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「硝煙の海」談話室

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[972] 日号作戦と商船隊の悲劇
From:菊池金雄 [/]

                     元向日丸通信長 菊池金雄
昭和二十年六月には南方ルートによる諸物資輸送が途絶したため国内の糧食不足が懸念され
たので、これを補完するため同月二十八日、急遽日本海ルートで大陸からの物資(主に大豆・豆かす・
穀類・岩塩等)を 内地へ緊急輸送するために日号作戦が発令された。このため残存の大型輸送船
が北朝鮮の羅津港、雄基港に動員された。私の乗船、向日丸(むかひまる)も急遽、門司から羅津港に派遣された。
以下に日号作戦の実態と商船隊の苦闘について記述する。

日号作戦兵力
海軍
  港湾と船舶護衛
   飛行機 第901航空隊 130機    第903航空隊  66機
   海防艦 62隻  その他20隻
   駆逐艦  4隻
   掃海兵力 26隊

陸軍
  掃海兵力 21隊
   飛行機 52機(夜間 12機)
   高射砲 224門
   照空灯 155基

(出典;公刊戦史叢書 海上護衛戦)

日号作戦の実態
 当時、国内の食糧事情が悪化する中、日本海航路の遮断前に満州及び朝鮮から本土へ食糧などを
輸送するために日号作戦が発動され、急遽、残存の大型商船隊が北鮮の羅津港に集結して糧食登載中だった。
 ところが8月9日未明から、突然羅津在港船舶がソ連機編隊から波状空襲されたが、味方部隊からの反撃は散発的で、在港商船隊が貧弱な火器で応戦するも、次々と被弾〜炎上〜沈没の修羅場となった。
しかるに当時軍側から即時、離岸〜港外への脱出の指示も無く、むざむざ敵の餌食となったことは遺憾千万で、上記の陸海軍動員兵力に疑問大であった。
 下記は羅津港でソ連機に爆沈された商船隊の貴重な見取図である
http://www.geocities.jp/kaneojp/bin/rajin_port.gif

2017年11月08日 (水) 06時58分


[971] 菊池金雄投稿・・・戦火の海を挺身
From:菊池金雄 [/]

別冊 正論 Extra.11 読者投稿 第1部 抜粋
英雄顕官ならぬ市井の臣はいかに生き抜いたか

読者投稿(第一部) 戦火燃ゆるとも
小沢甚一郎/千原俊雄/吉川清/伊藤一雄/谷川啓喜/悦田愛彦/深町和彦/佐藤金重郎/宮田力松/前田隆治/萩野晴敏/谷津昇/今井三郎/立山集/吉村泰輔/安田正三/唐牛誠/中村美喜雄/菊池金雄/久保善廣/橋本光榮/下田新/富樫春義/松岡亮之助

菊池金雄投稿・・・戦火の海を挺身

2017年11月07日 (火) 16時24分


[970] 日号作戦の顛末
From:菊池金雄 [/]

昭和二十年六月二十八日、日本海ルートで大陸からの物資(主に大豆・豆かす・穀類・岩塩等)を 内地へ緊急輸送するために日号作戦が発令された。

日号作戦兵力
海軍
  港湾と船舶護衛
   飛行機 第901航空隊 130機    第903航空隊  66機
   海防艦 62隻  その他20隻
   駆逐艦  4隻
   掃海兵力 26隊
陸軍
  掃海兵力 21隊
   飛行機 52機(夜間 12機)
   高射砲 224門
   照空灯 155基
(出典;公刊戦史叢書 海上護衛戦)

日号作戦の実態
 当時、国内の食糧事情が悪化する中、日本海航路の遮断前に満州及び朝鮮から本土へ食糧などを輸送するために実行され、急遽、残存の大型商船隊が北鮮の羅津港に集結して糧食登載中だった。 ところが8月9日未明から、突然ソ連機編隊が羅津港を波状空襲。在港商船隊が貧弱な火器で応戦するのが精一杯で、味方部隊からの反撃はなく、在港商船隊は次々と被弾〜炎上〜沈没の修羅場となった。しかるに当時軍側から即時、離岸〜脱出の指示も無く、むざむざ敵の餌食となったことは遺憾千万に思う。
 委細は下記サイトをご覧ください。
海事博物館ボランティアあれこれ 悲運の戦時日本商船(9)
http://kondoh-k.at.webry.info/200804/article_1.html
羅津港でソ連機に爆沈された船舶見取図
http://www.geocities.jp/kaneojp/bin/rajin_port.gif

