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「硝煙の海」談話室

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[1065] ドラム缶入り航空ガソリン輸送の恵昭丸(5800総トン)
From:菊池金雄 [/]

太平洋戦争開戦前に、サンフランシスコから呉行きの海軍用ドラム缶入り航空ガソリンを輸送したことがある。実際の荷揚げ先は九州の佐伯だった。

2018年04月27日 (金) 13時52分


[1064] ライフスタイル考
From:菊池金雄 [/]

誰でも現職中は仕事オンリーのライフスタイルかと自身の体験からも首肯できる。
あるとき職場の上司から、仕事に無関係な趣味をもつことは気分転換にもなり有意義とのヒントがあった。
 生来、アルコールに弱く、且つ音痴のため余技とは全く無縁だったので職場のサークルに音痴向きのものがないかと当ってみたら「謡曲」がどうかとの助言から早速入門。退庁後仲間と修練につとめ、毎年提出のレポートの趣味蘭に「謡曲」と書いてひとりよがりするとともに、発表会の場数を重ねそれなりに身についたように思う。
 やがて定年になり、地元の師匠に入門して新たな同好仲間と精進に励み、退屈しない余生をエンジョイしている昨今である。

 私の町内会は音曲が盛んで毎年、民謡・カラオケ・舞踊等が披露されるが謡曲の出番が無かったので昨秋の敬老会の際一寸小謡を吟じたら誰かがビデオ撮り、インターネットに公開され、赤面の至りである。

 昔の結婚式にはよく 高砂やー・・が吟じられたが、孫達の結婚式には出番が無かったので新婚孫が来ると 一曲吟ずることにしているが、迷惑そうでもある。

2018年04月26日 (木) 18時41分


[1063] 音痴が見つけた生涯の趣味
From:菊池金雄 [/]

私は元船乗りのくせに、親に似てアルコールに弱く、且つ音痴のため宴会等の余興に唄ひとつ歌えないためあれこれ模索中、職場のサークルに音痴向きのものがあるとのヒントから、迷うことなく謡曲同好会に入門。退職後も地元の謡曲師範から指導を受け、爾来、各種の懇親会等で披露するとともに、退屈しのぎに自宅でも独吟を楽しんでいる。
師匠は腹から声を出せと指導するが、初心者にはなかなか難しく、私は高齢とともに難聴気味のため、入浴時に浴室で独吟して自身の声を確かめている。

2018年04月26日 (木) 15時25分


[1062] 対遭難船員;陸海軍の処遇事例
From:菊池金雄 [/]

 レイテ作戦当時、マニラに一万人くらいの遭難船員がホテルやマンションに収容され、中にはダンスホールで空き室待ちを余儀なくした。これが管理は陸軍の停泊場司令部で最小限の衣服も支給された。海軍徴用船の場合は、軍の雑務にかりだされたとのこと。
 なぜこんなに大勢の遭難船員が集まったのかは、敵に制空権をうばわれたのにしゃにむにレイテ作戦に増援部隊を投入したため戦没船が続発したことと、日本への帰還させる便船が僅少であったからである。
 一例だが、昭和19年10月25日、私の乗船、小型タンカー昭豊丸がスルー海で爆沈。運よく僚船に救助され。マニラ〜高雄経由で、散散苦労して門司に帰還したら、暁部隊から一流料亭を宿所にあてられ、長袖衣服(当時流行のカーキ色の国民服)が支給された。翌日の軍属解雇式で暁第2940部隊長が全帰還船員に木盃を配って謝辞を述べ、自宅までの切符も渡された。
 他方、海軍徴用船の場合・・・徴用船の戦没は軍秘とて、小人数ごとに分宿させられたとのこと。
 これらのマニラで待機の遭難船員中、各船の船長・機関長は軍の輸送機で空路帰国し、門司で自社船員を出迎えたケースもあるが、出迎えしかなかった例が多いのは会社側に帰還情報が無かったのではないかと思う。それは、私が帰郷途次、真っ黒な顔で会社に出向いても、誰一人から「ご苦労さん」の言葉が無かったことからも首肯できる。

2018年04月26日 (木) 14時13分


[1061] あるボランティア始末記 (保護司)
From:菊池金雄 [/]

