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「硝煙の海」談話室

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[1006] 能における「発声」の効用とは
From:菊池金雄 [/]


能や狂言の演者や謡、鼓の掛け声などは、非常に大きな声が特徴です。大きな声を出すには「腹から声をだせ」とよく言われます。この「腹」とは、気功や東洋医学などで臍下三寸にあるとされる「丹田」を指します(この場合の1寸は身長や指の大きさから割り出す相対的なサイズです)。
では、なぜ丹田から声を出すと、大きな声になるのでしょうか。
丹田からの発声では、筋肉が瞬時に非常に大きな力を発揮することが分かっています。これは、肋骨の内側の「横隔膜」とともに、骨盤底にある「骨盤隔膜」もが振動し、さらにこのふたつをつなぐ大腰筋をはじめとする深層筋が活性化される、いうメカニズムが働くからです。これが健康によい効果をもたらします。
また医療・治療の分野では、謡の発声の仕方が、リハビリテーションにも有用ではないかと着目する研究者もいます。
一方、大きな声は、私たちが無意識に「心」に掛けているブレーキをはずす、ともいわれます。運動選手がプレー中に大きな掛け声を出すのは、普段以上の力を出せると無意識に感じているのでしょうか。丹田からの発声は、自己を解放してストレスを発散し、心の健康を保つのにも効果がありそうです。
参考文献:
『能に学ぶ「和」の呼吸法』 安田 登 著 祥伝社刊

2017年12月31日 (日) 10時17分


[1005] ラバウル航空戦
From:菊池金雄 [/]

http://www1.mahoroba.ne.jp/~ple/t211.html

2017年12月08日 (金) 14時44分


[1004] 戦時船員たちの墓場
From:菊池金雄 [/]

  土井全二郎著 光人社NF文庫
副題に「海を墓場に…戦時船員の記録」とある。
全編が戦争継続を底辺で支えてきた輸送船(戦時徴用船)の悲劇の記録集となっている。いずれもドラマティックな物語で、それぞれがドキュメンタリー小説の素材になりうるほどのものである。船の雄姿と元船員の写真(『戦時船員の記録』)が掲載されている。関係者には涙なくしては読むことができない本であろうと思う。
日本の敗戦は兵站力の貧弱さにあったといわれる。先の戦争では太平洋の全域に兵力を展開せざるを得なかった。それを維持していくための兵と食料、資材、武器などの消耗品を目的地に届けねばならない。さらに日本国内での需要を満足するための資源を外地から確保搬送しなくてはならない。それがどんなにか難しくまた危険な課題であったかをこの本は物語っている。
海は危険に満ちていた。敵側の潜水艦からの魚雷攻撃、飛行機からの空襲に輸送船は無防備で対抗できなかった。
船員は危険な海に出ていくのも隠密行動をとらされた。軍隊と同じである。家族も憲兵や特高の絶え間ない監視を受けていた。
軍艦なら話題になるが、漁船が襲撃されてもニュースにもならない。
開戦の日(昭和16年12月8日)の太平洋上は、どこもかしこも、一触即発の緊張状態であった。2隻の漁船が敵機により滅多撃ちにされている。漁船は沈み、早くも10名の漁民が戦死したのだが、報道はされていない。
章立ては1 暗雲、2 開戦、3 敢闘、4 苦闘、5全滅、6 落日 となっており、開戦前夜から全滅までの輸送船、徴用船の歴史と運命が描かれている。
『敢闘』の中の「敵潜水艦撃沈」という章では、敵潜水艦を2隻も撃沈した松本丸という老朽船の話に胸すく思いがする。「戦火の中の交情」では船員一人の命を守るため、駆逐艦・秋雲を停止して盲腸炎の手術をした話が語られている。
貴重な重油を搬送するタンカー6隻にたいし、護衛艦はたった一隻で、これには海防艦・対馬があたった。日東汽船のタンカー・旭栄丸は潜水艦攻撃で沈没、洋上に脱出した乗組員に銃撃を加えようとする敵潜水艦に対して、護衛艦は戦略上、軍律違反にあたるかもしれないところ、これを救助した。
 このあたりは日本側にまだわずかに余裕が認められる。しかし、貧弱な護衛では限界がある。日本側はしだいに全滅への道へと追い込まれていく。敵側の攻撃は潜水艦攻撃と飛行機による空襲によるものであるが、その物量に圧倒される。
 それでも戦地におもむくには、船に乗って海路を行くしかない。
船員も兵隊も死を覚悟して乗船する。陸路行軍の方がまだましだと思ったに違いない。小国民であった少年の私は、敵の攻撃によって船が沈没する状況を想像した。私は泳げなかったので海で水泳の練習にはげんだものである。
 海で果てた人たちの遺骨は永遠にかえることがない。
 補給線をたたれ、兵站力がなくなると、軍隊は、戦力を失う。兵隊は飢えと戦う結末となっていった。
米軍側は標的に事欠いたのか、非武装の病院船にまで無差別に攻撃をしかけてきた。国際規定どおりに夜間照明により煙突や船腹に赤十字を照らしていた。これは「明らかに国際法違反であった。かりに日本軍が連合軍側の病院船を一隻でも撃沈していたら、戦後、どれほど責任を追及されたことだろうか」と書かれている。
『全滅』にいたる章は読むことすら重いが、最終章の『落日』には味方陸軍潜水艦に突っ込んだ伊豆丸の話や大剛丸のたった一人の生き残りの船員の話が書かれており、まるで冒険活劇のようでわずかに読者に救いを与えてくれている。

