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「硝煙の海」談話室

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[994] 「ある船乗りの太平洋戦争」を読んで
From:菊池金雄 [/]

 
                       大同海運OB 菊池金雄

 たまたま私もあの戦争の生き残りの一人なので大変興味深く読みましたので、拙い感想など述べさせていただきます。
 先生と私は同齢のようで、よくぞ生き延びたものと己の航跡と照らしながらページをたぐりました。しかして今日、往時の語り部も逐次鬼籍にはいりつつありますので、大変希少価値の作品と思い、特に感銘した章を抽出してみます。
@九章;実はご覧になったと思いますが「海員」12月号の「浜辺の歌」は老生の投稿で、元海兵卒との馬鹿げたサヤ当てです。彼らは戦後も軍人気質で下級者に高圧的言辞を弄することに反発した訳ですが、御著にある機関科士官のすさまじい実務作業を彼等に体験させてやりたい衝動にかられました。
A十四章 十五章 魔のバシー海峡を辛くも突破。10月24日マニラ入港〜陸兵揚陸後米機空襲〜機関長通信長戦死〜船体浸水、着底〜砂浜にシフト等 生々しい情景が自身の体験イメージと重なり身につまされる思いでした。
B二十章;軍人たちの軍尊民卑的横暴の終焉は全く同感。特に海軍のシーレーン保護軽視は資源ゼロ島国のアキレス腱で、あまたの仲間の犠牲に慟哭を禁じ得ません。
Cその他
   戦時船員の処遇改善に海軍が極めて冷淡であったことは同じ船乗りとして許しがたい嫌悪をもよおすのは老生だけでしょうか?
   いわゆる商船は民間会社所属で、軍艦のように画一的記録等は至難なため、今日各船の戦時記録がまちまちであることは誠に遺憾です。その補完は当然主務官庁が当たるべきであるのに、その形跡がなく、大同海運の場合は、自社戦没船の一覧表だけで各船個々の戦記なしでした。
   話が前後しますが実は私も数年前に己の戦時体験を編み、自費出版の折、資料不足で困りました。一例ですがS18年10月沖縄近海で被雷沈没の高瑞丸の場合、会社の記録では船員戦死ゼロなのに、他の資料では3名とあり、当時の機関士と接触して確かめたところ、海軍艦艇に救出され佐世保の旅館に「沈没の件は軍極秘」とて、小人数で分宿したので犠牲者はあったかと思うが正確なことはわからないとのことでした。
   繰り返しになりますが、その辺の補完は当然海運主務官庁がなすべき事項にもかかわらず今日も未確認とは情けない次第です。
   しかし「船員待遇軍人案」実現に奔走した土屋研一事務官の存在は特筆大で、私も同人等の献身ぶりを書いてみたい思いでしたが、本書191ページにあり、さきを越されたかと苦笑するとともに、よくぞ公開なされたものと評価を惜しみません。
以上

2017年11月19日 (日) 16時42分


[993] 2005-10-23 戦没船員の碑
From:菊池金雄 [/]