2017年11月06日 (月) 18時58分


[967] 書き込み履歴: レビュー
From:菊池金雄 [/]

https://www.amazon.co.jp/gp/profile/amzn1.account.AGVNGCOIHZQJ2C47YBKYEO5AJHOA/ref=cm_cr_a

2017年11月01日 (水) 19時21分


[966] 戦没船員の碑
From:菊池金雄 [/]

NEWS GARAGE【KABA式会社OBAKA通信】
2005-10-23 戦没船員の碑

 太平洋戦争などで6万余人の船員(非戦闘民間人)が命を奪われた。彼らの犠牲の歴史が社会的に明らかにされ、詳細な調査がまとめられたには1969年(昭和44年)、その慰霊が初めて行われたのは1971年(昭和46年)のことだった。 
■陸・海軍徴用船乗組員の記録/菊池 金雄氏 「硝煙の海」「あとがき」より
横須賀市の観音崎公園内にある「戦没船員の碑」に祀られている、第二次大戦中に戦没した六万余人の船員仲間の無念を思うと、痛憤に堪えない。
この戦没者数は、陸海軍の戦死率より高率である。それは日本海軍が艦隊決戦一辺倒の偏った用兵思想から。シーレーン保護について極めて冷淡であったからで、このため裸同然の兵站輸送船が、敵の潜水艦や航空機の餌食となり、多くの船や船員がいたずらに犠牲を強いられたからである。その結果、逐次南方占領地からの戦略物資の還送が意のごとくならず、特に石油の枯渇が敗因のひとつであると、戦史でも指摘されている。
これら輸送船の苦難の真相は「慟哭の海」に詳しく述べられているが、私の乗った輸送船二隻の臨戦体験からも、軍の船舶保護のずさんな対応を指摘しておいた。
しかし、陸、海軍の軍人一人ひとりが祖国のため勇敢にその本分を尽くしたことに対し敬意を表することは当然であり、武運拙く戦死された多くの軍人のご冥福を念じてやまない。
〜中略〜
したがって、わが国は輸出入国との友好関係と、シーレーンの安全確保を、最優先の国是としなければならないことを、国民一人ひとりが肝に銘じ、二十一世紀は二度と国家・国民を破滅させるような、過去の非民主的な政治があってならないことを子孫への遺言としたい。
▼建立までの経緯
報われることなく海底に眠る戦没船員の御霊を慰めるとともに、二度と戦火のない海洋永遠の平和を祈念するため、昭和44年海運・水産界の関係者によって、慰霊碑建立のための財団法人戦没船員の碑建立会が設立されました。
 建立に必要な資金は、海運・水産関係をはじめ広く国民に募金を呼びかけ、1億4千万余円が集められました。

2017年11月01日 (水) 15時11分


[965] 魔のバシー海峡突破
From:菊池金雄 [/]

(小型タンカー昭豊丸の章抜粋)
約一ヵ月後の深夜、突然の指令で海軍の徴用船、和洋丸(約三千トン)で台湾の高雄まで便乗することになった。十二月一日午前十時半頃--和洋丸・萩川丸の二隻船団は、三隻の護衛艦に守られてマニラ港をあとにした。そして、翌日の午後三時頃--船団はサンフェルナンド港に仮泊--十二月三日朝、高雄向け抜錨した。敵は、日本の重要なシーレーンであるバシー海峡に多数の潜水艦を配備して虎視眈々と獲物をねらっているものと推測された。北上してまもなく、北よりの季節風が強まり--船団の速力は十ノット(時速十九Km)から三ノット(時速六Km)に落ちた。翌四日も荒天--各船は終日難航した。その夜和洋丸は、バシー海峡中央部にある、サブタング水道に辛うじてすべり込み仮泊した。しかし僚船萩川丸と護衛艦を見失なってしまった。終夜--僚船と護衛艦を待ったが遂に合流できず、荒天のためか、または敵襲で消えたものか分からなかった。十二月六日午前七時半--和洋丸船長は悲壮な決断。単独で魔のバシー海峡突破を強行しなければならなかった。ただ一つの頼みの綱--高雄海軍基地からの航空機による支援--接触できなかった。午後になって、北西の季節風がしだいに強まる--夕刻には風速二十メートル以上の暴風雨--速力が五ノット以下になった。敵潜側は、荒天下の攻撃は至難であったものか、幸運にも和洋丸は敵の網をくぐりぬけ--十二月七日午前十時無事高雄に入港することができた。 (海上平穏なとき、和洋丸船内に「浜辺の歌」のメロデーが流れる--以来この曲を耳にすると、魔のバシー海峡がまぶたに浮かぶ
追記;その後私たちは高雄で便船を待って12月31日 クライド丸に便乗。 パレンバン丸と船団を組み 翌年の1月8日夕刻無事門司に帰還しました。

