜しみ、それぞれ新幹線で帰途に就いたのであった。

2018年04月29日 (日) 14時52分


[1072] 痛恨録
From:菊池金雄 [/]

                   H26 10 1     元戦時徴用船員 菊池金雄

 私の戦時記録はWEBで公開していますが、退職時に元船会社から何等の慰労も無く痛恨至極です。
 おそらく他の戦時体験船員たちも同様かと思いますが、会社によっては、退職時に戦時勤務への謝意付言の例もあったようですが、私の場合は「単に永年勤続への謝意」だけでした。
 このことは、会社(大同海運梶jには、戦没した社船の一覧表だけしか無く、個々の船の戦歴皆無のためかと推察されます。
 何かご所見願います。

2018年04月29日 (日) 12時42分


[1071] 音痴が見つけた生涯の趣味
From:菊池金雄 [/]

 何時の間にか卆寿に達しましたので己の生き様などを回想してみます。
私は二管区本部在勤時、音痴向きの趣味を模索して謡曲班に入門して退職後も仙台のグループと交わり、現在も月一回の例会で朗吟を楽しんでいます。
謡曲は腹の底から大声で謡うと、気分爽快でストレスの発散効果もあるように思います。
グループの謡会は素謡、連吟、独吟、仕舞等で、素謡は謡本を見ながらの発声ですから初心者でも参加できるメリットがありますので、趣味を模索の向きは是非謡曲をはじめてほしいと念じています。能を劇としてみた場合の脚本にあたる能の全詞章を「謡=謡曲」と言います。謡には、劇のセリフに当たる「詞(ことば)」の部分と、大半を占める「歌い物」としてのメロディーがついている「節(ふし)」の部分があり、その全体をうたい味わうのが謡です。「謡曲を謡う」という言い方もします。
謡曲の多くは、源氏物語、平家物語、伊勢物語、などの古典に題材を求め、七五調の和歌形式をもとにして書かれていますから、謡うことにより、音楽的情緒を味わいながら、それら文学作品の世界に触れるというぜいたくな楽しみが得られるのです
小謡(こうたい)とは?
 素謡を一曲謡うと、平均して40分ほどかかります。その一曲の中の1分〜3分ほどで謡える詞章の文句の良い所を謡うことを、小謡と言います。謡本を見ると、小謡の部分が指定してあります。前記の高砂では5カ所あります。謡曲には小謡があるものとないものがありますが、普通1・2所あります。謡曲は約200曲ありますので小謡もそのくらいあることになります。
 素謡を中心に催す会を、普通、謡会(うたいかい)と言いますが、謡会と称しても、
下記の独謡、独吟、連吟、仕舞なども番組に入れます。
 小謡は短いので、いろんな場面で手軽に謡えます。一番身近なのは、結婚式や棟上げ式などお目出度い席で謡う祝言の小謡、逆に葬式や法事で謡う追悼の小謡、その他、お花見や同窓会、さまざまな宴会でも謡われます。酒宴の席で謡われる小謡を肴謡(さかなうたい)と言います。

2018年04月29日 (日) 10時52分


[1070] 回想;非常勤国家公務員体験記
From:菊池金雄 [/]

                        仙台市  菊池金雄

定年退職後、地元町内会の雑役を一期終えた途端、懇意になったK氏から、私の仕事を手伝ってほしいと言われたので、多分町内会の雑事だろうと応じところ、二か月後にある書類に記名捺印方を求められた。
 その書類は「保護司内申書」なので敬遠したら この書類は当局と折衝して二か月かかって やっと入手したものなので、是非応じてほしいと懇望され、致し方なく受諾せざるを得なかった。因みに保護司は法務大臣委嘱の非常勤国家公務員である。
 そこで当局主催の「保護司研修会」に真面目に参加して実務習得に努め「道交法違反」「殺人犯」「窃盗犯」等の面々と対峙〜処遇に献身することになった。
 他方、各市町村には地区ごとに保護司会があり、地元の宮城野地区保護司会に加入して、ほぼ同年代の知友を得たのは幸いで、公私にわたり親交が深まった。
 保護司活動の外郭団体として、県、市区町村に「社会を明るくする運動」という組織があり、新米にもかかわらず、地区の実施委員長に推され辟易の態だったが、民生委員会等のご支援も得て盛り上がり、さらに宮城野区の実施委員長にも推され、区役所の応分のバックアップを求め、この運動の効果的浸透の展開を特記したいと思う。