戦没船員の碑
 太平洋戦争などで6万余人の船員(非戦闘民間人)が命を奪われた。彼らの犠牲の歴史が社会的に明らかにされ、詳細な調査がまとめられたのは1969年(昭和44年)、その慰霊が初めて行われたのは1971年(昭和46年)のことだった。 
■陸・海軍徴用船乗組員の記録/菊池 金雄氏 「硝煙の海」「あとがき」より
横須賀市の観音崎公園内にある「戦没船員の碑」に祀られている、第二次大戦中に戦没した六万余人の船員仲間の無念を思うと、痛憤に堪えない。
この戦没者数は、陸海軍の戦死率より高率である。それは日本海軍が艦隊決戦一辺倒の偏った用兵思想から。シーレーン保護について極めて冷淡であったからで、このため裸同然の兵站輸送船が、敵の潜水艦や航空機の餌食となり、多くの船や船員がいたずらに犠牲を強いられたからである。その結果、逐次南方占領地からの戦略物資の還送が意のごとくならず、特に石油の枯渇が敗因のひとつであると、戦史でも指摘されている。
これら輸送船の苦難の真相は「慟哭の海」に詳しく述べられているが、私の乗った輸送船二隻の臨戦体験からも、軍の船舶保護のずさんな対応を指摘しておいた。
しかし、陸、海軍の軍人一人ひとりが祖国のため勇敢にその本分を尽くしたことに対し敬意を表することは当然であり、武運拙く戦死された多くの軍人のご冥福を念じてやまない。
〜中略〜
したがって、わが国は輸出入国との友好関係と、シーレーンの安全確保を、最優先の国是としなければならないことを、国民一人ひとりが肝に銘じ、二十一世紀は二度と国家・国民を破滅させるような、過去の非民主的な政治があってならないことを子孫への遺言としたい。
▼建立までの経緯
報われることなく海底に眠る戦没船員の御霊を慰めるとともに、二度と戦火のない海洋永遠の平和を祈念するため、昭和44年海運・水産界の関係者によって、慰霊碑建立のための財団法人戦没船員の碑建立会が設立されました。
 建立に必要な資金は、海運・水産関係をはじめ広く国民に募金を呼びかけ、1億4千万余円が集められました。

2017年11月19日 (日) 14時09分


[992] 向日丸船歴
From:菊池金雄 [/]

向日丸 MUKAHI MARU 56627/JYXV→JIBE 6,886G/T 2,000SHP 13kt
起工 1945.2.22(昭20) 進水 1945.4.10(昭20) 竣工 1945.5.20(昭20)
三井造船株式会社玉野造船所(玉野)建造 Sno.400 大同海運株式会社(神戸)
向日丸 Mukahi Maru SCAJAP No.M053
1950.4(昭25)川崎重工業神戸造船所(神戸)でA.B.船級取得工事、同年9月完工
1955.11.20(昭30)松岡汽船(神戸)に売却、松福丸 Shofuku Maru と改名
1964.5.25(昭39)三原で解体



2017年11月18日 (土) 19時03分


[991] [ 難民の記]を読んで
From:菊池金雄 [/]

        元大同海運褐日丸(むかひまる)通信長 菊池金雄

はじめに
 福地さんと私の間接的な接点は、羅津でソ連機から電撃的猛爆撃の洗礼をうけたことにあります。当時向日丸は内地向け穀物類を搭載のため第一埠頭に着岸していました。何しろ不意打ち空襲のため在港商船隊は貧弱な搭載火器で応戦するのが精一杯でした。
 本船警乗の海軍警戒隊員負傷者は次々と陸軍病院(満鉄病院)に移送。西船長も頚部負傷で移送するとともに、当時病臥中のO通信士も緊急入院の形で船外に退避させ人命安全策を講じたのですが、船長だけは応急手当のうえ帰船〜羅津脱出〜終戦2日後の8月17日奇跡的に無事舞鶴に帰還するも、O通信士の消息を追跡の結果8月10日羅津で戦没したことが判明。往時の安全策が裏目となったことは遺憾の極みです。
 当時船側では陸上の動向を把握不可のため種々情報収集中のところ、「羅津」が縁で電子メールでの福地さんと接触結果、様々な情報の提供があり空白記録を補完させていただいているところです。
 この度「難民の記」を上梓なされたことは、この方面の戦時記録を補強する貴重な文献でありますので拙い感想を述べさせていただきます。

序について
 著名人お二人のコメントは本書を遺憾なく評価しているものと思います。

各章について
 羅津港の誕生と終焉は私の最大関心事で、今日まで種々文献を調べましたがこれほど明解に記述されたものはありませんので大変参考になりました。
 北鮮三港の沈没船=この見取り図は貴重な記録で、向日丸は抜けていますが、元船友の証言では第一埠頭に接岸のようで、被弾を免れた強運と老練な西豊船長[60歳]の手腕および海防艦82号の自艦犠牲による護衛で生き残ったものと確信しています。

