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「硝煙の海」談話室

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[1032] 勧進帳 ( カンジンチョウ
From:菊池金雄 [/]

http://enmokudb.kabuki.ne.jp/repertoire/673

2018年04月03日 (火) 15時59分


[1031] 海上保安庁長官に中島氏 2代連続で現場出身
From:菊池金雄 [/]

https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG14H1M_U6A610C1EAF000/

2018年04月03日 (火) 14時34分


[1030] ドイツ ライン川下り
From:菊池金雄 [/]

https://www.youtube.com/watch?v=vROe70ywr3M

2018年04月02日 (月) 17時13分


[1029]
From:菊池金雄 [/]

https://search.yahoo.co.jp/search?p=菊池金雄&aq=-1&oq=&ai=oDrDTC

2018年04月01日 (日) 16時16分


[1026] 「ある船乗りの太平洋戦争」を読んで 
From:菊池金雄 [/]

                                大同海運OB 菊池金雄

 たまたま私もあの戦争の生き残りの一人なので大変興味深く読みましたので、拙い感想など述べさせていただきます。
 先生と私は同齢のようで、よくぞ生き延びたものと己の航跡と照らしながらページをたぐりました。しかして今日、往時の語り部も逐次鬼籍にはいりつつありますので、大変希少価値の作品と思い、特に感銘した章を抽出してみます。
@九章;実はご覧になったと思いますが「海員」12月号の「浜辺の歌」は老生の投稿で、元海兵卒との馬鹿げたサヤ当てです。彼らは戦後も軍人気質で下級者に高圧的言辞を弄することに反発した訳ですが、御著にある機関科士官のすさまじい実務作業を彼等に体験させてやりたい衝動にかられました。
A十四章 十五章 魔のバシー海峡を辛くも突破。10月24日マニラ入港〜陸兵揚陸後米機空襲〜機関長通信長戦死〜船体浸水、着底〜砂浜にシフト等 生々しい情景が自身の体験イメージと重なり身につまされる思いでした。
B二十章;軍人たちの軍尊民卑的横暴の終焉は全く同感。特に海軍のシーレーン保護軽視は資源ゼロ島国のアキレス腱で、あまたの仲間の犠牲に慟哭を禁じ得ません。
Cその他
   戦時船員の処遇改善に海軍が極めて冷淡であったことは同じ船乗りとして許しがたい嫌悪をもよおすのは老生だけでしょうか?
   いわゆる商船は民間会社所属で、軍艦のように画一的記録等は至難なため、今日各船の戦時記録がまちまちであることは誠に遺憾です。その補完は当然主務官庁が当たるべきであるのに、その形跡がなく、大同海運の場合は、自社戦没船の一覧表だけで各船個々の戦記なしでした。
   話が前後しますが実は私も数年前に己の戦時体験を編み、自費出版の折、資料不足で困りました。一例ですがS18年10月沖縄近海で被雷沈没の高瑞丸の場合、会社の記録では船員戦死ゼロなのに、他の資料では3名とあり、当時の機関士と接触して確かめたところ、海軍艦艇に救出され佐世保の旅館に「沈没の件は軍極秘」とて、小人数で分宿したので犠牲者はあったかと思うが正確なことはわからないとのことでした。
   繰り返しになりますが、その辺の補完は当然海運主務官庁がなすべき事項にもかかわらず今日も未確認とは情けない次第です。
   しかし「船員待遇軍人案」実現に奔走した土屋研一事務官の存在は特筆大で、私も同人等の献身ぶりを書いてみたい思いでしたが、本書191ページにあり、さきを越されたかと苦笑するとともに、よくぞ公開なされたものと評価を惜しみません。

2018年03月29日 (木) 15時38分


[1025] 大愛丸慰霊碑完成
From:菊池金雄 [/]

http://www.geocities.jp/takehiro63/kansei.htm

2018年03月26日 (月) 15時42分


[1024] 『海なお深く—太平洋戦争 船員の体験手記』【書 評】
From:菊池金雄 [/]

