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「硝煙の海」談話室

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[960] 戦没船員の碑を知ったきっかけ
From:菊池金雄 [/]

 私は戦時中5隻の商船で挺身したが、生き残った船は最後に乗った向日丸(むかひまる)だけだった。この船は戦争末期の20年5月急造の2A型戦時標準船で、玉野ドックから門司に回航するのに瀬戸内海は米軍投下機雷に覆われ、先行船が次々と触雷するも不思議に本船は無事だった。門司〜釜山に一航海後、日号作戦に参加。北鮮の羅津で本土向け食料(高粱・大豆等)積載中、8月8日深夜から国籍不明機が来襲、着岸中の在港商船隊は次々と被弾〜火災〜沈没の修羅場と化した。軍停泊場事務所から何等の避難指示もなく、味方防衛部隊の反撃も微々たるもので、ひたすら商船隊の微弱な火器での反撃が精一杯で、夜が明けたらソ連機編隊と確認された。
 とにかく着岸のままではむざむざ被弾必至なので、船長が軍事務所に伝令を出したが、事務所は空っぽで、軍に無断で脱出もできず、一夜、最小の保船要員以外を陸に退避させた。ところが、近辺の防空壕は軍人たちが満員で、悲惨な商船隊保護放置=戦意欠如に唖然とせざるを得なかった。
 たまたま本船の小川通信士が喀血のためベッドに伏せていたが、自船が被弾必至のため幹部で協議の上、本人の同意も得て、最寄の満鉄病院に入院の形で避難させた。
 翌朝やっと軍から、元山への脱出指示があり、前日負傷した船長も服船、追撃のソ連雷撃機を振り切り元山経由で終戦2日後に舞鶴に帰還することができたものの、終戦の混乱下では小川氏の安否確認は不可能だったが、私は向日丸退任時、彼の実家を訪ね、
当時の経緯を縷々ご報告して責務を終えたつもりだった。
 事後、80歳の節目に戦時体験を編むに当り、旧船会社系列に、彼の事後の消息を問い合わせたが、当時の記録皆無のため鋭意図書館ルートでの追跡の結果、宮城県図書館にあった「戦時徴用船の最後」という画集に注目、企画元の(財)日本殉職船員顕彰会に彼の情報の有無を問い合わせたところ、彼は昭和20年8月10日羅津で戦没と確認。
毎年5月に横須賀市観音崎にある戦没船員の碑で追悼式があることを知り、以後、毎年参列して彼のご冥福を念じた。
 しかし加齢にともない参列を見送らざるを得ず忸怩たる思いである。

2017年10月28日 (土) 19時01分


[959] JR釜石線上有住駅開設について
From:菊池金雄 [/]

花巻と釜石を結ぶ鉄道は東西両方から建設が行われ、西側は岩手軽便鉄道が、東側は釜石鉱山鉄道が存在していた。しかしその中間にある仙人峠は険しく、直接鉄道で越えることができずに徒歩連絡が長く続けられていた。岩手軽便鉄道は国有化されて国鉄釜石線(釜石東線の開通により釜石西線)となり、また釜石鉱山鉄道と並行して国鉄釜石東線が建設された。残された仙人峠の区間は、釜石西線の終点の駅の1つ手前にある足ヶ瀬駅で分岐して、栗ノ木峠の下を足ヶ瀬トンネルでくぐり、土倉峠の下を土倉トンネルでくぐって仙人峠の東側斜面に沿って下っていくルートが選択されることになり着工された。しかし第二次世界大戦の戦局悪化により工事は一時中断された。この時点で土倉トンネルは既に貫通していた。
大戦後、1948年(昭和23年)9月にアイオン台風によって山田線が大きな被害を受けると、三陸海岸方面への鉄道連絡を早期に回復させるために釜石線の工事が再開されることになり、12月に再着工した。1950年(昭和25年)10月10日に全線が開通し、これに伴い当駅も開業した。

2017年10月28日 (土) 15時56分


[950] 大同海運の来歴
From:菊池金雄 [/]