羅津〜撫順間の苦難に満ちた避難
 当時船側では陸上の状況は皆目関知できませんでしたので、改めて海陸とも敵襲から脱出のため生死の狭間をさまよっていた事実を再認識させられました。

私の原風景
 ご家族やご親族のこと、特にご尊父が厳しく教育された反面、母上が優しく養育された様子は微笑ましく、
著者の生い立ちの原風景景から、長男としての今日〜羅津若草会等のお世話等々様々な奉仕精神に敬服いたしました。
 また、多数のグラビアには幼少時代からのものから最近のスナップまで網羅し、自伝としての真価を包含した力作に感心いたしました。

付記
 私がS15年1月恵昭丸での**航海で清水港に帰港したとき、沖あいから明峰富士の遠望は鮮明に脳裏に刻まれています。
 また、私は戦時中5隻の貨物船やタンカーに乗り組みましたが、生き残ったのは向日丸だけで他の4隻は戦没(内3隻は交替後沈没)しています。
 目下公開中のホームページは今月アクセスが5万台となり、改訂版を夢見ていますが?

2017年11月17日 (金) 18時54分


[990] 国際海洋秩序と日本の歴史
From:菊池金雄 [/]

〜古代から大日本帝国の滅亡まで〜
黄川田仁志/松下政経塾第27期生
大日本帝国崩壊までの日本の海に関する歴史を見てみると、鎖国時代は例外として、日本は国際秩序に参加しつつも、従属することなく独自の立場をとってきた。日本が覇権国となるより、覇権国がつくる国際秩序に参加しながらも、日本の個性を生かして、独立自尊の気概をもって歩んでいくのがよい。
国際海洋秩序と日本の歴史
〜古代から大日本帝国の滅亡まで〜
黄川田仁志/松下政経塾第27期生
夢の終わり〜大日本帝国崩壊
 第一次世界大戦による欧州の混乱の隙をついて中国権益の強化・拡大を図るために、1915年、日本は中国に対して対華21カ条を要求した。1918年にはシベリア出兵がおこなわれた。シベリア出兵に参加した他の国は1920年に撤退したが、日本は1922年まで戦争を続けた。この対華21カ条とシベリア出兵延長により、諸外国は日本に対しての警戒心をさらに深めていった。列強諸国はこの日本の動きを牽制するために、1921年にワシントン会議が開かれ、日本は九カ国条約、四カ国条約、ワシントン海軍軍縮条約を結ぶ破目になってしまった(ワシントン体制)。九カ国条約によって列強による中国権益の保護が図られ、四カ国条約(米、英、仏、日により締結)により日英同盟を破棄することになった。これにより日本は覇権国イギリスの国際(海洋)秩序から離脱することになってしまった。またワシントン海軍軍縮条約によって英米対日本の海軍戦力比を5対3にすることとなり、日本海軍増強に対する制限がなされた。第一次大戦によって、大英帝国の力が後退し、アメリカが台頭してくるのがこの時期である。中国権益をめぐって日米衝突の状況が整いつつあった。
 日本海軍はワシントン海軍軍縮条約に違反しないかたちで軍備を整えていき、1930年のロンドン海軍軍縮条約を迎えるころには、日本の海軍力は世界第3位になっていた。日本海軍増強に警戒心を抱く欧米諸国は、この条約により日本海軍力にさらなる制限を加えた。この条約をめぐって日本国内政治は混乱した(統帥権干犯の議論がおこる)。1935年に第2回会議が開かれたが、翌年に日本は会議から脱退した。そして海軍軍縮時代の幕が閉ざされた。このころすでに国際連盟を脱退しており、日本は国際政治の場で、完全に孤立することになった。そこからは箍が外れたように、日本は膨張していく。
 1935年に南進政策が海軍によって唱えられ、大東亜共栄圏構想の柱となっていった。1939年に海南島、新南群島(インドシナ)、汕頭、福州などを次々に占領していった。同年に欧州で第二次世界大戦が始まると、東南アジアから英仏勢力が撤退し、それに乗じて日本はより南進政策を推し進めた。1940年に第2次近衛文麿内閣は「基本国策要綱」の中で南方地域を自給圏と位置づけ、日本軍は南部仏印に進駐した。世界有数の海軍力をつけた日本は、ここに至ってアジアの国際秩序を打立てる野望をもったのであった。