2017年12月06日 (水) 15時52分


[1003] 高瑞丸絵葉書 大同海運株式会社
From:菊池金雄 [/]

https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/s346396366#enlargeimg

2017年11月26日 (日) 18時41分


[1002] 米寿の関西行脚余談
From:菊池金雄 [/]


                    08年10月  菊池 金雄
去る10月26日神戸の旧船会社(大同海運梶jのOB会である同友会から3年毎の物故者追悼法要も行う旨の案内があり、あの戦争の末期、ソ連機の空爆に曝された北鮮の羅津港を奇跡的に脱出した私の船(向日丸=むかひまる)が必死に南鮮向け避航中、清津沖で追撃してきたソ連雷撃機に襲われたとき、首尾よく第八十二号海防艦と合流。両艦船と敵雷撃機と激烈の海空攻防戦を展開。向日丸は敵機2機撃墜するも、該海防艦は敵機3機撃墜後、不運にも被雷〜轟沈したため、向日丸が生存者を懸命に救出して城津まで送り届けた秘話があったのであるが、今回の法要にその生き残り代表者が、すでに亡くなった当時の向日丸船長以下乗組員各位へ、往時のお礼の追悼文を奉納する手はずで、今日参集するOBはすべて戦後派のためと、会社側には自社船の戦没一覧表だけで、生存船の戦時記録も見当たらないので、私が6年前に上梓した拙著「硝煙の海」が唯一の記録のため、証人として老骨に鞭打って西下したのであった。
 往路は25日1030発の 仙台―伊丹 ANA1836便で 久々でフライトを楽しみ、幸い徐々に晴れ間となり 一時間ほどで「渥美半島上空 中部国際空港が見えます」とアナウンスがあり 眼下にはっきり望見しながら、間もなく伊丹空港着。三宮までバスに乗り継ぎ 一年ぶりで活気に満ちた ミナト神戸の土を踏む。
物故者追悼法要は神戸市の八王寺で翌26日午前10時から催されるので、広島市から参列する海防艦側代表の横見氏とホテル パレス神戸で同泊を約束していたので、三宮で所用後、在神戸の姪のクルマでホテルまで送ってもらい、六年ぶりで同氏と再会することができた。ということは、私はかつて呉の海軍墓地にある同艦の慰霊碑に参拝したことがあったからである。
 翌日、二人で八王寺に行き、大同海運外B25名が参集して物故者の追悼法要が執り行われ、横見氏の追悼文、並びに私も、故小川次席通信士へのお詫びと、スルー海で爆沈した昭豊丸戦死者への追悼及び、故中村清三郎船長の的確な指揮に対する謝辞を奉納した。
 この「商船が沈没海防艦将兵救出」は当然海軍サイドから会社へ謝辞があって然るべきなのに、当時すぐ終戦という混乱期のため今日まで公式記録も見当たらず、膝もとのOB会は、元の会社が合併を重ね、今日、商船三井に吸収された関係もあり往時の記録もあいまいなので、今回、救助された側の代表者が参列下さったことは、私の記録の証言ともなり、有意義な法要となったことと、加えて、当日、作家の土井全二郎先生がわざわざ東京から取材に駆けつけ、何れ、次回の作品に載せてくださるものと期待されるところである。
 正午、席を改め三宮の第一楼で更に15名加わって40名が懇談し、盛会裏に閉幕した。
翌朝、横見氏と新神戸駅で東西に別れを惜しみ、それぞれ新幹線で帰途に就いたのであった。