【書 評】
『海なお深く—太平洋戦争 船員の体験手記
10 - 大阪哲学学校通信 No.33 Osaka Independent School of Philosophy 【書 評】
『海なお深く—太平洋戦争 船員の体験手記』
木村 倫幸(参与)
 「広大な西太平洋海域に戦線の拡がった太平洋戦争の本質は海上補給戦であった。/大量の軍隊を送り込んで東南アジア地域を占領し、その資源をもって国力を補充しながら戦争を遂行しようという戦略を支える根幹はすべて海上輸送態勢に依存していた。/(中略)/しかし、実際に輸送を遂行する中で、軍部のとった海上輸送に関する対応は、この時期における世界の海洋国家の近代的な輸送戦への戦略常識とは著しくかけ離れたものであり、それが結果して本書に記録されたような『輸送船の悲劇』を生む母体となったのである」(本書解説)。
 このように本書は、「第二次大戦への参加を余儀なくされた(いま風にいえば『業務従事命令に従った』)船員の体験手記である」(復刻版あとがき)。
 もともと本書は、産別労組、全日本海員組合の創立40周年事業のひとつとして1986年に編まれた(発売・新人物往来社)。そして20年後の今、再び海員組合と日本海員福祉センターの記念事業として本書が復刊されることになった。これが海の平和を願い、船員受難の姿を伝える本書の背景となっている。
 太平洋戦争において日本の商船隊(百総トン以上)は、2568隻、843万総トン余、保有船腹の88%を海底に沈められ、船員は総数6万人余が戦死したとされる。しかしこの事実は、戦闘艦艇による激烈な海戦の陰に隠れてしまってあまり知られていないのが実情である。
 それにしても就航船の88%が撃沈させられるという事態がどうして生じたのか。本書解説は次の3点を指摘する。「全般的な戦時輸送態勢への見通しを決定的に誤っていたこと」、「近代戦では常識とされた海上交通破壊戦略への認識を著しく欠いていたこと」──すなわち極端な戦闘主体・補給従属思想が軍部の戦時輸送に対する考え方であった、「軍部の傲慢な特権意識による商船軽視の思想が支配的であったこと」である。
 このような状況からもたらされた結果を受け止めて、本書は、「戦時中に船員が、軍事主義下での非人間的、消耗品なみの扱いを受けた屈辱は忘れることはできない。こんな暗黒時代は二度とあってはならない」(序)と主張する。
 本書の構成は、1941年(昭16)の開戦時より戦後の遺族の手記まで経年的にまとめられている。「第1章 緒戦の海」「第2章 制海権なき帝国シーレーン」「第3章 戦火の海の標的となって」「第4章 特攻船団の壊滅」「第5章 受難の傷あと」「第6章 残された者の戦記」と続くが、戦争が長期化するにつれ、制空権も制海権も失われて、護衛艦すら満足にない状態で、丸腰同様の輸送船団が次々と沈没していく姿が痛々しい。その実態を本書で読んでいただきたい。
 このような中で追い詰められた船員たちのさまざまな声が聞こえてくる。
 「船員は軍属とされていたが、実態は船員たち自身が『軍犬、軍馬、軍鳩、その下に船員』と自嘲したほど、まるで軍人の召使いか戦争の道具のように扱かわれた話は枚挙にいとまがない」(解説)。
 「皆お互いに黙して語らなかったが、身に寸鉄もおびずに敵中を往来する、やられっ放しの船員と、及ばずといえども一矢むくいる弓矢を持った軍人との差は、まさに雲泥のそれであった」(第- 11 - 大阪哲学学校通信  No.33
5章)。
 「正直いって輸送船船員としては死にたくはなかった。『どうせ死ぬのなら、俺も海軍艦艇に乗って鉄砲の一発も撃った上で名誉の戦死とやらにしてもらいたいものだ』と何度思ったことだろう」(第2章)。
 「第二次大戦では、海上輸送に従事した商船の、いわゆる武器なき戦いの中で多くの船員が死亡したが、これらの人々が靖国に祀られたとも、勲章を授けられたとも聞かない。観音崎に建てられた顕彰碑が、その唯一のものではなかろうか」(第1章)等々。
 これらの思いについては、軍人とは異なる視点からさまざまな評価が可能であろう。最後の文は、現在議論の渦中にある靖国神社の性格の一面を言い当てている。
 また1942年(昭17)後半より、大型商船の撃沈が増加するにつれて、その不足を補うために多数の漁船・機帆船が徴用された。船足が遅く、何の武器も持たないこれらの船が多大の被害を受けたことは言を待たない(第5章)。しかし本書ではそのごく一端が見えたに過ぎず、33万9千総トン程度とされている戦時喪失機帆船(平均百総トンとして約3400隻が沈没したことになる)の実態は依然として不明のままである。
 このように戦時下の船員の状況は、危険極まりない上に悲惨なものであったにもかかわらず、その活動の全貌は、戦後60年の今日まだ見えていない。そして本書に寄せられた手記の幾百倍もの人々が、声をあげることのできぬままに死んでいったという事実を忘れることはできない。シーレーン問題が論議され、あるいは有事立法によって民間施設等の軍事的使用が探られている現在、過去に直接戦争に関わらざるを得なかった船員たちの経験を伝えていくことは、ひときわ大きな意味を持つようになってきている。本書がこのことを考えていく大きな手がかりとなると確信している。本書の解説は、最後にこう語る。
 「敗戦の後に多くの戦史や戦記の類が著され後世に残されてゆく中で、輸送船の記録はきわめて少なく、稀にあっても、それは『戦力』としての側面からの歴史であり、数字であることが多かった。/(中略)/私たちの海の先輩たちが生きた戦時下の海がそうであったと同じように、歴史までもが強者の論理に覆いつくされてしまっていいはずがない。商船船腹量の88%を壊滅的に失い、商船船員の推定死亡率が陸海軍軍人のそれの1.4倍もの高率であったという史実は、明確に歴史の中にとどめて世に伝えるべきことであるはずだ」。
『海なお深く──太平洋戦争 船員の体験手記』
(全日本海員組合編、2004.8.15.発行、中央公論事業出版)