 昭和56年定年退職後、地元町内会雑役員を終えた途端、知人から仕事を手伝ってほしいとの話があり、多分町内会の雑事かと軽く応じていた3ヶ月後に「保護司内申書」に捺印を求められ仰天。強く辞退したところ、実は役所(保護観察所)側の了承を得るのに3ヶ月折衝してやっと手に入れた書類なので是非とも引き受けてほしいと懇望されてしぶしぶ捺印せざるを得なかった。その背景は、一人で多数の保護観察対象者を担当しているため保護司適任者を推薦していたが、原則は60歳が上限で、当時私は64才であったため当局が難色を示したもののようであった。
 引き受けたからには「保護司」なるものの職責、知識を吸収しなければならないので当局主催の「保護司初任者研修」に参加し、退潮気味の五感の再生に励み真面目に受講しながら、道交法違反、窃盗犯、麻薬事犯、殺人犯等娑婆では想像できない犯歴の面々と対面しなければならなかった。とにかく所定の遵守事項励行確認が必須で、面接の概要は月頭報告書で行い、末尾にある「良好・普通・不良」の評価欄については主任官(保護観察専門職)より、普通人の尺度とは異なると予め謎めいた助言があった。
 ある酒気帯び事犯対象者に反省を求めたところ「あの道路を通ったのがまずかった」の返答に苦笑し、次回再回答を求め、前段の普通人の尺度云々を実感した。
 保護司を引きうけて間もなく、強引に保護司関連団体(社会を明るくする運動)の地区委員長に推されてしまい、二股かけての未知の奉仕活動にはまりこんでいった。
 当然保護司の任務は部外者に目立たないように処遇を行う静的であるのに対し、本運動は、のぼり旗やチラシ等での広報活動なので、一転して動的に変身。防犯、福祉団体はもとより、事務局担当の地元自治体とも密接な連携が必要で、分かりにくい運動の趣旨説明に汗だくだった。それから数年後に、区の委員長が急死しため、意外にもピンチヒッターで後任に推されたので地区委員長をバトンタッチして区委員長に専従したが、平成12年保護司を定年になり、法務大臣の感謝状をいただき、やっと重荷から解放された。
 常々対象者には保護観察終了後は私との出会いは忘れて正業に就くよう諭したので、知る限りでは再犯は1件だけで、恩赦がひとりあったのは保護司冥利かと思う。
 省みると余禄もあった。それは地域に同年代の第二の親友(保護司仲間)を得たことと、思いがけず昨年仙台市長より地域社会の健全育成関係で市政功労章をいただいたことである。因みに保護司は法務大臣から委嘱され、身分は非常勤国家公務員である。

2018年04月26日 (木) 10時41分


[1060] 戦時船員たちの墓場 土井全二郎著 光人社NF文庫
From:菊池金雄 [/]

副題に「海を墓場に…戦時船員の記録」とある。
全編が戦争継続を底辺で支えてきた輸送船(戦時徴用船)の悲劇の記録集となっている。いずれもドラマティックな物語で、それぞれがドキュメンタリー小説の素材になりうるほどのものである。船の雄姿と元船員の写真(『戦時船員の記録』)が掲載されている。関係者には涙なくしては読むことができない本であろうと思う。
日本の敗戦は兵站力の貧弱さにあったといわれる。先の戦争では太平洋の全域に兵力を展開せざるを得なかった。それを維持していくための兵と食料、資材、武器などの消耗品を目的地に届けねばならない。さらに日本国内での需要を満足するための資源を外地から確保搬送しなくてはならない。それがどんなにか難しくまた危険な課題であったかをこの本は物語っている。
海は危険に満ちていた。敵側の潜水艦からの魚雷攻撃、飛行機からの空襲に輸送船は無防備で対抗できなかった。
船員は危険な海に出ていくのも隠密行動をとらされた。軍隊と同じである。家族も憲兵や特高の絶え間ない監視を受けていた。
軍艦なら話題になるが、漁船が襲撃されてもニュースにもならない。
開戦の日(昭和16年12月8日)の太平洋上は、どこもかしこも、一触即発の緊張状態であった。2隻の漁船が敵機により滅多撃ちにされている。漁船は沈み、早くも10名の漁民が戦死したのだが、報道はされていない。
章立ては1 暗雲、2 開戦、3 敢闘、4 苦闘、5全滅、6 落日 となっており、開戦前夜から全滅までの輸送船、徴用船の歴史と運命が描かれている。
『敢闘』の中の「敵潜水艦撃沈」という章では、敵潜水艦を2隻も撃沈した松本丸という老朽船の話に胸すく思いがする。「戦火の中の交情」では船員一人の命を守るため、駆逐艦・秋雲を停止して盲腸炎の手術をした話が語られている。
貴重な重油を搬送するタンカー6隻にたいし、護衛艦はたった一隻で、これには海防艦・対馬があたった。日東汽船のタンカー・旭栄丸は潜水艦攻撃で沈没、洋上に脱出した乗組員に銃撃を加えようとする敵潜水艦に対して、護衛艦は戦略上、軍律違反にあたるかもしれないところ、これを救助した。
 このあたりは日本側にまだわずかに余裕が認められる。しかし、貧弱な護衛では限界がある。日本側はしだいに全滅への道へと追い込まれていく。敵側の攻撃は潜水艦攻撃と飛行機による空襲によるものであるが、その物量に圧倒される。
 それでも戦地におもむくには、船に乗って海路を行くしかない。
船員も兵隊も死を覚悟して乗船する。陸路行軍の方がまだましだと思ったに違いない。小国民であった少年の私は、敵の攻撃によって船が沈没する状況を想像した。私は泳げなかったので海で水泳の練習にはげんだものである。
 海で果てた人たちの遺骨は永遠にかえることがない。
 補給線をたたれ、兵站力がなくなると、軍隊は、戦力を失う。兵隊は飢えと戦う結末となっていった。
米軍側は標的に事欠いたのか、非武装の病院船にまで無差別に攻撃をしかけてきた。国際規定どおりに夜間照明により煙突や船腹に赤十字を照らしていた。これは「明らかに国際法違反であった。かりに日本軍が連合軍側の病院船を一隻でも撃沈していたら、戦後、どれほど責任を追及されたことだろうか」と書かれている。
『全滅』にいたる章は読むことすら重いが、最終章の『落日』には味方陸軍潜水艦に突っ込んだ伊豆丸の話や大剛丸のたった一人の生き残りの船員の話が書かれており、まるで冒険活劇のようでわずかに読者に救いを与えてくれている。

