【広告】Amazonからブラックフライデーセール12月6まで開催中

「硝煙の海」談話室

感想を残していただければ幸いです。匿名でも結構です。

ホームページへ戻る






[1043]  太平洋戦争と民間船・船員の犠牲
From:菊池金雄 [/]

 太平洋戦争(注1)勃発の直接の原因としては、わが国の中国侵略(日中戦争:1937年〜1945年)に対し、アメリカ、イギリスが中国からの撤兵を求め日本の経済封鎖をしたことに、日本が反発したことから端を発したと言われています。
 石油・資源確保の道を連合軍の経済封鎖により失ったわが国が開戦にあたってとった基本方針は、
 南方の資源地帯を占領し、そこから戦争遂行と国民生活に必要な石油、鉄鋼、非鉄金属、ゴム、ボーキサイトなどを確保するというものでした。広大な西太平洋全域に及んだ太平洋戦争の勝敗を左右するカギは、何と言っても「海上輸送の確保」でしたが、わが国海軍が、日露戦争以来伝統としてきた大艦巨砲主義の艦隊決戦を作戦の中心にし、資源確保のためにシーレーン(海上輸送路)を通う輸送船の護衛には殆ど注意を払っていなかったということが敗因の原因の一つとして挙げられるようです。
一方、米国は、自国輸送船団護衛のために巡洋艦、駆逐艦、空母などからなる約200隻を超える艦船を準備するとともに、日本の民間商船攻撃のための潜水艦を西太平洋全域に配備し、日本のシーレーンの破壊を目論見ました。
  
日本の陸海軍は、軍事優先の見地から、作戦行動に参加した徴用船こそ海軍の艦船によって護衛しましたが、前線部隊の兵力・物資の補給のため、或いはわが国生活物資の補給のためのロジスティクス(注2)を重視しない結果、資源の輸送に当たった輸送船は当初単独輸送を強いられることもあったり、船団方式を取っていても弱体な護衛で、米軍の格好の餌食になりました。
 こうして戦争が進むにつれて、潜水艦の魚雷攻撃や空爆、触雷、砲撃などにより、民間商船等の多くが失われ、その補充を図るべく「戦時標準船」という資材・工程を簡略化して大量生産した船や、更には機帆船や漁船も駆り出されましたが、そのような船もまた、ほとんどが犠牲になりました。
 南方各地が激戦の中心となっていく中で、満蒙などに温存されていた陸軍の精鋭部隊は、輸送船で占領各地に輸送されていきました。その途中で輸送船が撃沈され、多くの軍人が戦わずして海の藻屑と消えていきました。そして非戦闘員ながら、戦闘地域に赴き、本土と前線部隊との間の海上輸送に命がけで取り組みながら、犠牲になった6万人に上る商船・機帆船や漁船の乗組員のことも忘れてはなりません。船員の損耗率(人口比の死亡率)は43%と、軍人の損耗率(陸軍20%、海軍16%)を上回り、又、15〜16歳といった年少船員の犠牲が多かったことも特筆すべきでしょう。
 以下にその喪失した民間船と乗組員(船員)の数を掲げ、謹んで哀悼の意を表したいと思います。
 太平洋戦争で失われた船(除・軍用船): 7,240隻
内  官・民一般汽船 :  3,575隻
機帆船 (機械と帆で走る船) : 2,070隻  
漁 船 : 1,595隻
死亡した 「乗組員」(船員) :  60,608名

(「戦没した船と海員の資料館」 http://www.jsu.or.jp/siryo/index.html 及び「日本殉職船員顕彰会」 http://www.kenshoukai.jp/より引用)

2018年04月11日 (水) 13時08分


[1041] 鳥飼研究室
From:菊池金雄 [/]

http://www.geocities.jp/torikai007/war/war-index.html

2018年04月09日 (月) 19時37分


[1040] 開戦前夜の東京湾における触雷〜SOS事件追跡資料
From:菊池金雄 [/]

http://www.geocities.jp/torikai007/pearlharbor/mine1941.html

2018年04月09日 (月) 14時07分


[1039] 特設敷設艦「高栄丸」
From:菊池金雄 [/]

特設敷設艦「高栄丸」は、潜水艦5隻を仕留めたという、特設艦艇の中では随一のエース艦であると考えられます。

https://ameblo.jp/pico32/entry-10003014071.html

2018年04月06日 (金) 15時53分


[1038] 魔のバシー海峡突破・・・夕食
From:菊池金雄 [/]

小型タンカー昭豊丸の航跡

約一ヵ月後の深夜、突然の指令で海軍の徴用船、和洋丸(約三千トン)で マニラから台湾の高雄まで便乗することになった。昭和19年12月1日午前十時半頃--和洋丸・萩川丸の二隻船団は、三隻の護衛艦に守られてマニラ港をあとにした。そして、翌日の午後三時頃--船団はサンフェルナンド港に仮泊--十二月三日朝、高雄向け抜錨した。敵は、日本の重要なシーレーンであるバシー海峡に多数の潜水艦を配備して虎視眈々と獲物をねらっているものと推測された。北上してまもなく、北よりの季節風が強まり--船団の速力は十ノット(時速十九Km)から三ノット(時速六Km)に落ちた。翌四日も荒天--各船は終日難航した。その夜和洋丸は、バシー海峡中央部にある、サブタング水道に辛うじてすべり込み仮泊した。しかし僚船萩川丸と護衛艦を見失なってしまった。終夜--僚船と護衛艦を待ったが遂に合流できず、荒天のためか、または敵襲で消えたものか分からなかった。十二月六日午前七時半--和洋丸船長は悲壮な決断。単独で魔のバシー海峡突破を強行しなければならなかった。ただ一つの頼みの綱--高雄海軍基地からの航空機による支援--接触できなかった。午後になって、北西の季節風がしだいに強まる--夕刻には風速二十メートル以上の暴風雨--速力が五ノット以下になった。敵潜側は、荒天下の攻撃は至難であったものか、幸運にも和洋丸は敵の網をくぐりぬけ--十二月七日午前十時無事高雄に入港することができた。(海上平穏なとき、和洋丸船内に「浜辺の歌」のメロデーが流れる--以来この曲を耳にすると、魔のバシー海峡がまぶたに浮かぶ )