昭和5年(1930)田中正之輔等が中小船主の委託により純オペレーターとして発足させた海運会社。
昭和8年(1932)に北米定期航路を開設、10隻(10万重量トン)を配船。昭和12年(1937)以降、自社船を所有した。その間、山本商事、大隆商船、大福汽船、昭和商船、神陽汽船、高千穂商船を吸収合併した。昭和39年(1964)海運集約?により日東商船?と合併しジャパンラインとなる。その後、ナビックスライン(ジャパンラインと山下新日本汽船が合併)となり、現在の商船三井(ナビックスラインと大阪商船三井船舶が合併)につながる。

昭和5年(1930)田中正之輔等が中小船主の委託により純オペレーターとして発足させた海運会社。

昭和8年(1932)に北米定期航路を開設、10隻(10万重量トン)を配船。昭和12年(1937)以降、自社船を所有した。その間、山本商事、大隆商船、大福汽船、昭和商船、神陽汽船、高千穂商船を吸収合併した。昭和39年(1964)海運集約?により日東商船と合併しジャパンラインとなる。その後、ナビックスライン(ジャパンラインと山下新日本汽船が合併)となり、現在の商船三井(ナビックスラインと大阪商船三井船舶が合併)につながる。

2017年10月17日 (火) 16時53分


[957] 名前の漢字の由来
From:高木 [/]

はじめまして。
ジャパラインというキーワードからこちらを訪問しました。
私の祖父は、私が物心ついた時には病気が進んでいて、まともに会話した事は一度もありません。
ですが、玄関にはジャパラインの船の絵が掲げてあったのが子供心に強く印象に残っています。
数年前、実家に帰った時、ふと名前の漢字の由来の話になり、自分の名前は高幸丸という船からいただいたのだと聞かされました。
また、大同海運船名の頭文字の「高」は高木の高だと冗談で言ってたらしいのです。
祖父の事は何も知りませんが、菊池様がこうしてご健在で記録を残してくださっていることに感謝申し上げます。
ーーー
高木様
 コメントありがとうございます。キーワードはジャパンラインですね。
 私は九死一生で生き残りましたので、あれこれ回想を録していますのでよろしくお願いします。

2017年10月27日 (金) 14時49分


[956] 回想;小型タンカー昭豊丸爆沈記
From:菊池金雄 [/]

  この船は戦時急造の三十五日間で進水した戦時標準船(2ET型タンカー 八三五総トン)で、当初パレンバン〜シンガポール間の局地原油輸送に、二ヵ年間派遣の指令を受け、昭和十九年四月十日門司〜鹿児島〜基隆〜マニラ経由シンガポール向け護衛なしの単船で**航海に挑戦し 何とかマニラに無事到着。ところがマニラの暁部隊命で、マニラ〜ミリ間に変更。またまた単船で同年十月二十日頃ミリに到着。近海油槽船所属共同丸(1090総トン)と重油搭載し、二隻船団に陸軍護衛船がパラワン島まで護衛したが、なぜか護衛を打ち切りUターンした直後、昭豊丸は同月二十五日パラワン島北辺のスルー海で米哨戒機に襲われ至近弾だけで沈没。船員一 海兵一 計二名戦死。幸い同行の共同丸に救出され、近くのコロン陸軍基地に揚陸後〜マニラ〜高雄経由〜翌年一月八日門司に無事帰還することができた。
 共同丸はその後マニラ経由で帰国途次の翌年一月六日一三三〇リンガエン湾で、アメリカ第三八任務部隊搭載機の爆撃を受けて沈没し、船員10名が戦死との記録を入手。切に、昭豊丸乗員を救出した恩人各位のご冥福を念ずる。

回想
 齢90途の今日、往時を回顧すると、**航海の途次の戦没は遺憾ではあるが、若し、共同丸と同様マニラ方面に回航したなら何れ米機に襲撃されたかも知れず、むしろ波穏やかなスルー海での戦没は幸いのようにも思われる。
 反面、米潜水艦の跳梁する海域単独航海の陸軍指令は、万一戦没した場合には救出不可のため、まさに特攻的無謀な軍命だったと断じたい。