2018年04月25日 (水) 19時09分


[1059] 戦時標準船を船員はなぜ鉄の棺桶と呼んだのか?
From:菊池金雄 [/]

1.居住区はワンルーム方式〔甲板(左舷)・機関(右舷)各1〕で、鋼板のむき出しであった。
2.2A船程度だと乗組員の定員は66人だったが、左舷上甲板に風呂は1つ。トイレも1カ所しかなかった。
 ※ トイレ船外排出管は耐久性を確保するため亜鉛メッキ管でっあたが、これをケチった。
3.鋼材厚は10〜12mm程度で敵の13mm機銃弾でも簡単に貫通した。
4.外板は鋲接方式だが、鋲径は19mmと小さかった。
5.後に警戒隊員を乗せたが、隊員+乗組員の全員が脱出できる救命艇が用意されなかった。
6.あまりにも低速(10Kt未満)であつた。低速となった二つの大要因
 1)造機技術(エンジン)が低かった。エンジンが先に調達出来なかっなら造船は出来ない。
 2)軍令部や海上護衛総司令部が制海権・制空権は我にあり、よって低速でもOKとした。
 そのうち、ボカスカ沈められたから、短20糎砲、短12糎砲を搭載した。但し、測距儀は無かったので
 もし、砲撃の機会が発生しても目算(でたらめ)砲撃となった。
 短20糎砲弾の初速は325m/s。まさか日露戦争の頭で戦争をしようとしたのか?。
 あまりにも潜水艦に沈められたので昭和19年(1944)秋から設計された、三B,三Dから、更に四B,
 四TM,四TLから18Kt以上の設計となった。ただし、増速は単なる気休めでしかなかった。

2018年04月25日 (水) 16時32分


[1058] マニラから和洋丸に便乗 バシー海峡突破
From:菊池金雄 [/]

昭和十九年十二月一日午前十時頃、突然和洋丸で台湾の高雄まで便乗の指令が出たので、接岸中の同船に乗り込んだ。収容場所は中甲板に筵を敷いて広々としたスペースに、それぞれ他社の遭難グループとともに陣取った。
 まもなく昼食が配られ、久方ぶりの味噌汁に郷愁を覚えたものの、汁椀は椰子の実を半切りにした代用品で、故国の窮乏ぶりを垣間見る想いだった。
 とにかく、便乗者には仕事のノルマが無く各自事由に寝そべっていたが、吾々の無聊慰問のためか時々メロデーが船内放送され、私は今でも「浜辺の唄」を耳にするとバシー海峡を想起する。

2018年04月24日 (火) 15時13分


[1057] 戦禍の救出劇 57年後の慰霊/呉
From:菊池金雄 [/]

http://www.geocities.jp/ken_kikuchi3/kaneojp/02/0286-Tn02081134.html

2018年04月22日 (日) 16時27分


[1056]
From: [/]


2018年04月22日 (日) 10時49分







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