2017年10月31日 (火) 15時26分


[964] 随想
From:菊池金雄 [/]

 自分史のネタ探しのために戦記関係本を買いだめし、もてあまし気味なので一念発起、アマゾンのカスタマーレビユー(書評)に匿名で投稿しているが、目下80件ほどになった。
 これらの大半は職業軍人のもので、商船側のものは僅少であるのは遺憾に堪えない。その理由は、敵軍との華々しい戦闘場面を叙述=読者の興味をかもす筋書きに対し、商船側の戦記は、ただただ敵に襲われる悲劇物語のため読者が敬遠するものと思われる。
 先般、私の戦時体験の一部が光人社NF文庫の{戦時船員達の墓場}に収録されたので仙台の各書店で買い漁り、更に上京の際、東京の本屋で数冊買おうとしたら、在庫が1冊だけだった。と言うことは余り売れないためかと思う。
 あの戦争での日本の継戦力喪失の真因は、石油等の戦力資源の枯渇=商船隊の潰滅であることをご理解いただきたいと、生き残り元船員は願っている。

2017年10月31日 (火) 13時31分


[963] ポートランド追想
From:菊池金雄 [/]

 私は昭和十五年一月、神戸市の大同海運鰍フ不定期貨物船恵昭丸(5800総トン)の船員(船舶通信士)になり、フイリピンやボルネオからラワン材を輸送後、北米西岸航路に転じ、サンフランシスコから海軍用ドラムガソリン輸送や、オレゴン州ポートランドから米材の輸送もしたことがあるので昭和十六年夏季の残像を記してみることとする。
ポートランドは太平洋よりコロンビア河を遡行一〇四哩、さらに支流ウイラメット河に入り南進約十哩の地点にあり、一万五千噸クラスの船舶も航行できるように水深が浚渫され、川面が透明なので汚れた船底での航行が気にかかった思い出の河港である。
 埠頭は市街から離れていたのか街の様子は思い出せないが、当時日米関係の雲行きが怪しくなっていた時期だったので、当工場日系人と接触した思い出を回顧してみたい
岸壁脇には大きな製材工場があり、丸太は全部角材にして積み込んだ。荷役後の夕方、船の回りに中国人風の労働者数名が集まってきた。何か躊躇しながら「私たちはここの日本人作業員だが、最近の母国の様子を伺いたいの で、すぐそこの宿舎まで遊びにきてほしい」とのこと。お安いご用とばかり訪問した。木造宿舎の広間にはキッチンとテーブル、ベッド程度で殺風景だったが、ローカルラジオ放送が日本の歌謡曲を放送しているようでもあった。
船員側から「なぜうろうろしていたのか」と尋ねたら「日本船だから日本人船員と思ったが、どうも中国人の感じがしたため」と答えたので「実は船側でも、あなた方をそう思っていた」と、大笑いしてしまった。彼らは「この工場では、日系労働者の処遇は米人よりいつも下位である」と不満を漏らしていた。やはり日米の雲行きが心配のようだったので「万一開戦しても、日本には神風が吹くから心配無用」と、全く無責任なこと言ったような記憶がある。 今日、往時を顧みるとき、在米日系人は等しく米国の底力を正しく評価していたことと、自身の非常識に恥いるばかりである。

この航海の帰路は津軽海峡〜日本海ルートで、船上から母国の山影を望み上海に直行した。季節は真夏。上海の街で浴衣姿の女性を見かけ、一瞬、母国と錯覚しそうだった。ポートランドで岸壁搭載の角材は、沖荷役のため無残にも黄浦江の泥水に下ろしていた。

2017年10月30日 (月) 15時27分


[962] 三陸沖ソ連漁船団臨検の思い出
From:菊池金雄 [/]