2018年04月29日 (日) 06時46分


[1069] 難民の記を読んで
From:菊池金雄 [/]

         元大同海運褐日丸(むかひまる)通信長 菊池金雄

はじめに
 福地さんと私の間接的な接点は、羅津でソ連機から電撃的猛爆撃の洗礼をうけたことにあります。当時向日丸は内地向け穀物類を搭載のため第一埠頭に着岸していました。何しろ不意打ち空襲のため在港商船隊は貧弱な搭載火器で応戦するのが精一杯でした。
 本船警乗の海軍警戒隊員負傷者は次々と陸軍病院(満鉄病院)に移送。西船長も頚部負傷で移送するとともに、当時病臥中のO通信士も緊急入院の形で船外に退避させ人命安全策を講じたのですが、船長だけは応急手当のうえ帰船〜羅津脱出〜終戦2日後の8月17日奇跡的に無事舞鶴に帰還するも、O通信士の消息を追跡の結果8月10日羅津で戦没したことが判明。往時の安全策が裏目となったことは遺憾の極みです。
 当時船側では陸上の動向を把握不可のため種々情報収集中のところ、「羅津」が縁で電子メールでの福地さんと接触結果、様々な情報の提供があり空白記録を補完させていただいているところです。
 この度「難民の記」を上梓なされたことは、この方面の戦時記録を補強する貴重な文献でありますので拙い感想を述べさせていただきます。

序について
 著名人お二人のコメントは本書を遺憾なく評価しているものと思います。

各章について
 羅津港の誕生と終焉は私の最大関心事で、今日まで種々文献を調べましたがこれほど明解に記述されたものはありませんので大変参考になりました。
 北鮮三港の沈没船=この見取り図は貴重な記録で、向日丸は抜けていますが、元船友の証言では第一埠頭に接岸のようで、被弾を免れた強運と老練な西豊船長[60歳]の手腕および海防艦82号の自艦犠牲による護衛で生き残ったものと確信しています。

羅津〜撫順間の苦難に満ちた避難
 当時船側では陸上の状況は皆目関知できませんでしたので、改めて海陸とも敵襲から脱出のため生死の狭間をさまよっていた事実を再認識させられました。

私の原風景
 ご家族やご親族のこと、特にご尊父が厳しく教育された反面、母上が優しく養育された様子は微笑ましく、
著者の生い立ちの原風景景から、長男としての今日〜羅津若草会等のお世話等々様々な奉仕精神に敬服いたしました。
 また、多数のグラビアには幼少時代からのものから最近のスナップまで網羅し、自伝としての真価を包含した力作に感心いたしました。

付記
 私がS15年1月恵昭丸での**航海で清水港に帰港したとき、沖あいから明峰富士の遠望は鮮明に脳裏に刻まれています。
 また、私は戦時中5隻の貨物船やタンカーに乗り組みましたが、生き残ったのは向日丸だけで他の4隻は戦没(内3隻は交替後沈没)しています。
 目下公開中のホームページは今月アクセスが5万台となり、改訂版を夢見ていますが?

2018年04月28日 (土) 18時21分


[1068] 戦時標準船の工法と担当造船所
From:菊池金雄 [/]

戦時標準船は、1/3が溶接構造、2/3は鋲構造となっていたが、改E型船(870総トン)では全溶接のブロック建造で、ブロック間のみ鋲接構造とし、流れ生産方式で建造する。播磨造船松の浦、三菱重工業若松、川南重工業深堀、東京造船が担当となる。

2018年04月28日 (土) 16時37分


[1067] 帝国船舶所属 帝北丸(5794総トン)戦記
From:菊池金雄 [/]

戦没地点 8月11日 朝鮮江陵東沖で雷撃をうけ轟沈 戦死者28名
 帝北丸に関し昨年当サイト「硝煙の海」に同船乗組員の一遺族から突然問い合わせがあり、当サイトには下記の那和少尉の簡単な手記のみのため(財)日本殉職船員顕彰会を紹介した経緯があった。その後独自で同船関係の記録を追跡したところ、以下の資料を入手したので、当サイトに追加掲載します。

向日丸陸軍連絡将校 那和少尉の手記から
当時、羅津港には20隻ほどの商船が居たが、帝北丸以外の船名は不詳。該船には同期の若松少尉が乗っていたので七日訪船して会った。この船は元フランス国籍で時速二十二〜二十三ノットと聞く。同船は九日夜、羅津から舞鶴へ直行中、日本海の中部で敵潜水艦に撃沈され、若松少尉は幸い通りかかった漁船に救助されている。