沈没寸前の昭豊丸と同型船

2017年10月25日 (水) 19時30分


[955] 『海なお深く—太平洋戦争 船員の体験手記』書 評
From:菊池金雄 [/]

- 10 - 大阪哲学学校通信 No.33 Osaka Independent School of Philosophy 【書 評】
『海なお深く—太平洋戦争 船員の体験手記』
木村 倫幸(参与)
 「広大な西太平洋海域に戦線の拡がった太平洋戦争の本質は海上補給戦であった。/大量の軍隊を送り込んで東南アジア地域を占領し、その資源をもって国力を補充しながら戦争を遂行しようという戦略を支える根幹はすべて海上輸送態勢に依存していた。/(中略)/しかし、実際に輸送を遂行する中で、軍部のとった海上輸送に関する対応は、この時期における世界の海洋国家の近代的な輸送戦への戦略常識とは著しくかけ離れたものであり、それが結果して本書に記録されたような『輸送船の悲劇』を生む母体となったのである」(本書解説)。
 このように本書は、「第二次大戦への参加を余儀なくされた(いま風にいえば『業務従事命令に従った』)船員の体験手記である」(復刻版あとがき)。
 もともと本書は、産別労組、全日本海員組合の創立40周年事業のひとつとして1986年に編まれた(発売・新人物往来社)。そして20年後の今、再び海員組合と日本海員福祉センターの記念事業として本書が復刊されることになった。これが海の平和を願い、船員受難の姿を伝える本書の背景となっている。
 太平洋戦争において日本の商船隊(百総トン以上)は、2568隻、843万総トン余、保有船腹の88%を海底に沈められ、船員は総数6万人余が戦死したとされる。しかしこの事実は、戦闘艦艇による激烈な海戦の陰に隠れてしまってあまり知られていないのが実情である。
 それにしても就航船の88%が撃沈させられるという事態がどうして生じたのか。本書解説は次の3点を指摘する。「全般的な戦時輸送態勢への見通しを決定的に誤っていたこと」、「近代戦では常識とされた海上交通破壊戦略への認識を著しく欠いていたこと」──すなわち極端な戦闘主体・補給従属思想が軍部の戦時輸送に対する考え方であった、「軍部の傲慢な特権意識による商船軽視の思想が支配的であったこと」である。
 このような状況からもたらされた結果を受け止めて、本書は、「戦時中に船員が、軍事主義下での非人間的、消耗品なみの扱いを受けた屈辱は忘れることはできない。こんな暗黒時代は二度とあってはならない」(序)と主張する。
 本書の構成は、1941年(昭16)の開戦時より戦後の遺族の手記まで経年的にまとめられている。「第1章 緒戦の海」「第2章 制海権なき帝国シーレーン」「第3章 戦火の海の標的となって」「第4章 特攻船団の壊滅」「第5章 受難の傷あと」「第6章 残された者の戦記」と続くが、戦争が長期化するにつれ、制空権も制海権も失われて、護衛艦すら満足にない状態で、丸腰同様の輸送船団が次々と沈没していく姿が痛々しい。その実態を本書で読んでいただきたい。
 このような中で追い詰められた船員たちのさまざまな声が聞こえてくる。
 「船員は軍属とされていたが、実態は船員たち自身が『軍犬、軍馬、軍鳩、その下に船員』と自嘲したほど、まるで軍人の召使いか戦争の道具のように扱かわれた話は枚挙にいとまがない」(解説)。
 「皆お互いに黙して語らなかったが、身に寸鉄もおびずに敵中を往来する、やられっ放しの船員と、及ばずといえども一矢むくいる弓矢を持った軍人との差は、まさに雲泥のそれであった」(第- 11 - 大阪哲学学校通信  No.33
5章)。
 「正直いって輸送船船員としては死にたくはなかった。『どうせ死ぬのなら、俺も海軍艦艇に乗って鉄砲の一発も撃った上で名誉の戦死とやらにしてもらいたいものだ』と何度思ったことだろう」(第2章)。
 「第二次大戦では、海上輸送に従事した商船の、いわゆる武器なき戦いの中で多くの船員が死亡したが、これらの人々が靖国に祀られたとも、勲章を授けられたとも聞かない。観音崎に建てられた顕彰碑が、その唯一のものではなかろうか」(第1章)等々。
 これらの思いについては、軍人とは異なる視点からさまざまな評価が可能であろう。最後の文は、現在議論の渦中にある靖国神社の性格の一面を言い当てている。
 また1942年(昭17)後半より、大型商船の撃沈が増加するにつれて、その不足を補うために多数の漁船・機帆船が徴用された。船足が遅く、何の武器も持たないこれらの船が多大の被害を受けたことは言を待たない(第5章)。しかし本書ではそのごく一端が見えたに過ぎず、33万9千総トン程度とされている戦時喪失機帆船(平均百総トンとして約3400隻が沈没したことになる)の実態は依然として不明のままである。
 このように戦時下の船員の状況は、危険極まりない上に悲惨なものであったにもかかわらず、その活動の全貌は、戦後60年の今日まだ見えていない。そして本書に寄せられた手記の幾百倍もの人々が、声をあげることのできぬままに死んでいったという事実を忘れることはできない。シーレーン問題が論議され、あるいは有事立法によって民間施設等の軍事的使用が探られている現在、過去に直接戦争に関わらざるを得なかった船員たちの経験を伝えていくことは、ひときわ大きな意味を持つようになってきている。本書がこのことを考えていく大きな手がかりとなると確信している。本書の解説は、最後にこう語る。
 「敗戦の後に多くの戦史や戦記の類が著され後世に残されてゆく中で、輸送船の記録はきわめて少なく、稀にあっても、それは『戦力』としての側面からの歴史であり、数字であることが多かった。/(中略)/私たちの海の先輩たちが生きた戦時下の海がそうであったと同じように、歴史までもが強者の論理に覆いつくされてしまっていいはずがない。商船船腹量の88%を壊滅的に失い、商船船員の推定死亡率が陸海軍軍人のそれの1.4倍もの高率であったという史実は、明確に歴史の中にとどめて世に伝えるべきことであるはずだ」。
『海なお深く──太平洋戦争 船員の体験手記』
(全日本海員組合編、2004.8.15.発行、中央公論事業出版)