われわれ年代の青春は戦争の真っ只中だった。私は昭和十五年神戸の船会社の不定期貨物船に乗ってから二年後に開戦となり、計五隻の貨物船やタンカーで戦火の海を挺身、内四隻が戦没して最後の一隻がソ連参戦下の北鮮から辛うじて脱出、終戦直後舞鶴に奇跡的に帰還したが、戦争の悪夢は終生払拭できない。
 海保には昭和二十六年に入庁。八戸、釜石、小名浜、二管区本部各通信所勤務後、潮気が抜けた同五十一年四月八戸の船艇勤務に配置換えとなり、一兵卒なみに船務習熟に励むことになった。たまたま船長が旧船会社仲間の笹井訓三氏で、いろいろバックアップを得たのは幸いだった。
 翌年になると、新海洋秩序の二百海里漁業水域対応で十二海里領海内の外国漁船監視取締りが示達された。日ソ間漁業交渉でソ連漁船の操業海域・漁獲割当量・許可割り当て隻数を決定し、巡視船が違反操業の監視取り締まりに当ることになった。
 やがてソ連漁船は母船式船団を編成し、大挙三陸沖で操業を開始したので、船外機付きカッターでロシア語の速成通訳官を伴いソ連漁船団に臨検班を派遣してこれが取り締まりに当たった。時々私も新米班長として大型母船を臨検したが、母船側には縄梯子を吊り下げてあったので、ふと、戦時中のことを思いだしながら、のろのろと途中で一呼吸してよじ上ったら甲板長らしい大男がデッキに引揚げてくれた。先方からみれば招かざる官憲なのに、ロシア人の素朴さを感じた。
 立ち入り検査は操業日誌、操業海域、漁獲量、魚種、漁具等テキパキとチエックし、最後に船長室で違反有無判定をもって完了となる。加工母船には女工もかなり乗船していたが、薄暗い加工場の白人女性の視線は気味のよいものではなかった。
 あるとき違反か否か判定に時間がかかり退船時刻が日没になってしまった。母船側は何故か下船時に照明してくれなかったので、巡視船側のサーチライトでカッターに移乗できたものの、折悪しく時化模様で船外機が脱落寸前となったため、オールを漕いで辛うじて帰船したこともあった。
 その後二百海里対応の新鋭大型巡視船「しもきた」の配置に伴い、老齢の「おくしり」が解役になったので同基地の「あぶくま」に転じた。(同じ場所での転船は=岸壁渡しの俗称がある)「おくしり」ではレーダーが一台のため補修に苦労したが「あぶくま」には二台あり苦労が霧散した。ここで定年の証に五ヶ月かかってクルマの運転免許をとり、五十六年四月無事退官。中古マイカーで、はじめて高速道などつっ走って無事仙台の自宅に辿り着くことができた。

2017年10月29日 (日) 10時36分


[961] 回想;小型タンカー昭豊丸爆沈記 H26年
From:菊池金雄 [/]

  この船は戦時急造の三十五日間で進水した戦時標準船(2ET型タンカー 八三五総トン)で、当初パレンバン〜シンガポール間の局地原油輸送に、二ヵ年間派遣の指令を受け、昭和十九年四月十日門司〜鹿児島〜基隆〜マニラ経由シンガポール向け護衛なしの単船で**航海に挑戦し 何とかマニラに無事到着。ところがマニラの暁部隊命で、マニラ〜ミリ間に変更。またまた単船で同年十月二十日頃ミリに到着。近海油槽船所属共同丸(1090総トン)と重油搭載し、二隻船団に陸軍護衛船がパラワン島まで護衛したが、なぜか護衛を打ち切りUターンした直後、昭豊丸は同月二十五日パラワン島北辺のスルー海で米哨戒機に襲われ至近弾だけで沈没。船員一 海兵一 計二名戦死。幸い同行の共同丸に救出され、近くのコロン陸軍基地に揚陸後〜マニラ〜高雄経由〜翌年一月八日門司に無事帰還することができた。
 共同丸はその後マニラ経由で帰国途次の翌年一月六日一三三〇リンガエン湾で、アメリカ第三八任務部隊搭載機の爆撃を受けて沈没し、船員10名が戦死との記録を入手。切に、昭豊丸乗員を救出した恩人各位のご冥福を念ずる。

回想
 齢90途の今日、往時を回顧すると、**航海の途次の戦没は遺憾ではあるが、若し、共同丸と同様マニラ方面に回航したなら何れ米機に襲撃されたかも知れず、むしろ波穏やかなスルー海での戦没は幸いのようにも思われる。
 反面、米潜水艦の跳梁する海域単独航海の陸軍指令は、万一戦没した場合には救出不可のため、まさに特攻的無謀な軍命だったと断じたい。


2017年10月29日 (日) 06時51分







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