 しかし、この意欲的な日本の帝国膨張をアメリカは黙って見ているわけにはいかなかった。英国とオランダとともに日本に対して、対日資産凍結や対日石油輸出禁止措置など(ABCD包囲網)をおこなって、日本の膨張を抑えようとした。このアメリカの対日措置に対して日本は交渉による打開策を模索するものの、第二次大戦に参戦したいアメリカの術にはまり、アメリカとの戦争に突入したのであった。
 1941年12月8日に、真珠湾攻撃により海戦の戦端が切られた。その後、日本海軍は太平洋において、バタビア海戦、セロイン海戦、珊瑚海海戦と戦線を拡大させていった。敗北への転機とされているミッドウェー海戦がおこなわれたのは1942年4月のことであった。しかし、これ以後日本海軍は負け続けたのではなく、第一次ソロモン海戦、南太平洋海戦、レンネル島沖海戦などで勝利した。しかし、戦争が長期化するにつれて、兵站が延び次第に疲弊していった。
 1944年になると日本海軍は総崩れになる。マリアナ沖海戦で制海権を喪失、レイテ湾海戦で連合艦隊が事実上壊滅した。1945年4月7日に戦艦大和が沖縄へ海上特攻に向かう途中に撃沈され、日本軍が誇った連合艦隊は完全に消滅した。そして1945年8月15日に敗戦を迎え、大日本帝国は崩壊した。
 日本は一見、大海洋国になったようであったが、実情は違っていた。明治以来、富国強兵を急ぎすぎたつけが回ってきたのであった。松村劭氏によると「制海権」とは「商圏を守る権力」と定義される。安定的な海上交通の利用を担保し、競争相手国(敵対国)の利用を排除する管制権力を備える必要がある。これを維持する手段は、「艦隊」と「基地」であるという。海軍力とは「艦隊+基地部隊の総和」なのである。しかしながら日本海軍はそのような設計がなされていなかった。日本海海戦圧勝の夢から覚めずに、大艦巨砲主義で、日本近海における艦隊決戦のために日本の艦隊は用意されていた。よって基地に対する考えや海上輸送に対する認識が乏しかった。日本の基地造営能力ははるかに劣っていたことが敗戦の原因の一つとされている。また海上輸送に対する重要性についても意識が低く、海上通商路に関する護衛思想がなかった。戦時中も商船隊に護衛をつけずに丸腰で航行させることもあった。その結果、陸軍20%や海軍16%という死亡率に比べて、戦争に借り出された船員の死亡率は2〜3倍の43%に昇り、海の藻屑と消えた。なんと約2人に1人という非常に高い割合で日本船員は命を落としたのであった。日本は急速に海軍を増強したが、海運・海軍思想が育っていなかった。アメリカやイギリスと比べると海洋国家としてあまりにも未熟であった。日本は国際(海洋)秩序をつくることができなった。

2017年11月16日 (木) 16時29分


[988] 惠昭丸の船歴
From:菊池金雄 [/]


年 月 日:船歴
________________________________________

03.10.05:起工
04.03.11:進水、命名:幸和丸
04.06.27:竣工、船主:昭和商船株式會社、船籍港:京都府府中
________________________________________

04.07.03:横浜〜07.16アストリア
09.12.22:「惠昭丸」と改名、船籍港:~戸に変更
11.05.01:神戸港内にて船室の一部を火災焼失
11.10.22:犬吠崎沖にて舵の故障で漂流
12.10.02:傭船主:太洋海運株式會社
15.01.--:尼崎〜セブ〜ミンダナオ島〜清水〜02.--名古屋
15.02.--:三菱重工業株式會社神戸造船所にて入渠
15.--.--:北米
15.12.--:ボルネオ
________________________________________