2017年10月23日 (月) 13時36分


[953] 和洋丸 くらいど丸 戦記
From:菊池金雄 [/]

「和洋丸(東洋汽船)」: 昭和16年12月に建造された貨物船(戦時標準 C 型)で、その要目は長さ94m、幅 14m、主機レンツ機関2026馬力、最高速力13.6ノット、総トン数2727トン
(画像は同型船)
竣工と共に海軍に徴用され呉鎮守府所属、第 8艦隊配属の給水船となる 昭和17年8月外南洋部隊の付属部隊に配属
昭和18年11月23日 ラバウル発トラックへ
昭和20年3月11日 海南島東方洋上、北緯21−32、東経112−25にて空爆
により沈没
「くらいど丸(南洋海運) 」:
大正9年に建造された貨物船で、その要目は長さ122m、幅16m、主機3連成レシ
プロ機関3354馬力、最高速力15.0ノット、総トン数5497トン
浅野造船所のストックボートとして建造され、国際汽船の所有となったが、石原合名、
石原産業海運へ移籍後、昭和10年6月22日南洋海運所有となる
昭和16年11月陸軍に徴用され昭和19年1月初旬まで、グアム、サイパン、ラバウ
ル、パラオやニューギニアなどの各地で兵員・弾薬の輸送に従事 (昭和19年 1月〜同10月の行動省略) 昭和19年11月30日09:00門司発、ミ29船団15隻で海防艦など8隻の護衛
の下、12月6日高雄着、12月8日鹿児島に帰る
昭和20年1月22日門司発、モタ33船団8隻、海防艦3隻の護衛で基隆に向かう途 中、1月29日基隆北方、北緯25−20、東経121−06にて、米潜水艦(Picuda)の