2018年04月06日 (金) 14時44分


[1037] 戦禍 船員に対する 陸海軍の処遇事例
From:菊池金雄 [/]

レイテ作戦当時、マニラに一万人くらいの遭難船員がホテルやマンションに収容され、中にはダンスホールで空き室待ちを余儀なくした。これが管理は陸軍の停泊場司令部で最小限の衣服も支給された。海軍徴用船の場合は、軍の雑務にかりだされたとのこと。
 なぜこんなに大勢の遭難船員が集まったのかは、敵に制空権をうばわれたのに、しゃにむにレイテ作戦に増援部隊を投入したため戦没船が続発したことと、日本への帰還させる便船が僅少であったからである。

 一例だが、昭和19年10月25日、私の乗船、小型タンカー昭豊丸がスルー海で爆沈。運よく僚船に救助され。マニラ〜高雄経由で、散散苦労して門司に帰還したら、暁部隊から一流料亭を宿所にあてられ、長袖衣服(当時流行のカーキ色の国民服)が支給された。翌日の軍属解雇式で暁第2940部隊長が全帰還船員に木盃を配って謝辞を述べ、自宅までの切符も渡された。
 他方、海軍徴用船の場合・・・徴用船の戦没は軍秘とて、小人数ごとに分宿させられたとのこと。
 これらのマニラで待機の遭難船員中、各船の船長・機関長は軍の輸送機で空路帰国し、門司で自社船員を出迎えたケースもあるが、出迎えしかなかった例が多いのは会社側に帰還情報が無かったのではないかと思う。それは、私が帰郷途次、真っ黒な顔で会社に出向いても、誰一人から「ご苦労さん」の言葉が無かったことからも首肯できる。

 当時衣類が欠乏だったので、事後、この国民服は外出用に重宝だった。

2018年04月05日 (木) 16時56分


[1036] 商船 向日丸 護衛〜爆沈記;第82号海防艦 森艦長手記
From:菊池金雄 [/]

http://www.geocities.jp/ken_kikuchi3/kaneojp/03/0314.html

2018年04月05日 (木) 15時27分


[1035] 向日丸戦記
From:菊池金雄 [/]

終戦間際の北鮮の羅津港で突如 ソ連雷撃機編隊に襲われ 九死一生で逃れた向日丸戦記の一部が下記文庫本の第6章に収録されていますので付記いたします。
 戦時船員たちの墓場「光人社NF文庫」203ページ。

2018年04月05日 (木) 09時06分


[1034] ある老船員の繰言
From:菊池金雄 [/]

               09年11月
@ 某海上保安部に転勤早々 海兵出の他課の係長が私の部下に
○○がまだか! と命令口調で詰問したので 私は戦時中軍人どもにさんざんこきつかわれた恨みが噴出して口論になり 彼が部長に注進・・・馬鹿げたことに部内全体会議で決着する羽目となりましたが 私は自説を貫徹・・・彼と仲直り後・・・あなたの前職? に対し{商船}と応えたら・・・商船はつまらない・・・というので何故?・・・機関科は士官でも作業衣が油まみれだからというので それは当然で商船は住み心地良いと反論しました。
A観音崎に戦没船員の慰霊碑があり、毎年5月に追悼式があります。終戦間際、向日丸乗戦時、日号作戦に従事し、北鮮の羅津港で積荷中、ソ連参戦のため自船が危険となったので、喀血のため病臥中の次席通信士を近傍の満鉄病院に入院させ 船がやられても彼は生き延びるだろうとの判断が逆となり 駄目かと思った船が無事帰国・・・事後彼は現地で戦病死とのことで・・・その罪滅ぼしに 前記追悼式に初参加した際 初対面の他社OBと式典会場に同行の折・・・開口一番・・・自分は海軍に召集され・・・「貴様 商船乗りか」と 散散しごかれたことの悔しさを語りました・・・これは当時の軍尊民卑思想の一端です。
B 前記、ソ連参戦下の羅津港には、当時大型貨物船17隻が荷役中で、着岸中の船は格好の標的となり、次々と被弾〜炎上〜沈没の修羅場となり・・・即刻、港外に脱出させるべきにもかかわらず、軍側から何らの指示もなく 本船は船長が負傷して入院したため、一夜、保船要員以外を陸上に避難させた際、何と、近傍の防空壕は陸兵が満員で、他船の船長が重傷を負ったので運びこもうとしたら「ここは軍の防空壕」とて拒否されたとの信じられない実話もあります。
C 当時羅津には海軍航空基地があり水偵4機が配備されていたようで、対岸の商船隊の惨状を望見しながら、転進を口実に、夜陰に舞鶴に遁走したとの記録もあります。

2018年04月04日 (水) 06時58分


[1033] 「硝煙の海」貸出
From:菊池金雄 [/]

http://library.main.jp/index/jst24617.htm

2018年04月03日 (火) 18時34分







名前
題名
Color
項目の保存 削除キー
Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】Amazonからブラックフライデーセール12月6まで開催中
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板