2018年03月20日 (火) 16時57分


[1023] 神戸空襲の概要
From:菊池金雄 [/]

 アメリカ軍による日本本土への空襲は、昭和17年4月18日に、東京・名古屋・四日市・神戸どを空襲したのが最初で、神戸では兵庫区中央市場付近が被害を受けたが本格的なものではなかった。
神戸市域に対する無差別焼夷弾爆撃は、昭和20年2月4日に初めて行われた。これは、それまでの空襲が軍事施設や軍需工場への精密爆撃から焼夷弾による爆撃へと方法を転換するための実験的焼夷弾攻撃であり、林田区、兵庫区一帯および湊東区に投下された。
都市に対する無差別焼夷弾爆撃が、3月10日の東京大空襲を皮切りに本格化し、名古屋、大阪に引き続き神戸は、3月17日未明の大空襲により、兵庫区、林田区、葺合区を中心とする神戸市の西半分が壊滅した。
また、5月11日の空襲では、東灘区にあった航空機工場が目標とされ、爆弾による精密爆撃が行われた。この空襲では、灘区・東灘区が被害を受けた。
さらに、6月5日の空襲では、西は垂水区から東は西宮までの広範囲に爆撃され、それまでの空襲で残っていた神戸市の東半分が焦土と化した。
こうして、3月17日、5月11日、6月5日の3回の大空襲によってほぼ神戸市域は壊滅した。
空襲による現在の神戸市域の被害は、戦災家屋数14万1,983戸、総戦災者数は、罹災者53万858人、死者7,491人、負傷者1万7,002人という大きな惨禍であった。