2017年10月19日 (木) 15時16分


[952] 旭盛丸戦記
From:菊池金雄 [/]

【旭盛丸】
大同海運 5,493総トン 81号作戦(第1次ラエ輸送作戦)参加、昭和18年2月28日ラバウルにおいて兵員1,316名、火砲11、車輌12、軍需品2,000立方メートル、大発4を搭載し23時30分発出港、ラエ向け9Ktで船団航行中、2日07時55分頃、グロセスター岬北西海上においてB17七機と交戦、内三機が本船に狙いを定め08時05分高度2000mより爆撃を開始した。
本船は応戦と被弾回避につとめたが、08時16分頃、一・二番艙に被弾同時に火災発生、次いで船速が低下し船列より脱落、かくて09時26分沈没。直ちに護衛の「朝雲」と「雪風]が救助にあたり819名と山砲一門を収容、そのまま先行しラエに揚陸した。
部隊464名、船砲隊21名、船員1名戦死。
沈没位置 南緯05度02分、東経148度14分(グロセスター岬北北西55Km付近)

2017年10月18日 (水) 14時43分


[948] 第82号海防艦
From:菊池金雄 [/]

第2号級海防艦(41/63+8+72)
1944計画丁型海防艦として三菱重工業長崎造船所で44.9/6起工10/5第82号海防艦と命名され呉鎮守府籍と仮定11/18進水12/5長崎飽ノ浦海軍監督官事務所内に艤装員事務所を設置/31竣工し呉鎮守府警備海防艦となり呉防備戦隊に編入され佐伯回航後訓練に従事
45.2/15第1海上護衛艦隊第1海防隊に編入/16.0600門司出港後モタ38船団を護送/23.2230-
3/3.0200基隆寄港後タモ47船団を護送/11.0730門司港外六連島入港/12-24呉にて修理
4/1門司出港後済州島兄弟島泊地を基地に対馬海峡=上海間の対潜哨戒に従事/25第102戦隊に編入
5/1青島に移動後同方面の警備に従事
6/10-10山東半島石島湾を基地に警備、対潜掃討に従事/11商船1隻を護送/17佐世保入港/18入渠整備
7/5第2海防隊に編入/14出渠/15佐世保出港後対馬浅茅湾で待機
8/1-5壱岐寄港後商船1隻を護送/6元山入港/8城津に移動後羅津東方100nmで遭難した陸軍輸送船の救助に急行/9.0800頃よりソ連機が接触.1200頃よりソ連機2機と交戦.1300捜索中止/10.0300頃、清津南方約50nmの大良化に仮泊後羅津へ進出中.1630頃、向日丸を護衛して反転.1700頃、ソ連機と交戦中.1730城津舞水端南西約7nm沖(41゚21'N/130゚E)で魚雷1本を後部に受けて瞬時に沈没し117名が死亡.1930向日丸が艦長森武少佐以下生存者93名を救出
9/15除籍.

2017年10月16日 (月) 19時16分


[947] 九死一生の追憶
From:菊池金雄 [/]

 大正9年生まれの青春は、否応なく戦争の渦に巻き込まれた。私は20歳から海外航路の不定期貨物船恵昭丸に船舶通信士として乗り組み、サンフランシスコでのマイカーラッシュに驚愕する等、生活レベルの格差を目の当たりにした。
 積み荷は日本海軍用ドラムガソリンで、大分県佐伯に輸送したが、開戦劈頭のハワイ空襲に、このガソリンが使用されたのではないかと、感無量なるものがある。
 戦時中は5隻の輸送船で挺身、辛うじて生き残った船はソ連参戦時、北鮮の羅津港を奇跡的に脱出した2A型戦時標準船向日丸(むかひまる)だけである。

2017年10月16日 (月) 15時47分


[946] 日本戦時工業の実態
From:菊池金雄 [/]

http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Sirius/6597/ind.html

2017年10月16日 (月) 14時41分







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