2017年11月26日 (日) 16時31分


[1001] 海軍(舞鶴鎮守府)徴用船 高瑞丸戦記余禄
From:菊池金雄 [/]

                   平成二十二年一月             菊池金雄
私は昭和十五年一月太洋海運(その後大同海運に移籍)恵昭丸(五八〇〇トン)で、新米の通信士を満二年間修業してから、昭和十七年六月高瑞丸(七千トン)に舞鶴港で乗船した。
実はこの船の戦歴は何も関知していなかったが、普通船員が相当交代する様子を垣間見た。下船グループはオールウエーブラジオやシンガーミシンなど携行、こんな危険な船はごめんだと言っていた。
しかし、士官グループからは戦争に参加云々は耳にしなかったが、実習で乗った員外通信士が戦闘中・・・気が狂ったように逃げ回ってもてあました・・・と言う話は耳にした。
林局長からは全然戦時談は聞かなかった・・・ところが拙著「硝煙の海」を平成
十四年に上梓するにあたり、八方に会社の戦時資料収集過程で「ジャパンライン想出集」に出会い、その中に林局長が下記一文を投稿していたので、はじめて同船がラバウル攻略作戦に参加した事実を知ることができたのであった。
「昭和十七年一月二十三日未明、わが陸海軍の部隊は、高瑞丸を含め約三十隻の艦艇に分乗。 ラバウル攻略のため敵前上陸を敢行し、無血で占領した。
高瑞丸は、その後ラバウルを基地として同年 六月頃まで小作戦に協力。その間潜水艦攻撃やら、豪州空軍の爆撃に遭うなど、恐ろしい事ばかりで全く生きた心地がしない毎日だった。
特に、ニューブリテン島東南のスルミ攻略では、豪州空軍から爆撃を受け、七十キロ爆弾が三番船倉に五個命中。一個不発、他の一個は喫水線ぎりぎりのため浸水。右舷はみるみるうちに傾き、もはや沈むかと思った。
この爆撃機の攻撃戦法は、低空から船腹への水平爆撃だった。幸い、勇敢な村垣範通機関長の適切な応急措置で、左ウイングタンクに海水を張り、弾穴が喫水線上になるように船体を傾けた結果、沈没を免れた。
その数時間後。工作船「津軽」が穴を塞ぎ、無事ラバウル基地に帰港することができた。
 当時、ラバウルは一日数回の空爆に晒されていたが、高瑞丸は同年六月舞鶴軍港に無事帰還した。」
最近になって、前任の次席通信士が相良信夫氏だったことを知り、懐かしさ一入である。
とにかく私は恵昭丸で修業したので実務には自信があったが、林局長は物品をことさら大事にするタイプで、新型のスーパー受信機は壊れると修理が大変だからと、旧型受信機のみ使うよう厳命されたのには不満だった。
本来、船の装備機器は可能な限り乗組員が保守に当るべきものを、壊れると困る! という発想はいかがなものであろうか?
私が乗船中は主にジャワ方面占領地航路に就航し、前戦出動は無かったが、昭和十七年十二月二十一日から佐世保海軍工廠に於いて十九日間でタンカーに改造。シンガポール経由、ボルネオのタラカンで原油搭載し徳山に輸送後、私は交代下船した。
それから三ヵ月半後の昭和十八年十月十四日沖縄北方で雷撃をうけ沈没。社史では戦死者ゼロなるも、他の資料には戦死三名と記録があり、目下関係方面に照会中なるも確認に至らない。http://www.geocities.jp/kaneojp/03/0323.html
(付記=そもそも貨物船を短期間でタンカーに改造した無謀によって、二十 隻の全改造船が戦没したようである)
林局長と二度目の鉢合わせ
私は戦後に乗り組んだ船は、ほとんど改E型戦標船ばかりだったが昭和二十五年三月高和丸
http://www.geocities.jp/kaneojp/02/0273.htmlに乗船したら、何と林局長だった。彼は専ら無線監督代行で新造船の受け取りに従事し、間もなくヒゲの西山局長と交代したのでほっとした。
 噂によれば林局長は退職後、神戸で船舶無線関係の会社を設立とのこと。本来メカに弱い人がと怪訝に思ったが、船舶無線用部品扱いのようで納得の巻きであった。機会があれば相良氏とも旧交を温めたい思いがあるが、お互い高齢なので難しいようである。