2018年03月20日 (火) 15時22分


[1022] 輸送船警戒隊
From:菊池金雄 [/]

有明書房 船舶百年史刊行会 船舶百年史後編 上野喜一郎 16項より

Aある輸送船警戒隊員の手記から
 大正十二年生まれ 昭和十九年二月一日 佐世保第一海兵団に入団。十日後に博多港か
ら病院船で釜山に入港、列車で羅津特別根拠地隊に入隊。ここで約十日間初歩軍隊教育を
受け、二百人ぐらいが大型船で新潟に移動。陸路、横須賀海兵団船舶警戒隊に入隊。
 四月十五日命により三十二名引率して横浜港に向かう。われわれを待っていたK兵長の
指揮下で泰国丸(朝鮮郵船、約九千トン)の警戒隊員として乗船。デッキには上陸用舟艇
が足の踏み場もないくらいロープがけして搭載。十三ミリ機関砲二門が装備され、K兵長
が射手、私が距離測定、他の一、二、三番は弾薬手を下命された。五月一日二〜三隻船団
に駆逐艦「水無月」と駆潜艇約十隻が護衛して無事サイパン到着したが、当時同島は物資
欠乏のため艦船の兵は上陸禁止であった。五月十日サイパンからパラオ向け航行中の夜間泰国丸に米潜の魚雷一発が船首に、二発目は船尾に命中。沈没までの数分間、真っ暗闇での脱出は生死の分かれ目で、私は船が沈む反対側の舷から海に飛び込んだので助かったが、他の舷側の同年兵たちは船と共に海中に巻き込まれ助からなかった。私らは幸い駆潜艇に救出された後、「水無月」に移乗した。
 当時パラオ向けの陸軍の輸送船の被害が甚大で船団が崩壊したため「水無月」は我われ
を救助したまま、元のサイパンに戻ったので、私たちはサイパン警備隊に仮入隊することになった。
 サイパンでは疎開家屋解体作業に従事していたが、やがて最後の引揚げ船で沢山の邦人
とともに我われ生き残り機関砲兵員も便乗して奇跡的に無事横浜に入港することができた。 転属先は横浜市にある船舶警戒隊で、六月になって私たち三人は大型船で門司まで便乗し「長平丸」(大連汽船)の船舶警戒隊員に任命された。この船は朝鮮の元山、仁川や北支の秦皇島(しんのうとう)方面からの物資輸送で、われわれの任務は対潜、対空が主任務で、最低二時間交代で警戒勤務に従事し、次の隊員に現在の状況を確実に把握させることが本船の生死にかかわる大な責務であった。
 その後、台湾や香港へも回航したが、台湾大空襲後の現地では、焼けた砂糖がべったりとアスファルト状に溶けて、甘い香りを発散していた。
 昭和十九年五月、私は水兵長に進級、引き続き船舶警戒隊員として八名くらいのグループで任務に従事していたが、台湾沖航空戦や、比島沖海戦等徐々に状況険悪となり、本土は勿論、支那大陸沿岸、台湾海峡、東支那海等の敵機の空襲、敵潜水艦の跳梁、さらには艦砲射撃等、日に日に敗勢を肌で感じられたが、幸い我われは空襲や雷撃を免れていた。
 六月になると、サイパン・テニアン島砲撃や、海兵隊の上陸。サイパン守備隊の苦戦、玉砕の情報を船の無線で傍受して、若し我われが残っていたら玉砕だったろうと複雑な思いだった。その後パラオ諸島にも米軍が上陸と知り、運の良さと、先に沈没〜戦死した戦友に対し、哀悼切なるものがあった。
 その後「長平丸」が上海から帰国の際、黄海で米軍機から執拗な銃爆撃に遭い、人員の殺傷は無かったが、船体に損傷を受けたので、大連のドックで修理中に終戦の報に接するも信ずることができなかった・・・しかし事実と知り一挙に力が抜けてしまった。
 ここは中国領でも海軍の我われはソ連軍管理下の抑留(捕虜)で、食事はロシアパンなどで質が悪かった。ソ連兵は掛け算、割り算ができないので人員点呼などには時間の浪費が目立った。我われの労働は大連以外の中国奥地にも移動していた。そのうち、アンペラを積んだ貨車が来て、実は明日シベリアへ連行の予定が何故か中止となり、昭和二十三年に、海軍軍人だけ三十人位で大連から長崎県南風崎海兵団に無事帰国した。
 復員は遠方の者からで、福岡県の私は最後となり、外地勤務では自宅(母子二人家庭)に音信もできなかったので、母は私の顔を見るなり涙をポロポロ・・・私も一緒にもらい泣きしたのであった。