16.07.08:徴傭:一般徴傭船(雑用船)、横須賀鎮守府所管
________________________________________

16.10.04:横須賀〜クエゼリン〜12.07横須賀
16.12.--:船主:大同海運株式會社に変更
16.12.11:横須賀〜12.16室蘭12.20〜12.21小樽12.26〜12.29東京01.01〜01.01横浜01.04〜
     〜01.06大阪01.11〜01.13佐世保01.16〜01.17門司01.18〜01.18津久見01.25〜
     〜01.26四日市02.01〜02.02大阪02.09〜02.27基隆03.03〜03.08東京03.16〜03.16横須賀
17.03.--:運輸機密第414番電:人員及び軍需品輸送
17.03.18:横須賀〜03.19大阪03.28〜
17.04.04:機関故障〜
17.04.10:特設砲艦「昭コ丸」による曳航〜04.15サイパン

2017年11月15日 (水) 16時53分


[987] 『特設敷設艦「高栄丸」による戦果』情報
From:菊池金雄 [/]

特設敷設艦「高栄丸」は、潜水艦5隻を仕留めたという、特設艦艇の中では随一のエース艦であると考えられます。
軍艦でもこれだけの対潜水艦撃沈スコアを挙げた艦はありません。華々しい戦闘シーンとは無縁で、自分の挙げた戦果を知ることものなく、機雷敷設という地味な作戦を数々と、そして黙々とこなしていたのです。
そして、太平洋の激戦を生き残り、戦後は日本の高度成長を支え活躍した殊勲船でした。

撃沈:潜水艦5隻
   (但し、すべて協同で敷設した機雷によるもので、沈没は戦後の推定による)
   米潜水艦 「スコーピオン」
   米潜水艦 「エスコラ−」
   米潜水艦 「ソードフィッシュ」
   米潜水艦 「キート」
   ソ連潜水艦「L19」


出展:旧軍戦史雑想ノート  特設艦船戦史
http://pico32.web.fc2.com/kansen/shisetsu/kouei.htm

2017年11月14日 (火) 16時28分


[986] 海上護衛戦 (学研M文庫) › カスタマーレビュー
From:菊池金雄 [/]

https://www.amazon.co.jp/review/product/4059010405/ref=cm_cr_getr_d_paging_btm_4?ie=UTF8&showViewpoints=1&pageNumber=4

2017年11月14日 (火) 13時52分


[985] 南極観測船“宗谷”の内部精密解剖図
From:菊池金雄 [/]

http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00032/contents/010.htm

2017年11月14日 (火) 12時43分


[984] 触雷船の船名判明
From:菊池金雄 [/]

   H25年1月19日情報提供者:五嵐温彦氏(戦没船事績調査研究家)
 出展;横須賀鎮守府戦時日誌
横須賀鎮守府参謀長発〜軍令部次長あて通信文
  船名 共同丸(C油槽船  船主 鍵冨正作)
   該船はS16年12月7日 2320 観音崎灯台162度 3,5浬に機械室右舷前部に触雷。右舷機が故障したが浸水は少量で人員に異常なし。
補足情報
  この共同丸はS19年10月25日スルー海で私が乗り組んだ昭豊丸が米機に爆沈されたとき救出してくれた船で、意外な接点に驚愕するとともに、往時を彷彿させられる・・・とにかく共同丸に移乗・・・すぐ入浴、同時に衣類を水洗いして、私は無線局長室で休息させていただいた恩義が去来するばかりである。
  関連UEB;http://www.ric.hi-ho.ne.jp/senbotusen/siryo-deta/kogatasenpyousen.htm
共同丸はその後マニラ経由でS20年1月6日リンガエン湾において、アメリカ第38任務部隊搭載機の爆撃を受けて沈没し船員10名が死亡.とのことで、切に戦没者各位のご冥福を念ずる。
情報提供者への謝辞
  本事案については
永年情報収集につとめ、船名不詳の船が機雷堰で推進器に絡網の件だけはキャッチしたが、今回、具体的に船名までも把握できたことは長生き冥利で、五十嵐様に厚く御礼申し上げます。

2017年11月13日 (月) 19時09分







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