2017年11月26日 (日) 10時23分


[1000] 音痴が見つけた生涯の趣味
From:菊池金雄 [/]

 何時の間にか卆寿に達しましたので己の生き様などを回想してみます。
東北は民謡の宝庫で、わが町内会でも皆さんのすばらしい唄声に接し、うらやましく思っています・・・と言うことは、私は生来音痴のため何一つ歌えないので、現職当時あれこれ趣味を物色して謡曲班に入門。退職後も同門グループと交わり、月一回の例会で朗吟を楽しんでいます。
グループの謡会は素謡、連吟、独吟、仕舞等ですが、素謡は謡本を見ながらの発声ですから初心者でも参加できるメリットがありますので、趣味を模索の向きは是非謡曲をはじめてみませんか。
謡曲は腹の底から大声で謡ので、気分爽快でストレスの発散効果もあるように思います。
 旧職場(第二管区海保)のOB謡曲グループは春秋に例会を塩竃市壱番館で開催していますが、京浜地区OBも参加し、レベルの高い発声はおおいに勉強になります。
謡曲は「能」の歌詞の一部分を謡本に収め、初版本から指導をうけ、四季ごとの発表会(お習い会)で、シテ ワキ ツレ等に役付けされ、日ごろの精進を披露して仲間の上達ぶりに刺激されることになります。
該して師匠は、腹から大声を出せ式の教え方で、なかなか朗吟会得に至らずのところ、最近、謡の基本発声法に接しましたので目下修練中ですが、徐々に効果があるようにおもいます。
 以下に「謡曲十徳」をご参考までに付記します。
現代病と云われる気を晴らし、ストレスを解消する。
肺機能を高め、咽喉を強める。
食欲を増進し、胃腸の働きを活発にする。
集中力を養い、脳の働きを増進する。(老化防止)
自ら礼節を身につけ良識を得る。
温故知新、文学、歴史を学び知識と新しき発想を得る。
孤独をも慰め、広く知己を得る。
美しき日本語に接すると共に発音は正確、美声となる。
芸術の深さを識り、感性に富んだ美を追求し表現する。
現実の世界を離れ、中世における演歌とも云える謡曲を吟ずる。

2017年11月25日 (土) 15時48分


[999] 「硝煙の海」読後感
From:菊池金雄 [/]

平成14年6月6日  川崎 稔
 半生紀以上も前の記憶を呼び起こしての資料収集は大変な作業だったとお察し申しあげますとともに,小生も当事の記憶が蘇り興味深く読み進みました。
 第2章「緒戦の海」・・・・では偶然ですが高瑞丸が貨物船からタンカーに改造後の初航海時、佐世保からシンガポールまで私は同僚達と便乗していて、シンガポールのセレター軍港に入港した時の目の覚めるような風景・・・グリーンの芝生の丘にオレンジ色の屋根の白い家々が点在し、それを取り囲む朱色や藤色の花をつけた木々の美しさは日本では見たこともないものだったので・・・一同唖然としてその風景に見とれたのを思い出すます。
 ジョホールの王宮見学は小生と若い社員2名が貴方達とご一緒したのです。極彩色の伊万里焼の大壷が何個も有ったのが印象的でした。
 高瑞丸に便乗したのは,大同社員2名と作業員12名で「バリックパパン行きの社員2名が下船した・・・」は貴方の記憶違いで,彼ら2名は小生より1ヶ月位先にボルネオに向いました。
 高瑞丸の渡辺礼儀船長はこの航海の約半年後,ボルネオのバリックパパンの大同の子会社「大和航運」の社長として赴任したと思います。
 同社長や大和航運の社員達は終戦のときジャグルの中を死に物狂いでさまよって九死一生を得たのだそうです。
 その中の一人「野中」氏は、今も四国―松山でお元気のようで、多分87−8歳の筈です。
 また、第二大源丸も懐かしい船名です。小生が経理部整理課に勤務していたとき,航海収支計算書を船舶運営会に提出する係りをしていて、社員各自が何隻かの船を担当しました。近距離航路の船は一ヶ月に何航海もするのですが、第二大源丸もそんな船で、多分大連近くの秦皇島(しんのうとう)から石炭を積んできていたと思います。
 近海航路の船を担当すると,処理件数が多くなり皆嫌がるので、小生は進んで引き受けたので、あの頃は張り切っていたなー・・・と大源丸の名をみると思い出します。
 それから第六章「戦後の海」を加えられたのも、とても良かったと思います。それは戦時中の話だけでは、あまりにも暗すぎますから・・・・。
 カルカッタで革靴を値切って買った話などとても面白い挿話でした。
次ページで支払いを委託されたK航海士が、概靴店のインド商人に感謝された話を読むと、誰に対しても誠実な菊池さんのお人柄が良く分かり・・・ほほえましく・・・いい話だなあーと嬉しく思うと同時に、K航海士さんも菊池さんにおとらぬ誠実な人なんだなー・・・いかにも海員らしいなー・・・と思い、昔の日本人はみなこうだったんだぞー・・・と周りの人達に言ってやりたい気分になりました。
 以上「硝煙の海」の読後感を述べさせてもらいました。益々のご健勝を祈ります。