参照文献 平和の礎(軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦)

2018年03月17日 (土) 16時29分


[1021] 終戦直後の回想
From:菊池金雄 [/]

@神戸での空襲警報
 向日丸(むかひまる)が北鮮の羅津で、ソ連機の追撃から奇跡的に逃れ、終戦二日後の昭和二十年八月十七日に無事舞鶴に帰還。GHQの指令で無為に長期停泊を余儀なくしていたが、私は交代下船の根回しのため神戸の会社(大同海運)に十月七日出張し、一夜先輩の簗瀬氏宅にお世話になった。
 実は本船に乗船途次の五月十日も泊めていただき、翌朝辞去の折、簗瀬氏の奥様の妹さんが、私の同僚であるY君と新家庭を持ち、近所に居るから尋ねて見たらと助言があったので立ち寄ったことを思い出した。
 Y君とは初対面であるが、同じ職種なのでお互い知悉しており、玄関先で双方率直に心情を語り合い、私はすぐ船舶運営会に行き、乗船指令を受け、更に大同海運にも挨拶に回った。
 ところが・・・Y君が爆死したらしい・・・と言うので・・・それは変だ・・・私はさっき彼に会ったばかりだ・・・と、反論し、玉野ドックの向日丸に向かった。
 当時Y君も予備員の筈だが、明日は横須賀に電探講習のため出張するとのことで、向日丸配乗は私に回ったものと推察された。
 さて話を前段に戻すと・・・簗瀬氏の奥さんが私の顔をみるなり・・・菊池さんは運の良い方ですネ!・・・
と独語された・・・と言うことは、新婚のY君ご夫婦は空襲警報のため近くの防空壕に避難したのであるが、運悪く直撃弾で爆死なされたとのことであった。
 実は、私が船舶運営会に向かう途中、空襲警報のため近くのビルの地階に避難した記憶があり、或いはそのときの空爆かも知れず、若しY君と長話すれば一緒に避難したことであろう。
 今思うと、生前Y君ご夫婦に会ったのは私が最後のようで、切にご冥福を念ずるばかりである。

A山陰線脱線事故
 前記用事後の翌日、舞鶴に戻るため京都から山陰線に乗り継ぎ豪雨下を走行中、綾部の手前辺で列車がガックンと急停車した。私は前から二両目客車だったが、一両目の乗客が・・・命拾いした、と言って移乗してきた。 原因は機関車と一両目が脱線・・・機関車は右崖下の濁流に落下。幸い一両目客車は脱線しても連結のままで人命に異状なく、一夜現場に停車し、翌日救援車で綾部方面に向かった。
 この事故について最近「あやべ市民新聞社」に事実関係を問い合わせたところ
○ 多分、昭和二十年十月七日から九日にかけて襲った「阿久根台風(台風20号)」と思うこと。
○十月八日、京都発〜福知山行きの山陰線旅客列車が山家―綾部間で山崩れのため機関車が由良川に転落して、機関手、助手ら四人行方不明となったこと。
が確認できたことは、ひとえに前記新聞社のご好意と感謝したい。
また、この事故以来なるべく後部車両に乗る習慣が身についたように思う。

2018年03月16日 (金) 19時16分







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