同船乗組員 森清操舵手の証言から
多数の在港商船隊が被弾〜擱座して水路がふさがれている惨状下の9日夜間、緊急出港命令が出た。しかしソ連爆撃機、雷撃機編隊の波状攻撃が続行中であったので離岸に難儀し、やっと港外に出ることができた。振り向くと羅津港一帯は黒煙と火柱が空高く吹き上がっていて、後続の脱出船の姿は無かった。
 突然の出港で燃料に不安があったため、単独で舞鶴に直行することになった。 10日朝、一機の友軍機が本船の上空で翼を振って飛び去った。11日午前零時半過ぎ同操舵手は当直を交代し、ブリッチの右舷で海面を見張っていたところ、突然大きな衝撃があった・・・同人が気づいたとき、ただ一人海の中にいた。付近海面一帯は油と浮遊物が散乱・・・頭や目が痛く、手で触るとべったり血がつき、救命具の紐が首をしめつけて痛く、このときの太陽は真上だった。
 波浪の谷間に入ると そのまま海中に吸い込まれそうで、底知れぬ恐怖感が迫り、波の上にでると一面が油膜と浮遊物だらけだった。
突然!救命ボート出現
 時間の経過も定かでなく、度々大声で仲間に呼びかけても返答は得られなかった・・・ところが突然、夢のように帝北丸の救命ボート1隻と竹製の筏三艘が目の前に出現、仲間の呼び声と顔ぶれを確認することができた。
 あとで確かめると10時間以上も一人で海中を漂流していたことになり、帝北丸は二回爆発後に沈没。乗組員の約半数の60人が辛うじて海上へ脱出したとのことであった。
 12日、栗の実ぐらいの軍用乾パン一個だけ配分、飲料水ゼロ。13日救命ボートと筏が分離し、双方すぐみえなくなった。森清の筏には、負傷者ばかり約20名だった。
米軍潜水艦に救出される
 このあたりから日にちが分からなくなった・・・仲間の顔が黒ずみ、衰弱し・・・内、何人かは筏から海に飛び込んだ・・・誰かが異様な声を出し・・・棒だー 棒だー と叫び・・・潜望鏡が見えて・・・米軍の潜水艦が出現・・・米兵が銃を構え・・・ロープを投げて 筏はデッキに引揚げられ・・・ウオーター ケーキにありついた。森清たちは全く知らなかったのは当然なのだが、すでに戦争は終わっていたのだった。
 やがてこの潜水艦は浮上したまま夜間航海のうえ、竹島近海の欝陵島沖合で筏を解放してくれた。幸い11人が島民に保護され、内1名がこの島で衰弱死した。
 島民から終戦を聞いたのは体調回復後の8月末で、米潜に救助されたのは8月21日だったので11日間も漂流していたことになる。
命の恩人潜水艦を探し当てる
 事後談として・・・この命の恩人である潜水艦を追跡して31年目に探し当て 艦名スティックバック 艦長ハーレー・K・ノーマン中佐と判明。島民が筏を救出したのを確認してから現場を立ち去ったことも知らされたという。

 参考文献 土井全二郎著 ダンピールの海

2018年04月28日 (土) 09時23分


[1066] 触雷 軍尊民卑
From:菊池金雄 [/]

触雷のすさまじさ
 そのとき、速日丸が六連沖を航行中だった。船倉のカバーの上で非番組5−6人が車座になって去り行く日本のことなどを“かたふり”(雑談)していた。私は当直時刻が迫ったので自室に戻った途端・・・触雷のショックで飛ばされ天井に頭を打った。また、5−6人が中空に飛ばされ、ばらばら落下するのが目に入り・・・船倉に落下した者が懸命に甲板に這い上がってきた。その中の脚部骨折の甲板員の手を握ってひきずり上げたのは、私のただ一人の人命救助かも! とにかく、このときの爆発力は魚雷や爆撃のときよりも著しく強力であった。

軍尊民卑
ある商船船員が海軍に召集され海兵団に入団したら・・・貴様商船乗りかと、しこたましごかれた苦衷を耳にした・・・これは正に軍尊民卑思想の最たる事例であろう。

2018年04月27日 (金) 15時08分







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