2017年11月24日 (金) 15時58分


[997] 日本近海の戦い
From:菊池金雄 [/]

http://www1.mahoroba.ne.jp/~ple/t231.html

2017年11月23日 (木) 10時31分


[995] 戦前・戦中 石油輸送追想録
From:菊池金雄 [/]

                 大同海運元船員  菊池金雄

○ドラム缶入り航空ガソリン輸送の恵昭丸(5800総トン)

太平洋戦争開戦前に、サンフランシスコから呉行きの海軍用ドラム缶入り航空ガソリンを輸送したことがある。
実際の荷揚げ先は九州の佐伯だった。当然開戦初期はこのガソリンで戦ったものと思う。
 参照Web; ://www.geocities.jp/kaneojp/02/0207.html

開戦直前には横須賀鎮守府徴傭船として、同様ドラム缶入り航空ガソリンを南洋委任統治の島々の海軍航空基地に輸送したが、大型船の荷役桟橋がないため揚げ荷に約一ヶ月を要したことは、兵站軽視の最たるものと思う。
 参照Web; ://www.geocities.jp/kaneojp/02/0213.html

 ○航空ガソリン缶満載の恵昭丸ラバウル港で果てる

 同船は私が下戦後S18年10月 やはりドラム缶入り航空ガソリンを即時陸揚げしないままラバウルで米機に爆沈されている。何故 即時荷揚げしなかったのか?
   参照Web; ://www.geocities.jp/kaneojp/03/0321.html

 ○貨物船改造タンカー高瑞丸(7072総トン)短命悲し

  タンカーの戦没補填のため貨物船高瑞丸(7072総トン)がS17年末佐世保海軍工廠でたった19日間でタンカーに改造。石油輸送に従事するもS18年10月沖縄近海で米潜に撃沈された。たまたま私は改造直後一航海だけで他船に転勤したので難を逃れた。
Web; ://www.geocities.jp/kaneojp/02/0221.html   ://www.geocities.jp/kaneojp/03/0323.html  

 注:この船の犠牲者は会社の記録ではゼロであるが、他の資料では船員三名戦死とあるので同船の生存者に確認したところ、海軍艦艇に救出され、沈没の件は軍極秘とて小人数毎に分宿させられたので犠牲者の有無は不祥とのことであった。念のため戦没船員顕彰会に問い合わせたところ「高瑞丸」関係の記録無しとのことなので、会社記録が正当かと思われる。

○陸軍徴用船、戦時標準船E型タンカー昭豊丸(835総トン・工期35日間) **航海成らず

 S19年4月私はこの船に乗組。単船でマニラ経由昭南島(シンガポール)に向かったが、途中マニラでボルネオのミリ〜マニラ間にルートが変更になり、ミリで重油を搭載。僚船共同丸とマニラ向け中にスルー海で昭豊丸が米機に爆沈されたが、幸い同航船共同丸に救助された。
当時、陸軍の護衛船がミリ〜スルー海のパラワン島北辺までは護衛したが、ここで護衛を打ち切ったことに疑問なきにしもあらず、あにはからんや米機の餌食とは解せないものがある。戦死者:海兵一名 船員一名の計二名である。 本船の沈没地点を南シナ海との説があるが米機側の誤認であることを証言する。
Web; ://www.geocities.jp/kaneojp/02/0232.html   ://www.geocities.jp/kaneojp/02/0233.html
 回顧;そもそも単船で仕向地への派遣指令は、万一戦没の際は僚船不在のため救出の手段が無いため、陸軍側の無謀な指令と言わざるを得ない。

昭豊丸と同型船の空爆写真 
 出展;  http://www1.mahoroba.ne.jp/~ple/t211.html

2017年11月20日 (月) 16時16分







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